【2069】 不協和音  (いぬいぬ 2006-12-21 08:23:12)


 「乃梨とら」シリーズ第2部第9話です。
 【No:2050】→【No:2051】→【No:2053】→【No:2054】→【No:2056】→【No:2059】→【No:2061】→【No:2063】→コレです。








 今は、誰にも会いたくなかった。

 今は、誰にも見つけられたくなかった。

 雨の中を走り続けた乃梨子は、ひと気の無い場所を求め、何時しか古い温室へと辿りついていた。
 ひっそりと存在するその場所は、黙って自分を受け入れてくれるような気がして、気の緩んだ乃梨子は温室の片隅にあったベンチに力無く座り込む。
 今は、何も考えられなかった。
 今は、何もしたくなかった。
 ただ呆然とベンチに座り続けた乃梨子が雨に濡れた体に寒さを感じ始めた頃、温室に飛び込んで来る人影があった。
「 乃梨子! 」
「 ・・・志摩子さん 」
 びしょ濡れの乃梨子に気付き慌てて駆け寄る志摩子に、乃梨子は「 良くここにいるって解かったね 」と、力無く笑う。
「 雨の中を駆けてゆく貴方の姿が見えたのよ。それで、何かあったのかと思って探していたの 」
 志摩子は温室に何か乃梨子の濡れた体を拭く物が無いかと探したが、ここにはそんな物は置いてありそうに無い。
「 乃梨子、とりあえず薔薇の館へ行きましょう。その濡れた体を乾かさないと 」
「 いいよ・・・ 」
「 良くないわ! 」
 初めて自分を強く叱りつける姉の剣幕に驚く乃梨子の腕を取り、志摩子は無理矢理にでも乃梨子を立たせようとする。
「 さあ、立って。このままだと風邪をひいてしまうから 」
 無気力な乃梨子を無理矢理立たせると、志摩子は抱きしめるように乃梨子を支えながら歩き出した。
 志摩子が温室の扉を開けようとすると、乃梨子が呟いた。
「 志摩子さん、私・・・ 」
「 乃梨子、今は何も言わなくて良いわ。まずはこの冷えた体を温めないと 」
 温室の扉を開け、片手で傘を、片手で乃梨子を支える志摩子の強さと優しさに、乃梨子の目からは再び涙が流れ始めた。
「 ごめんね・・・ 」
 今日何度目になるか解からないその呟きは、誰に向けてのものなのか。
 それはもう、乃梨子自身にも解からなかった。




「 ちょっと! どうしたの乃梨子ちゃん! 」
 由乃は、志摩子に支えられて会議室に入ってきたずぶ濡れな乃梨子の姿に血相を変える。
「 菜々! 熱い紅茶入れて! 私は1階の倉庫でタオル探してくる! 」
 返事も待たずに飛び出してゆく由乃の青信号ぶりが、志摩子には嬉しかった。
「 さあ乃梨子、座って 」
 志摩子にされるがままに椅子に座る乃梨子。
 生気の無いその顔に、志摩子は身を切られる思いだった。
( ・・・とらちゃんと何かあったのね )
 志摩子には、今の乃梨子がここまで憔悴する理由は他に考えられなかった。
 だが、今はその傷に触れるべきではない。そう考えた志摩子は、とりあえず自分のハンカチで乃梨子の髪を拭き始めた。
「 タオル何枚かあったわよ! ちょっと菜々! お湯はまだ沸かないの?! 」
「 落ち着いて下さいお姉さま。もう少しですから 」
 妹のセリフにイライラしながらも、由乃は志摩子にタオルを渡すと、「 そうだ着替え! 」と叫び、再び1階に向かうべく、扉を開けようとする。
「 だから落ち着いて下さい。私のバッグに体操服のジャージが入っていますから使って下さい。乃梨子さまには少し小さいかも知れませんけど 」
 憎いほど落ち着いた菜々のセリフに、由乃は「ふーっ」と一息吐いて心を落ち着けると、志摩子と一緒に乃梨子の服を脱がし始めた。




 とりあえず体操服に着替えさせられた乃梨子は、椅子に腰掛けて菜々の淹れてくれた紅茶を飲み始めた。
 濡れたセーラー服などは、気を利かせた由乃が流しのコンロに火を点け、その傍に干してくれていた。
 乃梨子は相変わらず憔悴した顔をしていたが、時折窓のほうへ視線を向け、何ごとか考え込んでいる。
 誰ひとり言葉を発しない空気の中、誰かが階段を登ってくる音が聞こえてきた。
 姿を現したのは、祐巳だった。
「 あ、乃梨子ちゃん、ここにいたんだ。良かった 」
 祐巳は乃梨子を見ながらそう言うと、自分の定位置の椅子に腰掛けた。
「 ちょっと祐巳さん、何処行ってたの? 」
「 ん、ちょっと瞳子の感に従ってね 」
「 は? 」
 祐巳が何を言っているのか解からない由乃だったが、「 今、説明するから 」という祐巳のセリフに沈黙する。
「 最初はここで、瞳子とふたりしてぼーっと雨が降るのを見てたんだけどね。瞳子が『 何だか胸騒ぎがする 』って言うものだから、どうしたの?って聞いたら、突然乃梨子ちゃんを探しに行くって言い出してね。それでふたりで出かけてたの 」
 祐巳の説明では、まだ何が起こっているのか良く解からない由乃だったが、祐巳はかまわず話を続ける。
「 乃梨子ちゃん 」
 乃梨子は祐巳の声にのろのろと顔を上げ、祐巳を見た。
「 とらちゃんは、一度保健室でタオルを借りて体を拭いてあげた後、瞳子の家の車でとらちゃんの家に送ってもらったよ。念のために瞳子にもついて行ってもらったから。だから、心配無いからね 」
 唐突に出たとらの名に、由乃はやっと乃梨子ととらに何かがあったのだと気付くが、乃梨子の憔悴した顔を見て、それ以上詳しく聞くことはできなかった。
 由乃の隣りでは、菜々も黙って乃梨子を見つめている。
 祐巳の説明に、乃梨子は少し辛そうな顔をしつつも「 ありがとうございます 」と答えた。
 乃梨子が先程から窓の外を気にしていたのは、雨の中、ひとり置き去りにしてきたとらがどうなったのか気になっていたからだった。
 だが、乃梨子は今更自分にとらの心配をする資格があるのかと悩んでいた。
 そして何より、もう一度とらと会うのが怖かった。
 そんな今の乃梨子にとって、祐巳の言葉は本当にありがたかった。
「 乃梨子。やはり、とらちゃんと何かあったの? 」
「 ・・・・・・・・・ 」
 志摩子の問い掛けにも、乃梨子は答えようとしない。
 会議室が静まり返る中、祐巳が乃梨子に問い掛ける。
「 どうする? 乃梨子ちゃん。何があったかは知らないけど、今日はこのまま帰ってもらっても・・・ 」
「 ・・・いえ、お話しします。何があったのかを 」
 祐巳の問い掛けに、乃梨子はやっと口を開いた。
「 乃梨子ちゃん、辛いのなら無理には・・・ 」
「 良いんです、由乃さま 」
「 だけど・・・ 」
「 大丈夫です。それに、謝らなきゃならないこともありますし 」
 心配する由乃に対して無理に気丈に振舞ってみせる妹の顔に、志摩子は胸が張り裂けそうな思いだった。
 志摩子の心配そうな顔をぼんやりと見ながら、乃梨子は思っていた。この胸の痛みをひとり抱え続けるくらいなら、いっそ誰かに告白してしまいたい。誰かにこの悲しさを聞いてもらいたい、と。
 そう思った乃梨子は、姿勢を正すと弱々しい声で説明を始めた。
「 まずはみなさんに謝らなければなりません。私、ここ一月で色々と協力していただいた皆さんの努力を、無駄にしてしまいました 」
「 どういうこと? 」
 由乃の問いに、再び俯いて「 とらのことです 」と答える乃梨子。
 痛いほどの沈黙が支配する部屋の中で、乃梨子は再び口を開く。
「 とらに・・・ さよならを告げてきました 」
 おおよその見当は付いていたのか、祐巳と志摩子は「やはり」という顔をする。
 一方、由乃は乃梨子の口から出たセリフに驚き、思わず「 何故? 」と問い詰めそうになるが、さすがに今の乃梨子にそれを聞くのは思いとどまる。
 だが、そんな由乃の隣りから、静かに詰問の声が上がった。
「 理由を・・・ お聞きしても良いですか? 」
「 ちょっと菜々・・・ 」
「 スヴェータは私の数少ない親友のひとりです。 私にだって聞く権利があるはずです 」
「 菜々! 」
 妹をたしなめようとする由乃を、乃梨子が「 良いんです、由乃さま 」と逆に気遣う。
 冷めかけた紅茶を一口飲むと、乃梨子は菜々に向かってゆっくりと語り出した。
「 リリアンで通用するようなお嬢様に成るために、この一月、あの子にはずいぶんと無理をさせていたのよ 」
「 ・・・それは、乃梨子さまのためにスヴェータが望んでしていたことのはずです 」
「 そうね。・・・でも、これ以上私のために無理をすれば、あの子はあの子でなくなってしまう。あの子の輝きを、私が奪ってしまう 」
「 でも! スヴェータが何より望んでいたのは、貴方と共にリリアンで・・・ 」
「 黙りなさい菜々 」
 珍しく感情的になっている妹の暴走を食い止めようと、由乃は低い声で呟く。
「 それ以上は、私が許さないわよ 」
「 でも、このままじゃスヴェータが! 」
「 菜々!! 」
 本気で怒鳴る由乃に、菜々がビクっとすくむ。
 菜々の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「 本当は・・・ 」
 動きを止めた黄薔薇姉妹の耳に、乃梨子の呟きが聞こえてくる。
「 本当はね、私が耐えられなかったの。あの子が無理に笑うことに。あの子の笑顔が、変わってしまうことに 」
 菜々は、俯く乃梨子のカップを持つ手が震えているのに気付き、言葉を失う。
 震える乃梨子の手に、志摩子はそっと自分の手を重ねて「 もう良いわ 」と囁く。
「 ・・・すみませんでした。差し出がましいことを言いました、忘れて下さい 」
 一番辛いのは乃梨子さまなんだ。
 そう気付いた菜々は、素直に乃梨子に詫びると、静かに席に着いた。
 由乃は、菜々の目からあふれそうな涙を拭おうとしたが、自分のハンカチはさっき乃梨子の体を拭くのに使ってしまったことに気付き、仕方が無いので自分の指でそっと妹の涙を拭った。
「 すみませんでした、お姉さま 」
「 解かってくれれば良いのよ 」
 由乃はそっと菜々の頭を撫でる。
 落ち着いた黄薔薇姉妹をよそに、祐巳は突然立ち上がり、乃梨子のセーラー服の方へと歩き出した。
 干してあるセーラー服を見ながら、「 うん、もう乾いたね 」などと呟く。
 祐巳はしばらくセーラー服を眺めていたが、不意に乃梨子に問い掛けた。
「 乃梨子ちゃん。いつかとらちゃんに言ったんだって? “人生にやり直しは利かない。でも、諦めずにもう一度挑戦することはできる”って 」
「 ・・・そう言えば、そんなことも言ったかも知れません 」
「 そっか。良い言葉だね 」
 それきり黙ってしまった祐巳に乃梨子が困惑していると、祐巳は突然振り返り、にっこりと笑って言った。
「 今日はもう帰ろうか 」
 祐巳のその一言に由乃も「 そうね 」と同意し、志摩子に「 乃梨子ちゃんをお願いね 」と言うと、優しく妹の手を引いて扉から出ていった。
 その後、志摩子の手を借りてセーラー服に着替え直した乃梨子が、姉に支えられるように出て行くのを見送った祐巳はしばらく雨を眺めていたが、やがて彼女も自分と瞳子の鞄を持ち、館を後にしたのだった。










 
 翌日の朝。
 じりじりしながら見つめていた扉から、ゆっくりと入ってくる乃梨子の姿を見て、瞳子はやっと安心することができた。
 昨日、とらを送り届けた後、祐巳から「 乃梨子ちゃんは大丈夫だよ 」と電話を受けた瞳子だったが、やはり自分の目で確かめるまでは不安で仕方が無かったのだ。
 思わず乃梨子に歩み寄って「 ごきげんよう 」と声を掛けそうになった瞳子だったが、今の乃梨子にそんな空々しい挨拶をする気になれず、「 昨日は眠れて? 」と問い掛けた。
「 うん、何とかね 」
 乃梨子の目の下に浮かぶクマに、すぐに嘘だと気付いた瞳子だったが、あえて何も言わず乃梨子が席に着くのを見ていた。
「 昨日はありがとう。本当は私が・・・ 」
「 無理しなくても良いのよ。たまには私にも頼ってちょうだい 」
「 ・・・・・・ありがとう 」
 それきり黙ってしまった乃梨子に言うべきかどうか迷ったが、瞳子はあえて乃梨子に告げることにした。
「 とらちゃんね、風邪などひかずに、今朝はきちんと登校したそうよ 」
 乃梨子は一瞬、瞳に悲しみの色を滲ませたが、「 そっか 」と答え、再び沈黙する。
( 見ていることしかできないっていうのは、意外に辛いことなのね )
 瞳子は乃梨子を見つめ、自分が祐巳と姉妹になる前に自分を見守ってくれていた乃梨子の気持ちは、こんな感じだったのかも知れないと思った。
( あの頃の乃梨子も、こんなモヤモヤした気持ちだったのかしら )
 なすすべも無く乃梨子を見つめていると、教室の扉から可南子が入ってきた。
「 ごきげんよう 」
 昨日のことを知らず、いつもの挨拶をした可南子だったが、いつもよりも沈んだ声で「 ごきげんよう 」と返す乃梨子の顔を見て何かあったと気付いたようで、思わず足を止めた。
 乃梨子に何があったのか問いかけようとするが、沈んだ表情の乃梨子の前では結局言葉にならず、可南子は自分の席へと歩み去る。
( 結局、可南子の予感が当ってしまったということね )
 瞳子が昨日の昼に可南子から言われたことを思い出していると、可南子は瞳子の後ろを通り抜ける瞬間、「 私にできることがあれば教えて 」と、瞳子にだけ聞こえる声で囁いた。
 それは、乃梨子のことは瞳子にまかせ、自分にできることがあれば何時でも力を貸すという可南子なりの優しさだった。乃梨子と瞳子を信じている彼女なりの。
 瞳子は可南子の気遣いに感謝しながら、声は出さずにうなずいて見せた。
 
 
 教室が、何も知らないクラスメイト達のざわめきに満たされている中。3人だけが、沈黙に満たされていた。









「 スヴェータさん、今日はマドレーヌを焼いてみたの。おひとついかが? 」
「 ・・・・・・食べたくない 」
「 そう・・・ 」
 小雪は残念そうにマドレーヌを見る。
「 スヴェータさん、カフェオレはいかが? 」
「 いらない 」
「 そう・・・ 」
 睦月は仕方なく、自分でカフェオレを飲み始める。
 いつもなら、自分の持ってきた物に大喜びしてくれるとらが、今日は何も口にしようとしない。
 そんなとらの様子に、小雪、睦月、沙耶花の3人も、とらと一緒にふさぎ込む。
 クラスメイト達もとらの様子がおかしいことに気付き、松組の空気までもが暗く沈んでいた。
 とらは、お昼休みだと言うのに自分のお弁当を食べるでもなく、ぼーっと窓の外を見ている。
 そんなとらの姿を見て、沙耶花は昨日会った乃梨子の顔を思い浮かべていた。
( 昨日の乃梨子さまは明らかに焦っていたわ。まさかあの後、おふたりに何かが・・・ )
 沙耶花は昨日の乃梨子の様子から、悪い予感がしてならなかった。
「 スヴェータさん、どうしたのかしら? 元気が無いわ 」
「 私のケーキも食べてくれないし・・・ 昨日まではあんなに嬉しそうに食べてくれたのに 」
「 そうよ、昨日まではいつものスヴェータさんだったわ。・・・もしかして、昨日の放課後、乃梨子さまと何かあったのかしら? 沙耶花、貴方何か知ってる? 」
 とらを心配するふたりの声に、沙耶花は自分の予想を言うべきか迷ったが、ふたりの問題はふたりにしか解決できないと思い、「 さあ、私にも解からないわ 」と、とぼけて答えた。
( 悔しいけれど、私達が口を出して良いことではないのでしょうね・・・ )
 大切な友人が落ち込んでいるのに、自分はこんなにも無力なのか。沙耶花は無力感にさいなまれる。
 それは、図らずも瞳子や可南子が感じていた感情と同じモノだった。
( 誰かの力を・・・ 私達でもなく、乃梨子さまでもない誰かの力を借りなければ、スヴェータさんに笑顔が戻らない気がする )
 曇り空を見上げ、沙耶花はそんなことを思った。









 数日後。
 薔薇の館には、相変わらず重苦しい空気が漂っていた。
 乃梨子は一見、普通に仕事をしていたが、逆にその何気なさを装う姿が痛々しかった。
( 何か雑談でもして気を紛らせてあげたほうが良いのかしら? )
 瞳子がそんなことを思いながら乃梨子を見つめていると、祐巳に「 瞳子、ちょっと良いかな 」と呼び掛けられた。
 瞳子は乃梨子が気になったが、焦って何かをしても仕方が無いと思い直し、祐巳のいる部屋の隅のほうへと歩いてゆく。
「 志摩子さんもちょっと。相談したいことがあるの 」
「 何かしら? 」
 呼ばれて祐巳のほうへと向かう姉の姿を、乃梨子はぼんやりと見送る。
 正直、自分にかまわず仕事を進めてくれる祐巳の姿勢が今はありがたい。乃梨子はまだ、とらのことで冷静になれない自分を自覚しながら、祐巳に感謝していた。
 乃梨子は、壁際で何かの資料を見ながらふたりに指示を出す祐巳に、心の中でそっと「 ありがとうございます 」と呟く。
( 私って、こんなに打たれ弱かったんだなぁ・・・ )
 いつまでもとらのことを吹っ切れない自分に、乃梨子は自分で呆れていた。
( 自分で決めたことなのに。もう、悩んでも仕方ないのに )
 何時の間にか仕事の手が止まっている自分に気付き、乃梨子は気分転換にカップでも洗おうと、志摩子と自分のカップを持って流しに向かった。
 水道の水を流し、カップを濯ぐ。乃梨子の心の中で、その水音があの日の雨音と重なる。
( 弱いなぁ、私 )
 こんなものにすら動揺する自分に、乃梨子は自嘲の笑みを浮かべる。
( もう私には、とらを想う資格すら無いのに )
 想いを振り切るようにカップの雫を振り落とし、自分のカップをしまおうと棚を明ける。
( あ・・・ )
 そこに、鮮やかなグリーンの輝きを見つけ、乃梨子は動きを止める。
 それは、とらが残していったステンレス製のマグカップだった。
 乃梨子は、そのマグカップの隣りに自分のカップを置くことができず、固まってしまう。
( 何を怯えているのよ私は )
 カップを棚に置くことができず、乃梨子は流しの食器籠に自分のカップを置いた。
( これからも、こんなふうに思い出しちゃうのかな )
 流しに立ち尽くし、乃梨子は失った存在の大きさに打ちのめされる。
( 馬鹿だなぁ・・・ 私。大切なものを、自分で壊すのが怖くて投げ出したクセに )
 ぽっかりと胸に空いた穴を塞ぐように、乃梨子は胸を押さえた。
( でも、ああするより他になかったんだ )
 押さえた服の下でシャラリと鳴るロザリオの鎖が、とても悲しかった。
「 乃梨子 」
 何時の間にか、音も立てずに背後に立っていた瞳子が、乃梨子に声を掛けてきた。
「 何? 瞳子 」
 力無く答える乃梨子に、瞳子は意を決した顔で語り掛ける。
「 このままで、良いの? 」
 瞳子の問い掛けに、乃梨子は答えることができない。
 質問の意味が解からない訳ではない。答えられないのは、瞳子の言葉がまだ触れて欲しくない部分に踏み込んだから。
「 ・・・・・・もう、決めたことだから 」
 逃げ出したいのを堪え、やっとのことでそれだけ呟く。瞳子のセリフは、友人として自分を気遣う心から出たものだと解かるから。
 だが、瞳子は納得してくれなかった。
「 本当に、良いの? 」
 もうほっといて。乃梨子はそう叫びたいのを我慢して、拳を握り締める。
 しかし、苦しさに耐える乃梨子を見ても、瞳子は詰問の手を緩めなかった。
「 本当に、このままで終わらせる気? 」
「 ・・・そう決めたから 」
「 貴方がやり直したいのなら、私は何だって協力するわ 」
「 もう良いの 」
「 私にそうしてくれたように、私も貴方のために何か力になりたいの 」
「 やめて・・・ 」
「 貴方にも幸せになって欲しいのよ。このままじゃ貴方・・・ 」
「 もうやめて!! 」
 たまらず叫んだ乃梨子の声に、会議室の空気が凍りつく。
「 ・・・・・・もう、ほっといてよ 」
 乃梨子の呟きに、瞳子の表情が変わる。
 柳眉を逆立て、瞳子は静かに乃梨子に告げた。
「 解かった。もう、乃梨子の好きにすると良いわ 」
 瞳子は全身から怒りのオーラを放ちながらそう吐き捨てると、乃梨子から離れていった。
( 何よ・・・ 怒りたいのはこっちよ )
 瞳子の言葉が乃梨子への思いやりから出たものであるのは解かる。でも今はまだ、触れないでいて欲しかった。
 乃梨子は立ち去る瞳子を振り向かなかった。
「 お姉さま! 」
「 どうしたの? 瞳子 」
「 瞳子はこれ以上、ここの空気に耐えられません。すいませんが、しばらくお暇を頂きます 」
「 え? ちょっと瞳子、そりゃ今はそんなに忙しく無いから良いけど、でも・・・ 」
「 失礼します! 」
 鞄をつかみ、ずかずかと立ち去る瞳子の勢いに、祐巳は呆然と瞳子を見送る。
 まさかそこまで怒るとは思っていなかった乃梨子は、慌てて瞳子を見た。
 瞳子は扉を開けたまま振り返ると、乃梨子と目を合わせて呟く。

「 そうやって、とらちゃんが誰か他の人のものになるまで、いじけていれば良いわ 」

 瞳子はそう言い残すと、バタンと強く扉を締めた。
「 何よアレ!! ちょっと祐巳さん! 妹の躾がなって無いんじゃないの?! 」
「 まあまあ由乃さん、後で瞳子には言っておくから・・・ 」
 祐巳は由乃を部屋の隅に連れて行き、なだめ始める。
 一方、乃梨子は瞳子の捨てゼリフに頭を殴られたような衝撃を受けていた。
( そんな・・・ そんなこと。いや、でも・・・ )
 とらが乃梨子以外の誰かの妹になる。
 それは、当然思いついても良いはずのことだった。
 ただ、乃梨子がそんな現実から目を背けていただけのことだ。
( 今の私には、それを止める権利も無い )
 自分はとらを手放した。だから、とらが誰かに姉妹の申し込みをされても、自分にはそれを止める権利すら無い。
 変えようの無い事実を思い知らされ、乃梨子は手が白くなるほど強く拳を握り締めた。

 窓の外から音が聞こえた気がして、乃梨子はそちらに目を向ける。

 雨が、また降り始めていた。















 翌日の昼、1年松組に、珍しい訪問者が訪れていた。
「 失礼。そこの貴方 」
 呼び止められ、沙耶花が振り向くと、そこには意外な人物が立っていた。
「 紅薔薇の蕾? 」
 そう呼ばれ、瞳子は縦ロールを軽く揺らしつつ、優雅に「 ええ 」と答える。
「 あの・・・ どういったご用件でしょう? 」
「 スヴェトラーナさんに取り次ぎを頼めるかしら? 」
 白薔薇の蕾ではなく、紅薔薇の蕾がスヴェータさんに何の御用かしら? と、不思議に思いつつも、沙耶花は「 少々お待ち下さい 」と告げ、窓際に座るとらのほうへと歩いてゆく。
 沙耶花に用件を伝えられ、とらは不思議そうな顔をしながらも、のろのろと瞳子のほうに歩いてくる。
「 ・・・・・・なんですか? 瞳子さま 」
 とらが瞳子に会うのは、瞳子に家まで送り届けてもらった日以来だった。
 少し警戒したようなとらの顔を見て、瞳子は「 あの日よりも痩せたかしら? 」と感じる。
 自分を見つめたまま何も言わない瞳子に、とらはもう一度「 なんですか? 」と聞いた。
「 とらちゃん 」
 瞳子は、とらの頬にそっと手を添えると、優しく語りかける。
「 ひとりで耐えていたのね 」
 ひとりという言葉に怯え、とらは泣きそうな顔を見せる。
「 大丈夫よ、私がついているから 」
「 え? 」
 優しく微笑む瞳子にとらが困惑していると、瞳子は「 少しお話する時間はあるかしら? 」と聞いてくる。
 とらは瞳子が何の話をする気か解からなかったが、瞳子の雰囲気の呑まれ、思わず「 はい 」と答えていた。
「 そう。じゃあ、行きましょうか 」
 瞳子は優しくとらの手を引き、松組を後にしようとした。
 そして、ふとその足を止めると、その様子を呆然と見ていた沙耶花を手招き、何ごとかをその耳元に囁く。
 沙耶花は瞳子の言葉を聞くと、驚いた声を上げる。
「 え? 本気ですか?! 」
 驚く沙耶花の耳元に、瞳子はもう一度囁く。
「 そんな・・・ でも、貴方なら乃梨子さまの代わりに・・・ 」
 複雑な顔をする沙耶花に、瞳子は嫣然と微笑み、再び沙耶花の耳元に囁く。
「 ・・・解かりました。スヴェータさんをお願いします 」
 頭を下げる沙耶花を見て、瞳子は笑う。 
「 うふふふ。乃梨子には、私がここへ来たことは内緒よ 」
 沙耶花はその微笑みに魅入られたように、とらを連れ去る瞳子をただ見送るしか無かった。
 瞳子は嬉しそうに微笑みながら、不思議そうに自分を見上げるとらの手を引いて歩き出す。
 
 
 空は晴れ始めていたけれど、沙耶花の胸は嵐の予感に包まれていた。   


 
 
 


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