【No:2197】の続きです
志摩子さんの、私に対する気持ちが分かったからといって、私にはどうすることも出来ない。
由乃さんが聞いたらきっと贅沢な考えだって言うだろう。
志摩子さんにとって特別な存在。聖さまや乃梨子ちゃんと並べる存在になっただけでも
以前の私からすれば大躍進ではある。
だけど、それじゃ満足できないでいる自分。
志摩子さんの一番になりたい。いつも私のことを考えていて欲しい。
我がままな自分。
実際は一番どころか、二人よりもずっと希薄な間柄だ。
志摩子さんが私に安心感を、安らぎを求めているならば、それが得られなくなった時点で私の側にいる意味は無い。
私が少し考え込んだだけで不安そうな顔をする志摩子さん。
もし、そんなことが続けば――安心出来る存在でなくなれば――彼女は私の側では眠れないし
私は彼女の側から居場所を失うのだ。
だから、私がこんなエゴを抱いているなんて、気付かせてはいけない。
私の心のうちにある煩悶を、おくびにも出してはいけない。
私は気難しい祥子さまの妹をしてきた、素直じゃない瞳子の姉をしている、そしてなにより紅薔薇さまなのだ。
私は強くなった。だから隠しておける。いつも通り、志摩子さんに笑いかけることができる。
聖さまが薔薇の館に訪れてからの数日、私はそうして志摩子さんと過ごした。
彼女は疑うことも無く私に笑顔を見せてくれる。いつものようにキスをせがんで
二人でお弁当を食べ終わると、私の膝枕で夢の世界に旅立つ。
私は必死に自分を取り繕った。
彼女を失うことに怯えながら。そうして必死な自分は、彼女といる時間を純粋に楽しめなかった。
だからより、楽しそうに振舞う努力を要した。これが、悪循環ってやつか。
今日もお昼休み、お弁当を持っていつもの場所へ向かう。
道すがら、私はぼんやり考えていた。
(なにやってるんだろう……)
何だか、疲れていた。
もし、自分の取り越し苦労だったら?
本当は志摩子さんは私のことを、私と同じように『恋人』として見てくれているとしたら?
こんな自分の状態で、どうせ長く続くはずがない。
そのうち、志摩子さんにばれて、自動的に私の居場所を失うなら、いっそ私の欲望を彼女にぶつけて見たら?
案外、受け入れてくれるかもよ?
案外…。私は自嘲した。可能性は限りなく0に近い。
ぼんやりと考えながら歩いていたせいだろう、普段よりも随分遅く約束の場所に到着していた。
「祐巳さん!」
私の姿を見て志摩子さんが駆け寄ってくる。満面に笑顔の花を咲かせて。
私も微笑む。最近の自分がどんな顔で笑っているのか、鏡を見るのが怖いな、なんて思いつつ。
そのまま志摩子さんは私に抱きついた。
柔らかい感触。心地よい体温。
「よかった…。今日は来ないのかと思っていたわ…」
志摩子さんが耳元で呟く。
「ごめんね。教室を出るとき、クラスの友達に呼び出されちゃって…」
嘘だ。いつの間にこんなにサラサラと嘘が言えるようになったのだろう。
「そうなの」
志摩子さんは少しからだを離して、私の顔を見つめた。
疑うことを知らない笑顔。
見られたくなかった。けれど、目を逸らすことも出来なかった。
既にその無垢な笑顔を向けられる資格は私には無いような気がした。
いつのまに…なんで、こんなことになってしまったんだろう…。
志摩子さんが少し首を傾けて、背丈も殆ど変わらないのに少し上目遣いに私を見つめてくる。
ほんのりと頬を染めて。これは、キスのおねだり。いつもなら眩暈をおこしそうなくらい蠢惑的なその仕草も
何だか今は心憎くさえ思える。
思えばこの行為も、彼女にとっては、母親が子供を安心させるために額にするソレと同じような意味だったのでは無いだろうか。
あくまで親愛のしるしとして…。
ふいにさっと胸を黒い風が刷いたような気がした。
志摩子さんの頬に手を添える。少し顎を引かせて、正面同士。
ダメだ。ダメだ。
私の何かが警鐘を鳴らしている。
そんなもの、まるで聞こえていないかのように私はゆっくりと志摩子さんに顔を近づけていく。
私の何かが悲痛な叫びを上げると同時に、私の唇は彼女のそれに覆いかぶさった。
ビクリと震える肩。
いつもと違って強く押し付けられる唇に彼女は驚いている。
でも、もう止められなかった。
少し開かれた彼女の唇の隙間から、強引に舌をねじ入れると
それを彼女の口腔内で暴れさせる。志摩子さんの歯の列を割って、彼女の舌を絡めとる。
彼女の体は硬直している。
私の深いキスに、答えられる余裕もないくらい。
普段のそれに比べて、永遠とも思えるような長いキスの終わりは、志摩子さんの小さな小さな抵抗によって迎えられた。
息苦しくなったのだろう。彼女は俯くと、少し荒い息をして、それから私を見上げた。
その目にある感情。それは、戸惑い、恐怖――――
ああ、やっぱり……
分かっていた。こうなることは。こんな視線を向けられるであろうことも。
それは付き合い始めてからこっち、私が見たことも無かった志摩子さんの表情。一番、恐れていた表情。
「祐巳……さん…?」
怯えた声。聞きたくなかった声。
でもその声は紛れも無く自分に向けられていて、そしてそれを出させたのもまた紛れも無い私自身。
「ごめんなさい…」
私は言った。
「ごめんなさい…志摩子さん、ごめんなさい…私じゃ、志摩子さんの居場所にはなれない、みたい…。
ごめんね…」
「っ……」
志摩子さんは声にならない声を出して口元を覆った。
私を見つめる目が、潤いを帯びてきているのが分かる。
それ以上見ていることが出来なくて、背中を向けた。
「ごきげんよう…」
それだけ言うのが精一杯で、もう私はその場から逃げるように歩き出していた。
ただ志摩子さんの気配だけ、背中の後ろにずっと感じていた。
教室に戻る途中、由乃さんに会った。
私の顔を見た由乃さんは血相を変えて、階段の踊り場へと私を連れてきた。
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
数分前と違って、今の自分に興味が持てなかった。
もう志摩子さんの側にあった自分の場所を失ってしまった。だから自分がどんな顔をしていようが関係なかった。
「ちょっと祐巳さん…何があったのよ!?」
由乃さんが掴みかからんばかりの勢いで言う。
私はどう説明したものかも分からなくて、気の抜けた言葉を返した。
「別に…、由乃さんのアドバイスを実行したら、玉砕した…かな」
由乃さんのせいにしたら、少し気分が楽になって、物凄く虚しくなった。
「はぁ?志摩子さんに何かしたの?」
「うん…」
由乃さんが頭を抱える。一寸は罪悪感でも感じたのかな?
「バカね。無理って言ったじゃない」
違ったようだ。
「とにかくその顔、何とかしなさいよ。そんなんじゃ授業にも出れないわよ」
そう言って由乃さんがハンカチを取り出して私の目元をぬぐう。
そうされて初めて自分が泣いていたことに気付いた。
認識したとたん、私の口からも嗚咽が漏れ始めた。
それが止まらなくなって私は暫くその場で、しゃくりあげていた。
由乃さんがそっと胸を貸してくれなかったら、きっと休み時間が終わってもまだ泣いていた。
「この分じゃ白い方は5時間目はサボりね…」
由乃さんが心配そうに呟いたけれど、私にはその意味がよくわからなかった。
続く、しかないや