【1911】 あなたと二人で  (33・12 2006-10-09 23:37:07)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:これ】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




 身体に傷を負えば、痛くて、泣きたくて、叫びたくて。
 心に傷を負っても、痛くて、泣きたくて、叫びたくて。
 でも、私にはお姉さまがいた。お姉さまは私の全てだった。お姉さまがいれば、どんなに傷付けられても耐えられた。お姉さまがいたから、どんなに傷付けられても私は笑顔でいられた。
 けれど、そのお姉さまはもういない。

 泣いている瞳子ちゃんをその場に置き去りにして、私は中庭を後にした。
 途中で乃梨子ちゃんを連れた志摩子さんと擦れ違ったから、おそらく二人が瞳子ちゃんを見付ける事になる。そうなると、きっと志摩子さんは向こう世界の事を話すだろう。あの世界で私に何があったかを話してしまうだろう。今、私に最も近い場所にいるのが瞳子ちゃんだから。
 瞳子ちゃんは、志摩子さんの話を聞いてどうするだろうか。諦めるだろうか? 諦めないだろうか? ……何となくだけど、あの子は諦めないような気がする。あの子は、私なんかよりずっと強い。でも、それで何かが変わるわけではない。私には届かない。
 志摩子さんはきっと、あの事だけ話さない。私から話す事を望んでいるだろうから。
 でもね、私は話したりはしないよ。だから届かない。たとえ瞳子ちゃんの言葉だろうと私には届かない。届くはずがない。……それなのに、どうしてだろう? 届かせて欲しいと思っている自分がいる。
 そんなの有り得ない。だって、届いてしまったら私はまた弱くなる。今の強さを失ってしまう。きっと、もう二度と立ち上がれなくなる。
 どうしてかな? どうして、こんな事になったのかな? だって、おかしいよ。痛い、だなんて……。そんな事あるはずがないのに。私、どうしちゃったっていうの? 何で心が痛むのよっ!

 四日目、朝。
「祐巳さま」
 いつもと同じようにマリア像の前を通り過ぎていると、何者かに声をかけられた。
 このパターン多いな、と思いながら振り向くと、百八十センチはありそうなすらりとした長身に、長い黒髪を持つ女の子。祥子さまに似た雰囲気を持つ美少女だった。
 本当にこの学園って美形揃いよね、と妙な事に感心しながら油断なく身構える。
「ごきげんよう、祐巳さま。それとも、初めまして、の方がよろしいですか?」
 少女はそう言って、にっこりと微笑んだ。
 彼女とよく似た人種とは違って、その表情には嫌味がなかった。だからというわけでもないのだけれど、身構えるのはやめる事にした。というか、どうせ身構えた所で無駄なのだ。
 祐巳の周囲では、会話の途中なのか口を開いたままの生徒やマリア様に祈りを捧げている生徒、他にも数人の生徒たちが彫像のように固まっていた。
 祐巳を除いた辺り一帯の――いや、おそらく全世界の時間が止まっていた。
 正しくは、止められていた。こんな事ができるのは、アレしかいないだろう。アレだ、桂さんの同類。
「人、って表現して良いのか知らないけど、あなたで二人目よ。神様に出会ったのは」
「桂さまの事ですね。あと、人、で良いですよ。私たちもそう言っていますから」
 では、今後はそう表現させてもらう事にする。桂さんとは、最低でももう一回は会わなければならないみたいだし。
 それはそうと、また神様だ。運が良いのか悪いのかは知らないが、桂さんといい彼女といい、こうもポンポンと神様に出てこられると有り難味が減るような気がする。
「ひょっとして、神様って結構暇だったりするの?」
 祐巳が尋ねると、彼女は口元を押さえて笑った。仕草や振る舞いが桂さんとは大違いで、目の前の彼女なら女神と呼んでも良いような気がする。
「普段は結構忙しいんですが、今は桂さまが動いてくださっているのでその分だけ暇と言えば暇ですね。私はそんな風にして空いた時間は、バスケ部の方に打ち込むようにしています。運動とか凄く得意なんですよ」
「いや、バスケ部所属の神様って……」
 リリアン女学園の制服も着ている事だし、桂さんと同じようにこの学園に通っている事は間違いないだろうな、とは思っていたのだがさすがにそれは予想外だ。
「それを言ったら、桂さまだってテニス部に所属しているのですが」
 良いのかそれで、と祐巳は呆れた。そもそも、神様相手に誰が勝てるというのだろう。勝つ事が最初から決まっているのでは、試合をしたって面白くないと思うのだけれど。
「バスケをやっている時に神様の力は使いませんから、その辺りは大丈夫ですよ」
 ああ、やっぱり神様なんだな、と感心した。こちらの考えている事を当たり前のように読んでくる。
「では、心を読んだついでに言っておきますが、私は瞳子さんのクラスメイトでもあります」
 おまけに、わざわざ瞳子ちゃんの事を付け加えるとか。まさか昨日の事も知っているのだろうか――と、これまた考えていた事を読まれたらしく、彼女が笑顔を苦笑いへと変えた。
「あんまり瞳子さんを苛めないでくださいね。彼女、ああ見えて結構脆い所もありますから」
「……別に苛めたわけじゃないわよ。瞳子ちゃんとは仲良いんだ?」
「こちらの世界ではそうでもないのですが」
 って事は、別の世界では仲が良いって事か。
「それで、ここには何しに来たの?」
「特にこれと言って理由はないんですが、敢えて言うなら、せめてご挨拶だけでも、と思いまして」
「挨拶ねぇ。桂さんといいあなたといい、いったい何を企んでいるのか教えて欲しいんだけど」
「残念ですが、今回の事に私は関わっていないんです。それに、どういう目的があるのかは知っていますが、お話しするわけにはいかないので。申し訳ありません」
 あっそ。じゃあ、本当に挨拶だけ?
「ええ。余所の世界では、ですけれど、祐巳さまにはお世話になっているので。本当は、少しくらいはお手伝いしたいのですが……」
「余計なお世話はして欲しくないから、いらない」
 面倒事は嫌いだ。
「余計なお世話が得意なのは、余所の世界のあなたの方なんですけれどね」
 彼女はそう言って苦笑した。
「でも、そのお陰で別の世界の私も救われたんです」
 そんな事を言われても困る。
「そんなの私は知らないし、私には関係ないでしょ」
「それでもやっぱり、あなたとその世界の祐巳さまは同一の存在なんです」
 確かに別の世界だろうと、その人物が福沢祐巳であるならば、ここにいる祐巳と同一の存在なのだけれども。でも、こうやって思考している福沢祐巳は自分しかいないわけだし、なんだかややこしい。
「まあいいわ。ところで、あなたのお名前は?」
「細川可南子って言います」
「可南子ちゃん、で良いのかな? それとも、可南子さま、の方が良い? 神様なんだし」
「確かに神様ですが、一年生なんで可南子ちゃんで良いですよ」
 自分で可南子ちゃんはちょっと恥ずかしいですね、と頬を掻きながら彼女は続けた。
 背が高く、やたらと大人びた雰囲気を持っているけれど、その仕草はとっても可愛いく見えた。ちょっと惹かれるものがある。
「もしかして、他所の世界では私と姉妹(スール)だったりする?」
「そういう世界も確かにありますね」
 穏やかに可南子ちゃんが微笑む。
 その微笑があまりにも綺麗で祐巳が見惚れていると、可南子ちゃんが申し訳なさそうに言った。
「もう行かなければならないので、これで失礼しますね」
「ん、分かった。神様のお仕事、頑張って」
「はい。祐巳さまも」
 そう言い残して、まるで最初から存在してなかったように可南子ちゃんの姿が目の前から消えた。同時に、祐巳の周りにいた生徒たちが動き始める。
 彼女たちは、まさか自分たちが時間を止められていたなんて思いもしないだろう。馬鹿みたいに能天気で良いわね、と彼女たちを眺めながら可南子ちゃんの言葉を思い出す。
(祐巳さまも、って何を頑張れと? いったい私に何をさせる気なのよ?)
 神様には本当に隠し事が多いようだ。それが何なのか考えてもどうせ分からないし、時間の無駄なのでやめておくけれど。



 教室に入ると、極度の興奮状態にある何者かが祐巳が掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた。
「祐巳さん! できたわ! 見て!」
 いやいや、いきなり何? っていうか、誰よあなた? 単語を並べただけのセリフは頭が悪く思われるよ……って、よく見れば真美さんだった。
 それにしても、いったいどうしたというのだろうか。随分と酷い顔をしている。
「えっと、目の周りの隈がとても素敵だね。……ごめん、すっごく怖いから睨まないで」
 謝りつつ真美さんが手にしているものを見て、どうして話しかけられたのかを理解する。
 アレだ。真美さんの手にあるのは、リリアンかわら版と呼ばれるものだ。昨日の今日で本当に完成させたらしい。真美さんホントに仕事早いねー、と感心しながら彼女の面白い顔(おそらく徹夜明け)を極力見ないように受け取って読んでみる。
(ふむふむ、ふむふむ。……って何よ、これ!?)
 例の写真が一面に載っているのは同じだった。ただ、その下にある文字が前とは違った。そこには、「私のタイは曲がりタイ。私はタイを直しタイ。二人合わせて、おめでタイ。とってもタイ変」と書かれてあったのだ。 
 怒りでフルフルと手が震えた。それと同時に脱力させてくれるとは、こちらの真美さんはとんでもないやり手らしい。とりあえず何か文句を言わなくては、と口を開きかけた祐巳よりも先に真美さんが口を開いた。
「それは冗談なんだけど」
 冗談かよっ! と魂のツッコミ。勿論、淑女として失格となるので決して声には出さない。
「本物はこっち」
 そう言って真美さんが差し出してきた、もう一つのかわら版を受け取る。
 読んでみると、確かに昨日真美さんが言っていた通り祥子さまと祐巳のツーショット写真についてただの偶然である事と、それを事実の確認も取らずに面白おかしく掲載してしまった事に対しての謝罪文が載せられていた。
 ちゃんとしたのがあって良かった。部室を粉微塵にするのって面倒臭いのよね、なんて祐巳がほっと胸を撫で下ろしていると真美さんが溜息を吐きながら言った。
「勿論、配るのはこれよ。さっきのは本当にただの冗談。徹夜すると意味不明な事をするものね」
 そんなものなのかな、と思った。祐巳だって向こうの世界では何度も徹夜をした事がある。夜になると活発に動き出す、楕円形で素早くて時々滑空してくれるおぞましい奴がいたからだ。
 程良く緊張していたから逆に集中できたんだよね、と当時を思い出しながら真美さんを見ると何度も欠伸を噛み殺していた。余程眠いらしい。まだ一日が始まったばかりだというのに大変そうだ。
 とりあえず、「お疲れさま」とあんまり意味はないだろうけれど労ってあげた。
「本当に疲れたわ。でも、こちらもそれなりの見返りがあったから」
「見返り?」
 何の事だろう? と思って聞いてみると、「今度の日曜日にお姉さまの奢りで遊びに行くのよ」と返ってきた。そもそも今回の件で真美さんには何の落ち度もなく、三奈子さまの暴走に巻き込まれただけなのだ。その後始末をするのだから、それくらいの見返りはあっても良いはずだ。
「それなら私の受けた迷惑分も合わせて、精一杯、とびっきり、ゴージャスに遊んできてね」
 祐巳が言うと、口元を隠した真美さんが欠伸をしながら頷いた。



 チャイムが鳴って、待ち侘びたお昼休み。
 皆がお弁当箱を取り出したりミルクホールに向かったりする中、祐巳は教室の片隅でほっと一息吐いていた。というのも、授業の内容に付いていけないからだ。あちらの世界で祐巳が普通の授業を受けたのは高校一年生の秋までで、それ以降はあの蟲共と戦っていた。もしもこのままあちらの世界に戻れないようであれば、こちらの世界で生きていくために一年と少しの間の授業内容をどこかで取り戻さなければならない事になる。
(……まあ、その時はその時だ。とりあえず今は、売り切れてしまう前にパンを買いに行くべきよね)
 昨日までの三日間の祐巳のお昼は、ミルクホールで買ったパンとジュースである。それは今日も変わらない。福沢家は引っ越ししてきて間がなく、お母さんは荷物の整理やらお父さんの仕事の手伝いやらに手一杯で、祐巳と祐麒のお弁当にまで手が回らないのだ。祐巳としてはあちらの世界では自炊していたので自分で作っても構わないのだが、面倒臭いと言えば面倒臭いしお昼ご飯を買うお金は渡されるので、無理に作る事はないか、と作らない事にした。
 財布を持っている事を確認して、さて行くか、と席を立ちながら周りを見てみると、最近はいつも薔薇の館で昼食を摂っている由乃さんが珍しい事に自分の席でお弁当箱を開いている。
「今日は薔薇の館には行かないの?」
 尋ねてみると、由乃さんがビクッと肩を震わせた。何を驚いているんだろう、と由乃さんの顔を見ると、良い感じに目を逸らしてくれる。
「う、うん。れっ、令ちゃんが今日は用事があって行けないって言っていたから、スピーチのアドバイスをもらう事ができないなら私も行く意味がないしっ」
 悪いけど信じられない。っていうか、どもり過ぎだと思う。それから、慌て過ぎて黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の事を人前なのに令ちゃんって呼んだ。
「そうなんだ?」
「え、ええ、そうなのよ」
 怪しい。何かあったのだろうか。例えば、令さまと喧嘩したとか。
「何かあったの?」
「ううん、別に。その、大した事じゃないわ」
「それって、大した事ではないけど何かあるって事は間違いないよね? 私にも言えないような事?」
「うー……ごめんなさい。誰にも言うわけにはいかないのよ」
 申し訳なさそうに頭を下げてくるが、祐巳としては別に本気で聞きたかったわけじゃない。由乃さんの反応が面白かったので、少し意地悪してみただけだ。
 いやしかし、由乃さんを弄るのってすっごく楽しかった。癖になってしまいそうだ、またそのうち苛めてみよう、なんて思いつつ寂しげな表情を浮かべる。
「ううん、誰にだって言えない事ってあると思うからね。気にしてないよ」
「祐巳さん……」
 感動したように、うるうるした瞳で見つめてくる由乃さん。
 我ながら素晴らしい猫の被り方だ。もっとも、師匠は向こうの世界の由乃さんなんだけれども。



 何というか。予期せぬ事って結構あるもので、ミルクホールからの帰り道で、反対側からこちらへと向かってくる瞳子ちゃんの姿を見付けて思わず立ち止まってしまった。
 彼女もこちらに気付いたようで、同じように立ち止まって祐巳をじっと見てくる。
 そんな彼女を見て、まずい、と思った。祐巳に向けられた彼女の視線からは、迷いというものが感じられなかったからだ。昨日あれだけの事をされたのに、瞳子ちゃんは全く諦めてなかった。傷付いても、またぶつかってくる気だ。
 彼女は止めていた足を再び動かして一直線にこちらに向かって歩いてくると、祐巳の前でピタッと立ち止まった。何も言えずにいる祐巳を真っ直ぐに見つめながら、瞳子ちゃんが口を開く。
「話があります」
「私にはないわ」
 そう言って踵を返し、瞳子ちゃんに背中を向けて一歩踏み出した途端、「逃げるんですか」と背後から声がかかる。それを聞いた瞬間、祐巳は足を止めていた。本当は逃げ出してしまいたかったのだけれど、仕方なく振り向く。
「誰が逃げるって?」
「逃げるつもりがないのなら、少しの間私とお話をしませんか」
「話、ね。良いわよ」
「ここでは目立つので場所を変えましょう。今の時間なら薔薇の館が空いています」
「ふん、そういう事か」
 ここにきて、由乃さんが教室で昼食を摂っていた理由が分かった。どうりで理由を教えてくれなかったはずだ。という事は、この瞳子ちゃんも偶然ここを通りがかったわけではなく、この辺りで祐巳を待ち伏せしていたのだろう。
 だって、山百合会のメンバーはここ数日昼食時には薔薇の館に集まっていて、お姉さま方から立ち会い演説会での演説内容についてアドバイスをもらったりしている、と昨日由乃さんが言っていたのだ。だから普通であれば、この時間に薔薇の館が空いているはずがない。
「何です?」
 キョトンとした表情の瞳子ちゃんは、バレているとは思ってないようだ。
 あなたが由乃さんたちに手を回していた事が分かったのよ、と心の中で彼女を嗤いかけて、待てよ? と考え直す。昨日のあの後、志摩子さんが瞳子ちゃんを見付けたのであれば、もしかするとこれは志摩子さんの仕業なのかもしれない。というか、その可能性は非常に高い。向こうの世界での幾つかの重要な作戦は、志摩子さんが立てたものだったし。
「あの、祐巳さま?」
 呼びかけられて我に返る。知らず思考の海に潜り込んでいたようだ。この間は無防備なので今度から気を付ける事にして、とりあえず先に返事をしておこう。
「分かってるよ。行けば良いんでしょ、行けば」
「では早く行きましょう」
 連行される犯人ってこんな感じかなぁ、と肩を落としつつ祐巳は瞳子ちゃんの後を追った。



 薔薇の館には誰もいなかった。
 しん、と静まり返った館に、祐巳と瞳子ちゃんの二人が階段を上る音だけが響く。ここに来るまでお互いに無言で、妙に落ち着かない。昨日の事で文句でも言われていた方が幾分かマシだと思えた。
 階段を上り終えて瞳子ちゃんが会議室の扉を開ける。誰もいないのが分かっているので、当然ノックはしなかった。二人して部屋に入ると、持っていたパンとジュースを机の上に置いた所で祐巳が先に口を開いた。
「それで、話って?」
「祐巳さまのいた世界の話を、志摩子さまから聞きました」
 やはりあの後、志摩子さんは瞳子ちゃんを見付けたらしい。しかも、あちらの世界の話までしている様子。それなら、志摩子さんには悪いのだけれど仕方がない。
「実は志摩子さんには妄想癖があるの。おかしな話をされたでしょう?」
「……ご自分では気付いていないかもしれませんが、真面目な話をしている時や自分に都合が悪い時、あなたはいつも茶化しますね」
「そう?」
 そうだったかな? 言われてみればそうだったような気もする。今度から気を付けよう。そう考えながら瞳子ちゃんを見れば、冷ややかな目を祐巳に向けていた。
「あなたの世界の事、どうして話してくださらなかったんです?」
「魔法だの蟲だの、そんな事をこの世界の人間に話せるわけないじゃない。話した所で、信じてもらえるわけないわ」
 下手すれば狂人扱いだ。
「でも祐巳さまは、不思議な力を持っているんですよね? それを見せていただけたら、私は間違いなく信じたと思います」
 それでも祐巳は話さなかっただろう。なぜなら、祐巳の生きるべき場所はこの世界ではないのだから。
「住んでいる世界が違うから話さなかったのよ。これ以上の理由なんて必要ないでしょう?」
「ですが、あなたは今ここにいる。ここにいるじゃないですか! 現実を見てください! あなたは生きていて、今この場所にいるんです! この場所が、あなたが今置かれている現実なんです! あなたが戦っていた世界ではないんです! それに、住んでいる世界が違っても志摩子さまと乃梨子は姉妹(スール)になっているじゃありませんか!」
「そんな事っ、言われなくても分かっているわよっ!」
 祐巳が叫ぶと同時に、部屋の中を風が疾った。それは不可視の刃となり、瞳子ちゃんの縦ロールを留めてあるリボンを切り裂く。
「ひっ!」
 瞳子ちゃんが小さな悲鳴を漏らした頃には、風は既に収まっていた。はらり、と裂かれたリボンが床へと落ちる。
「い、今のは……」
 青褪めながら、床に落ちた自分のリボンと祐巳とを交互に見てくる。
「さっきあなたが言ってた『不思議な力』ってやつよ。私は化け物なの。こんな風に他人を傷付ける事ができる化け物が、この優しい世界の人間と姉妹(スール)になる? 無理に決まってるでしょ」
 祐巳に言葉に瞳子ちゃんは黙り込んだ。
「この場所にいるからこそ分かるの。私がこの世界でどんなに異質なものなのか。私はこの世界には必要ないんだって、本当によく分かるの。私はここにいてはいけないのよ」
 何も言えない瞳子ちゃんを見て、ここから立ち去ろうと踵を返して扉に向かう。
「志摩子さんたちが姉妹(スール)になれたのは、志摩子さんがあちらの世界に戻る事を諦めたからよ。私はまだ諦めていないわ。これだけ話せば十分でしょう? もう帰るからね」
 そう言ってドアノブに手をかけた所で、
「逃げるんですか」
 瞳子ちゃんの声が聞こえた。
「そんなに私と向き合うのが怖いんですか」
 その言葉が耳に入った瞬間、祐巳は思わず動きを止めてしまっていた。
「まだそういう事言うの? いい加減にしないと本気で痛め付けてやるわよ」
 昨日と同じように身体のどこかが痛み始めた。何なのか分からないのだけれど、まるで小さな針で刺されているようにチクチクと痛む。
「痛い……んですね」
「っ!」
 思わず振り向くと、瞳子ちゃんは祐巳をじっと見つめていた。まるで祐巳の心の裡を見るかのように、瞳子ちゃんは祐巳だけをその瞳に映していた。
「今、祐巳さまがどんな顔をされているか、ご自分で分かっていますか? 愚問でしたね。分かってないですよね。痛みを失くして、そんな事も分からなくなってしまったんですよね」
「な……にを言うかと思えば、そんな事」
 祐巳は全部見透かされているような気になって、瞳子ちゃんから視線を逸らした。
「今のあなたは痛みを感じている。違いますか?」
「違うっ! そんなものはないっ!」
「本当は痛いくせに!」
 瞳子ちゃんが叫んだ。
「痛くなんてないっ!」
 わけが分からないけれど、ずっと痛いままだ。どんどん酷くなってくる。
「泣きたいくせに!」
 再び瞳子ちゃんが叫んで、その声が部屋に響き渡る。
「やめてっ!」
 瞳子ちゃんに何か言われる毎に、弱い頃の自分に戻ってしまうようで嫌だった。そして、その度に痛みが強くなる。いったい何の痛みだろう。まるで悲鳴を上げているような――。
「弱いくせに!」
 瞳子ちゃんに『弱い』と言われて、頭の中が真っ白になる。次の瞬間、祐巳は反射的に叫んでいた。
「黙れっ! それ以上言ったら殺すわよ!」
「っ! ……そうですか」
 この部屋に来てから初めて、瞳子ちゃんが祐巳から視線を逸らした。同時に、ズキンと今まで以上に大きな痛みが祐巳を襲った。
「あ……」
 そうか、と祐巳は気が付いた。自分を襲っていた痛みの正体に、ようやく気が付いた。気付きたくなかったのに気付いてしまった。
「殺す、ですか」
 瞳子ちゃんが再び祐巳に視線を向けてくる。その瞳には、強い意思が宿っていた。
「な、何よ?」
 視線を逸らしてしまいそうになりながらも、祐巳はそれに耐えた。
 ここで彼女の言葉を届かせてしまったら、自分は弱くなってしまう。それは、とてつもなく怖い事だから、視線を逸らすわけにはいかなかった。何としても瞳子ちゃんの言葉を跳ね除けなければならなかった。
「できるんですか? あなたに私が殺せますか? あなたに人が殺せるんですか?」
「あ、あなた自分が何を言ってるか分かってる? 私が本気で殺せないとでも思っているの?」
 精一杯の虚勢だった。これで瞳子ちゃんが諦めてくれなければ、祐巳にはもう後はなかった。
「だったら、さっさと殺せば良いじゃないですか。何を躊躇っているんです? 私を殺して、それで、そうやっていつまでも強いフリをしていれば良いです。私はそんな人の妹(スール)になりたかったわけじゃありません!」
 痛くて、痛くて、何でこんな事になっているのか分からなくて眩暈までしてきた。
「わっ、私は……」
「殺せないですよね。あなたに人は殺せない。お姉さまの事があったから、それだけは絶対にしない。違いますか?」
 言われた通りだった。確かに他人を傷付けたけれど誰かを殺すなんて、そんな事はした事ないし、するつもりもない。
 いくらこの世界よりも遥かに命というものが軽く扱われていた世界だったとはいえ、他人の命を奪う事はできない。それは許されないし、もしそれをしたら祐巳は自分を許さない。それが、その人に関わる人たちをどれだけ傷付ける事になるか、祐巳はよく知っていた。
「……そうね。あなたの言う通りよ。認めるわ。でもね、私は人を殺せなくても壊す事はできるのよ」
 指示に従おうとしない人を、二度と口答えできないくらいに徹底的に痛め付けた。その結果、その人は二度と戦えなくなった。祐巳としては、そういう人たちのせいで他の人が身を危険に晒す事になるのなら、その人たちを潰した方がずっとマシだと思っている。そして、そうやって潰してきたのは一人や二人どころではない。
「そうですね。でも、今のあなたにそれができますか?」
「今まで私が何人壊してきたと思ってるの? 今更一人くらい増えても、どうって事ないわ」
 諦めて欲しかった。一刻も早く諦めて欲しかった。
 これ以上、瞳子ちゃんの声を聞きたくない。
 これ以上、瞳子ちゃんを――。
「でも、ここはあなたの世界とは違うから、あなたにそんな事はできませんよね」
「なっ、何を言ってるの? そんな事はないわ。私は平気なんだから」
 何で諦めてくれないのよっ! 早く諦めてよっ!
 悲鳴を上げ続けている心の中で叫ぶ。
「痛いですか? 今あなたが感じている痛みが何の痛みなのか、もう分かっていますよね」
「知らないっ! そんなものは知らないっ!」
 聞きたくないから。それを認めたくないから。祐巳は耳を塞いだ。
 けれど、無駄だった。
「他人を傷付ける痛みなのではありませんか?」
 瞳子ちゃんの言葉は、耳を塞いだ手を通して聞こえてきた。
「もうやめてっ! やめてよっ! 私の事なんて、あなたには関係ないでしょうっ!」
 もう限界に近い。痛みで吐き気まで催してきた。
「なぜ傷付ける痛みまで失くしてしまったんです?」
「煩い! 黙れっ! もう黙って……お願いだから――」
 あまりに痛みが酷くて、両膝を床についてしまう。
 けれど、瞳子ちゃんは容赦がなかった。
「代わりに言ってあげましょうか? 誰かを傷付ける事さえ、あなたには痛い事だから。傷付けても、傷付けられても、あなたは傷付いてしまうんです。本当のあなたは、他人を傷付けて平気でいられるような人じゃないから。本当は、とても優しい人だから」
 違うっ!
「そんな事ないっ! 他人なんていくら傷付けても私は平気よ! 私は強いの! だから……だから私は、傷付かない……」
「強さを履き違えないでください。あなたは、とても優しい。それは弱さなんかじゃないんです」
「煩い! 黙りなさいっ! 私は……」
 たくさんの人を傷付けた。そんな自分のどこが優しい? 優しいはずがない。それに、優しさは弱さだ。弱さなんて不要だ。弱かったから失った。弱かったから奪われた。だから自分は強くなったのだ。
 でも、それなのに、
「この世界に、今のあなたの強さは必要ないんです」
 その強さは、この優しい世界では必要ないのだ。
「そんなの分かってるわよ……」
 祐巳は俯いた。俯いて、泣き出してしまいそうになりながら言った。
「でも……どうすれば良いのか私には分からないのよ……」
 それは、お姉さまを失った時以来、初めて他人に漏らした弱音だった。
 いきなりこんな世界に飛ばされて。どんなに帰りたくても、帰る術の糸口さえ見付からなくて。由乃さんたち、よく知っていた人物が全く知らない人物として現れて。もし、このまま帰る事ができないのであれば、ここで生きていくしかなくて。
 けれど、この世界では祐巳の持つ強さに意味はなく、持っている必要さえないのだ。
「もう泣いても良いんですよ」
 俯いたままでいる祐巳に、目に見える距離だけではなく、目に見えない距離でも瞳子ちゃんが一歩近付いた。
「うるさい……だまれ……」
 祐巳の声には力が入ってなかった。泣いても良いんだ、って思ってしまったから。
「辛かったんですね」
 また一歩、瞳子ちゃんが近付いた。
 でも、祐巳にはそれが酷く怖いものに感じられた。不安で押し潰されそうだった。
「おねがい……やめて……」

 弱くなるから。
 縋りたくなるから。
 優しい言葉なんてかけないで。

「弱くなってもいいんですよ」
 祐巳が顔を上げると、目の前に瞳子ちゃんの顔があった。
 痛ましそうな顔ではなかった。悲しそうな顔でもなかった。辛い表情でも、苦しい表情でもなく。祐巳に同情しているとか、そんな表情でもなかった。ただ、優しい表情がそこにあった。
 祐巳が寄りかかっても、何も言わずに支えてくれるだろう瞳子ちゃんがそこにいた。
「良い……の? 弱くなっても。また、何か奪われたりしない? 傷付けられたりしない?」
「この世界は優しいですから」
「でも……私が弱かったから、あんな事になったの。私のせいでお姉さまは死んだのよっ!」
 祐巳が強ければ。皆に認めてもらっていれば。お姉さまは死ななかったはずだ。どれだけ後悔したか。どれだけ自分を責めたか。何度、お姉さまの後を追おうと思ったか。
「ここには、あなたを傷付けるものなんてありません。それでも誰かがあなたを傷付けようとするのなら、私が守ります。ええ、絶対に守ってみせますとも」
 届いてはいけないのに。
「……私って格好悪いね」
 何で瞳子ちゃんの言葉は届くのだろう? まるで、お姉さまと一緒にいるような安らぎまで感じる。
「そうですね。でも、良いんです。格好悪くても。泣いても良いんですよ。もう、弱くなっても良いんです」
 妹(スール)って、いたとしたらこんな感じなのだろうか。
「私は泣かないよ。もし泣いたら、多分……その……凄いと思うし」
 でも駄目だ。きっと自分では、寄りかかったら瞳子ちゃんまで傷付けてしまう。
「では、その時は私が頭でも撫でて差し上げます」
「絶対泣いてやるもんか」
「それは残念。祐巳さまの泣き顔を一度見てみたかったのですが」
「瞳子ちゃんって、意地悪な上に馬鹿だったのね」
 意地悪そうに言う瞳子ちゃんに、立ち上がりながら祐巳はそう返した。
 途端に真っ赤になって怒鳴り返してくる。
「意地悪な上に馬鹿!? わ、悪かったですね! あなたよりはマシです!」
「うん、そうだね。私って、本当に馬鹿だ。私……ね、あなたたちが羨ましかったんだ」
 こんなにも優しい世界で、平和な日々を送っている人たちがどうしようもなく羨ましかった。
「祐巳さま……」
「でもね。私のいた世界も、元々はここと同じくらい優しい世界だったんだよ」
「ご自分の世界の事、好きだったんですね」
「うん」
 大好きだった。皆、笑顔だった。祐巳も笑顔だった。平和な頃はまだ姉妹(スール)ではなかったけれど、お姉さまもきっと笑顔だったに違いない。
 他愛もない事で怒ったり悲しんだり、喜んだり笑ったり。ちょっとした事件に心躍らせて。突然奪われる事になったけれど、それまでは幸せな日々を送っていた。ずっと続けば良いな、そう思うような幸せな日々を送っていた。それは本当にささやかで平凡な日常だったけれど、それだけで幸せだった。

 本当に大好きだったんだ。あの世界が。自分の生まれた場所だもの。皆のいた場所だもの。
 だからこそ守りたかった。あんな奴らに奪われたくなかった。
 ああ、そうか。お姉さまを失った私が戦場に戻れた本当の理由は、あの世界が大好きだったからなんだ――。

 不意に涙が零れそうになって、祐巳は戸惑った。
 それは、お姉さまを失って以来初めての事だったから。
 あの時にもう泣かないと決めてそれから本当に泣かなかったものだから、涙なんて失ったものだと思っていた。けれど、だからといってここで泣いたりはしない。誰かに見られるなんて恥ずかしい。しかも、ここにいるのは年下の瞳子ちゃんなのだ。
 これ以上、瞳子ちゃんに情けない所を見せたくない。これ以上、弱さを見せるわけにはいかない。そう思って、涙を必死で堪えた。表情だってちゃんと作った。
 それなのに、
「我慢なんてしなくても良いんですよ」
 どうしてか瞳子ちゃんには分かってしまうらしい。
「私が何を我慢してるっていうのよ」
「意地っ張り」
「そう? そうかもね。……でも今は、少しだけ慰めてくれる?」
「え?」
 瞳子ちゃんが、信じられない、というような顔をした。
 まさか祐巳が、こんな事を言うとは思わなかったからだろう。実は祐巳自身も、まさか自分が他人に縋ろうとするなんて、と驚いていたくらいだ。
「少しだけで良いから……お願い」
 縋るように言うと、瞳子ちゃんが無言で祐巳に近付いてきた。そのままそっと抱き締められる。
「な、何?」
 目を白黒させている祐巳の背中に瞳子ちゃんが両手を回してきて、彼女は目を閉じた。そのまま祐巳に尋ねてくる。
「弱い所は見られたくないんですよね?」
「……うん」
 もう充分に醜態を晒したような気もするのだけれど、一応頷いておく。
「好きなだけ慰めて差し上げます。でも終わったら、いつもの祐巳さまに戻ってくださいね」
「うん」
 瞳子ちゃんの方が少し背が低いので、まるで祐巳の方が慰めているような格好なのだけれども仕方がない。そこは素直に諦めよう。
 そういえばお姉さまにも悲しい時によくこうしてもらっていたな、と瞳子ちゃんの肩に顔を埋めながらまだ幸せだった頃を思い出す。
『祐巳には、いつでも笑っていて欲しいわね』
『あら、馬鹿にしているわけじゃないのよ。ただ――』
『あなたの笑顔が大好きなの』
 とりあえず、しばらくの間このまま抱き締めてもらっておこう。
 大好きだったお姉さまの優しい笑顔を思い出しながら、祐巳はそう思った。



「ごめんね。もう大丈夫。落ち着いたから」
 あれから十分ほどして、何とか落ち着いた所で気が付けば痛みも治まっていた。どうやら瞳子ちゃんは、祐巳にとっての精神安定剤らしい。
「呆れました。意地っ張りにも程があります。泣いても良いって言ってるのに、何であんなに必死なって我慢するんですか」
「ホントに意地悪いね」
 思わず苦笑いを浮かべる。
「瞳子ちゃんが妹(スール)だったら、いつも慰めてもらえたりする?」
「そんな情けないお姉さま(スール)なんていりません」
「それは残念。でもやっぱり、妹(スール)にする事はできないよ。祥子さまに悪いもの」
 祐巳がそう言うと、むっと睨みながら言ってくる。
「この意地っ張り」
「うん、瞳子ちゃんとよく似てるよね」
「私は意地っ張りなどではありません」
「そう?」
「そうです!」
 いや、十分意地っ張りだと思うよ? と思いながら、落ちていた瞳子ちゃんのリボンを拾う。話の途中で祐巳が切り裂いてしまったリボンだ。
 それは、綺麗に切り裂かれていた。その切り口を見つめながら瞳子ちゃんに提案してみる。
「私が今付けているやつと交換」「私の一番のお気に入りだったリボンです」「なんてできないよね。あは、あははは……」
 乾いた笑いが非常に悲しい。それはともかく、どうしよう? と困り果てた顔で瞳子ちゃんを見ていると、澄まし顔で言ってきた。
「せめてフリだけでも、マリア様にお祈りをする事。それで許して差し上げます」
 まさかそうくるとは思わなかったので、思わず苦笑いをしてしまう。今日一日でいったい何度苦笑いしただろうか。このまま苦笑いが顔に張り付いてしまいそうだ。
「分かったよ」
「約束ですよ? どんな理由があるにせよ、この学園でお祈りをしないなんて誰かに見付かったら本当にまずいんですからね」
「分かったってば」
 あんたは私の保護者か? 確か妹(プティ・スール)になりたいんだったよね? お姉さま(グラン・スール)じゃないよね? と思いながらまるで姉(グラン・スール)のような瞳子ちゃんに返事を返す。
 あ、そうだ。保護者といえば。
「そういえば、祥子さまの事はどうするつもりなの?」
「断ります」
「私の妹(スール)にはなれないのに?」
「心配しなくても必ずなってみせます」
 間髪入れず返ってきた言葉に、どう返せば良いのか分からなくて大きく溜息を吐く。
 あなたは本当に強いわね、なんて思っていると瞳子ちゃんが躊躇いがちに話しかけてきた。
「あの……祐巳さまには痛みがある。そうですよね?」
 確認のためだろうか。もう分かっているくせに変な質問ね、と思いながら答える。
「うん、あるみたい。自分でもよく分からなかったけど……凄いね、よく見抜いたね」
 祐巳の返答に、なぜか瞳子ちゃんが悲しげな表情になったけれど、それはすぐに呆れ顔へと変わってしまう。
「私が自分で見抜いたなんて言ってませんよ。志摩子さまに聞いただけかもしれないのに、なぜ私が自分で見抜いたなんて思ったんです? 自意識過剰なんじゃないですか」
「何だ、私の勘違いってわけか。それは悪かったわね」
 本当は凄く悔しい。でも、それを素直に表情に出してしまうのはもっと悔しい。だから表情には出さないようにしたつもりだったのだけれど、そんな祐巳をじっと見ていた瞳子ちゃんが嬉しそうに笑った。
「私の事、気にはなっているようですね」
「あ……」
 瞳子ちゃんの表情と言葉で、祐巳は自分が引っかけられた事に気付いた。更に悔しい。おまけに、それが表情に出ていたらしくて悔しさが倍増だ。
「今はそれだけで充分です」
 クスクスと笑いながら、「それと」と瞳子ちゃんが続けた。
「志摩子さまに聞いたからではなく、ちゃんと私が気付きましたよ。あなたの妹(プティ・スール)になりたいって言い出したのは私なんですから、それくらい気付いて当然です」
「そ、そう」
 それを聞いて、祐巳は思わずニヤケそうになった。
 緩む頬を何とか誤魔化そうと辺りをキョロキョロと見回してある事に気付き、「ああ――――っ!」と大声を上げてしまう。そんな祐巳の声に驚いたらしい瞳子ちゃんの肩が跳ね上がったのが見えたが、それどころではない。
「どっ、どうしました?」
「お昼、食べてない……」
 机の上に置きっぱなしのパンとジュースの入った袋を指差して途方に暮れる。
 腕時計を見ると、授業開始まであと十分。今から食べる余裕なんてないし、それどころかこれから急いで教室に戻らなければならない。瞳子ちゃんもお昼は摂ってないらしく、どうやら次の授業はお互いにお昼抜きで過ごさなければならないようだ。
「瞳子ちゃんにあんな所で会ったせいだ」
「祐巳さまが私を拒絶したせいです」
「……酷く苛められちゃったし」
「……酷い言葉を浴びせられましたけれど?」
「このっ――!」
「このっ――!」
 と、口ゲンカになりかけた所で予鈴のチャイムが鳴った。
「ああー、私のお昼ご飯……」
 がっくりと肩を落としていると、「祐巳さま、早く!」と瞳子ちゃんが手を差し伸べてくる。
 その手に自分の手を伸ばしかけて、けれど祐巳は止めてしまった。
 触れても良いのだろうか? 握っても良いのだろうか? また酷く傷付けてしまうかもしれない、と躊躇っていると瞳子ちゃんが言った。
「私は少し傷付いたくらいでどうにかなったりはしません」
「……うん」
 瞳子ちゃんの手を握ると、ぎゅっと強く握り締められた。お返しとばかりに、祐巳もぎゅっと握り返す。
 手を繋いだまま、二人で駆け出す。かなりまずい時間だ。急がないと遅刻になってしまう。
 館を出た所で、足を止めないまま瞳子ちゃんが言った。
「……私のお姉さま(スール)になっていただけませんか?」
「絶対ヤだ」
 それだけは譲れない。
「あなたという方は、本当にもうっ!」
 そう言いながらも瞳子ちゃんは笑っていた。祐巳も負けじと笑い返す。
 ちゃんと笑えているのか自信はなかったのだけれど、瞳子ちゃんがこちらを見て微笑んだのを見て、きっと自分は上手く笑えていたのだろう、と安心した。
 照れからだろうか。それともただ単に、走る速度を上げるためだろうか。瞳子ちゃんが祐巳から視線を外して顔を前に向けた。
 だから、瞳子ちゃんは気付かなかった。今の祐巳の様子に気付かなかった。祐巳の浮かべている表情が変わっている事に、彼女は全く気が付かなかった。
「ごめんね……」
 瞳子ちゃんの背中に向かって、祐巳は小さく呟いた。


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