秋の朝。
学園祭の準備のために、早く登校した祥子。
寝坊して遅刻などもちろんしたことはないが、低血圧の身に朝は辛い。
頭に霞がかかったようになっている理由は、それだけではないかもしれない。優さんを避け続けて一年半が経った。花寺学院から応援を頼むしきたりになっている以上、生徒会長の彼は必ずなにかの役を振られているはず。
会ったらどうするのか。なにを言えばいいのか。何も考えられない。高等部入学、婚約、そして彼の告白。そこで止まったまま。優さんもあえて会って話そうとはしてこない。その必要もないのだろう。
そもそも。 花寺とのうち合わせを避け続けているのだから、彼がいつ何をしに来るかも知らない。紅薔薇のつぼみとしての充実した毎日の中に紛らせて、忘れて来た。
(なにをしているんだか)
ぼうっとしたままでも、自動的に優雅な歩き方でマリア像までたどりつく。手を合わせる。
(この霧が晴れますように)
ふと。隣で手を合わせて一心に祈る、一年生らしい子が目についた。その、真剣な顔に、なぜか安らぎを覚えた。だから、彼女が祈りを終えて校舎に向かったとき、思わず声をかけた。
「お待ちなさい」
妹にしたい、というのではなく、もっと……。
そのことを、祥子はずいぶんあとまで、忘れていた。
† † †
「すめん?」
「剣道で面を着けないこと」
「ふうん。素面ね。一つ勉強になったわ」
さすがの祥子も知らないか。薙刀だったかなにか武道も齧ってたように聞いた覚えがあるけれど。令にすれば日常会話の言葉に、あらためて新鮮味を感じた。
二年生三人と乃梨子ちゃんが生徒会役員選挙の説明会に出かけた留守の薔薇の館。
こうして祥子とお茶、という機会も、もう何度もないだろう。乃梨子ちゃんはまだ戻ってこない。ひょっとしたら説明会に出ているのかもしれない。
祥子が祐巳ちゃんに依存している、なんて話ができるのは私だけかもしれない。ちょっとうぬぼれてみる。これは蓉子さまにもなかなか話せないだろう。ちょっと調子に乗った。
「祥子、婚約解消ってどんな気分?」
え? と、祥子は目を丸くして、かたん、とティーカップを置いた。
「どんな、って言われても、望み通りになっただけだわ」
「面をかぶったね。いや、話したくないことまで聞かなくてもいいよ。ごめん」
ふうっ、と息を吐いてかすかに微笑む祥子。
「聞き役になってくれるなら、逃がさないわ」
「あら、じゃあ心して聞かなきゃ」
「卒業するまでに、決めたかったの。どうするのか。令、あなたどこまで事情を知っているの?」
「一年以上たったからねえ。祥子や祐巳ちゃんの言葉の端々からだいたいはわかるよ。婚約したときに柏木さんがゲイのカミングアウトをした、ということで合ってるかな」
「合ってるわ。私たちは似たもの同士だから、お互い自由にしよう、私は外の男と子供を作って小笠原家を継がせればいいって」
絶句、した。
「驚いた?」
「そこまで言われたの。でも、でもそれって言葉通りの意味だったのかしら」
「わからないわ。最初は言葉通りに受け取ったの。でもね。なにか考えてるのよ。勝手に私たちをなにかから護ってるつもりみたいだわ」
「私『たち』?」
「私と瞳子ちゃん」
「どういうこと?」
目を上げてひた、とこちらを見る。
「16になれば、法律上結婚できる。優さんがいなければ、そこら中から顔も知らない候補者が殺到したでしょうね」
「瞳子ちゃんも?」
「これからそうなるのよ」
「まさか」
「やりかねないわね。小笠原家の男どもってそういうところはどうしようもないのよ。女のことを思っているようでも勝手なだけ」
まるで、別世界の話だ。お嬢さまに生まれてこなくて良かったと思う。
「じゃあ、瞳子ちゃんのために祥子と婚約解消したと?」
「ちがうわ。私が自分の意志を通せるようになったと思ったんでしょう」
「大学へ行くから? 関係ないじゃない」
「そうじゃないの。あのね、優さんに言ったの」
伏し目がちになって話し続ける祥子は、ひどく冷静だ。
「『私は祐巳と暮らすわ。あなたはだれとでも暮らせばいい。小笠原家は瞳子ちゃんの娘にでも継がせましょう』って。ふふふ」
「祥子! 本気?」
「まさか、と言いたいんだけど」
「本気なのね」
にっこりと、笑った。美しい、と思った。
「柏木さんはなんと?」
「因果応報だな、って。おかしいじゃない? 優さんはゲイじゃなくて、気がついたら私の方が男の人が愛せなくなってた。いいえ、そうじゃないわ。男も女も関係ない。祐巳以外は愛せなくなったのよ」
「それで婚約解消したの。それで、あんなに冷静で、あんなに解消した後の方が仲がよさげで、はあ。力が抜けたわ」
「優さん以外、誰も知らないことよ。令に初めて話したわ」
「えっ? 祐巳ちゃんにも話してないの?」
「話せるわけないじゃない。あの子は普通の女の子よ。祐巳に言わせれば私はただのヘンタイさんね」
「だからって、祥子」
「まだ、瞳子ちゃんがいるわ。祐巳に助けてもらわなければ、瞳子ちゃんも私と同じことになってしまうの」
私と由乃だったら。考えたことがない、と言ったらウソになる。もし私と由乃だったら。菜々ちゃんに任せる踏ん切りがついた私と、どうしても離れられない祥子と。
カップが、冷め切っていた。ふっ、と我に返った。
「入れなおそうか、紅茶」
「いいわ。もう乃梨子ちゃんが帰ってくるでしょう」
どうするの? 祥子、その想いを。口を開きかけた時、階段を上る足音がした。ぱたん、とビスケット扉が開く。
「ただいま戻りました。あれ、どうしたんですか?」
「おかえり、乃梨子ちゃん」
「おかえりなさい。どうしたって?」
「あ、いえなんでもありません。紅茶、いれますね。」