※1:オリジナルキャラクター主体です。
※2:時間軸は「黄薔薇革命」に合っています。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
私立リリアン女学園。
ここは、乙女たちの園――
島津 由乃の名前を聞いて、連想する言葉は多い。
か弱い。
美人。
女の子。
三つ編みお下げ。
黄薔薇のつぼみの妹。
一年菊組。
さらさら。
猫。
心臓の、病気。
冒頭の”か弱い”にも直接関わっているだろうその重い言葉は、だけど由乃さんを語る上では外せないものだ。
現国の授業中、何とはなくぼうっと教室を見渡していた一之瀬 桃花(いちのせ ももか)は、ふと目に付いた美人の横顔に見惚れながらそんなことを考えていた。
同性から見ても綺麗なものは綺麗だし、可愛いものは可愛い。それは同性、女の子だからこそ好きなもの。
素直に良いな、と思うし羨ましいな、と思う。
だから見惚れてしまうことは、健全な女子としてむしろ正常な反応だといえる。
多分。
そんな、うら若き女子(桃花のことだ)を授業中にも関わらずあっさりと虜にしてしまう由乃さんは、心臓を病んでいた。
正式な病名を知っている人はクラスに居ない。
病気の詳細を知っている人も殆ど居ない。
桃花ももちろん、そんな病名も詳細も知らないクラスメイトの一人で、漠然と”由乃さんの心臓には穴が開いているらしい”くらいのことしか知らなかった。
穴が開いていても心臓って精力的に動くものなのだなぁと感心する一方、穴に見え隠れする暗い影は桃花の胸を時々ぎゅっと締め付ける。
シンプルに、それは怖いから。
心臓は命と直結している。蓄えて送り出している血液は、文字通り命を運んでいる水だろう。
そのポンプに異変が起きている。
命を蓄えるダムに穴が開いている。
その表現はとても怖いものだ、由乃さん本人にしてみれば怖いなんてレベルではないだろうけれど。
桃花は何度か見たことがある。胸を押さえて、掠れた息を吐き出しながらうずくまる由乃さんの姿を。
”戦慄を覚える”という言葉の意味を実感したのは、それを初めて見た時だった。
春の頃の休み時間。窓の外をぼうと眺めていた由乃さんは、突然苦しみだした。
がたっと鳴らした椅子の音で、クラスの何人かがそれに気付いた。桃花もその一人だった。
けれど、小さな拳を硬く握り締めて、突っ伏した由乃さんの姿は余りにも衝撃的で。
級友が苦しんでいる、悶えている、その光景を眼前にしてただ脚が震えた。
全身が凍りつき、目の前がモノクロームにすり替わり、耳の奥で由乃さんの微かな喘ぎ声だけが響いて。
何もできなかった。
保健委員が先生を呼んできて、由乃さんがよろよろと連れられていく中、桃花は何もできなかった。
その小さな背中を目で追うだけで、一言も発せずに。
無力な自分に情けなくなりながら顔を戻すと、主を失った椅子が乱れたまま寂しそうに佇んでいた。
「そんなものよ」
お姉ちゃん、一之瀬 菫(いちのせ すみれ)はその日の帰り道でそう、小さく笑った。
「いきなりの人の一大事に冷静に対処できる人がそうそう居るもんですか。だから、そんなに気に病まなくても良いと私は思うわよ」
でも、とお姉ちゃんは続けた。
「次はきっと力になってあげましょうね。一度目は仕方がない。でも二度目はきっと何かできることがあるはずよ。二度目なんてないのが一番だけれど……ね」
その言葉に桃花はしっかりと頷いたけれども。
頑張ろう、ってちゃんと思ったけれども。
二度目に由乃さんが倒れた時、桃花はやっぱり――何もできなかった。
お姉ちゃんには言えなかった。
首を振り、現実の授業に戻ってきた桃花はついと由乃さんから目を逸らす。
教室の反対側で、秋山 茜(あきやま あかね)さんが暇そうに欠伸をかみ殺していた。
「そんなこと思ってたわけ」
「随分とまた唐突だねぇ」
「本当に。でも、わからないわけでもないですわね」
昼休み、寒風吹き抜ける銀杏並木にレジャーシートを広げての昼食会でのこと。
桃花、茜さんに李組の田辺 小春(たなべ こはる)さんも交えて三人で仲良くお弁当を広げていた。
今日の桃花のお弁当は鶏のから揚げ弁当。
お母さんのから揚げは絶品なので、ついつい箸も進んでしまう。
何度教わってもこの味はでないんだよねぇ、何でだろうと首を傾げながらもぎゅもぎゅ。
風になびくセミロングのウェーブヘアを片手で押さえながら小春さんが言った。
「今週のリリアンかわら版は賞の発表といいながらも、結局ベスト・スール賞のことだけでしたものね」
「そうか、黄薔薇のつぼみ姉妹が取られたんだよね。まぁ予想通りと言うか」
茜さんの言うとおり、ベスト・スール賞に選ばれた黄薔薇のつぼみ姉妹は必然だったと桃花も思う。
教え導く姉に、従い付き添う妹。
それから一歩踏み込んだ護り支える姉と護られ頼る妹という図式は、過ぎるまでに美麗だ。
令さまと由乃さんだからこその美ではあろうけれど、それでも現在のリリアンで成立してしまっている以上は仕方がない。
「これで黄薔薇も一面を飾って、晩夏の白薔薇、初秋の紅薔薇。晩秋の黄薔薇、というところかしら」
指折り数えながら、小春さん。
「言われてみればそんな感じだね。季節感もへったくれもないけどさ」
「いちいち薔薇の季節に合わせて話題提供なんてしないよ」
茜さんの突っ込みにくすくす笑いながら桃花が首を振った。
それなら、四季咲きの紅薔薇は年がら年中スキャンダラスじゃないといけないじゃないか。
祥子さまファンとしては、話題が飛んでくることは嬉しいけれど諸手を挙げて喜べるような状態とは思えない。
シーザーサラダをくにくにと弄びながら桃花は顔を上げた。
「あの写真の由乃さん、凄く幸せそうだったよね。ちょっとうっとりしちゃった」
するとスパゲティをちゅるんと飲み込んだ茜さんがうんうん、って同調する。
「何ていうか姉妹が云々っていうより、家族とか……恋人。うん、そんな感じの写真だったね。私にゃあの顔は無理だねー」
「まぁ、茜さんの顔ではねー」
「桃花ー、小春がいぢめるよぅ」
あははと笑った桃花がフォローを入れるか更にいじるかで悩んだ時、見覚えのある片お下げが視界の隅に入った。
ゆっくりと銀杏並木道を歩いていく姿は厳かで、どこか儚い。
桃花のお姉さま、天野 早苗(あまの さなえ)さまだった。
「あれ、お姉さま」
呟いた時にはもう膝上のお弁当を脇に除けている。
すっくと立ち上がった桃花が駆け出すと、「あらあら」「全く」なんて呆れた声が後ろから聞こえた。
「ごきげんよう、お姉さま」
並木道にぴょんと飛び出た桃花がご挨拶すると、一瞬驚いたように目を丸くされた早苗さまはすぐに微笑んで仰った。
「ごきげんよう、桃花ちゃん。やっぱりこの辺りでお食事を取っていたんですね」
陽光に煌く早苗さまの笑顔にくらりとくる。
ああ、今日も変わらずお綺麗なお姉さま。
桃花は早苗さまと姉妹になってからようやく半月を超えたくらいだけれど、日々傾倒していく自分を感じていた。
いやいや、だからって見惚れている場合じゃない。
その口振りからするとどうやら早苗さまは桃花を探されていたよう、何か用事があったのだろうから。
「はい、最近はちょっと寒いですけれど。お姉さまはどうされたんですか?」
一瞬だけ、お昼かなって思った。
だとすれば飛び上がって喜んでも良いところだけれど、残念ながら早苗さまの両手には何も握られていない。
お弁当の包みかパンの袋があれば、あるいはだったのだけれど。
「桃花ちゃんを探していました」
でもそんな一言を聞いてしまうと、桃花的にはもうとろとろである。
何だろう、わざわざ探して銀杏並木にまで足を運んでくださるなんて、そんな大事なことがあるのだろうか。
いやまて。
わざわざ探していらっしゃるということは、何も喜ばしいこととは限らないぞ。
むしろ、何かのお叱りを受けさせるために探されていたのでは――というかそっちの方がしっくりくる。
昨日の委員会では特に何もなかったし、帰りも至って普通だったと思うけれど、桃花が気付かなかっただけで実は何か大変なことをしでかしていた……なんて可能性は、なきにしもあらず。
「な、何でしょうか。私、何か失敗しましたか?」
思わずどもりながら問うた桃花に、早苗さまは不思議そうに「いいえ」と首を横に振って下さった。
「何も。昨日も一昨日もその前も、桃花ちゃんは頑張っていると思いますよ。失敗なんてとんでもありません」
そうして、そんな嬉しすぎる言葉の後に早苗さまは仰る。
「お姉さまを今日、見ませんでしたか?」
お姉さま。
早苗さまのいう”お姉さま”とは、図書委員会現会長の青田 百合子(あおた ゆりこ)さまのことだ。
お姉ちゃんのお姉さま(ややこしい)で、今年度から同じく三年生になるはずだった椎田 のどか(つちた のどか)さまが春から他校に転校されてしまったので、現図書委員会では唯一の三年生であられる。
とはいえ、夏休み明け以降から徐々に作業は二年生以下に割り振るという図書委員会の慣例に従い、会合も時々欠席されるようになっているので、桃花との直接の接点は余りなかったりした。
もちろん、お姉さまのお姉さまなので全くの無関係というわけではないのだけれども――
例えば、帰りを待ち伏せして一緒に帰りませんかと誘ってみたり。
お好きなスウィートを調べて(ちなみに早苗さまはモンブランが大の好物だ)、それを美味しく出してくれる喫茶店を探したり。
そんなことをするほど、お慕いしているという訳でもまたない。
というより実は、桃花は百合子さまが苦手だった。
委員会ではお厳しい方だったし、三年生と一年生という立場の差からどうしても前に立つと桃花が勝手に緊張してしまうということもある。
それに早苗さまと姉妹になってからも何度か三人で遊びに行ったことはあるけれど、どうも避けられていたような感があった。
百合子さまからしてみれば可愛い妹の横にいきなり現れた下級生ということで、やっぱり多少なりとも面白くないところはあるのだろうと思う。
だから桃花はその時ちょっとだけ、むっとした。
嫉妬だとかやっかみだとか、そんな大層なものではなかったけれども。
面白くない。砕いていえばそんな感情だっただろう。
けれどそれを抑えて桃花は努めて冷静に、首を横に振った。
「いいえ……今日はまだ、お会いしていませんけれども。百合子さまが、どうかされたのですか?」
すると早苗さまは小さく「そうですか」と呟いて肩を落とされる。
それがまたちょっと、面白くない。
思わず寄った桃花の眉にくすっと微笑まれた早苗さまは、そっと桃花の頭に掌を乗せられた。
「ごめんなさい、大したことではないのですよ。すれ違いが重なっていて、少し気になっただけですから……そんな時もありますね」
それは桃花に、というよりも早苗さまご自身に言い聞かせるような口振りだった。
さわさわと頭頂を撫でられる掌の感触は心地よいけれど、どこか心許ない。
百合子さまのことを気に掛けられる早苗さまにむっとしたり、面白くないなんて思った自分が浅ましく思えた。
「お姉さま」
たまらず、桃花は早苗さまを呼ぶ。
ごめんなさい。
けれど、口にしようとしたそんな言葉は続かなかった。
謝る明確な理由がなかった、早苗さまを混乱させるだけだと思った。
きっと、だからだ。
「さて、お昼の邪魔をしてしまいましたね。私は教室に戻りますから、桃花ちゃんも小春ちゃんたちのところにお戻りなさい」
そう仰って早苗さまは桃花の頭から手を除けられた。
桃花は反射的にきゅっと身を引き締めて背筋を伸ばす。
いざお別れのご挨拶と思った桃花の意に反して、早苗さまは不意にぽんと掌を打って仰った。
「そうそう、何度か言おうと思ってはいたのですけれど」
可愛らしく首を傾げられ胸に落ちた早苗さまの大きなお下げが揺れる。
「小春ちゃんたちとのお昼ももちろん良いですけれど、たまには一緒にお昼を取りましょうね。私も静かでいい場所を幾つか知っていますから。それでは、ごきげんよう」
そうしてぺこりと頭を下げられた早苗さまに、慌てて「はい、はい、ごきげんよう!」なんてやたらと元気に返してしまった桃花は、優雅に気品を漂わせて遠ざかる早苗さまの後姿をぼうっと見送った。
「早苗さまとお昼かぁ……良いなぁ。良いかもなぁ」
そんな二人を遠めに眺めていた、忘れられた二人はというと。
「写真の顔。意外に近くにあるもんだね」
「ええ。ちなみに茜さん、本当はもう一人、あの顔ができる方を私は知っていますよ」
「皆まで言うな小春。武士の情けだよ」
「ふふふ、かしこまりましたわ」
呆ける桃花を肴にそんな会話をしていたとか何とか。
〜〜〜
リリアンに旋風再び。
正にそんな言葉が適当な、大事件が勃発した。
新聞部題して「黄薔薇革命」。
強烈なインパクトのある写真と共にリリアンを席巻したその言葉は、間違いなく今年度リリアン流行語大賞であった。
黄薔薇のつぼみとその妹の姉妹関係が破局した。
姉妹関係の破局とは、珍しいが全く持ってありえないことではない。
事実、桃花の代にも何組か破局した姉妹があることを知っている。
但しそれは、お姉さまや妹が他校に転校してしまうというどうしようもない事情に基づいていたり、大喧嘩をしたり。
とにかく「姉が妹からロザリオを取り返す」という形に則ったものだった。
いわば、それが定例。
姉妹関係の正しい在り方、終わり方だ。哀しい幕切れであることは事実であるけれども。
黄薔薇革命は違った。
山百合会幹部の破局という時点で非常にスキャンダラスなことだけれど、それ以上にスキャンダラスな事実がある。
それは、由乃さんが令さまにロザリオを返上したということ。
つまり「妹が姉にロザリオを突き返す」という形をとったことだ。
かわら版によると、自分の体調不良が令さまの未来を潰してしまうのではないかと憂慮した由乃さんが、泣く泣くロザリオを返した、とあった。
その苦悩を隠すためにわざわざ怒りに任せて突っ返したような演技までして、何と健気なリリアンの妹であろうか云々と続いていた。
菊組の入り口辺りで、迎えに来た令さまと押し問答をしていた由乃さんの姿が演技であったかどうかは正直、桃花にはわからない。
ただ現実として、黄薔薇革命を大々的に取り上げたかわら版はリリアン中に広まり、学園全体にアンニュイな雰囲気が満ちていて。
そして、由乃さんがあれ以来欠席を続けているということだけがあった。
一年菊組は、その中でまるで世界から切り離されたかのように浮いている。
革命が始まった場所であり、実際に目の当たりにした生徒が多い為ために、クラス単位で記事を鵜呑みにできないでいるからだ。
「また、一組あったってさー。どこの誰かは知らないけど、やっぱりマリア様のお庭で」
一時間目と二時間目の休み時間、桃花の席にやってきた茜さんは開口一番そう言った。
ふうんと鼻を鳴らす桃花は、窓の外に視線を向ける。
抜けるような青空の下、マリア様のお庭に続く銀杏並木で枯葉が舞っていた。
「何でだろうね。まるで皆、追い立てられてるみたい」
今回の革命は、主導権が妹にある。
だから一年生であるため妹にしかなり得ない桃花たちにこそ、大きな影響があった。
革命によって泣いているのは、主に振った側の桃花たち一年生だ。
自分は姉の妹として相応しいだろうか?
その疑問は確かに、妹になるとき。妹になったあと。ずっと妹たる桃花たちの胸で燻る疑問の一つだと思う。
桃花も、早苗さまのロザリオをお受けする時にそれは悩んだことだ。
今でもその疑問が全くないか問われれば、十全の自信を持って頷くことはできないでいる。
でもその疑問を抱かなくなってしまうと、妹は姉に対して高慢になってしまうだろうから。
だから悩み続けることは決して悪いことじゃないと桃花は思っていた。
相応しいかどうかわからないからこそ、妹は自分を磨こう、姉をもっと見習おうと思えるはずだから。
でも。
「追い立てられてるんだろうさ。この空気じゃ仕方がない」
諦念を込めた溜息が茜さんの口から漏れた。
茜さんの言うとおり、今のリリアンはその疑問をあらぬ方向へ捻じ曲げる空気に満ちている。と思う。
もしくは、疑問を不安にすり替える不思議な力が働いているというべきか。
そしてその力は、やがて不安を諦め色に染めてしまう。
その結果、泣き濡れる妹と呆然とする姉という革命姉妹を量産しているのだろう。
「でも何だか、こうしてみると不思議ね。浦島太郎になった気分だよ」
「さしずめ竜宮は図書館ってとこか。うん、そんな感じ」
図書館、すなわち図書委員会関連の姉妹にとって、今回の革命は正に対岸の火事だ。
そもそも桃花と早苗さま、茜さんとお姉さまの平坂 紫苑(ひらさか しおん)さまの姉妹はつい最近に結ばれたばかりで、疑問に捕らわれて身を引くにはまだまだ熱があり過ぎる。
お姉ちゃんとのどかさまは今やリリアンの空気が間に挟まっていないし、早苗さまと百合子さまはもう足掛け一年半の熟年姉妹。
良い意味での惰性が働いているので、今更望んで波風を起こすようなことはしないだろう。
もっとも、革命を引き起こしたカップルは足掛け一年半の熟年姉妹そのものであったわけだけれども。、
「そんなことよりもさ、茜さん紫苑さまから何か聞いてない?」
「ん? 何を?」
学園の一大事を”そんなこと”で切り捨て、桃花は茜さんに向き直った。
「お姉さまの、こと」
早苗さまは、最近少しおかしい。
図書館や帰り道でも時々ぼうっとしているし、桃花が聞いても「大したことではないんですよ」の一点張り。
この前誘われた”一緒にお昼”も中々そんな雰囲気では言い出し辛くて、未だ実現はしていない。
どうも百合子さまの影が見え隠れはしているのだけれど、まさか本人に直接確認しに行くなんてできないので、桃花としては日々をひたすら悶々と過ごすしかなかった。
「早苗さまのこと? ああ、うーん、そうだね。どうしたんだろうね、みたいな事は話したことがあるから、お姉さまも知らないんじゃないかな」
「うーん、そっか」
「あ。ちなみに『思春期なんだから悩みの一つや二つ、百も二百もあっておかしくないわよ』とは若ちゃんの弁ね」
お気楽極楽な司書さんのコメントに桃花は苦笑いして、もう一度窓の外を向いた。
いつしか風は止んでいて、人通りのない並木道が寂しく続いていた。
その日の帰り道。
図書館を閉め終えた委員会の面々は、揃って正門への煉瓦道を歩いていた。
日は暮れて、首筋を走り抜ける風は肌を刺すように冷たい。
前に二年生お三方、後ろに一年生三人といういつもの隊列で道を往く桃花らの話題はといえば、もちろん流行最先端の黄薔薇革命。
で、は、な、く。
「百合子さま、本当どうされたんだろうね」
目下図書委員会としては本日に急浮上した”百合子さま失踪疑惑”である。
いや、それは少し違った。
疑惑ではない。本当に失踪されてしまっているのだ。
ここ何日か続いている早苗さまの憂鬱。
原因はそれに違いなかった。
百合子さまは、由乃さんが学校を休み始めた丁度その頃から学校を休んでおり、ご家族の方に早苗さまが問い合わせても「心配ないから」以外の返答が得られない、とのこと。
公的には長期の病欠ということになっている。
それが言い渋る早苗さまから、本日どうにかこうにか聞き出した状況だった。
公的な線(学園)と私的な線(早苗さま)の両方から問いかけて満足な返答が得られない以上、もう打つ手はない。
ただ漠然と、百合子さまがいらっしゃらない現実が広がっているだけだ。
間違いなくその所為で、今や早苗さまは傍から見ていてお気の毒なほどにやつれられている。
妹として何とかお力になってさしあげたいのだけれど、そもそも一番の接点である早苗さまが手詰まりな時点で桃花にはどうしようもない。
「本当に。ご病気だなんて心配だけど、それよりも連絡が全くつかないってのが不安よね」
だから桃花はそんなことを愚痴っぽく漏らすしかないのだ。
「小春はどう思う?」
頷いた茜さんも同様な諦めたっぷりな溜息と共に小春さんに振る。
返答はなかった。
小春さんは俯いたまま、ふらふらと桃花の隣を歩いている。
「小春さん?」
桃花も名前を呼んでみたけれど、やっぱり答えはない。
見ると、口元は細かく震えて眼が虚ろだった。
覗き込んだ桃花にも気付かない。
「ちょっと、小春さん? 小春さんってば」
「どうしたの? 小春、ねえ、大丈夫?」
慌てて桃花が肩を掴んで揺すると、それでやっと気付いたように小春さんは顔を上げた。
街頭に照らされた真っ青な顔は、今にも倒れてしまいそう。桃花は眼を剥いた。
「ああ……ええ……大丈夫よ。私は、私は大丈夫」
そんな信憑性のかけらもない言葉をのたまって、小春さんは小さく首を振る。
寒風に揺れる髪が余りにも心許なかった。
今回の事件で、一番衝撃を受けたのは意外なことに小春さんだった。
それは早苗さまに掴みかからんばかりの勢いで取り乱して、桃花と茜さんが二人掛かりで押さえたほど。
見知った方が居なくなるなんて異常事態、いつも冷静な小春さんでも許容できるものじゃないんだろう。
当たり前だ。
それが痛々しくて、桃花は前を向いた。
ゆったりと暗がりを往くお姉ちゃんと早苗さまの背中。
小声で話されているので何を話しているのかはわからないけれども、何だか桃花たちを突き放しているようなその背中が腹立たしい。
まぁ、それはお姉ちゃんの背中だけだけど。
桃花は一瞬茜さんと目を合わせた後、歩幅を広げてお姉ちゃんの隣に並んだ。
急に出てきた桃花に驚いたお姉ちゃんが「どうしたの」なんて言ってきたけれど、どうしたもこうしたもない。
桃花は眉を吊り上げて言った。
「菫さまは何か、本当にご存じないんですか? 百合子さまの行方、どこか心当たりは?」
「全く。姉妹っぽくなって来たわねぇ、桃花も早苗も同じことを聞くんだもの。知っている訳ないでしょう、そもそも百合子さまとの繋がりは早苗が一番強いんだから」
苦笑しながら片手を振るお姉ちゃんの姿に、でも、桃花のお姉ちゃん判定装置が異常を知らせるようにピンと鳴った。
どうしてお姉ちゃんは笑っているんだろう?
一年生の桃花たちは不安に駆られて、小春さんなんて可哀想なくらいに狼狽しているのに。
二年生の紫苑さまも持ち前の明るさをどこかに置き忘れたように声のトーンも上げられないでおられるし、早苗さまに至ってはご自身のお姉さまということもあって憔悴しきっているのに。
失踪なんて気にならないほどにお姉ちゃんと百合子さまの繋がりは希薄?
ありえない。
お姉ちゃんと百合子さまは共に図書委員会でやってきた仲、時間だけなら早苗さまと百合子さまの関係に勝るとも劣らないのだ。
本当なら、早苗さまと同じくらいとはいわないまでも、桃花たちよりは不安で心配になっているはず。
だというのに、どうしてお姉ちゃんは笑っていられるんだろう。
冗談交じりに桃花をあしらってしまえるのだろう。
「あ」
わかった。
お姉ちゃんは知っている。百合子さまの容態、行方、その他諸々をきっと知っている。
だからこその余裕、だからこその苦笑。
でも何故?
何故お姉ちゃんはそれを知れたのか? どこからそれを知り得たのか?
「どうしたの、桃花。急に黙っちゃって」
ん? と覗き込んだお姉ちゃんの眼鏡に遠い街頭が映り込む。
その向こうで、神妙な顔をした紫苑さまも桃花の方を向いていた。
お姉ちゃん。
お姉ちゃんと早苗さま。
お姉ちゃんと早苗さまと紫苑さま。
お姉ちゃんと早苗さまと紫苑さまと百合子さま。
「ああ」
わかった。
図書委員会における学年上位はそれだけじゃない。
いや、今はそれで全てだけれども、それだけじゃない。
「お姉ちゃん……のどかさまは、何て?」
びしり。
お姉ちゃんの顔が引き攣った。
ビンゴ。
去年までの図書委員会は、お姉ちゃんと早苗さまと紫苑さまと百合子さま、それにのどかさまが居られた。
のどかさまは百合子さまのご親友であり、また、お姉ちゃんのお姉さまだ。
そこに繋がりがある。
親友と、その妹。
百合子さまの強い私的な線は一本だけではなかったのだ。
その末端が、お姉ちゃんの手元にある。
「も、桃花、学校ではそう呼んではいけない約束でしょう」
「菫さま! のどかさまはなんと仰っているんですか? ご存知なんですよね。百合子さまのこと!」
皆の歩みは止まっていた。
桃花の大声が人気のない銀杏並木に響き渡り、お姉ちゃんは半歩あとずさろうとして失敗した。
背後には、早苗さまが居られたからだ。
その背中に手を添えて、じっとお姉ちゃんの後頭部を見つめる早苗さまが居られたからだ。
「そっか。のどかさまの線があったか。盲点だったな――菫」
更にその背後から、お姉ちゃんの横に回りこんだ紫苑さまがお姉ちゃんの右肩に手を置かれる。
その眼は今まで見たことがないくらいに鋭く強く、胸中の怒りだか何だか、ともかく激しい感情をこれでもかというくらいに表現していた。
「一度だけ聞くよ。菫……百合子さまは、どこにいる?」
静かな声、一切のごまかしを許さない厳しい声。
お姉ちゃんはそれを真っ向から見返した。
風が吹く。
木々が嘆く。
やがて落ちたのは、小さな溜息が一つだけ。
「病院よ」
その口から出た言葉は意外なような、そうでないような不思議な響きを持っていたけれどもそれ以上に。
やっぱり、知っていたんだ。
そんな、絶望染みた事実が桃花の胸を締め付けた。
きっとそれは、早苗さまにとっても同じことだったに違いない。
〜〜〜
果たして、百合子さまはそこに居られた。
四人部屋の奥側、ドアから入って左手のベッド。
斜陽に紅く染まった病室で身体を起こし、ヘッドホンで音楽を聴きながら何か本を読まれている。
唖然とした。
お元気である。
入院しているとはいえ、見える範囲には包帯は巻かれていないし、点滴のチューブもない。
それどころか、かなりくつろいでおられる。
唖然とした。
早苗さまを苛み、紫苑さまから余裕を奪い、茜さんを不安がらせ、小春さんを蒼白にした本人が悠々と本を読んでいる。
怒りが沸くよりもただ、桃花は呆然とするしかなかった。
お姉ちゃんからカミングアウトされた翌日の放課後。
面会にやってきたのは、早苗さまと桃花。それに、小春さんの三人だった。
先ずは桃花と早苗さまだけで行くのが良い、と言ったお姉ちゃんだったけれど小春さんはがんとして譲らず、今桃花の隣で固まっている。
それはそうだろうなぁ、桃花だってこんな馬鹿げた光景は予想外――
「百合子さま……っ」
なんて思っていた時。
小春さんが駆け出していた。
桃花はもちろん、早苗さまよりも早く。
つまり誰よりも早く。
小春さんが、百合子さまの下へ駆け出していた。
小春さんがベッドまで辿り付くと、気付いた百合子さまが顔を向ける。
「え」
とか何とか仰りながら半ば強引にヘッドホンの紐を引っ張って耳から外された。
「百合子さま、お元気で、お元気で! 良かった、お元気でいらっしゃったんですね」
小春さんはお布団に縋るようにしてその場にくず折れる。
声は怒りや驚きなんて何もなく、純粋な喜びに満ちていた。
泣き出してしまいそうな歓喜がそこにあった。
「あ、え、小春ちゃん? どうして? どうしたの?」
逆に唐突の訪問に混乱したのは百合子さまの方のようで、縋りつく小春さんに慌てながらどうにか宥めようと頭とか肩とかを撫でられている。
「ああ、百合子さま、良かった、本当に良かった」
小春さんはぎゅっと布団の端を握り締めて、ひたすらに「良かった」を繰り返す。
その姿は生き別れた家族と再会したかのように感動的で、当事者であるはずの桃花たちを置いて世界が区切られていた。
ああ。
ああ、そうだったの。
小春さん。
いまだぼうとする桃花の中に、そんな言葉が明滅する。
知らなかった。気付かなかった。
知れなかった。気付けなかった。
でも、それなら昨日の表情も頷ける。
何て、本題からはちょっと離れた事実に一人納得している桃花の隣から、ゆっくり動く影が一つ。
言うまでもない。
早苗さまだ。
「お姉さま」
「」
早苗さまの声に、必死に小春さんを宥めていた百合子さまが顔を上げる。
それで百合子さまの手が止まり、小春さんも改めて気付いたように慌てて立ち上がって早苗さまのために道を開けた。
桃花は早苗さまに付いて、ゆっくりと百合子さまに近づいていく。
歩いていくうちにだんだんと怒りが込み上げて来た。
ここ数日の鬱憤が、一歩足を踏み出すごとに身体の中から溢れてくるように。
「待って」
けれど、百合子さまが手を挙げて早苗さまの脚を止めた。
もちろん桃花もそれに合わせて歩みを止める。
「場所を変えましょう。中庭が気持ちよくて良いのよ」
仰ってベッドから降りられた百合子さまは、先導するようにすっすと病室の扉に向かわれた。
その揺るぎない足取り――即ち全快の体調が、桃花の胸に火を点ける。
「何を考えていらっしゃるんですか」
中庭のベンチに座った百合子さまに向けた、桃花第一の言葉は棘に満ちていた。
自制しようという意思は初めからなく、胸をひたすらに焼き尽くす怒りだけが桃花を突き動かしている。
ベンチに座ったのは百合子さまと、早苗さま。勧められた桃花は断った。
ちなみに小春さんは、「顔を洗うついでに皆さんの飲み物を調達してきますわ」と言い残して行ってしまった。
いつもは怖い百合子さまだけど、今の桃花に怖いものなんて何もない。
拳をぐっと握り締め、百合子さまを睨みつけた桃花は火を噴く。
「皆が、お姉さまが、どれだけ心配したと思ってるんですか! 入院なさっているならそう仰ってくだされば、皆お見舞いに来ましたし、心配で不安になることもなかったのに!」
「桃花ちゃん」
「いいえ、お姉さま。言わせて頂きます、例え失礼でも何でも、私は言わせて頂きます! 百合子さま! 何を考えていらっしゃるんですか、皆に、お姉さまに心配を掛けてそんなに楽しいですか!」
早苗さまの台詞を遮り、桃花は捲くし立てる。
百合子さまはそんな桃花を真正面から見据えて、口をぎゅっと閉じていた。
反論する気力もないのだろうか、それが桃花の勢いを助長する。
「酷いですよ! ご家族の方に口止めまでして、私たちを避けるなんてどういうことですか! 例え引退なさっても、私たちは委員会の仲間ではなかったのですか! お姉さまがどれだけ心配なさったか――百合子さまの」
「桃花!」
――。
鉄でも溶かせそうなくらいに燃え上がっていた桃花を、一喝する声が飛んだ。
思わずびくりと全身が強張り、言葉が途切れる。
冷水を浴びせられたように、桃花の激情が急激に落ち込んだ。
「言葉が過ぎますよ。落ち着きなさい」
続いた言葉は早苗さまのお言葉とは思えないほどに冷たくて、夕暮れの中庭に吹き抜ける風よりも桃花を凍えさせる。
厳しい眼差しが、桃花に突き刺さっていた。
痛い。
胸が痛い。
その痛みが、叱られたことから来るのか、それ以外から来るのか、桃花にはわからなかった。
百合子さまを糾弾しようとしたことの根底は、早苗さまにあるのに。
早苗さまを精神的に追い詰めたことを怒っているのに。
本人である早苗さまから止められてしまっては、もう桃花には為す術はなかった。
「妹が失礼いたしました……お姉さま。説明をお願いいたします。包み隠さず、一切に」
やがて俯いてしまった桃花は、頭上から聞こえてきたそんな言葉に目頭が熱くなる。
哀しかった。
悔しかった。
それでも、泣いたらきっといけない。
ここで泣いたらきっといけない、そんな訳のわからない気持ちに引き摺られて、桃花は俯いたまま必死で涙を堪えていた。
「のどかから聞いたのね? 良かったわ……明日の昼には退院だったから。もうこれ以上引き伸ばせないってお医者さまからも親からも言われていたのよ」
「お姉さま。説明を、お願いいたしています」
「っ」
「」
俯いたままの桃花には、どんな表情で今早苗さまと百合子さまが向き合われているかはわからない。
ただ、先ほど桃花を叱責した時の口調と、今の早苗さまの口調は全く同じように聞こえた。
はぁっ、と溜息が一つ。
「盲腸よ」
「は?」
「だから、盲腸。腹痛の凄い版」
「へ?」
早苗さまの名誉のために説明すると、一度目の「は?」は早苗さま。二度目の間抜けな「へ?」は思いがけず顔を上げてしまった桃花の声だ。
百合子さまは困ったように眉を寄せて、首を小さく横に振る。
「家に帰った途端急に痛くなってね、その日のうちに緊急入院してそのまま手術。夜になる頃には目覚めていたわ、その頃はまだちょっと傷が痛んでいたけどね」
早苗さまと桃花はぽかんと口を半開きにしたまま固まってしまった。
だって、え、盲腸?
それって今のご時世、一週間も入院しないといけないこと?
ていうか、え、それなら普通に仰ってくださっても良かったんじゃ?
頭の中で疑問符をいっぱいに飛び交わせる桃花を置いて、百合子さまは仰った。
「それでね、これはきっと良い切っ掛けになる……って、思ったの。その日の晩。目覚めてすぐに」
「切っ掛け……ですか?」
問い返す早苗さまの言葉にも力がない。
桃花には問い返す力すらない。
「そう。私は、怖かったのよ。とても。自分でも信じられないくらいに」
百合子さまはちらりと桃花を見た。きっと始めて見る、それは優しい眼差しだった。
でもどこか哀しいお顔だった。
桃花が意味を計る前に、百合子さまは早苗さまに向き直られる。
「早苗。私のロザリオ、今も持っているかしら? 私のあげた、私とあなたの目に見える絆。姉妹のロザリオを持っている?」
ロザリオ。
ロザリオ?
不意に飛んできたそんな単語に桃花は小首を傾げる。
何故か早苗さまと目があった。
早苗さまは小さく首を横に振る。
「いいえ……今はもう、ありません」
「えっ!」
口を挟んではいけない雰囲気だったのは良くわかっていたけれど、それでも桃花の口は勝手に動いていた。
ロザリオがない? 百合子さまと早苗さまのロザリオが、もうない?
それはまるで破局宣告、リリアンの旋風、姉妹革命。
いや、百合子さまがお聞きになったということは突き返したということではない。
外されたのだろうか。捨てられたのだろうか。
何故。何故。何故。
一人大混乱する桃花を尻目に、百合子さまは全く驚きを見せずに「そうね」なんて余裕たっぷり頷かれた。
そうね、じゃない。そうね、じゃないですよ百合子さま!
狼狽する桃花は、何故か早苗さまと再び目があった。
あ。
錯覚だろうけれど、いきなりずしっと首に何かが圧し掛かる感触がした。
今、桃花の首には早苗さまから頂いたロザリオが掛かっている。
目に見える絆。姉妹のロザリオ。
「姉妹の契りに、新しくロザリオを用意する人が居ればお姉さまから頂いたロザリオを授ける場合もあるわ。早苗の場合は、後者を選んだのよね」
つまりが、そういうことなのだろう。
今桃花が掛けているロザリオは、以前に早苗さまが掛けていたロザリオなのだ。
百合子さまと早苗さまの目に見える絆として、授けられた大切なそれなのだ。
桃花は無意識に服の上からロザリオを掴んだ。
「私はそれが――怖かった」
百合子さまの小さな声が、風に消えてゆく。
「早苗に気になる子ができたと聞いた時は、驚いたわ。嬉しかったし、ほんのちょっぴりだけ寂しかった。でもそれはどんな姉妹も通過する節目のようなものだからね。私はただ見守るだけだった」
「それが桃花ちゃんだってわかった時は、本当に嬉しかったわ。桃花ちゃんは私の言うことを良く聞いてくれる素直な子だったし、私もちゃんと好きだった。図書委員会に来てくれて本当に良かったわって、早苗、私はあなたにも何度か言ったわね」
百合子さまから意外な評価を受けていたことに桃花は素直に驚いた。
桃花は怖い先輩、というイメージが先行していつも恐縮していたけれど。
本当はそこに、先ほど向けて頂いたような優しい眼差しが混じっていたのかも知れなかった。
気付けなかった自分を桃花は悔いた。
「そうして、桃花ちゃんがロザリオを身に着けて、早苗がロザリオを外して。その姿を見た時に私は何だか、物凄い喪失感を感じたの。私のロザリオが早苗の首にない。私のロザリオが――早苗じゃない誰かの首に掛かっている。それはまるで」
「それはまるで、私と早苗の繋がりがなくなってしまったように思えて。そうとしか思えなくて。私は醜い感情に取り付かれたわ」
醜い感情。
疑心?
嫉妬?
憎悪?
百合子さまはそのどれとも仰らなかった。
だからきっと、その全てが当てはまるのだろうと思った。
「早苗を避けて、桃花ちゃんを避けて。大人気ないって思いながらも、どうしてもあなたたちを直視できなくて。だから私は病室のベッドで目覚めた時、これは切っ掛けになると思ったの」
「もし、私の不安どおり私が早苗たちから切り離されているのなら、一度距離を開けば二度と縮まることはないだろう。まだ私が早苗たちの傍に居るのなら、開いた距離をきっと可愛い妹とその妹は詰めてきてくれるだろう。そんな賭けの、ね」
馬鹿なことだ。
失礼ながら、桃花は端的にそう思った。
切り離されるわけがない。切り離せるわけがない。
早苗さまがどれだけ百合子さまを想っているか、ご存じないのだろうか。
桃花たちがどれだけ百合子さまをお慕いしているか、ご存じないのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。
ご存じていて、わかっていて、それでも尚、”醜い感情”はそれを否定に掛かったのだろう。
「百合子さま」
「お姉さま」
桃花と早苗さまの声が被った。
だけど、抱きつこうとした桃花の動きと早苗さまの動きは被らなかった。
ぱちん、と音を立てて早苗さまの両手が百合子さまの頬を挟む。
挟むだけにしては勢いのあった手の動き、大きく音を立てたことはきっと早苗さまの失敗ではないはずだ。
「酷いですよ……そのお言葉はあんまりです。私はお姉さまの妹です、これまでも、これからも。ロザリオが必要だと仰るのなら、どうかもう一度私にお授けください。私は何度でもそのロザリオをお受けいたします」
「早苗」
「お姉さま。信じてください。私たちは姉妹ではないですか。二人が三人になっても、それは三人が姉妹になったというだけではないですか。私たちは、三人でリリアンの姉妹ではないですか」
歩み寄って、百合子さまを挟んで早苗さまの反対側に座った桃花は、ベンチに突かれていた百合子さま左腕の袖をきゅっと握った。
桃花が良いたいことは全て早苗さまが仰ってくださっている。
わざわざ改めて言うことは何もない、ただ、その姉妹の末端に位置する者として。
私はここに居ますと主張するために。
桃花はただ袖を握った。
万感の思いを込めて、握り締めた。
開いたままだった百合子さまの左手が、ぎゅっと握られる。
伝わったんだ。
それがわかった。
改めて抱きついた早苗さまを右腕に、そうして袖を掴んだままだった桃花を左腕に抱き抱えて。
「そう……そうね。ありがとう早苗。ありがとう、桃花ちゃん。そうだわ、私が馬鹿だった」
ぎゅっと腕に力を込められる。
百合子さまの温もりが制服越しに伝わって、桃花は百合子さまに寄り添った。
「ふふ、でもこれじゃあ誰が姉(グラン・スール)かわからないわね」
百合子さまはそう呟き、小さく鼻をすすって笑われた。
歪な三人の抱擁は、屋外の冷たい風を全く忘れてしまうくらいに暖かなものだった。
その、帰り道でのこと。
「でもお姉さまが学校を休まれていたのはある意味で良かったのかもしれませんね」
右手に早苗さま、左手に小春さんを連れて夕闇の街路を往く中で、早苗さまは仰った。
「そうですね。革命のことがお耳に入ればもっと苦慮されたと思います」
「直接当てはめれば桃花さんと早苗さまでしょうから無関係でしょうけれども、タイムリーにも程がありますわ」
同意した桃花に続いて小春さんも首を縦に振る。
姉妹の破局。
それは今の、というよりも少し前の百合子さまにとってはタブーもタブーだろう。
だから病院で休まれていたというのは、そしてその間に問題が氷解したというのは、本当に幸運だったと思う。
早苗さまは「ええ」と微笑んで頷かれた。
「でもごめんなさい。桃花ちゃん、小春ちゃん。大きな心配を掛けてしまいましたね。妹として私からも謝らせてください。本当に、ごめんなさい」
――。
むっ。
「いえいえ、とんでもないです。確かに心配は致しましたが、結局何事もなかったんですからそれ以上に望むことなんてありません。ね、桃花さん?」
気付いた。
気付いてしまった。
今までは余り気にならなかったけれど、気付いてしまった。
桃花ちゃん、小春ちゃん。
今の呼ばれ方だと、早苗さまの中で桃花は小春さんと同列ということではないだろうか?
「はい、私ももう気にしていません。早苗さまの方が余程でしたから、今日はゆっくりお休みになってください」
にっこり笑ってそう答えた桃花の言葉に、早苗さまも安心されたようにほっと胸を撫で下ろして。
でもすぐに、「あら?」と愛らしく首を傾げられた。
「桃花ちゃん、今、何て言いましたか?」
そんな仕草をしたって駄目なのだ。
我ながら幼稚だなぁと思いつつも、桃花はぷいっと顔を背けていった。
「最近は早苗さまの方がご心労をお抱えでしたでしょうから、今日はゆっくりとお休みになってくださいと申し上げただけです。早苗さま、お疲れでしょう?」
それからしばらく無言の時間が続いて。
やがて、くすくす笑いながら早苗さまは仰った。
「ありがとう、そうしますね。ああ、そうだわ。明日のお昼は一緒に食べませんか? 今日ゆっくり休んで、明日は私が腕によりを掛けてお弁当を作ってきますから」
わ、と小春さんが口に手を当てた。
「えぇ、えぇ、是非そうなさってください! 桃花さん、良かったじゃないの、お昼は早苗さまお手製のお弁当ですって!」
「え、えぇ、それはもちろん喜んで。喜んで、ですけど――」
内心飛び上がりそうになる自分を一所懸命に抑えて、桃花はどうにかこうにか言葉を紡ぐ。
違う。
違うんです、早苗さま。
桃花が望んでいるのはそんなことではなくて――いやいや、それは本当嬉しいんですけれども。
雨が降っても槍が降っても、這ってでも行きますけれども。
でも、でもですね?
「さっきお姉さまに突っかかってくれたのも、本当はとても嬉しかったんですよ。そのお礼も兼ねて……良いですか?」
「桃花」
聞こえた。
聞こえたっ!
「はいっ、お姉さま!」
振り返って見たお顔は、少し照れて、少し呆れて。
桃花の大好きなお姉さまのお顔だった。