夏休みも終わりに近づいたある日。今日は山百合会での集まりは無い。
だから祐巳は、なぜここにいるのか分からなかった。
勘違いをしていたわけでは無い。その証拠に、朝はたっぷりと寝て、昼過ぎになってから
ふらりと学校に訪れたのだ。
まだ8月のうだるような日差しの下を、人気の無い桜並木を縫ってぼんやりと校舎へ向かう。
なぜここに来たのか。強いて言うならば「なんとなく」
あまり体育系の部活動が盛んではないリリアンでは、夏休みの前半にこそ練習はしていても
後半のこの時期、活動している部活動はない。
また夏の大会が終わった部活にとってはこの時期は唯一の休息日にもなっていた。
蝉の鳴声が喧しいのだけれど、酷く寂かだった。
普段、無垢な乙女たちの囁きに満ちている桜並木も、校舎も、森と静まり返って、まるで別世界のようだった。
だから校舎の入り口の近くで祐巳が「その人」を見つけたとき
やはり「その人」もまた、別世界の住人であるかのように錯覚する。
美しき異邦人は祐巳の知っている、藤堂志摩子という人によく似ていた。
「ごきげんよう、志摩子さん」
祐巳が後ろから声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返った。
「あら、祐巳さん、ごきげんよう」
少し驚いた表情のあとに、志摩子はふわりと笑った。
祐巳が、どうしてここにいるのかを訊ねると、彼女もまた「なんとなく」と答えた。
それで祐巳は何だか愉快になって、小さく笑う。志摩子もまた、祐巳が自分と同じように
「なんとなく」学校に来てしまったことを知ってコロコロと笑った。
二人は連れ立って、薔薇の館で一寸休憩することにした。
今日は少し風があって、ときどき焼けるように差す日差しが和らぐことがある。
薔薇の館でアイスティーを嗜みながら、祐巳と志摩子は何を話すでもなく窓の外を見ていた。
外から吹き込む風にカーテンがサラサラと揺れる音が耳に届き、それからアイスティーの氷がカランと崩れる音が響いた。
「静かね」
志摩子が呟いた。
今年最後のチャンスを物にしようと、必死に求婚の叫びをあげている蝉たちの声を聞きながら静かといってしまうのは申し訳ない。
そんな考えを浮かべて小さく微笑みながら祐巳は「うん」とだけ答えた。
長い沈黙の後、祐巳が口を開いた。
「もうすぐ夏休み、終わっちゃうね」
その声にはどこか寂しさが滲んでいる。
「そうね」
「ずっと山百合会の仕事で来てたから、今更って感じもするけどね」
「ええ、でも…」
志摩子は祐巳が笑いながら、それでも寂しそうな理由が何となくわかって声を出した。
「うん…」
祐巳も、お互いに同じことを思っていることを了解して、小さく呟く。
カーテンがまたサラサラと揺れた。
「ねえ、志摩子さん」
祐巳の言葉に志摩子は顔を上げる。
「教室に行ってみない?」
祐巳は何か楽しいことを思いついたように笑った。
「教室?」
「うん!」
志摩子は少し考えてから「ええ、いいわ」と答えてまたふわりと笑う。
それから二人はカップを洗うと言葉少なに薔薇の館を後にした。
言葉が無くても並んで歩ける。気まずいこともなく、心地よく歩けるこの関係が
とても好ましく思えた。
校内にはやはり生徒の影は見えなかった。
守衛さんはいたし、当直の職員もいるだろうから、全くの無人でも無いだろうが。
校舎に入ると、長い長い廊下が二人を迎えた。
普段沢山の生徒が行き来して賑わう廊下も、そろそろ西に傾きかけた日差しを受けて寂しそうにしている。
リノリウム張りの廊下は二人の上履きが立てる音を何度も反響させた。
「あら、祐巳さん?どこの教室へ向かうの?」
祐巳が、普段向かうはずの二年生の教室とは違う方向へ向かおうとしていることに気付いた志摩子は訝って尋ねる。
祐巳はそんな志摩子に笑顔で向き直って答えた。
「一年桃組の教室」
祐巳が不器用なウインクをしてみせる。
「あ」
志摩子が小さく声を上げた。
それは昨年、志摩子が祐巳と共に学んだ教室だ。確かに「教室に行く」というだけなら
祐巳は二年松組に、志摩子は二年藤組に向かうことになってしまう。
特に目的があったわけではないのに二人がバラバラになってしまうのは確かにおかしな気がした。
それでも祐巳の言葉に志摩子は聊か驚いていた。
そもそも今日二人が学校に来たのは本当に偶然で、だから二人には何の約束も無かったし一緒に行動しなければならない何の理由も無い。
現にここまで過ごした時間の中でどれだけ言葉を交わしただろう。
少なくとも志摩子は、祐巳が自分を背景か、或いはBGMのような存在として過ごしていたと思っていた。
しかし実際には、祐巳も志摩子もしっかりと相手を認識し、お互いがいるこの空間を心地よいと思っていたのだ。
そのことが、祐巳の「一年桃組に向かう」という言葉がなんだかとても嬉しくて、志摩子は柄にも無く
祐巳の手を握った。
今度は祐巳が少し驚いた顔をしたが、そのすぐ後に弾けんばかりの笑顔になった。
「行こう」
「ええ」
一年桃組の教室は、二人が学んでいた頃と殆ど変わっていなかった。
例えば張り出してある時間割が変わっていたこと。日直のところに書かれたままの名前や、座席表の名前が
知らない名前になっていたこと。そんなことだけ。
二人は懐かしい思いに駆られて教室の中をくるくると歩き回った。
相変わらずの南向きの窓からは強い西日が入ってきている。
その窓を開け放つと、白いカーテンがふわりと舞い上がった。
祐巳はその窓際の一番後ろの席に座って風を浴びた。
志摩子はその隣に立って、祐巳と窓の外に見える無人の赤い校庭と、青くて赤い繊細な雲の連なる空を交互に見ていた。
「私ね、志摩子さん」
祐巳は窓の外に目を向けたまま話し出した。
「何だかこの時期の教室って好きなんだ」
「去年も夏休みの後半に、水泳の補習があってさ、その時ここに来たんだけど…」
「あら、そうなの?」
「うん。それから初等部に通っていたときもね、やっぱり夏休みの誰もいない教室に来たんだ。
なんだかね、不思議な感じがするの。あんなに賑やかで、人いきれに溢れていた学校が、こんなに静かで…」
志摩子は祐巳の側に近づいて静かに頷いた。
「まるで皆の笑い声や、先生の授業や、テストにあせっせた自分や、そんなのが全部夢の中の出来事なんじゃないかって
そんな感覚に襲われるんだよね」
祐巳は少し照れくさそうに笑って続けた。
「でも、今こうして誰もいない教室で、ふわふわ揺れるカーテンを見てるとね。ああ、やっぱりこっちが夢なのかもなって」
志摩子が「ふふ」と笑ったのを感じて祐巳が振り返る。
祐巳の視線に、ごめんなさい、と断って志摩子が話し始めた。
「私ね、本当にいつのことだったか覚えていないのだけれど…祐巳さんと同じように夏休みの学校に来たことがあってね…
そのとき――多分小学生の頃だったかしら、一人で校庭や、体育館や、誰もいない廊下で踊っていたの。
いえ、それが現実のことかはわからないの。ただそうして誰もいない学校で、一心不乱に踊る自分の姿が頭の中に焼きついているわ…。
それは本当に、夢だったのかもしれないのだけれど…」
「不思議だね…」
「ええ、そうね」
二人はクスクスと笑った。
祐巳も、志摩子も今この相手とこんな話しをしていることが不思議で、今この時間こそが夢の中なんじゃないかと思う。
そうしてゆったりとお互いの思い出の中にある、ちょっと不思議な出来事を話し合っているうちに、校庭の木々の陰がずぅっと伸びて
辺りは真っ赤になっていた。やはり日はだんだんに短くなっているらしい。
「去年志摩子さんと、学園祭の頃まで碌にお話も出来なくて凄く勿体無かったなって思うんだ」
「あら、私もよ?祐巳さんともっと早くに仲良くなれていたら、きっともっと違った学園生活を送れていたはずですもの」
「志摩子さんはただでさえ美人なのに薔薇の館に出入りしてたし…やっぱり近寄り難いイメージがあったからね…」
「うふふ。それも今だから言えることではなくて?」
「うん、その通り。でも今でも美人なのには変わりないけどね」
「祐巳さんったら…」
窓からひときわ強い風が流れ込んでいて、いつしか祐巳の前の席に腰掛けていた志摩子の長い巻き毛を
白いカーテンと一緒にはためかせる。
それを見て祐巳が小さく「あ」と呟いた。
「去年、志摩子さんのこと私見てた」
祐巳が突然言ったことの意味がいまいち掴めず、志摩子は小首を傾げる。
「去年の一学期の終業式、志摩子さん確かこの席に座っていたよね?」
志摩子は少し考えてから「ええ、そうだったわね」と答えた。
「その日も今日みたいに風が強くて、やっぱり日差しも強い日だったんだけど…
私、なんとなく志摩子さんのほうを見てたんだ。
いつも真っ直ぐ前を向いている志摩子さんが、その日は何故か物思いに耽るように窓の外の景色を見てて…」
「ああ」志摩子も思い出したように呟いた。
確かにその頃、山百合会のことや、まだ姉妹ではなかった佐藤聖さまのこと、自分の立ち位置のことで悩んでいて…
だから夏休みという、距離の出来る時間に入ることに対して思っていたのだ。それに風が気持ちよくて、少しうとうとしていたのも事実。
その時のことも今となっては懐かしく思い出せるのだが、それとは別に、その姿を祐巳に見られていたことは
聊か恥ずかしく思えた。
「その時やっぱり今みたいに風が吹き込んで、志摩子さんの髪がカーテンと一緒にふわふわ揺れてたの」
祐巳は一度言葉を切って、それから感慨を吐き出すように、搾り出すように言った。
「凄く綺麗だった…」
「そんな…」
「本当だよ。今でも目に焼きついてる。何だかやっぱり夢の中みたいな風景で、天使様がいるって思ったもの。
きっとあのまま志摩子さんと仲良くなることが無くても、たとえ志摩子さんっていう名前も思い出せなくなっても
その時の光景だけはいつまでも忘れないと思う。きっと私のリリアンでの高校生活の思い出の一ページに
夢のような一葉のレリーフとしてずっと残ってる…そんな光景だったよ」
言い切った祐巳も、それから聞かされた志摩子の頬も僅かに赤みが差している。
「それはきっと…夢の中での出来事なのではないかしら…私もあの時少しうとうとしていたし…」
赤くなった顔を俯かせて言い募る志摩子に、祐巳も
「そうかもしれないね」と照れ笑いに混ぜて言った。
「だから、去年の夏休みも、今も、ここに来てしまったのかも…」
「あら、私のことを考えてかしら…?」
志摩子が赤い顔に少し悪戯な色を混ぜて訊ねる。
「そう…。夢の中の志摩子さんに会いに…」
祐巳も、夕日に照らされたのとは別の赤い色を浮かべた頬を緩めて答える。
「それならきっと今も夢を見ているのね…」
「そうだね…。ふふ、志摩子さん、今なら志摩子さんに『付き合ってください』って言えるかも」
おどけて祐巳が言う。
「私も今なら『喜んで』って応えるわ」
夕日が赤から紫色に変わり始めると、教室は次第に暗くなり始めた。
暑さも柔らかく解け、風とカーテンの白が二人の頬を擽り、夢うつつの世界を運び込む。
薄暗い一年桃組の教室の隅で、祐巳と志摩子の間で交わされた口付け。
それは果たして夢の中の出来事だったろうか。
夏休みが終われば夢は終わり、また慌しい毎日が始まる。
しかしこの時の夢は、また一生忘れられない思い出となって二人の心に残るだろう。
柔らかく甘い、唇の感覚と共に。