「乃梨とら」シリーズ第2部第12話です。
【No:2050】→【No:2051】→【No:2053】→【No:2054】→【No:2056】→【No:2059】→【No:2061】→【No:2063】→【No:2069】→【No:2074】→【No:2077】→コレです。
大切な人に、まるで他人のようなセリフを投げつけられた。
「 何か御用ですか? 」と、見知らぬ人を見るような目で。
必死で奪い返そうと伸ばしたこの手は、もう大切な人に届かないのだろうか。
とらから投げ掛けられた熱の無いセリフに、乃梨子はかつて体験したことが無い程の絶望感を味わっていた。
( ・・・遅かったんだ )
もう何もかも遅かったのだと、乃梨子はうずくまり、声も出せずに泣いていた。
( 私・・・ なんて馬鹿なんだろう )
とりかえしのつかない場所まで来て、やっと気付くなんて。
乃梨子は、悲しい現実を拒絶するかのように、両手で顔を覆い泣き続けた。
( 失って初めて、こんなに大切だったって気付くなんて・・・ )
もう、とらは私の手の届かないところへ行ってしまった。
そして、遠いところへと彼女を連れ去ったのは、唯一無二の親友だと信じていた人。
乃梨子は、大切なモノをごっそりと奪われたかのような喪失感に打ちのめされ、泣き続けることしかできなかった。
( 自分で選んだことなのに・・・ )
「 乃梨子? 」
( こんなに悲しいなんて、思わなかった )
「 乃梨子ってば 」
しゃくりあげるその肩に置かれた手にも、乃梨子は反応を見せない。
「 乃梨子? どうした? おなか痛いのか? 」
( うるさい! 気安く私に話しかけるな! )
今更、親しげに乃梨子と呼ぶな。そう言いたいけれど、涙で言葉にならない。
「 ねー乃梨子〜、今のダメだったの? 」
( そう・・・ もう何もかもダメなんだ )
「 乃梨子〜、 何で泣いてるの〜? ねーってば〜 」
( うるさい! だいたいアンタは何度言えば私を乃梨子“さま”と呼ぶように・・・・・・って、アレ? )
「 私の演技、泣くほどヘタだったか? 」
( ・・・・・・・・・・・・演技? )
しつこく問い掛けてくる声に、ようやく何かがおかしいと気付いた乃梨子が顔を上げてみると、そこには乃梨子を心配するとらの顔があった。
「 あ、やっと反応した 」
乃梨子と目が合い、とらは安心したようにニカっと笑う。
「 ・・・・・・・・・とら? 」
「 何? 」
とらはちょこんと座ったまま小首を傾げる。
「 いや・・・ 何?って・・・・・・・・・ え? 」
「 乃梨子、大丈夫か? なんかバカっぽい顔になってるぞ? 」
「 ば、バカっぽいって何よ! 」
「 だって、鼻水たれてるし 」
「 !! 」
とらに指摘され、慌てて片手で鼻を隠した乃梨子は、とらの向こうに立っている瞳子が、何やら歯を食いしばりながら微かに震えているのに気付いた。
彼女も何やら様子がおかしい。唇の端が、微笑みの形のまま痙攣している。
「 ・・・・・・瞳子? 」
乃梨子の問い掛けに、瞳子は「 ぶふっ! 」と噴き出すと、言葉の代わりに爆笑で答えた。
「 あっはっはっはっはっ!! や、やめて! 鼻水たらしながら“瞳子?”とか呟かないでぇ! 」
笑いながらも、女優としての職業病なのか、“瞳子?”の部分をわざわざ乃梨子のモノマネで再現してみせる瞳子。どうも乃梨子の様子が笑いのツボに入ったらしく、彼女はしばらく壊れたように笑い続けた。
ひとり笑い続ける瞳子。乃梨子の隣りにちょこんとしゃがみ込んで、いつもと変わらない顔でこちらを見上げているとら。
乃梨子は状況が理解できず、ただ呆然とふたりを交互に見ていた。
( ・・・・・・・・・何これ? え? ふたりは姉妹になろうとしてたんじゃ・・・ あれ? )
しばらくして、ようやく笑いの発作が治まり「 あー可笑しかった 」などと言いながら涙を拭いている瞳子を、とらが急に思い出したように責め始めた。
「 あ!! さては騙したな? 瞳子さま! 乃梨子、喜んでくれなかったぞ!! 」
何やら「 話が違う! 」と憤慨しているとらを、瞳子は「 まあ落ち着きなさい 」となだめている。
「 別に騙した訳じゃないわ 」
「 だって! 」
状況を説明して欲しい乃梨子が「 あの・・・ 」と声を掛けるが、ふたりにあっさりと無視された。
「 むしろ、とらちゃんが計画どおりに上手く出来たからこそ、乃梨子は泣いてるのよ? 」
「 そうなん? 」
瞳子のセリフに出てきた単語に不穏なモノを感じ、乃梨子は再び「 えっと・・・ 計画って何? 話が見えないんだけど・・・ 」と問い掛けてみる。
「 そうよ。だからこれはもう大成功と言っても良いの 」
「 じゃあ、また一緒にいられる? 」
・・・が、やはりスルーされた。
「 もしもし? 大成功って何が? 」
心持ち声を大きくして聞いてみたが、ふたりは何やら勝手に盛り上がっている。
「 もちろんよ。もう何も心配いらないわ 」
「 やったー! 」
問い掛ける乃梨子を放置してふたりだけで盛り上がる瞳子ととらに、乃梨子はとうとう大きく息を吸い込み叫んだ。
「 人の話を聞けぇぇぇぇぇぇ!!! 」
突然立ち上がり叫び出した乃梨子に、とらは驚いて固まっていたが、瞳子は冷静に「 鼻水 」とだけ返してきた。
乃梨子は慌てて横を向くと、急いでハンカチで鼻水を拭いた。
「 ・・・どういうことか説明してくれる? 」
恥ずかしさと怒りで赤い顔のまま問い詰める乃梨子に、瞳子は逆に問い掛ける。
「 その前に、まず一つ思い出してもらおうかしら。私はだあれ? 」
「 は? 」
自分を指差してそう聞いてくる瞳子の質問の意味が解からず、乃梨子が「 松平瞳子 」とそのまんまな答えを返すと、瞳子は呆れた顔ですかさず「 おバカさん 」と返してきた。
「 誰がバカよ! 」
「 だって、バカなんですもの 」
しれっとそう言う瞳子に乃梨子が憤慨していると、瞳子がもう一度問い掛けてきた。
「 じゃあ、聞き方を変えましょうか。私は貴方にとって、なあに? 」
さっきまで乃梨子は瞳子を「とらを奪った裏切り者」と信じてやまなかったが、瞳子やとらの様子からすると、どうやらそういうことではないらしい。
それならば答は一つ。だが、それを改めて口に出すのは少し恥ずかしい。乃梨子は瞳子から目を逸らし、ぼそっと呟いた。
「 ・・・・・・親友 」
少し照れながら答える乃梨子に、瞳子は満足そうに「 正解 」と言った。
「 その親友の私が、貴方の大切なモノを奪ったりはしないわ。だから、この温室に入ってきた時みたいな顔で睨まないでね 」
笑いながらそう言う瞳子の様子からすると、「瞳子がとらを妹にしようとしている」というのは、やはり乃梨子の勘違いだったようだ。
乃梨子はこの温室に入ってきた時、とらを奪われたと思い興奮状態だった自分を思い出し、少し恥ずかしくなった。
乃梨子は素直にごめんと謝ろうとしたが、瞳子の「 まあ、初めて乃梨子のマヌケな泣き顔が見られたから善しとしましょう 」というセリフを聞き、死んでも謝るもんかと固く決意した。
当初ココへ来た時とは別の理由(主に屈辱とか)で拳を硬く握り締め、「 いつかオマエも鼻水のオプション付きで泣かしてやる 」と復讐を誓っていた乃梨子の脳裏に、ふと疑問が浮かぶ。
「 あれ・・・ じゃあ、瞳子がここでとらと一緒にいる理由って・・・ 」
とらを自分のモノにするためじゃないのか。乃梨子がそう聞こうとすると、瞳子は真面目な顔になって語り出した。
「 簡単に説明するとね、ある計画を成功させるために、ここ最近はこの温室とか人目につかない所で、とらちゃんを指導していたのよ 」
「 計画? 指導? 」
そう言えばさっきもそんなことを言っていたなと乃梨子は思い出す。
「 そう。そして、その計画は成功したと言っても良い成果を出せたわ。そういった訳で、とらちゃんはもう何の問題も無くリリアンの生徒として暮らしてゆけるようになったのよ 」
「 え? それってどういう・・・ 」
とらとその「計画」とやらのつながりが見えずに戸惑う乃梨子をよそに、瞳子は続ける。
「 だからもう、貴方はとらちゃんを無理に躾けなくても良いの。もう貴方がとらちゃんのことで悩む必要も、とらちゃんと離れる必要も無いのよ 」
だから安心してちょうだいと、瞳子は乃梨子の肩に優しく手を置く。
「 でも私はとらに・・・ 」
とらを奪い返すためにこの温室へ来たはずの乃梨子だったが、瞳子の優しいセリフが逆にとらに別れを告げたあの日の自分を強く意識させ、あれ程激しくとらを求めていた感情が、嘘のようにしぼんでしまったのを、乃梨子は感じていた。
過去の自分から逃げるように俯く乃梨子だったが、瞳子はそんな彼女から逃げ場を奪うように問い掛ける。
「 貴方、とらちゃんが嫌いなの? 」
「 違う! そんなことない! 」
即答する乃梨子の剣幕に、瞳子はにっこりと微笑むと、とらにも問い掛ける。
「 とらちゃんは乃梨子のこと嫌い? 」
「 嫌いじゃないよ! 大好きだもん! 」
ふたりの気持ちを聞き、瞳子はとても満足そうだった。
「 ふたりの気持ちは同じ。それに、計画が順調に進んでるから、ふたりを悩ます問題も片付けるメドが立ったわ。だから、この先とらちゃんとの関係をどうするかは貴方次第よ 」
自信あり気に瞳子に言われても、そんな上手い話しがあるのかと、乃梨子はにわかには信じられなかった。
「 そう言われても・・・ そもそも計画って、いったいとらに何をしたの? 」
疑わしげな乃梨子の問いに、瞳子は「 ふふん 」と高慢な感じで微笑むと、乃梨子の前にぴっ!と指を1本立てて言った。
「 ヒントは猫。効果の程は、さっき貴方が身をもって体験したはずよ 」
「 ・・・猫って何よ? 」
「 この間、薔薇の館で由乃さまが被っているのを見たでしょう? 」
「 え? 由乃さまが何を・・・ あ! 」
乃梨子の脳裏に、以前薔薇の館で猫を被って「儚げな美少女」を演じてみせた由乃の姿が蘇える。
あの日、由乃に言われた「とらが自分を抑えておしとやかに振舞っている」という言葉が強烈に印象に残っていたので忘れかけていたが、確かにあれは見事な猫だった。何せ乃梨子自身もあっけに取られたほどだ。
そして、それは確かに先程のとらの姿と重なった。いつもとはまるで違う、先程のとらの姿と。
「 まさか・・・ とらがさっき、冷たい態度に見えたのって・・・ 」
「 そうよ。見事な猫だったでしょう? 」
瞳子はとらの頭をぽんぽんと軽く叩き、自慢げに言う。
とらもそれに応えるように表情を消し、「 どうですか? 乃梨子さま 」と、乃梨子の目の前で先程と同じように猫を被って見せる。
確かに、今乃梨子の目の前にいるとらは、清楚な雰囲気を纏っているように見える。
まあ実際は笑顔を消し声のトーンを抑えているだけなのだが、精巧なビスクドールのような美貌を持つとらならば、確かにそれだけでも「清楚なお嬢さま」に見えるということだ。
「 とらちゃんはこのとおり、黙っていれば凄い美人だから、まずは“何時でも表情を消せる”訓練をさせたのよ。それだけでもかなり印象が変わるでしょう? 」
「 顔攣りそうになったけど頑張ったよ! 」
「 他にもいくつか演技の基本的なところを教えたわ。いかにもお嬢さまっぽく見える立ち居振る舞いとかね 」
「 なんか変なポーズとか覚えた! 」
得意そうなふたりの様子に、乃梨子は瞳子の言った“計画”の内容がおぼろげながら理解できた。
どうやらとらに、由乃並みの猫を被せるという計画らしい。
「 つまり、とらに由乃さまが見せてくれたような猫を被って、周りを欺けと? 」
「 ええ、そうよ。とらちゃんにはブ厚い猫を被ってもらって、リリアン中を欺いてもらうつもり。正確に言えば、すでにとらちゃんの本性を知っている人間以外と接する時に、とらちゃんには猫を被ってもらうの。そうすれば、まだとらちゃんと面識の無い人達に“とらちゃんはおしとやかなお嬢さま”だと思い込ませることができるはずだわ 」
にんまりと笑いながら言う瞳子に、乃梨子は本当にそんなことが可能なのかと不安になる。
「 でも・・・ いくらリリアンの看板女優である瞳子が演技指導をしたとは言え、とらはその辺素人なんだから、演技にも限界ってものが・・・ 」
猫を被ったくらいで、とらは本当にリリアンの生徒として問題無く暮らして行けると言えるのだろうか? 野生児のような本性をその身に残したままで。
乃梨子がそんな不安を口にすると、瞳子はじとっとした目で乃梨子を見ながら呟いた。
「 さっき、自分は思いっきり騙されてたクセに 」
「 うっ! 」
痛いところを突かれ思わずうめく乃梨子に、瞳子は更に追い討ちを掛ける。
「 鼻水たらして泣くほど騙されてたクセに 」
「 う、うるさいわね! あれは祐巳さまに瞳子がとらと一緒にいるって言われて動揺してたから・・・ 」
真っ赤になって言い訳する乃梨子に、瞳子はびしっ!と指を差し、「 それよ! 」と叫ぶ。
「 ・・・何が? 」
瞳子の叫びの意味が解からない乃梨子がそう聞くと、瞳子は得意気に説明を始める。
「 お姉さまの前フリとも言えるセリフ。つまり、信頼のおける人物から出た言葉ならば、周りは疑うことすらせずにそれを信じることがあるわ 」
「 祐巳さまが信頼のおける人物かどうかは・・・ 」
「 誤誘導。つまり、ミスディレクションというやつよ! 」
「 ・・・今、明らかに無視したわね? 」
果たして祐巳が信頼のおける人物かどうかはさておき。瞳子が言いたかったのは、普段からその言動に影響力を持つ誰かが、猫を被ったとらを「本物のお嬢様だ」と認めてしまえば、周りもそれを信じてしまうだろうということだ。
「 えっと・・・ まさか計画って・・・ 」
イヤな予感がしてならない乃梨子の問いに、瞳子はニヤリと笑いながら答えた。
「 そのミスディレクションを誘う役目を、私達山百合会でやろうというのよ 」
「 ・・・・・・正気? 」
「 ・・・せめて“本気?”って聞いてくれないかしら 」
乃梨子に正気を疑われた瞳子は、思わずそう突っ込んだ。
「 この計画はね、リリアンの中で信頼を得ている人物・・・ つまりは私達ね。その私達の“被せた”猫で、リリアン全体に“とらちゃんはおしとやかな子”という認識を植え付ける。つまりはリリアン全体の目を・・・ 正確に言えば、とらちゃんの本性を知られたらヤバそうな人間の目を全て、私達で誤った方向へ逸らして騙そうという計画なのよ 」
よってたかってとらに被せた猫で、リリアン全部を欺く。
生徒も教師もシスターも、およそとらの本性を知られたらヤバそうな人間は全て騙す。
白を黒に見せかけ、造花を手に「 良い香りね 」と言い張ってみせるように。
その結果、“清楚で美しい”白薔薇の蕾の妹が誕生するという仕組みだ。
瞳子の言う“計画”とは、つまりそういうことらしい。
要はリリアン女学園全体をペテンに掛けようというのだ。
乃梨子は初め、この計画が「とらに猫を被らせて、とら自身にリリアン中を騙させる」ものだと思っていた。
そんな、とらの被る猫に全てを賭けたような計画だと思ったからこそ、そんなに上手く行くのかという不安があったのだ。
だが、瞳子のセリフからすると、計画は「山百合会全員の総掛かりでリリアン全部を騙す」というものらしい。瞳子は山百合会の信用を利用して、この計画を成功に導くつもりなのだ。
確かに山百合会がとらのことを「おしとやかなお嬢さまだ」と言えば、何も知らないリリアンの子羊達などは疑うことすらしないだろう。
しかし、この計画に山百合会全員が関わると聞き、乃梨子は逆に不安になる。
「 そんなことをしたら山百合会の皆に迷惑が・・・ 」
自分ととらのために皆に協力してもらうというだけでも心苦しい。しかも、もし計画がバレてしまったら山百合会に“詐欺師”のレッテルを貼られかねない。
そんな心配から出た乃梨子のセリフに、瞳子は少しだけ悲しげな目をして呟く。
「 友達っていうのはね、損な役回りも喜んで引き受けるものなのよ 」
それは、瞳子が祐巳から受け継いだ言葉だった。
「 貴方はとらちゃんに本物のお嬢さまになるように躾をしていたけど、それは難しかったでしょう? 」
乃梨子はとらを本当のお嬢さまにしてしまうのが彼女のためだと思っていた。本人に問題が無くなってしまえば、その後も上手くやっていけると。
だが、それは確かに難しく、ふたりに悲しい結果を招いた。
「 でも、この方法なら・・・ 周りがフォローするこの方法なら、とらちゃんに掛かる負担は少ないわ 」
確かに乃梨子がやろうとしていた方法よりも、「とらに猫を被らせ、それでもヤバそうならば周りが協力して“この子は立派なお嬢さまだ”と言張る」というこの方法ならば、とらに掛かる負担は少ない。
それはつまり、乃梨子がとらとの別れを決意した直接の理由、「とらに無理をさせる」ことが少ないということだ。
「 それに、私達のように本当のとらちゃんを知っている人間の前でなら、ありのままのとらちゃんでいることができる 」
ありのままのとらでいて欲しい。それは、乃梨子が最も望んでいたことだった。
だが、乃梨子は素直にそれにすがる気にはなれなかった。
「 とらのために、皆を巻き込む訳には・・・ 」
歯切れの悪い乃梨子を、瞳子は真正面から見つめた。
「 自分達のことに口を挟む、お節介な女が信じられない? 」
自分を指差し、そう問い掛ける瞳子。
「 そんな意味で言った訳じゃあ・・・ 」
「 じゃあ・・・ 乃梨子は私を・・・ いえ、“私達”を信用できない? 」
「 そんなことない! でも・・・ 」
必死で乃梨子を説得しようとする瞳子のセリフに、乃梨子は言葉に詰まる。
瞳子があえて“私達”を信用できないのかと言い直したということは、すでに山百合会全員の同意を得ているということだと、乃梨子は気付いてしまったから。
それは確かに嬉しいことだけど、果たして自分のためにそこまで皆に協力してもらっても良いものだろうか? 乃梨子はむしろ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「 私ととらのためにそんな・・・ 」
まだ計画の実行に消極的な乃梨子の弱気を蹴り飛ばすかのように、瞳子は大声で言い切る。
「 とにかく! もうとらちゃんに関する問題は全て解決したの! ・・・いえ、私達が問題など起こさせないわ! 」
自らのプライドに賭け、そんなことは断じてさせないと、瞳子は迷い無く言い切った。
そんな彼女の力強い宣言に、乃梨子は不安と期待の入り混じった複雑な顔になる。
未だ迷いの消えない乃梨子に、瞳子は「 邪魔者はここで消えるから、後は貴方の好きなようにしなさい 」と告げると、乃梨子の肩に手を置き、勢い良くとらのほうへと向けた。
乃梨子はいきなりとらと向かい合うことになり、さっき温室に駆け込んできた勢いは何処へ行ったのかというほどオタオタと慌てだす。
そんな乃梨子の肩に手をかけたまま、瞳子は後ろからそっと耳元に囁く。
「 大丈夫。もう、大丈夫だから 」
大丈夫。それは、単純な一言。
それでも、自分の信じた誰かが言ってくれるならば、思わず信じてみたくなる一言。
瞳子の言う“計画”が、本当に大丈夫なのかは解からない。
それでも、「大丈夫」だと断言してくれた親友の言葉には不思議な説得力があると、乃梨子は思った。
瞳子が心から言ってくれた「大丈夫」に後押しされ、乃梨子は素直に親友の言う“計画”に賭けてみることにした。
「 ありがとう瞳子。私、もう一度とらと話してみるよ 」
肩に置かれた手に、そっと自分の手を重ねて呟く乃梨子の感謝の言葉に、瞳子は安心したようににっこりと微笑み、ゆっくりと温室の扉へと向かって歩き出した。
扉を出る直前、瞳子はもう一度だけ振り向くと、乃梨子に告げる。
「 後で・・・ 薔薇の館でもう少し詳しく“計画”について説明してあげるわ。だから、きちんと“用事”を済ませてくるのよ 」
薔薇の館で待っているから頑張って。そんな意味であろう瞳子の励ましに、乃梨子は「 解かった 」とだけ答える。
その顔に、さっきまでの不安の色はもう無かった。
乃梨子の顔に決意の色を見た瞳子は、満足そうにうなずくと、ゆっくりと温室を出て行ったのだった。
「 乃梨子・・・ 」
乃梨子が自分を呼ぶ声に振り向くと、とらが不安そうに乃梨子を見つめていた。
「 とら・・・ 」
乃梨子は、瞳子の言葉を信じて今すぐとらを抱き寄せてしまいたかった。
今すぐロザリオを渡して、私の妹になってと言いたかった。
でも、その前に一つだけ、とらに言わなければならないことがある。
乃梨子は服の上からロザリオを握り締めた。
( 志摩子さん、私に勇気を貸して )
これを言ったら、とらに嫌われてしまうかも知れない。でも、これを言わなければ、私はとらと本当の意味で姉妹になることができない。
乃梨子は覚悟を決め、とらに語りかける。
「 とら、聞いて欲しいことがあるの 」
「 何? 」
無邪気にこちらを見るとらの顔に、乃梨子は罪の意識を感じる。
「 私といるために無理をさせたくなくて、私、あの雨の日に、貴方にさよならって言ったよね 」
「 ・・・・・・・・・ 」
あの雨の日を思い出したのか、とらが少し辛そうな顔になる。
「 でも、自分でさよならを告げたクセに、私はとらを忘れられなかった 」
あの雨の日から十日以上が過ぎたが、乃梨子は一度もとらのことを忘れることなどできなかった。
とらの笑顔を忘れることなど、絶対にできなかった。
「 貴方を私から解放してあげたかった。でも、貴方の自由を喜ぶこともできなかった 」
乃梨子の言う意味が解からず、とらは黙って乃梨子を見つめ続ける。
真っ直ぐに自分を見つめるとらの目を見て、乃梨子はまた怖くなった。
それでも、これだけは言っておかなければならないと思い、乃梨子はまたロザリオをきつく握り締め、心にわだかまる闇をとらに告白した。
「 私ね・・・ とらが誰かの妹になるくらいなら、とらがリリアンからいなくなってしまえば良いと思った 」
それは、心の奥底に押し込めた闇。でも、その闇は無理矢理押し込めただけであって、決して無くなった訳じゃない。
この闇を抱える自分も確かに自分なんだと、乃梨子はとらに告白しなければならいと思ったのだ。
とらにだけは、自分の全てを教えておきたかったから。
だが、とらは乃梨子の言葉を聞いても何も反応を見せなかった。
呆れられたのだろうか? それとも、嫌われてしまったのだろうか? 乃梨子はそんな恐怖を隠すように、とらに向かって話し続けた。
「 呆れるよね。自分で手放したクセに、とらが誰かの手に渡るのが耐えられないなんて・・・ 」
何も答えないとらが怖くて、乃梨子は話すのを止めることができない。
「 でも、これが私なの。こんな我がままで薄情な人間なの。だから・・・ とらがもし、こんな私が嫌なら、私・・・ 」
もう話し続けることもできなくて、乃梨子は俯いてしまう。
だが、とらはそんな乃梨子を不思議そうに見ると、一言だけ返してきた。
「 それって・・・ なんかいけないの? 」
「 ・・・・・・へ? 」
乃梨子はてっきり「 乃梨子ひどいよ! 」だとか、「 私のことがそんなに嫌いなの? 」だとかいう乃梨子を非難するようなセリフ。あるいは「 そんなこと気にしなくても良いよ 」だとか「 それでも乃梨子が好きだよ 」とかいう乃梨子を励ます系のセリフが返ってくるものだと思っていた。
だから、ある意味予想外だったとらのセリフに、乃梨子は返す言葉を失った。
「 それ、考えちゃダメなこと? 」
不思議そうに聞き返してくるとらに、乃梨子は「 やばい、この子良く解かってない 」と思い、慌てて説明を付け加えようとする。
「 いや、良く聞いてとら。乱暴な言い方をすれば、私はあんたに消えて欲しいとか思って・・・ 」
「 だって、私もそう思ったもん。 リリアン辞めちゃおうかなって 」
「 そんなことを思った私は・・・・・・ え?! 」
さらっととらの口から出た重いセリフに、乃梨子はまた返す言葉を失う。
とらは、固まっている乃梨子にかまわず続けた。
「 乃梨子が一緒じゃないなら、リリアンに通う意味無いし。通う意味無いなら、もうここにいる必要も無いし 」
とらは、乃梨子が傍にいないリリアンならば、自主退学も辞さない覚悟だったらしい。
「 意味無いってアンタ、そんな・・・ 」
呆然と呟く乃梨子に、とらは当たり前のように言う。
「 だって・・・ 同じリリアンの中にいるのに乃梨子がこっち見てくれないなんて、やだよ 」
真っ直ぐに乃梨子を見ながら、とらは言う。
「 そんなの、悲しいもん 」
単純な、でもそれだけに心をそのまま表すような「悲しい」というとらのセリフ。
乃梨子は、本当に悲しそうな顔でそう言うとらの様子に、自分のしでかしたことがどれだけとらにとって酷いことだったかを思い知らされた。
シンプルに、とてもシンプルに。
ただ傍にいて欲しいと想うこと。
傍にいて、自分を見て欲しいと願うこと。
とらはただそれだけを願っていたのに、自分はそんなとらに、どれほど酷いことをしてしまったのだろう。
とらのためだと言いながら、本当はとらの変わってゆく姿を見たくないという自分の我がままのために、どれほど酷いことをしてしまったのだろう。
許されないと思った。こんな自分など、許されてはいけないとさえ思った。
しかし、悶々と悩む乃梨子を笑い飛ばすかのように、とらは言った。
「 でも、乃梨子がまた私んトコに戻ってきてくれたから、もうイイや 」
シンプルに、ごくシンプルに。
乃梨子がいて嬉しいと、とらは笑う。
乃梨子が傍にいてくれるなら、それだけでもう良いと、明るく笑う。
乃梨子は、その眩しい笑顔に救われた気がした。
呆れるほどシンプルな笑顔に、自分の全てを受け入れてもらえたと思えた。
「 とら! 」
乃梨子はとらをきつく抱きしめる。
「 うわっと! く、苦しいよ乃梨子 」
「 うん 」
「 ・・・泣いてるの? 」
「 うん 」
「 泣かないで 」
「 うん 」
「 傍にいるよ 」
「 うん 」
また溢れてきた涙で言葉にならなくて、乃梨子はただ「うん」とだけ繰り返す。
この胸に抱いた小さな温もりを、二度と手離さない。それだけを、心の中で固く誓いながら。
「 も〜、乃梨子は意外と泣き虫なんだなぁ 」
とらは乃梨子に抱きしめられながらも、まるで小さな子供をあやすように、乃梨子の背をその小さな手でぽんぽんと叩く。
その手は驚くほど暖かくて。優しくて。乃梨子は、とらの手から伝わってくるモノが、自分の心にわだかまるちっぽけな闇すら溶かしてくれるような気がしていた。
「 ほら、これで涙拭いて 」
「 うん 」
まるで姉が妹にするかのように、とらは乃梨子の涙を拭いてやる。
とらに押し付けられた布は少しゴワゴワしたが、乃梨子は素直に押し付けられた布で涙を拭いた。
「 もう涙止まったか? 」
「 うん、ありがとね 」
ようやくはっきりと見え始めた乃梨子の視界に、何やら白いモノが見えた。
( ん? あれは・・・・・・ )
良く見れば、その白いモノは黒に緑を一滴落としたような布の隙間から見えている。
( 何だろう? この黒い布・・・ ってああ、スカートか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・スカート?! )
そう、乃梨子の涙を拭いていたその黒っぽい布は、セーラー服のスカートだった。そりゃあゴワゴワもするだろう。
そして、そのスカートの隙間から見える白いモノと言えば当然・・・
「 アンタぱんつ丸出しじゃないの!! 」
乃梨子の叫びにも、とらはきょとんとした顔で「 何が? 」とだけ返す。
「 “何が?”じゃないでしょ!! あ、アンタなんでスカートで私の顔拭いてるのよ! そんなことしたら、パンツ丸出しになるに決まってるでしょ?! 」
乃梨子の突っ込みにも、とらは「 大丈夫大丈夫 」と余裕の表情だった。
「 何が大丈夫なのよ! 」
「 ぱんつ汚れてないから大丈夫だよ? 」
「 大丈夫じゃない! それは大丈夫とは言わない!! 」
「 え? でも、汚れてないでしょ? 」
とらは何故か、乃梨子にぱんつを良く見せようとスカートをもっとたくし上げた。
乃梨子は一瞬、とらのぱんつに目を奪われたが、はっと我に返るととらに突っ込みを再開する。
「 汚れてないからって、ぱんつは人に見せて良いモノじゃない!! とにかく、スカートを下ろしなさい! 」
「 え? 見せちゃいけないの? 乃梨子にも? 」
「 ・・・・・・ い、いけません!! 」
言いよどんだ一瞬の間に、乃梨子の脳裏に何が駆け巡ったのか。それは、余人には計り知れない深き深遠の彼方にある秘密だ。
それはともかく。
乃梨子の剣幕に、とらは素直に「は〜い」と返事をした。
・・・が、しかし。
「 ・・・・・・どうしたの? 早くスカート下ろしなさいってば 」
「 ・・・・・・・・・ 」
乃梨子にそう言われても、とらはぱんつ丸出しのままだった。
「 ちょっととら、何時までそうしてるのよ? 」
乃梨子にそう問い詰められて、とらはなんだか気まずそうに答えた。
「 えっと・・・・・・ 乃梨子が離してくれるまでかな? 」
「 は?・・・・・・・・・ あ 」
そう、乃梨子はさっき涙を拭いた時から、とらのスカートを掴んだままだったのだ。
はたから見れば、乃梨子はとらのスカートを豪快にめくっている変態にしか見えない。
「 ご、ごめん! 」
慌ててスカートを離す乃梨子に、とらは妙に優しくこう言った。
「 乃梨子がスカートめくるの好きなら、別にかまわないぞ? 」
「 ひ、人を勝手に変態扱いするなぁぁぁぁ!! 」
す ぱ ー ん !
久しぶりに響き渡る乃梨子の突っ込みの音に、とらは痛む頭をさすりつつも、どこか嬉しそうに笑うのだった。
「 てへへへ・・・ 」
「 まったくアンタはもう・・・ 感動して泣いた私が馬鹿みたいじゃなの 」
「 あはははは、気にすんな乃梨子 」
「 気にするわよ! だいたいね、アンタそんな調子で本当にリリアン全部を騙しきれるの? 」
「 大丈夫だよ! 瞳子さまに色々教えられたし、山百合会も皆で協力してくれるって言ってたし 」
「 それでもまだ安心できないわ 」
自分を信用してくれない乃梨子のセリフに、とらは「 む〜 」と唸り、不満気に口を尖らせる。
自分はもう大丈夫なんだと反論しようと口を開きかけていたとらをさえぎり、乃梨子はとらを見つめて呟いた。
「 だから、私の妹になりなさい 」
一瞬、とらは乃梨子の言ったことが理解できず、ぽかんとした顔になる。
「 妹になって、ずっと私の傍にいなさい 」
とらの顔が、少しずつ笑顔になってゆく。
「 そうすれば、どんな時でも私がアンタを助けてあげられるから。一番傍で、私がアンタを守ってあげられるから 」
自分を見つめる乃梨子に向かって、とらは満面の笑みで答えた。
「 うん! 」
それは、乃梨子も初めて見る笑顔だった。
目尻に少し涙の浮かぶ、とらの歓喜の笑顔だった。
( これから先、この子は私にいくつの顔を見せてくれるんだろう )
笑った顔。喜んだ顔。はしゃいだ顔。
( 私はこの子から、どれだけの顔を引き出せるんだろう )
悲しい顔。怒った顔。泣いた顔。
姉妹になればきっと、楽しいことだけじゃない。たぶん、喧嘩になる時もあるだろう。
それでも、悲しい顔をした後は笑って欲しい。
今見せてくれたような眩しい笑顔を、もっともっと見せて欲しい。
乃梨子はそう思いながら、そっと優しくとらの目尻に浮かぶ涙を拭った。
「 ・・・あれ? なんでだろ・・・ 嬉しいのに・・・ 」
乃梨子の指先を見て、初めて自分が涙を浮かべていたことに気付いたとらが、不思議そうな顔をする。
「 嬉しくても、人は涙が出るのよ 」
「 ・・・ホントだ 」
とらが納得したのは、乃梨子の目から自分と同じように一粒流れる涙を見たからだった。
「 乃梨子も泣いてる 」
「 そうね。私も嬉しいからよ 」
自らの涙を拭おうともせず、乃梨子はセーラー服の襟元からロザリオを取り出し、そっととらの首に掛けた。
「 良く似合うわ 」
胸元で輝くロザリオを手に取り、とらは嬉しそうに見つめる。
乃梨子は、とらの首で光る銀のロザリオが白金色の髪と共に輝くのを見て、とても綺麗だと思った。
「 行こうか、とら 」
「 何処に? 」
「 薔薇の館。瞳子に・・・ いえ、皆にお礼を言わなきゃ 」
「 うん! 」
「 久しぶりに私が紅茶入れてあげるからね 」
「 やった! ・・・・・・お菓子もある? 」
「 もう、アンタはいつもそうなんだから 」
以前と変わらないとらを見て、乃梨子は幸せな気持ちに満たされながら、やさしくとらの手を握った。
とらも乃梨子の手をぎゅっと握り返すと、勢い良く手を振りながら歩き出す。
「 また一緒だね! 」
「 そうよ 」
乃梨子の答えに満足したとらは「えへへ」と笑って見せた後、さっきよりも嬉しそうな声で乃梨子に呼び掛けた。
「 ずっと一緒だね! 」
「 そうよ 」
まるで遊園地にでも出かける子供のように、ふたりは楽しそうに手を振りながら歩いて行く。
「 そうそう。私のこと“乃梨子”って呼び捨てにするの止めなさい 」
「 え・・・ 」
乃梨子の小言に、とらは少し悲しそうな顔になる。
「 ・・・騙さなきゃならない人達の前ではね 」
いたずらっぽく微笑みながら言った乃梨子のセリフに、とらはまた満面の笑みを浮かべる。
「 わかった! ネコかぶる時は“乃梨子さま”だな? 」
「 もしくは“お姉さま”ね。上手く使い分けないと、皆騙されてくれないんだから。できる? 」
お姉さまという呼び名に自分で照れて、微かに顔を赤くする乃梨子に向かい、とらはびしっ!と親指を立てたサムアップで答える。
「 だーいじょーぶ、まーかせて! 」
元気良く請け負うとらを見て「 ホントに大丈夫かな? 」と思いつつも、乃梨子は不思議と不安を感じていない自分に気づく。
( 大切なこの子のために、今なら何だってできそうな気がする )
つないだ手の温もりが、乃梨子に勇気を与えてくれる。
( ・・・志摩子さんも、私と姉妹になった時はこんな気持ちだったのかなぁ )
リリアンに入学した日、乃梨子は姉妹制度というものが理解できなかった。
でも今は、そんなことを思っていた自分が理解できない。
( 私もすっかりリリアンに染まっちゃったなぁ )
それは、姉である志摩子のおかげでもあり、親友である瞳子のおかげでもあり、山百合会という仲間達のおかげでもあった。
( でも何よりも・・・ )
隣りを歩くこの小さな女の子が、自分を“妹”から“姉”へと導いてくれたのだと、乃梨子は心からそう思うのだった。
手をつなぎ、歩く。
笑顔を交わしながら、歩く。
そんなふたりの歩く道を、梅雨空を割って降りそそぐ陽射しが、祝福するかのように照らしている。
明るく。
暖かく。