「乃梨とら」シリーズ第2部第11話です。
【No:2050】→【No:2051】→【No:2053】→【No:2054】→【No:2056】→【No:2059】→【No:2061】→【No:2063】→【No:2069】→【No:2074】→コレです。
手に入らないならば、いっそ消えてしまえば良い。
いっそ消えてくれたら、失ったことすら忘れて生きてゆけるから。
自分の中に潜む、破滅を望む心。
刹那的で自分勝手な欲求。
そんな、自分の心に巣食う黒い感情に気付いてしまい、乃梨子は眠れぬ夜を過ごした。
それでも翌日、彼女はふらふらしながらもリリアンに登校してきていた。
「 ごきげんよう 」
「 ・・・・・・貴方がごきげんよろしくないように見えるんだけど? 」
赤い目の下にクマまで作っている乃梨子に、可南子は思わずそう突っ込んでいた。
「 ちょっと眠れなくてね・・・ 」
そう言って乾いた笑いを見せる乃梨子を、可南子は珍しく心配そうに見つめる。
「 大丈夫なの? 最近、ただでさえ色々疲れているみたいなんだから、辛ければ休みなさいよ? 」
可南子のセリフに、乃梨子は「 大丈夫よ 」と答える。
実際、乃梨子のダメージは大きかった。
でも、ひとりで家にいれば、また余計なことを考えてしまう。
とらが見知らぬ誰かの妹になるかも知れないという現実。
それならばいっそ、とらがいなくなってしまえば良いという凶暴な自分の心。
そして、今だに口も利いてくれない瞳子のこと。
登校さえしてしまえば、授業や山百合会の仕事で、それら諸々のことを考えずに済む時間ができる。ひとりでいればつい考えてしまう問題から、逃げ出す口実ができる。
乃梨子は、リリアンへ逃げ込んできたのだ。
( それと・・・ 昨日、置き去りにしちゃった志摩子さんにも謝らなきゃいけないし )
昼休みにでも志摩子に会いに行こうと考えていると、じっとこちらを見る可南子と目が合った。
「 何? 」
「 貴方最近、白薔薇さまに似てきたんじゃないの? 苦労をひとりで背負い込むところとか 」
「 ・・・・・・そうかな? 」
可南子もそれほど志摩子と親しいという訳ではないが、以前祐巳から「 志摩子さんはひとりで悩んじゃうタイプだから 」などと言われたことがあるので、今の乃梨子の姿がそれに重なったのだろう。
乃梨子も乃梨子で「 確かに志摩子さんはひとりで悩むタイプだけど 」などと思いながら、何となく窓に映る自分の姿を眺める。
そんなに似てきたかな? とか思っていると、窓越しに可南子と目が合った。
可南子は窓ガラスの中で乃梨子に視線を合わすと、こんなことを断言してきた。
「 顔やスタイルは全く似てないわよ? 」
「 ・・・・・・それはほっとけよ 」
どうせ西洋人形と市松人形だよ。
悪かったな、志摩子さんほどメリハリ無くて。
乃梨子はそう思い、窓に映る可南子を軽く睨みつけた。
お昼休み。乃梨子は志摩子の教室へと赴いた。
志摩子は、疲れの浮かぶ乃梨子の顔を見ると、何も聞かずに「 人のいない所へ行きましょうか 」と、乃梨子の手を引いて外へと連れ出した。
ふたりはしばらく無言で歩いていたが、御聖堂の裏手まで来た辺りで志摩子が「 ここなら誰にも聞かれないわ 」と促すと、乃梨子は全てを語り出した。
自分の中にある、破滅を望む後ろ向きな感情のこと。
昨日はそれに耐え切れなくて、志摩子の前から逃げ出してしまったこと。
志摩子は乃梨子から話を聞き、自分の妹の中にそんな強い感情があったことに驚いていたが、俯き唇を噛む妹の姿を見ると、「 人は誰でも、そういった感情と向き合わなければいけないの 」と、優しく微笑み乃梨子を諭した。
そんな感情と無縁なのは、きっと神様くらいのもの。だから、そんなに悩まないでと笑いながら。
志摩子の言葉に少し落ち着いた乃梨子の様子を見て、彼女はもう一度昨日の話題に触れる。
「 乃梨子がそこまで思うということはきっと、乃梨子がとらちゃんを大切に思っているという心の裏返しだと思うの。だから、あの子のことについて、結論を急がないで 」
そう言って、優しく頬に触れてくれた志摩子の笑顔に、乃梨子は「 私って、まだまだだなぁ・・・ 」と思った。そして、自分もいつかはこうやって誰かを導くことができるのだろうかと考える。
誰かの心を受け止め、その心に進むべき方向を示す。
とらとのことで、心の中にいる身勝手な自分を思い知らされた私にも、いつかそんなことができるのだろうかと。
俯き悩む乃梨子に気付き、志摩子は言う。
「 心の闇に気付いた貴方はきっと、その闇を糧に、良い方向へと進めるわ。だから、そんなに自分を責めないで 」
まるで、乃梨子の心と直接対話するような志摩子のセリフに、乃梨子は涙が滲みそうになる。
「 乃梨子がどんな結論を出しても良い。でも、乃梨子が後悔しないように、良く考えてから結論を出してちょうだい 」
「 ・・・うん 」
志摩子にそう言われても、乃梨子にはやはり、とらを自分の妹にすることが良い選択とは思えなかった。
それでも、「 結論を急がなくて良い 」と言われ、どこかホっとしている自分に、乃梨子は気付いていた。
その日の放課後、乃梨子は寝不足でスッキリしないながらも、薔薇の館へと向かっていた。
ぼんやりと歩いていても、つい考えてしまうのはやはり、とらのこと。
昼間、志摩子に「 結論を急がないで 」と言われ、思わずホっとしてしまったことで、心の中に未だとらを失うことを恐れている自分がいることを意識してしまい、乃梨子の思考はグルグルと迷路をさまよっていた。
とらを解放しようと決意した自分。
そのクセ、とらが誰かのモノになることが耐えられない自分。
まるで、ふたりの自分がいるようで、乃梨子はもう自分でも何をどうしたいのか解からなくなっていた。
( ・・・考えても、答えは出そうに無いや )
とにかく今は、薔薇の館へ行こう。そして、仕事の忙しさに埋もれてしまおう。
そんなことを考えながら歩いていた乃梨子の耳に、不意に飛び込んでくる言葉があった。
“ 松組の・・・ ”
“ あの金髪の・・・ ”
その単語からは、嫌でもとらのことが思い出された。
乃梨子が思わずその言葉の出所を捜すと、1年生の下足箱に集まっている4人ほどの集団を見つけた。どうやら、あの集団の噂話が聞こえてきたらしい。
その集団が薔薇の館への通り道にいたので、乃梨子はそのまま集団に近付いてゆくことになった。
“ 確か白薔薇の蕾と・・・ ”
“ いえ、今は別の2年生の方と・・・ ”
“ そうですわ、昨日もふたり連れ立って・・・ ”
( え?! )
乃梨子は耳を疑った。
会話の内容から推測するに、彼女達はとらが乃梨子とは別の2年生と連れ立って歩いている姿を見たということだ。
乃梨子は思わず、お喋り雀の集団を見つめた。
“ あ・・・ ”
“ 白薔薇の蕾・・・ ”
乃梨子に気付いた集団は、小鳥が警戒するように微かに囁き合う。
そして、ヒソヒソと囁き合った後、小さく「ごきげんよう」と呟くと、全員が乃梨子から逃げるように下足箱の奥へと姿を消した。
( これは・・・ 間違い無いかも )
聞き覚えのある特徴を持つ少女の噂話。乃梨子を見て逃げるように消えた集団。
恐らく、乃梨子ととらの関係をある程度知っていて、なおかつ乃梨子以外の2年生といるとらを見た者があの集団の中にいたのだろう。
( とら・・・ 本当に貴方は・・・ )
乃梨子は、いきなり突きつけられた現実に、なすすべも無く下足箱の向こうを見つめる。
見つめた先に口を開いていたのは、校舎の中にわだかまる闇。
まるで、とらが誰かのモノになるくらいならばいっそ・・・ と考えた、乃梨子の破滅を望む感情が具現化したような、闇。
乃梨子は、下足箱の向こうの暗闇から目を離すことができなくなる。
( 駄目だ。それだけは考えちゃ駄目だ! )
乃梨子は、自分に巣食う凶暴な心を抑えつけるかのように歯を食いしばる。
とらが誰かの妹になるというのなら、せめてその幸せを祈ろう。
心の闇に負けまいと、必死にそう考える乃梨子だったが、実際にとらが見知らぬ誰かと一緒にいたと聞くと、そう簡単に割り切れるものでも無かった。
未だ、乃梨子の心は乃梨子に問いかけてくる。
『 誰かの隣りを歩くとらを、アンタは笑って見守れるの? 』と。
とらの幸せも祈れず、かと言って破滅の道も望めない。
自分は何て中途半端な人間だろうと悩む乃梨子だった。
すると、そんな乃梨子に「 ごきげんよう、白薔薇の蕾 」と声を掛ける者がいた。
乃梨子が声の主のほうを見ると、そこには1年松組の沙耶花の姿があった。
「 ・・・ごきげんよう 」
彼女に「スヴェータさんは無理をしています」と指摘された日のことが思い出され、乃梨子は何となく沙耶花の目を見られないままに挨拶を返す。
挨拶を返された沙耶花は静かに一礼すると、乃梨子の横を通り過ぎて行く。
「 ・・・スヴェータさんは、もう大丈夫ですから 」
「 ? 」
通り過ぎざま、沙耶花に投げ掛けられたセリフに、乃梨子は思わず足を止める。
「 それって・・・ 」
どういう意味? そう問い掛けようと振り向いた乃梨子だったが、すでに沙耶花は歩み去った後だった。
遠ざかってゆく沙耶花を追う気にもなれず、乃梨子はただ、彼女の背中を見送るしか無かった。
『もう大丈夫』。それは、『もう貴方がいなくとも大丈夫』という意味なのか。
乃梨子以外の誰かが、とらを守り導いているということなのか。
いくら考えても答えは出ないまま、乃梨子はふらふらと薔薇の館に向かったのだった。
薔薇の館の階段を登り、ビスケットのような扉を開ける。そんなことすら、今の乃梨子には酷い重労働に思えた。
「 ・・・ごきげんよう 」
乃梨子がそう挨拶すると、会議室の中にいた4人がいっせいに沈黙した。
「 ごきげんよう、乃梨子 」
かろうじて志摩子がそう返してくる。
「 何かあったんですか? 」
様子のおかしい4人に乃梨子がそう聞くと、皆が乃梨子から視線を逸らした。
特に由乃は思い切り顔ごと背けていて、隣りにいた菜々に「 余計なことを言わないで下さいよ 」とでも言いたげに睨まれている。
「 どうしたんですか? 」
再び問い掛ける乃梨子に、祐巳が口を開いた。
「 乃梨子ちゃん。私がこんなことに口を出すのは、お門違いだって解かってる。でも、このままじゃいけない気がするの 」
祐巳の表情は真剣そのもので、乃梨子は思わず姿勢を正しつつ「 何のことですか? 」と問い返す。
祐巳は、真正面から乃梨子を見つめると、一言一言を噛みしめるように話し始めた。
「 最近、とらちゃんが乃梨子ちゃん以外の2年生と一緒に歩いているって噂があったの 」
祐巳のセリフに、乃梨子は「 ああ、やっぱり 」と思った。
やはり、先程の1年生達の噂話は、とらのことだったのだ。
沙耶花の言葉の意味も、やはりそういう意味だったということなのだろう。
だが、今の自分にそれを聞いてどうしろと言うのか。乃梨子は、「 自分にはもうそれを止める資格など無い 」と、祐巳に告げようとする。が・・・
「 それでね・・・ 私、さっきとらちゃんがその2年生と一緒のところを見ちゃったんだ 」
そう言った祐巳も、乃梨子に事実を告げるのが辛そうな顔をしていた。
どうやら、噂は噂ではなく現実だったらしい。しかも、祐巳の言葉どおりならば、今まさにとらは、乃梨子ではない2年生の誰かと会っているということになる。
もう、本当にどうすることもできないんだなと、乃梨子は全身から大切な何かが抜け落ちてゆくような喪失感を味わっていた。
だが、乃梨子は心の何処かで強い焦りも感じている自分に気付く。
とらが見知らぬ誰かのモノになる前に、それを止めたい自分。
でも、とらを自分の妹にすることもできないと諦めた自分。
乃梨子は、未だに自分がとらをどうしたいのか結論が出せずにいた。
だが、結論は出なくとも苛立ちだけは募る。乃梨子はもうこれ以上、祐巳の言葉を聞き続けることができなかった。
「 それを聞いたところで、私はもう・・・ 」
結論を出せない自分の心のから逃げるように、祐巳との会話を打ち切ろうとする乃梨子。
だが、祐巳の目は、まだ乃梨子を真正面から捉えたままだった。
もうこの話は終わりにして欲しい。そう思いながらも、乃梨子が何となく祐巳から視線を外せずにいると、彼女は何かを言い出そうとして躊躇しているようだった。
嫌な予感がする。そう感じた乃梨子に向かい、祐巳は迷いを振り切るように、もう一度口を開いた。
「 瞳子と一緒だった 」
祐巳のそのセリフを聞いた瞬間、先程抜け出ていった何かが急速に乃梨子の体の中に逆流してきた。
いや、先程抜け出て言った何かに倍するほどの激情が、乃梨子の体の中で暴れまわっている。
『 自分の信じたままに進んでちょうだい 』
『 私の手でお役に立てたかしら? 』
『 たまには私にも頼ってちょうだい 』
『 貴方がやり直したいのなら、私は何だって協力するわ 』
乃梨子に語り掛ける、記憶の中の様々な瞳子の姿。
しかし、最後に脳裏に浮かんだ瞳子は、乃梨子を冷めた目で見つめながら吐き捨てていた。
『 そうやって、とらちゃんが誰か他の人のものになるまで、いじけていれば良いわ 』
眩暈がした。
この激情に比べれば、とらがいなくなってしまえば良いと思ったことすら、些細なことに思えた。
自分の中に、こんなにも激しいモノが渦巻いているなんて、知らなかった。
乃梨子は、自分が立っているのかどうかも解からないほど、体の中を熱い何かに侵されていた。
「 ふたりで古い温室に・・・・・・ 乃梨子ちゃん?! 待って!! 」
不用意に発した祐巳のセリフは、乃梨子に残っていた一欠けらの理性すら吹き飛ばしてしまった。
祐巳の制止を振り切り、乃梨子は走り出す。
体当たりするように扉を開け、飛び降りるように階段を駆け下り、まるで荒れ狂う嵐のように。
古い温室を目がけて、乃梨子は走り出した。
( よくも・・・ )
涙が滲む。
鼓動は乱れ、吐息は荒く途切れそうになる。
( よくも!! )
悔しくて、悲しくて、何時の間にか涙が溢れ、流れ出していた。
奪った。
裏切った。
いや、そんな言葉では言い表せない程の背徳だと、乃梨子は瞳子に対して熱く激しい怒りを感じていた。
( よくも私の大切なモノを!! )
大切なモノ。
大切な者。
大切な人。
乃梨子は、心の深いところに隠し続けた自分の心を解き放つ。
心の奥底に無理矢理押し込めていた、純粋にとらを求める心を。
大切だと気付いた。
失いたくないと気付いた。
瞳子の裏切りが、自分の心の闇を恐れていた乃梨子のわだかまりすら吹き飛ばしていた。
諦めかけていた乃梨子の弱気までも、残らず吹き飛ばしていた。
もう迷わない。
今の乃梨子は、ただひたすらに、とらを求めていた。
今、自分が何をすべきか気付いた乃梨子は、たとえ体が千切れようとも走ることを止めたりしない。
プリーツが乱れようと、セーラーカラーがひるがえろうと、乃梨子は真っ直ぐに温室だけを目指して走り続けた。
ただ真っ直ぐに、大切な人だけを目指して走り続けた。
全力で校舎脇を駆け抜けた乃梨子の視界に、古い温室が見えてくる。
( 許さない・・・ )
大切な人を奪おうとする瞳子を、乃梨子は許せなかった。
許せなければ、どうすれば良い?
( 取り戻す )
何故?
( 大切な人だから )
誰が?
( 私の大切なとらを、取り戻すんだ! )
一度は、自ら手放した。
そして、別の誰かとの幸せを願った。
そのクセ、その幸せすら許せずに、最後には自分の目の前から消えてくれることを願った。
乃梨子は改めて認める。自分は我がままで、残酷で、優柔不断だった。
だが、それがどうした?
今、私の大切な人が奪われようとしている。そして、それを許せない自分は、こんなにも必死に奪い返そうと走り出しているじゃないか!
とらが自分以外の誰かのモノになる。それは許せない。赦す訳にはいかない。
乃梨子にはもう、迷いなど無かった。
迷い無く、とらだけを求めて駆け続けた。
古い温室へ辿り着いた乃梨子は、窓越しに愛しき白金色の輝きを見つけ、一気に扉を開く。
温室の奥に、寄り添うふたりの姿を見た乃梨子の心は、声にならない悲鳴を上げた。
とらの後ろ姿に向かって駆け寄りたい衝動を押さえ込み、乃梨子は呼吸を整えた。まるで、とらを奪い返す力を貯めるかのように。そして、向き合って佇むふたりに無言で近づいてゆく。
乃梨子の姿に、こちらを向いていた瞳子が気付いた。
その瞳子の唇が、嘲笑うように歪む。
( ・・・・・・・・瞳子!! )
激しい怒りを隠さずに、乃梨子が瞳子を睨みつけながらふたりに近付くと、瞳子は何やらとらに耳打ちしている。
とらの耳元に顔を寄せる瞳子を見て、乃梨子は拳を強く握り締める。まるで、その拳を瞳子に叩きつけようとするかのように。
ふたりまであと数歩のところで、今まで動きを見せなかった白金色の髪が揺れた。
とらが振り向く姿に、乃梨子は思わず彼女の名を呼ぼうとしたが、そうすることはできなかった。
何故なら、振り向いたとらの目は乃梨子を映していたはずなのに、その瞳には何の感情も浮んでいなかったから。
まるで、見知らぬ誰かを見るような目で、とらが乃梨子を見つめてきたから。
冷たいアイスブルーの瞳に射抜かれて動きを止めた乃梨子に、とらは静かに問い掛けてきた。
「 ごきげんよう、乃梨子さま。何か御用ですか? 」
まるで、見知らぬ誰かに呼び止められたかのように、熱を感じさせない言葉で。
それは、初めて出会う下級生に投げかけられたようなセリフ。
見知らぬ誰かに呼び止められたかのような、何気ないセリフ。
乃梨子はそれを聞いた瞬間、あれほど熱くみなぎっていた力が全身から抜けてゆくのを感じ、その場にしゃがみ込み泣き崩れる。
( 遅かったんだ・・・ )
自分にとって、とらがどれほど大切なのか気付くのが、あまりにも遅かった。
奪い返すために走り出すのが、あまりにも遅かった。
大切な人を奪い返すための力を根こそぎ奪われ、ただ泣き続けることしかできない乃梨子。
そんな彼女を見つめる瞳子の唇が、微かに微笑んでいた。
失ったモノを嘆く涙は、まるで雨のように温室の土を濡らし、そのまま音も無く吸い込まれて消えていった。