【1987】 夢を叶えるために両手に薔薇  (沙貴 2006-11-12 14:50:38)


 島津 由乃には夢がある。
 ちっぽけな夢だ。
 何でもない夢だ。
 でも。
 
 
 〜〜〜
 
 
 その日、説明会から帰った由乃たちがもたらした瞳子ちゃんの生徒会役員選挙立候補の報は、薔薇の館を震撼させた。
 乃梨子ちゃんはらしくもなく冷静さを欠いて喚き出すし、それを宥めた祥子さまだって無意識に組んだ腕に苦悩と混乱が乗っている。
 令ちゃんに至っては、乃梨子ちゃんが落ち着き始めた頃になっても第一報の衝撃から立ち直れず、ぽかあんと間抜けに口を開けたままだった。
 でもフォローする訳じゃないけれど、それも無理もないことだと思う。
 よりによって、あの、瞳子ちゃんが由乃たちに牙をむいたのだから。
 
 素地はなかった、と思う。
 祐巳さんのロザリオを突っ返したのは確かに一大イベント。
 特に祐巳さんと瞳子ちゃんにとっては年が空けてちょっと経った今でも、頭の中から消える時なんてないだろう。
 でもそれとこれとは話が別だ。
 瞳子ちゃんは次代生徒会役員に立候補した。
 すなわち、次代薔薇さまとして殆ど確定的な予約状態である由乃たちに”待った”を掛けてきたのだ。これはもう宣戦布告にも近い。
 
 その理由はわからない。由乃はもちろん、乃梨子ちゃんや祥子さまだって瞳子ちゃんの本当の胸のうちなんてわかりっこない。
 だから「祐巳さまを意識しているということはあるとおもうんです」だの、「確かに、祐巳ちゃんが姉妹の申し込みをして――」だの、無闇に憶測したって仕方がないんだ。
 瞳子ちゃんの想いは瞳子ちゃんにしかわからない。
 外野がぴーちくぱーちく話し合って「きっと瞳子ちゃんはこう考えている」なんて結論づけてもしょうがない。かえって瞳子ちゃんがかわいそうだ。
 瞳子ちゃんは、一人の人間は、そんな簡単に推し量れるものじゃない。それは由乃が一番良く知っている。
 
 だっていうのに、格好つけて推理する令ちゃんとか、説明会からずっとうじうじしている祐巳さんを見ていると、由乃はひたすらイライラした。
 刀を抜いた相手を慮ってどうする。もしそれで出遅れて、瞳子ちゃんが勝ち上がったらどうする。
 瞳子ちゃんが勝ち上がったら、すなわち誰かが負け落ちているということを少しは想像できないのか。
 イライラ、イライラ。
 由乃は胸と頭が沸々と熱くなるのを感じていたけれど、抑えようにも抑えられない。抑えるべきでないと、頭のどこかも叫んでいる。
 そうして余り太くはない堪忍袋の緒は、志摩子さんの瞳子ちゃん擁護発言で一気にぶっちりと音を立てて切れてしまったのだ。
「そんなこと、わからないわよ」
 
 瞳子ちゃんが祐巳さんを嫌ってしまったとか、あるいは好きの反動だとか、そんなことは、良い。
 誰であれ、生徒会役員に立候補することは悪いことではないという志摩子さんの発言にも一理ある。
 でもそんなことより大事なのは、何よりも大切なことは。
「もし瞳子ちゃんが万が一当選したら、私たちの誰かが落選するってことなのよ。志摩子さんはそんなことを許していいと思っているの?」
 ということに決まっている。
 来年度の薔薇さまは、由乃、祐巳さん、志摩子さんで決定なのだ。
 誰が何というとそれはもう絶対に譲らない。譲れない。
 邪魔をするなら瞳子ちゃんだろうと可南子ちゃんだろうと、それこそ令ちゃんだって菜々だって追い返してみせる!
 
 そう勢い込む由乃に対して、でも志摩子さんは首をゆっくり横に振った。
「でも、私たちが正義ではないわ」
 正義。正義か。正義ね。
 でもお生憎さま志摩子さん、戦の最中には正義も悪もないのよ。
 勝ったほうが無条件に正義だとは由乃もいわないけれど、正義がなければ勝てないなんてことはない。
 正義だの悪だの、そんなことは周りの人が勝手に決めれば良い。本人は例え悪でも正義だと信じて戦うものなんだから。
 いやまて、それだと由乃が悪だと認めてしまっているということではないか。違う違う、そうじゃない。混乱してる。興奮してる。
 でもとにかく、何があろうと由乃たちが勝たなきゃいけないということは事実だ。
 これは戦いなんだ、勝って初めて意味がある。
 
 それに戦う理由ならある、瞳子ちゃんを――蹴落とすだけの理由はある。
 由乃はそれをはっきりと口に出して言った。
「私はただ、大好きな仲間たちと離れたくないだけなの」
 利己的、自分勝手? そんなの当たり前、生徒会役員だってただの人間だ。譲れない一線だってあるに決まってる。
 それに大好きな仲間や大切な友達の居ないような指導者に誰がついていくもんか。
 由乃は令ちゃんが大好きだ。祐巳さんが、志摩子さんが、祥子さまが乃梨子ちゃんが大好きだ。
 薔薇の館にはその皆が集まっている。
 崩したくない。減らしたくない。そう思うことに何の罪がある?
 自分の意思を通せない人間に他人を思いやる資格なんてない。
 
 もちろん、こんな事は今更いうことではないのかも知れない。
 由乃だって馬鹿じゃないから、心の一番底の部分では皆が同じ気持ちだってことはわかっている。知っている。
 それでも今はしっかりと言っておかないといけない時だと思った。そしてそれは由乃の役目だと思った。
 思い付くこと言って、思いの限りを言って、それで、まだ瞳子ちゃんが云々というのなら由乃も引き下がろう。
 それ以上はただの駄々だから。
 
 でも、突っ走るべき時に突っ走らないで後悔するのは、由乃はもう嫌なのだ。
 間違いもあるだろうし、反論は食らうだろうけど、それでも由乃は由乃の言いたいことを言う。言ってやる。
「みんなが志摩子さんみたいに、他人のことを思いやって発言ばかりしていられないっていうの」
 
 こうして、どうだ、と言わんばかりに言い切った近年稀に見る由乃渾身の啖呵は。
 
「由乃さんの、そういうところ好き」
 
 なーんていう近年稀に見る志摩子さんの天然に取り込まれたのだった。
 毒気どころか由乃の昂ぶり切った興奮が根こそぎ引っこ抜かれた。
 代わりに植えつけられたのは途方もない照れ臭さ、物凄い勢いで体温が上昇する。
 急に辺りがキラキラしだして、めちゃめちゃ見られているのがわかっているのにうるうるお目目から逃げられない。
 じっと見て、見つめられて、手まで取られて。
 ああ。
 志摩子さんには本当、敵わないなぁ。
 握手ですべすべの志摩子さんの指を感じながら、そんな諦観染みた感想と共に由乃はがっくりと肩を落とした。
 
 
 結局その後は由乃も含めて瞳子ちゃん談義に戻ってしまったのだけれど、言いたいことを言った由乃はもう満足していた。
 きっとそれは志摩子さんも一緒だった筈だ。
 問題は――とちらっと横目で見た祐巳さんは、話が切り上げられるその時までやっぱり浮かない顔のままで。
 大丈夫、なのかな。
 何が、とか何に、とか。そういうことはわからないけど。
 漠然と感じた由乃の不安は、意外なかたちで後日発露することになる。
 
 
 〜〜〜
 
 
「ああ、あああっ!」
 
 その時、いの一番に”それ”を見つけた由乃は、はしたなくも指差しながらそんな悲鳴を上げてしまった。
 ”それ”。
 すなわち、選挙管理委員会事務所の脇に掲げられた来年度生徒会役員選挙の立候補者一覧である。
 
 『一年椿組 松平 瞳子』
 
 由乃らが届け出を手にその部屋を訪れた時には、既にそんな八文字の漢字が燦然と輝いていた。
 いちねんつばきぐみ、まつだいらとうこ。
 由乃にはそう読めた。祐巳さんや志摩子さんにもきっちりはっきりそう読めているはずだ。
 
 おいおい。
 おいおいおい、ちょっと待って欲しい。
 どうしてその名前がそこに載っているのだ?
 いや、載っていること自体は正しい。瞳子ちゃんが本気である何よりの表れ、由乃たちと同じ土俵に上がってきた証拠だから。
 でもどうして、なぜに、なにゆえに、つぼみの三人よりも先に瞳子ちゃんの名前が挙がっているのだ?
 何で、本命にして薔薇の正当後継者たる由乃たちが二番手に甘んじなければならないのだ?
 
「ゆ」
 
「祐巳さーーーんっ!」
 
 どっかーん。
 由乃は文字通り爆発した。
 ぐぁっと振り返り、由乃が指差した方向を苦笑いしながら眺めていた祐巳さんを睨みつける。
 笑っている場合かっつーの。笑っている場合かっつーの!
「先越されちゃってるじゃない! あの子、もう届け出だしちゃってるじゃないの!」
 拳を握り締めたお陰で、届け出を持っていた右手の方でぐしゃっていう嫌な感触がしたけど、そんなことどうでも良かった。
 志摩子さんがあらあらって笑っていたり、祐巳さんが困ったなぁ、って眉を寄せていたりすることも、もうある意味どうでも良かった。
 
 大切なのは、由乃たちが出遅れたということ。
 昨年度のロサ・カニーナみたいな刺客立候補者が先んじた。つまり、選挙により積極的だと証明されたことだ。
「そうみたいだね、瞳子ちゃん早いなぁ」
 だっていうのに、祐巳さんはそう言ってあははと笑う。
 もう一回思うけど、笑っている場合かっつーの!
 
「違うでしょ。違うでしょ違うでしょ祐巳さん。見なさい、瞳子ちゃんの名前に付いた受付番号! 一番! 一番よ!」
「そ、そうだね。一番初めに来たんだもんね」
「そうね。一番だものね」
「ちっがーーーう!!」
 志摩子さんらしいのほほんとした絶妙な合いの手はこの際無視。
 これで選挙に負けてしまったわけじゃないけれど、「戦って勝つんだ」という意思は、その意思表明は明らかに負けてしまったのだ。
 この一大事がどうして理解されないのだろう、と由乃は心底悔しくなった。
 
「別にこれは徒競走じゃないわ、一番に入ったら勝ちだとかそんなことじゃない。それこそ、順番なんて大した意味はないの」
 うんうんそうだよね、と祐巳さんは何度も頷いた。ほっとしたような笑顔がこの時ばかりは憎らしい。
「でも大事なのは”立候補届け出を出す”イコール、”選挙に勝つ意思がある”ってことでしょ! だから私たちもこうしてここに来てる、そうよね祐巳さん!」
「え、うん、そりゃ」
「だったら! 私たちは一番初めに届け出を出さなきゃいけないのよ! そうよ、順番とかじゃなくて一番初めに誰よりも先に! それが大事だったのに!」
 だんだん、と音を立てて由乃は地団太を踏んだ。
 リリアンの淑女らしからぬ大声と所作だけど、昼休みも終わりかけている時期の講師室近辺なんて人通りも疎ら。
 助かったとは思うけど、でも、これが人通りの多い中庭だったとしても由乃はきっと止まれなかっただろう。
 
「そ、そんなに大事なことかな。去年だって」
 祐巳さんはおろおろとうろたえながら反論してきたけれど、「また去年!」とばっさり途中で切り捨てて由乃は言った。
「祐巳さん! さっきも言ったけど去年と今年じゃ話も違うわ、それに! 志摩子さんはそりゃ、遅かったかも知れないけど……れっ、お姉さまと祥子さまはちゃんと一番初めに届け出た!」
「そうだっけ? ああ、そっか。そういえば」
 下顎に指を添えて、うーんと唸ってその一言。
 かっ、となった。
 いけない、と思ったときには大概遅い。
 
「そういえばじゃないわよ! 自覚なさすぎ、祐巳さんのせいで出遅れたのよ! わかってるの! 薔薇の館であんなにグズグズするから!」
 
 言い切ってから、由乃ははっと口を押さえた。
 途端、さっきまで喚いていた人(由乃だ)の声が消えて急に辺りが静かになる。校庭から聞こえてくる喧騒が、由乃たちの居る校舎から遠かった。
 耳が痛くなるような静寂がすっと降りてくる。
 
 
 興奮しすぎて、糾弾する方向がひん曲がった。
 届け出に遅れた全責任を祐巳さんに押し付けたい訳じゃない。本当に一番初めに出したければ、由乃はさっさと行ってしまえば良かったのだ。
 でも由乃は行かなかった。祐巳さんを説得して三人で行くことを選んだ。
 それなら、出遅れた責任は由乃にだってもちろんある。当たり前だ。
 由乃は顔を伏せた。祐巳さんの顔なんて見られるわけがなかった。

 感情論を重んじる由乃だからこそ重い、咄嗟の一言に紛れ込む本音。先の言葉は正にそれだ。
 由乃は――本当に一番が欲しかったのかも知れない。
 誰よりも先に、島津 由乃は選挙に勝つのだと主張したかったのかも知れない。
 由乃にはプライドがある。理知がある。だから、そんな意味のない拘りなんて持っていないと思っていたけれど。
 これだけ由乃が感情的になってしまっていることの根底には、そんな、益体もない拘りや一番への執着があるのかも知れない。
 運動は駄目で、知恵熱を出すから勉強にも身が入らない。そうやって、あらゆる全てにおいて一番から程遠い位置にいた由乃だから。
 
「ごめん……言いすぎた」
 静寂にぽつりと落とすように、由乃は言う。
 うん。
 祐巳さんが頷いたのが空気でわかった。
 謝罪が受け入れられたことに安堵して、でも由乃はすぐに顔を上げる。少し哀しそうな祐巳さんの顔が映った。
 少し哀しそうということは、それはとても哀しいということだ。祐巳さんは相変わらず百面相だけれど、それで全ては図れない。もう、図れなくなっている。
「でも、本気だから。前にも言ったけど、私は私たち三人で薔薇さまになりたいの。瞳子ちゃんが嫌いという意味ではないわよ、でも」
「うん。わかってるよ」
 皆までいうな、っていうように、祐巳さんは少し頑張って笑ってくれた。
 トレードマークの括り髪がそれで揺れて、由乃の胸が何故だかぎゅっと締め付けられる。
 
「祐――」
「ほら、由乃さんたちもそろそろ受付を済ませてしまったら? お昼休みが終わってしまうわ」
 けれど、何を言おうとしたのかもわからないまま踏み出そうとした由乃に、そんな声が掛けられた。
 声のした方を振り向けば、のほほんとした笑顔を浮かべていつもの志摩子さんが立っていた。
 さっきまで祐巳さんの隣に居たような気がするけれど、いつのまに移動したんだろう。
 不思議に首を捻る由乃はやがて気付いた、志摩子さんが立っている場所は選挙管理委員会事務所の扉の前だってことに。
「あ」
 気付かれたことに気付いた志摩子さんがイダズラっぽく笑った。
「私はもう済ませてしまったわよ。二番だったけれどね」
 
 それで、辺りにどっと音が返って来た。
 昼休みの学校にありがちな雑音が一斉に聞こえてくる、いつからか張っていた肩の力がするりと抜ける。
 強く握り締められて今や原形を止めていない届け出用紙が、その存在を主張するように手の中でかさりと音を立てた。
 右の拳を持ち上げて、じっと見る。
 そうだ。今日、この時、由乃たちは、選挙の届け出を出しにここまで来たのだ。
 何にしても先ずはそれから。
 そう思って顔を向けると、祐巳さんもきりっと表情を引き締めて頷いてくれた。
「よし」
 
 呟いて、つかつかと由乃は事務所の扉に向かう。
 時間も確かに余りないけれど、それよりも何よりも、一秒でも早く渾身の力が篭った(篭りすぎて潰れた)用紙を委員会に叩きつけてやりたかった。
 島津 由乃は選挙に勝つのだ。福沢 祐巳と藤堂 志摩子と共に、来年度薔薇さまとして勝つのだ――と。
 
 
 ちなみに、選挙管理委員会事務所の壁は存外に薄いようで。
 入ってくるのが少し遅れた祐巳さんと、志摩子さんの会話も中からばっちり聞こえたのであった。
「受付番号が選挙の当選番号ではないわ。私は去年四番だったけれど、ちゃんとこうして今ここにいるのだから」
「うん……そうだね」
「ああ、でも静さまは三番だったわね」
 
 し、志摩子さん?
 その台詞は祐巳さんに対する慰めとして本当に必要だったかなー?
 
 受付番号三番を振られて書き込まれた自分の名前を眺めながら、由乃は引き攣った笑みを浮かべた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 「大丈夫なのかな」
 
 祐巳さんは一人ぼっちの瞳子ちゃんを抱えた一年椿組の扉を見つめて、そう漏らした。
 その言葉は今、当の祐巳さんと並んで二年松組に帰る最中である由乃の頭の中で響いている。
 ちらりと盗み見た祐巳さんの横顔は真っ直ぐ前を向いたもので、その視線の先には廊下しかない。
 あるいは、見えない未来を臨んでいるとでもいえば格好良いだろうか。少なくとも、その表情に迷いはなかった。
 胸中には、確実に孤立しているであろう瞳子ちゃんを想う気持ちもあるはずなのに、である。
 
 瞳子ちゃんの周りを固めてくれる、何もいわなくても寄り添ってくれるだろう乃梨子ちゃんを信頼している。それはあると思う。
 何だかんだいいながらも、瞳子ちゃんの根底部分を一番理解しているのはきっと彼女だろう可南子ちゃんに託している。間違ってはいないと思う。
 でもそれだけで余りにも寒々しいあの一年椿組から意識を逸らすことが出来るだろうか。
 祐巳さんが、瞳子ちゃんのいる一年椿組を。由乃ですら後ろ髪を引かれる思いだというのに。
 
「無理なんだよ」
 祐巳さんは小さく、言った。
 え、と由乃が聞き返しても祐巳さんは相変わらず前を向いたまま。
 速度を緩めようともしないで一歩一歩着実に前へ進んでいく。
「蔦子さんに言われたことなんだけど、今の私じゃ瞳子ちゃんの前に立つことも出来ないんだって。瞳子ちゃんのほうが”強い”からね。私は振り回されちゃうんだよ」
 少しだけ自虐的に。
 言って肩を竦めた祐巳さんの横顔は、でも晴れ晴れとしていた。
 
「だから、出来たとしても縋るだけ。瞳子ちゃん、瞳子ちゃん待って、って。違うよね。うん、そんなの、違うんだ」
 由乃はそんな言葉に大いに頷く。
 そうだ、そんなものは違う。大きな大きな間違いだ。
 姉妹の繋がりは決して一方的ではならない。
 どちらかがどちらかに依存した時点でそれはもう姉妹などではなく、ただの主従になってしまうのだ。
 そしてそれは必ず破綻する。
 由乃ならば断言しても良いくらいだ。
 
 でも、と前置きしてから由乃は聞いた。
「諦めるわけじゃないんでしょう? それこそまさかよね」
 祐巳さんは頷かなかった。
 前を向いたまま、むしろ薄っすらと笑って言ったのだ。
「諦めるくらいならロザリオは差し出さないよ。言ったでしょ、”今の”私じゃ駄目なんだって」
 おやおや、答えるまでもない愚問ということですか。
 由乃はにやにや笑って話の続きに耳を傾けた。
「だから私は強くなる。どう強くなるかも、どうやって強くなるかもわからないけど。私は絶対に強くなるよ」
 
 目を少しだけ細めて、小さく宣言。
 きっと由乃だけが聞くことを許された、祐巳さんの確かな決意。
 氷のように冷えた炎のような情熱が篭った台詞。
 足が震えるくらいに力強い言葉だった。
 ぞくぞくするくらいに気持ちの良い断言だった。
 
 唇の端が無意味に吊り上がる、気分が突然高揚する。
 由乃はなんて人と付き合っているのだろう、と今更ながらに痛感する。
 祐巳さんの友達になれて良かった。今隣を歩くことができていて本当に良かった。
「きっと祐巳さんなら大丈夫よ。それに、祐巳さんじゃないとあの子は扱えないんだから」
 由乃は言って、ぐっと胸の前で拳を握り締める。
 すると祐巳さんは由乃の方を向き直って、目をしっかりと見据えて、それから「ありがとう」と照れたように笑った。
 
 
「ま、その為にも先ずは選挙だけどね」
 だけど考え方とか大人度とか、いろいろが一気に引き離されたような気がした由乃は、会話の終わりをそんな言葉で締めた。
 びしり、とわかりやすく祐巳さんの笑顔が凍りつく。
 あははと乾いた笑みがその固まった唇から漏れ、由乃は呆れたように息を吐いた。
「別に選挙に勝つことが強くなったって訳じゃないし。寧ろ強さをアピールするなら生徒会役員なんて肩書きがないほうが良いかも知れない。瞳子ちゃんの真意が読めない今じゃ、引き下がることもまだ完全に選択肢から外れた訳じゃない。選挙とかそんなのじゃなくて、強くなりたい。それはわかるけど、今は選挙よ。瞳子ちゃんの為じゃなくて、私や志摩子さん、祥子さまのためにも」
「な、なんでそんな完璧に言い訳を潰しちゃえるの」
 捲くし立てた由乃に対して一歩下がり、祐巳さんは泣きそうな顔をした。目はもちろん笑っているが、割かし本気で困っている顔だ。
 ちっちと指を振って由乃は答える。
「親友をなめんじゃないぜ、ってことよ」
 
 瞳子ちゃんのことはわからなくても。
 祐巳さんのことなら、きっと祥子さまの次くらいにはお見通しなのさ。
 
 そしてばちこーん、とウインクすると、祐巳さんはくすぐったそうに笑った。
 とても祐巳さんらしい、由乃の良く知る大好きな祐巳さんの笑顔だ。
 釣られるようにして由乃も笑った。
 と。
 不意に祐巳さんは上に向けた左掌を右拳で打った。
 「あ、なるほど」とか「思いついた!」とかのジェスチャーだ。
 ということは何かに気付いたり思い出したりしたのだろうけれど――と由乃が思っていると、祐巳さんはてくてくと歩み寄ってきた。
「ごめんね、前から言わなきゃ言わなきゃって思ってたんだけど」

 目を少し潤ませて。頬を火照らせて。ぎゅっと手を取られて。
 あれ? このシーン、前にもありませんでしたか?
 そう思った時にはもう、祐巳さんの口から爆弾は飛んできていた。
 
「私、由乃さんのこと好きだよ。ちゃんと、ずっと、好きだよ」

 ぼっ。
 何となく予想できていたとはいえ、恐ろしく直球な言葉で由乃の頭は爆発した。
「な、ななな」
 何を言い出すんだこのタヌキはっ。いきなりっ。意味わかんないっ。そりゃ嬉しいけどさっ。めちゃめちゃ嬉しいけどさっ。
 後退ろうとする由乃の手をがっちり掴んで、祐巳さんはうん、って頷いた。
「それだけ、なんだけどね。言いたかったんだ」
 やっぱり照れちゃうね、って舌をちろっと出して。
 それでやっと由乃の手を解放してくれた祐巳さんを見ていると、急に頭がクリアになるのがわかった。
 とはいえ浮かれている感情は全然収まらないけど。
 嬉しくて嬉しくて、今にも走り出しちゃいそうだけど。
 でも、すっと由乃の気持ちは落ち着いた。全く、祐巳さんたら。
 
「もう。わかってるわよ、そんなこと。私だってその……ちゃんと、す、……きなんだから」
 顔を逸らして、口を押さえて。ああ、もう恥ずかしいったらありゃしない。
 切っ掛けはきっと、志摩子さんのアレ。
 志摩子さんが由乃のことを「好きだ」ってはっきりと言ったから、自分も言わなきゃ駄目だって思ったんだろう。言いたくなった、のかもしれない。
 でもこれではプチ告白大会だ。たった今口にしてしまったことで、由乃もあとで志摩子さんに告白しなきゃいけなくなったに違いないのだから。
 それが嫌だという訳では決してないけど。
 令ちゃんに告白することと同じくらい、当たり前の宣言に他ならないけれど。
 恥ずかしすぎるっての、全くもう。
 
 祐巳さんはそんな由乃を見つめながら、「うん、言うまでもないことだったね」って。
 やっぱり嬉しそうに笑ったのだ。
 
 祐巳さんには本当、敵わない。
 
 
 〜〜〜
 
 
 島津 由乃には夢がある。
 大好きな二人と、口に出して言うまでもなく当たり前に大好きな二人と、ずっと一緒にやっていく。
 通い慣れたリリアンで、行き慣れた薔薇の館で、見慣れた笑顔に囲まれてやっていく。
 ただそれだけのちっぽけな夢だ。
 ただそれだけの何でもない夢だ。
 でも。
 大切な夢だ。
 何よりも大切な夢だ。
 
 それが今、手の届く場所まで降りてきているのだということを――由乃は、選挙結果が張り出された掲示板の前で噛み締めたのだった。
 由乃には見える。
 両手に握るつぼみの薔薇が、大輪の花を咲かせて揃い踏みする姿が。そしてその中に自分がいる、間違いなく確実に自分のいる姿が。
 
「祐巳さんっ!」

 そうして爆発するような歓喜に背中を押されるようにして、由乃は祐巳さんに抱きついた。


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