【1943】 運命という名の悪意  (33・12 2006-10-18 22:54:52)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:これ】→【No:1945】




「『彼ら』が何者なのか、なんて今更説明する必要はないわよね?」
 そう神様の少女が言ってきたのだが、勿論祐巳には不要だ。第五世界の魔法使いたちと同じく、祐巳たち天使族も「彼ら」の力を使う。
 「彼ら」とは精霊や妖精と呼ばれる者たちの事で、その正体は土や風、水や火といったものの化身だ。普通の人の目には見えないけれど、彼らは世界のどこにだって存在している。逆に言えば、彼らの存在していない世界はない。彼らは世界の様々な記憶を有する者たちで、世界を構成する存在でもあり、もしも彼らを根絶やしにしてしまえばその世界は崩壊してしまうのだ。
 祐巳の世界の魔法使いたちは、彼らと契約して自らの身体の内に取り入れる事によって初めて魔法を扱えるようになる。しかも契約する事によって、彼らが周囲に存在していなくても力を使える、というメリットまで生まれるのだ。もっとも、自分の体内に彼らを取り込んでいるのだから、当然と言えば当然ではあるのだけれど。
 こうした事もあり、第五世界では出現した蟲に対抗するために魔法使いたちが我先にと精霊たちと契約した結果、契約を必要とせずに彼らを使役できた祐巳たち天使族は、自由に使役できる彼らの数が激減してしまい役立たずとなってしまったのだ。
 それでまともに戦えないからといってずっと馬鹿にされていたのだと思うと、馬鹿にしていた人たちが全員蟲に殺されて亡くなった今でも腹が立ってくる。一発くらいぶん殴っておけば良かった。
(……まあ、今更殴れるわけでもないのに思い出しても仕方がない。それよりも、あの蟲共の事よね)
 蟲の中で魔法を扱う者は、精霊たちを直接喰らった者か、契約した魔法使いごと彼らを喰らった者のどちらかだ。あの蟲共に喰われる事によって精霊たちがいなくなり、祐巳たちの世界は破滅への道を突き進んだ。
(って、待てよ? 精霊たちが減って世界が破滅? ……あ、そうか。つまり――)
 精霊たちについて考えていた祐巳は、ふとその事に気付いてしまった。
「そうよ。つまり、『彼ら』は世界と繋がっているの。それがどういう事か分かる?」
 分かる。昨日桂さんと会った時に、『神様を罰する事ができるとしたら、『世界』だけね』と彼女が言っていた。
「ええ、その通りよ。あなたは、仮に、とはいえ世界の力が使えるとても貴重な存在なの。あなたは私たち神様を殺す事ができるのよ」
「へぇ、そうなんだ?」
 とても良い事を聞いた。少女に向かってニヤリと厭らしい笑みを向けてやる。
「あら? 私で試してみたいの?」
 無表情から一転、分かり易いほどによく分かる心底楽しそうな笑顔を浮かべて少女が返してきた。
「……何か嫌な予感がするから止めとく」
「やる、と言わなくて良かったわね。嬲り殺しにしてやる所だったわ。世界の力が使えると言っても所詮は仮のもの。私くらいになると全く効かないわ」
 ちょっとした嫌がらせをしようとしただけなのに、生か死かの別れ道に立たされていたらしい。何て心の狭い神様なのだろう。こんな上司を持ってしまった桂さんに、少しだけ同情してあげたくなった。
「それで、何で私じゃないと駄目なの? 彼らを使役できるのなら、他の天使族だって神様を殺す事ができるんじゃない?」
 それに、それなら魔法使いでも良いはずだ。契約するか、しないかの違いはあるが、扱うのは祐巳たち天使族と同じ精霊の力なのだから。
「そうね。けれど、いくら彼らを呼べても、十万体程度しか呼べないのでは話にならないわ」
 十万体も呼べたなら、天使族であればその百分の一くらいの蟲に周りを囲まれてしまっても十分戦えるのだけれど、神様はそれよりも強いらしい。ちなみに、天使族であれば通常は数万から数十万で、多くて七、八百万ほどの彼らを呼べるが、人族の魔法使いが契約できるのは多くても十万ほどだ。
 しかも、百や千を超える複数の目標に対して「全て倒せ」の一言で彼らへの命令が出来てしまう天使族と違い、魔法使いは呪文を唱えた後に魔法の名前を叫ばなければならない(つまり、攻撃目標から攻撃方法まで全て指定してやらなければならない)ため、志摩子さんみたいに高速思考か分割思考の技術を持っていなければ周りを囲まれた時に対処できなくなる。
「今のあなたは、いったい何体の彼らを集められる? 千や万ではないでしょう? そうでなければ、あの子が『凄く痛かった』なんて言うはずがないわ」
 少女の言った『あの子』というのは、桂さんの事だろう。そして『凄く痛かった』という言葉から、祐巳が早とちりして彼女を吹っ飛ばしてしまった時の事だと察する事ができる。祐巳の前では平然としていたくせに、実は凄く痛かったらしい。
 あの時は呼び寄せた五十万近くの彼らを纏めてぶつけてやったのだけれど、まだまだ呼び寄せる事ができそうだった。向こうの世界ではどれだけ必死に呼びかけても三千ほどしか集まらなかったので、自分でも驚いたのをよく覚えている。
「愛されているから、あなたの呼びかけには多くの彼らが応えるのよ。それに、数の事だけではないわ。自分でも他に、彼らに愛されているという心当たりがあるのでしょう?」
 確かにある。お姉さまを失った時の事だ。鋼鉄のトンボの群れが突撃してくる中、お姉さまの首を抱いて蹲り、無防備に泣き叫んでいた祐巳を守ってくれたのは彼らだった。
 彼らは、あの場所で次々と殺されていった魔法使いの少女たちと契約していた者たちだ。術者である少女たちは死亡したが喰われてはいないため、彼らは蟲に取り込まれる事なく生き残っていたのだ。
 そして、術者が亡くなった事により契約が解除された彼らは、誰からも命じられていないにも関わらずその身を盾にして祐巳を守った。
 今になって思えばあれが、彼らに愛されている、という事なのだろう。
「……別に私は、彼らに対して何もしていないんだけどね」
 彼らを使う事しかできない自分を、なぜ愛してくれるのだろうか。祐巳が首を捻っていると、少女が答えてくれた。
「あなたが本気で、世界を守りたい、と思っているからよ」
 それは、世界を構成する存在である彼らを守る事と同じ意味を持ち、だから彼らもそんな祐巳を愛しく想い、その呼びかけに応えて力を貸してくれているのだそうだ。
「彼らにそう言われたならともかく、あなたに言われてもいまいち信じられないんだけど、まあそういう事にしておくわ。それで、彼らに愛されている私に何をさせたいのよ?」
 尋ねると少女が空を指差したので、それを追うように空を見上げる。
 そこにあるのは、月と星と夜空を覆っている雲だけのはずだったのだが、気付かないうちに一つ増えていた。
「今はよく見えるでしょう? まずは、あれを墜としなさい。話はそれからよ」
 少女の言う通り、はっきりとよく見えた。
「相変わらず趣味の悪い形をしているわね」
 吐き捨てるように祐巳が言うと、
「何ですか、あれは……」
 同じように空を見上げた瞳子ちゃんが、小さく悲鳴を上げながら祐巳の制服の裾を掴んできた。
 空に浮かぶそれは、祐巳たちの世界では死の象徴だった。どの世界にあったとしても、明らかに異質に感じる存在。それが、この創られた世界で当たり前のように空に浮かんで祐巳たちを見下ろしていた。
 祐巳たちの世界の空を支配していた、ぼんやりと黄色く輝いている巨大な目玉だ。
(あれ? でも……)
 明らかにおかしな点があって祐巳が首を捻っていると、瞳子ちゃんの隣で空を見上げている志摩子さんが言った。
「気のせいかしら? 私の記憶にあるものと比べると、随分と小さいように思えるのだけれど」
 そうなのだ。あれは、もっと大きかったはずなのだ。
 今、祐巳たちの頭上に浮かんでいるそれは、以前の大きさの数十分の一ほどになっていた。それに、なんだか妙に近くにいるように見える。
「あなたの世界で最後まで生き残っていたのは、数千人の魔法使いだったそうよ」
 という事は、その人たちが力を合わせて、太古の魔法使いたちが開発したという究極の魔法を使ったのか。
 あの目玉に、どれだけの物が焼かれただろう。何とか一矢報いてやろうと、いったいどれだけの人が犠牲になった事だろう。あれを傷付ける事は不可能だと思っていた。
(そっか、届いたんだ……)
「半分以上消し飛んだのを、残ったものを使って修復したようね」
 少女の話によると、あの目玉自体の防御力は低いらしい。蟲を使って防御していたのだけれど、それごと消し飛ばされてしまったそうだ。
「あれ? でも、神様って私じゃないと殺せないんだよね? 他の人でも傷付ける事ができるのに、殺す事はできないっておかしくない?」
 殺すって事は傷付ける事だ。傷付ける事ができるのなら殺す事もできるはずだ。そう思って尋ねてみたのだが、少女に鼻で笑われてしまった。
「あれが神様に見えるのなら、あなたの目は相当に曇っているわね。早急に取り替える事をお勧めするわ」
「……」
 この神様って、どうしてこう一言多いのだろうか。
「じゃあ、あれって神様じゃなかったんだね。それと、ひょっとしてあれって弱いの?」
「もしも私が手出しできるとするならば、墜とすのに一秒もかからないわね」
 それは全く参考にはならない。そもそも、この少女の持っている強さが分からない。
「今のあれは、あなたの世界にいた時よりも遥かに弱くなっているわ。浮かんでいる場所にしたって、今はずっと高度を下げた場所にいるの。そうしなければ、自分の攻撃が地表に届かないから」
 それはそうだろう。やたらと小さいし。
 とはいえ、実際に自分であれを墜とすとなると、どうなるかは分からない。もしかすると、為す術もなくやられてしまうかもしれない。
「私は手出しする事ができない。だから、あれをどうにかできるのはあなたたちだけよ。分かる? あなたたちしかいないの」
 祐巳と志摩子さんを見つめながら少女が言ってくる。
「逃げる、という手段もあると思うんだけど?」
「どこまでも追いかけてくるわ。それに、あなたたちは決して逃げたりはしない。違う?」
 当たり前だ。あれを前にして逃げたりはしない。志摩子さんだって、絶対に逃げたりはしない。
「逃げるくらいなら戦ったりしなかったわ」
「私も同じよ」
「ふふっ、精々頑張りなさい」
 少女が他人事みたいに言ってくる。いや、確かに他人事なんだろうなぁ、と思っていると制服の袖を引っ張られた。
 そちらを見ると瞳子ちゃんが不安そうな表情で祐巳を見上げていて、その不安に揺れる瞳から彼女の複雑な感情が見て取れた。
 祐巳に傷付いて欲しくないのだろう。危険な事をして欲しくないのだろう。もしかすると、戦っている時の祐巳の姿を見たくないのかもしれない。あれは本当に酷いものだから。
 さて、どう安心させようか、と考えかけた所で、このまま戦闘が始まれば瞳子ちゃんを巻き込んでしまう事に気付く。彼女はただの人間で、あの蟲から身を守る手段なんて持っていないのだ。しかしよく考えてみれば、そもそも今回の件は祐巳たち第五世界の住人に関わりがある事で、第六世界の人間である瞳子ちゃんには何も関係がないのだから、元の世界に帰してもらっても良いはずだ。神様の少女だって、それは分かっているだろう。きっと、頼めば瞳子ちゃんだけは戻してくれるはずだ。
 そう考えて祐巳は少女に話しかけたのだけれど、
「ねえ、瞳子ちゃんだけは元の世界に」「嫌っ!」「え?」
 それは瞳子ちゃん本人によって遮られた。
「絶対に嫌です!」
 激しく首を振って、祐巳の腕をぎゅっと握ってくる。
「ちょっ、ちょっと瞳子ちゃん?」
「約束しましたよね? 一緒に戻るって。ずっと傍にいるって、約束しましたよね?」
「……そうだね」
 正直に言えば、これから戦闘だというのに自分の身を守る術すら持たない瞳子ちゃんがいても足手纏いにしかならない。
 けれども、瞳子ちゃんがいてくれるなら――。
「あなたは強くなれる。そうでしょう?」
 神様の少女が祐巳の心を読んで、そう言ってきた。
「それとも、守り切る自信がないのかしら」
「それは……」
 油断も過信もするつもりはないが、戦場では何が起こるか分からないのだ。百パーセント守り切れると断言できるはずもない。
 もしかすると、お姉さまのようにまた失ってしまうかもしれないのだ。それは、自分が死ぬ事よりもずっと怖い。
「あなたが守れば良いだけの話よ」
「簡単に言ってくれるわね」
 祐巳が睨みながら言うと、「他人事だもの」と少女が返してきた。
「姉妹なのでしょう? 可愛い妹が一緒にいたいと言っているのだから、叶えてあげれば良いじゃない。一緒にいるって、約束だってしたのでしょう? それともあなた、人を一人守り切る自信もないのに世界を守ろうなんて考えていたの?」
 神様の少女のその言葉で、祐巳の覚悟は決まった。
 少女から視線を外して、心配そうな顔をしている瞳子ちゃんを見る。
「神様……は何だか嫌だし。そうね、マリア様にでも祈っていてくれないかな?」
「え?」
「私があなたを守れるように、って。ね?」
 悪戯っ子のような表情を作りながら祐巳が言うと、瞳子ちゃんは首を振った。
「祈ったりなんかしません。一緒に戻るって、ずっと傍にいるって、もう約束していますから。だから、祈ったりしなくても祐巳さまは絶対に私を守ってくれます」
「そうだね」
 祐巳はゆっくりと瞳子ちゃんの胸元にあるロザリオに手を伸ばすと、歪に曲がっているそれに指先で軽く触れた。
「私の居場所はね、これのある所……ううん、瞳子ちゃんのいる場所なの」
 こくん、と頷く瞳子ちゃん。
 ロザリオから指先を離し、上へと向かわせる。その先には、祐巳を見つめている瞳子ちゃんの顔があった。
 手のひらで、そっと頬に触れる。
「だから、私は必ずあなたの傍にいるわ」
「はい――」
 頬に触れている祐巳の手に、瞳子ちゃんが手を重ねてくる。
「私も必ずあなたの傍にいます」
 瞳子ちゃんの手は温かくて、祐巳の手だけではなく心まで温めてくれるようだった。
「これから戦闘だというのに、随分と余裕を見せてくれるのね。それでは、折角の良い雰囲気の所を邪魔して悪いのだけれど、さっそくお客さんよ」
 少女の声に瞳子ちゃんから手を離し、振り向き様に「彼ら」に命じる。
「折角良い雰囲気だったのに、邪魔するなんて無粋だね」
 元は扉のあった場所から、祐巳たちへと飛びかろうとしていた蜘蛛みたいな奴が爆発四散した。
 それと同時に、館の中に無数の足音が響き始める。
「これはまた、たくさんいるみたいね」
 気配で分かる。それに、「彼ら」が絶えず状況を教えてくれる。館の周辺は、既に蟲たちに囲まれていた。
 とはいえ、こんな所で悠長に話をしていたのだから囲まれるのも当然だ。実は神様の少女の嫌がらせではないのだろうか。そんな事を考えながら視線を窓のあった方へと向けて、ああ、いるな、と祐巳は思った。向こうの世界でも何度か経験した事がある。ここからずっと遠くに、トンボの群れがいた。こちらの視界の範囲外から飛んできて、玉砕覚悟で突撃してくる奴らだ。
 外は暗いし、ここから数キロ離れた場所の事なので肉眼では見えないのだけれど、「彼ら」が教えてくれる。そこに「いる」と祐巳に教えてくれる。数は四百ほどで、その全てがこちらに向かって羽ばたいていた。奴らは音速で飛べるが、その速度に到達するまでにしばらく時間がかかるのだ。
 祐巳はその場で一歩も動かず、それどころか一言さえ発さずに、ただ心の中で「燃やせ」と彼らに命じた。それだけで事足りた。それだけで奴らは、その場で突然燃え上がって跡形もなく燃え尽きた。
(ふん、馬鹿なんじゃない?)
 今、この場所から半径十キロ圏内で、祐巳に分からない事はない。負担が大きいために長時間は使えないのだが、祐巳は彼らを通して得た情報を複数の思考で処理する事によって、周辺の状況を全て知る事ができる。お姉さまを失ってから、強くなるために得た技術の一つだ。
(それにしても数が多い……)
 ゆっくりと振り向いた祐巳の前を、
「ライトニング・アロー!」
 志摩子さんの声と共に光の矢が通過した。
 光の軌跡を辿ると、それが突き刺さった蟲が痙攣しながら倒れる所だった。しかし、奴らは止まらない。その後ろにいた蟲たちが、仲間の死骸を踏み付けながら次々と部屋の中へと入ってくる。
 志摩子さんはそれらに向けて立て続けに魔法を放ちながら、「後ろ!」と祐巳に注意を促してきた。
「分かってるって」
 天井がなくなっているために外壁を登って部屋へと侵入してきた蜘蛛が、祐巳の背後にいる瞳子ちゃんへと飛びかかろうとした瞬間、細切れになって絶命した。次いで、志摩子さんへと飛びかかろうとしていた蟲も破裂させてやる。
「あなたも色々と大変ね」
 神様の少女が祐巳を見て笑っている。ついでにこいつも破裂させてやろうか、と数匹の蟲を纏めて氷付けにしながら思った。
「祐巳さまっ!」
 今度は何よ? と瞳子ちゃんへと顔を向けてみると、彼女は空を見上げている。同じように見上げてみると、空に浮かんでいる巨大な目玉が祐巳たちを見下ろしていた。
(――っ!)
 その目玉の奥が、ぼんやりと赤く輝いている。一瞬頭の中が真っ白になるが、すぐに我に返ると祐巳は叫んだ。
「志摩子さん、まずいっ!」
「え?」
 さすがに今のでは何の事か分からなかったらしく、志摩子さんが不思議そうな顔を向けてくる。
「あれが撃ってくる!」
 祐巳が言い直すと、志摩子さんが空を見て顔色を変えた。分かってくれたのなら、それで良い。
 瞳子ちゃんの腕を掴みながら、彼らの力を借りて会議室の壁を根こそぎ吹き飛ばす。
「あの、祐巳さま? まさか、と思いたいんですけれど……」
 先ほどまで壁があった場所を見て、瞳子ちゃんが不安そうに名前を呼んでくるが構っていられない。瞳子ちゃんの腕を掴んでそこにできた空間へ向かって走り出し、その勢いのままそこから飛び降りる。
 志摩子さんが後に続いているのをチラリと見て確認した祐巳は、掴んでいた腕を頼りに瞳子ちゃんを引き寄せると決して離さないようにしっかりと抱き締めながら、彼らに命じて引き起こした突風を使って自分たちを吹き飛ばした。
 荒れ狂う突風によって薔薇の館から遠ざかる祐巳の胸元では、瞳子ちゃんがぎゅっと目を瞑って凄い悲鳴を上げている。場違いにもそんな瞳子ちゃんを見て、可愛いなぁ、なんて思っていると、空から伸びてきた一条の赤い光が薔薇の館を直撃した。
 圧倒的破壊力を持つ熱光線魔法が、殆ど一瞬で薔薇の館を粉砕する。けれど、その威力は以前に比べてかなり落ちているようだった。なにしろ以前のそれは、街だろうと何だろうと一撃で辺り一帯根こそぎ蒸発させていたのだから。
 あの世界に最後まで残っていた魔法使いの人たちに感謝したい。その人たちのお陰で助かった。まあそれでも、死んだ、と思ったのだけれど。
 いくら威力が低下していても、まともに喰らったら消し飛んでいただろう。爆風によって回転する視界の中で、抱き締めている瞳子ちゃんを放り出したりしないように祐巳は両腕に力を込めた。
 十秒ほど飛ばされていただろうか。急速に地面が近付いてきたので彼らに命じて減速し、速度を完全に抑えた所で足からゆっくりと着地。あまりにも上手く着地できたので「百点!」と言ってみた所、腕の中の瞳子ちゃんに睨まれた。
「何が『百点』ですか。いきなりあんな所から飛び降りて、死ぬかと思ったじゃないですか!」
「いや、あのままあそこにいた方が確実に死んでたと思うよ?」
 あまりの剣幕に怯んでいると、途中から魔法を使って優雅に飛んでいたらしい志摩子さんが祐巳たちの横に降りてきた。
「何をしているの。このままでは囲まれてしまうわ」
「知ってるよ」
 志摩子さんの言う通り、祐巳たちは四方八方を蟲たちに囲まれようとしていた。
 祐巳の腕の中にいる事により祐巳しか見えていなかった瞳子ちゃんが、志摩子さんの言葉で自分たちが置かれている状況に気付いて小さく悲鳴を上げる。
「どうせ戦わなきゃならないんだし、それなら纏めて潰そうと思って囲まれるのを待っていたの。その方が効率的でしょ?」
「普通これだけの数の蟲に囲まれたら生存できる可能性は極めて低いのだけれど、それを『効率的』なんて言う辺りが凄く祐巳さんらしいわ」
「それって褒めてくれているの?」
 そうやって軽口を叩き合っているうちに、祐巳たちは周囲を完全に包囲されてしまった。四方八方、どこを見ても虫だらけだ。
「そろそろ良さそうね」
 蟲たちが輪になって自分たちを囲んでいるのを見て、祐巳はすっと目を細めた。
「っ!」
 急に雰囲気が変わった祐巳に、志摩子さんと瞳子ちゃんが同時に息を呑む。
「せっかく集まってくれたのに悪いのだけれど」
 周囲を見渡しながら、祐巳は口の端を吊り上げた。
「お前たちはそこで死ね」
 そう祐巳が告げると共に最前列にいた蟲たちがその場で同時に弾け飛び、それが戦闘開始の合図となった。祐巳たち三人に対して数で圧し潰すつもりなのだろう。数えるのも馬鹿らしくなるほどの蟲が、祐巳たちへと一斉に迫ってくる。
「そんなに集まっていると危ないわよ?」
 急に足元の地面がぬかるみ、足を取られて転倒する鋼鉄の蟲たち。そんな仲間を踏み付けて、祐巳たちへと飛びかかってくる蟲たち。それを、こちらに到達する前に空中で焼き尽くしてやる。次いで祐巳は、背後にいた瞳子ちゃんの腕を引っ張りながら自分の身体を回転させて抱き寄せた。そうして、腕の中から祐巳を見上げてくる彼女に言う。
「怖ければ目を瞑っていても良いわよ」
 瞳子ちゃんは左右に首を振った。
「いいえ、見届けます」
「そう。それなら面白いものを見せてあげる」
「え?」
 微笑んだ祐巳に、不思議顔の瞳子ちゃん。けれど、その表情が瞬時に変わった。
「後ろっ!」
 背後から飛んできた蟲が祐巳を狙っていた。
 勿論祐巳は気付いていたが、そちらに振り向く事も、彼らに排除を命じる事もしなかった。ただ、瞳子ちゃんに向かって笑顔を浮かべて立っているだけだった。しかし、祐巳の背中に到達する前に、飛びかかってきていた蟲が突然横に弾き飛ばされる。
 ふわり、と煌く羽根が宙に舞った。
「あぁ……」
 祐巳の腕の中で瞳子ちゃんが溜息を零す。
「私の本気、見せてあげるわね」
 闇よりも昏い瞳で蟲たちを見据える祐巳の背中で、一対の純白の翼が大きく広がった。



 祐巳さんは無事なようね、と志摩子は思った。
 どうも自分は、無意識で孤独を求めているのか、それとも、ただ単に運が悪いだけなのか、一斉に飛びかってきた蟲たちの攻撃を躱しているうちに祐巳さんたちと離れてしまったようだ。
 周囲を蟲に囲まれているために祐巳さんたちがどこにいるかは見えないし分からないが、周辺に流れている空気が変わった事にはすぐに気が付いた。神々しいのに狂気を孕んでいるという、この独特の空気。祐巳さんが本気になったのだろう。という事は祐巳さんも、その祐巳さんが守っているはずの瞳子ちゃんの事も心配する必要はない。
 自分は目の前の事に集中すれば良いのだ。そう考えた志摩子の前で蟲が咆哮を上げた。
(もっと――)
 自ら蟲へと近付いて、その鋭い前脚の間合いへと入る。
(もっと、もっと――)
 振り下ろしてきたその脚を、志摩子は素早く身体を横にして避けた。
(まだよ)
 この近辺にいた蟲たちが、続々と志摩子の元へと集まりつつあった。
 蟲たちの間に僅かにできた空間で身を躍らせ、集まってくる蟲を引き付ける。
(可能な限り多く集めないと)
 志摩子の頭上を、頬を、肩を、腕を、背中を、足を、鋼鉄の蟲たちによる攻撃が掠めた。
 もしもそれが、ほんの少しでもずれていたら? もしも、それによって動きを止めてしまったら? 志摩子の命はそこで終わっていただろう。
 けれど、止まらない。足の親指に力を入れて方向転換。そこから五ミリだけ後ろに下がると、下がった志摩子の服を掠めて刃のような前脚が通り抜けていく。次いで二センチ頭を下げると、飛んできた鋼の蜂が志摩子の髪の毛を揺らして通り過ぎた。
 相手の全ての動作に全神経を集中して躱す。
 ある時はゆっくりと、ある時は素早く躱す。
 ほんの数ミリの動きで躱す時もあれば、大きく動いて躱す時もある。
 今この場にいる全ての蟲の動きを予測して躱す。
 躱して、躱して、躱して、躱して、躱す躱す躱す躱す躱す躱す躱す――。
 蟲たちに埋め尽くされている大地でまるで踊るように、志摩子は彼らの猛攻を紙一重で躱し続けていた。



「手を――」
 腕の中から瞳子を解放した祐巳さまが、ゆっくりと手を差し出してくる。
「はい――」
 その手のひらの上に、瞳子は自分の手を静かに重ねた。

 黒の世界に白が舞う。
 一歩、踏み出すと蟲が燃え上がった。
 一歩、踏み出せば蟲が弾けた。
 一歩、踏み出すだけで無数の命が消えた。
 舞い散る無数の純白の中、無数の紅が燃え上がり、無数の蒼が咲いた。

 命の華が咲き乱れる――。

 それは、化け物を包む炎のはずだ。
 それは、化け物が流す血液のはずだ。
 それは、為す術なく散っていく命のはずだ。
 それなのに、瞳子には目の前の光景がとても美しく感じられた。
 ふと、隣を歩く人の横顔を見てみる。その人の瞳は闇よりも昏く、そこには何も映してはいなかった。散っていく命の華も、隣にいる瞳子の姿さえも映さず、ただどこまでも真っ直ぐに。そこに一切の感情を浮かべる事なく、その昏い眼差しを自分の前だけに向けていた。
 怖い、と思った。恐ろしい、と思った。こんな人と姉妹(スール)になるんじゃなかった、と思った。

 けれど、目が離せない。
 惹かれる。
 惹かれる……。
 どこまでもこの人に惹かれてしまう。
 もう、この人からは離れられない――。

 昏い眼差しをした祐巳さまの横顔を見つめながら、瞳子はそう思った。



「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
 準備は整った。
 ジャリッと砂を踏み締める音を立てて、志摩子はピタリと動きを止めた。
 周囲を囲む化け物に向けて、まるで挑発するかのように手の中で杖を一回転させると、蟲たちが赤い灯火を宿した目を一斉に志摩子に向けてきた。その赤い灯火は、蟲たちが魔法を行使する直前に見せるものだ。しかし、彼らが魔法を行使する事はできなかった。
「ワールド・エンド」
 その言葉と共に、志摩子を中心に冷たい風が蟲たちの足元を駆け抜けた。白煙が立ち昇り、それは瞬時に猛吹雪となる。ほとんど一瞬だった。おそらく、自分たちが死んだ事にも気付かなかっただろう。
 地面も、空気も、魂までも凍り付かせて、志摩子以外の時が止まる。
 今までの喧騒が嘘のように辺りが、しん、と静まった。ほんの数秒前まで確かに生きていた蟲たちの鋼鉄の身体が、硬く冷たい氷の柱の中に閉ざされている。この場所には、白煙を吐き出す氷柱の群れと志摩子だけが存在していた。
(祐巳さんたちは無事かしら?)
 早く合流しなければ、と歩き始めた志摩子の背後で、蟲たちを包んでいる氷柱の表面に亀裂が入る。それは、ここにある全ての氷柱に同時に見られる現象だった。亀裂は徐々に広がり、やがて自身の重さに耐え切れなくなって崩壊の音を奏で始めた。
 砕けた氷の欠片が飛び散って、大地を覆い尽くす。
 志摩子が去った後には、まるでダイヤモンドを敷き詰めたかのような透明に輝く大地だけが残っていた。



「ねえ」
 ゆっくりと歩みながら祐巳さまが囁いた。
 紡がれたその声は、世界へと溶けていく。
「私の声が聞こえる?」
 その囁き声に呼応するかのように、ふわり、と金色に輝く小さな何かが祐巳さまの周囲を舞った。
「応えてくれる?」
 それと同じものが周辺のあちこちから浮かび上がり始める。
「あ……」
 瞳子の肩に、それらのうちの一つが舞い降りてきた。
 それは、紫電が迸る銀の槍を持ち、水滴を象った冠を被り、冷気が立ち昇る白銀の鎧を纏った乙女だった。背中からは祐巳さまと同じように、一対の純白の翼が伸びている。
 人の手のひらに乗れるほどのサイズである彼女は、愛くるしい顔立ちで瞳子を見上げて微笑んだ。
「ねえ」
 祐巳さまが、まるで詠うように囁く。
「皆――」
 その呼びかけに周囲がざわめき、
「私に力を貸して」
 その言葉で世界が揺れた。



 まだ残っていた蟲を屠っていると、突然夜が明けたのかと錯覚するほど周囲が急に明るくなった。
「祐巳さん?」
 あまりの眩しさに目を細めた志摩子のすぐ脇を、白く輝く何かが通り抜けていく。
(これは……)
 周囲を見回せば、同じような光があちこちに浮かんでいた。十万、百万、或いはもっと多いかもしれない。それらは、或いは飛び回り、或いはじっとして、そこに存在していた。
「精霊……」
 祐巳さんを髣髴させる、一対の翼を持つ戦士だ。彼らは巨大な黄金の剣を持ち、炎を象った兜を被り、黄金の鎧に風を纏わせている。少し離れた所には、その戦士と同じようなデザインの鎧を纏った翼ある乙女たちもいた。
(これが祐巳さんの……)
 呼びかけた人の思い描く姿を取り、様々な色の光りを放ちながら精霊たちが周囲を埋め尽くしていた。普通は見えないはずなのだが、お互いに干渉し合っているせいだろうか。肉眼でもはっきりと見えた。その姿から、彼らは間違いなく祐巳さんが呼んだのだろう。
 けれど、これだけの数であの目玉を墜とせるのだろうか? そう思いながら空を見上げて、志摩子は絶句した。
(嘘……でしょう?) 
 夜空が色とりどりに輝く精霊に埋め尽くされていた。十万や百万どころではなかった。おそらく、数千万はいる。
(いくら何でもこんな数は有り得ない……)
 たった一人の呼びかけに、これほどの数の精霊が応じるなんて事は通常有り得ない。確かに、天使族であれば人族よりもずっと多く彼らを呼び出せるとされるが、数千万だなんて数を呼ぶ事のできる天使族なんて聞いた事がない。
「凄い……まだ増えている」
 思わず感嘆の声を漏らす。
 彼らはまだ集まっている。次々に集まる精霊は、既に見える範囲全体に及んでいた。そこら中を飛び回り、志摩子の肩で羽根を休める者までいた。
 よく見てみると、その精霊が高速で口を動かしている。何か喋っているようなのだけれど、当然何を喋っているのかは志摩子には分からない。しかし、すぐに何をしていたのか理解できた。志摩子の周りに、新たな精霊の姿が浮かんできたからだ。
(自分たちで仲間を呼んでいる?)
 ゴクリ、と唾を呑み込んだ。
(祐巳さんは、本当に彼らに愛されているのね)
 彼らは祐巳さんの呼びかけに応えて、自分たちで仲間を集めているのだ。



「祐巳さま……これは……」
 空を見上げる瞳子ちゃんの声が震えていた。
「この近辺に存在する全ての精霊を集めたわ」
 その数、五千七百万。
「まだ集められそうだけれど、今はこれだけいれば十分ね」
 滅びかけていたあの世界では、今の祐巳の状態だとしても決して集める事のできない数だ。おそらく、この世界に彼らを使役できる者が祐巳しか存在していない事も関係しているのだろう。
「あれを墜としてやるわ」
 ぼんやりと黄色く輝きながら浮かんでいる忌々しい目玉を見上げると、すぅっとそれに向かってまるで指揮者のように祐巳は右手を上げた。
「墜とせ」
 それだけで良かった。その一言で彼らは祐巳の願うままに、祐巳の世界の街や人々を焼き払ってきたあの目玉を墜とすべく動いてくれる。
 あちこちに散らばっていた精霊たちが、祐巳の指差すそれに一斉に意識を向けた。



 それは、哀れな光景だった。空に浮かぶ目玉に、圧倒的な数の彼らが咆哮を上げながら向かっていく。
 銀の槍で突き刺し、貫き、氷の礫を叩き付け、黄金の剣で切り裂き、抉り、炎を操って焼き払い、あらゆる破壊を以って空に浮かぶ目玉を蹂躙する。血液なのだろうか。ほんの僅かな時間で満身創痍となった目玉のあちこちから、まるで雨のように真っ青な体液が噴き出ていた。
「弱いわね」
 あんなものに生まれ育った世界を滅ぼされたのかと思うと、悔しくて堪らなかった。けれど、それも直に終わる。そう考えて祐巳は嗤っていた。
 それに触発されたわけではないとは思うのだが、巨大な目玉の瞳の奥に紅い炎が灯るのが見えた。
(ちっ、まだそんな余力が――)
 目玉から地上へと向けて、紅い一本の光の筋が伸びる。
 それに反応したのは、祐巳ではなかった。
(待ちなさい! 何をする気なの!)
 超高々度の熱量を持つそれが地上に届く前に、飛び回っていた精霊のうちの数百万体がその身を盾にして受け止めて蒸発する。
(……何、勝手な事しているのよ。私はそんな事を命じた覚えはないわよ)
 お姉さまを失った時と同じように、何も命じていないのに彼らはその身を挺して祐巳たちを守ったのだった。
(どいつもこいつも命を粗末にして……ッ!)
 彼らは身を挺してまで助けてくれているのに、祐巳は彼らに対して何も返してやる事ができない。それが歯痒くて心の中で悪態を付いていると、突如として祐巳たちの周りに複数の蟲が姿を現した。どうやら転移されてきたらしい。
(鬱陶しいわねぇっ!)
 途端に起こる爆発、爆風、雷鳴。風に切り裂かれ、炎に包まれ、雹に撃たれ、地面に呑み込まれ、青い体液を撒き散らしながら蟲たちが死んでいく。
 視線を夜空に戻すと、精霊たちによる激しい攻撃に晒されている目玉は最早原型を留めていなかった。
 傾いている目玉を眺めながら、祐巳は神様の少女の言葉を思い出す。
『あなたにやってもらいたい事があるの』
『あれを墜としなさい。話はそれからよ』
 神様の少女が祐巳にさせたかった事。おそらく、あの目玉を墜とす事によって、あれを操っている神様が姿を現すのだろう。つまり、そいつを引っ張り出してその神様を――。
「そうよ。あなたの思っている通りよ」
 まるで狙っていたかのようなタイミングで、少女の声が祐巳たちの背後から聞こえてくる。
「何だ、生きていたんだ?」
 振り向くと、いつの間にか神様の少女がそこに立っていた。たしか、薔薇の館の崩壊に巻き込まれたはずだ。少なくとも祐巳は、彼女が逃げた所を見ていない。てっきり巻き込まれて死んだものだと思っていた。
「私があちらに手を出せないのと同じように、あちらも私には手が出せないのよ」
 だからあれの攻撃は効かないの、と笑う少女。今まで何をしていたのか尋ねると、「あなたたちの戦いを見ていた」と返ってきた。
「まあ良いわ。それで私は、これから神様を殺さなきゃならないのよね?」
「そうよ。でも、あなたにできるかしら?」
「人の姿をしていても、人間じゃなくて私と同じ化け物だもの」
「そうね」
 少女の言葉に祐巳は口元を歪めた。
「だったら、簡単よ」
 近くにいた瞳子ちゃんが祐巳から顔を背けた。人の姿をしているものを祐巳が殺そうとしているからだろう。
 けれど、瞳子ちゃんだって分かっている。だから、顔を背けただけで何も言わないのだ。なぜならば、そうしなければ祐巳たちがここで殺される事になるから。
 でも……できるだろうか? 本当にそんな事が自分にできるのだろうか?
(だって、今でさえ――)
 不意に、横からの視線に気付く。そこでは少女が無言で祐巳を見ていた。
「何よ?」
「別に。何でもないわ」
 そう言って祐巳から視線を逸らした彼女は、きっと気が付いている。
 隠しているけれど、誰にも気取らせないようにしていたけれど、本当は凄く痛い事。蟲を殺している時でさえ、奴らが哀れでずっと心が悲鳴を上げていた事。
 でも、だからといって優しいわけではない。本当に優しかったら殺せるはずがない。それに、それは今ここでは甘さにしかならない。それは不要な甘さだ。今は必要がないものだ。
 だから、そんな感情は捨て去る。生きたいから。こんな所で死にたくないから。
 そう自分に言い聞かせていると、
「祐巳さんっ、無事だったのね!」
 遠くから志摩子さんの声が聞こえてきた。
 その声の方へと顔を向けると、飛び交う精霊たちを避けながらこちらに向かって志摩子さんが歩いてくる所だった。
 あなたこそ無事だったのね、と言ってやりたい。いつの間にかいなくなっていたし。もっとも、志摩子さんは強いので、心配なんて全くしていなかったのだけれども。
「それにしても、蟲の数が尋常じゃないんだけど」
 一箇所にこれほど集まってくるとは思わなかった。いったいこの数十分で何匹殺しただろうか。
「蟲たちは、最初からこの世界のあちこちに転移されてきているわ。彼らを操っている神様が、更にここへと転移させているのよ」
 だそうだ。
「あなたは、その神様を殺せば良いの。それで全て終わるわ」
「それは良いんだけど、何であなたはその神様を」
 殺して欲しいの? と続けようとした祐巳を遮って、神様の少女が祐巳たちの後方へと視線を向けた。
「来たわね」
 何が? とは聞かなかった。この少女がわざわざ言うとしたら、そんなのは蟲たちを操っている神様しかいない。
 どうして仲間であるはずの神様を殺して欲しいのか、そんな事はもうどうでもいい。そいつさえ倒せば全部終わるのだ。そう思って後ろに振り向こうとした瞬間、視界の隅で何かが動いたのが見えた。
 どうやらまた転移されてきたみたいね、とうんざりしながら志摩子さんと一緒にそちらへ視線を向けてみると、つい先ほどまで何も存在していなかったはずの空間には百を軽く超えるほどの蟲たちの姿があった。
「嘘っ!?」
「なっ!?」
 闇の中で蠢く彼らの姿を確認した祐巳が息を呑むのと、隣にいる志摩子さんが呻き声を漏らしたのはほぼ同時だった。祐巳と同じく、志摩子さんも彼らの姿を確認した瞬間にそれに気付いたのだろう。
 出現した百を超える蟲たちの、その瞳の奥が紅く輝いている事に。どうやら、ここに転移される前に魔法を行使するための準備をしていたらしい。
(こんなパターン、今までなかったわよ!?)
 心の中で罵声と悲鳴を上げながら背中の翼を動かして近くにいた瞳子ちゃんと志摩子さんを自分の身体ごと包むと、一瞬遅れて蟲たちの魔法によって翼が燃え上がり始めた。続けて、大砲でも撃ち込まれているような衝撃が翼を通して伝わってくる。
(ちっ)
 祐巳は心中で舌打ちした。天使族の翼は、多くの精霊を呼ぶ時に必要なだけだ。光を集めて形成しているものなので傷付けられても痛くはないし、そもそも幾らでも再生可能なので傷痕なんて残らない。だから、傷付けられてもどうって事はないのだけれど、それでもやはり自分の身体の一部なので傷付けられると腹が立つ。それに、瞳子ちゃんも気に入ってくれているようだったし。
「やってくれたわね!」
 蟲の攻撃が収まった所で一度だけ大きく翼を羽ばたかせると、燃え上がっていた炎は一瞬で消えた。弾けてバラバラになった羽根も、焼かれた羽根も、時間を巻き戻すように再生していく。
 ついでに自分の周囲に残しておいた精霊に命じて、お返しとばかりに最前列にいた奴らを燃やしてやったが蟲は後から後から溢れんばかりに出現する。その数は、今までの比ではなかった。
 あっという間に周辺を埋め尽くした蟲の動きに注意しつつ、祐巳は空を見上げた。そこに、強烈な存在感を放っていたあの目玉の姿はない。ただ、目玉だったものの一番大きな欠片が、ゆっくりと街の方へと墜ちていっているのが見えるだけだ。そして、それを成した精霊たちは攻撃をやめていない。このまま放っておけば街に墜ちる頃にはあの欠片はもっと小さくなっているはずだが周囲の蟲の事もあるし、もう攻撃はやめさせても良いだろう。
 祐巳は背後にいる神様の少女に、背中を向けたまま話しかけた。
「そろそろ決着を付けようと思っているんだけど、瞳子ちゃんの事を頼んでも良い?」
「なっ!? いきなり何をおっしゃっているんですか!」
 驚いた瞳子ちゃんが祐巳の腕を掴んでくるが、対照的に神様の少女は淡々としたものだった。
「私は別に構わないのだけれど、あなたはそれで良いの?」
「瞳子ちゃんが傍にいてくれたから、私はここまで戦えたわ」
 心の痛みを取り戻した祐巳は、守るものがなければあの蟲たちと戦えなかった。祐巳にはもう守るべきお姉さまも、家族も、生まれ育った世界もない。守るべきものを全て失ってしまった祐巳がここまで戦えたのは、瞳子ちゃんがいたからだ。彼女を守らなければならなかったから、自分の持つ力を限界以上に引き出してここまで戦う事ができた。
「でもこの戦いは私たちの世界の事で、第六世界の人間である瞳子ちゃんには本来関係がない事だから、瞳子ちゃんを守る事を戦う理由にしては駄目だと思ったのよ」
 志摩子さんは友人だが守るべき対象ではない。彼女は祐巳の隣に立って戦う事ができる。
「この戦いは、私たちの世界の住人が自分たちを守るための戦いだった。だから、ここからの私は瞳子ちゃんと一緒に生きたいと願う自分のために戦うわ」
「祐巳さま……」
 瞳子ちゃんの不安そうな声に、少しでも安心させようと祐巳は彼女を抱き寄せた。
「そんなに心配しなくても大丈夫。相手が神様だろうと何だろうと絶対に勝ってみせるから」
 そう耳元で囁いてから瞳子ちゃんを解放した祐巳は、周囲を囲む蟲を睨み付けながら志摩子さんへと声をかけた。
「準備は良い?」
「ええ」
 志摩子さんは小さく頷くと、いつもの調子で「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」と気の抜けるような呪文を唱えてから、手に持っているステッキを前面にいる奴らに向けて一振りした。
「ライトニング・レイン」
「塵と化せ」
 志摩子さんから放たれた無数の光の矢が蟲たちを貫くと、続いて祐巳に呼び戻された数千の精霊たちが駆け巡り、刃のような鋭さを持った風となって切り裂いていく。殆どの蟲はそれで絶命したけれど、何体かの蟲は自分の前にいた仲間の身体が偶然盾になった事によってそれを免れたようだ。
「祐巳さんっ!」
 志摩子さんの切羽詰った声が響く。
 祐巳の目の前には、大きく前脚を振り上げた蟷螂が迫っていた。たった一撃で人の命を奪う事が可能なその強靭な前脚を見て、祐巳は瞼を閉じた。
 そうして、
「頭上注意よ」
 蟲に向かってニヤリと唇の端を歪める。
 同時に、鋼鉄の脚を振り上げていた化け物が地面に向かって叩き潰された。
「生まれ変わったら、今度は上にも気を付ける事ね」
 空を飛び交っていた五千万の精霊たちが標的を変えて次々と地上に降ってくる中、祐巳はチラリと神様の少女に視線を飛ばした。
 瞳子ちゃんの隣で少女が頷く。
 彼女なら、間違いなく守ってくれるだろう。瞳子ちゃんの事は彼女に任せておけば良い。今は目の前の事に集中しよう。
「志摩子さん」
「祐巳さん」
 どちらからともなくまるで決められていた事のように頷き合い、祐巳は志摩子さんと二人して駆け出すと爆音の鳴り響く戦場へと一緒に飛び込んだ。



 闇の空を彩る精霊たちが様々な軌道を描きながら降って来る。まるで、夜空の星々が一斉に降ってきたようだった。
 色とりどりに輝く精霊たちが闇空というキャンバスに絵を描くように舞っているその光景に、瞳子は見惚れていた。絶えず鳴り響いている爆音なんて気にならない。彼らが舞い降りた先ではあの恐ろしい蟲たちが確実に殺されているというのに、それを微塵も感じさせないほどに美しい光景だった。
「これから」
 隣にいて、瞳子を守ってくれているらしい神様の少女が話しかけてくる。
 見上げていた空からそちらへと視線を向けると、祐巳さまに似た顔立ちの少女は瞳子を見つめていた。
「あなたの姉である福沢祐巳は、酷く傷付く事になるわ」
「……え? ど、どうしてっ」
 思わず相手が神様だという事も忘れて詰め寄る。
「空に浮いていたあの目玉が、蟲たちを制御していたのよ。それを失ってしまったから、彼女はここに自ら来るしかなくなったわ。けれど、彼女自身の力はそれほど強くないの」
 そのためも、空に浮いていた目玉に蟲たちを制御を任せて自分はずっと隠れていたそうだ。
「ここには、彼女の本体が来ているわ。そして」
 神様の少女が目を閉じる。
「私たちはこの姿で生まれて、それから成長しないの。世界が生んだ子供だから」
「それって、まさか……」

 相手は子供――?

「そうよ。あの二人は……いいえ、神様を殺せる福沢祐巳は、子供の姿をしている神様を殺さなければ生き延びる事ができないの。そして、その神様は――」
 少女が真っ直ぐに瞳子を見つめてくる。
「――なのよ」
「え……」
 その正体を聞いた時、どこからか祐巳さまの悲鳴が聞こえてきたような気がした。


一つ戻る   一つ進む