【1873】 全然成長してない乙女の怒りパンチ  (若杉奈留美 2006-09-22 11:26:56)


【No:1866】「淑女の嗜み勘弁してー!」の続き。
副題:「激闘!テーブルマナー、地獄の特訓」


(第1幕・小寓寺)

小寓寺の一角、小さな茶室。
その日、松平瞳子は藤堂志摩子とともにお茶を飲んでいた。

「どうやら私たちはまぬがれたみたいですわね、志摩子さま」

志摩子が優雅に微笑む。

「そうかもしれないわね」
「でも志摩子さま、こちらのお宅は純和風ですし、お食事も和食が多くなるかと
思うのですが、あのような正式なテーブルマナーはいつ頃から身に付けられたのですか?」
「そうね…いつからかしら」

秋の日差しに、亜麻色の髪が輝く。
なんと美しい横顔だろうか。
瞳子は思わず、自分の見せる横顔について深く考え込んでしまった。
志摩子はあくまでも、優雅な口調を崩さない。

「うちの檀家さんには、海外での暮らしが長かった方もいらっしゃるから…
そうした場に出入りするようになって自然に覚えたというところかしらね」
「なるほど」

やがてまた途切れる会話。
どこか遠くで鳥が鳴き、秋風が木々の葉を揺らす音が聞こえる。
でも今は、そんな平和な沈黙が心地よい。

「乃梨子さん…今頃どうしているのかしらね」
「さあ…」

不意に志摩子が笑った。

「心配することはないわ、瞳子ちゃん。あなたの妹は、少ししっかりしすぎているだけなのよ」
「…だといいんですけれど。ちあきは間違いがあれば、たとえ目上でも遠慮しませんから。私もずいぶんあの子とは喧嘩しましたわ」

すでに冷めたお茶をすすりながら、志摩子と瞳子は再び沈黙に身を任せた。



(第2幕・極楽鳥の間〜エントランス編)


小笠原邸内の大広間、通称「極楽鳥の間」。
そう、テーブルマナーまるで無視の晩餐会が行われた、あの部屋である。
今この部屋を満たす空気に、和やかさはかけらもない。
あるのは異様なまでにピリピリと張り詰めた緊張感と恐怖感。


「まずはきれいな椅子の座り方からです。今から私が手本を見せますので、
そのとおりにやってみてください。令さま、お願いします」

パチンと指を鳴らすと、ギャルソンの服を着た令が現れた。
こういう服が並みの男性よりはるかにかっこよく決まるのも令ならではである。
ちなみに令は、先日の晩餐会でマナーに合格点が与えられた一人である。

「失礼致します」

無駄のない動きで後ろに回ると、そっといすを引いた。
そしてちあきがもう立っていられないところまでいすを前に持ってきて、
座るのを確認するとまたさりげなく離れた。
令もちあきも、まるで別世界の人のようだ。

「おお〜」

期せずして拍手と歓声が沸きあがった。
このときだけ、あの張り詰めた感覚がわずかにゆるんだが。

「お静かに!まだレッスンは始まったばかりですよ!」

再び部屋は緊張感に包まれた。
その後実習に入ったが。

「涼子ちゃん!いすを引くタイミングが早すぎるわ!」
「美咲ちゃん、ドスンと座らないの!」
「さゆみ、自分でいすを引かない!」
「祐巳さま、いすで膝カックンしない!」

あまりにも張り詰めていたためか、全員優雅には程遠い状態。
ちあきの眉間のシワが増えたのを、祐巳は見逃さなかった。



(第3幕・極楽鳥の間〜セッティング編)


「今こちらにはカトラリーのセットがあります」

威厳を感じさせる、張りのある声でちあきがカトラリーのセットを示している。
今日いるのは、旧世代の「伝説の薔薇さま」こと蓉子、聖、江利子。
同じく旧世代から、「庶民系薔薇さま」こと祐巳、由乃、乃梨子。
あとは全員次世代メンバーである。

「それでは…」

あたりをざっと見回すと、ちあきはおかっぱ頭の先輩に目をとめた。

「二条乃梨子さま。スープ用のスプーンを、この中からとりだして下さい」
「…はい…」

緊張のあまり声が裏返る乃梨子に、ちあきは容赦ない。

「もっと声を大きく!」
「は、はいっっ!」

震える手でスープ用の丸みを帯びたスプーンを取り出して、テーブルの上に置く。

「正解です。続いて福沢祐巳さま」
「ひゃ、ひゃいいっ!!」
「もっときちんと返事ができませんか?相手はあなたの孫ですよ」

(ボロクソだ…)

祐巳ははらわたが煮えくり返りそうになりながら返事をした。

「オードブル用のナイフとフォークを、このお皿のわきに置いてください」

言われたとおり、お皿のわきにナイフとフォークを置いた祐巳だが。

「違います。やり直してください」

(え…えと…これは…なんだっけ。どっちか左手側に置くんだよね…)

祐巳は右手側に、ナイフとフォークを両方置いてしまっていたのだ。

(確かこれは…フォークだ!)

フォークだけを左手側に移した。

「正解です」

思わず力が抜け、その場にへたりこみそうになった。

「島津由乃さま、魚用のナイフとフォークを置いてください」

由乃は正解(オードブル用の隣)。

「水野蓉子さま、肉用のナイフとフォークを置いてください」

蓉子も正解(魚用の隣)。

「以上で料理の部分のセッティングは終了です。この位置関係をよく覚えておいてください。
続いてパンのお皿ですが、これは佐藤聖さまにお願いいたします」
「あ、あれ?これ…どっちだっけ…う〜ん…」

ちあきが腕組みしながら聖をじっと見据えている。

「さあ、どちらでしたか?聖さま。思い出せませんか?」

(うるさい、話しかけるな!)

うっかり口に出せば命が危ないセリフが、喉元まで出かかる。

(ええい、いちかばちか…左だ!)

3本のフォークのある側に、聖はパンの皿を置いた。

「正解です。続いてのフルーツ用ナイフとフォーク、コーヒースプーン、グラス各種のセッティングは…」

たっぷりと間をとったあとで、

「鳥居江利子さま、お願いします」

江利子は多少青ざめつつも、それらをセットし終わった。

「正解です。これですべてのセッティングが完了しました。
さて、皆さんにやっていただいたのは、イギリス式と呼ばれるやり方です。
フランス式というのもあるのですが、皆さんご存知ですか?」

静まり返る大広間の中で、ちあきはオードブル、魚、肉それぞれのナイフとフォーク、それからスプーンを伏せてテーブルに置いた。

「これがフランス式です。最近ではテーブルクロスを傷つけるなどの理由からイギリス式が一般的になっていますが、
これも念のため覚えておいてください。位置関係は変わりません」

ここまではどうにか順調にきたが、この後とんでもない事件が勃発するのだった…。


(第4幕・極楽鳥の間〜密談編)

山百合会の面々は、極度の恐怖感と緊張で喉がカラカラになってしまっていた。
しかも現紅薔薇のつぼみ、瀬戸山智子は一部生徒の間では「酒豪系ブゥトン」として
知られ、実際どれだけ飲んでもほとんど表情が変わらない。
だからちあきもそのあたりを考慮したうえで、今回の特訓を行った…はずだった。

「うふふふふ〜」

ワインが出てきた直後から、何度もおかわりを頼み、今のですでに10杯目。
あまり赤くもなっていないが、無意味な笑いが彼女の状態を如実に物語っている。

(まったく…今までのは何だったのかしら)

ちあきはもう怒る気力も失せている。
他のメンバーたちも、内心では智子に同情しているのか、誰もとがめようとはしない。

「ナプキンの使い方は皆さん覚えていらっしゃいますね?」

全員無言でナプキンを膝の上にかけている。
やがてオードブルが配られ、食事開始。

しばらくして由乃が祐巳に何事か耳打ちした。
祐巳は最初驚いていた様子だったが、やがて意図を理解するとうなずいて、
まわりの人々に告げた。

「すみません、少しだけ席をはずさせていただいてよろしいですか?」
「本来なら食事中の中座は認められませんが…やむを得なければいいでしょう。
ナプキンの置き方には気をつけてくださいね」

ちあきの言葉を背に、祐巳と由乃は席を立った。
その様子を見ていた乃梨子が、何かを察したようで、これも中座。
3人は、通りがかったメイドにお手洗いの場所をたずね、案内された場所に
向かって歩き出した。

「いい、このメモをちあきちゃんに知られないようにまわして」

由乃から渡された2枚の紙片。
そこには、ちあきに反撃するための様々な作戦が書かれていた。

『まず、目上の人に対する言葉の悪さを指摘すること。
次に相手がひるんだら、ここまでマナーに厳しくなった背景(別紙参照)に
やや同情的に触れた上で、自分たちはそんな言われ方はしたくない。
マナーの本来の目的は別のところにあるはずだと、穏やかに、
しかしはっきりと断言する』

「私、あまりにもちあきがいろんなことに厳しいのが、どうにも納得できないで
いたんです…それで瞳子にそれとなく調べてもらったんです」
「ちあきちゃんの家庭環境とかを?それってスパイ行為だよ」

祐巳の口調が怒りを帯びている。
しかし乃梨子は動じない。

「確かに祐巳さまの懸念なさるのは分かりますが…あんなやり方では誰もついてきません。
私には、智子ちゃんのあの飲みっぷりが何かのSOSに思えてならないんです」
「…それで、結果はどうだったの?」

乃梨子は由乃の持つ2枚目の紙片に書かれた内容に触れた。

「どうやらおばあさまの影響が大きいようですね…リリアン女子大には佐伯三千子という教授がいらっしゃいますけれど、
ちあきはあの教授のお孫さんです」
「「ええっ!?」」
「お2人とも声が大きいです」

思わず声をあげる2人を乃梨子は制した。

「佐伯三千子って…国際儀礼であるプロトコールの草分け的存在じゃないの。
しかもテーブルマナーについての著書も何冊も出してる有名人よ。
そんな人のお孫さんだったなんて…」
「由乃さん、詳しいね」
「知らなかった祐巳さんの方がモグリよ」

乃梨子はさらに、驚くべき事実をあげた。

「三千子先生はちあきのお母さんに自分のマナーを受け継がせようとしましたが、
厳しいしつけにもともと反発していたため、大喧嘩の末に家を出てしまって以来
交流が途絶えているそうです…」

ここで由乃は、油断すると忘れてしまいそうな、ある小さな事実を思い出した。

「そういえば…お母さんが先月買ってきた『アマンダ』とかいう雑誌の編集長って…
確か、佐伯佳代子って書いてあったような…乃梨子ちゃん、もしかして…?」

それも調べてる?と聞く前に、答えはもたらされた。

「さすがです、由乃さま。三千子先生と疎遠になった娘さんというのは、
ちあきのお母さまであり、『アマンダ』の編集長である佐伯佳代子です」
「…よくそこまで調べたね」

由乃はそれだけ言うのが精一杯だった。
確かにちあきは瞳子の妹。
それも他の姉妹以上に絆の強い姉妹である。
そのあたりの事情を瞳子に話していたとしても不思議ではない。
しかも瞳子は乃梨子や可南子以外の友人は少ないから、よけいに心を許している。
要するに、その気になればいくらでも情報が入ってくるポジションにいるのだ。
祐巳たちは乃梨子が少しうらやましくなった。

「このあたりを突いてやれば、確実にちあきは落ちます。
祐巳さまはコーヒーをわざと音をたてて飲んでください。
それが合図です」

クーデターの、始まりだった。


(第5幕・極楽鳥の間〜反撃編)


あれだけ飲んだにもかかわらず、智子は意外にケロリとした顔で食事を終えている。
しかもダメ出しの数も減っている。
出された食事がおいしかったこともあって、ちあきの表情は今までになく穏やかだ。

やがてコーヒーにさしかかったとき、かねてからの計画通り、祐巳はわざと音をたててコーヒーをすすった。
ちあきの表情が変わる。

「祐巳さま…」
「ちあき!」

乃梨子が声をあげた。

「今までずっと思っていたけど…ちあき、あんた目上の人に対する言葉遣いが悪すぎるよ。
いくら敬語を使っているからといって、祐巳さまに対して『もっとまともに返事ができないのか』なんて、ひどすぎる。
言っていいことといけないことがあるよ」

思わぬ方向からの反撃に、ちあきはなすすべもない。
由乃も援護射撃。

「そう、それに聖さまに対してもあんなえらそうな態度…
一番礼儀をわきまえてないのはちあきちゃんだよ」

驚きと怒りのあまり、一言も声が出ないちあき。
その様子を見て取った祐巳が続けた。

「ちあきちゃん…私たち気になって、一応調べてみたの。
ちあきちゃんのおばあさまって、すごく有名な人だったんだね。
…ずっと大変だったね、厳しいおばあさまにいろいろやられて…」

沈黙のあとで、ちあきはおもむろに口を開いた。

「これには私自身の…苦い経験があるんです」

次に話したのは、今まで黙っていた聖だった。

「聞こうじゃない」

振り返りたくない記憶を、あえて思い出さなくてはならないときの、
あの苦い表情で話し始めるちあき。

「あれは私が中学2年のときでした…知り合いの結婚式に出席することになったのですが…
高級なレストランを貸しきっての披露宴でした。
私はマナーのことなど何も知らずに、適当に食事をし、隣の席がちょうど私と同い年の女の子だったこともあって、
披露宴の間中ずっとおしゃべりし続けていたんです」
「それで?」
「…披露宴が終わって、帰る途中の車の中で、おばあちゃんは一言だけこう言いました。
『たとえ若くても、幼くても、あのような場所に出ればいっぱしの淑女です。
それを忘れた女は、もはや女性ではなくただのメスです』
…堪えました。両親に叱られるよりもずっとショックでした」

よほど辛い思い出だったのだろう、ちあきは目を閉じて首を横に振る。
いつもの世話薔薇総統の強さはどこへやら、そこにいるのは佐伯ちあきという名の1人の少女。
その姿を見た山百合会は、もうこれ以上ちあきを責めるのはやめようと思い始めていた。
蓉子がちあきの肩にそっと手を置いて、話しかけた。

「ねえちあきちゃん…私たち今気づいたんだけど、ちあきちゃんって人をほめないのね。
今までの特訓の中で、1回もほめ言葉がなかった…これは少し辛かったわ」

そのあとを、江利子が受けた。

「人はほめて育てるものよ。米粒だって、『大好き』と声をかけてやれば
いつまでも腐らずにいるけど、『大嫌い』って声をかけ続けるとね、真っ黒になって
ドロドロに解けちゃうんだから。
ちあきちゃんは、みんながそうなるのを望んでいるのかしら?」

ここでちあきは声をあげた。

「そんなこと望むわけないでしょう!?私はただ…」
「だったらもっとみんなにホメ言葉をかけてあげなさい。
叱られるばかりじゃお互いに辛いでしょう?」

聖がちゃちゃを入れた。

「さすが江利子、たまにはいいこと言うじゃない」
「たまには、は余計よ」

ちあきはほうっと溜息をつき、うつむいた。

「皆さんには、きちんとした大人の女性として振舞えるようになってほしかったから…
私の二の舞だけはなんとしてでも避けてほしかったから…
やりすぎたのは謝ります。本当に申し訳ありませんでした」

聖が最後に一言言った。

「本当のマナーってのはね、みんなで楽しく食事ができることだよ。
テーブルセッティングとかはそのための手段にすぎない。
基礎的なことさえきちんとしていれば、あとはそれほど神経質になる必要は
ないんじゃないかな?」

期せずして拍手が沸きあがった。

「…参りました」

ちあきはいつになく神妙に頭を下げた。
世話薔薇総統が、伝説の薔薇さま方に完敗した瞬間だった。

「もういいよ、ちあきちゃん。私たちも悪かった」

やっと和やかな空気が戻ってきたところへ、なにやらウェイターさんが
ワゴンを運んできている。

「お嬢様方、込み入ったお話で喉が渇いたでしょう?
お酒の飲めない方のためにソフトドリンクもご用意しましたから、
どうぞごゆっくり。
デザートもすぐお持ちいたします」

わぁっ、とひときわ嬉しそうな歓声があがった。


(第6幕・後日)

あの場にいたメンバーたちから一部始終を聞いた瞳子は、誇らしげにうなずいた。

「乃梨子さんらしいですわね」
「私はただ、言うべきことは言わなくちゃって思ったから…」
「でもね」

瞳子はふっと、その目に優しい色を浮かべた。

「ちあきは1人ですべて抱えこんで暴走するから、
誰かが体当たりで止めてやらないといけないの。
そういう存在を、きっとちあき自身も求めているはず。
智子ちゃんがきちんと成長してくれれば、きっとあの子に負けない立派な薔薇さまに
なれるはずよ」
「ブレーキ役も果たせる、ってわけね」

乃梨子の言葉に、瞳子はまた誇らしくうなずいた。
そして乃梨子の手をとった。

「ありがとう、乃梨子さん…」


(第7幕・薔薇の館)


怒涛のようなテーブルマナー特訓から1週間。
確かに食べ方は格段に進歩した。
テーブルにひじをついたり、くちゃくちゃと音をたてながら食べるというマネは
さすがに誰もしていない。
しかし、問題は食べ方だけではなかった。

ドカン、とビスケット扉を蹴っ飛ばして開けているのは、
たくさんの書類を抱えた真里菜。

「やだなあちあき、そんな目で見ないでよ。
両手ふさがってたんだからしょうがないでしょ?」
「…一言言ってくれれば開けたのに」

その横では、今日も黄薔薇ファミリーがドタバタとうるさい。

「うるさい、走り回らないの!」
「だってちあきさん、さゆみったら人のノートに落書きするし!」

この騒音の中で昼寝を決め込む智子と美咲。
涼子は黙々と読書中。
純子はその隣で新しいお菓子のレシピを開発中なのか、何かいろいろと書き込んでいる。
どうやら全員、仕事をする気はまったくないらしい。

(はぁ…)

今日も平和な放課後。
薔薇の館はすべてこともなし。


一つ戻る   一つ進む