色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:これ】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
こちらに来て五日目の土曜日。そう、信じられない事にまだ五日しか経っていないのだ。それなのに随分と長い間こちらにいるように感じられるのは、五日間という短い期間にも関わらず遭遇した出来事が多いせいだろう。
授業の合間の休み時間中、祐巳はボーっと窓から外の景色を眺めながら、いつものようにアホな思考を張り巡らせていた。
例えば、今日の夕食は何だろう、とか。由乃さんは百合なんだろうか、とか。あの雲の形って瞳子ちゃんの縦ロールみたいで美味しそう、とか。そんな感じの事を延々と考えていた。
それにしても、こうやって過ごしていていつも感じるのだが、呆れてしまうほどに平和な世界だ。ここまで平和だと神様なんて必要ないんじゃないかな、とまで思ってしまう。けれど、きっとどこかで誰かが神様に祈っている。だからといって、それを桂さんたちが素直に叶えるとはちっとも思えないのだけれど。
(いや、待てよ。そういう人の願い事を叶える役目を持った神様が他にいるんじゃないかな? うん、できれば、そうであって欲しいな)
祐巳としては、その神様は身近な所で言えば乃梨子ちゃんみたいなタイプが良い。気が利くので、わざわざ願わなくても色々と叶えてくれそうだ。
(サービス満点! 願わなくても願いが叶っちゃう乃梨子神! おおっ、かなり良い線いってない?)
できれば誰かに話してこの感動を分かち合いたい、と思っていると由乃さんが不思議そうな顔して話しかけてきた。
「さっきから何唸っているのよ?」
「乃梨子ちゃんの有効な活用法について」
祐巳の言葉に眉を寄せる由乃さん。
「じゃなくて、神様の有効な活用法について」
祐巳が言い直すと、心配そうな顔になって尋ねてきた。
「何か悪いものでも食べた?」
「まさか」
今日は遅刻しそうだったから朝ご飯は抜きだった。
「私のお腹はびっくりするぐらい丈夫なんだよ。どんなものを食べても平気に決まっ――」
その時、ぐーきゅるる、と狙っていたかのようなタイミングで祐巳のお腹が鳴った。そのお腹と、頬をピクピクさせながら祐巳のお腹を見ている由乃さんに向けて言ってやる。
「こら、こんな時に鳴るな。由乃さんが笑い死にしちゃうでしょ」
「ぷっ、あはは。そう、そうね。食べていれば平気なのね。ぶふっ、あははははは」
必死に笑いを堪えようしていたが祐巳の一言で思いっ切り噴き出してしまった由乃さんを眺めながら、もしも乃梨子ちゃんが神様だったらとりあえず食べ物を出してもらおう、と思った。
「飴で良かったら食べる?」
「喜んで」
鞄に入れているらしい飴を取りに自分の席へと戻っていく由乃さんの後姿を見ながら、由乃さんが神様でも良いな、と祐巳は思ったのだった。
*
「由乃には友達が少ないから」
放課後になったので探し物をしながら校内を歩いていると、偶然廊下で令さまと出会った。薔薇の館へ向かっている所だったらしいのだが何となく話の流れからミルクホールに寄って、何と令さまの奢りで苺牛乳を入手。
冷たくて美味しいっ! と心の中で叫びながら顔には驚いた表情を浮かべておく。
「友達が少ない、ですか?」
いやまあ、本当に驚いているのだけれど。だって由乃さんと言えば、祐巳の世界では大変な人気者だったから。猫族というだけで希少価値がとっても高い上に、性格はちょっとあれだが見た目は間違いなく美少女。物音に反応したりして頭の上の猫耳がピクッと動くのがお持ち帰りしたくなるくらい可愛いくて、当然友達も多かった。
「ずっと身体が弱かったからね」
気は強いみたいですが、特にあなたに対して、と祐巳は密かに心の中で付け加えた。
「少し前まで由乃は人の輪に入りたがらなかったの」
「そうなんですか?」
意外だ。あの由乃さんが? 今は放っておいても飛び込んで行っちゃいそうだけれど。あちらの世界では、実際そうだったし。
「祐巳ちゃんの事、相当気になってる、っていうか気に入ってるみたい」
「それは分かります」
そっち系の人かと疑っているくらいだ。まあ、百合でもノーマルでもどちらでも構わないのだけれど、できればどちらか一つにして欲しい。祐巳としては、両方は許せないものがある。
「うん。だからってわけじゃないんだけれど、仲良くしてやって欲しい」
「もう仲良しですよ」
「ふふっ、そうだね」
爽やかな笑顔の令さま。この笑顔を見れば、彼女に何人ものファンがいるのも納得できる。この間のヘタレ具合が嘘のようだ。実は別人とか、二重人格とかじゃないですよね?
「祐巳ちゃん」
「何です?」
心を読まれたのかと思って祐巳はドキッとした。
「ありがとう」
「お礼を言われるような事はしていませんよ」
違ったようなので、ほっとする。とはいえ、神様じゃあるまいし他人の心を読むなんて芸当ができるはずもない。もっとも、祐巳の顔を見て何を考えているのか当てる人は、何人か存在しているのだけれど。
それにしても、ありがとう、とは。それは令さまが言うような事ではないと思うのだけれど、それと同時に、仕方がないか、とも思った。令さまは由乃さんの事が本当に大切なのだ。ここまで想われている由乃さんは幸せ者だと思う。
「良いの。私が言いたかっただけだから」
「では受け取っておきます」
そう言って頭を下げると、「祐巳ちゃんって面白いね」と令さまに笑われた。あんたよりはマシだ、と心の中で笑い返しておいた。
「さて、そろそろ行かないと。皆待っているだろうし」
山百合会の仕事があるらしい。あと数日で薔薇さまではなくなるはずなのだが、それまでは現役の薔薇さまだ。そして、薔薇さまは色々と大変なのだ。それは祐巳もよく知っている。あちらの世界のように、戦闘に関する仕事はないと思うが。
「祐巳ちゃんはこの後どうするの?」
椅子から立ち上がりながら令さまが尋ねてくる。
「散歩の続きをしようかと思ってます」
「散歩?」
「まだこちらに転入してきて五日しか経ってませんから。道を覚えるために――ッ!?」
椅子から立ち上がりながら答えていると、その途中でいきなり膝から力が抜けた。ひっくり返りそうになったので、慌てて机に手を突いて身体を支える。
「だっ、大丈夫?」
わざわざ机の向こう側からこちら側に回ってきた令さまが、祐巳の腰に手を回して倒れないように支えてくれた。
しかし、支えてくれるのは良いのだが顔が近過ぎる。その相変わらずの美形っぷりと、恥ずかしい所を見られてしまった事で赤面した祐巳は思わず顔を逸らしてしまった。
「すみません。ちょっと顔が近いです」
「あ、ごめん。でも、本当に大丈夫なの?」
祐巳から顔を離しながら再度尋ねてくる。何だかお姉さまみたいだ。
「足が縺れてしまっただけです。怪我もしてませんし、大丈夫ですよ」
「でも……」
「私の事よりも、早く行かないと遅れちゃいますよ?」
ここに来てから十分ほど進んだ腕時計を見せながら言ってやる。これ以上引き止めてしまうのは、令さまにも、令さまを待っている山百合会の人たちにも悪過ぎる。
「少しくらい遅れても構わないよ。それよりも、祐巳ちゃんを置いて行く方が心配」
何という男前。しかし、祐巳からすれば余計なお世話でしかない。
「昨日の今日でまた迷惑なんてかけたくないんです。お願いですから行ってください。じゃないと私、迷惑ばかりかけている自分を許せなくなってしまいそうです」
祐巳が必死になって言うと、ようやく令さまが折れた。
「本当に大丈夫なのね?」
「はい、平気です。すみません、迷惑ばかりかけて」
「謝らなくても良いよ。それよりも、今日は話せて楽しかった」
「私も楽しかったです」
令さまは、「ここでこんな話をした事は由乃には内緒ね」と言い残して去って行った。
とりあえず、由乃さんが百合ではないと分かった事だし、探していたものはここにはなかったし。さて、次はどこへ行こうかな、と祐巳は学園の地図を頭に思い浮かべた。
お聖堂にはなかった。マリア様のお庭にある真っ白なマリア像、ここにもなかった。講堂の裏手にある桜の木、やっぱりなかった。グラウンドにもなかった。
(どこにもないのかな? きっと、そうなんだろうな……)
祐巳はフラフラと力なく歩いていた。
探しているものがあった。どうしても見付けたいものがあった。でも、きっとここでは見付ける事なんてできないだろう、と思う。
見上げると、昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていた。
何だか、ふわふわして気持ち悪い。身体の方もやたらと重く感じる。一歩踏み出そうにも、足がまともに動いてくれない。単純に、体調が悪いから、というだけではないだろう。きっと、探せば探すほど探し物が見付かる場所がなくなっていくから、というのも一因となっているはずだ。
ああ、そうだ。令さまが向かったあそこなら、もしかしたら見付かるんじゃないだろうか。そう思いながら、祐巳は引き摺るように足を動かした。
薔薇の館が見えてきた。自然と足取りが早くなる。
きっとある。きっと見付かる。だって、あの館はあの人との思い出の場所だもの。だからきっと、あの館には求めているものがあるに違いない。
そう思っていた。
そう思っていたのに、あと少しで館に着くという所で祐巳は足を止めた。二階の窓の所に、こちらに背を向けている祥子さまだろう人物を見付けてしまったからだ。おそらく、祥子さまで間違いないだろう。腰まである長い黒髪をストレートにしている人物なんて、館に出入りしている人たちの中では祥子さまくらいしか思い浮かばない。
祐巳はその後ろ姿を、空っぽになった表情で見上げていた。
(何を勘違いしていたんだろう。そうだよね。ここにあるはずがないよね)
顔を俯かせて頭を左右に振る。
(ここも違う……でも、それならどこへ行けば見付かるんだろう?)
考えれば考えるほど、何も浮かんでこない。
もう駄目かも、と諦めかけた時、唐突にその場所が思い浮かんだ。
(あ! そうだ。まだ行ってない場所があった)
祐巳は薔薇の館に背を向けた。
第二体育館に行く途中に、古びた温室がある。教室よりも一回りほど小さく、今にも取り壊されそうだけれど、少数だがそれを反対する声が毎年上がる事によって何とか残っている場所。古くて、ところどころ壊れていて、生徒たちも殆ど近付かないとても静かな場所。
人気のないこの場所は、温室のくせに季節のせいかやけに寒く感じられた。
この温室には沢山の思い出があった。お姉さまとの温かな思い出が溢れていた。様々な種類の薔薇に囲まれたこの場所で、お姉さまとよく話をした。ここで一緒にお昼ご飯を食べた事もある。祐巳がロサ・キネンシスの事を知ったのもこの場所だ。
室内の一番奥に置かれていた棚に腰掛けて、祐巳は何もない空中を見つめていた。
ここも違った。そうだろうとは思っていたけれど、やっぱり違った。当たり前だ。ここは自分の世界ではなく、思い出の残る場所でもない。
あの世界とこの世界はこんなにもそっくりなのに、どうして違うのだろう。いっその事、全く違っていれば良かったのに。あの世界と同じこの場所が存在してなければ良かったのに、と思ってしまう。そうだったなら諦めも付いたし、思い出す事もなかった。
祐巳の思い出も、居場所も、全部向こうの世界にあった。何もかも全部、向こうの世界に置いてきてしまった。そして、帰れなくなってしまった。あの世界は滅ぼされて、完全になくなってしまった。思い出は、本当にただの思い出になってしまった。そして、その沢山の思い出たちが残された場所にもう帰る事すらできない。
何もかも失ってしまった。守りたかったのに、失いたくなかったのに、戦う事もできずに、こんな所にいるまま本当に何もかも失くしてしまった。
「お姉さま……」
ごめんなさい。守れなくて。
「祐麒……」
ごめんなさい。何もできなくて。
「お父さん……お母さん……」
ごめんなさい。こんな所で生きていて。
自分の生まれた世界を失う事が、こんなにも辛いものだとは思わなかった。自分の居場所を失う事が、こんなにも痛いものだとは思っていなかった。
「ぅぁ――」
見つめている景色が涙で歪んだ。
それでも、そこまでだった。祐巳は決して涙を零さなかった。ただ、視界をほんの少し滲ませただけで終わらせてしまった。
祐巳はもう泣けなかった。ここで泣いてしまったらおそらく二度と立ち上がれなくなるだろうから、自分に泣く事を許さなかった。祐巳にできるのは、引き裂かれるような痛みを必死に耐える事だけだった。
いっその事この痛みを消してしまえば――。
どんなに楽だろう? そうすれば、この痛みから解放される。
でも駄目だ。そんな事をしたら、この世界でも他人を傷付けるようになってしまう。目の前にいるのが誰なのか分からなくなって、それがたとえ瞳子ちゃんだとしても平気で傷付けてしまうだろう。あの時のように、また『あなたは誰?』なんて言ってしまうだろう。
それは駄目だ。それは嫌だ。だって、瞳子ちゃんと約束した。約束とは言えないかもしれないけれど、『二度と言わない』と確かに私は口にした。
他の誰を忘れても良い。でも、それと一緒に瞳子ちゃんの事を忘れるのだけは嫌だ。だから、耐えよう。大丈夫、今までも耐えてきた。きっと耐えられるはずだ。
でも――。
(あぁぁぁぁっ……痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いよぅ…………)
駄目かもしれない。今度こそ駄目かもしれない。本当に一人ぼっちになってしまった。
ここには家族がいない。お姉さまもいない。
それは志摩子さんも同じだけれど、あの人は違う。他の何を失っても、それだけは失う事ができないものがある。それがあるから、この違う世界でも彼女は絶対に一人ぼっちになんてならない。
私は彼女のように、この世界で皆と一緒に生きていく事なんてできない。この世界では私は化け物だ。私はこの世界の人たちとは違う。だって、私は――。
「祐巳さまっ!」
温室の扉が開かれる音と、誰かが名前を呼ぶ声が同時に耳に届いてきた。
棚の上で身体を丸めたまま顔だけを動かしてそちらを見ると、扉の前で肩を上下させている瞳子ちゃんがいた。ここまで走ってきたらしくて随分と辛そうな様子だったが、キョロキョロと室内を見回して祐巳の姿を見付けると、瞳子ちゃんは安堵の表情を浮かべた。
乱れていた制服を手早くその場で整えた瞳子ちゃんは、いつもの澄ました表情を浮かべると背筋をピンと伸ばしてゆっくりと優雅に歩み寄って来る。
けれど、それも途中までだった。祐巳まであと数歩という所で、瞳子ちゃんが息を呑んで立ち止まった。
「ど、どうされたんです?」
そこから慌てて駆け寄ってくる。せっかく整えた制服も、浮かべた澄ました表情も、何もかもが台無しだった。
瞳子ちゃんは祐巳の前で立ち止まると、心配そうに顔を覗き込んできた。
何でだろう? 何でこの子は傍にいて欲しい時にいてくれるんだろう? 不思議に思いながら、ぼんやりと瞳子ちゃんを見つめ返す。
「祐巳さま?」
不安げに揺れる瞳子ちゃんの大きな瞳。祐巳は瞳子ちゃんに向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
いけないのに。こんな事思っちゃいけないのに。妹(スール)にする事なんてできないのに。この子の傍にいたいと思う。この子に自分の傍にいて欲しいと思う。
「あなたは――」
「っ!」
祐巳の言葉に、瞳子ちゃんがビクッと身体を震わせた。真っ青になって祐巳を見てくる。また忘れられたとでも思っているのだろうか。そんなはずないのに。
「私の傍にいてくれる?」
「え?」
祐巳の言葉が予想外のものだったからか、大きく目を見開く瞳子ちゃん。
そんな瞳子ちゃんを見て、祐巳は小さく笑った。
「何でもないよ。子供じゃあるまいし、そんなに心配しなくても良いから」
「何でもない……って、目が真っ赤じゃないですか!」
それは自分では見えないから気付かなかった。
「小さなゴミが入ったの。別に痛くはないんだけど、異物感が酷くてね。でも、もう取れたから大丈夫」
「本当ですか?」
「うん。だから、そんなに心配しないで」
安心させるように殊更微笑んで言ってやると、まだ疑っている様子だったがとりあえず納得する事にしたようだ。深く突っ込まれては面倒な事になりそうなので、話を変えてやる。
「で、どうしてここに? 私を探してたみたいだけど?」
「祥子お姉さまが、館の前から去っていく祐巳さまを見たとおっしゃっていたので」
という事は、やはりあの時に見た後ろ姿は祥子さまだったのだろう。由乃さんも祥子さまと同じくらい髪は長いんだけれど、彼女はいつも三つ編みだ。
「それだけでわざわざここまで探しにきたの?」
「その時の祐巳さまの様子がおかしかったともおっしゃっていました」
「私がおかしいのはいつもの事でしょ?」
「……」
祐巳が茶化すと、瞳子ちゃんが急に黙り込んだ。厳しい目をして、じっと祐巳を見てくる。
「どうしたの?」
祐巳が尋ねるも答えない。しかし、その代わりなのか右手を伸ばしてきた。思わずその手を払おうとすると、「動かないでください」と言われる。仕方なく言われた通りにすると、祐巳の額に手のひらを当ててきた。
瞳子ちゃんの手のひらは、ひんやりと冷たくて心地良かった。凄いな。何で分かるんだろう? そう思っていると瞳子ちゃんが眉を吊り上げた。
「痛みを感じなくても、体調が悪い事くらい自分で分かりますよね。保健室にも行かずに、こんな所で何をしているんですか」
口調こそ静かなものの、明らかに怒っている。
「体調が悪いって、よく分かったね」
「誰だって今の祐巳さまを見れば気が付きます!」
「そうかなぁ?」
瞳子ちゃんが特別なんじゃないかな? と首を傾げる。
だって、クラスメイトは誰も気付かなかった。由乃さんたちも気付かなかった。志摩子さんなら、もし今日顔を合わせていたら気付いただろうけれど、それは祐巳との付き合いが長いからだ。だからやっぱり、瞳子ちゃんが特別なんじゃないかな? と思う。まだ出会って数日しか経ってないのに不思議だ。
「そんな事よりも、保健室に行きますよ」
「昨日の今日でまた保健室の先生に会えって? そんなのヤだよ。それに、もう少し時間が経てば治るから」
そう言ってみると、向けてくる視線が厳しいものから冷たいものへと変わった。
「いい加減にしないと見捨てますよ」
そう言うけれど、それを本当に実行できるような瞳子ちゃんじゃないのはよく分かっている。瞳子ちゃんは、とても優しいから。
「えー、酷いよ」
「だったらほら、早くそこから下りてください」
「はいはい、仕方がないなぁ」
「本気で怒りますよ?」
「ごめんなさい」
頭を下げて謝った後にブラブラと遊ばせていた足を地面に下ろし、腰を浮かせて立ち上がろうとした祐巳は、
「あれ?」
「祐巳さまっ!?」
膝がカクンと折れて、そのまま地面に尻餅を突いてしまった。立ち上がろうとしたが足に全く力が入らず、ほんの少しも動いてくれない。
「あはは、立てない」
仕方なく愛想笑いを浮かべてみる。
「……笑い事じゃありません」
怒られた。いい加減、本気で謝った方が良いのかもしれない。
「あなたはいったい、どれくらい私を心配させれば気が済むんですか」
祐巳としても瞳子ちゃんにはあんまり心配をかけたくない。けれど、今の瞳子ちゃんを見て、祐巳はとても嬉しく思っていた。
心配させて、心配してくれるのを見て、嬉しいと感じる自分はどこか変なんじゃないかと思う。きっと重大な病気を患っているに違いない。
「ごめんね」
「べ、別に謝らなくても……仕方ありませんね」
そう言って瞳子ちゃんが祐巳の隣に来て、制服が汚れるのも構わず膝を突いた。
「肩に掴まってください」
どうやら、一人では立てない祐巳に肩を貸してくれるようだ。しかし、祐巳よりも小柄な瞳子ちゃんにそこまで力があるとは思えない。
「さすがにそれは無理なんじゃない?」
「でしたら、立つ努力くらいはしてください」
自分でも分かっていたのだろう。怒ったような口調で返してくる。
それを聞いて、祐巳は思わず笑みを浮かべた。
「瞳子ちゃんは優しいね」
「ですから、無駄口を叩いてないで――」
瞳子ちゃんが怒っているけれど、それには構わずに祐巳は続けた。
「優しい瞳子ちゃんは、この世界に私の居場所を作ってくれる?」
「え?」
何を言われたのか理解できなかったらしい。だから、祐巳は言い直した。
「私の居場所になってくれる?」
*
瞳子の聞き間違いでなければ、『私の居場所になってくれる?』と祐巳さまは言った。
(それって。それの意味する所って――私を妹(スール)にしたいって事ですか?)
思わず期待を込めた眼差しで祐巳さまを見つめる。けれど、次に祐巳さまが口にした言葉を聞いて瞳子は落胆した。
「なーんてね、冗談だよ。ありがとう。もう大丈夫、自分で立てるから」
そう言った後、瞳子の手を借りずに自分の力だけで立ち上がる祐巳さま。
「冗談……ですか」
同じように立ち上がりながら消え入るような声で呟くと、祐巳さまが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、変な事を言っちゃって。熱のせいかなぁ?」
確かに、先ほど触れた祐巳さまの額はかなり熱かった。間違いなく、今の祐巳さまの体調は悪いと思う。けれど、本当にそれだけなのだろうか?
「保健室まで付いて来てくれるんでしょ?」
笑顔で言う祐巳さま。けれど瞳子には、祐巳さまが無理をしているのがはっきりと分かった。祐巳さまの浮かべている笑顔が、まるっきり作られたものだったからだ。
このまま放っておいたら、駄目なような気がした。このまま誤魔化されてしまうのは、非常にまずい気がする。
先ほど祐巳さまが口にした、『私の居場所になってくれる?』という言葉。あれは、瞳子に縋ろうとしたのではないだろうか。祐巳さまは、余程の事がない限り自分の弱い所を見せるような人ではない。それを他人に見せる事を何よりも怖がっている人なのだ。だとしたら、あんな事を口にしてしまうような余程の事があったに違いない。
ここに瞳子が来た時、目を真っ赤にしていたのもそれが原因だと思う。頬に涙の痕跡はなかったが、泣いてしまいそうにはなっていたのだろう。
祐巳さまが痛いと思う事なら、悲しいと思う事なら、全部取り除いてあげたいと思う。それくらい、瞳子は祐巳さまに惹かれている。
「いったい何があったんです?」
「何の事?」
ヘラヘラと笑っている祐巳さま。そうやって笑っていれば、瞳子を誤魔化せるとでも思っているのだろうか。
「私が何を聞きたいのか、あなたは分かっていますよね。誤魔化そうとしないでください」
言ってから瞳子は後悔した。祐巳さまの顔から表情が消えてしまったからだ。同時に、それまで何となく感じていた祐巳さまの感情も一切消え失せてしまった。
「あっ、あのっ、祐巳さま?」
自分は何か大変な事をしてしまったのではないか、と慌てふためく瞳子とは対照的に、静かに瞼を閉じた祐巳さまは何やら怪しげな事を口にした。
「私ね、天使なの」
「は?」
目が点になる、とはこういう事だろうか。きっと、今の自分はそんな表情をしていると思う。
「実は人間じゃないのよ」
祐巳さまが変わらず無表情のまま続けた。
これにはさすがに呆れ果てた。この期に及んで、また妙な事を言って誤魔化す気なのか、と。もうそろそろ我慢の限界を超えてしまいそうだった。
(こんなにもあなたに惹かれているのに。あなただってそうだと思ったのに)
瞳子の勘違いでなければ、祐巳さまだって瞳子に惹かれているはずだ。今までの祐巳さまの言動の節々から、それくらいは感じ取れた。自分は鈍感ではない。それなのに、なぜこの人は分かってくれないのだろう。どうして大切な事を誤魔化そうとするのだろう。
それだけはやめて欲しかった。誰よりも強く惹かれているから、目の前にいるこの人に誤魔化されるのだけは嫌だった。
「どうしてあなたは、そうやって誤魔化す――」
ふわり――純白が舞った。
「……えっ?」
思わず息を呑む。
瞳子の目の前を横切ったのは真っ白な羽根だった。それはどこまでも白く、一点の曇りも見当たらない穢れなき純白の羽根だった。
「人間じゃないから、あなたを妹(スール)にする事はできないの」
祐巳さまの背中から伸びたそれは、白く輝いていた。
純白の翼が広がり、無数の羽根が煌きながら宙に舞い、溶けるように消えていく。
「ねえ、瞳子ちゃん。この世界に私と同じような人は存在しているのかな?」
人一人が創り出せる光景とは、とても思えなかった。この世で見られるような光景とは、とても思えなかった。
そのあまりにも美しい光景に目と心を奪われている瞳子に向けて、祐巳さまが無表情のまま言った。
「私の生まれた世界、なくなっちゃったみたい」
「……え?」
それって――。
「私と同じように翼を持っている人たちも、皆死んじゃったんだって」
祐巳さまのいた世界が滅んだ?
「私一人だけになっちゃった……」
祐巳さまの表情が歪んだ。けれど祐巳さまは、決して涙を零さなかった。
「見てよ、この翼。気持ち悪いでしょう? この世界じゃ私、本当に化け物なの。ねえ、私はこれからどうすれば良いと思う? 本当に一人ぼっちになっちゃった……」
「祐巳さま……」
確かに、祐巳さまと同じような翼を持つ人なんて、この世界のどこを探したとしても決して見付からないだろう。
「志摩子さんが羨ましい……。あの人は人間だもの。ねえ、何で私は人間じゃないの? 何で私がこんな目に遭わなくちゃならないのよっ! ねえ、教えてよ。何でこんな……」
瞳子に答えられるはずがなかった。それどころか、どう慰めれば良いのかさえ分からない。ただ、何もかも失ってしまった痛みに耐え続ける祐巳さまを見ている事しかできない。
瞳子は祐巳さまとは違う。自分が持っているものを全て失った事なんてない。瞳子を生んでくれた両親は事故で失ってしまったけれど、育ての親がいる。何よりも、瞳子は普通の人間だ。たとえ他の全てを失ったとしても、それだけは決して失う事はない。
祐巳さまは、お姉さまを失い、家族も失った。元々住んでいた世界まで滅んでしまった今、人間ではない祐巳さまは居場所まで失ってしまった事になる。
瞳子も辛かった。大切な人が目の前で傷付いているのに、自分は何もしてあげる事ができない。こうやって見ている事しかできない自分に腹が立って、悔しくて、何よりも悲しかった。
「こんな世界嫌い……。大っ嫌い……全部なくなっちゃえば良いのに……」
ズキン、と祐巳さまの言葉に胸が痛んだ。
そんな事を言わないで欲しかった。そんな悲しい事は聞きたくなかった。
「やめてください」
今までは、特に何とも思っていなかった。この世界が好きかどうかなんて、考えた事もなかった。けれど、今は胸を張って言える。この世界を好きかどうか尋ねられたなら、「好きだ」と躊躇いなく答えられる。
だって、
「あなたがこの世界に来てくれたから、私はあなたに会う事ができたんです。あなたと出会えたこの世界が、私は好きなんです。だから、『嫌い』なんて言わないでください。『なくなれば良いのに』なんて、優しいあなたが言わないでください」
祐巳さまと出会った。この世界でなければ、今ここにいる自分は祐巳さまとは出会えなかっただろう。
「人間じゃない? それがどうしました。良いじゃないですか。だって、この翼……とっても綺麗ですよ」
そっと手を伸ばして、真っ白な翼に触れる。光が集まって形作られているようなのに、ちゃんと触れる事ができた。その翼は、祐巳さまの優しさを表すかのようにほんのりと温かかった。
「この世界にいるのが嫌だとおっしゃるのなら、どこかに行くと言うのなら、私も一緒に連れて行ってください。あなたが傍にいてくれるのなら、私はどんな世界でも好きになれます」
「……この世界から、どこか他の場所に行くような力なんて私にはないわよ。それに、何を馬鹿な事言っているの? あなたの居場所はここなの。ここに、ちゃんとあるじゃない」
「あなたに出会って惹かれた時から、私にとってあなたのいない場所に意味なんてありません。もしもあなたが私の前から姿を消したりすれば、私は自分の命を絶ちます」
「……何よそれ」
これで、祐巳さまは瞳子の前からいなくなったりできない。祐巳さまは優しいから、瞳子のこの言葉を聞いていなくなったりなんてできない。
自分の命を人質にして、優しい祐巳さまをこの場所に縛り付ける。こんな卑怯で最低な事をしてでも祐巳さまの傍にいたい。祐巳さまに傍にいて欲しい。
「そんなの卑怯よ……」
「あなたをここに縛り付けるためだったら、私は何だってします。あなたを失わないためなら、どんな事だってできます」
「……怖いね」
祐巳さまは困ったように微笑んだ。
「そうですね」
自分でも怖いと思う。こんなにも惹かれているとは自分でも思わなかった。祐巳さまのためなら、本気で命を投げ出したって良いと思っている。
「私があなたの居場所になります。それではいけませんか?」
「傷付けちゃうかもしれないよ?」
「あなたが妙な隠し事さえしなければ、傷付いたりしません」
「裏切っちゃうかもしれないよ?」
「あなたは決して裏切ったりしません」
「いなくなったりしない?」
「ずっと、あなたの傍にいます」
「本当に? ずっと傍にいてくれるの?」
「約束します」
はっきりと声に出して告げると、祐巳さまの翼が瞳子の背中を抱き締めるように動いた。
「きゃっ」
瞳子と祐巳さまを輝く翼が包み込み、世界が白一色に染まる。
ここは、白の世界。
祐巳さまと瞳子の、二人だけの世界。
純白の翼を持つ、天使のような祐巳さまと見つめ合う。
「私に何をして欲しいの?」
悪戯っ子のような微笑みを浮かべて問いかけてくる祐巳さま。何を求められているのか、瞬時に察した瞳子はあの時の言葉を今一度口にする。
「私を祐巳さまの妹(スール)にしていただけませんか?」
「そこまで求められたら仕方がないね」
にっこりと笑った祐巳さまが、自分の首にかかっているロザリオを外した。
曲がって、錆びて、歪んでいる、けれど、とても輝いて見えるロザリオ。そのロザリオに優しくそっと口付けを落とすと、愛しいものを包むように両手で大切に包み込んで瞳子に向かって差し出してきた。
「このロザリオは、私が戦ってきた証。お姉さまの形見にして私の居場所。必要がなくなったら、捨ててくれても構わないわ。その時は、私もあなたの前から消えるから」
祐巳さまは、自分の居場所に瞳子を選んだ。この世界でただ一人、瞳子を選んだ。瞳子のいる場所が、祐巳さまの居場所なのだ。もしもこのロザリオを捨ててしまったら、祐巳さまは本当に瞳子の前から去ってしまうだろう。だから、瞳子もこの命を以って応えようと思う。
「もしも私がそのロザリオを捨てたら、その時は私を殺してください」
瞳子の言葉に、「分かった」と祐巳さまが頷いた。
でも、きっと祐巳さまに瞳子の命を奪う事なんてできないだろう。それでも良い。これは自身への誓いだ。
(祐巳さまを裏切ったら、私はこの命を自分の手で絶つ)
祈るように跪いた瞳子の首に、祐巳さまの手によって歪な形のロザリオがかけられた。
一度は酷い言葉と共に拒絶された。それでも今、祐巳さまのロザリオは間違いなく瞳子の首にかかっている。
「瞳子ちゃん」
そのロザリオの感触を、片手で確認しながら頬を緩めていると名前を呼ばれた。
跪いたまま顔を上に向けると、そこにはトロンとした眼差しの祐巳さまがいた。その熱に浮かされたような眼差しを目にした途端、トクンと瞳子の鼓動が跳ねる。同時に、息苦しいくらいに身体が内側から熱くなってきた。
(私、どうしてしまったの?)
まるで魔法にかかったようだった。このままではまずい、とは思うものの祐巳さまの顔から目が離せない。
「あのね、我慢できないの」
瞳子の肩に手をかけながら、祐巳さまがふっくらとした柔らかそうな唇で言葉を紡ぐ。
なぜか祐巳さまの顔が、ゆっくりと瞳子の顔に近付いてきた。
「な、ななななななな何が我慢できないんですっ?」
徐々に近付きつつある祐巳さまの唇に、プルプルしてるとか、柔らかそうだとか、目と意識を奪われながら尋ねる。
けれど、祐巳さまは答えない。答えなんて必要ないでしょう? と言わんばかりに更に顔を近付けてくる。
(ええっと、これはつまり、そういう事なの? き、キス? それとも、それ以上? あ、あのっ! さすがにそこまでは望んでない……んですけれど……)
「瞳子ちゃん」
林檎のように頬を紅く染めて、祐巳さまが熱を帯びた声で名前を呼んでくる。熱い吐息が頬にかかり、瞳子の背筋をゾクゾクとした何とも言えない感覚が走った。同時に、プツン、と自分の中で何かが切れる音。
(まあ良いか……)
祐巳さまと同じくらい顔を林檎のようにして応える。
「祐巳さまぁ……」
柔らかくて温かな祐巳さまの手のひらが、肩から上ってきて瞳子の火照った頬に触れた。
されるがまま、拒む事なんてできない。いや、拒むだなんて、そんな愚かな事はほんの少しも考えない。
(あぁ、あと少しで……祐巳さまと……)
「ふふっ」
瞳子の魂まで蕩けさせてしまうような微笑みを浮かべながら、祐巳さまがその桜色に濡れた唇で、
「もう限界……」
と続けた。
「は? 限界って? あのっ、何だか傾いてません? うきゃぁっ!?」
祐巳さまに押し倒されながら、瞳子は自分ですら聞いた事のない不思議な悲鳴を上げた。
「……で? 何かおっしゃりたい事はありますか?」
「うぅ、世界がぐるぐる廻ってるぅぅ……」
瞳子の上に覆い被さって目を廻している祐巳さまが唸りながら言う。
祐巳さまの翼は倒れた拍子に無数の羽根を辺り一面に散らばせて、周囲の空間に溶けるように消えてしまった。それは恐ろしく幻想的な光景だったけれど、本当に一瞬の事だったので少し残念に思う。けれど、もし誰かがここにやってきてあの翼を見られると大変な事になるだろうから、それで良かったと思う事にした。
それにしても、まさかこんなオチが付くとは思わなかった。先ほどまでのあの神々しさは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。ついでに、あの……ちょっとだけえっちぽかった雰囲気も。
(あと、ほんの数センチだったのに……)
祐巳さまの下敷きになったまま先ほどの事を思い出すと、再び胸が高鳴ってきた。
(ばっ、馬鹿っ。何を考えているのよ私はっ!)
こんな変な事を考えてしまうのも、きっといつまでも祐巳さまが瞳子の上に乗っているからだ。
そう考えて、祐巳さまにさっさと自分の上から退いてもらおうと瞳子は口を開いた。
「いい加減、重いんですけれど」
「ごめ……ん。動け……ない」
とても情けない祐巳さまの返事。瞳子は大きく溜息を吐いた。
「ですから、保健室に行きましょうって言ったのに」
そう文句を言ってみたものの、途中から自分は祐巳さまの体調が悪い事なんてすっかり忘れていた。だから、押し倒された事によって制服が汚れてしまっているけれど、それは許そうと思う。
それにしても、祐巳さまからの返答が遅い。いくら何でも遅過ぎる。おかしいわね? と不思議に思いながら頭を少し浮かせて自分の上に覆い被さっている祐巳さまを見てみると、
「くー」
祐巳さまは瞳子の胸に顔を埋めて、小さな寝息を立てていた。
「……まったく」
文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、何も言わずにそのまま口を閉じる。
物音一つしない、しん、と静まり返っている古びた温室。その静かなはずの温室に、微かに聞こえる音があった。それが何の音か、どこから聞こえてくるのか、探さなくても瞳子には分かっていた。そっと、祐巳さまの頭を抱え込むように両腕を回してから目を瞑る。
そのまま動かずにじっとしていると、段々と聞こえている音が大きくなってきた。
とく、とくん、とく、とくん。
それは、鼓動の音。生命の声。生きている証。
(あなたにとっては残酷な事だと思いますが)
とく、とく、とく、とく、と少し早い瞳子の音。
(あなたの世界で、あなたの命が失われなくて良かった)
とくん、とくん、と祐巳さまの落ち着いた音。
「ここが、あなたの居場所ですからね」
確かな命の鼓動を感じながら、世界で一番愛しい人の寝顔に向かって瞳子はそう囁いた。