まだ夏の名残を残す日差しの中を、涼やかな風が吹き抜ける、そんなある日。
七つ道具を手にした少女は、身長174cmの視線でその家を見上げていた。
傍らには彼女の忠実なる後輩。
「うふふ…舞台に不足はないわ」
トレードマークの赤いエプロン。
地面にはモップの柄を突きたて、不敵な笑顔で仁王立ち。
「智子さま…私は妹として、情けないです…」
道具を手にし、同じ赤いエプロンで隣に立つもう1人は肩を落とした。
「大丈夫よ美咲ちゃん、いざとなったらちゃんと助っ人を呼ぶから」
174cmのちあきはそう言って、嘆く美咲を慰めた。
「待っていなさい智子…あなたの家、この佐伯ちあきがまるごときれいにしてあげるわ…ふふふふふ…あ〜っはっはっは…!」
超家事手伝い(スーパーハウスキーパー)佐伯ちあき。
人は彼女をこう呼ぶ。
「無敵の世話薔薇総統」
先週の日曜日。
ちあきは自宅でとある夫婦と対峙していた。
「なんですって?智子の部屋を掃除してほしい?」
智子の両親であり、日本屈指の企業グループである瀬戸山グループの総帥とその夫人である夫婦は、溜息混じりに告げた。
「あの子の部屋だけではありません…家全体を掃除してほしいのです」
「それなら何も私でなくても、専門の業者を呼べばよろしいのではないですか?
お宅はこの家が10軒分はある広さですし、私1人では到底無理です」
断ろうとしたちあきに、瀬戸山夫人は哀願した。
これも瀬戸山家が、ちあきに大きな信頼を寄せるからこそできる話だ。
「お願いです!ちあきさんのお力がぜひとも今必要なのです!」
とまどうちあきを前にして、夫人は自宅の惨状と、こうなるに至った経緯を、
涙ながらに語った…。
7月のある日。
瀬戸山家のメイドや執事、その他スタッフたちは、突然のプレゼントに舞い上がっていた。
「ねえ、やっぱりうちのご主人さまは気前がいいわね。博多祇園山笠のために休暇を下さるんですって!」
「本当なの!?」
「ええ、宵山をはさんで1週間、好きなところへ旅行していいんですってよ」
「それはすごい!これも生粋の博多商人であるご主人さまだからこそできる話だ」
あまりのことに驚いた夫人が夫に尋ねると、
「仕事!?んなモン休みに決まっとろうが。山笠(ヤマ)やけん。
今年は俺も山車ばかつぐけんね」
博多生まれの博多育ち。
幼い頃から山笠とともに育ってきた総帥。
東京に出てからも持ち前の才覚と勝負強さで、あっという間に事業を拡大させ、
今や押しも押されもせぬ大社長。
そんな総帥は博多で「山笠(ヤマ)のぼせ」といわれる、祭り大好き男である。
メイドたちがいなくなったあとの瀬戸山家がいかなる状態になってしまうのか、
そして帰って来たメイドたちの仕事ぶりがどう変化するか、
この時点ではまったく想像が及ばなかったのである。
「確かに主人の山笠好きは相当なもので、私も内心あきらめてはおりますが…」
夏休みには実家に帰っていた智子だが、暮らしぶりがひどかった。
(ここで読者の皆様には思い出していただきたい。
智子が両親の仕事の都合で1人暮らしをしていることを)
毎日毎日寝て過ごし、宿題なんて記憶と本棚の彼方に放り投げている。
1人暮らしでよく使ったコンビニとピザのデリバリーでその日の食料を調達すると、
あとはパジャマのままボーッとする。
もちろん後片付けなどするわけもない。
髪は乱れ放題、体は汚れ放題。
20畳はあろうかという部屋は、すでに足の踏み場はない。
賞味期限切れのビーフジャーキーの袋。
発酵が進み過ぎて腐臭を放ち始めたキムチの容器。
カップラーメンの容器には、わずかだが飲み残したしょうゆ味のスープ。
その他にもケーキやらゼリーやら、おびただしいプラスチックの容器たち。
クローゼットに目をやれば、メイドたちが休みをとる前から溜め込んである洗濯物。
そこにも入りきれなかった本や雑誌、CDが侵食し、もはやクローゼットというより物置である。
うずたかく積まれて山脈と化した書物の間を、我が物顔に闊歩する何やら黒いやつら。
夫人は卒倒した。
「あれ?お母さん、そんなところで寝てたらカゼひくよ〜」
薄れゆく意識の中に、娘ののんきな声が響いてきた。
「まあわしも、智子があれほどだらしないとは考えてもみなかったが、メイドたちが何とかしてくれるだろうし、
わしらも仕事が多いものでな、なかなか娘のことにまでは…」
あはは、と笑って頭をかく総帥に、ちあきは怒りの一撃。
「あなたはそれでも智子の親なんですか!?山笠なんて見ている暇があったら、
きちんとご自分で躾をしてください!」
「「は、はいぃっ!」」
日本有数の大富豪も、世話薔薇総統にかかっては形無しであった。
「とにかくお掃除はさせていただきますが、費用は全額そちらの負担でお願いいたします」
総帥はうなずいた。
「もちろん、どれだけでも金は出そう。もはやわしと女房の部屋さえメイドたちが
我が物顔で、わしらは今物置で寝起きしておるものだから…」
夫人から聞かされて、覚悟はしていたが。
まさかこれほど荒廃しているとは思わなかった。
部屋に散らばるガラクタを片付けながら、ちあきはなんともいえぬ気持ちにさらされる。
(この家のスタッフたちは、主人夫婦のことをどう思っているのだろう…)
本来なら一番きれいでなければならない主寝室。
小さな平屋建ての家がまるごと一軒入るような部屋には、ルネッサンス時代に描かれた名画が何点か飾られている。
サイドボードの中には美しい絵の描かれたコーヒーカップや、見るからに高級そうなグラスが所狭しと置かれ、
この家がどれほどの財産を持っているのかを、端的に知ることができる。
こうした立場の人が持つある種の悪趣味さを、この部屋からはまったく感じない。
むしろとてつもなく洗練されている…はずだった。
しかしこの部屋もやはり、メイドたちの宴のあとがくっきりと残っている。
義理堅く上下関係を重んじるちあきには、自分の上司の部屋で部下であるメイドや執事がやりたい放題を繰り広げる光景は我慢がならない。
だいたい山笠休暇をプレゼントしたのだって、彼なりのスタッフへの感謝の気持ちからではないだろうか。
博多から帰ってきてこの部屋を見たとき、あの総帥はどんな気持ちになったのだろう。
それを思うたび、ちあきは全身の血液が激しく逆流するような感覚を味わってしまう。
「…ちあきさま、大丈夫ですか?」
顔色が変化したのを見逃さなかった美咲。
「まだ…今のところは、ね…」
「とりあえず今は理性をキープしておいたほうがいいですよ。このあとも戦いは続くんですから」
淡々とした口調と動きで、さくさくと掃除をすすめていく孫の姿に、
ちあきは心強さとかすかな恐れを感じていた。
そのころ、野上純子はまったく別の用事で瀬戸山家を訪れていた。
「うふふ、新作お菓子大成功!智ちん甘いもの好きだから、たっぷり食べてもらえるねvv」
4種のベリーのヨーグルトタルトの入った箱を持って、重厚なドアについたベルをカランカランと鳴らした。
「純子…どうしたの」
「ちあきさまこそ、どうしてここに?っていうか、なんか顔色悪いですよ?
大丈夫ですか?」
ややあって、掃除を手伝う純子の姿があった。
特殊加工の白いエプロンが、よどんだ空気の中で映える。
「なるほどね…お怒りはごもっともです」
美咲同様、純子もあまり表情が変わっていない。
だが眉間のしわが、今の彼女がどんな感情でいるのかを雄弁に物語っている。
「ですがちあきさま、どうか智ちんを、瀬戸山家の人たちを責めないであげてください」
純子の口から出た意外なセリフに、ちあきと美咲はいぶかしげな視線を向けた。
「人は楽をしようと思えば、どれほどでも楽になれます…
瀬戸山の叔父様は、博多でものすごい苦労をなさってきたんです。
叔父様のお父様、つまり智ちんのおじいさまは、叔父様とは血がつながっていないんです」
「純子さま…それ、本当なんですか?」
美咲の目は驚きに見開かれている。
「叔父様のお母様は、こう申し上げてはなんですけど、かなりの遊び人だったようで…
おじいさまと結婚なさったあとも何人かの男性と同時進行していたらしいのです」
「ちょっと、純子…」
ちあきの眉間のしわがさらに深くなるが、純子はまるでニュースでも読むような口調でさらに続ける。
「叔父様が生まれたのもそのころで…おじいさまの子どもでないことは公然の秘密でした。
叔父様の本当の父親、つまり智ちんの本当のおじいさまが誰なのか、実はいまでも不明なんです。
それを叔父様に告げる前に、おばあさまは亡くなられましたから」
これまで知らなかった紅薔薇のつぼみの真実に、ちあきたちはもはや手を動かすことも忘れている。
「それでも智ちんのことを、おじいさまはとてもかわいがっていました…
『親が誰であれ、この子はわしの孫だ』といって。
血のつながらない息子には虐待を加えましたが、その頃にはそんな体力もなくなっていたんでしょうね」
「ちょっと待ってください」
美咲が声をあげた。
「なぜそこまで純子さまがご存知なんですか?」
純子は足元にあった一冊の本を美咲に差し出した。
「『博多少年奮闘記 わが人生に一遍の悔いもなし』…」
「瀬戸山コーポレーション創立50周年記念のパーティーで配られた手記よ。
そこにすべて書いてあるわ」
ちあきの脳の中で、しだいにひとつのパズルが完成に近づいていた。
なぜ総帥があれほど気前よくて豪快なのか。
なぜ智子に生活力が身につかなかったのか。
なぜスタッフたちが遊びほうけているのか。
その原因を作ったものは何だったのか。
なぜ彼が、日本で5本の指に入るほどの富豪となりえたのか。
「そう…すべては博多時代の苦労の賜物だったのね…」
パズルはすべて完成し、ちあきの目には輝きが戻った。
「さあ、行くわよ」
「「はいっ!」」
再び掃除が始まった。
その後の3人の働きぶりはめざましく、小笠原家に匹敵するほどの広さを持つ豪邸を、
わずか1日できれいさっぱり磨き上げてしまった。
「ありがとうございました!」
大金を手渡そうとする総帥夫妻を、ちあきたちは手で制した。
「私たちで話し合って、お金はいただかないことにしたんです。
そのかわり…」
「「そのかわり?」」
ちあきはまた不敵な笑みを浮かべた。
「そちらのメイドさんたちを、1週間お借りできませんか?」
驚く総帥夫妻に、さらにダメ押し。
「私が全員鍛えなおしてみせます」
その瞬間、佐伯家のリビングの体感温度が一気に20度以上も下がった…。
後日、瀬戸山家では山笠以前とは打って変わってまじめに働くようになったメイドたちの姿があった。
ただ、彼女たちに変化の理由を聞いてみても一様に口を閉ざすばかり。
「あんな目にあうくらいなら、まじめに働いていたほうがましです」
メイドの1人はようやくその一言だけを発した。
はたしてその1週間に何があったのか、知っているのはマリア様のみ。