色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:これ】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
そこでは誰もが戦っていた。子供だから。戦った事なんてないから。そんな言い訳は許されなかった。戦わなければ自分たちが死ぬ。
私の力が皆に比べて劣っているのは分かっている。なにしろ、まともに力を使えないのだから当然だ。それが原因で、戦闘の度に私は傷を負っていた。
生まれ持った力をまともに使えないから、他の人よりも多く傷を負ってしまう。味方であるはずの人たちに、「足手纏い」と蔑まれる。戦場には私の味方なんて一人もいなかった。
怪我を負えば痛くて。一人でいるのが辛くて。馬鹿にされても何一つ言い返せない自分が惨めで。そんな自分の無力さが歯痒くて。自殺だって考えた。
けれど、それでも私は戦場に立ち続けた。私には、どうしても投げ出す事のできない戦う理由があったから。その理由とは、この世界が好きだったから、というこれ以上ないくらいに単純なものだ。母の母校で、彼女が愛した学園を守りたかった。設計事務所を経営していた父が設計した自宅を守りたかった。家族を失う前の、優しい世界を取り戻したかった。
勿論私一人が頑張ったからといって、どうにかなるようなものではないと理解している。現実はそんなに甘くない。けれど、いずれ訪れるであろう未来に絶望しか残されていないなんて、そんな事は認めたくなかった。
だから、私は諦めなかった。どんなに蔑まれても、どんなに傷付いても、絶対に諦めなかった。そうやって我慢して、諦めないでずっと頑張っていたから、きっと神様がご褒美を与えてくれたのだ。
十月の半ば。濃厚な血の匂いと人々の怨嗟の声に包まれた戦場で、
「あなたはどうして戦い続けているの?」
私は、私のお姉さまとなる人と出会った。
「福沢祐巳は壊れている」
皆が皆、口を揃えてそう言った。私自身そう思う。
他人の痛みを感じない。自分の痛みも感じない。心も身体も、何の痛みも感じなくなった。
一年前のクリスマス。
その日は雪が降っていた。
有り得ない力で捻じ曲げられたガードレールや陥没したアスファルト。倒壊した電柱の下では、切れた電線が降り積もった雪の上を狂ったように跳ねながら火花を散らしている。視線を少し先に向けると、崩れて鉄骨が剥き出しになった歩道橋が見えた。その手前には光を失い、機能を果たしていない信号機。車道には煙を上げている車両があり、運転席と助手席の部分には親子だったものらしい人の形をした炭が残っていた。あちこちに無造作に転がっている蟲共の食べ残しである亡骸を除けば、ここに私たち以外に人の姿はない。
それらの破壊の爪跡と前方二百メートルほどの地点に集まっている蟲の群れを眺めていると、
「どう思う?」
私の隣で同じようにそれらの光景を眺めていたお姉さまに尋ねられた。
「報告では三百程度とありましたけれど、被害状況と照らし合わせてみると数が少ない気がします」
この地区に現れた蟲は三百匹程度、と偵察と観測を兼ねた部隊からの報告にあったのだけれど、それにしては被害が大きく思える。あちこちで無惨な亡骸を晒している人たちの中には戦える人だっていたはずだから、三百匹程度でここまで被害が大きくなるとは考え難い。
「そうね、私もそう思うわ。ひょっとして、どこかに隠れているのかしら? 合わせて五百程度なら戦えない事もないのだけれど。……何にせよ、しばらく様子を見た方が良さそうね。少し離れた所に移動しましょうか」
私の返答に頷きながらお姉さまが指示を出す。その指示は慎重過ぎるものなのかもしれないけれど、不確定要素がある以上そうせざるを得ない。はっきりと言ってしまえば蟲の一匹一匹は大した相手ではないのだが、油断して痛い目に遭うのは私たちの方なのだ。
けれど、その指示に従おうとしない人たちがいた。
「敵が目の前にいるのに、様子を見ろ、と? 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は悠長な事をおっしゃいますね」
彼女たちは元々、私のお姉さまに強く憧れていた人たちだ。だからこそ彼女たちは、直接的な戦闘では殆ど役に立たない私をお姉さまが妹(スール)に選んだ事が気に食わなかった。
「こちらには八十人もの精鋭が揃っているんです。確かに、何の取り得もない方がお一人混ざっているせいで慎重に行動せざるを得ない、という紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のお考えは分かりますが、あの程度の蟲相手にそんな心配は無用です。ね、祐巳さんもそう思うでしょう?」
私よりも強い人たちが、私を見下しながら嘲笑う。
お姉さまはそれを咎めたが、私は何も言い返せなかった。なにしろ彼女たちが言っている事は真実で、実際に彼女たちが強いからだ。お姉さまの指揮するこの部隊は、リリアン女学園の中等部と高等部の生徒たちで組織されただけの部隊にも関わらず恐ろしいほどの強さを誇っていた。
自分たちが負けるはずがないという過信か。それとも、大して強くないはずの蟲相手に一対一でしか戦う事のできない私に対する当て付けか。彼女たちはお姉さまの静止の声を振り切って、目の前に見える敵を相手に戦闘を開始した。
こう言っては刺があるように聞こえるかもしれないが、彼女たちは貴重な戦力だ。一つや二つの命令に従わなかったからといって、切り捨てる事も罰を与える事もできない。この区域で言えばそうでもないが、世界規模の戦闘状況では人類側が圧倒的に不利なのだ。戦う事ができる者は、一人でも多いに越した事はない。
その事をよく理解しているからだろう。お姉さまは指示を無視された事に文句など言わず、ただ「参ったわね」と肩を竦めると「私たちも行くわよ」と残っていた人たちに声をかけて、鞘に収めていた愛用の長剣を引き抜いた。
その化け物たちは、成人男性と同程度の体長と鋼鉄の皮膚を持っている事を除けば、そこらの家の庭先でも見る事のできる昆虫――蟷螂の集団だった。けれど、この場所にいる蟷螂は普通の昆虫とは違って人を殺す事ができる化け物なのだ。その前脚は、たしか切断するためのものではなかったような気がするのだが、残念な事に奴らに常識は通用しない。鋼鉄の身体を持つ蟷螂の前脚には、刃物と同じ鋭さがある。
それでも、数人の人たちの勝手な行動によって開始された今回の戦闘は、突然開始された事により多少困惑している人もいたが、私たちの方が圧倒的に有利だった。
一刀のもとに蟲を斬り伏せていくお姉さま。複数で互いの死角を補う事により、隙なく敵を倒していく前衛の剣士たち。そんな前衛を後方から支援しながら、効率よく次々と敵を屠っていく魔法使いの皆。この世界の住人の殆どは、特殊な能力や技能を持っていて個々の能力は驚くほど高いのだ。今回の敵は三百匹程度のようだが、それがたとえ五百匹だったとしても、皆ほどの強さがあれば問題なく殲滅する事ができるだろう――そう思っていた。
異変が起こったのは、戦闘が開始されてから五分ほど過ぎた頃だ。それは、悲鳴が始まりの合図だった。
後方から聞こえてきた甲高い悲鳴に何事かと振り返ってみると、そこでは魔法使いの少女が苦悶の表情を浮かべながら足首を押さえて蹲っていた。彼女は、部隊の後方から前衛の人たちを支援していた魔法使いのうちの一人だ。基本的に遠距離攻撃を得意とする魔法使いは、前衛を支援・援護する役割となるので後衛である彼女の周囲に蟲の姿はない。
(足を捻った? とりあえず、誰かを救護に向かわせないと)
そう思いながら彼女の足首へと視線を移動させて、私は絶句した。なぜなら額に脂汗を滲ませている彼女には、足首から先が存在していなかったからだ。
(どっ、どういう事!?)
それまで優勢だった私たちの間に動揺が広がる。どうして彼女がそんな怪我を負ったのか、全く分からない。彼女のいる場所は見通しがよく、近くで異変があれば一目で分かるからだ。
「とにかく、早く手当てしないと」
そう言いながら嗚咽を漏らしている少女へと駆け寄った私のクラスメイトだった人が、次の犠牲者だった。彼女は少女に駆け寄っている途中、私や皆が見ている前で履いていた靴の片方を雪の上に残して転倒した。
「――っ!」
その残された靴の中には、彼女の足首が入っていた。
肉と骨が剥き出しとなり血を滴らせている自分の足を見て、彼女が悲鳴を上げ始める。けれど、私たちは誰も動けなかった。既に、私も含めて皆の視線は彼女に向けられていない。皆が見ているのは、自分たちの足元の一点のみ。彼女が転倒する直前、私たちは見てしまったのだ。降り積もった雪の中から飛び出してきた刃物のようなものが、まるで鋏のように彼女の足首を切断するのを。
『被害状況と照らし合わせてみると数が少ない気がします』
『ひょっとして、どこかに隠れているのかしら?』
(地面の下に――)
自身とお姉さまの言葉を思い出し、全身から血の気が引く。
「っ!!」
足下の地面が僅かに沈んだのを感じてその場から咄嗟に飛び退くと、そこから飛び出してきた金属の光沢を放つ鋭い刃が私という獲物を失って耳障りな音を立てた。
「下に何かいるっ! 皆っ避けてぇっ!」
悲鳴のような私の声と、それに反応して自分たちの立っていた場所から皆が一斉に飛び退くのと、雪に覆われた大地から強靭に発達した顎を持つ蟲が獲物を捕らえようと現れたのは同時だった。
それは、鋼鉄の蟻だった。
体長五十センチほどの鋼鉄の蟻による不意打ち。それを、避ける事のできた人がいた。残念ながら、回避が間に合わなかった人もいた。
犠牲となったのは多数。それでも無様に取り乱したりしないで地面のあちこちに穴を開けながら出現してくる蟻の迎撃をすぐに開始したのは、今までに何度も戦闘を繰り返してきた賜物だろう。
(でも、分が悪い)
乱戦となれば蟲たちの方が有利だ。なにしろ奴らは同士討ちを恐れず、敵を前にすれば仲間が密集している場所であろうと渾身の力を以って攻撃してくる。そういう理由から蟲と直接戦える人たち以外は距離を置きながら戦っていたのだが、蟻の出現によってそうもいかなくなってしまった。
「できるだけ引き付けて一発で仕留める事! ……まだ……まだ……まだよ…………今っ!」
魔法使いたちの生み出した数千度にも上る炎が、己が皮膚を鋼鉄へと変えた蟻を数十匹纏めて呑み込む。
(ふうん。さすがに自分たちの命が懸かっていると、気に食わない私の指示でも従ってくれるんだ? もっとも、今の状況でそういう事を気にする余裕がないだけなのかもしれないけど)
今のように前衛と後衛が分断された場合――より正確に言うと、お姉さまが指示を出せるような状況ではない場合、お姉さまの代わりに紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)である私が指示を出す事になっていた。問題は、目障りでしかないはずの私の指示に皆が素直に従ってくれるかどうかだったのだけれど、この様子ならそれほど心配する必要はないようだ。
(そうだ、あの二人は――)
無駄だとは分かっているけれど、皆よりも先に襲われた二人の少女がいた場所へと視線を向ける。思っていた通り、そこには既に鋼の蟻が群がっていて二人の姿を確認する事はできなかった。
「……」
小さく首を振り、視線を戻す。彼女たちの事を悔やむのは後だ。今は他にやるべき事がある。
「そっち! 援護して!」
私の指示によって、蟻に囲まれて孤立しそうになった二人の魔法使いを他の魔法使いたちが援護する。自分たちの足下から蟻が出現した事によって大人数で一箇所に固まっている事ができなくなった魔法使いたちは、今の所二人一組など少人数で纏まり、お互いを援護する事で自分たちの危機を回避していた。
その一方で、魔法使いの援護を失った前衛のお姉さまたちは苦戦を強いられていた。また一人、仲間を失ってしまう。二、三度しか話をした事はないけれど、彼女はまだ中等部の三年生だったはずだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ――」
群がっている蟲たちの間から悲鳴が聞こえていたが、ものの数秒で途絶える。
(……ごめん)
彼女が前に出過ぎて孤立してしまっていた事には気付いていた。先ほどの二人と違って、救おうと思えば救う事ができただろう。でも私は、蟲に囲まれているのを見た瞬間に彼女を切り捨てた。彼女を救おうとするならば、魔法使いの力が必要だった。けれどその魔法使いたちは、蟻の相手をする事で手一杯なのだ。彼女たちの身を今以上の危険に晒してまで、たった一人を救え、なんて指示は出せなかった。
まだ耳に残っている少女の悲鳴に奥歯が砕けそうになるほど強く歯を噛み締めながら、どうする事もできなかった、と自分に言い聞かせる。たったそれだけで落ち着きを取り戻す事ができる私は、きっと心のどこかが壊れているのだろう。
(こんな私が優しい世界を取り戻したいなんて、笑えるよね。たとえ取り戻せたとしても、そこで生きる資格を私は既に失って――)
自嘲する私の思考を中断させたのは、
「全ての魔法使いは熱光線魔法の詠唱を開始」
凛とした落ち着いた声だった。
その声を聞いて、どうやらお姉さまの代行という私の役目は終わってしまったらしい、と理解する。
「私の右手側にいる者は半歩前に移動。それ以外の者はその場から動かず――」
聞こえてきた声は、私の大好きなお姉さまのものだった。
「真っ直ぐ前に向けて撃ちなさい」
狭い範囲に敵味方が入り乱れている状況で、ふざけているとしか思えない命令。けれど、皆は従う。お姉さまの状況判断能力は、他の薔薇さま方と同じく非常に高い。しかもそれだけではなく、お姉さまは他の薔薇さま方以上の、その場所に存在している者たち全てを対象とした空間把握能力を持っているのだ。
それは、空から見下ろしていれば奇跡とでも呼べるような光景だっただろう。
魔法使いの少女たちによって放たれた数十条に及ぶ熱光線魔法は、半径二十メートルという狭い空間内に敵味方が入り乱れており、またその全てが違う方向へと向けて放たれたにも関わらず、一つとして味方に当たる事なく蟲だけを撃ち貫いた。
(一瞬で戦況がひっくり返った……)
これが、私のお姉さま。紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と呼ばれる、学園――いや、この地区でも屈指の実力者。直接戦う事ができないのなら他の方法で戦えば良い、と私に、私の進むべき道を示してくれた人。
(私には勿体ないくらいのお姉さまよね。……でも、いつかきっと追い着いてみせる)
思いを新たにしながら皆の様子を探るべく周囲を見回す。
少女たちの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。けれど、もう先は見えている。先ほどの魔法攻撃であらかたの蟻は片付いたし、それによって手の空いた魔法使いたちが前衛の人たちの支援を再開し始めたから。この戦闘における勝者は私たちだ。ここで諦めてしまうような愚か者はいないだろう。
私は懸命に剣を振るっているお姉さまへと視線を向けた。お姉さまの端正な顔には他の皆と同じように疲労の色が濃く浮かんでいたが、その瞳には強い輝きが灯されている。
(お姉さまも大丈夫)
そう安心して、お姉さまから視線を外した瞬間だった。槍のように細長い影が、爆音を鳴り響かせながらとんでもない速度で私たちの間を駆け抜けたのは……。
まるで紙のように吹き飛ばされる少女たち。一秒にも満たない時間で彼女たちから今までの努力と十数年分の思い出を奪ったその影は、金属の身体を持つ蟲さえも文字通り粉砕して私から三十メートルほど離れた雪の大地に突き刺さり、轟音と共に降り積もっていた雪を舞い上がらせて停止した。
「……」
皆が皆、戦闘中だというのに動きを止めてそちらへと目を向ける。
覆っていた雪ごと抉り取られたアスファルト。その周囲には人や蟲の千切れた手足が、玩具箱をひっくり返したように散らばっていた。けれど、それらは特に気にするようなものではない。蟲との戦闘では、よく目にする光景だ。
問題は、皆の視線の先にある、まるで墓標のように大地に突き刺さっている槍のような影にあった。それは勿論、槍などではない。そこに突き刺さり絶命しているのは、大きなマッチ棒に四枚の長くて薄い羽根をくっ付けた、まるで飛行機のような形状をしている生物。
(そんなっ)
皆よりも近い場所にいた私は逸早くそれの正体に気付き、慌てて空を見上げて言葉を失った。私に続いて空を見上げた人たちも、一様に表情を強張らせる。
灰色に濁った空には、私たちに死を告げる幾つもの小さな点が存在していた。
「嫌よ……」
引き攣った顔で空を見上げていた少女たちのうちの一人が、「死にたくない」と悲痛な声を上げた。それが引き金となり、その言葉はまるで伝染病のように少女たちの間で広がっていく。
顔を蒼白にして怯え始めた彼女たちを見て、私は「ふざけるな」と吐き捨てた。
耳を澄ませば、薄い羽根を震わせている耳障りな音が聞こえてくる。空に浮かんでいる幾つもの小さな点の正体は、鋼鉄の身体に加えて人間と同程度の大きさを持つトンボだ。彼らの攻撃手段は原始的且つ単純で、己の身体を使った体当たりのみである。けれど、それを避ける事のできる人なんて存在しないだろう。なぜなら、彼らの最高速度は音速に達するのだ。
そんな彼らが、この場所を目標に攻撃を仕掛けてくる。直撃すれば、私たちなど一瞬で肉片に変えられてしまうだろう。たとえ直撃は免れても、近くを通り過ぎただけで、その速度が生み出す衝撃によって身体を引き裂かれてしまうだろう。敵味方など関係なく、ここに存在している全ての生物がそうなるはずだ。
(死にたくない? 今更何言ってるのよ。覚悟、決めていたんでしょう? 私よりずっと強いんじゃなかったの?)
場が混乱を極める中、生き残っていた蟻に向けてだろう――私の近くで魔法使いが魔法を放った。けれど、眩いばかりの輝きを放つ灼熱のそれは、あろう事か味方である他の少女に直撃してしまう。
(何なのよっ、あなたたちはっ!)
火達磨になった少女は、悲鳴を上げる事すらできずに雪の上をのた打ち回った。彼女もまさか、仲間にそんな目に遭わされる思ってなかった事だろう。炎自体はすぐに消えたが、彼女の頭髪は焼けて失くなり、身体の大部分は炭と化していた。
(私の事、ずっとお荷物って呼んでたくせにっ)
私を蔑み、直接そう呼ぶ人がいた。そうでない人も、私を見る目にはいつも侮蔑が込められていた。それでも、私と違って彼女たちには戦えるだけの力がある。そう認めていたから、今まで何を言われても耐えてきた。
(私がまともに戦えなくなったのは、全部あなたたちのせいじゃないっ!)
それなのにこの有様では、私は今まで何の為に耐えてきたのだろう。
逃げる場所なんて存在しないのに、どこかへ逃げようとする少女たち。蟷螂や蟻たちは、完全に恐慌状態に陥った彼女たちへと容赦なく襲いかかっている。
「落ち着きなさいっ!」
お姉さまが皆に向かって叫んでいるが効果は得られない。一度パニックに陥った人々を落ち着かせるのは、容易な事ではないのだ。
目の前に迫った死に少女たちが絶叫する。その中には、誰かの名を叫ぶ声もあった。きっと大切な人の名前なのだろう。
激しい土煙が上がって、あれほど強かった少女たちが木の葉のように吹き飛ぶのが見えた。引き千切られた身体の一部が雪に紛れて降ってくる。どうやらトンボが攻撃を開始したらしい。
爆音が鳴り響き、その度に爆風が巻き起こり、積もっていた雪が舞い上がる。それでも少女たちに襲いかかる蟲たち。彼らは死を恐れない。雨のような爆撃の中を躊躇する事なく前進してくる。こんな奴らに、覚悟のできていない彼女たちが勝てるはずもなかった。
「お姉さま……」
そんな中、皆を落ち着かせる事を諦めたらしいお姉さまは、たった一人で剣を振るっていた。間違いなくここで死ぬ事になるだろうに、それでも懸命に戦っていた。自分の命が尽きる直前まで、一匹でも多くの蟲を屠るつもりなのだろう。
その姿を見て、思い出した事がある。
「あなたには、私のせいで辛い思いをさせるわね」
それは、お姉さまの妹(スール)になった事によって、以前よりも口汚く罵られていたり嫌がらせを受けていた私が、お姉さまに謝罪された時の事。
「いいえ。私は、お姉さまの妹(プティ・スール)で幸せです」
お姉さまが私のお姉さまで、私は幸せだった。どんなに嫌がらせを受けても、どんなに罵られようと、私はお姉さまから受け取ったロザリオを返そうとは決して思わなかった。
「それに、謝らなければならないのは私の方です。私のせいでお姉さままで……」
姉妹(スール)になった事によって一番苦しんでいるのは、私ではなくお姉さまだろう。お姉さまは私以上に、私に対するに嘲りに耐えていた。私を妹(プティ・スール)に選んだ事によって、自分まで蔑まれていた。
それでも、
「ねえ、祐巳。私はね、どんなに状況が酷くても諦めた事がないの。どうしてなのか分かる?」
「……お姉さまが強いから、じゃないんですか?」
「いいえ、違うわ。それはね、祐巳が傍にいてくれるからよ。あなたが私に力を与えてくれるの」
「それなら、私も同じです」
「ふふっ、だったら――」
どんな時も傍にいて欲しいの、とお姉さまは言ってくれたのだ。
ああ、そうだ。私はお姉さまの傍にいなければならないんだった。お姉さまだけは、この身を盾にしてでも守ろうって決めたんだった。
その事を思い出して、お姉さまの元へと向かい始める。
少女たちの悲鳴や鳴り響く爆音なんて、私には雑音でしかなかった。身体のあちこちを撒き散らしながら次々と死んでいく仲間や蟲の事なんて、全く目に入ってなかった。
(お姉さまを守らなきゃ……)
私はお姉さまの背中だけを見ていた。お姉さまの姿しか目に入っていなかった。
(命に代えても守らなきゃ……)
だから私は、自分に近付いてくる存在に全く気付いていなかった。
「痛っ」
突然背中に強い衝撃を受けて、冷たい雪の上を転がる。転倒する直前に一瞬だけ見えたのは、半狂乱になって何事か喚いていた少女の横顔。彼女は、私よりも強くて、私を嘲笑っていた少女たちのうちの一人だった。どうやら私は、錯乱状態に陥っている彼女に突き飛ばされてしまったらしい。
(そんな有様で、今までよく私を笑えていたものね)
私を蔑んでいた彼女と同じように、遠ざかっていく背中を睨み付けながら彼女を見下す。それは、ほんの僅かな時間の出来事。けれど、そのほんの僅かな時間が私の――そして、お姉さまの運命を決めた。
少女の背中を睨み付けていた私のすぐ後ろから聞こえてきた物音。それは、何か重いものが雪を踏み締めるような音だった。
(なっ!?)
冷水を浴びせられたような感覚。全身を襲ったとてつもない悪寒に息を呑み込むよりも早く背後へと振り返り、そこに存在していた生物を見上げて悟る。
先ほどの彼女は、私を身代わりにしたのだ、と。
「あ……」
私の目の前には、走り去って行った彼女を追っていたのだろう蟷螂が、私という新たな獲物を前にして刃と化している強靭な前脚を大きく振り上げている姿があった。
(嘘でしょう?)
その前脚に、真新しい血液と鮮やかな色をした肉の欠片がへばり付いているのが見えた。
避けなければ、と考えるよりも早く、生きようとする本能が身体を突き動かす。けれど、まだ立ち上がってすらいなかった私は、それから逃れられるような状態ではなかった。
(こんな終わり方だなんて……)
ずっと馬鹿にされ続けていたが、今まで一緒に戦ってきた。彼女の事は好きではなかったけれど、それでも味方だと思っていた。戦ったり守ったりして死ぬのならともかく、身代わりにされて死ぬなんて考えた事すらなかった。
(お姉さま……私、悔しいよ……)
幾人もの仲間の命を奪った化け物の前脚が、自分に向かって振り下ろされるのをどうする事もできずに見つめていた私は、
「祐巳っ!」
私の名を叫ぶ声と共に横合いから突き飛ばされた。
鼻先を掠めるように、化け物の刃のような前脚が空気を切り裂きながら通り過ぎていく。という事は、その刃はもう私に当たる事はない。私は、眼前に突き付けられていた死から逃れられたのだ。
でも、それを喜ぶ事なんてできなかった。
(今の声――)
通り過ぎていく刃を目で追い、その先に存在する人の姿を視界に入れた時、私は悲鳴を上げていた。
「やめてぇっ!」
化け物の刃の向かう先には、私の大好きな人の姿があった。
(お願いだから――)
必死に手を伸ばしながら乞い願う。
(その人だけは殺さないでっ!)
けれど、その願いは届かなかった。私の身体は突き飛ばされた勢いで強制的に地面へと向かっていて、伸ばした手は空を切っただけだった。
「お姉さまっ」
夥しい量の血液が雨のように降り注いだ。生暖かな飛沫に視界が紅一色に染まる。
「あ……あぁっ……」
私の目の前には、首から噴水のように血を噴き出しながら力なく揺らめいているお姉さまの身体があった。その手に握られていた愛用の長剣が地面へと滑り落ちる。
「ああっ、そんな……」
私の足元に、刎ね飛ばされたお姉さまの頭部が転がってきた。凛とした笑顔の似合っていたその顔は、血と雪に塗れてしまっている。
「…………る」
お姉さまの首を刎ねた化け物が身体を反転させた。先ほど逃してしまった獲物である私の命を刈り取ろうと、お姉さまを殺した時と同じようにその前脚を大きく振り上げる。
「……てやる」
それを目にした瞬間、私の中で湧き上がったものは、
(殺してやるっっ!)
己の身を焦がすほどに熱く、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、闇よりも昏い感情だった。生まれて初めて抱いた明確な殺意と呼ぶ事のできるそれが、私の身体を突き動かす。
振り下ろされる刃を回避する事なんて考えない。身体を起こしながら体当たりするように蟲に向かって踏み込んだ。
攫われた前髪が数本、羽毛が舞い散るように落ちていく。振り下ろされた刃は私の頬を掠めて、防寒用のコートをその下に着込んでいた制服ごと切り裂いて地面へと突き刺さった。
「うあ゛あ゛あ゛あああああぁぁぁぁあああっっっ」
裂かれた頬の灼け付くような痛みに悲鳴を上げながら、伸ばした手を蟲の顔面へと突き付ける。
(今の私でも――)
感じる、僅かな世界のざわつき。
(一対一なら、お前くらい十分殺せるっ!)
私に力を貸してくれる存在が、ここに集う。
蟷螂の顔面がプチプチと音を立てて、沸騰したように幾つもの気泡を作って醜く歪んだ。私という死から逃れようと、狩人から獲物と成り下がってしまった蟲は身を捩り、鋭い前脚を滅茶苦茶に振って抵抗する。
(痛い? 苦しい? でも、絶対に許さない)
振り下ろされた刃が私の肩に突き刺さる。けれどその一撃は、着込んでいる服を裂いただけに終わった。私に与えられる苦痛からか、蟷螂の前脚にはそこから先を切断できる力なんて残されてなかった。それは、今までに何人もの人間を殺し、お姉さまの首を刎ねた蟲とは思えないほど弱々しくて哀れな抵抗だった。
(……今、楽にしてあげる)
歪んでいた蟲の頭部が耐久力の限界を超えて、青い体液を撒き散らしながら四方に弾け飛んだ。
肺に溜まっていた空気を一気に吐き出しながら、弾け飛んだ肉の破片を目で追う。粉々になりあちこちへと散らばった銀に輝く蟲の欠片は、残されていた身体ごと溶けるように崩れて綺麗さっぱり消え失せた。後に残ったのは、蟲の血液である青い染みだけだ。
(どうしてあなたたちには……)
綺麗に死ぬ事が許されているのだろう? 彼らに殺された人たちは皆、無惨な屍を晒しているというのに。
頬から流れる血が、泥と雪の混ざった大地へと落ちる。白く濁った吐息は、灰色の空へと昇っていく。
静かだった。
現在も爆音が鳴り響き、少女たちが悲鳴を上げながら死んでいるはずなのに、私の周囲だけ音が失われてしまったかのように静かだった。
足元に視線を落とす。
そこには、もう私の名を呼ぶ事はない、私を好きだと言ってくれた世界で一番大切な人の亡骸が転がっていた。
(お姉さま……)
この身を盾にしてでも守るって決めていたのに、ずっと守られているだけだった。誰に何を言われても、耐えて、耐えて、耐え続けてきた結果がこれだ。お姉さまにとって、私は最期まで足手纏いでしかなかった。私がもっと強ければ、お姉さまが死ぬ事はなかっただろう。私がお姉さまの妹(スール)として皆に認められていれば、こんな事にはならなかっただろう。私のせいだ。私がお姉さまを殺したのだ。
冷たくなったお姉さまの頭部を胸に抱いて、私は私を呪った。
いつの間にか、あれほど鳴り響いていた音が聞こえなくなっていた。舞い上がっていた雪も今はもう晴れている。
私の身体は降り続ける雪によって芯まで冷えていた。感覚の鈍くなった身体に鞭打って、未だ流れる涙を拭い積もっていた雪を払いながら立ち上がった私が目にした光景は、生きている限り忘れる事はできないであろうものだった。
動く者の気配のない、見渡す限り瓦礫の山。いったいどこの部位なのか判別できないほどに破壊された少女たちだったもの。絶え間なく降り続ける雪は彼女たちの血を吸って、まるで赤い絨毯でも敷いたように真っ赤に染まっている。
私は一人でその光景を見ていた。性質の悪い冗談か、さもなければ神様の嫌がらせとしか思えない。この戦闘での生存者は、私一人だけだった。
燃え盛る炎。空へと昇っていく煙。
私は皆の亡骸を包む炎を見つめていた。
あちこちに散らばっていた皆の身体の欠片を拾い集めながら、何度死にたいと思った事か。何度、自殺を考えた事か。でも私は、お姉さまに救われたこの命を自分の手で絶つ事なんてできなかった。
赤々と燃える炎の中には、私を身代わりにしようとした人の亡骸もある。彼女は、私がお姉さまを失った場所から少し離れた所で見つかった。
この手で殺してやりたかったほど憎かったはずなのに、彼女の亡骸を見つけた時の私は、内臓を引き摺り出された上に顔の半ばまでを断ち割られているという惨い死に様を前にして言葉を失い、ただ立ち尽くす事しかできなかった。
彼女たちの亡骸を焼いていた炎が小さくなって全てが燃え尽きた時、帰ろう、と思った。私たちの帰還を待っているはずの、優しい友人たちのいる場所に帰ろう、と。
お姉さまを失った事は辛くて悲しい。未だに涙は止まらなくて、心は悲鳴を上げ続けている。それでも、ここで立ち止まる事は許されない。だって、まだ戦いは終わっていない。この世界は今も存在している。そして、私はまだ生きているのだから。
(何で笑っているの?)
学園に戻った時、皆が私を遠巻きに見ていた。何がおかしいのか、彼女たちは皆、私を見て笑っていた。
(どうして笑えるの?)
見ていて吐き気を催すほどの笑みを浮かべたまま、少女たちが近付いて来る。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)。ああ、違ったわね。今のあなたは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になるのよね。あなたが一人で帰ってきたって事は、そういう事なんでしょう?」
彼女たちのうちの一人が、歪んでいる笑みを益々歪ませながら言った。
(私がお姉さまを失った事がそんなに嬉しいの? そこまであなたたちは壊れていたの?)
今すぐこいつを黙らせろ、と誰かが叫んだような気がした。その声が自分の声に似ているように思えたのは、果たして気のせいなのだろうか。
「蓉子さまが亡くなられて良かったわね。そんな実力も持ってないくせに、薔薇さまになれるのだから。……うん? ひょっとして」
何かを思い付いたらしい少女が、口元に厭らしい笑みを貼り付けたまま目を細める。
「蓉子さまを殺したのは、あなたなんじゃない? ねぇ、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)。そうなんでしょう? そんなにまでして薔薇さまの称号が欲しかっ――」
全てを言い終える前に、彼女の腕が肘の所で弾けた。
「ぎゃあああぁぁあああっ」
千切れた腕が何かの冗談のように宙に舞う。一呼吸遅れて、彼女が悲鳴を上げながら地面へと倒れ込んだ。
「痛いっ! 痛いっ! 痛いぃ!」
「痛い? あんな事を言えるあなたにも、痛みなんてものがあったんだ?」
今までの自分からは信じられないような言葉が、私の口から出た。
少女がのた打つごとに千切れた腕から溢れた血液が飛び散り、真っ白な雪を朱に染め上げた。
「でも、もう壊れているあなたに、そんな大層なものは必要ないよね」
短くなった腕を押さえながら悲鳴を上げ続けている少女の顔を、手加減なしに蹴飛ばしてやる。鼻の潰れる音がして、血の付いた歯が降り積もった雪の上に数本転がり――少女の悲鳴がやんだ。
「好きで姉妹(スール)になって何が悪い?」
それでも私は止まらなかった。
「私たちが姉妹(スール)になって、それであなたに何か迷惑かけた?」
彼女を許すつもりなんてなかった。私は何度も何度も彼女を嬲り続けた。
皮が剥がれて肉が剥き出しになる。飛び出した目玉が潰れて瞼からぶら下がる。私が足を振り抜く毎に彼女の頭が弾けるように後方に仰け反り、その度に真っ白な雪が彼女の血に染まった。
誰も私を止めなかった。だからきっと、私の行動は正しいんだ、ってそう思った。
「ほら、これでもう痛みなんてなくなった」
ピクリとも動かなくなった彼女の顔を踏み付けながら、「そういえば」と滑稽なほどに顔を引き攣らせている少女たちへと視線を向ける。
「あなたたちも笑っていたよね?」
優しく微笑みながら言ってやると、彼女たちは一斉に悲鳴を上げながら私の前から逃げ出した。
「……ぷっ……くくっ」
遠ざかっていく少女たちの背中を見つめながら、堪え切れずに吹き出してしまう。
「ははははっ、ばっかじゃないの?」
だって彼女たちは、私程度の相手なら一瞬で殺してしまえるほどの力を持っているのだ。それなのに逃げた。「足手纏い」と蔑んでいたはずの私の前から、我先にと逃げ出したのだ。これを我慢するなんて、そんな事できるはずがない。
「あははははは、くふふふははははは」
おかしくておかしくて堪らなかった。腹を抱えて、はしたなく笑い続ける。さすがに雪の上を転げ回ったりはしなかったけれど、笑い過ぎて涙まで出てくる始末。
そうやって息も絶え絶えに、まるで気が狂ったように笑っていると、
「祐巳さんっ!」
私の名を呼ぶ、聞き覚えのある声が耳に届いてきた。
「ははは……はぁ、はぁ。はぁ――――あ。ふぅ、苦しかった」
目尻に溜まっていた涙を拭い、乱れに乱れていた呼吸を整えてから声の聞こえてきた方へと身体を向ける。そこには、白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)にしてクラスメイトでもあり、また友人でもある藤堂志摩子さんが苦しそうに肩を上下させている姿があった。おそらく、私が一人で帰ってきた、と誰かから報せを受けてここまで急いで来たのだろう。
「ただいま、志摩子さん。見れば分かると思うけど、生き残ったのは私だけなんだ。お姉さまも他の人たちも、皆死んじゃったの」
淡々と告げた私に志摩子さんが眉根を寄せる。お姉さまを失ったとは思えないほどの落ち着きを見せる私に対して、何かしらの疑問を抱いたらしい。
私の顔をじっと見つめながら、
「祐巳さん……よね?」
真顔でとても不可思議な事を尋ねてくる。
「あはっ、おかしな志摩子さん。私が他の誰かに見えるの?」
逆に尋ねてやると、志摩子さんの視線が私から、私の足元に転がっている少女へと向けられた。
「その子は……?」
「これの事?」
血塗れの少女を指差しながら簡潔に答えてやる。
「悪い子だから躾けてあげたの」
少しやり過ぎちゃったみたいだけど、と苦笑いすると、志摩子さんの瞳が大きく揺らいだ。
「いったい……どうしてしまったの? あなたに何があったの? お願い祐巳さん。きちんと話して」
戦場で私が体験した事を知りたいという志摩子さんの言葉に、「別に」と顔を俯ける。
「私が弱かったからお姉さまを失った。それだけよ」
視線の先には赤黒く汚れた皮靴。黒一色だったはずの私の靴が、なぜ赤黒い?
口元に三日月形の笑みが浮ぶ。
「でもね、そのお陰で気付く事ができたんだ」
元がどんな顔だったのか、すっかり分からなくなってしまった少女を見下ろしながら嗤う。
「どいつもこいつも壊れているから、言葉だけじゃ届かないんだって」
しんしんと降り続ける雪を手のひらで受け止めながら嗤う。
「力尽くで従えるしか方法はないんだって」
煙となったお姉さまたちが昇って消えた空を見上げる。
(でも)
たくさんの雪が私に落ちてくる。降ってくる雪の向こうには灰色の空があって。
(本当にそうなのかな……)
どうしてだろう。私にはその灰色が幾重にも滲んで見えた。
きっと、正して欲しかったんだと思う。お姉さま以外の心を許していた友人に。自分ではもう、何が正しくて何が間違っているのか、分からなくなってしまっていたから。
「ねえ、志摩子さん」
縋るように志摩子さんへと視線を向ける。
「他に方法があるのなら、私に――」
教えて欲しい、と続けようとしたのに言葉にならなかった。代わりに、「何で……」という力のない言葉が震える唇から出てくる。
「何よ、それ」
気付かなければ良かったのに、気付いてしまった。志摩子さんが、まるで化け物でも見ているかのような目をして私を見ている事に。それは、私を前にして逃げ出した、あの少女たちと同じ目だった。
「やめて……よ」
彼女はその美しい瞳に血で汚れた私を映して、身体を小さく震わせながら怯えていた。
「やめてよっ! どうしてそんな目で私を見るの!」
数少ない友人の一人である彼女に、そんな目を向けられたくなかった。きっと何かの間違いだって、そう信じたかった。
けれど――。
私の叫び声に、自分が何をしてしまったのか、ようやく気付いた志摩子さんが慌てて取り繕う。
「違うのっ! 私は、その……」
私から目を逸らしながら。私という化け物から目を背けながら。
こんな人に縋ろうとしたのかと思うと、悔しくて堪らなかった。こんな人を今まで信じていたのか、と自分の愚かさに吐き気まで催した。彼女と私を繋ぐ大切な何かがプツリと切れてしまった。
「もういい……」
溢れる涙を見せまいと顔を俯かせる私に、「待って」と志摩子さんが手を伸ばしてくる。
「言い訳なんて聞きたくないっ」
「あっ」
その手を強く払い除けると、よろけた志摩子さんが体勢を崩して地面に倒れ込んだ。
真っ白な雪は静かに降り続ける。私と志摩子さんの上にも落ちてきて積もっていく。罪も同じだ。まるで雪のように重なり積もっていく。
子供が親に縋るように、私を見上げてくる志摩子さんを見下ろす。
「あなたなんて友達じゃない」
「――」
私の言葉によって、志摩子さんの表情に深い絶望の色が刻まれた。
それを目にしても私の心はちっとも痛まなかった。それどころか、余計に腹が立つ。どうして彼女がそんな表情を浮かべる? その表情を浮かべる事が許されるのは、私の方のはずだ。
「でもね、志摩子さんには感謝しているんだよ?」
ぼんやりと、どこか遠くを見ているような彼女に近付き、凍えて赤くなっているその耳元で囁いてやる。
「他人なんて信じるだけ無駄なんだって、私に教えてくれたんだから」
彼女の美しい双眸が大きく見開かれ、そこから零れる涙を見た私は昏い笑みを深めた。
お姉さまと出会い、短い間ながらも至福の時を過ごしたこの学園には、たくさんの思い出が残っていた。
薔薇の館。古びた温室。音楽室や図書館。体育館もそうだ。お姉さまと母が愛していたこの学園は、どんな事をしてでも守ろうと思う。けれど、この学園に存在する、他人の足を引っ張る事しかできない蟲以下の奴らはどうでもいい。
あの忌々しい虫ケラ共も、私の邪魔する人たちも、私やお姉さまを蔑んでいた糞みたいな奴らも、その全てが私の敵だ。しかし、残念ながら生まれた時から備わっていた特殊な力は殆ど使えない。あの戦闘で私が生き残れたのは奇跡だ。今の私は誰よりも弱い。だから、強くなろう。お姉さまのように。何十回も何百回も戦闘を繰り返せば、こんな私でもきっと強くなれるはずだ。
いつしか皆が私を「化け物」と呼ぶようになった。
それで良い。私は化け物だもの。
皆が私を「壊れている」と指差す。
それでも良い。本当の事だもの。
弱さなんていらない。
痛みなんていらない。
優しさなんていらない。
誰も信じない。
そうすれば――。
私の心は痛まない。
傷付けられても傷付かない。
ねえ、お姉さま。
私はもう大丈夫だよ。
痛みなんてなくなったから平気だよ。
どんなに傷付いても平気だよ。
お姉さまを失ってから一年が経った。私は今日も戦場へと向かう。
この身に死が訪れるその瞬間まで、私は私の敵を壊し続けてやる――いつものように、そう心に誓いながら。
*
「この私が、お姉さまを殺したのよ」
「祐巳さまが……殺した?」
歪んだロザリオを見て目を見開いている瞳子ちゃんに、祐巳は「ぷっ」と吹き出した。
「なーんてね。冗談に決まってるでしょ」
「え? 冗談って……なっ、何ですか、それは!」
眼光鋭く祐巳を睨み付けながら瞳子ちゃんが怒鳴る。おそらく今の瞳子ちゃんが浮かべている表情は、彼女の持っている幾多の表情の中でも最も怖いものに分類されているものだと思われる。
私じゃなかったら泣いてるかもね、と祐巳は苦笑いを浮かべた。
「まさか本気で信じてくれるとは思わなかったよ。瞳子ちゃんって純粋なんだね」
「くっ、少しでもあなたを信じた私が馬鹿でした」
では、今日から密かに馬鹿と呼ぶ事にしよう、と瞳子ちゃんを生温かな眼差しで見つめる。
「不快な視線を感じます」
「それはきっと、私じゃないと思うよ」
「へえ、そうですか」
睨むのはやめようね。可愛い顔が台無しだよ。ほら、笑って笑って。笑え! と念力を送ってみると瞳子ちゃんが眉を顰めた。
「何をしていらっしゃるんです?」
「いや、瞳子ちゃんを笑わせてみようかと思って」
「確かにおかしな顔をされていますが、普段とあまり変わりませんね」
意地悪そうに唇の端を吊り上げながら瞳子ちゃんが言う。
非常に腹が立った。言い返せない自分に。
*
「ちょっといい?」
放課後になったと同時に由乃さんから声をかけられる。話を聞くと、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が祐巳を呼んでいるらしい。
何でも、志摩子さんを除く山百合会のメンバーが薔薇の館に集まって昼食を食べている所に、真美さんが写真の件で訪ねてきたとか。という事は、祐巳に写真を返した後、彼女はすぐに薔薇の館へ向かったのだろう。さすがは真美さん仕事が早い、と感心するついでに三奈子さまのしょんぼりしている顔が思い浮かんだ。
それから美人で朝に弱い人としか認識していなかった祥子さまについても、いつかは呼び出されるだろうな、と考えてはいたのだけれど、こんなに早いとは思ってなかったので、なかなかのやり手のようね、と少しだけ感心した。
由乃さんに案内されながら、見慣れたレンガ道を通って薔薇の館へと向かう。そういえば、初日の探索時にはこちらへと足を進めなかった。校舎から見えるのに、わざわざ足を運ぶ事もないだろう、と思ったからだ。それに、用もないの尋ねるには少し気が引ける場所でもある。
「写真、見付かって良かったわね」
「だからといって、すぐに騒ぎが収まるわけじゃないと思うんだけど」
由乃さんに話しかけられて、祐巳は溜息混じりにそう返した。でも、悲観はしていない。その事については、かわら版で訂正される事によってある程度は鎮静されるだろうから。
「そういえば、由乃さんってお昼はいつも薔薇の館で摂ってるの?」
祐巳がこの世界に来て三日経つが、由乃さんが教室で昼食を摂っている姿を見た事がない。彼女はいつも昼休みを告げるチャイムが鳴ると、お弁当片手に教室から出て行くのだ。
「いつも、ってわけじゃないわ。今は生徒会役員選挙が間近だから、そうなる事が多いだけ」
立ち会い演説会での演説内容を考えているそうだ。確かに、薔薇の館なら静かだし、そういった考え事に適した場所だと言える。また、お姉さま(グラン・スール)の黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)にアドバイスをもらったりもしているらしい。
「素晴らしい演説を期待しておくね」
「余計なプレッシャーかけるのはやめてよね」
祐巳の一言に由乃さんが心底嫌そうな顔をした。
その後も適当に会話しながら歩いていると、ようやく薔薇の館が見えてきた。
薔薇の館とは、高等部校舎の中庭の隅にある、教室の半分ほどの建坪を持つ古ぼけた木造二階建ての建物の事だ。この建物は山百合会が管理していて、幹部である薔薇さま方が生徒会の仕事をしている場所でもある。
「祐巳さんは、ここに来るのは初めてよね」
「うん。だから、凄く緊張してる」
「……そうは見えないんだけれど」
そりゃ、緊張なんてしてないし。由乃さんってば結構鋭いね。そんな失礼な事を思っていると、由乃さんが扉の前で立ち止まって咳払いをした。
「ようこそ薔薇の館へ」
それ、同じような事を真美さんが言ってたんだけど流行っているの? とは聞かないであげた方が良いのだろうか、と密かに悩む。別に悩まなくても良いのかもしれないが。
「さ、入って入って」
「入るのは良いんだけど、何で手を握るの?」
僅かに戸惑いながら視線を落とす。祐巳の手は、由乃さんの手によってガッチリとロックされていた。
「いいからいいから、そんな事は気にしない」
強引に手を引かれて足を踏み入れる事になった館の内部は、外観と同じくやっぱり古ぼけていた。一階は小さな吹き抜けのフロアで、入り口から見て右側には扉があり、左側にはやや急勾配な階段がある。
(やっぱり構造も向こうの世界と同じなんだね)
という事は、そこの階段を上り切って右手側にある部屋が会議室のはずだ。
手を引かれたまま階段を上り、思っていた通りの場所にある扉の前に来た所で、由乃さんがようやく祐巳から手を離した。そのまま、なぜか祐巳を見つめてくる。
「どうしたの?」
「祥子さまに呼び出されたのを怖がって逃げ出すかな、って思っていたんだけれど、そんな心配は必要なかったみたいね」
「ああ、それで手を握っていたんだ? てっきり私に気があるのかと思ってた」
「どうしてそうなるのよ」
疲れたように溜息を吐きながら、由乃さんがビスケットに似た扉をノックする。返事はなかったけれど、由乃さんは構わずに扉を開けた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
由乃さんに続いて祐巳も挨拶をしてから部屋へと足を踏み入れる。
階段や廊下と同様に板張りの壁や床。廊下側を除く三方の壁に一つずつ木枠の出窓があり、そこには清潔そうなコットンのカーテンがかけられていた。
部屋の中央には割と大きな楕円テーブルがあり、そのテーブルの横に昨日見た美女が一人で立っていた。その美女が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)――つまり、瞳子ちゃんのお姉さま(グラン・スール)になるかもしれない小笠原祥子さまだ。ただそこに立っているだけなのに気品が溢れて見えるのは、持って生まれた資質か。それとも、努力によって身に付けたものなのだろうか。どちらにせよ羨ましいものだ。
「ごきげんよう。あなたが福沢祐巳さんね」
「はい」
祐巳の返事を聞いて祥子さまが頷き、椅子に座るように促してきた。素直に従って綺麗に並べてある椅子の一つに座る。机を挟んで祥子さまの対面にある椅子だ。わざわざ端の方にある椅子に座るとか、出窓に腰掛けるとか、妙な捻りは入れない。
祐巳が座ると、部屋の隅に控えていた由乃さんがお茶を淹れる準備を始めた。と言っても、電気ポットからお湯を注ぐだけ。どうやら祐巳たちが来るよりも先に、祥子さまが水を足していたらしい。これには驚いた。見た目お嬢様然としていて、そんな事をするような人には見えなかったから。
祐巳が妙な感心をしていると、
「祐巳さんも紅茶で良い?」
カップを片手に由乃さんが尋ねてきた。『祐巳さんも』という事は、祥子さまも紅茶なのだろう。
「うん。でも、お砂糖を少し多めにもらえる?」
「分かった」
祐巳と祥子さまの前に、由乃さんが紅茶の入ったカップを置いた。祐巳の所には袋入りの砂糖が二つとスプーンが一緒に置かれる。祥子さまは、どうやら砂糖を入れないらしい。そういう主義なのか、たまたまなのかは知らないが、机の上にはカップしか置かれていない。
そんなどうでもいいような事を観察をしていると、祐巳の隣にある椅子に由乃さんが腰を下ろして、それが合図だったかのように祥子さまが口を開いた。
「こうして、まともに話すのは初めてね」
あの時あなたは寝惚けていたそうですからね、とは言わない方が良いだろう。この美女が、怒るとどんな顔になるのか興味があったりするのだけれど、話を円滑に進めるためにここはぐっと我慢しておく。
「そうですね。まさか紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だとは思ってなかったので、後で知って驚きました」
「驚いたのは私も同じよ。まさか写真に撮られていたなんて思いも寄らなかったんだもの」
「写真を撮られていた事については私も祥子さまと同じなんですけど、その写真がかわら版に使われたのは私が落としてしまったせいです。ご迷惑をおかけしました」
祐巳は座ったまま深々と頭を下げた。今回の場合、間違いなく祥子さまは被害者である。もっとも、今回の騒ぎの原因の一人でもあるのだが。なぜなら、祥子さまが祐巳のタイを直したりしなければ、こんな騒ぎが起こったりはしなかっただろうから。でも、その事を指摘したりはしない。悪気があったわけではないんだろうし。
「気にしなくても良いわ。記事にされた事についても、嫌な気分ではなかったから」
「え?」
嫌味の一つでも言われるかと思っていた祐巳は、祥子さまの言葉に驚いてしまう。
「本当に、気分を害されてはいないんですか?」
「ええ」
頷く祥子さまを見つめながら、甘い人ね、と表情には欠片も出さずに思った。だって、祥子さまは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)。今回の騒ぎを引き起こした祐巳に対して、もっと厳しくしても良いはずだ。
「祥子さまは、いつも昨日みたいに下級生のタイを直しているんですか?」
「いいえ、普段はあんな事はしないのよ。あの時は……」
祥子さまが言葉を区切り、迷いの表情を浮かべる。それを見て、祐巳はピンときた。おそらく瞳子ちゃんが言っていたあの事だ、と。
(告げ口するみたいで嫌なんだけど、この程度じゃ怒らない、って言ってたし……)
祥子さまの妹(スール)候補である瞳子ちゃんのお墨付きだ。祐巳がここでその事を喋っても、後で彼女が叱られるような事にはならないだろう。ここは瞳子ちゃんを信じてそれを口にする。
「朝に弱い、と聞きましたけど」
「……どうしてその事を?」
祥子さまのキョトンとした顔。きっとレアな表情だ。蔦子さんがこの場にいれば、泣いて喜びながらカメラのシャッターを切ったに違いない。
「瞳子ちゃんから聞きました」
「瞳子ちゃん? それって、松平瞳子ちゃんの事かしら」
名前を聞いて、すぐに自分の妹(スール)候補の事だと分かったらしい。というか、分からなかったら姉(スール)になる資格などないだろう。
「そうです。実は一昨日、ちょっとした事から知り合いまして、それから仲良くさせてもらっています。と言っても、瞳子ちゃんの方がどう思っているのかは私には分かりませんが」
祐巳がそこまで言った時、祥子さまが元の穏やかな笑顔を浮かべた。
「私が朝に弱い、と言ったのは瞳子ちゃんなのよね?」
「はい」
「それだけあなたに気を許している、という事ではないかしら。そういう事を誰にでも話すような子ではないもの」
そうなのだろうか。嫌われているとは思わないのだけれど、よく分からない。
「瞳子ちゃんの事、叱らないでくださいね」
「この程度の事でいちいち叱ったりしないわよ」
「それは良かった」
後で瞳子ちゃんに文句を言われなくて済みそうだ、と祐巳が胸を撫で下ろしていると、祥子さまが不意に表情を引き締めた。何か大切な事を話すみたいね、と雰囲気を読んだ祐巳も背筋を伸ばす。
「その瞳子ちゃんの事なのだけれど」
「何か?」
遂に姉妹(スール)になったとか? それなら「おめでとうございます」くらいは言ってあげなければ、と思っていたのだけれど、祥子さまの口から出てきたのはそれとは全く逆方向の言葉だった。
「私とは姉妹(スール)にならないと思うわ」
「は?」
祐巳は呆気に取られた。隣で祐巳たちの話を聞いていた由乃さんは、ちょうど紅茶に口を付けていた所だったらしくて激しく噎せいでいる。さすがに今の祥子さまの発言は、由乃さんにも予想外だったらしい。
鼻からは出てないから乙女としてはセーフよ! と由乃さんを応援していると、
「ケホッ。それは……ケホッ、今ここでおっしゃるような事ではないと思います」
無理やり自身を復活させた由乃さんがケホケホ咳き込みながら祥子さまに言った。
(うんうん、そうよね)
祥子さまが何を考えてあんな事を口にしたのかは知らないが、由乃さんの言う通りだと思う。だって、ここには祐巳がいる。もしかすると、今ここで聞いた事を誰かに言いふらすかもしれないのだ。
(でも、もう聞いちゃったし。今更だよね)
それに、面倒事に巻き込まれるのは嫌いなのだけれど、今の祐巳は好奇心の方が勝っていた。
「姉妹(スール)にならない、というのは、瞳子ちゃんを妹(スール)にする気がない、という事ですか?」
「逆よ。瞳子ちゃんが私の申し込みを断るの」
祥子さまが答えた所で、由乃さんから刺すような視線を感じた。これ以上余計な事は聞くな、という事だろう。悪いんだけれど無視する。
「って事は、もう瞳子ちゃんに申し込みはされているという事ですよね?」
聞かなくても知っているし、先ほどの『瞳子ちゃんが私の申し込みを断るの』という祥子さまの言葉は、既に瞳子ちゃんに申し込みをしている、と言ったも同然なのだが、瞳子ちゃんとの約束を守るために祥子さまの口からはっきりと聞く必要がある。
「ええ、申し込んでいるわ」
一昨日の瞳子ちゃんとは違って、あっさりと頷く祥子さま。これで、瞳子ちゃんとの約束を破る事なく会話を続けられる。
「どうして断られるなんておっしゃったのかは分かりませんが、それにしては平然とされていますね」
普通、妹(スール)に、と選んだ相手が自分の申し出を断ると分かっているなら気落ちしたりするものだと思っていたのだけれど、祥子さまからはそういうものが全く感じられない。
「それは瞳子ちゃんに申し込んだ理由が、私が山百合会の幹部だから、というものだからだと思うわ」
「申し訳ありませんが、意味がよく分かりません」
祐巳が告げると、自分でも説明が不十分だと感じていたのだろう祥子さまが「私としては妹(スール)なんて作る気はなかったのだけれど、山百合会の幹部としては瞳子ちゃんに薔薇さまを継いでもらいたい、という事よ」と付け足した。
確かに、一年生とは思えないほどしっかりしていて非常に好感の持てる少女だ。山百合会が彼女を欲しがるのも分かる。
「なるほど。それで、まだ妹(スール)を持たれていなかった祥子さまが申し込まれた、というわけですか」
「そういう事よ」
それならば、祥子さまが平然としているのも頷ける。小笠原祥子個人としては瞳子ちゃんの事を必要としていないから、断られても痛くも痒くもないのだ。
「瞳子ちゃんにはその事を?」
「申し込んだ時に伝えたから、知っているわ」
瞳子ちゃんが答えを保留しているのは、間違いなくそれが原因だと思う。自分の好きな人にそんな理由で申し込まれても、素直に「はい」なんて言えるはずがない。
「だから瞳子ちゃんは答えを先延ばしにしているの。このまま私の妹(スール)になるべきなのか、と」
祥子さまもそれは分かっているらしい。
「どうして妹(スール)を作る気がなかったんですか?」
祐巳の質問に祥子さまは神妙な顔つきで瞼を閉じ、一呼吸置いてから答えた。
「いない、と感じたからよ」
「はい?」
何を言ってるんだこの人は、と祐巳は眉を顰めた。
「ここには私が妹(スール)にしたいと思える相手がいない。そう感じたから妹(スール)を作る気がなかったの。ただ、それだけよ。おかしいかしら?」
クスリと笑う祥子さま。
ええ、おかしいです。そう思いながら、自分と同じ事を聞いて驚いているはずの由乃さんを盗み見る。ところが祐巳を止める事を諦めて静観を決め込んだらしい由乃さんの表情に、面白い変化は見られなかった。おそらく以前に聞いた事があるのだろう。その時は、どんな顔をしたのだろうか? 見たかったな、と残念に思った。
(それにしても、妹(スール)にしたいと思える相手がいない、ねぇ)
ここがこんなにも優しい世界だから、そんな事が言えるのだろう。もし可能であれば、あの滅ぶ事しか残されていない世界へと招待してやりたい。自分がどれだけ恵まれているのか、思い知らせてやる事ができるだろう。
「そんな事を私に話しても良いんですか。誰かに言いふらすかもしれませんよ」
「その事については心配してないわ。あなたはここでの事を誰にも話したりはしない。違う?」
「どうしてそんな事が言えるんです?」
祐巳の視線と祥子さまの視線が正面からぶつかり合う。
勘とか、それに似た根拠のない理由を述べるようなら馬鹿にしてやろうと思っていたのだけれど、
「あなたが、私に対して借りがあるから」
この朝に弱いお嬢様は、美人なだけではなく頭も相当切れるらしい。意地悪く微笑んでいる祥子さまに、祐巳は舌を巻いた。
祥子さまの言った「借り」とは、祐巳が写真を落とした事によって起きた今回の騒動に祥子さまを巻き込んでしまった事だ。しかも、それによるお咎めも一切なかった。
(今の状況を見越していたって事? もしそうなら評価を変えた方が良いわね)
それから、今は大人しくしているけれど、由乃さんという存在にも注意したい。同じクラスで行動を共にする事の多い彼女は、もしも祐巳があれこれと言いふらしたとしても、すぐにフォローできる立場にいるのだ。
(抜け目がないわね、祥子さま。まるで、お姉さまを相手にしているみたいだわ……)
何食わぬ顔で祐巳を困らせていた人を思い出しながら、嘆息すると同時に肩の力を抜く。
「もう一つ。言いふらすと瞳子ちゃんを巻き込むから、と付け加えておいてください」
個人的な妹(スール)としては全く必要とされていない妹(スール)候補、なんて噂になったら、瞳子ちゃんは良い気がしないだろう。案外ムキになって祥子さまの妹(スール)になろうとするかもしれないけれど。
「優しいのね」
「他人に迷惑をかけるのが嫌いなだけです。ですから、ここでの話を言いふらすつもりはありません。借りもありますし、好き好んで余計な騒ぎを起こす趣味もありませんから。約束しても良いです」
「良い返答だわ」
満足したように微笑む祥子さま。
なーんだ。せっかく見直してあげたのに最後の最後で甘いのか、と呆れる。他人なんて口ではどう言っていても、心の中では何を考えているのか分からないのに。信じていても、裏切られるかもしれないのに。
(でも……)
微笑んでいる祥子さまを見て、こんな風にも思う。
この優しい世界であれば、甘くても良いのかもしれない、と。
「あんな祥子さま、初めて見た」
祥子さまとの会話を終えて見送ってくれるらしい由乃さんと一緒に部屋を出ると、不思議そうな顔をしながら彼女が言った。
「どういう事?」
「いつもは、もっとピリピリしているのよ。というか、そうではない日はないわね」
由乃さんはそう言うが、今日初めて祥子さまとまともに会話をした祐巳にはピリピリしている彼女の姿なんて全く想像付かなかった。というか、あんなに甘い人が普段はピリピリしているっていう方が信じられない。
「それなのに今日の祥子さま、凄く穏やかな顔してた」
「ふうん」
穏やかだろうがピリピリしていようが祐巳にとってはどうでもいい事なので適当に流していると、由乃さんが急に真顔になる。これにはちょっぴり驚いた。ここ数日行動を共にしている由乃さんの、こんなに真面目な表情なんて見た事がなかったから。
いったいどうしたのだろう、と身構えてみるが、
「祥子さまと話している時、私が祐巳さんを止めようとしていた事に気付かなかった?」
そう尋ねられて「ああ、その事か」と脱力してしまう。身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
「余計な事は聞くなって、私を睨んでいた事なら気付いてたよ」
あそこまであからさまな視線を向けられて気付かないはずがない。さも当然のように答えてあげると、由乃さんが非常に分かり易く不満顔になった。
「それってつまり、無視したって事よね。どうして?」
「気になったから」
「は?」
美少女らしからぬ間の抜けた顔を披露してくれた由乃さんに、それでこそ由乃さんだわ、と心の中で賞賛を贈る。
「それだけ?」
それ以上に何があるというのだろう。もしも何かあるというのなら教えて欲しい。びっくりしてあげるから。
「何事も気になったらはっきりさせておかないと気が済まない性格なんだよね」
「……」
由乃さん、俯いて何事かを思案中――と、何か思い付いたらしい。急に顔を上げる。
「本当に祥子さまとは偶然会っただけなの? 何か隠している事があったりしない?」
残念ながら期待されるような事は本当に何もないのだ。
「実は、私の身体からは絶えず癒しの効果が溢れ出ているの。祥子さまはその虜だったりするんだ。由乃さんも私と一緒にいて癒されているような気がしない?」
「館の外まで案内するわ。そこからなら帰れるわよね?」
「酷いっ」
私の渾身のボケを流すなんて。それと、どこからでも帰れますぅ。
由乃さんと別れの挨拶を交わし、帰宅するために中庭を歩いていた祐巳は不意に違和感を覚えて立ち止まった。キョロキョロと首を動かして周囲を見回してみるが、おかしなものは見当たらない。
(気のせい? でも……)
確かに違和感を覚えた。そして、こういう時の自分の勘はよく当たるのだ。つい先日この世界に飛ばされてきた時もそうだった。もっともあの時は、異世界に飛ばされたという事に気付けなかったのだけれど。
今一度、自分を信じて注意深く周囲の様子を探ってみる。一定の間隔を空けて並んでいる棕櫚の木。その棕櫚の木の後ろに見える校舎。それらには不審な点は全く見当たらない。
振り返ると薔薇の館が見える。祥子さまたちとつい先ほどまで一緒にいた場所だ。当然のように、そちらにも不審なものは何一つとして見当たらなかった。
一見、普段と何の変わりもないリリアン女学園。けれど、祐巳はおかしな所を見付けていた。
(やけに静かだ。おまけに人の姿が全く見当たらない)
いくら放課後になって時間が経っているとはいえ、人の姿が全く見当たらないのはおかしい。この時刻なら、まだ部活動をしている生徒だっているはずなのだ。
(どうやらまた何か厄介事に巻き込まれたみたいね。これ以上の不思議体験はもう遠慮しておきたい所なんだけど)
現在進行形で体験中なんだし、と耳鳴りがしてくるほどの静寂の中で一人嘆いていた祐巳は、
「祐巳さん、久しぶりっ」
と背後から突然声をかけられた。
本来なら飛び上がりながら「☆×■◎※△――!?」なんて意味不明な悲鳴を上げても良い所なのだけれど、祐巳は微動だにせず、そればかりか振り返ろうとすらしなかった。
無論、驚いていないわけではない。全く気配を感じなかった上に、いつの間にか背後を取られていたのだ。驚かない方がおかしい。それでも悲鳴を上げたり振り返ったりしなかったのは、聞こえてきた声に祐巳に対する敵意というものが全く感じられなかったから。
そして何よりも、
「なーんだ、つまんない。祐巳さんの事だから、飛び上がって驚いていてくれるものだと期待してたのに」
その敵意はなくても悪意はあったらしい声が知っている人のものだったから、祐巳は背後を取られても慌てる必要がなかったのだ。
「期待を裏切ってごめんね。それから、てっきり冗談だと思っていたんだけど本当に神様だったんだ?」
「そう言ったじゃない。祐巳さんって顔に似合わず疑り深いんだから」
彼女の声と『久しぶりっ』という言葉から、背後にいる人物が誰なのかを特定するのは容易だった。なにしろ彼女は祐巳が一年生の頃のクラスメイトで、短い間だったけれど交流のあった人だから。
「確かに聞いた覚えはあるけど」
あちらの世界がまだ平和だった頃、「実は私、神様だったりするのよ。どう? 凄い?」とお弁当を食べながら言っていた元・クラスメイトの姿を思い浮かべる。
「食事中に突然あんな事を言われても、普通は誰も信じないと思うよ? というか、信じると思う方がどうかしてると思う」
実際に祐巳も、変わった人だな、今度からあまり近寄らないようにしよう、としか思わなかった。
「あの時の鳩が豆鉄砲食らったような祐巳さんの顔は最高に面白かったわ」
「でも残念ながら、私の背後にいる人以上の面白い顔はできないんだよね」
「……言ってくれるじゃない」
声のトーンを一段下げて不快感を露わに言ってくる。でも、声だけだ。彼女はきっと笑っている。以前と同じように、何を考えているのか分からない笑顔を浮かべているはずだ。
できる事なら相手なんてしたくないんだけどなぁ、と長い溜息を吐き出しながら祐巳は背後へと振り返った。
「ごきげんよう、桂さん。相変わらず冴えない顔してるね」
そこには、祐巳の記憶にある通りの同級生の姿があった。
「ごきげんよう。そういう祐巳さんこそ代わり映えのしない狸顔してるわよ」
桂さんは、祐巳の余計な一言に言い返しつつも満面の笑みを浮かべている。それは以前と変わらない笑顔で、そこからはやはり何を考えているのか全く読み取る事ができなかった。
「どうしてここにいるの?」
「祐巳さんに会いたかったから」
ふざけているのか、真面目に答えているのか、判断に苦しむ。別に真面目に苦しまなくても良いような返答ではあったのだけれど。
「ふうん、そうなんだ。会えて良かったね、おめでとう」
「ツレナイわね。友達なのに」
「友達? いつから?」
確かに交流はあったのだが、そんなに親しくしていた覚えはない。会話をしたのが数回で、一緒に食事したのが一度だけだ。他に何かあったかな? と祐巳が記憶を遡っていると桂さんが口を挟んできた。
「言い直すわ。余所の世界では友達なのよ」
「そうなの?」
「段々と忘れられていく程度の仲だけど」
「は?」
「私は祐巳さんの事が大好きだから、祐巳さんが困っていると必要以上に手助けしちゃいそうになるのよね。だから殆どの世界に於いて、できるだけ祐巳さんと顔を合わせないようにしているの。と説明してみた所で――」
祐巳さんは何の事か理解できないんだろうなぁ、と続ける桂さん。確かに、祐巳には全く理解できなかった。だからといって、理解できるように努力しようなどとは全く思わなかったが。
「えっと、何が何だかよく分からないんだけど、とりあえず」
自分では到底辿り着けないであろう遥かな高みに辿り着いているらしい桂さんを、眩いものを見るように目を細めて眺める。
「私が思っていた以上に、桂さんが変人だという事は分かった」
「酷いわね。いくら私でも面と向かって変人なんて言われると傷付くわよ」
言葉とは裏腹に桂さんは笑顔のままだ。その笑顔からはやはり、思考や感情といったものを読み取る事はできなかった。
「ごめんね。まさか桂さんに、傷付くような繊細な心があるとは思ってなかったんだ」
本当に厄介な人ね。そう思いながらも皮肉を交えた軽口は忘れない。
「それなら仕方がないわね。本来なら許してあげない所なんだけど、祐巳さんの事愛しているから特別に許してあげる」
「優しいね桂さん。今まで黙っていたけど、実は私もあなたの事愛していたの。だからさ、下らないお喋りはここまでにして、そろそろ用件を話してもらえる?」
本当に神様なのかどうかは別として、明らかに只者ではない彼女が人の姿の見当たらないこの不思議な空間でわざわざ接触を図ってきたのだ。何かしらの用件があると考えるのが妥当だろう。
「さすがは祐巳さん。頭の回転が早いと話も早くて助かるわ。でも、さすがにこれは知らないんじゃない?」
「何を?」
ちゃんと何の事か話してから尋ねてよ、と思うのは祐巳だけではないはずだ。
「第二世界を滅ぼしたのが、神様って事」
「へ?」
どこから話が繋がったのか。或いは飛んだのか、曲がったのか、逸れたのか。若しくは、まともに会話をする気がないのか。全く予想してなかった言葉に祐巳は一瞬呆けてしまう。
「……あ、えっと、神様が滅ぼした?」
「そうよ。第二世界は、あなたたちが軸と呼んでいる世界は勿論の事、そこから枝分かれして存在していた数多の世界も、一つ残らず神様によって滅ぼされたの」
「ふうん、あっそ。で? それがどうしたって言うのよ。そんな事、私には全く関係――」
ない、と言いかけた所で気付いてしまう。今まさに滅びようとしている世界を祐巳は知っていた。
「まさか……」
本当に笑っているのか、そうではないのか。桂さんは最初に姿を現した時と同じ笑顔で祐巳を見つめている。
「あの世界も?」
「ええ、その通りよ」
桂さんが満足したように頷き、ざわり、と世界がざわついた。
「ふ……ふふふふっ、桂さんったら。冗談を言っちゃ駄目な所で言っちゃったりすると、長生きできなくなるよ?」
ごく自然に険しくなった眼差しで桂さんを見る。祐巳の握った両の拳は小さく震え、皮膚が裂けてしまいそうなほどに突っ張っていた。
「冗談? ここで冗談を言う必要がないわ。あなたのいた世界も神様が滅ぼそうとしている。これは事実よ」
祐巳の刺し貫くような視線を受けながらも、動揺する事なく淡々と告げる桂さん。その口元がここにきて初めて、とても分かり易く愉しそうに釣り上がった。
「そして、あなたの大切なお姉さまも、それに伴う犠牲者の一人に過ぎなかったというわけ」
「あなたが本当に神様かどうか、私が試してあげる」
告げると同時に、祐巳の足元から巻き起こった突風が桂さんを呑み込んだ。進行方向にあった幾つかの木を巻き添えに、十メートルほど離れた校舎に到達するまでにかかった時間は限りなく零に近く、防御する事はおろか悲鳴すら上げる事のできなかった桂さんを確実に死に至らしめる速度で外壁へと叩き付けた。そのあまりの衝撃に校舎の一角は崩れ、中庭に面していた全ての窓ガラスが砕け散る。
けれど、
「参ったわね」
未だ崩れ落ちる外壁の上げる灰色の砂埃の中から、相変わらずの笑みを浮かべたまま桂さんが姿を現した。
彼女は無傷ではなかった。その証拠に左腕が力なく垂れ下がっており、指先から落ちた血液が地面に赤い染みを作っている。
「制服が汚れちゃったわ。でもまあ、それなりに収穫はあったから良しとするか」
そう言いながら、普通であれば痛みで動かせるはずのないその腕を桂さんは全く表情を変える事なく振った。すると、その一振りで彼女の腕は完全に治癒してしまったようだ。何度か拳を握ったり開いたりして感触を確かめるようにした後、何事もなかったかのように平然と祐巳に向かって歩いてくる。
その馬鹿げた光景を目の当たりにしても祐巳は全く動じなかった。別世界であるこの場所に自力で、しかも生身で来たらしい桂さんが普通の人間であるはずがないと思っていたからだ。
「士気は高く、統率も完璧。祐巳さんは彼らに愛されているのね」
桂さんの言った「彼ら」とは、祐巳に力を貸してくれる存在の事だ。そんなに珍しいものではなく大抵の場所で見かける事ができるが、場所によっては多かったり少なかったり、稀に全く存在していない時もある。
「でも、棕櫚の木まで破壊するのは感心しないな。限りある自然は大切にすべきだと私は思うわよ。ところで、確認はできた?」
一歩、また一歩、とゆっくりと祐巳に近付きながら尋ねてくる。どうやら自分が本物の神様だという事を確認させるために、先ほどの攻撃をわざと受けたらしい。
「うん、桂さんの協力のお陰で。信じたくないけど、本当に神様なんだね」
彼女は腕の傷を治すのに魔法を使用しなかった。あの腕の傷を振っただけで治してしまったのだ。それも、一瞬で。そんな事ができる人間なんて、見た事も聞いた事もない。
「一言余計だけど、信じてくれて嬉しいわ」
祐巳から五歩ほど離れた所で、桂さんがピタリと歩みを止める。そこは、あと半歩でも近付かれていれば、たとえ無駄になると分かっていても攻撃を開始する事に決めていた、そんな絶妙な位置だった。
「私としては厄介事が増えたような気がしてちっとも嬉しくないんだけど……あ、そうだ。厄介事と言えば、ここっていったいどうなっているの? 生き物の気配が全く感じられないんだけど」
人間も、その他の動物も存在していない、というのは気配を一切感じられない事から分かる。だから、桂さんに攻撃する事や、それによって校舎まで破壊してしまう事を躊躇わなかった。なにしろ祐巳が力を振るっても、それを目撃する人間や巻き込まれる動物が存在しないから。でも、どうして存在していないのかまでは分からない。
目の前に都合良く、彼女の仕業としか思えない神様がいるので疑問をぶつけてみると、
「感じ取れないのも当然ね。何たってここは、祐巳さんと会話するという目的のためだけに世界情報をコピーして作った場所だもの」
などとぶっ飛んだ答えを返してくれた。
「だから、人間とか動物とか、話をするのに邪魔となるものが存在していないわけ。ついでに言うと、祐巳さんが力を使い易くするためでもあったわ」
「ふーん」
何でもないように頷いて見せながら、神様ってデタラメも良い所だね、と内心で呆れ果てる。
(全部、お膳立てされていたって事か。で、そんな神様相手に私は喧嘩を吹っかけたってわけだ。勝てる見込みも自信も全くない上に、今更逃げるのも無理そう、と。いきなり手詰まり状態なんだけど)
世界を滅ぼしているそうだし、やっぱり殺されるんだろうな、と考えながら桂さんを睨み付ける。せめて虚勢を張る事くらいは許してもらいたい。
(神様なんだから寛大なんでしょ? できるなら、苦しまないように殺して欲しいな。慈悲って言葉を知ってるなら)
それでも、殺されるのを大人しく待つなんて真っ平御免なので、最後まで抵抗させてもらうつもりなのけれど。
「そんなに睨まないでよ。さすがの私も怖くなっちゃうから」
ちっとも怖がってない笑顔で桂さんが言ってくる。
「自分を殺しにきた相手を前にして、ニコニコしていられるほどの豪胆さは残念ながら持ち合わせていないんだ」
「何をどう面白おかしく勘違いしたのかは敢えて聞かないけど、殺したりなんかしないわよ。言ったでしょ、『祐巳さんの事愛している』って」
「……そういえば言ってたね。本気だったんだ?」
「勿論本気よ。そうじゃなきゃ、私に軽口叩いた時点で殺していたわ。愛の力って偉大よね。いきなり吹っ飛ばされた時は、さすがにムカッとしたけど。それから今言ってて思い付いたんだけど、今度からあの速度で人を吹き飛ばすのはやめた方が良いわ。私じゃなかったら確実に死んでいたわよ」
「そりゃ、敵な上に人間じゃないって判断したから殺すつもりだったし」
でも、ここの所の会話から、彼女が本当に敵であるのかどうかちょっと分からなくなってきたので確認してみる。
「桂さんは敵なの?」
「祐巳さんの言う『敵』が、あなたの世界を滅ぼそうとしている神様を指すのであれば、答えは間違いなくNOよ」
信じて良いのか分からないけれど、とりあえず信じてみても良いだろう。彼女が祐巳を殺す気であれば、回りくどい会話なんて抜きにしてさっさと殺していただろうから。
「それならそうと先に言ってよ。早とちりしちゃったじゃない。ごめんなさい、痛かったよね」
「怒らせるような事を言ったのは私だし、私は寛大な神様だから気にしなくて良いわよ」
「……他人の思考、読めるんだ?」
そうでなくては、このタイミングで『寛大な神様だから』なんて言葉は出てこないだろう。
「神様だもの。それくらい出来て当然でしょ」
当然なのかどうかは知らないが、どうやら先程の情けない思考は完全に読まれていたらしい。悔しくはあるが相手は神様。祐巳としてはどうする事もできない。
「まあ良いや。それじゃ、わざわざ口にする必要なんてないかもしれないけど、私を第五世界に戻せる?」
この場所は桂さんによって作られたらしい世界だ。という事は、この世界に祐巳を招待したのが桂さんであれば、彼女は望んだ場所に人を転移させる事ができる、そう考えての質問だった。
それに対して桂さんは、「戻せるわよ」と胡散臭い笑みを顔に貼り付けたまま頷いた。それは、祐巳が今一番期待していた答えだった。
「だったら戻してよ」
「嫌よ。祐巳さんが私をどう思っているのかはともかく、私にとって祐巳さんは大切な友人なんだもの。確実に死ぬと分かっている所に友人を送り返すだなんて冗談じゃないわ」
ようやく帰る手段を見付けた、と思った矢先に断られて、思わずカッとなってしまった祐巳をいったい誰が責められるだろうか。文句を口に出すより先に、祐巳の手は桂さんの胸倉を掴んでいた。
「あなたがどう思っていようと、そんな事は私に関係ないわ。私は帰りたいの。どうしても帰さないって言うのなら、力尽くでも――」
「そして祐巳さんを送り返した私は、どうしてあの時に送り返してしまったのか、って後悔し続ける事になるわけね? お姉さまを失ったあなたのように」
その言葉を聞いて、頭に上っていた血が一気に下がった。同時に、彼女の胸倉を掴んでいた手から力が抜ける。
桂さんの言った通りだったからだ。お姉さまと姉妹(スール)だった事を誇りに思っているのと同じくらい、自分と姉妹(スール)でなければお姉さまは今も生きていたはずだ、と後悔し続けている。おそらく自分は、これから先もずっと後悔し続けるだろう。
「……分かった。桂さんには頼まない。帰る方法は自分で見付けてみせるわ」
自分と同じような思いを、進んで他人にさせるような趣味はない。たとえその相手が神様で、胡散臭い桂さんだとしてもだ。
「思い直してくれて嬉しいわ。本気で力尽くでこられたらどうしよう、って内心怯えていたのよ」
「ちっとも怖がってないくせに何言ってるんだか」
祐巳がどう脅そうとも、持っている力に差があり過ぎて脅しになっていないのだ。桂さんがその気になれば、祐巳なんて瞬時に無力化する事ができるだろう。ニヤニヤと厭らしく笑っている彼女を見て、石でも投げ付けてやろうか、なんて考えながら足元に落ちている小石を靴の先で軽く小突く。
「この際だから聞いておくけど、こっちの世界の蓉子さまは?」
「元気にしてるわよ。詳しく知りたいのなら祥子さまに聞くと良いわ」
「そう言うって事は、祥子さまのお姉さま(グラン・スール)なのね?」
「そうよ」
「そっか」
予想はしていた。あちらの世界と同じく亡くなっているという可能性もあったのだが、父や母、祐麒や由乃さんという例を目にしているので、必ずしも当て嵌まるものではないと考えていた。その上で、蓉子さまは祐巳よりも二つ年上で祥子さまは祐巳よりも一つ年上という点を考慮して、祥子さまが現紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)という事は、あちらの世界で紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だった蓉子さまは、その祥子さまのお姉さま(グラン・スール)である可能性が極めて高いと考えるのが普通だろう。
生きている事は嬉しく思う。でも、わざわざ会いに行こうとは思わない。こちらの世界の蓉子さまは、祐巳のお姉さまではないからだ。それは、こちらの世界の家族にも言える。
こちらの世界の両親は、祐巳を生み、育ててくれた両親ではない。同様に祐麒も、一緒に育った弟ではない。祐巳にとってこちらの世界に存在している家族は、限りなく家族に近い他人でしかないのだ。とはいえ、彼らが今は亡き家族と同一の存在である事は間違いなく、彼らの事を家族だと認める気はないが無理に距離を置く必要もない。
「そういえば、こっちに私って存在していたの?」
以前に抱いた疑問を解消するべく尋ねてみる。もしかすると自分は、この世界の福沢祐巳と入れ替わったのではないか、という疑問だ。もしそうだった場合、祐巳はこの世界の福沢祐巳の居場所に収まっている事になる。という事は、あちらの世界の祐巳の居場所に、こちらの世界の福沢祐巳が収まっているという事になるはずだ。
平和な世界で育ち戦う力も術も持たないこちらの世界の福沢祐巳では、祐巳の家族とお姉さまが眠るあの世界を守る事はできないだろう。平和なこの世界はとても魅力的なのだが、この世界の家族からこの世界の福沢祐巳を奪ったみたいで申し訳なく思うし、自分の居場所を自分のいない時にあの虫ケラ共に奪われるというのも腹が立つ。
そんな祐巳の思いを知ってか知らずか、桂さんは厭らしいニヤニヤ笑いを変える事なく答えた。
「いいえ、存在していなかったわ」
「本当に?」
「祐巳さん相手に嘘なんて吐かないわよ。神様に誓ったって良いわ」
「いや、神様って自分の事でしょ? ま、わざわざ嘘を吐く必要なんてないだろうし、信じてあげる。それにしても、ふうん、そっか。存在してなかったのか」
自分たちが入れ替わったわけではないと知り、少なくともこちらの世界の家族がこちらの世界の福沢祐巳を失ったわけではないと分かって、祐巳は思わず安堵の溜息を吐いていた。それに気付いて、存外自分も甘いのかもしれない。祥子さまの事笑えないな、と苦笑いする。
「あ、そうだ。ついでにもう一つお願い。どうして」
あの世界を滅ぼそうとしているの? と祐巳が尋ねようとすると、「その質問に答える前に元の場所に戻すわね」と桂さんが口を挟んできた。
へ? と呆ける祐巳の前で桂さんがパチンと指を鳴らす。
「はい、戻ったわ」
魔方陣が浮かび上がるとか、鮮やかな光が迸るとか、そういった目に見えて分かり易い視覚効果もなしに、今の一瞬で元の場所へと戻ってきたらしい。なので当然、一部崩壊していたはずの校舎は壊れていないし、折れたはずの棕櫚の木も折れていないし、人の気配だって学園内のあちこちから感じられる。
「で、『どうしてあの世界を滅ぼそうとしているのか』だったわよね? 悪いんだけど、それは次に会った時に答える事にするわ」
「え? ちょっ、ちょっと待ってよ。次っていつの事なのよ?」
「次は次よ。その時になれば自然と分かるわ。じゃ、そういう事で、ごきげんよう」
そう言い残して、桂さんは現われたと時と同じく唐突に去って行った。というか、消えた。目の前で空間転移なんて見せてくれた。さっきの転移ではよく分からなかったのだが、これならよく分かった。まさしく、目に見えて分かった。
ああ、本当に神様なんだな、と僅かに残っていた疑念も綺麗さっぱり消え去った。生身の身体を持ったまま自分の意思で自由に空間転移ができる生物なんて、今までに見た事も聞いた事もなかったからだ。
となると、桂さんの言ってた事は全部信じても良いって事になる。なにしろ神様だし。いや、でも邪神って可能性もある。信じるのは半分くらいにしておこう。うん、そうだ。なにしろ桂さんだし。ところで、あれを『質問に答える』とは言わないと思うのだけれど……まあ、桂さんだから仕方がない。どうせ、まともに答える気がなかったのだろう。
それにしても、神様の仕業だって? いったい何のために? 理由がさっぱり分からない。世界を壊して、それで何か得るものでもあるのだろうか。それとも、あの世界の生き物が滅んでいく様を見て愉しんでいるだけなのだろうか。
何にせよ、悔しかった。どんな理由があるにせよ、許せなかった。
この世界が救われますように。
無駄だとは知っていた。神様がいたなら、あんなおかしな世界にはならなかっただろうから。それでも、あの世界を救えるとしたら、神様くらいしかいないだろうと祈っていた。
どんなに祈っても、どんなに願っても届かなかった。奇跡なんて起きなかった。無駄な事を繰り返しているうちに家族やお姉さま、友人を失ってしまった。
(神様だったなんてね……)
まさか神様があの世界を滅ぼそうとしていたなんて、これっぽっちも思ってなかった。
許せない、と思う。でも、だからといって祐巳には何もできない。あの世界の皆もそうだ。どんなに強くても、どうする事もできない。本当に、滅びる道しか残されてなかった。たとえ最初から神様の仕業だと分かっていたとしても、滅びを免れる事なんてできなかっただろう。だって、神様なんていったい誰が止められる?
沈みゆく太陽が、祐巳の嫌いな色に世界を染め上げる。校舎が、棕櫚の木が、薔薇の館が、まるで燃えているかのように赤く染まっていく。
桂さんが去った後も、祐巳は中庭に立ち尽くしていた。
分かっていた事なのだけれど、改めてそれを聞かされるとショックは大きかった。なにしろ、それを口にしたのが神様だったから。
滅びると分かっていても、認めてはいなかった。まだ私は諦めていない、そう自分に言い聞かせてきた。死ぬ覚悟はできていたけれど、その瞬間が訪れるまで諦めるつもりなんてなかった。
でも、そんな想いは打ち砕かれてしまった。あの世界は滅びる。誰がどう何をしたとしても確実に滅びる。こうして祐巳がこんな所で立ち尽くしている間も、着々と滅びに向かって突き進んでいるのだ。
(それなのに、どうして私はここにいるの?)
自ら進んで死にたいわけじゃない。でも生きていれば、いつかは必ず死を迎える事になる。早いか遅いかの違いでしかない。
家族とお姉さまが眠るあの世界で、その時を迎えたかった。生まれ育ったあの世界のために、最後まで戦いたかった。家族を失い、お姉さまを失い、友人まで失って、それでも頑張ってきたのは、こんな所で生き延びるためなんかじゃない。
(帰りたい……)
以前見たテレビ番組で、別世界からの帰還を果たした人たちは、その世界で暮らしているうちにいつの間にか元の世界に戻っていた、と言っていた。つまり、自力での帰還は不可能だが、戻る事はできるのだ。何らかの条件があるのか、それともただ単に運が良かっただけなのかは知らないが、待っていればそのうち戻れるのかもしれない。でも、それでは駄目なのだ。戻った時に、あちらの世界が滅びていては意味がない。
(帰りたいよ……)
もう失うのはたくさんだった。家族も友人もお姉さまも失っているのに、この上帰る場所まで失ってしまったら自分はいったいどうなってしまうのだろう。
不安に押し潰されそうになっていたその時、足音が聞こえてきた。小さかったその足音は徐々に大きくなり、祐巳から少し離れた場所でピタリと止まる。
「祐巳さま?」
ここ数日でお馴染みとなっている少女の声に振り返ると、薔薇の館へと続くレンガ道の真ん中で瞳子ちゃんが首を傾げていた。どうやら、祐巳がこの場所にいる事を疑問に思っているらしい。
「や、瞳子ちゃん」
笑顔を浮かべながら軽く手を上げて挨拶してやると、彼女は祐巳の元へとやってきた。
「こんな所で何をされているんです?」
「例の写真の事で祥子さまに呼び出された、その帰り。瞳子ちゃんは?」
「私は薔薇の館に用があって……」
行儀良く両手で鞄を持っている彼女は、演劇部の活動を終えて薔薇の館へと向かっている途中だったそうだ。
「おっ、ついに祥子さまのロザリオを受け取る気になったの?」
冗談めかして言ってやると、瞳子ちゃんは祐巳から目を逸らして俯き――しかし、すぐに顔を上げた。
「祥子お姉さまにお断りしてから、と考えていたのですが、せっかくの機会なので先に言っておきます」
瞳子ちゃんの真剣な表情に、思わず気圧される。
「私は答えを出しました」
「ッ!」
そこから先を聞いてはいけないような気がした。それは、瞳子ちゃんの目を見たからだ。真っ直ぐに祐巳を見つめてくる瞳子ちゃんは、とても澄んだ目をしていた。そこには、迷いなんてものは一切なかった。
「皆は、私が祥子お姉さまの妹(プティ・スール)になる事を望んでいます。私もそれを望んでいました。今だって祥子お姉さまの事は好きですし、尊敬しています。でも祥子お姉さまは、山百合会のために仕方なく私を選んだんです。祥子お姉さま自身は、私の事なんて必要としていないどころか見てすらいないんです」
瞳子ちゃんが目を伏せる。
「それを自分でも分かっているから、祥子お姉さまは私の答えを急がなかったんです。あなたと出会った時、私は祥子お姉さまと姉妹(スール)になるって決めていました。私を見てくれなくても良い。傷付けられても良い。私がそれに耐えれば良いだけだから、って。でも本当は、嫌で嫌で堪らなかった」
それは、悲鳴だった。他者によって傷付けられてきた瞳子ちゃんの、悲痛な叫び声だった。
「そんな時、あなたと出会ったんです。私を見て、言葉を交わして、祥子お姉さまの妹(スール)に相応しいと言ってくれた不思議な人。私はその言葉に救われ、あなたという人に惹かれた。あの時私は、今まで積み重ねてきたものを全て投げ捨ててでも傍にいたい、そう心から思える相手を見付けてしまったんです」
期待と不安の入り混じった瞳を祐巳に向けながら、瞳子ちゃんはその言葉を紡いだ。
私を祐巳さまの妹(スール)にしていただけませんか、と。
何よ、それ……ふざけるんじゃないわよ!
気が付いたら瞳子ちゃんの胸倉を掴んでいた。
「馬鹿な事、言わないでもらえる?」
「ゆ、祐巳……さ……ま?」
瞳子ちゃんの怯えた表情。おそらく、こんな風に乱暴に扱われたのは初めてなのだろう。
「必要とされていない? 自分を見てくれない?」
自分がどれだけ恵まれているのか知らないから、そんな甘ったれた事が言える。見てくれなくても、今は必要とされていなくても、自分も相手も生きているのだから、振り向かせるチャンスなんて幾らでもあるはずだ。
「奪われたわけでも、失ったわけでもないくせに!」
家族を失った。お姉さまを失った。友人を失った。やりたかった事、話したかった事、たくさんあったけれど、それはもう叶わない。周りにいるのは全部敵で、祐巳に残されていたのは戦う事だけだった。それ以外、何もなかった。
「生きて、そこにいるのに!」
何でだろう。自分に何もないなんて、そんな事分かっているのに。そんなの、ずっと当たり前の事だったのに。痛みなんて感じないはずなのに。そんなもの、失くしたはずなのに。
「どうしてそんな事で諦められるのよ!」
どうして胸が痛いのだろう?
「……悪かったわね」
胸元から手を離すと、瞳子ちゃんは数度咳き込んだ。
「もう私に関わらないで」
これで諦めてくれるだろう。答えを聞かないうちに、祐巳は足を進めて瞳子ちゃんの横を通り過ぎた。
けれど、
「ゃ……」
立ち去ろうとした祐巳の耳に、瞳子ちゃんの小さな声が届いた。
「ぃ……です」
「え?」
聞こえてきた言葉が信じられなくて、思わず振り返る。
瞳子ちゃんは、まだ苦しいのか喉元を押さえていた。けれど、その瞳は真っ直ぐに祐巳に向けたままだった。
「嫌だと言ったんです!」
叫んで、また咳き込む。それでも、その瞳だけは祐巳に固定されたままだ。
「仕方がないじゃないですか。祥子お姉さまよりも、あなたと姉妹(スール)になりたいって、本気でそう思ったんだから仕方がないじゃないですか……」
瞳子ちゃんは泣いていた。ぽろぽろと、大きな瞳から宝石のような大粒の涙を溢れさせていた。
「あなたになら、本当の自分を見せても良いって。あなただけに本当の私を見せたいって。ようやく、本当の自分を見せる事のできる人に出会えたって、そう思ったんだから……」
祐巳には分からなかった。瞳子ちゃんがなぜ泣いているのか、理解できなかった。
胸の奥に生まれた痛みが益々酷くなってくる。その理由さえ全く分からない。けれど、この場所から――瞳子ちゃんの前から立ち去ればこの痛みは消える。瞳子ちゃんさえ近くにいなければ、いつもの自分でいる事ができる。なぜか、そう思えた。
祐巳は一歩だけ瞳子ちゃんに近寄った。嫌われようと構いはしない。どうせ自分は瞳子ちゃんを妹(スール)にするつもりはない。
「祐巳……さ……ま?」
大きな瞳一杯に涙を貯めたまま、瞳子ちゃんが祐巳を見上げてくる。それを目にしただけで、痛みが更に激しくなった。
「あのさ、瞳子ちゃん」
手を差し伸べる事はしない。慰めの言葉をかける事もしない。それらの代わりに言える言葉がある。
それは、
「あなたがどれだけ傷付いていようが、私にはそんな事関係ないの。正直に言うと、あなたに縋られても迷惑でしかないんだよね。ね、私の言ってる事が分かる? 私はね、鬱陶しいからもう二度と私に近付くな、って言ってるの」
拒絶の言葉。