【1908】 凛々しく強く逞しく  (33・12 2006-10-08 14:14:14)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:これ】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




 私の事なんて見ていない。
 あの人の瞳は私を映す事なく、その心はどこか遠い所にあるようだった。

 祥子お姉さまから姉妹(スール)の申し込みを受けた。私が山百合会に必要だから、という理由で。
 自惚れでないのならば、おそらく私が祥子お姉さまに一番近い所にいるから、という理由をそこに付け加えても良いかもしれない。更に付け加えると、私と祥子お姉さまは親戚でもある。
 幼い頃からよく知っている人だから、祥子お姉さまと姉妹(スール)になる事に抵抗は感じなかった。祥子お姉さまが、私を必要としないまま妹(スール)にしようとしている、という事を除けば。
 それだけは、どうしても嫌だった。ほんの少しで良いから、祥子お姉さま個人として私を必要として欲しかった。
 せめて、生徒会役員選挙の前日までは頑張ってみよう。私は答えを先延ばしにして、祥子お姉さまの目を私に向けさせようとした。姉妹(スール)の申し込みをされたのだから、少しは私に目を向けてくれるかもしれない。そんな勝手な希望を胸に抱いて。
 結局の所、そんな甘い希望は叶わなかった。本当の事を言えば、無理だろうな、と思っていた。私はずっと以前から諦めていた。私では祥子お姉さまの目を自分に向けさせる事なんてできない、と思っていた。
 実際、そうだった。どんなに仕事のお手伝いをしても、どれだけ傍にいても、テストで良い点を取っても、部活動を頑張っても、年下らしく甘えてみても、祥子お姉さまは優しく微笑むだけで私が本当に欲しいと思うものは何一つ与えてくれなかった。
 祥子お姉さまは、初めて出会った時から私に優しく接してくれる。でも、それだけだ。話しかければ会話をしてくれる。お出かけに誘えば一緒に出かけてくれる。けれど決して私を必要としていない。それどころか、自身の家族でさえも必要としていないように見えた。
 分かってはいた事だけれど、辛かった。幼い頃に両親から親戚だと紹介されて、それからずっと見てきた人だから。ほんの少しでも私を必要としてくれたなら、それだけで満足だったのに。
 私に突き付けられたのは、「姉妹(スール)」としてではなく、ただの称号としての「紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)」。私にとって全く意味のないもの。けれど、他に姉妹(スール)になりたい人なんていない。今更断って、波風立てる事もないだろう。
 祥子お姉さまがご卒業されるまで、あと三ヶ月。今まで以上に傷付く事になるだろう。どれだけ傷付けられるだろうか。どれだけ傷付くだろうか。 
 今までどれだけ私が傷付いていたか、祥子お姉さまは全く知らないだろう。私は絶対にそれを表に出さなかった。今この時でさえ、自分がどれだけ私を傷付けているのか、あの人は知らないはずだ。
 これからも絶対に見せるつもりはない。それが、私の誇りだ。ささやかな抵抗と言っても良い。
 耐えてみせる。自分の気持ちを押し殺して、祥子さまが卒業されるまで皆の望む姉妹(スール)を演じてみせる。私はそう決めた。そう決めたのに、生徒会役員選挙まであと十一日と迫った日の朝。
「きゃっ」
「うわっ」
 私はとても不思議な人と出会ってしまった。
「大丈夫?」
 その人は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
 同学年では見た事がない顔なので、私よりも一つか二つ年上だろう。祥子お姉さまの妹(スール)候補である私を前にしても態度を変える事なく、それどころか、ぶつかったのは教室へと急いでいた私が廊下の曲がり角を飛び出したのが原因で自分が怪我をする可能性すらあったのに、黒い瞳を悪戯っぽく細めながら笑って許してくれるような人だった。



 放課後。朝と同じように急いでいた私は、またその人にぶつかってしまった。
 部活に急いでいた事を伝えると、「あなた、私の妹(スール)にならない?」と言われる。祥子お姉さまの妹(スール)候補として有名な私の事を知らないとは思っていなかったので、随分と驚いた。
 話を聞くと、この人は二年生で由乃さまのクラスメイトなのだそうだ。部活に出た後は薔薇の館に寄る予定なので、その時に由乃さまにこの人の事を尋ねてみようと思った。
 それから私が名乗って、会話の内容は当然のように私と祥子お姉さまの事となる。
「ひょっとして、自分は祥子さまの妹(スール)に相応しくない、なんて思ってない?」
 この人が何を考えてそこに辿り着いたのかは分からない。でも、そう思っていた事を言い当てられてしまった私は激しく動揺した。
「相応しいとか相応しくないとか、そういうのって、好きって気持ち以上に必要な事なのかな?」
 そんな事を言われても、どうにもならない。だって、私は祥子お姉さまの事が大好きなのだけれど、祥子お姉さまは私の事なんて全く見てくれないのだ。
「祥子さまの事、好きなんだよね? 祥子さまだって、瞳子ちゃんの事が好きだから妹(スール)になって欲しいって、そう思って申し込んだはずだよ? それだけじゃ駄目なの?」
 そうだったら、どんなに嬉しかった事か。どれほど、そうだったら良かったのに、って思った事か。
「あなたに何が分かるって言うんですか」
 私の事。祥子お姉さまの事。何がどうなっているのか知りもしないくせに、と思わず突っかかっていた。
「確かに分からないよ。でもね、瞳子ちゃんが本気で悩んでいるって事くらいは分かる。その悩みの分だけ、祥子さまの事を本気で想っているって事も分かる。十分だと思うよ? 出会ったばかりの私に、こんな事を言われても瞳子ちゃんは気に入らないかもしれないけど。少なくとも私が見て、言葉を交わしたあなたは、祥子さまの妹(スール)に十分相応しいと思う」
 どうしてこの人は、こんな事が言えるのだろう。私を見据え、決して揺るがなかった真っ直ぐな眼差しは、その言葉がその場限りの適当に作り上げたものではない事を物語っている。
 私は、この人に心を奪われてしまった。
 この人の傍にいたい。共に歩みたい。そのためなら、祥子お姉さまの妹(スール)候補として今まで積み重ねてきたものを全て捨てる事になっても構わない。本気でそう思った。
「祥子さまと上手くいくと良いね」
 そう言って去ろうとしたその人を呼び止め、名前を尋ねる。
「名乗るほどの者じゃないんだけど、福沢祐巳って言うの」
 ふくざわゆみ。その名前を、しっかりと心に刻み付けておく。この後、祥子お姉さまと顔を合わせても私は決めていた事を口にしないだろう。祐巳さまこそが、私の答えだ。



 演劇部の活動を終えて薔薇の館に向かった私は、祐巳さまの事を由乃さまに尋ねて、祐巳さまが転入生だという事を聞かされる。こんな時期に転入? と驚いたけれど、同時に納得もできた。どうりで私の事を知らなかったわけだ。しかし、それならそれで構わない。これから私の事を知ってもらえば良いだけの話だから。



 これは何の冗談なのだろう。どうしてあの二人が一緒にいるのだろう。
 祐巳さまと出会った次の日の朝。祥子お姉さまと祐巳さまが、マリア像の前に二人して立っているのを見た。どうやら祐巳さまの服装が乱れていて、それを祥子お姉さまが直しているらしい。
 祥子お姉さまは、何事にも無関心に見えるが他人を拒絶しているわけではない。その証拠に支倉令さまという友人がいるし、もう卒業されてしまったけれど水野蓉子さまというお姉さま(スール)もいる。そして潔癖症という事もあり、だらしない身なりが嫌いで服装の乱れた生徒を見かければ注意もする。それに加えて低血圧からか朝に弱い事もあり、目の前で行われている光景は可能性は低いものの決して有り得ない事ではないはずだ。
 けれども、そう分かっているはずなのに、私は目の前の光景を認めたくなかった。それは、二人がまるで姉妹(スール)のように見えたからだ。祐巳さまのタイを直す祥子お姉さまの手付きは壊れ物を扱うかのように優しげで、直されている祐巳さまも祥子お姉さまに向かって微笑んでいた。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
 祥子お姉さまが去ると、祐巳さまがすぐにこちらに顔を向けた。私がずっと見ていた事に気付いていたらしい。
「ごきげんよう。機嫌悪そうだけど、どうかしたの?」
「今のはどういう事ですか」
 自分でも言葉に刺があるのが分かった。ようやく見付けた私の答え。その人が、よりにもよって祥子お姉さまと出会い、まるで姉妹(スール)みたいに微笑み合っていた。その事が、嫌で嫌で堪らなかった。
 決して祐巳さまが悪いわけではない。また、祥子お姉さまが悪いわけでもない。誰が悪いのかと言えば、それは勝手に祐巳さまに惹かれ、勝手に祥子お姉さまを裏切ったこの私だ。それでも私は、ようやく見付けた私の答えを誰にも渡したくなかった。
 他人に触れて欲しくない。他人に触れさせて欲しくない。そんな笑顔を他人に向けないで欲しい。ようやく見付けたあなたまで私を傷付けるのか。私はまだ傷付かなければならないのか。いつまで私は傷付けば良いのか。
 ドロドロとした負の感情が次から次へと湧き上がり、その全てが目の前の祐巳さまへと向けられる。私はいつから、こんなに身勝手で最低な人間になってしまったのだろう。
 しかし、
「いきなり呼び止められてタイを直された。どう? 綺麗になってる?」
「え? ええ、それはもう綺麗に…………じゃなくて!」
 祐巳さまの馬鹿みたいに能天気な言葉で、私の心を埋め尽くそうとしていた負の感情が綺麗さっぱりと吹き飛んでしまう。良い意味でも悪い意味でも、祐巳さまを前にすると調子を狂わされてばかりだ。
「ところで、さっきのが誰か、瞳子ちゃんは知ってるの?」
 そういえば、祐巳さまは転入生。私の時と同様、祥子お姉さまの事を知らなくても不思議ではない。
「この学園に通っている以上、知っているのが常識と言っても良い方です。ですが、祐巳さまは昨日転入されてきたばかりだそうですし、知らなくても仕方がありませんね」
 祐巳さまは、私が転入生だと知っている事に驚いているようだった。
 どうして教えてくれなかったのか尋ねると、「つい言い忘れていたの」と返ってくる。普通は、そんな大切な事を言い忘れたりはしない。おそらく、説明が面倒臭いとか、そういう理由なのだろう。
「私の事は置いておいて。それよりも、さっきの人が誰なのか、そろそろ教えてもらえないかな?」
 あんまり焦らしても仕方がないので「小笠原祥子さまです」と答えるが、祐巳さまはあまり驚かなかった。私のもったいぶった言い方から答えを予想していたのかもしれない。その言動から惚けた印象を相手に与えてしまう祐巳さまだけれど、頭の回転は相当早いようだ。
「瞳子ちゃんは良い子だね。もし祥子さまがいなければ、何が何でも妹(プティ・スール)にしていたよ」
「それは光栄ですね」
 澄まし顔をしていたけれど、内心ドキドキしていた。本気の言葉ではないと分かっていても、祐巳さまにそう言われると胸が高鳴った。
 それはそうと、この時の祐巳さまとのやり取りで思わず首を傾げそうになる事が多々あった。どうやら祐巳さまには何事か隠し事があるようだ。それが何なのかまでは分からないが、力になる事ができたら良いな、と思った。



 祐巳さまと出会ってから三日目の朝。
 銀杏並木で偶然一緒になった乃梨子と二人で、祐巳さまがマリア像の前を通り過ぎるのを見かけた。
 転入してきたばかりなので、マリア様に手を合わせる事を知らないのかもしれない。そう思って声をかけるが、「悪いんだけど、お祈りはしない主義なの」と返される。神様とか、そういう類のものは一切信じていないそうだ。私も本気で信じているわけではないのだけれど、形だけでもちゃんとして欲しかった。転入してきたばかりとはいえ、祐巳さまは二年生。下級生のお手本とならなければならないのだ。
 その後、「可愛い」「可愛くない」と嬉しいようなどうでもいいような会話をしていると、乃梨子が祐巳さまに話しかけた。
「瞳子と知り合いだったんですか」
 祐巳さまから顔を背けたまま話を聞いていると、二人は志摩子さまを通じて知り合ったらしい。二人が親しそうに会話するので、私は面白くなかった。
 そんな私に気付いて欲しくて、ずっとそっぽを向いていたが祐巳さまは気付いてくれない。だが、それが当たり前なのだ。出会って三日で、そんな事に気付いて欲しいと思う私の方がおかしいのだ。
 その後、祐巳さまが約束を大切にする方で意外と頑固者だという事が分かり、そこから更に私が祥子お姉さまにいつ答えを返すのかという話に移った所で、
「早く決めないと、私が祥子さまを盗っちゃうよ」
 祐巳さまが突然おかしな事を言い出した。
「実は昨日からファンになっちゃったの。すっごい美人だし、優しくしてくれたし。瞳子ちゃんも見てたでしょ? 祥子さまが私のタイを直してる所。姉妹(スール)みたいに見えなかった?」
 顔が強張るのが自分でも分かった。脳裏に、昨日目にした光景が蘇る。
 本気なのだろうか。本気で言っているのだろうか。私が祐巳さまに惹かれたように、祐巳さまも祥子お姉さまに惹かれたのだろうか。
 今すぐ問い質してみたい。でも、答えを聞くのが怖い。
 嘘だよ、と言ってくれないだろうか。冗談だよ、って笑ってくれないだろうか。そう願いながら恐る恐る祐巳さまを見ると、なぜか私以上に顔を強張らせながらゴソゴソとポケットを探っている。
「……どうされました?」
「な、何でもない」
 どうも、何か不都合が生じたらしい。乾いた笑顔を浮かべた祐巳さまは、「あ、ほら、もうこんな時間だし、そろそろ教室に行かなきゃ遅刻しちゃう。じゃあねー」と早口に捲し立てると逃げるように去って行った。
 いったい何だったのかしら? そう首を捻りながらも、真偽を確かめる機会を失った事に安堵して小さな小さな溜息を吐いていたその時、私の隣で同じように祐巳さまの背中を見送っていた乃梨子が口を開いた。
「引き止めなくても良かったの?」
 不意を突かれた私は、一瞬呼吸を忘れてしまう。だって、そう言うって事はつまり、乃梨子が私の気持ちに気付いているって事だったから。
 遠ざかっていく祐巳さまの背中に目を向けたまま、私は尋ねた。
「いつ気が付いたの?」
「最初から、かな。自分じゃ気付いてなかったかもしれないけれど、祐巳さまと話している時の瞳子が凄く活き活きとしていたから」
「……そう」
 この友人にそこまで見抜かれているのなら、誤魔化すだけ無駄だろう。もっとも、乃梨子を誤魔化すつもりなんて全くないのだけれど。
「臆病者、って笑う? 祐巳さまがもし祥子お姉さまに惹かれているのなら、きっと私の事なんて目に入らなくなる。そう考えると怖くて、尋ねる事も、引き止める事もできなかったわ」
「……色々とあったからね。怖いって思うのは仕方のない事だと思う。でもさ――」
 私と同じように、遠ざかっていく祐巳さまの背中に目を向けたまま乃梨子は言った。
 いくら怖いからと言っても逃げ出しちゃったら、相手の事をどんなに好きでも気持ちなんてちっとも伝わらないんだよ、と。



 ニ時間目の授業が終わる。なぜか周りのクラスメイトから気遣うような視線を向けられて居心地悪く感じていると、乃梨子が近付いてきて教室の外へと連れ出された。
 いったいどうしたのか、と問うと、難しい顔しながら「とりあえず、これを見て」とリリアンかわら版を手渡される。
 また何か厄介事かしら、と思いながら見てみると、そこに載っていたのは祥子お姉さまと祐巳さまの写真。昨日の、マリア像の前での二人の写真だった。クラスメイトたちの気遣うような視線は、これが原因だったらしい。写真でも二人は姉妹(スール)のように見えた。
『実は昨日からファンになっちゃったの。すっごい美人だし、優しくしてくれたし。瞳子ちゃんも見てたでしょ? 祥子さまが私のタイを直してる所。姉妹(スール)みたいに見えなかった?』
 祐巳さまの言葉を思い出すと、まるで針でも刺さったかのようにチクリと胸が痛んだ。あの言葉は本気だったのかもしれない。そう思うと、塞ぎ込んでしまいそうになる。
「逃げ出す、ってわけにはいかないわよね」
 結果がどうであろうと、どこかで覚悟を決めなければならない。それがきっと、今なのだろう。
「お昼休みになったら会いに行くわ」
「一人で大丈夫? 何だったら付いて行こうか?」
「過保護ね。そこまでしてもらわなくても平気よ。乃梨子から十分に勇気をもらったから」
 もしも乃梨子がいなければ、私は今も一人で悩み続けていただろう。乃梨子という友人がいてくれたから、私はここから動き出せるのだ。



 お昼休み。昼食を後回しにして、私は祐巳さまの教室へと向かった。しかし目当ての人は不在で代わりに出てきたのは、これから昼食を摂りに薔薇の館へ向かうのだという由乃さま。右手には、お弁当が入っているのだろう手提げ袋が提げられている。祐巳さまの事ばかり考えていてすっかり失念していたのだけれど、ここは由乃さまの教室でもあるのだった。
「祐巳さんに何の用? って、聞くまでもないか。かわら版の事でしょ? 祐巳さんなら誤解を解くために、志摩子さんと一緒に写真部の部室に行っている所よ」
「志摩子さまと、ですか?」
「ええ。私も付いて行きたかったんだけれど、付き添いは二人もいらないって断られちゃったのよね」
 そういえば今朝祐巳さまと会った時、志摩子さまは友達なのだと言っていた事を思い出す。志摩子さまが一緒なら、かわら版の事についてそれほど心配する必要はないだろう。
 それはともかく、新聞部との話となるとしばらく時間がかかると思うので、由乃さまと別れた私は昼食を摂るために一旦自分の教室へと戻った。乃梨子はここ最近薔薇の館で昼食を摂っていて、今日もそちらに向かうと言っていたので教室にはいない。騒がしい教室内で一人で摂る食事は、少し寂しく思えた。
 急いで食事を終えた私は、もう一度祐巳さまの教室に行って二人がまだ帰っていない事を確認すると、新聞部のあるクラブハウスを目指す事にした。しかし十歩も歩かないうちに、志摩子さまと一緒にこちらへ向かって歩いてくる祐巳さまの姿を見付けてしまう。その手にパンとジュースが持たれていたので、ミルクホールに寄っていたようだ。新聞部との話は、意外と早くに終わっていたらしい。
 志摩子さまには申し訳ないのだけれど、「祐巳さまと二人でお話がしたいんです」と伝えて二人きりにさせてもらう。
 あまり目立つのはまずいだろうと階段の踊り場に行って今回のかわら版についての話を聞くと、上手く解決できた、との事。
 志摩子さまが一緒とはいえ、やはり心配だったのだ。ほっと胸を撫で下ろす。いや、ほっとするのはまだ早い。私としては、これから尋ねる事の方が大切なのだ。
「祥子お姉さまの事、本当はどう思っているんです? 本当に、ただの誤解なんですか?」
「ああ、それを聞きたくて私を探してたんだ? あれは瞳子ちゃんをその気にさせるためのもので本当は何とも思ってないし、瞳子ちゃんから祥子さまを盗ったりもしないから安心して良いよ。まったく、そこまで不安に思うくらいなら早く姉妹(スール)になっちゃえば良いのに」
 何だ、そうだったのか。祐巳さまの言葉を聞いて全身から力が抜けた。こんな事なら、あの時逃げずに聞いておくべきだった。
「自分の事は自分でできますので、余計な気は回していただかなくて結構です」
 まったくこの人は、自分の発言がどれだけ私に影響を与えるのか知りもしないで、と睨み付けながら言ってやる。決して祐巳さまが悪いわけではないのだけれど、これくらいは許して欲しい。本当に、不安で不安で堪らなかったのだから。
「だいたい、そういう祐巳さまはどうなんですか」
「へ? わ、私っ?」
 私の思わぬ反撃に慌てる祐巳さま。
「祥子お姉さま……いえ、誰でも良いんです。特定の誰かをお姉さま(スール)に、と考えたりはしないんですか」
「えっと。それってさ、昨日ちゃんと答えたような気がするんだけど」
 確かに昨日、『口煩く言われたくないから』とか『今から作ったとしても、三ヶ月も経たないうちに卒業されちゃうから』とか言っていたけれども。
「あんな、その場で適当に思い付いたような理由で私を誤魔化せたと本気で思っていらっしゃったのでしたら、祐巳さまは相当おめでたいですわね」
 祐巳さまは明らかに何かを隠している。その内容までは分からないが、隠すという事はあまり良くない事なのだろうと推測できる。
「何か隠している事があるのは、祐巳さまを見ていれば分かります。私では力になれませんか? その……色々とお世話になっていますし」
 ほんの僅かでも祐巳さまの力になりたかった。私を救ってくれた祐巳さまに、少しでも恩返ししたかった。
「瞳子ちゃんは優しいね」
 笑顔で告げられる言葉。
「でも、せっかくの申し出なのに悪いんだけど」
 眉根を寄せて、困ったように微笑む祐巳さま。
 どちらも笑顔なのに、どちらの笑顔にも確かな拒絶の色があった。気付かなければ良かったのに気付いてしまう。祐巳さまは、私では力になれないから断っているのではない。私に話すだけの価値がないから断っているのだ、と。
 祐巳さまの力になりたい? 少しでも恩返ししたい? 祐巳さまの事、大して知りもしないくせに親しくなったつもりでいた。いったい何を以って親しくなったつもりでいたのだろう。私は祐巳さまの何を見ていたのだろう。祐巳さまと私の間に壁があるなんて、今の今まで気付かなかった。
「瞳子ちゃんじゃちょっと難しいかなー、なんて――」
 不意に祐巳さまの言葉が止まる。いったいどうしたというのだろう。私を見つめる祐巳さまの瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
 どうして祐巳さまが戸惑っているのか、さっぱり分からない。しかし、今この時が状況を変えるチャンスだという事は理解できた。
 私と祐巳さまの間に壁があるのなら、そんなもの壊してしまえば良い。祐巳さまの事を知らないのなら、知ろうと努力すれば良い。乃梨子にもらった勇気。向き合うと決めた覚悟。その二つを力に変えて、自分を奮い立たせる。
 しかし、私にできたのはそこまでだった。そこから先の行動は、私よりも祐巳さまの方が早かった。
 祐巳さまは小さく頭を振ると、何かを諦めるかのように溜息を吐いた。
「私がこれから話す事。信じるか信じないかは瞳子ちゃんの勝手だから」
「は?」
 祐巳さまに、どんな心境の変化があったのかは分からない。だが私は、それによって機先を制された格好となってしまった。
「どうして私がお姉さま(グラン・スール)を作らないのか。その理由となる、私のお姉さまの話をしてあげる」
 いきなり何を言い出すのだろう、と困惑する。だって、祐巳さまは三日前に転入してきたばかりなのだ。お姉さま(グラン・スール)なんているはずがない。
 しかし、
「私のお姉さまはね。美人で、頭が良くて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。いつでも私を守ってくれて、私の一番守りたい人。私の全て、と言っても良い」
 存在するはずのないお姉さま(グラン・スール)の事を語る祐巳さまは、とても穏やかに微笑んでいた。それだけで、どれだけその人の事が好きなのか窺えた。
「お姉さまの事、大好きだった。何があっても守ろうって、本気で思ってた。あの頃の私は弱かったけど、どんなに辛い事があっても泣き言なんて言わないで頑張っていたんだよ」
 守るとか、弱かったとか、いったいどういう事なのだろう。わけが分からない事ばかりだが、この話が良くない所へ行き着く事だけは何となく察する事ができた。
「でもね。私は守れなかったんだ……」
 祐巳さまの声は震えていた。
「守れなかった?」
「そう、守れなかった……いいえ、それどころか」
 そう言って祐巳さまは、胸元からロザリオを取り出した。それは、祐巳さまが持っているはずのない、存在してはならないはずのロザリオだった。
「この私が、お姉さまを殺したのよ」
「祐巳さまが……殺した?」
 辛うじて十字の形を保っているそれを呆然と見つめる。そのロザリオは、錆びて曲がってしまっているけれど、どこか祥子お姉さまの首にかかっているロザリオに似ているように感じられた。
 有り得ないはずのロザリオの出現に私が何も言えないでいると、祐巳さまが急に「ぷっ」と吹き出す。
「なーんてね。冗談に決まってるでしょ」
 祐巳さまの冗談にも困ったものだ。そう思いたかった。
 祐巳さまは気付いていたのだろうか。その瞳は深い悲しみに満ちていて、私にはとても話してくれた内容が冗談だとは思えなかった。
「まさか本気で信じてくれるとは思わなかったよ。瞳子ちゃんって純粋なんだね」
「くっ、少しでもあなたを信じた私が馬鹿でした」
 本当に冗談だったのか。それとも、本当の話だったのか。祐巳さまの友人である志摩子さまに聞けば分かるのかもしれないが、今ここにいる私に確かめる術なんてない。だから私は、祐巳さまの言葉に乗っておく事にした。
 これは冗談なんだよ。そんな風に笑う祐巳さまに合わせて、私はそこに隠されていたものに気付かなかったフリをしたのだ。



 講堂の裏で、瞳子は桜の木を見上げていた。
 その桜は、銀杏が林立する木立の中に混ざって一本だけ生えている染井吉野だ。春になれば美しい花を咲かせるだろうそれは、真冬である現在は身を隠す葉の一枚すらなく、随分と寂しいものに見えた。
「落ち着いた?」
 瞳子のすぐ隣で、同じようにその桜を見上げていた乃梨子が話しかけてくる。
「ええ、乃梨子たちのお陰ね。ありがとう」
 祐巳さまが去った後の中庭で、一人蹲っていた瞳子を見付けたのは乃梨子と志摩子さまだ。二人は薔薇の館に向かっている所だったらしい。
 蹲っている瞳子にいったい何事かと駆け寄ってきた彼女たちは、瞳子が泣いている事に気が付くとすぐに場所を移動しようと言い出した。最初は薔薇の館に連れて行かれそうになったのだが、泣いていた事をこれ以上の人間には知られたくないと瞳子が拒否したために、目立たず落ち着ける場所としてこの講堂の裏まで移動する事となり今に至るというわけだ。
 何でもここは志摩子さまのお気に入りの場所でもあるそうで、その志摩子さまはというと少し離れた所で瞳子たちを見守っている。
「何があったのか聞いても良い?」
 そう言われて乃梨子を見てみれば、彼女はいつの間にか桜から瞳子へと視線を移していた。
「面白い話じゃないわよ?」
「だったら尚更聞かなきゃ」
 そう言って微笑む乃梨子に、瞳子は盛大な溜息を吐く。
 ああもう、この友人は。自分がどれだけ瞳子の救いとなっているのか、ほんの少しでも自覚しているのだろうか。今だってそうだ。もし彼女がいなければ、自分は未だに中庭で泣き続けていた事だろう。
 世話焼きで心優しい友人に、唇を尖らせながら言ってやる。
「お節介」
「そういう瞳子だって私と同じ立場にいたなら、私と同じ事をしていたと思うな」
 どうやら自分は、この友人には決して敵わないようになっているらしい。嬉しいような悔しいような、不思議な気分だ。
 瞳子はもう一度溜息を吐き出すと、つい先ほどまで見ていた一人ぼっちの桜を再び見上げながら口を開いた。
「祐巳さまに姉妹(スール)の申し込みをしたわ」
「……そっか。それで?」
「断られた。『もう二度と近付くな』、だって」
 言葉にすると、チクリと胸の奥が痛んだ。自分は祐巳さまに拒絶されたのだと再認識してしまう。じわりと目元が潤み、溢れ出た涙が雫となって頬を伝った。
「なッ――」
 瞳子の言葉に乃梨子は絶句している。瞳子の様子からある程度の予想はしていたが、そこまで言われているとは思わなかったらしい。とはいえ、姉妹(スール)の申し込みを断るだけでそこまで言うなんて、誰にも予想できないだろう。言われた瞳子自身、今でも信じられないくらいだ。
 手で涙を拭いながら、瞳子は無理やり笑顔を作った。そうでもしなければ、そのまま泣き崩れてしまいそうだったからだ。
「祐巳さまを怒らせてしまったみたいなの」
「どうして!」
「分からない」
 乃梨子が詰め寄ってくるが、瞳子は首を振って答える事しかできなかった。だって、本当に分からない。どうして祐巳さまが怒ったのか。どうしてあんな事を言ったのか。
「ただ……」
 拒絶の言葉を口にする直前に見た、祐巳さまの表情を思い出す。
「あの時の祐巳さまは、私には泣いているように見えたわ」
 そう口にした瞬間、それまで黙って瞳子たちを見守っていた志摩子さまが急に割り込んできた。
「その時の事、詳しく聞かせて」
「志摩子さん?」
 驚く乃梨子と一緒になって、志摩子さまへと目を向ける。人並外れた美しさを持つ志摩子さまは、期待と不安が入り混じったような表情を浮かべて瞳子を見ていた。
 いったい何がこの人をそんな表情にさせたのだろう。それほど深い付き合いがある人ではないのでその理由なんて見当も付かないが、それでも彼女が必死なのだという事は伝わってきた。
「もしかしたら、瞳子ちゃんの力になる事ができるかもしれないわ」
 志摩子さまと祐巳さまは友人関係にある。祐巳さまが怒った理由に何か心当たりがあるのかもしれない。
「だから話して。あなたと祐巳さんの間に何があったのか」
 でも、理由が分かった所で何か変わるのだろうか。あれほど強く拒絶されたのに、まだ何とかなるのだろうか。ここで話した所で、変えようのない現実を突き付けられるだけになるのではないだろうか。
 正直に言うと、怖い。もう傷付くのは沢山だ。これ以上傷付きたくない。
(それでも……)
 背中を押してくれた乃梨子。覚悟を決めた自分。拒絶された時の、祐巳さまの表情。
(ほんの少しでも可能性があるのなら――)
 そして、瞳子は深く息を吸い込んだ。



「そうして、私が泣いている所にお二人が来たんです」
 瞳子が話を終えると、志摩子さまは目を伏せていた。
 血が滲むほど強く唇を噛んで。血の気が失せて白くなるほど手を強く握り締めて。後悔して。たくさん後悔して。それでもまだ後悔し足りない。そんな風に見えた。
「これから私は……とても嫌な話をするわ。信じられないとは思うのだけれど、最後まで聞いてちょうだい」
 そう前置きしてから、志摩子さまは話を始めた。
 実際その話は到底信じられるようなものではなく、瞳子には志摩子さまが狂ってしまったとしか思えなかった。
 魔法だの化け物だの、馬鹿げている。自分はそんな事を聞かされるために祐巳さまとの事を話したわけじゃない。
 そう訴えたが志摩子さまは取り合わず、そのまま話を続ける。仕方なく話を聞きながら、作り話だとしても酷い話だ、と思った。
 その世界には救いがない。ずっと戦っていても、世界が滅ぶのを先延ばしにしているだけだ。焼き尽くされるのが先か、蟲によって蹂躙され尽くされるのが先か、それだけの違いでしかない。どちらにせよ滅ぶ事は決まっている。
 でも、所詮は作り話だ。そんな話を信じるつもりはない。
 けれど、志摩子さまは言った。
 あの世界は、諦める事しかできない世界だった、と。それでも、諦め切れずに戦う人たちのいた世界だった、と。
「祐巳さんもその一人だったわ」
 志摩子さまは、祐巳さまが持っていた錆びて歪んだロザリオの話を始めた。戦う度に傷付き、その度に祐巳さまの血を浴びて、あのような形になったらしい。
「あのロザリオは祐巳さんのお姉さまの形見であり、祐巳さんが戦っていた証でもあるの」
 信じてみよう、と思った。
『私は守れなかったんだ……』
 あのロザリオは確かに存在していて、瞳子はそれを見たのだから。
『この私が、お姉さまを殺したのよ』
 祐巳さまの悲しみに満ちた表情を、瞳子は確かに見たのだから。
『馬鹿な事、言わないでもらえる?』
 祐巳さまは戦っていた。その世界では、それしか残されてなかったとはいえ戦っていた。
『必要とされていない? 自分を見てくれない? 奪われたわけでも、失ったわけでもないくせに!』
 もう取り戻す事のできない平穏な日々。最愛のお姉さまの死。滅ぶ事が確定している世界。
『生きて、そこにいるのに!』
 希望なんて一欠けらも存在しない世界。
『どうしてそんな事で諦められるのよ!』
 そんな世界で、それでも祐巳さまは諦めずに戦っていたのだ。
「祐巳さんは痛みを感じないの」
 志摩子さまの言葉に、いきなり何を言い出すのだろう、と思った。痛みを耐えるのならともかく、痛みを感じないなんて、そんなおかしな事があるはずがない。
「自分の痛みも、他人の痛みも感じない。祐巳さんは、そう言っていたわ」
「そんなはずはありません。だって、私は見ました。あの時――」
 瞳子は確かに見た。それは、祐巳さまが瞳子を拒絶した時の事だ。あの時の祐巳さまは、涙こそ流してはいなかったが瞳子には泣いているように見えた。あんな表情をしていた人が痛みを感じないなんて、そんなはずがない。痛みを感じない人が、あんな表情を浮かべるはずがない。そして、あれは決して瞳子の見間違いなんかではないはずだ。
「瞳子ちゃんが見たという祐巳さんの表情は、あちらでは誰にも見せなかった表情なのよ」
「どういう事ですか?」
「祐巳さんは望まれた紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)ではなかったから、皆からずっと疎まれていたわ。詳しく話す事はできないけれど……集団で暴行を受けた事もあったの」
 嘘だ、と思いたかった。
 少なくとも瞳子の知っている祐巳さまは、そんな事をされるような人ではない。それに祐巳さまは、そんな事をされていたような素振りを少しも見せなかった。
 けれど、言われてみれば不自然だった。瞳子の記憶にある祐巳さまは、いつも笑顔を浮かべているのだ。
「祐巳さんはずっと耐えていたわ。どんなに辛くても笑顔を絶やさなかった。祐巳さんは決して自分の弱さを見せなかったの。どんなに辛くても祐巳さんは一人ではなかったから。自分を愛してくれるお姉さまがいたから。だから、祐巳さんは耐えていられたのよ。けれど祐巳さんは、そのお姉さまを失ってしまったの」
 つまり、瞳子が見てきた祐巳さまの笑顔は作られたもので、それは傷付いている事を隠すために作った自分を皆に見せている瞳子と同じなのだ。
「でも、祐巳さんはお姉さまを失っても、それでも諦めずに帰ってきたのよ。それなのに、たった一人で帰ってきた祐巳さんを……初めて自分の弱い所を他人に見せた祐巳さんを待っていたのは嘲笑と――」
 志摩子さまが口篭った。
 正直に言えば、もう続きなんて聞きたくはなかった。傷付けて、傷付けられるばかりの世界の話なんて聞きたくはなかった。しかし、どんなに酷い話だろうと瞳子は最後まで聞かなければならない。拒絶されたけれど、それでもまだ祐巳さまの妹(スール)になりたいと思っているからだ。
「何があったんです?」
 瞳子が先を促すと、志摩子さまは俯いたまま続けた。
「……酷い裏切りだったの。祐巳さんは、それが原因で心が壊れてしまったのよ」
 裏切り、と言うからには、裏切ったのは祐巳さまの近くにいた人なのだろう。それが誰なのか、なんて瞳子には見当が付いていた。目の前の人が浮かべていた悲痛な表情。後悔していたのは、その事なのだろうから。
「裏切ったのは……私なのよ……」
 志摩子さまの双眸から零れ落ちた涙が、彼女の足元の地面に小さな染みを作った。



(蓉子さまは? 他の人たちは? いったい何があったの?)
 祐巳さんが一人で帰ってきた、という報告を受けて急いでそこへ駆け付けた私が目にしたのは、狂ったように嗤っている彼女と、その足元に血に塗れて横たわっている少女。そして、そんな二人を遠巻きに眺めている数人の少女たちの姿だった。
 ここでいったい何があったのか、状況から見当は付いた。でも信じられなかった。祐巳さんが他人を傷付けただなんて、そんな事を信じたくなかった。
「祐巳さんっ!」 
 思わず名前を呼んでいた。
 私の声が聞こえたのだろう祐巳さんが、こちらへと身体を向けて――その顔を見た瞬間、私の足は彼女の傍まで進む事を拒んだ。自分の意思で止めたわけではない。どんなに前へ進もうとしても、私の足はその場所に根を張ったように動いてはくれなかった。
「ただいま、志摩子さん。見れば分かると思うけど、生き残ったのは私だけなんだ。お姉さまも他の人たちも、皆死んじゃったの」
 感情の抜け落ちた顔で。感情と言えるものを全て失ってしまったかのような声で、彼女はそう告げた。私の目の前にいる祐巳さんは、昨日まで接してきた祐巳さんとはまるで別人だった。
「祐巳さん……よね?」
「あはっ、おかしな志摩子さん。私が他の誰かに見えるの?」
 向かい合って話しているはずなのに、彼女が私の知っている祐巳さんと重ならない。まるで祐巳さんの皮を被った別人と話しているような、薄気味の悪い感覚に陥ってしまう。
 祐巳さんの顔を見ていられなくなり視線を下げると、彼女の足元に横たわっている少女の姿が視界に入った。
「その子は……?」
「これの事? 悪い子だから躾けてあげたの」
 躾なんて、そんな生易しいものではない事は一目瞭然だった。片腕は半ばで千切れていて、顔は皮膚が剥がれて誰なのか分からないほど酷い事になっている。彼女が受けたのは躾などではなく、ただの暴力だ。
 祐巳さんが理由もなく他人を傷付けるような人ではない事は知っているが、その時ここにいなかった私には、祐巳さんと彼女のどちらが正しいのかなんて判断できない。
 けれども、これだけは言える。
 たとえ彼女がどんなに酷い事を祐巳さんにしていたとしても、彼女もまた被害者なのだ、と。こんな世界になってしまってから、皆おかしくなってしまった。家族が、友人が、一緒に戦っていた仲間が、親しくしていた人たちが次々と死んでいく。次は自分の番なのかもしれない。死に怯えて、全く笑わなくなった人がいる。おかしくなってから、周囲の人々を傷付けてしまうようになった人もいる。
 今のこの世界は、強さだけが全てだ。ただ強ければ良い。化け物を多く殺せる人が皆に望まれる。そして、弱い者は見下され、嘲笑されるのだ。酷い時には殺される事すらあった。こんな状態になる前の世界では非難されるような事でも、今では正しい事となってしまっている。
「いったい……どうしてしまったの? あなたに何があったの? お願い祐巳さん。きちんと話して」
 私は、目の前にいる祐巳さんが怖かった。人を傷付けて、平然としている祐巳さんが恐ろしかった。
「私が弱かったからお姉さまを失った。それだけよ」
 足元に転がる少女の返り血か。それとも祐巳さんが流した血か。彼女は血に塗れた顔を歪めて嗤った。
「でもね、そのお陰で気付く事ができたんだ。どいつもこいつも壊れているから、言葉だけじゃ届かないんだって。力尽くで従えるしか方法はないんだって」
 目の前にいる彼女は、いったい誰なのだろう。本当に、あの祐巳さんなのだろうか。
 私の知っている祐巳さんは、いつも笑顔だった。辛い時も、悲しい時も、苦しい時も、笑顔を絶やさない人だった。弱音を吐いても事態は好転しない。泣き言を言っても世界は救われない。諦めて泣くくらいなら笑顔でいる方が良い。「大切な人たちの前では尚更ね」、そう言って微笑む彼女にどれほど救われた事か。
 それなのに、私は気付かなかった。それどころか、祐巳さんが得体の知れない何か別のものに思えて、今すぐこの場所から立ち去りたいくらいに怯えていた。
「ねえ、志摩子さん。他に方法があるのなら、私に――」
 そして、私はようやく気付く。
「何よ、それ。やめて……よ」
 祐巳さんが本当は泣いていた事に。
「やめてよっ! どうしてそんな目で私を見るの!」
 祐巳さんの震える声が聞こえて――私は今更にしてようやく気が付いたのだ。
 その声が泣き声だという事に。
 私は、嗤っていると思っていた祐巳さんが本当はずっと泣いていた事に、ようやく気が付いた。私に救いを求めていた事に、やっと気付いたのだ。
 そして、気付いた時にはもう手遅れだった。
「違うのっ! 私は、その……」
 必死になって誤解を解こうとした。でも、その為の言葉が思い付かない。なぜなら、私が祐巳さんに怯えた事は事実だったからだ。
「もういい……」
 いつも救われていたのに。いつか恩返ししたいと思っていたのに。肝心な今この時に祐巳さんを救えない。それどころか、深く傷付けてしまった。私は最低だった。
「待って」
「言い訳なんて聞きたくないっ」
 何とか縋ろうと伸ばした手を払われ、よろけた私は体制を崩して雪の上に倒れ込んだ。
 制服越しにも降り積もった雪の冷たさが感じられる。頬に触れた雪は刺すように冷たかった。
 祐巳さんは、たった一人でこの冷たい雪の中を帰ってきたのだ。私たちの元へと帰ってきたのだ。いったい、どんな想いだったのだろう。そんな人を私は裏切ってしまったのだ。
「あなたなんて友達じゃない」
 私を見下ろす祐巳さんの目は、恐ろしく昏かった。光の届かない井戸の底のような昏い瞳の中に、私の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
 祐巳さんは、他人を傷付けるようになった人たちと同じ目をしていた。この私が祐巳さんに、そんな目をさせるようにしてしまった。
 謝ろう、と思った。それで済むような事ではないけれど。許してはもらえないだろうけれど。同じように傷付けられるかもしれないけれど。たとえ殺されても文句は言えないし、言わない。それくらいの事を私はしてしまったのだから。
 私にとっては、血に塗れて転がっている生きているのか死んでいるのかさえ分からない少女よりも、祐巳さんの方がずっと大切だった。
 大切でないはずがなかった。だって彼女は私の友人で、私が憧れた人で、ずっと傍で見てきた人だから。
 だから、謝りたかった。酷く傷付けてしまった事を謝りたかった。
「でもね、志摩子さんには感謝しているんだよ?」
 謝りたかったのに……。
「他人なんて信じるだけ無駄なんだって、私に教えてくれたんだから」
 祐巳さんは、それさえも許してはくれなかった。
 昏い眼差しで私を射抜きながら傍を通り過ぎて行った。

 傷付けられていた方が、殺されていた方が、どんなに救われていただろうか。死にたい、と思った事は今までに何度もあった。救いのないこんな世界だから、誰もが一度はそんな思いを抱いただろう。けれど、自分を殺したい、と思ったのは初めてだった。
 あんなにも笑顔が素敵だった祐巳さんを。あんなにも傷付いていた祐巳さんを。たった一人で、泣きながらようやく帰ってきた祐巳さんを私が壊してしまった。
 だから、祐巳さんには届かない。私の言葉は届かない。私が彼女を裏切ってしまったから。
 あの世界の誰の言葉であろうと、祐巳さんには全く届かなかった。祐巳さんは、もう誰も信じなくなっていたから。
 けれど、もし……。もし届かせる事ができるとしたら、それは――。



「祐巳さまに傷付けられた方はどうなったのですか」
 まさか、と思いながら瞳子は尋ねた。
「命だけは取り留めたわ」
「……そうですか」
 命だけ、という事は、その他に失ったものがあったのだろう。
 祐巳さまとその人の間に何があったのかは分からないが、どんな理由があったとしても他人を傷付けた祐巳さまは最低だとも思う。そしてそれ以上に、目の前にいる志摩子さまも、その世界の人たちも最低だ。
 こんな風に思ってしまうのは、この世界が祐巳さまのいた世界とは違うからだろうか。……答えは出ない。分かるはずもなかった。瞳子はその世界の住人ではないのだから。
「それからの祐巳さんは滅茶苦茶だったわ。心も身体も痛みを感じなくなっていたの。他人を傷付けても、何とも思わなくなっていたのよ」
 そして、自分に従おうとしない人達を力で支配していったそうだ。とはいえ、祐巳さまよりも強い人は大勢いて、時には大怪我を負う事もあったらしい。祐巳さまはそういった敗北の経験すら更なる力に変えて、他人を従える度に、他人に傷付けられる度に強くなっていったそうだ。
「祐巳さんは、自分に逆らう人たちに全く容赦しなかったわ。殺しこそしなかったけれど、逆らおうとする気が失せるまで徹底的に痛め付けるの。そうして祐巳さんに痛め付けられた人たちの中には、もう二度と戦えなくなる人もいたわ」
「それって……」
 祐巳さまたちの世界でもう二度と戦えなくなるという事は、蟲と遭遇しても対抗する手段がないという事に他ならない。
「止めなかったんですか! そんな祐巳さまも、その人たちの事も、あなたは止めなかったんですか!」
 思わず声を荒げた瞳子から、志摩子さまは目を逸らした。
「……止めなかったわ」
「どうしてですか! 何で止めなかったんですか!」
「私だって止めたかったわよ!」
 尚も突っかかった瞳子に、志摩子さまは目の淵に涙を浮かべながら睨み返してきた。
「でも、私の言葉は祐巳さんにはどうやっても届かないのよ! どうすれば良かったって言うの! あの世界の人たちだってそうよ! あの人たちだって、どうしようもないほどに傷付いて……おかしくならなければ生きていく事ができなかったのよ……」
 誰もが誰かを傷付ける世界。誰もがおかしくなってしまう世界。何という最悪の世界だろう。
 しかし、それでもやはりこの人がやった事は許せない。
 志摩子さまの言葉は祐巳さまには届かない。祐巳さまを裏切ったのだから当然だ。いい気味だ、と思う。でも、それなのになぜ、そんな人が祐巳さまの事をこんなにもよく知っている?
 瞳子は悔しかった。目の前の、祐巳さまを裏切った人が自分よりも遥かに祐巳さまの事を知っているから。けれど、よく知っているのも当然だ、とも思う。だって、この人は祐巳さまと同じ世界にいただけではなく――。
「祐巳さまの事、ずっと見ていたんですね」
「……そうよ。ずっと傍で見てきたわ」
 祥子お姉さまを見てきた瞳子と同じように、ずっと祐巳さまを見てきた人だから。
「辛い……ですね」
「そう思う資格は、私にはないわ」
 志摩子さまはそう言って目を伏せた。
 瞳子は朱に染まっている空を仰いだ。冷たい空気が制服越しに肌を刺している。吐き出した息は白く、空中に溶けていった。
 ここよりもずっと冷たかっただろう雪の中を、お姉さまを失った祐巳さまはどんな思いを抱きながら一人で学園まで戻ったのだろうか。辛かった、悲しかった、は当然だろう。死にたい、とまで思った事だろう。
 でも祐巳さまは、それでも生きて学園まで戻った。どんな理由だったにせよ、それは強いと思う。
 けれど、失ってしまったのだ。酷く傷付けられて、痛みを失くしてしまった。おそらくは、それ以上傷付かないように、自分を守るために痛みを失くしてしまったのではないだろうか。
「傷付いた姿を見せる事は――」
 聞こえてきた声に、瞳子はそちらへと視線を向けた。
「弱さを見せる事」
 志摩子さまはいつの間にか顔を上げていて、銀杏の中にある桜の木を見つめていた。
「祐巳さんにとって弱さを見せる事は、何よりも怖い事なの」
 ゆっくりと、桜の木から瞳子へと視線を向けてくる。
「瞳子ちゃんと祐巳さんは、よく似ているわ」
 ああ、そうか。
「私を拒絶したのは……」
 ようやく分かった。
「ええ、そうね」
 瞳子が弱さを見せてしまったからだ。
「祐巳さんがあなたを拒絶したのは――」
 瞳子が隠していた姿が弱さだったから。
「きっと、あなたの姿が自分の姿に重なったからよ」
 自分の弱さを見せ付けられているようだったから、祐巳さまは瞳子を拒絶したのだ。
「……でも、それならなぜ今頃になって、誰にも見せなかったような表情を見せたのでしょうか?」
 たとえ、どんなに傷付けられても決して見せなかったという表情。瞳子を拒絶した時の、祐巳さまの泣いているような表情を思い出す。
「今の祐巳さんは、とても不安定になっているの」
「不安定?」
「この世界は優し過ぎて、今の祐巳さんには辛いのよ」
 優し過ぎて辛い? 意味が全く分からない。優しいという単語は、どんな時でも決して悪い言葉ではないと思う。それなのに、なぜ優しくてはならないのだろうか。
「どういう事です?」
「今の祐巳さんの持つ強さは、この世界では必要ないの」
「あ……」
 そうだ。確かに必要がない。この世界は、祐巳さまのいた世界のように滅ぼされようとしているわけではない。祐巳さまの持つ強さは、ここでは全く必要がない。
「それに……」
 何かを言いかけて、志摩子さまが瞳子を見てきた。その顔に浮かんでいるのは迷いの色で、志摩子さまはしばらく悩んでいたようだが、結局「いいえ、何でもないわ」と首を左右に小さく振った。
 気になったので尋ねようとした瞳子よりも先に、志摩子さまが口を開いて話を続ける。
「今の祐巳さんは不安定だから、自分でも知らないうちにそういう表情を見せてしまったのだと思うわ」
 聞くな、という事だろう。それが何なのか分からないけれど、今聞いて良い事ではないらしい。
 本当は尋ねたいのだけれど、瞳子はそれを抑えた。志摩子さまがそういう素振りをしたという事は、本当に聞いてはならない事なのだろうから。
「けれど、それがあなたの前だから、という理由もそこにはあると思うの」
「私の前だから、ですか?」
「あなたが、あちらの世界には存在していなかったから」
「え?」
「言葉通り、あちらの世界に瞳子ちゃんは存在していなかったのよ。向こうの世界では、姿を見た事も名前を聞いた事もないわ。だからこそ、瞳子ちゃんの言葉なら祐巳さんに届くかもしれない」
 ああ、そういう事か、と志摩子さまの話してくれた事を思い出す。
『あの世界の誰の言葉であろうと、祐巳さんには全く届かなかった』 
 つまり、あの世界に存在していなかった瞳子の言葉なら届くかもしれない、という事だ。
「でも私は……もう拒絶されました」
 そして、今になって不安に思う。もしかしたら自分は、自分でも気付かないうちに、祐巳さまを祥子お姉さまの身代わりにしていたのかもしれない、と。祥子お姉さまが瞳子を見てくれないから、瞳子を見てくれる祐巳さまを選んだだけなのかもしれない、と。
「諦めるの? 諦められるの? 祐巳さんは決して諦めなかったわよ。心は壊れてしまったけれど、それでもあの世界を守ろうと戦っていたわ。それに、ここで諦めたら……私のようになってしまうわよ。それでも良いいの?」
「私は……」
 けれど瞳子は、祥子お姉さまよりも祐巳さまの妹(スール)になりたいと思った。祐巳さまに、自分のお姉さま(スール)になって欲しいと思った。
 身代わりであろうとそうでなかろうと、祐巳さまの妹(スール)になりたい、と思ったのは本当だ。それだけは瞳子の真実であり、間違いなく本当の気持ちだ。
 志摩子さまと乃梨子が見つめる中、瞳子はぎゅっと強く拳を握りながら言った。
「諦めません」
 諦めたくない。もう逃げるのはたくさんだ。
 一度は拒絶された。また拒絶されてしまうかもしれない。正直に言ってそれはとても怖いのだけれど、このまま何もしないで諦めるなんて、それはもっと嫌だ。
「諦めるものですかっ」

 ……それに、あんな事をされたのは初めてです。まさか、胸倉掴まれるわ、怒鳴られるわ、なんて思いもしませんでした。あの人は、祥子お姉さまに付けられた傷よりも深い傷を、私の心に付けてしまいました。その責任を取っていただくためにも、私は絶対に諦めません。
 私だって、祥子お姉さまと一緒で負ける事が大嫌いなんです。ですから、覚悟しておいてくださいね。
 必ずあなたの妹(スール)になってみせますから。


一つ戻る   一つ進む