『【No:314】新説逆行でGO』からの続き物。
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└【No:1447】
雨が降っていた。
鉛色の空から、雨粒が次々を降り注ぎ、銀杏並木の木々を、地面を、そして祐巳の差している傘を濡らしていた。
梅雨の時期は髪の毛のまとまりが悪くなるので祐巳はあまり好きでなかった。
それに今は未来のことになってしまった嫌な思い出もある。この時期はどうしてもあのときのことを思い出して多少憂鬱になるのだ。
一度乗り越えたとはいえ『もう一度』となるとちょっと不安も感じるし。
でも大丈夫だ。祐巳はもう答えを知っているからまた疑心暗鬼になることは無いだろうし、祥子さまもお祖母さまのことを隠す必要なないのだから……。
「あれ?」
そこで祐巳は引っかかりを感じた。
(ええと、私も祥子さまも“知ってる”から隠し事はしなくて良いよね)
でも。
来年の今時期、お祖母さまが亡くなられることを、既に知っている祥子さまは?
結果が予想できることなら強気を崩さない祥子さまだけど……。
理屈では祥子さまが大丈夫なように思えるのだけど、どうも引っかかりが拭えなかった。
(まあ、一年後のことだし)
きっと、この雨が祐巳の心に要らぬ心配を湧き上がらせているのであろう。
そう思って祐巳はこれについてそれ以上考えるのを止めた。
でもその引っかかりは、案外正しい予感だったのだ。
〜
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、祐巳」
屋根にあたる雨音が静かに響く古い温室の中。
薔薇科の植物達に囲まれて本を読まれる祥子さまは変わらず一枚の絵のように麗しくて、その絵から抜け出すように読まれていた文庫本から顔を上げ、祐巳に微笑みかける瞬間は、祐巳にとっては至福の一瞬。
だけど、今日は朝から降り続く雨のせいか、祥子さまの微笑がどこか沈んで見えた。
でも、それはきっと祐巳の方に問題があるのだ。
祥子さまの顔を見た時、祐巳には「雨の日は祥子さまもあのことを思い出すのだろうか」なんて思いが過ぎったのだから。
「どうしたの?」
祥子さま表情を曇らせた。
早速祐巳の表情の変化に気づかれたようだ。
「え、いえ、何でもありません」
朝っぱらからこんな話題を話したくないのは祥子さまも同じ筈。だから、とりあえず否定して祐巳は他の話題を探した。
でも祥子さまは、じっと祐巳の顔を見ながら言った。
「祐巳、思っていることがあったら言いなさい」
そうなのだ。やはり祥子さまも同じ。
こんな雨の中だった。互いに思ったことを言わなかったばかりにすれ違ってあんな思いをしたのだ。
祐巳には祥子さまの言いたいことが判っていた。
「……すみません。雨が降っていると思い出してしまって」
「そうね」
「もう、あんなことにはならないって、でも判ってるから、それに一年後だから、でも祥子さまの……」
なんかしどろもどろだった。
言いたいこと、思っていることは口に出してしまった方が良い。
それはそうなんだけど、やはり、どうしても恐怖があって口に出すのが躊躇われる。
祥子さまは一年後、お祖母さまは亡くなられることに対してどう考えられているのか。
それに対して祐巳に出来ることは何かあるのか。
祥子さまはそれを胸に秘めたままあと一年も過ごされなければならないのに、それに対して祐巳が出来ることは何も無いんじゃないかって。
いや、祐巳が口に出すことで祥子さまの苦悩を増やしてしまうのではないかって。
そう思うと、それを口に出してしまうのが怖くてたまらなかった。
「祐巳」
祐巳の頬に軽く触れる感触があった。
「祐巳が心配しているのはお祖母さまのことかしら?」
ああ、伝わってしまった。
いや、祐巳と祥子さまのすれ違いの可能性が限りなく小さくなった今、気になることといえばそれしかないのだから判ってあたりまえだ。
祐巳は『前回』お祖母さまの生前には全然関わっていない。だから、来年お亡くなりになるって判っててもあまり実感が沸かない。
でも祥子さまは当事者なのだ。おそらく前回悲しまれたであろう経験をもう一度繰り返さなければならないその胸中は如何ほどのものであろう?
「……そうね。私も梅雨に入ってそのことを思い出してしまったわ。それで先日はお母様に余計な心配をかけてしまって」
祥子さまはご自身に言い聞かせるように続けた。
「でもね、お祖母さまがいつか亡くなられるのは確かなこと。一年後と知っていても知らなくてもそれは“いつか来る”ものなのよ」
「お姉さま……」
「だから私は心構えが出来る分、かえって良かったんじゃないかって思えるのよ。それに、お祖母さまとは、また一年も会える時間が増えたのだし……」
いつになく饒舌な祥子さまは強がっているのは明らかだった。
「お姉さま」
祥子さまの目は潤んでいた。
やはり、一年後とはいえ、亡くなる事が判っている人間とそしらぬ顔で付き合うなど出来ないだろう。
祐巳の頬に触れていた祥子さまの右手はいつしか祐巳の肩に置かれていた。祐巳はその手を両手で包み込むように掴んだ。
「……この季節は毎年調子を崩されていたのよ、でも、今年は入院したらもう……」
祥子さまの手は震えていた。
そのとき思い出した。あのとき、柏木さんの車でお祖母さまの家に行く途中、お祖母さまは一年くらい入院されていたと言う話を聞いたことを。
つまり、今時期に入院されたという事は……。
「会えなかったわ。会ってしまったら泣き出してしまいそうで。私、具合が悪いからって嘘をついて帰ってしまったの」
「……」
祐巳は申し訳ない気分でいっぱいだった。
なんだか祐巳が祥子さまの悲しみを引き出してしまったようなものだから。
でも、これは怒りと一緒だ。
悲しみだって溜め込んだままだときっと病気になってしまう。
だから時々こうして外に出してあげるのはきっと必要な事なのだ。
こんな時、妹は何をしてあげるべきなのか?
祐巳は言った。
「お姉さま、『いつか来るもの』っておっしゃいましたよね」
「言ったわ」
「でも、同じとは限らないんじゃないですか?」
「何がいいたいの?」
「だって、志摩子さんと聖さまのことだってこんなに変わってしまったんだから、お祖母さまだって、来年お亡くなりになるなんて判らないじゃないですか」
「どうしてそういえるのよ?」
「祥子さまが前回と違う接し方をされたのなら、変わってしまった可能性だってありますよね」
「そうね。でも人の死期ってそうそう変わるものなのかしら?」
「それこそ判らないじゃないですか。でも判らないけど『いつか来るもの』ですよね。だったら、前回、知らなかった時と“違わない”と思いませんか?」
なんだか自分で言ってて「何を言ってるんだろう」って思った。
別に確固とした結論を用意して話していたわけではないのだ。
最初、『まだ一年もあるんだから今から悲しむ事は無い』ってことを言おうとしていたのに、なにか違う事を口走ってしまっていた。
でも、祥子さまの表情は少しだけ晴れた気がした。
「……そういうこと?」
「え?」
「判るわ。私は前回はあなたとのことで頭がいっぱいであまりお祖母さまのために十分何かしてあげられなかったから」
「あの……」
「私は気負いすぎていたのね。一年後に亡くなられるって判ってるから何かしてあげなきゃって。でも意味が無かったわ。一年後だろうが十年後だろうがいつかは来るものなのよね」
「は、はい。それに」
「なあに」
「もし辛くなっても、私がいますから」
つい言ってしまったが、これは自惚れもいい所だ。
でも祥子さまは一瞬目を見開いて祐巳を見つめた後、
「……その通りだわ。うふふ。その通りよ」
そう言って微笑まれた。
「そうね、祐巳、お祖母さまに会ってくれる?」
「はい、是非」
「きっと喜ばれるわ」
祥子さまは早速“出来ること”を見つけられた。