【1921】 振り返れば貴女がいる  (33・12 2006-10-12 20:15:56)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:これ】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




「私もね、あなたと同じようにこことは別の世界から来たのよ」
 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
 数秒の時を経て、ようやく祥子さまの言葉が頭の中に染み渡る。別の世界からやって来た、と祐巳の耳には聞こえた。一緒に聞いていた瞳子ちゃんも驚いた顔をしているって事は、きっと聞き間違いなどではないのだろう。
「さ、祥子お姉さま? 何をおっしゃって……」
 祐巳の隣にいる瞳子ちゃんが恐る恐る尋ねようとしたのだが、祥子さまから「少しの間黙っていて」という視線を向けられて言葉が尻すぼみになり、そのまま口を噤んでしまう。
 そうやって瞳子ちゃんを黙らせた所で、祥子さまは祐巳に話しかけてきた。
「あなたの持っているロザリオを、見せてもらっても良いかしら?」
 呆気に取られた。なぜ祥子さまがロザリオの事を知っている? と。だって、知っているはずがない。志摩子さんは別として、瞳子ちゃん以外に話した覚えはないし、瞳子ちゃんも誰彼構わず喋ったりはしていないだろう。
(そもそも、私が他の世界からやってきた事をなぜ祥子さまが知っている?)
「見せるのは嫌?」
「え? いえ」
 黙って色々と考えていると、見せるのが嫌なのだと誤解させてしまったらしい。そうではないのだけれど、確かに人に見せるのは躊躇ってしまう。なぜなら祐巳の持つロザリオは、祐巳の血と、罪と罰と、戦いの証が刻み込まれた、この世でただ一つのお姉さまの形見だからだ。
 どうしようかと逡巡して、それでもこの人も同じお姉さまの妹(スール)なのだと思い出し、決心してゆっくりとそれを胸元から取り出す。しかし、首から外そうとした所で「そのままで良いわ」と止められた。
 祥子さまは、祐巳の首にかかっているロザリオを見つめながら嬉しそうに口を開いた。
「やはりそうね。お姉さまにいただいた私のロザリオと同じ物だわ」
「あの?」
「ごめんなさい。あなたのお姉さまを私が取ってしまったのね」
 長い睫毛を伏せて、祥子さまは呟くように言った。
「こちらに来て、もう十四年になるのね」



 私が生まれ育った第四世界は、魔法が極端に発達した世界だ。この第六世界に来る前の私は高校三年生で、今と同じリリアン女学園に通っていた。
 二年生の秋口に、私はとある一年生と出会った。制服のタイが曲がっていたのが気になって呼び止めたのだけれど、その一年生こそ後に私の妹(スール)となる福沢祐巳だった。祐巳の魔法の腕前は落ちこぼれと言われても仕方のないものだったのだけれど、明るい性格とくるくると変わる表情が微笑ましく皆の人気者だった。そんな祐巳と廊下などで顔を合わせる度に言葉を交し合っていると、いつの間にか私たちは随分と親しくなっていた。
 姉(グラン・スール)も妹(プティ・スール)もいない私にとって、祐巳は特別な存在だ。祐巳と過ごす一時は、間違いなく幸せな時間だと言える。しかし同時に、もしも祐巳が誰かと姉妹(スール)になれば、こうして過ごす事はできなくなるのではないか、という不安もあった。
 それを解決するために、その「誰か」に私がなれば良いのではないか、と考えた私は、祐巳に姉妹(スール)の申し込みをする事にしたのだ。
 当初は頑なに「魔法は下手で頭もそんなに良くないですし、私なんかでは祥子さまの妹(スール)に相応しくありません」と私の申し込みを断り続ける頑固な祐巳に対して、「相応しいとか相応しくないとか、そういうのは関係ないの。魔法が下手だろうと気にしないわ。そういうのも全部知っている上で、あなたを妹(スール)にしたいと私は思ったのよ」と伝え続けて何とか説き伏せる事に成功する。それが、祐巳と出会って一月ほど過ぎた頃の事だ。
 祐巳と姉妹(スール)となったその日から、それまで以上に幸せな日々が続いた。どんな困難な事に遭遇しても、祐巳となら乗り越えられると思っていた。
 季節は巡り、梅雨の季節がやってきた。私たちが姉妹(スール)になって初めて迎えた雨の降り続く季節。以前より研究中だった消去魔法が暴走して、私は祐巳を失った。

「少しはお休みになられたらどうですか?」
「何を言っているの、発表祭までもう日にちがないのよ。発動式が完成してもそれで終りじゃないの。むしろ、そこからが始まりと言っても良いわ。このままでは何もかも消してしまうだけの魔法になってしまうでしょう? そうさせないためにも制御式はミスなく完璧に組み立てなければならないし、その後には発動式と組み合わせる作業も残っているのよ」
「ですが」
「……これが完成したら、ちゃんと休むわ。だからほら、早く手伝いなさい」
 ここ最近の無理が祟ってか、体調の悪かった私を祐巳は心配していた。それなのに、発表祭(こちらの世界での学園祭と同じようなもの)まであまり時間がないから、と強引に研究を進めた結果、たった一箇所の制御式のミスによって暴走した消去魔法により私を庇った祐巳が消されてしまったのだ。消去魔法という名前の通りに跡形もなく、そこに存在していた欠片さえ残さずに、この世界から祐巳は失われてしまった。
 それからの私は、自室に篭って悲嘆に泣き暮れた。
 なぜ自分が生きているのか。なぜあの時に、何度も心配してくれた祐巳の言う事を聞かなかったのか。自分が死ぬべきだったのに、と何度も自分を責めた。でも、自殺だけはできない。だって、祐巳が守ってくれた命なのだ。それを自分の手で終わらせるなんて、そんな事は絶対にできない。
 部屋から一歩も出ずに何日も泣いて過ごしていた私はいつの間にか気を失い、次に目を覚ました時にはこの世界にいた。
 幼い頃の私の姿となって。



「目が覚めたら、私は子供になっていたのよ」
 何だか複雑な気分だった。違う世界の出来事とはいえ、自分が死んだって聞かされるのは。
「おかしくなりそうだったわ。まさか、『私は違う世界からやってきた高校三年生の祥子です』なんて誰にも言えないし、相談もできないのだもの。でも、その日のうちに私は、自分は神様だって言う小さな女の子に会ったの。小さな、といっても私と同じくらいの年の子だったのだけれど。それはともかく、いきなり神様とか言われても普通は信じないわよね。当然私も信じなかった。いったい、どこからどうやって屋敷に忍び込んできたのかと思ったわ」
 また神様か。都合の良い話だ。
 祐巳と祥子さまに志摩子さん。リリアン女学園なんて狭い場所に、異世界からの来訪者が三人も存在している。まるで、何か目的があってこの場所に集められたみたいだ。いや、おそらくそうなのだろう。桂さんも可南子ちゃんも何か隠しているようだったし、やはり神様なんてあまり信用しない方が良いのかもしれない。
「でも、目の前で空間転移なんて見せられては信じるしかなかったわ」
 確かに。ついでに言えば、そんなにポンポンと神様の秘術を披露してくれそうなのは、祐巳の知っている神様では一人しかいない。でも、そうそう都合よく現れるわけがないか。神様って一口に言ってもたくさん存在してそうだし、と思いかけていた所に祥子さまのこの一言。
「その子は、生きていればまた祐巳に会える、と言ったの」
 どうやらその神様は祐巳の事を知ってるらしい。祐巳を知っていて神様の秘術をポンポンと見せてくれる、となるともう間違いない。
「すみません。その子はひょっとして、桂とか名乗りませんでした?」
「知っているの?」
 見事に正解。どこにでも出没する神様だなぁ、余程暇なのか? と思うついでに、神様でもやっぱり子供の時代はあるんだ、とも思った。
「まあ、私にも色々とありまして。ひょっとして、私がロザリオを持っている事も桂さんに?」
「ええ、そうよ。あの方、ここに通っているのね。廊下でばったり会って凄く驚いたわ」
 それは驚くだろう。その辺りをほっつき歩いてる神様を発見したら。
(それにしても、『あの方』ねぇ……)
 仮にも神様なんだからそう呼ばれてもおかしくはないのだろうけれど、似合わない事この上ない。などと神様に向かってとても失礼な事を考えていると、祥子さまが祐巳を見て目を細めた。
「十四年待ったわ」
 噛み締めるように祥子さまが言った。その気持ちは分かる。
「やっとあなたに会えた」
 生きていれば祐巳に会える。祥子さまはそれだけを希望に今まで生きてきたのだ。でも――。
「タイを直した日もそうだったのよ。目を疑ったわ。まるで同じ。祐巳が生き返ったようで」
 でも違う。ここにいる祐巳は違うのだ。
「あなたが由乃ちゃんに連れられてここに来た時もそうだったのよ。何度私の事を伝えようと思った事か」
 あ! ……そうか。あの時に祥子さまが言った、『ここには私が妹(スール)にしたいと思える相手がいない』とはそういう意味だったのか。祥子さまには既に妹(スール)がいるのだ。自分の世界で失ってしまった、福沢祐巳という妹(スール)が。
「違いますよ。祥子さま」
「え?」
 祐巳の言葉に、祥子さまが細めていた目を開く。
「私はあなたの知っている、あなたの福沢祐巳ではありません」
 クスッ、と思わずといった感じに祥子さまが笑った。
「ええ、分かっているわ」
 これには祐巳の方が驚いた。てっきり身代わりにでもされているものだと思っていたのだけれども。
「あなたは私の知っている祐巳ではない。それはよく分かっているわ。でもね、それでもやはりあなたは祐巳本人なのよ」
 ああ、そういう事なのか、と思った。
 祥子さまはちゃんと分かっていた。祐巳を身代わりなどにはしていなかった。だって、祥子さまは申し込まなかった。祐巳に対して、姉妹(スール)の申し込みをしなかったのだ。
 祥子さまは、祐巳にだけは何があっても絶対に申し込まないだろう。ここにいる祐巳が、違う世界の祐巳だからこそ決して申し込まない。なぜなら祥子さまが心の底から求めているのは、彼女の世界の福沢祐巳ただ一人だからだ。
「そうですね。一応ですが、本人になりますね」
 けれど、そのために祥子さまは瞳子ちゃんを深く傷付けてしまった。
「ですから、この際言わせていただきますが、それで瞳子ちゃんを傷付けるのは間違っていると思います」
「え? ゆっ、祐巳さま?」
 背後から、急に自分の名前が出てきた事に戸惑っている瞳子ちゃんの声が聞こえてくる。
 祐巳はそれには構わず、祥子さまに向かって続けた。
「あなたには、やらなければならない事がありますよね」
「ええ」
 祥子さまが頷いて、祐巳の隣にいる瞳子ちゃんの方へと視線を向けた。
「あなたを……たくさん傷付けてしまったわね」
 そう声をかけられた瞳子ちゃんは、祥子さまを無言で睨んでいた。
「ごめんなさい」
 祥子さまが頭を下げる。瞳子ちゃんは、そんな祥子さまの後頭部を冷めた視線で見つめていた。
 祥子さまは頭を下げたままだ。瞳子ちゃんが許してくれるまで、その頭を上げるような事はしないだろう。
 下げられた祥子さまの頭を見下ろしたまま、瞳子ちゃんは強く拳を握った。冷めた眼差しを変える事なく、ゆっくりと口を開く。
「許しません……」
 だろうね、と祐巳は思った。
 許せるはずがないだろう。瞳子ちゃんにしてみれば、祥子さまの事情なんて関係ない。姉妹(スール)の申し込みをしておきながら、そんな事情で自分を蔑ろにしていた祥子さまを許せるはずがない。
 けれど、
「頭を下げただけでは許しません。あなたの姉妹(スール)の申し出は断らせていただきます」
 瞳子ちゃんは優しくて強いから。
「でも……嫌いにはなりません……なれません。あなたの事、ずっと見てきたから。好きだから、嫌いになんてなれません」
「ありがとう」
 祥子さまが顔を上げた。おそらく、初めて瞳子ちゃんの事をまともに見たのではないだろうか。
「祥子お姉さまっ」
 堪え切れなくなった瞳子ちゃんが祥子さまに抱き付いた。
「ごめんなさい瞳子ちゃん」
 見ていて少しばかり胸が痛むけれど、これは仕方がないだろう。それに、このまま二人が上手くいってくれた方が祐巳にとっては都合が良い。なので、抱き合う二人を見つめながら提案してみる。
「ねえ瞳子ちゃん。祥子さまの事情も分かった事だし、姉妹(スール)になっても問題ないんじゃないの?」
 こちらを振り向いた瞳子ちゃんから、涙目なのにきつい眼差しで睨まれた。
「私は必ず、あんな馬鹿な事を言う人の妹(スール)になってみせます」
 指差すのはやめて欲しい。良い思い出がないから。あと、馬鹿は余計だ。
「私の世界でも祐巳は手強かったわよ。頑張りなさい」
「はい!」
 なぜそうなる? こいつらの頭の中はどうなっているんだ? と思った。
 今の祥子さまならきっと、瞳子ちゃんに目を向けてくれるだろう。事情も分かった事だし、好きなら無理せずに姉妹(スール)になれば良いのに、と内心で頭を抱えている祐巳の前では、祥子さまが瞳子ちゃんの頭を撫でていた。くすぐったそうに目を細める瞳子ちゃんを見て、少しだけ痛みが強くなってくる。
「祐巳さん」
「何です?」
 祥子さまに呼びかけられて、そちらに意識を向ける。
「あなたに会えて、本当に良かったわ」
「私は別に何もしてませんが、祥子さまがそう思うのなら良かったです」
 でも、その言葉はまだ早くありませんか? だって、それだけではないですよね? まったく、何で私が、と心の中で盛大に溜息を吐きながら祐巳は言葉を付け足した。
「でも、それだけですか? 他に、何か言いたい事があるんじゃないですか?」
 瞳子ちゃんの頭を撫でている祥子さまの手がピタリと止まった。
「……困ったわ」
「は?」
「あなたは私の世界の祐巳よりも、ずっと鋭いのね」
「……」
 あんたの世界の私はそんなに鈍かったのか? そう思ったけれど声に出すわけにもいかず、祐巳が何も言えずにいると祥子さまが瞼を閉じた。
「欲を言えば、謝りたかったの。あなたにそんな記憶はないでしょうけれども、それでも、あなたの命を奪ったのは私だから」
 後悔はしている。当たり前だ。祥子さまは十四年経っても自分を許してはいない。ならば、祐巳にできる事は一つだ。それだけで祥子さまは救われる。たとえすぐに救われなくても、その切欠くらいにはなるだろう。
「謝る必要なんてないですよ」
「え?」
 祥子さまが、閉じていた瞼を開けた。
「あなたの世界の私はあなたを庇った。あなたが無事なら、それだけで満足だと思います」
 きっと、そうだと思う。祐巳のお姉さまであった蓉子さまと同じだ。残された人に悲しみを残してしまうけれど、大切な人を守れたのだから彼女たちは満足だったと思う。一番大切な人を、その手で、その身で守る事ができたのだから。
「そうかしら……?」
「そうです。一応ですが、本人が言うんだから間違いないです」
 祥子さまは寂しそうに笑った後に、浮かべている表情を変えた。
「あなたは、どこの世界のあなたでも優しいのね」
 初めて祥子さまの心からの笑顔を見た気がした。驚くほど綺麗で、とても素敵な笑顔だった。見ている者を包み込んでくれるようなその笑顔は確かに、妹(スール)を持っていたお姉さまの笑顔だった。
 ところで、先ほどから黙ったままの瞳子ちゃん。いったいどうしたのかと思って見てみると、祥子さまの胸元でハンカチを使って涙を拭っていた。
 そのハンカチって私の血を拭いたハンカチだよね? 汚れるよ、と思うと同時に、いくら何でも涙腺緩過ぎない? と呆れた。



 それから程なく、由乃さんと令さまが保健の先生を連れてきたのだが、どこからどう見ても立派な健康体である祐巳が自分は大丈夫であると告げると、「あまり無茶しちゃ駄目よ」と言い残して保健室へ戻っていった。というわけで、折角来ていただいたのに無駄骨となった先生に対して皆で丁寧に頭を下げての見送りが終わると、次に見送られるのは祐巳となる。もう少しお話しましょう、と皆からは誘われたのだけれど、祐巳にはこの後ちょっとした用事があるので――というか、先ほどできたので断ったのだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
 差し出された鞄を乃梨子ちゃんから受け取る。異常はないとはいえ目を覚ましてそれほど時間が経っていないから、と先生を見送るまで乃梨子ちゃんが持っていてくれたのだ。さすがは乃梨子ちゃん、気が利く一年生の序列第一位。もっとも一年生の知り合いは、可南子ちゃんと瞳子ちゃんを含めて三人しかいないのだけれど。
 別れを告げる前にふと気になって瞳子ちゃんたちにこの後どうするのか尋ねてみると、まだ山百合会の仕事が残っているらしい。当然、祐巳が気を失うなどして余計な時間を取らせてしまった事が原因だ。何とも悪い事をしてしまった、と申し訳なく思った。
 それもこれも、薔薇の館に祐巳を連れてきた由乃さんが悪い。だから、恨むなら由乃さんを恨んでね。と酷い冗談を浮かべてしまって心の中で由乃さんに謝る。どうも自分の頭の中身は、半分ほど冗談でできているらしい。自分で思い付いて、その事に多少の衝撃を受けながら集まっている皆に言う。
「では私も、これで失礼します」
「本当にもう大丈夫なの? 良ければ家まで付き添うわよ」
 答えたのは祥子さまだ。何だか過保護に思えるのは、あちらの世界で祐巳を失ったからだろうか。
「先生にも言いましたが、本当に大丈夫です。ちゃんと一人で帰れますから」
「あんまり心配し過ぎても、祐巳ちゃんには却って迷惑なんじゃない? それに、私たちも仕事があるんだし」
 祥子さまの代わりに令さまが答えた。どうやら、これ以上迷惑をかけたくない、という祐巳の気持ちを汲んでくれたらしい。さすがだ、格好良い。
 でも、由乃さんが納得しなかった。ムッとした表情で令さまの言葉に反応した。
「ちょっと令ちゃん。それは冷たいんじゃない? せめて正門まで送るとか」
 心配してくれるのはありがたいのだが、正門なんて人の目のある所で山百合会の幹部の人達に見送られるとか、そんな目立つ事はしたくない。
「でも、仕事があるのは本当の事よ」
「『でも』じゃなーい!」
 由乃さんが熱い。けれど慣れたもので、令さまはそんな由乃さんに冷静に返す。
「由乃。祐巳ちゃんの気持ちも考えてあげて」
「何よ、令ちゃんの馬鹿」
「……」
 令さまじゃ駄目っぽい。こうなったら仕方がない。これ以上、由乃さんが暴走しないうちに止めておこう。
「由乃さん、仕事があるのなら戻らないと。ほら、もう私は大丈夫だから。それに私のせいで遅れさせてしまったんだし、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないよ」
「祐巳さんがそう言うのなら仕方がないわね。今回は引き下がっておくわ」
 あっさりと引き下がる由乃さんを見て、令さまが非常に微妙な表情を浮かべた。
「由乃ぉ……」
 うわっ、情けない顔。ファンの人達が見たらびっくりしますよ、と心の中で苦笑。
 ところで由乃さん。『今回は』って、次もあるような言い方はしないで欲しい。気を失うような事がそうそうあって堪るものか。
(さて、じゃあとっとと行くか……っと、その前に)
 回れ右して、瞳子ちゃんに顔を合わせる。
「そういう事で私は帰るね」
「分かりました」
 瞳子ちゃんが祐巳の荷物を持とうとする。いつからこんなに気が利くようになったのだろうか。乃梨子ちゃんに触発された?
「だから、見送りなんて必要ないってば」
「そうですか」
 残念そうな瞳子ちゃん。倒れた原因も知っているし、もう大丈夫だと分かっているはずなのにまだ祐巳の事が心配なようだ。
「私は大丈夫だから。ね?」
「はい……」
 しょんぼりしている瞳子ちゃんが可愛くて頭を撫でてあげようかと思ったのだけれど、嫌がって振り払われる場面が目に浮かんだのでやめておく。
「では、今日の所はこれで失礼します」
「本当に気を付けて帰るのよ? 寄り道なんかしちゃ駄目だからね」
 どうも心配性な気のある由乃さんに苦笑しながら頷き返した後、祥子さまの方を向いた。
「また、そのうちにお話をしたいです」
「ええ、いつでも良いわ」
「はい。では、ごきげんよう」
 皆に向かって頭を下げて、祐巳は祥子さまたちと別れた。
 来る時に通ったレンガ道を戻っている途中、ふとおかしな事に気が付く。由乃さんたちは、なぜ祐巳が気を失うような事になったのか、それを全く尋ねようとしなかった。祐巳の事を知っている志摩子さんが尋ねようとしないのは分かる。乃梨子ちゃんも志摩子さんに聞いていたのかもしれない。瞳子ちゃんとは直接話した。でも令さまと由乃さん、祥子さまの三人は全く知らないはずだ。
(やっぱり、気を使われたのかな?)
 他に思い浮かぶ理由もないし、そうとしか考えられない。となると、参った。優しい、と言えばそうなのだろうけれど。いや、嬉しくはあるのだけれど、由乃さんの態度が気になる。何ていうか、ひょっとして愛されちゃってたりする? 妙に優しくされているような気がするのだけれど。……いやいや、いくら何でもそれはないよね、と祐巳は頭を振った。



 ここで良いだろう、と薔薇の館が完全に見えなくなってから数メートルほど進んだ所で祐巳は足を止めた。
 何だか周囲が急に暗くなってきたので空を見上げてみると、灰色の雲が広がっていて今にも雨が降り出しそうだった。おいおい、傘なんて持ってきてないぞ、と焦ったが、いざとなれば校舎の中に戻れば済む事だ。それよりも、さっさと用事を済ませてしまおう。
 どうせ、どこだろうと済ませる事のできる用事だ。雨など関係ないし、近くに誰かがいたとしても、それもまた関係のない事となる。ぶっちゃけると薔薇の館の中でだって、しかも皆の目前でも済ませる事が可能な用事だったのだが、そこは祐巳の気持ちの問題だ。自分の知っている人たちがピクリとも動かなくなる所なんて、祐巳は見たくなかった。
 その点、この場所であれば周りにいるのは祐巳の知らない人たちばかりなので、全く気にしなくて済む。祐巳はすぅっと息を吸い込むと、用のあるその人の名を呼んだ。
「桂さんっ! ……って、いるみたいね」
 さすがは神様。「桂さん」の「か」の字を口にする前に、既に世界の時間が止まっていた。今朝の可南子ちゃんと会った時と同じように、祐巳の周りにいた下校中の生徒たちが全く動かなくなっている。
 この間みたいに世界情報をコピーして、そこに転移されたりはしないだろうとは思っていた。なぜなら、それだと周りにいる人たちの前から祐巳が突然消えた事になるからだ。神様だし、そんなヘマはしないだろう。やるとしたら時間を止めるくらいだろう、と思っていたのだが合っていたようだ。もっとも、この世界の時間を停止した上でコピーされた世界に転移させられている可能性もあるのだが。まあ、どちらにせよ時間を停止されている事に変わりはない。
 予想が見事的中したので、ひょっとして自分は天才なのではないのだろうか、と思っていると「何か用?」と背後から声をかけられる。気が付けば、いつの間にか桂さんが祐巳の背後に立っていた。
 こうも簡単に背後を取られるとは、と顔を顰めた後、身体を半回転させて桂さんを睨む。
「白々しい。祥子さまの事、何で黙っていたのよ」
 何がおかしいのか、桂さんは笑っている。
「聞かれなかったもの」
「知らなかったんだから、聞く事なんてできるはずないじゃない」
「そうね」
「だいたい、祥子さまの話は本当なの? 魔力とか全然感じなかったんだけど」
 第四世界は魔法が発達した世界だ。となれば、強い魔力を持っているはずなのだ。それなのに、祥子さまからは魔力が全く感じられなかった。
「ああ、やっぱり気付かなかったのね」
 クスクスと笑う桂さん。
「彼女なら、祐巳さんの世界でもそう簡単に死んだりはしないわ」
「どういう事よ」
 回りくどい言い方はやめて欲しい。考えるのは苦手なのだ。最初から答えを言え、答えを。
「説明してあげる」
 さて、祐巳の聞いた難しくてわけの分からなかった桂さんの話を簡単に纏めると、この世界にある奇跡と呼ばれる現象の殆どのものを第四世界の人たちは起こす事ができるそうだ。そして、桂さんが言った祥子さまがそう簡単に死んだりしない理由というのは、普段から無意識のうちに自分の身体の周りに外敵・害悪から身を守る非常に高技術でデタラメに頑丈な超極薄の結界を張っているかららしい。これは祥子さまだけではなく、第四世界の住人全員に言える事なんだそうだ。
 それから、祐巳が魔力を見抜けなかった理由はとても単純なもので、第四世界の人たちは魔力を使わないから。彼らの魔法と祐巳の世界の魔法は、全く異なるものなんだそうだ。
 祐巳たちの世界で言う魔力とは、契約によって己の体内に取り込んだ、とある存在の事を指す。とある存在とは、竜巻や吹雪など様々な現象を生み出す者たちの事だ。魔法使いたちはそれらと契約を結ぶ事によって、その力を自分の意思で自由に扱う事ができる。
 とはいえ所詮は人間なので、取り込める力には限度がある。人が体内に取り込める自然界の力なんて、高が知れているのだ。更に言うなら、それを取り込んだからといって誰でも魔法使いになれるわけではない。術者本人の才能や体力とか精神力とかその時の体調とか、様々な要素が複雑に絡み合ってくる。取り込んだとしても、全く魔法を使えない人もいる始末だ。
 とりあえず、ここまでは祐巳も何とか理解したのだけれど、ここから先ははっきり言ってよく分からなかった。だって、魔法の原理自体が祐巳の世界のものとは全く違うものだったから。
 聞いた事のない単語とか出てくるし、世界というシステムに刷り込まれている方程式を組み合わせて扱う、って何よ? 意味分かんない。……まあ良い。とにかく、それなら見抜けなかったのも頷ける。魔法は色々と複雑なのだ、という事にしておこう。
 実は自分って馬鹿なんじゃないだろうか、と思った。
「でも、それならおかしいじゃない。そんな頑丈な結界を張ってるような祥子さまの世界の私が、何で消されるのよ?」
「祥子さまが研究中の魔法が何だったか、祐巳さんは覚えてる?」
「消去魔法……あっ!」
「そう。結界も消去されちゃったわけ。もっとも、普通ならそう簡単に消されたりはしないんだけど。きっと、祥子さまの世界の祐巳さんは弱かったのね」
 どこの世界の自分も、やはり弱いらしい。いや、今の自分は強いのだけれど。
「そうかしら? 今の祐巳さんの状態では、そんなに強いとも思えないんだけど」
 勝手に人の心を読まないでもらえないかな、と心の中で抗議してやる。
「私の神様としての役目は観察だからね。私が観察するものの中には人の思考も入ってる。つまり、祐巳さんの思考を観察するのも私の役目ってわけ」
 だから、勝手に読まないでって言ってるのに。まったく、困った神様だ。
「っていうかさ、観察とか言いながら充分干渉してきてるじゃない」
「祐巳さんの事が好きだから、つい手助けしたくなるのよ」
 どう答えろと? ついでに、それは喜んで良い事なのだろうか。だいたい、手助けなんてしてくれていただろうか。そんな覚えは全くないのだけれども。
「見えない所でしているのよ。それに、必要以上に干渉もしてないわ」
 見えない所で手助けされても困る。見える所で手助けして欲しい。そうすれば素直に感謝の言葉を贈ってあげるから、次からはそうする事をお勧めする。
「そういえば、さっき観察って言ってたけど、向こうの世界もこっちの世界も桂さん一人で観察してるって事? 複数の世界をかけ持ちしているの?」
 桂さん自身あっちへ行ったりこっちへ来たりしてるみたいなので、気になって尋ねてみた。
「そうよ。私の場合は四十四億九千七百七万、二千七百個の世界をかけ持ちしてるわ。ちなみに、可南子ちゃんは七億七千八百三十三万、五千二百六十二個ね」
「……いや、ごめん。今なんて言った?」
 途方もない数字が聞こえた気がした。でも桂さんの事だ、きっと祐巳をびっくりさせようとしたのだろう。
「約四十五億個の世界をかけ持ちしてるって言ったのよ」
 本気だったらしい。
「桂さん、大忙し?」
「ここで祐巳さんと話をしている私が、今現在あらゆる世界に存在している桂の中で最も神様に近い桂なの。一応、本体と呼んでも良いわね」
 どういう事だろう? っていうか、いきなり何の話? 会話のキャッチボールができてないよ? と桂さんを見つめてみる。
「今現在、ここ以外の世界に存在している私は普通の人間なのよ」
 益々分からない。
「あちこちの世界に存在する桂は端末で、その端末である桂に『降臨』と呼ばれる手段によって本体の私が降りるの。本体っていうのは神様の世界にいる私の事ね。祐巳さんに分かり易く簡単に言うと、憑依するのよ」
 なるほど、自分という存在の事を説明してくれていたわけだ。
「って事は、今私の目の前にいる桂さんは、あなたに『降臨』されていない時は普通の人間って事?」
「そうよ」
「ふうん、何かややこしいね」
 それにしても、確かに向こうの世界では「憑依」なんて当たり前の単語だけれど、『祐巳さんに分かり易く簡単に言うと』はとても大きなお世話だ。まるで私が馬鹿みたいに聞こえるじゃないか、と祐巳は憤慨した。
「ちなみに私たちが降臨する理由として一番多いのは、今みたいに任意の世界の誰かに干渉するためね。普段の私たちは神様の世界にいて、あちこちの世界に存在する端末から送られてくる膨大な量の情報を処理しているの」
「あれ? でも端末って、普段は普通の人間なんじゃなかった?」
 さっき、確かにそう言っていた。それなのに、どうやって情報を集めたり送ったりしているのだろう。
「端末は、自分でも知らないうちにその世界の情報を集めて、それを私たち神様の下へ送るように創られているの。彼女たちは自分の事を神様の端末だと自覚していないし、その世界に存在しているだけで与えられている役目を果たせるから、特別な何かをしているわけでもないわ。学生であれば学校に行くし、会社に勤めていれば会社に行く。どこにでもいる普通の人間として生活しているの」
「何だかよく分からないけど、神様って大変なんだねぇ」
 ついでに変だとも思うのだけれども。
「祐巳さんもそうなのに」
「へっ?」
 それは知らなかった。いつの間に自分は神様になったのだろう。
「違うわ。神様の祐巳さんもいるって事よ」
「そうなんだ?」
 何だ、そういう事か、と非常に残念に思った。というか、誤解させるような言い方をしないで欲しい。
「第五世界で生まれた祐巳さんが神様なわけないわ。そんな事すらいちいち説明されないと分からないだなんて、祐巳さんって馬鹿なの?」
 やれやれ、と桂さんが肩を竦めて頭を左右に振った。おまけに、ムカつくほど大きな溜息まで吐いてくれる。
 あのさ、その態度はあんまりじゃない? 非常に悔しかったので話を変えてやる。
「冗談はこれくらいにして、実際の所どうなの? この世界に私が飛ばされたのは偶然じゃないよね? 祥子さまの話を聞いていて思ったんだけど、わざわざ接触したようだし、志摩子さんの事もそう。私は、あなたたちの仕業だと思っているんだけど」
「正解よ。さすがに鋭いわね」
 今まで、祐巳をこの世界に転移させたのは「世界」だと思っていた。でも、存在していないと思われていた神様が存在している。そして、その神様が別の世界に他人を転移させる事ができるのは、ついこの間祐巳自身が身を以って体験済み。こちらの世界で桂さんと初めて会った時の事だ。彼女によって、コピーされた世界に祐巳は転移させられた。
「そうね。でも、志摩子さんについては私たち神様の仕業ではないわ。あれは、『世界』の仕業よ」
「何のために?」
「知らないわよ、そんな事」
「はい?」
 今、何て言った?
「『世界』の考える事なんて分からない、って言ったの。私たち神様よりも上位の存在なんだもの。そのくせ気分屋で悪戯好きなのよ。フォローする私たちがどんなに苦労しているのか、分かっているのかしら」
 桂さんがうんざりしたように言う。
「またまたー、そうやってまた私を騙そうとして。桂さんって本当に人が悪いね。あ、いや神様か」
 「世界」に意識があるのは、中等部の頃に習ったから知っている。でも、神様よりも上って事はないだろう。自分たちよりも、自分たちが創ったものの方が能力が上なんて、そんな事を神様がするはずがないと思う。
「勘違いしているみたいだから言っておくけど、私たち神様が『世界』を創ったのではないのよ」
「そうなの?」
「ええ。実はその逆で、『世界』が神様を創ったの」
 自分たちが創ったものならともかく、そうではないものの考える事なんて分からない、と桂さんは言う。彼女に嘘を言ってるような様子はなく、どうやら本当の事らしい。
「じゃっ、じゃあ、『世界』の方が神様よりも偉いの?」
「偉いとかそういうのはないけど。そうね、神様を罰する事ができるとしたら、『世界』だけね」
 神様を生み出した「世界」こそ最強、って事か。桂さんみたいなおかしな神様まで生み出しちゃったみたいだけれど。
「ついでに、今私の目の前にいるとってもおかしな祐巳さんまで生み出してしまったわけよ」
 わざわざ心を読んでまで馬鹿にしないで。益々悔しくなるから、と睨む。
「いつか神様の私が降臨して、桂さんを打ち滅ぼす事を願うわ」
「面白い事を言うわね」
 コロコロと笑う桂さん。けれど、残念そうに言う。
「でも、あなたの身体に神様の祐巳さんが降りる事はないわ。あなたは彼女の端末ではないから」
 それを聞いて安心した。勝手に人の身体に憑依されても困る。何だか気持ち悪いし。
「でもそれなら桂さんにも、どこかの世界には端末ではない普通の人間の桂さんがいるって事?」
「そうよ。同じ人物だからといって、全員が全員神様と繋がっているわけではないわ。その代わり、一つの世界に一人以上は神様の端末が必ず存在するの。この世界に降臨できる私以外のもう一人の神様とは、もう会っているわよね」
 細川可南子ちゃんの事だろう。しかし、『この世界に降臨できる私以外のもう一人』って事は、この世界には二人しか降臨できないって事だ。何かあった時にたった二人で大丈夫なのだろうか、と思ったのだが、考えてみれば時間を止めたりあちこちに転移したりできるような奴らだ。二人もいれば十分なのだろう。
「ちなみに、神様の私ってどんな神様なの?」
 何となく興味から尋ねてみる。
「私よりも遥かに優秀な神様よ」
 ええっ、優秀っ!? って自分で驚くのもどうかと思うのだけれども本気で驚いてしまった。
「おまけに、冗談ではなく滅茶苦茶怖いのよ」
 自分の肩を抱いて、身震いしながら言う桂さん。本気で神様の祐巳を怖がっているらしい。
 そ、そうなんだ? と釣られて祐巳も冷や汗を掻く。一度くらいは会ってみたいな、なんて軽い気持ちで思っていたのだが、桂さんの様子を見る限り出会わない方が良さそうだ。
「っと、そういえば」
 危ない危ない。危うく忘れる所だった。聞かなければならない事があったんだった。
「ねえ、次に会った時に答えるって言ってたし、この間の質問に今日は答えてくれるんだよね?」
 祐巳が言うと、へぇ、覚えてたの? みたいな顔しながら桂さんは頷いた。この間の質問とは、『どうしてあの世界を滅ぼそうとしているのか』っていう質問の事だ。
「答えるのは良いんだけど、私は下っ端だから言える事に制限がかかっているのよね。まあ簡単に言うと、神様には色々な役目があるの」
 下っ端とか制限とか役目とか、神様だから何でも好き放題できる、というわけではないらしい。
「私の場合は観察。神様の祐巳さんの場合は、私たち観察している神様の纏め役。所謂、上司ね。あなたの世界を滅ぼそうとしていたのは、そういう役目を持った神様なのよ」
 役目だから滅ぼそうとしているらしい。では、その役目の理由とは何だろう?
「ごめん。それ、私は言えないの。思いっきり制限に引っかかっているから」
「何で? 何か凄い理由でもあるの?」
「それを伝えたら対策されるかもしれないからよ。ま、聞いた所で対策なんて立てようがないと私は思うけどね。でも、これだけは言っておくわ。その役目の理由は、とても当たり前の事なのよ」
 何だかよく分からないけれど、滅ぼそうとしている理由は、対策の立てようがない当たり前の事らしい。それなら、教えてくれても良いような気がするのは祐巳の気のせいだろうか。
「これ以上は言えない」
 使えない神様ね、と思った。
「悪かったわね」
 頬を膨らませながら桂さんが言ってくる。
「ところで、やっぱり私を向こうの世界に戻す気はない?」
 この間は断られたが、もしかしたら気が変わっているかもしれない、と思って尋ねてみると、桂さんは祐巳の顔をじっと見つめてきた。
「死ぬって分かっているのに、そんなに帰りたいの?」
 何で急に見つめられたのかは分からないが、わざわざ尋ね返すって事は帰してくれる気になったのかもしれない、そう思って祐巳は頷いた。
「当たり前でしょ」
 あの世界は祐巳の生まれた世界であり、唯一の還る場所なのだ。あの世界には、家族やお姉さまが眠っている。帰る事ができるのならば帰りたい。たとえ化け物どもの手にかかって命を失う事になっても良い。
 瞳子ちゃんには悪いと思う。裏切ってしまう事になる。深く傷付けてしまうだろう。それでも、祐巳はあの世界が好きなのだ。あの世界を守って……いや、たとえ守れなくても、あの世界のために死ねるのなら本望だ。
「あなたに言っておく事があるわ」
「何よ?」
 桂さんは祐巳から視線を外しながら言った。
「あなたの世界は滅びたわ」
「……」
 頭が理解する事を拒んでしまったらしく、祐巳は何を言われたのか分からなかった。しばらくの間キョトンとした顔で桂さんを見ていた祐巳は、『あなたのいた世界は滅びたわ』という彼女の言葉を頭の中で数度繰り返してみて、ようやくその意味を悟った。
「え? 何、急に。冗談……だよね?」
「いいえ。間違いなく、あなたの世界は滅んだわ。だから、あなたを帰す事はできないの」
 滅んだって事は何もなくなった事で、何もなくなったって事は――。
「家は?」
「家も」
 そこで育った。家族全員を失くした後もずっと一人で住んでいた場所だから、あの家の事は隅から隅まで知っている。亡き父が設計し、家族が笑顔で過ごしていたあの家を守るために、バスや電車などの交通手段がなくなり学園近くのマンションが寮として開放された後も祐巳は自宅から徒歩で学園に通っていた。
「皆は?」
「皆も」
 力で従えた人もそうでない人も皆、命を懸けて一緒に戦っていた。
「温室は?」
 お姉さまとの幸せな思い出が残る場所だった。
「温室も、よ。あなたの仲間だった人たちも、力で従えた人もそうでない人も、薔薇の館も学園も、住んでいた家も街も、人類だけでなく命あるもの全て。あなたのいた世界そのものが滅びたわ」
 あの世界には、たくさんの思い出があった。
「そっか。滅びたんだ……」
 目の前が真っ暗になった。
 覚悟はしていた。そう遠くない未来にそうなるだろうとは思っていた。
「泣きたい?」
 桂さんの言葉に遠のきかけた意識を取り戻す。
「涙なんて、もう出ないもの」
 そう言った声が震えているのが自分でも分かった。強がりなんだって、そんな事分かっている。心を読まれるので強がりなんて言っても無駄だとは分かっているけれど、それでも桂さんには――神様にだけは弱い所を見せたくなかった。
「そう」
 祐巳の強がりに気付いているだろう桂さんは、ただ頷いただけだった。
「桂さんは見ていただけ?」
「私の役目は観察する事だから、見ている事しかできないの」
「……役に立たない神様だね」
「そうね」
 桂さんは自嘲するように薄く笑うと、「もう良いわね」と止めていた時間を元に戻した。
 世界に時間が戻った時には、既に桂さんの姿は消えていた。
 ぽつり、と空から雫が落ちてきて祐巳の制服に染み込む。祐巳の周りでは、先ほどまで時間を止められて固まっていた生徒が雨に気付いて校舎に戻り始めた。ぽつぽつと降り出した雨はすぐに大粒の雨となり、辺り一面を叩き付け始める。
「ふ……ふふ……あははは――」
 轟音の鳴り響く中、祐巳は笑いながら歩き始めた。



 どう歩いてきたのか、自分でも分からない。
 気が付けば、三叉の分かれ道の所にあるマリア像の前に祐巳は立っていた。
 恨み言を言うわけでもなく、願うわけでもなく、まして、祈るわけでもなく。ただ、雨に打たれるマリア像を見上げていた。
 白いマリア様は、柔らかな微笑みを浮かべている。

 何、笑っているの? そんなに私がおかしいの? ……そうだよね、おかしいよね。ふっ……ふふっ……笑ってよ。ねえ、マリア様。私と一緒に笑ってよ。おかしいでしょう? ねえ、おかしくって堪らないでしょう? 『帰りたい』、だって。私ったら、今頃何を言ってるんだろうね?

「あはははははははは」

 帰る所なんて――。

「ははは……」

 そんな所、もうないんだってさ……。

 冷たい雨が身体を叩き付けて、その度に切り裂かれるような痛みが走った。
 でも、冷たいとは感じなかった。心も身体も、もうこれ以上ないくらいに冷え切っていた。
 大嫌いだ。滅ぼした神様も、見ている事しかできなかった神様も。
 本当に何もなくなってしまった。楽しかった思い出も。悲しかった思い出も。幸せだった思い出は、殺されて、奪われて、潰されて、壊されて、本当にただの思い出になってしまった。思い出の残る場所さえ、なくなってしまった。
「神様なんて最低だ……」
 降りしきる雨の中、祐巳はそう吐き捨てた。


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