※1:オリジナルキャラクター主体です。
※2:時間軸は「ウァレンティーヌスの贈り物(前編)」に合っています。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
私立リリアン女学園。
ここは、乙女たちの園――
激動の生徒会役員選挙が終われば、もう二月。
二月といえば、世界共通の愛の日。バレンタインデー。
女子校であるリリアン女学園ももちろんその例には漏れない。
一日、一日近づいてゆく中で空気は徐々に変わってゆく。
妹は趣向を凝らして、お姉さまに渡すためのチョコレートを用意して。
姉はもちろんそれを期待して、「でももしかしたら貰えないかも」なんてありえない想像に悶えて。
街が色付くのにあわせて、リリアンも染まってゆく。
チョコレートと一緒に、大好きな人へおおっぴらに想いを伝えることができるという聖なる日。
それが例え不確かな起源によるものだとしても。
単なる習慣として根付いてしまった、日本特有のことだとしても。
人を想うという清い気持ちは嘘を吐かない。
人を想うという尊い気持ちに嘘は吐けない。
だから今年も、少女たちはチョコレートを間に挟んで想いを交し合うのだ。
ありがとう。
これからもよろしく。
大好きです。
そんな、想いたちを。
〜〜〜
寒風吹き荒ぶ二月上旬、今にも泣き出しそうにどんよりと曇った空の下。
古い温室の隣でピクニックさながらにレジャーシートを広げて、お弁当を食べる三人の少女がいた。
温室を回りこんで吹き込んでくる冬風に時々首を縮めながら、ご飯をつつくのは田辺 小春(たなべ こはる)さん。
最近出たばかりのシャンプーを試していると言っていたふわふわのセミロングは、今日ももちろん可愛く揺れている。
でも今日も”変わらず”可愛いから、シャンプーの成果かどうかは良くわからない。
小春さん的には「やっぱりちょっとだけ違いますわ」らしいけど。
温室の中を覗き込んだり、遠い外壁に視線を飛ばしたりしながら何となく落ち着かないのは秋山 茜(あきやま あかね)さん。
いつもならお弁当をさっさと食べてしまって、ゆっくり食べる残り二人の傍でぼーっとしてたり、食事の邪魔にならない程度の雑談を振ってくるのだけれど、今日は三人の中でもお弁当の減りが一番遅かった。
そして茜さんに負けず劣らずゆっくりとおかずを減らしているのが一之瀬 桃花(いちのせ ももか)。
空を見上げて、シートを見下ろして、時々目のあう茜さんと揃って溜息を重ねて。
大好きなお母さんのから揚げの味もわからなかった。
もったいないけれど、しかたがない。
目下、桃花と茜さんは間近に迫った大問題に気が気でないのだ。
「お二人とも、いい加減にしてくださいな。こんな空気があと二週間も続くと思うと気が重いですわ」
けれどもとうとう耐えかねて、顔をしかめた小春さんがそう切り出した。
そう、桃花と茜さんの大問題はいつまでも続いていく類のものじゃない。タイムリミットが決められている。
小春さんの言うとおり、二週間という時間が経ってしまえば桃花も茜さんも元に戻るだろう。
二週間。
短いような長いような、微妙な期間だ。
でも桃花たちに付き合わされる小春さんにとっては気が遠くなるほど長い期間なんだろう。
「わかっちゃいるんだけどね……初めてなんだもん。こっちの気も重いんだよ」
「そーそー。小春はあんまり気にしなくて良いのかもしれないけどさ」
肩をすくめて桃花が言うと、隣の茜さんも頷いて同意した。
はぁ、とわかったようなわからなかったような溜息を吐いた小春さんは、小さく首を横に振る。
「気負いすぎなのよ、きっと」
気楽に言ってくれるな、小春さん。
過剰反応していることは桃花だってわかっているけれど、それでも悩まずにはいられないのが乙女心ってやつなのだ。
桃花と茜さんの気を重たくしている問題は、今が二月上旬であるということ。
ということはあと二週間を待たずして、リリアンの乙女にとってある意味一年で最大のイベントがやってくる。
セント・バレンタイン・デー。
日ごろの感謝、大好きな気持ち。その他もろもろチョコレートに詰め合わせて、贈ることができる聖なる日だ。
昨年、茜さんは所属している図書委員会のお姉さま、平坂 紫苑(ひらさか しおん)さまと。
そして桃花は同委員会の天野 早苗(あまの さなえ)さまと。
めでたく姉妹の契りを結んでいる。
もう新婚姉妹というものでもないけれど、一緒にいるのが普通になった熟年姉妹というわけでもない。
だから今年のチョコレートは、大好きなお姉さまにお渡しする初めてのチョコレート。
そりゃあ、気合も入っちゃうってものでしょう。
悩んじゃうものですよ。
でも、それだけなら多分、桃花も茜さんも二週間前からここまでどんよりと暗くはなっていないと思う。
冬の空に広がったぶ厚い灰色の雲のように、どこに流れるでもなく重苦しい空気を発散しているには別の理由がある。
どうしようどうしようと悩んでいる理由はむしろそっちにある。
それは。
「断腸の思いででも結構ですけれど、もうお一人に絞られたらどうですか? そうすれば全身全霊、その方に注ぎ込むだけで良くなりますのに」
呆れたような小春さんの言い分もごもっとも。
つまりがそういうことで、桃花も茜さんも、今年のチョコレートをお渡しする相手が二人いるのだ。
お姉さまと、もう一人。
そのお二人に同じチョコレートを渡すのか?
お姉さまはお姉さまとして別格? じゃあどんなところで差別化する?
はっきり差別化したら、それはそれでもう片方の方に失礼じゃないか?
うんぬん、である。
「それができたらやってるよ。無理無理。ありえない。若ちゃんにチョコレート渡さない秋山 茜なんて、それはきっと私じゃない別の誰かだよ」
オカッパをふるふると揺らして茜さんはきっぱりと否定した。
「若菜さまは人気がおありだから、そうでなくても当日はたくさんチョコレートを貰われるのでは?」
「だからこそ、だよ。断言しても良いね、若ちゃんはその中でも私とお姉さまからのチョコレートを待ってる」
ぐっと拳に力を込めて力説する茜さん。
小春さんは呆れたように肩をすくめた。
「私も同じかな。菫さまには毎年あげてたし、止めるつもりは全くないし。今年もちゃんとしたのを用意したいよ」
桃花にはお姉さまだけではなく、本当のお姉ちゃんがいる。
一之瀬 菫(いちのせ すみれ)さま。
早苗さまとは全くの別ベクトルとはいえ、やっぱり大好きなお姉ちゃんなのだ。
チョコレートをあげないなんて選択肢はどこからも生まれる余地はない。
もし渡さなかったとしたら、それは桃花ではない別の誰かに違いない。
「それじゃあ、百歩譲って同じものを。早苗さまも、紫苑さまも。菫さまも、若菜さまも、その辺りをお気になさるような方ではないと思いますわ」
「うーん」
「それも……手なんだけどね」
言い換えればそれは妥協案で、どこにも角が立たないベストの選択にも思える。
当事者でなければ、桃花もそれを強く推すだろう。
でもこれはもしかしたら本当に、お姉さまのいない小春さんにはわからないことなのかもしれない。
桃花にとっての早苗さま、茜さんにとっての紫苑さま。いわゆる”お姉さま”という存在は呼び方が違うだけの先輩、では決してない。
大好きな方だから。
大好きになってくださった方だから。
世界でただ一人のお姉さまだから、例えもう片方がどんなに大切な方でも、どんなに特別な方でも。
やっぱり、別格に感じてしまうのだ。
「もう、煮えきりませんわね。そもそも、それじゃあ何をどうお渡しするかも決められないではないですの」
「だから悩んでるんだよ。準備にも色々時間は掛かるし、早めに決めないといけないのわかってるんだけど……」
「小春はどうするの? 手作り?」
遅々として進まないお弁当はほとんど諦めの境地。
来るべきバレンタイン作戦の話が盛り上がってきたところで茜さんが小春さんに振った。
「ええ」と紙パックの緑茶を取りながら頷いた小春さんに迷いはなかった。
「私はお二人と違ってお一人だけですもの」
ちゅー。
ぷは。
「お姉さまというわけではないですが、良くして下さっている方ですので。簡単な生チョコレートに少しバリエーションをつけたものを」
膝の上のお弁当にお箸を重ねて、緑茶をちゅーちゅーし始めた茜さんの隣で桃花は唸った。
「うーん、やっぱり手作りが良いのかなぁ」
今までに桃花がお姉ちゃんに渡してきたチョコレートは、年ごとによってバラバラだった。
中等部一年の時は手作りで(本当に溶かして固めただけだったけど)、二年の時は既製品。
去年は手作りに挑戦したものの懲りすぎて失敗。結局既製品だった。
桃花としては、手作りか既製品かで選ぶなら手作りが良い。
その方が気持ちが込められると思うし、買って渡すだけというのも味気ない。
「私はそこはパスかな。そんなにお小遣いがあるわけじゃないけど、きっちり選んでがっつり買うよ。良いのをね」
でもストローから口を離した茜さんはそんなことを言った。
お箸をおいた桃花が「手作りしないの?」と聞くと、うんっ、て何の迷いもないように頷いた。
その部分は初めから悩んでいなかったらしい。
「私は料理とか得意じゃないし、もちろんお菓子作りも。手作りの方が良いって気持ちはわからないでもないけど、やっぱり良いものを渡したいって思う」
「市販品といっても、どこで何を買うかで色々変わってきますものね。そこを徹底的に吟味することも、愛情表現の一つだと思いますわ」
小春さんもそれに同意した。
そう聞くと既製品は既製品でアリだという気がしてくる。
気がしてくるのだけど……
「うん。でも私はやっぱりお二人とも手作りでいくよ」
桃花は言い切った。
確かに、色々考えてたくさん調べて、大枚をはたいて素敵なチョコレートを買うのも一つの手。
だけど桃花は手作りに拘りたいと思った。
「あぁっ、裏切りもの」
「う、裏切ってるわけじゃないと思うけど」
しかめっ面で抗議してきた茜さんをなだめすかして、桃花は自分の気持ちを確認した。
うん。
やっぱりそうだ。
例え失敗しても、おいしくなくても。
いや、本当はおいしいのが一番だけど。
仮にそうはならなかったとしても。
桃花が一番桃花らしくチョコレートを用意するのなら、そこは手作りだと思ったのだ。
ひゅっと。
不意に強い風が吹いた。
ばたばたとレジャーシートが波打って、辺りは砂埃が舞っていて。
風は外で食べる時期の限界を伝えている。
ひゅるり。
あわせてどこか空虚な風が吹く。
三人が三人、さっきまでの盛り上がりも忘れて口をつぐんだ。
静かなリリアン構内を吹き抜ける冷たい風。
もう二月上旬なのだ。
今年度はあと二ヶ月もない。
「もう……バレンタインを越えてしまえば、三月になってしまいますね」
呟いた小春さんの言葉は、きっとさっきまでの桃花や茜さんが吐いていた溜息よりも何よりも重たかった。
桃花はもちろん、茜さんもそれには何も答えなかった。
〜〜〜
日曜日の午後一時。
街に出るためにちょっとだけおしゃれをした桃花は、小春さんとK駅前で待ち合わせていた。
こげ茶色の長袖ブラウスにグレーのカーディガン。チェックのスカートは膝丈、寒さ対策は黒のサイハイ。
パンツスタイルよりはスカートを好む桃花だけど、おしとやかに歩くのが基本的に苦手なのでロングは敬遠気味。
ロングスカートを履くときは髪も下ろして、もう別人になるぞー、みたいな勢いが必要なのだ。
そんな訳で、今日のコーディネートはこの時期の桃花的私服としてはオーソドックスなスタイルである。
定刻五分前にやってきた小春さんは、モスグリーンのダッフルコートに足元から覗くのは濃いブルーのGパン。
大きなトートバックを肩に背負って、街歩きスタイルながらもこじんまりと纏まっている。
図書委員会一年生の三人の中では一番背が低い小春さんだけど、こういうコーディネートを見るとキャラクター勝ちだなぁなんて思う。
桃花が同じ格好をすると、微妙に高い上背と長い黒髪のお陰でヤボったくなってしまうのだ。
逆に小春さんが桃花と同じ格好をしたら……何だかやたらと活動的に見える。
それがヘンだとは思わないけれど、違和感が拭えない。
「ごきげんよう、小春さん」
そんな失礼なことを考えながら桃花が手を上げると、小春さんはふんわりと笑って「ごきげんよう」と返してくれた。
今日は来るべき決戦の日に備えて、合同チョコレート作成練習会なのだ。
「それで、桃花さんは何を作るかもう決められましたの?」
チョコレートの材料を買いに行く途中で、小春さんが聞いた。
「うーん。まさかモンブランを作るとは言わないし、オーソドックスなトリュフも選択肢から外したわけじゃないんだけど……この前に小春さんが言ってたじゃない? 生チョコ」
「ああ、ええ、そうね。あれも簡単だけどおいしいからお勧めですわ」
「でもさ、私の中で生チョコって生チョコなんだけど……ああ、えーっとね。何ていうのかな、そんなにバリエーションってないことない?」
生チョコは生チョコ。
桃花の意識では正にその言葉どおりだ。
茶色で四角で、ビターなココアパウダーがかかっていて、柔らかい。
それが生チョコだし、それ以外の生チョコなんて想像もできない。
だから、以前に小春さんが言っていた「少しバリエーションを」の意味が後になってもわからなかった。
気にならないといえば嘘になる。
小春さんは「そんなことありませんわ」と上品に笑った。
「大別すれば白と黒にもなります。でも生チョコレートは確かにトリュフとか……そうですわね、ピーナッツチョコレートとかのように、中に具を入れるタイプのチョコではないですわね」
具、って。
おにぎりか、小春さん。
「その分、固めるタネを細工するんです」
タネ。
今度はお好み焼きになろうとしてる。
小春さん、一体何を作るつもりなんだか。
「独特の言い回しは置いておいて……んーと? 何か混ぜるの?」
「そう。何か混ぜるんです」
いまいち要領を得ない桃花を軽く交わして、小春さんは楽しそうだった。
待ち合わせ場所のすぐ傍にある駅ビルは遠目からもバレンタインオーラが滲み出ていた。
中に入ればもうバレンタイン一色。
本当はそんなことはないのだろうけれど、あまりにもアピールされているからそれ以外が相当に霞んでしまう。
この時期となれば毎年のこと、踊らされている桃花たちからしてみればまだ良いのだけれど、男性陣は辛いだろうなぁと良く思う。
バレンタインの特設スペースは、食品売り場やお菓子売り場だけではなくて装飾品売り場にも進出してくるものだし、何より街全体がそういう空気に染まってしまうのだ。
赤、白、それに茶色。あと金色も少々。
多分、バレンタイン時期の日本からその色を引き抜いたら、相当モノクロームに近くなってしまうのではなかろうか。
そんなカラフルな世界で浮かれる女子と、何だか居心地が悪そうに足早になる男子。
年中行事といえば一言なのだろうか。
そんなことを考えつつ、ふらふらとチョコレート売り場を散策する女子高生二人。
「ふーん……生チョコレート用の生地なんてあるんだね」
「製菓用チョコレート、と考えて探してしまうと結構似たりよったりの生地にいきついてしまうのですが、あらかじめ決めておくと意外に専用のものってあるんですわ」
「やっぱり違う?」
「私もそんなに作りなれているわけではありませんから、断言はしづらいですけど……多少は違ってくるのだと思いますよ。汎用と専用で同じものが出来るのであれば、きっと専用なんて売れませんもの」
そりゃそうか、と唇だけで刻んで、品定めを続行する桃花はけれどもすぐにつまづいた。
専用は専用で、これまた多くの種類があるのだ。
汎用は汎用で違いはあるけど、結局は汎用。どれを使っても何に使ってもそんなに失敗はしないようになっている。多分。
専用となるとやっぱり販売対象もそれなりの知識とか技術を持った人向けになっているようで、良くわからない単語がパッケージに書かれているのも多い。
もっとも、クーベルチュールという単語を今日この場で小春さんから教わってる時点で、桃花は既に落第なのかもしれないけれど。
「ミルク風味。抹茶風味。う、うぅーん」
しかもその上、チョコレート自身に味がついているものもある。
どれが正解なんだろう。
というか、桃花はどれを使って何を作ろうとしているんだろう。
「こ、小春さーん」
たまらず桃花は泣きついた。
チョコレートはチョコレート、ヘンテコなものを買っても殺人的においしくないものができあがるとは思いづらい。
でもせっかくこの場に来て、色々教わりながら選んでいるのだから、無知のせいでヘンテコなものを買うことは避けたい。
今回が本番じゃないとはいえ、だからこそ材料の時点で失敗することだけは避けたかった。
「どうしました? 決まりました?」
「決まらないんだよー。何が良いのかさっぱりだよ」
小春さんは苦笑して、手近なプレートのチョコレートを手に取りながら言った。
「状況によりけり、ですわね。実際何を作るかを決めないと選べませんわ」
「そ、そうなんだけどさ……うーん」
陳列された黒い壁をにらんで唸る。
どれもこれも同じような気がするのに、いざ手に取るとどれもこれも全くの別物のような気がした。
だめだ。選べない。
材料は材料、個性を出すのは(出すのが良いのかどうかはおいておいて)あとでも良いや。
そう結論付けた桃花は、逆に小春さんに問い返した。
「小春さんはもう決めたの?」
それで桃花の考えていることが大体つかめたのか、困った風に眉を小さく寄せて小春さんは頷いた。
「ええ。フルーツ風味のオセロチョコレートにしようかと」
「じゃ、今日はとりあえずそれで」
迷いなく言い切った桃花に、小春さんは「もう」と唇を尖らせた。
「基本は溶かして固めるだけ。生チョコレートの場合、それがそのままレシピになります。だから冷蔵庫に入れてしまえば、後は切り分けたり最後にパウダーを振ったりするだけ。形もシンプルですし、そういう意味では一番失敗しづらいチョコレートだと思います」
場所を移して、ここは小春さん宅台所。
桃花の家でも良かったのだけれど、家にはお姉ちゃんがいるのでなるだけ避けたいという桃花の意を汲んで、小春さんが招待してくれた。
どっちにしろ桃花とお姉ちゃんは前日にかち合うことになる。
なるだけ手はばれないようにしたいけれど、何も自分からばらす必要もないはずだから。
「生チョコレート最大の敵は時間。でも前日に作ってお渡しする以上、この問題もカバーできます。だから今日はおいしく作ろう、ということよりも色んなものを試しながら作ってみよう、という感じでいきたいと思います。よろしいですか?」
「はい、先生」
桃花が茶化して言うと、くすぐったそうに笑った小春さんは、「さぁ、それじゃあ早速始めましょうか」と手近なチョコレートプレートの袋を取った。
ならって桃花も別のプレートを取る。
顔を見合わせて、うんって頷いて。
そうして二人のチョコレート試作の旅が始まった。
「……結構苦いですわね。これはもう少し砂糖を足した方が良いかしら」
「こっちのはかなり甘いよ。ええっとカカオマスってどこだっけ」
「ふうん……これは中々。桃花さん、桃花さん。これちょっと摘みなさいな、おいしいわよ」
「どれどれ……お。結構オレンジ風味してるね。そう言えば前にオレンジとチョコは相性が良いって聞いたことあるけど、これは納得だ」
「」
「」
「結構……腕が疲れるね。これだけの種類があると」
「まぁ、仕方ないですわ……ね。それに並行でこれだけやっているのですから、見た目の保証はできないのが悲しいですわ」
「それで、結局どうされますの? 今日は生チョコレートをたくさん作っただけでしたけれど」
「うん、私も生チョコでいこうと思うよ。いや、真似っこが楽とかじゃなくてね? 多分これだけ種類があればお姉さま用、菫さま用に作り分けても問題なさそうだし」
「結局、差別化もうされないのですか?」
「ううん。チョコレートでの差別化は止めただけ。お姉さまには一緒に小物でもお渡ししようかなって」
「ああ、それは良いですわね」
「うーん。なるほど、オセロチョコレートね」
「でしょう? 元々画一な形になるものとはいえ、綺麗に合うものね」
「でもパウダーがネックだね」
「それは私も作ってみて始めて、気付きましたわ……」
夕刻。
チョコレートをかなりたくさん食べてしまって、胸焼け気味な二人は揃って駅までの道を歩いていた。
ほとんど沈みかけている斜陽が照らし出す街並みは、昼間に垣間見たバレンタインセールの煌びやかとは打って変わってほの暗く。
遠いどこかのクラシクションや、車の駆動音がどこか物悲しく辺りに響いていた。
冷たい風が首筋をすり抜ける、吐く息が白く濁って流れていく。
手をすり合わせて寒さを実感した、さすがに夕方ともなれば一気に冷えるものだ。
「今日は本当にありがとうね、小春さん。色々参考になったよ」
「いえいえ、こちらこそ。私も勉強になりましたし、お互い様です。本番はがんばりましょうね」
本番まではあと一週間と少し。
資金的な理由からも連日練習するようなことはできないから、多分次にチョコレートを手に取るときが本番だ。
「うん……がんばろう」
お姉さまだったり、お姉ちゃんだったり、それ以外の誰かだったり。
とにかく、大好きな人にチョコレートを渡すのだ。
言われずともがんばるに決まっているけど、でも、桃花はちゃんとそれに頷いた。
喜んでもらえる期待はあるけど、失敗する不安も大きい。
それは多分桃花だけではなくて、今回先生役になってくれた小春さんだって同じことのはずだ。
今日、街中を駆けずり回ってくると息巻いていた茜さんも同じ。
だから、うん、がんばろう。
小春さん。
茜さん。
そして桃花。
大好きな人に、しっかりと、チョコレートをあげるんだ。
〜〜〜
バレンタインデー当日、リリアンは異様な空気に包まれていた。
一年生も二年生も三年生だってもちろん、何だかそわそわしていたり、何だかほんわかしていたり、逆に全く無頓着だったりとバラバラで。
そのバラバラ感がまた、異様な空気に拍車を掛けている。
そわそわしている人は、まだ渡していない人か貰っていない人で。
ほんわかしている人は、もう渡し終わった人か貰い終わった人だ。
無頓着な人は、まぁ、いつもどおりの人だけれど――それはそれで寂しいことかな、と桃花は思う。
人を好きになることに理由はないと言うなら、逆に人を好きにならないことにはきっと理由があるのだ。
生まれた時からお姉ちゃんっ子で、祥子さまに憧れて、そして早苗さまに現在ぞっこんという惚れっぽさMAXである桃花が言える立場ではないかもしれないけれど、人を想う尊い気持ちは大切なことだと思うから。
それを持てないことは寂しいことだし、悲しいことだ。
「そうですね。誰かを好きになること。自分ではない人を大切だと感じること。それはとても素敵なこと以上に、大事なことなのだと私も思いますよ」
桃花が何とはなく振ったそんな話題に、早苗さまはとても優しい目をして頷いて下さった。
場所はいつもの図書館、受付カウンター。
珍しく、平時の数倍は騒がしい放課後の図書館でのやり取りだった。
「でもカトリック系の学校でこれだけ大きなイベントになるのも不思議な話かも知れませんね。確かセント・ウァレンティーヌスって」
「ええ、特定の人物であるとは認められていません。正式な聖人でもないですし、本当に敬虔な信徒であれば宗教的な意味で今日という日を特別視はしないのかもしれません。プロテスタントの方であれば尚更でしょう」
さすがに走るような人はいないまでも、足早に目の前の通路を行き交うリリアンカラーを視界の端に、雑談厳禁であるはずの図書館しかも受付での会話は進んでゆく。
放課後になって少ししてから駆け込んできた由乃さんを皮切りに、今日の図書館は大繁盛だ。
新聞部と山百合会共同主催のバレンタインカード探しイベント、それは常に静かな図書館をも巻き込んでつつがなく進行中であるから。
それはもちろん図書委員会としては嬉しくもなんともないことで――現在図書館にいる人間の中で、一体何人が”本を読んでいる”のだろうか。
本を手にとって、ざっとページをめくって棚に戻す。酷い人は本を逆さにして振ったりもする。
祥子さまか令さま、志摩子さんのカードが図書館にあるという情報がどこからか流れたのだろう。
探すことはもちろん自由だけれど、せめて本は傷つけないでほしいと願うばかり。
いつも各々席を決めてほとんど居座っている常連さんの顔も今日はない。
自分自身のイベントをこなしているのか、事態を予期して今日の読書は諦めたのか。
いずれにせよ英断だったと思う。
「でも、クリスチャンがバレンタインデーに浮かれてはいけないなんて決まりはありませんよ。そもそも、信徒の方はもちろん求道中の方でもそうでない方でも、バレンタインに御言葉を思い起こしたりなんてしないでしょうからね」
「そっか。きっかけは何であれ、今はそういう行事じゃないってことですね」
早苗さまはくすくす笑いながら「ええ」と頷かれる。
「私も海外でこの時期を過ごしたことはありませんから、本当のところはどうかわかりませんけれどね。私たち日本人にとっては、愛に殉じた方を起源としたイベントの日である、ということで納得してしまって良いのだと思います。カトリックでも、そうでなくても」
ところで、と。
先の会話からしばらく経って、図書館からもほとんど人が居なくなってから不意に早苗さまが仰った。
「今日は本当に参加しなくて良かったのですか? 紫苑ちゃんなんて茜ちゃんと一緒に参加しに行ったのに」
それは聞かれるかな、と予想はしていた問い掛け。
茜さんと紫苑さまが揃って「白薔薇のつぼみのカードを探す」と意気込んでいたのには正直驚きを隠せなかったけれど、誘われた時にきっぱりと断った桃花に迷いはなかった。
そもそもお二人だって単にお祭り行事が好きなだけで参加されたのだろうし、最悪(いや、最良、かな?)カードを見つけたとしても、桃花の手にはあまるだけだろう。
祥子さまのカードをもし手に入れられたら、桃花は恐らく祐巳さんにこっそり渡したはずだ。
問いながらそっと桃花のポニーテールを撫でられる手もどこか遠慮しているようで、やっぱり早苗さまの中で桃花はいまだに”祥子さまに憧れる下級生”であるのは違いない。
何度も繰り返して言ってきたけれど、ここまでくればもうムキになって反論するのもおかしい。
桃花の答えは何度聞かれても変わらないのだから、早苗さまが満足されるまで同じ答えを返すだけだ。
「はい。私は今日のイベントに参加しないことはずっと前から決めていましたから。お姉さまと一緒に参加するのでしたら……話は別でしょうけれど」
「あら。私が参加するの?」
「はい。それで、二人で色々話し合いながら推理するんです。きっと紅薔薇のつぼみのカードはあっちで、黄薔薇のつぼみのカードはこっちね、って。でも探しに行っても見つからなくて、そこでまた推理をしなおすんです。じゃあ多分あっちですよ、もしかしたらこっちかもしれないわ。楽しいと思いませんか?」
撫でられるままに目を伏せて、想像を膨らませながら桃花は言う。
二人で一枚の地図を見ながら、カード探しにリリアンを歩き回る。
色んな人とすれ違いながら、時々茜さんと紫苑さまのペアと合流して情報交換。
慌しくて、ちょっとだけ疲れて、でもきっと楽しい放課後になったと思う。
「そうしたかったですか?」
目を閉じた暗闇の世界で、早苗さまのそんな声が響く。
桃花は首を横に振った。
「私は――お姉さまの傍にいられたら、どこでも」
二人で参加したなら、先の想像の通りになっただろう。
でも参加はしなかったからこそ、今の静かな二人の時間がある。
どっちが良いということじゃない。
どっちも良いに決まっている。
だって、想像の中でも現実の今でも、桃花は間違いなく早苗さまのお傍にいられているのだから。
「でもお姉さまも、放課後のお仕事を引き受けられて良かったのですか? いえ、もちろん私はすごく嬉しかったのですけれど」
早苗さまの手が離れたことをきっかけに、目を開けた桃花は振り向いてそう問うた。
早苗さまは桃花のお姉さまであると同時に、青田 百合子(あおた ゆりこ)さまの妹でもある。
桃花が大好きなお姉さまと放課後を過ごしたかったことと同じように、早苗さまも大好きなお姉さまと放課後を過ごしたかったのではないだろうか。
それを桃花のために空けてくださったことは何より嬉しいことだけれど、それで早苗さまや百合子さまが寂しい思いをされているのであれば、早苗さまを百合子さまにお返ししなければならない。
ちょっと寂しいけれど、早苗さま分(一人で居たりすると減ってくる桃花特有の成分。早苗さま分が足りなくなると疲労や集中力・思考力の低下等の症状が現れる)は十分に補給させて頂いたのだから、わがままばかりも言っていられない。
けれど桃花のそんな心配をよそに、早苗さまは「ええ、もちろん」と微笑まれて仰った。
「お姉さまにはお昼休みに会っていますからね。もう放課後に図書館へ来られるような方ではないですし……”すべきこと”は済ましていますよ。小春ちゃんと一緒でしたけれどね」
「あ、やっぱり被っちゃったんですね。お昼ご飯を食べた後で椿組に行く時小春さん、心配してたんですけど」
小春さんお手製のオセロチョコレートは、試作版だったけどとてもおいしかった。
百合子さまもご満悦だったに違いない。
早苗さまからのチョコレートも貰っているのだし――モテモテですね、百合子さま。
早苗さまのチョコレート、か。
ちぇっ。良いなぁ。
「早苗さま、桃花さん。ごきげんよう」
幼稚な嫉妬に駆られた桃花が小さく唇を尖らせるのとほとんど同時に、そんな声が聞こえた。
顔を上げた桃花の前で、二房の三つ編みお下げが揺れる。
図書館常連の一人にして図書委員、二神 揚羽(ふたがみ あげは)さんだった。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。どうしたの? 今日はもうそんなに開館時間残っていないよ?」
桃花がそう言いながら首を傾げると、揚羽さんは手持ちの鞄から可愛らしくラッピングされた小袋を二つ、取り出してカウンタに置いた。
「今日は本を読みに来たわけではないからね。早苗さま、どうぞ。桃花さんも。日頃お世話になっているお礼です」
「あら」
「わぁ」
手に取ったフィルムの袋の中には小さなチョコレートが三欠片ほど入っている、間違いなくバレンタインチョコレートだ。
これは色んな意味で予想外。
でも桃花と早苗さま、学年の違う二人に対して全く同じものを贈る辺りとても揚羽さんらしい。
「ありがとう、揚羽さん。私、誰かから貰えるなんて思ってもなかったよ」
「まぁ、いわゆる友チョコってやつね。同じものを早苗さまに差し上げるのは失礼かとも感じましたが、敢えて等しくお世話になっておりますという気持ちを込めて贈らせて頂きました」
「失礼だなんてそんなことはありませんよ。ありがとうございます、揚羽ちゃん」
ぺこりと頭を垂れられた早苗さまにならって、慌てて桃花も頭を下げる。
もったいない、と謙遜した揚羽さんは、すっと半歩後ろに下がって言った。
「それでは、今日は他にも回らないところがありますので失礼します。今後ともよろしくお願いいたします、早苗さま、桃花さん。ごきげんよう」
そうして颯爽と去ってゆく揚羽さんの背中。
本当にチョコを渡すだけでちょっと慌しかったけれど、それでも桃花たちの手元には揚羽さんのチョコレートが残っている。
お姉ちゃんを除けば、初めて貰ったバレンタインチョコレートだった。
まだ食べてもいないのに、胸の奥にはほんのり甘くて温かい感覚。
ああ、って思った。
ああ、こういうことなんだ、って。
チョコレ−トを贈るということは、やっぱり宗教的な意味があったり、製菓会社に踊らされたりしているんじゃなくて。
人を想う気持ちを直接渡すことなんだ。
だから、チョコレートを食べなくても甘かったり温かかったりする。
食べればもっと甘くて温かくなるのだろうけれど、それはきっと二次的なもの。
貰って初めてわかった。
バレンタインデー。
なんて素敵な日なんだろう。
隣からちらちらと感じる早苗さまの視線。
わかっています、でも、もうちょっとだけ待ってください。
そういう代わりに、桃花は揚羽さんのチョコレートを持ち上げて電灯にかざした。
透明のフィルム越しに光を反射するつやつやのチョコレートは、色んな人に同じものを配っているのだろうとは思えないくらいに手が込んでいる。
さすがは元手芸部、手先はすごく器用なんだろうな。
感心しながらそんなことを考えていた桃花の隣で。
「もう」
という、ちょっと拗ねたような早苗さまの声が聞こえた。
***
「いやーさすがに見つからなかったねー」
「うーん、結構良い線はいってたと思うんですけど。でも何回も目の前を通って気付かなかったんだから、しようがないですね」
バレンタインカード探しも終わり、並んで葉の落ちた銀杏並木を並んでゆく二人――紫苑さまと茜。
イベントを振り返り、思い返し、白い息を吐き吐き雑談の花が咲く。
イベント自体は大盛況のうちに幕を閉じた。
祥子さまのカードに関して悶着があったみたいだけれど、茜たちの目標であった志摩子さんのカードは既に見つかっていたので、事実上イベントはそこで終了。
カードを探しに行った一団とは別れて、茜は紫苑さまと一緒に図書館へ戻ることにした。
これから司書さんに二人でチョコレートを渡して、三人で帰る。
誰がそう決めたわけではないけれど、そうなるのだと茜は信じて疑っていなかった。
それはそして、紫苑さまにおいても同じことのはずだった。
「でも意外といえば意外だったけど、アリといえばアリだったね。隠し場所も、見つけた人も」
「そうですね……何か、不思議な因縁のようなものを感じます」
「因縁、ね。運命とでも言えば格好つくのに」
「同じじゃないですか」
「違うわよ、全然。まーったく、こう、言葉の雅を理解しない子ねぇ」
「恐れ入ります」
「いや、褒めてないから」
いつものようにポンポンと会話が流れていく。
イベントが終わった後の気だるさなんて微塵もなくて、元気とか生気とか、そういうものが一杯に詰められた会話だった。
それは二人の日常。
早苗さまや菫さまはもちろん桃花や小春もいてはならない、高いテンションの空間。
茜はこれが大好きだった。
多分本質的に紫苑さまとは波長が合うのだろうと思う。
会話のテンポとか、歩速だとか。
だからこそ茜は紫苑さまのロザリオを受けた。
より好きになっていく過程で、紫苑さまの隣を歩き続けた。
ただ。
そんな空間ではできないこともある。
いや――そんな空間ではしたくないこともある。
茜の鞄には、取り出される瞬間を今か今かと待ちわびている箱が一つ。
この日この時のためだけに茜が用意した、世界で唯一つの箱。
中身は既製品のチョコレート、でもすごくおいしいチョコレート。
とても人気で、ちょっと高くて、そして、すごくおいしいチョコレート。
紫苑さまのためだけに茜が用意したチョコレートだ。
その意味で、例えそれは量販されている製品だとしても世界唯一のチョコレートには違いない。
図書館に辿りついてしまえば、まだ残っているだろう桃花たちに挨拶をして、司書室に行って、少し喋って、帰る。
そういう流れになることは避けられない。その合間に、二人きりになるシーンなんてない。
だから、機会は今だけ。
二人きり、暗がりを歩いているこの瞬間だけだ。
「うぅっ……さすがに日が落ちたら冷えますね」
「そうね。もう二月も半分過ぎるんだから当たり前かもしれないけど。空気も乾燥してるし、今日は長いこと外にいたから肌が気になるわ」
首をすくめて茜が言うと、二の腕をすりながら紫苑さまが答えて下さる。
その間も歩みは止まらない、緩まない。
「じゃあ、今日のケアは念入りにしておかないと駄目ですね」
「こら、そこは「お姉さまはいつだってお綺麗ですから大丈夫ですよ」でしょ」
「すみません、根が正直なもので。心配です」
「うわ、可愛くないっ! 後半が余計過ぎるしっ」
近づいてくる、図書館。
迫りくる、タイムリミット。
わかっている。
そんなことは誰より茜がわかっている。
テンションを崩したければ茜の方でアクションを取れば良いのだ。
紫苑さまはおちゃらけていても真面目な方だから、真剣な話には真剣に向き合ってくださる。
それがわかっていてでもできないのは、茜が今の空気に浸っているからだろう。
茜はこの空気が好きなのだ。紫苑さまと同調している瞬間が好きなのだ。
もちろん、今はそんなことを言っている場合ではないとわかっているのだけれど。
それでもできないのは、茜の――きっと、臆病さ。
「さて?」
わかっている。
そんなことは誰より紫苑さまがわかっておられる。
だから紫苑さまはそう言って、歩みをぴたりと止められた。
それがあまりにも唐突だったから、二歩ほど茜は先んじてしまったけれど、すぐに足を止めた。
振り返れば、胸に左手を当てて深呼吸をされる紫苑さまの姿。
白い吐気がふぅっ、と風に流れる。
一度長く目を伏せられて、そして開かれた。
瞳に宿る、慈愛の光。明らかに表情が変わっていた。
茜はその胸に飛び込もうとする自分を必死で押さえる。
私の方は、もう良いよ。
言いたいこと、渡したいもの、あるんじゃないの?
無言でそう問うて下さる紫苑さまの思いやりに胸が震える。
その振るえがそのまま伝わったかのように、満足に動かない腕の筋肉を総動員して鞄からチョコレートの箱を取り出した。
「メリー……バレンタイン。お姉さま」
差し出したチョコレートの反対側を、紫苑さまはそっと掴まれた。
そしてそのまま二人は動きを止める。
紫苑さまはチョコレートを眺められて――茜はそんな紫苑さまを眺めて。
チョコレートを挟んで繋がりあった。そんな錯覚。
静かな時間だった。
それまでの二人とは全く異なる、厳かな空間だった。
ちらり。
ちらり。
やがて二人の視界の端に、白い粒が混じり始めた。
雪。
寒いはずだ。
急に、ぐっとチョコレートが引かれた。
それは本当に不意で、チョコレートを持ったままだった茜の身体も一緒に引っ張られる。
あ、と思った時にはもう。
温かな紫苑さまの胸に抱かれていた。
「ありがとう、茜。嬉しいわ」
すぐ近くから聞こえる声。
とても近くから感じる温もり。
温かかった。
柔らかかった。
茜は雪の冷たさも知らずに、目を閉じてただその幸せに浸った。
「大好きです――お姉さま」
思わず呟いたそんな言葉に。
紫苑さまは、腕の力をぎゅっと込めることで応えて下さった。
頭上から静かに降る雪は、そんな二人を優しく包んでいた。
***
図書館の閉館アナウンスが流れている。
戸締りも片付けも全て完了、後は司書さんに報告して帰るだけ。
早苗さまは窓辺のテーブルセットに腰掛けられて、ぼうと先ほどから降り始めた外の雪を眺められている。
お疲れなのか、それともそれ以外の何かでか。
片肘を突かれた仕草は珍しい。
ほんの少しだけ微笑ましい、そんな背中に向けて桃花は呼んだ。
「お姉さま」
振り返った早苗さまは、力なく「桃花」と呼び返して姿勢を正される。
その目に乗っているのは期待と不安だった。
そんなものが桃花にわかってしまうほど、今の早苗さまは打ちひしがれていた。
原因はもちろん桃花にある。
言外の催促に関して、徹底した無視を行ったのだから。
桃花の隣でそわそわする早苗さまのお姿がもう見られないのかと思うとちょっとだけもったいない。
でもそれ以上に、今この瞬間までお待たせしてしまったことが申し訳ない。
仕方がなかった。
お渡しできるならすぐにでもお渡ししたかった。
けれど、図書館にいては仕事をしなければならないし、最中に抜け出して慌しくお渡しするなんて嫌だったから。
やっとこれをお渡しすることができる。
そしてあれをお渡しすることができる。
そんな幸せを噛み締めながら、桃花は今日の朝方近くまで掛かってラッピングし終えたチョコレートの箱をそっと取り出した。
早苗さまのお顔がぱっと綻ばれる。
それを成しえたのが自分のチョコレートなのだと思うと途方もなく誇らしくなった。
「バレンタインのチョコレートです。お姉さま、どうぞ受け取ってください」
ゆっくりと歩み寄りながら差し出すと、早苗さまはをそれを壊れ物でも扱うかのように、そっと両手で受け取られる。
そうして、「ありがとう」と今日一日見たくても中々見ることができなかった桃花の大好きな笑顔を浮かべて下さった。
その笑顔にぽっと胸の中が温かくなるのを桃花は感じた。
ああ。
そう。
チョコレートの素材を改めて探して、試作を重ねながら作って、納得がいくまで綺麗にラッピングをすることは大変だっただけれど。
この笑顔のためにやったことなのだ。
やって良かった。
できて良かった。
心底にそう思った。
「ここで開けてみても良いですか?」
そう言いながらも既にリボンに手をかけている早苗さまに、桃花は「もちろんです」と頷く。
するりと流れるような仕草でリボンが解かれ、包装紙を軽く止めていたテープがそっと剥がされる。
そして掌に乗るくらいの小さな四角形の箱の蓋が開けられると、図書館の片隅にふわっと甘い香りが漂った。
その中でほんのかすかに鼻腔を刺激する柑橘系の匂い。
「オレンジチョコレート?」
「はい。生チョコですけど、生地にオレンジエキスが入ってます。あと、その下地の紙にもちょっとだけ」
ちなみに今朝方お姉ちゃんに既に渡している同種のチョコレートは抹茶系統でまとめていた。
味に関しては何だかんだで色々悩んだものの、ただのチョコレートよりは何かの風味が入っている方がお得だ、という桃花の貧乏性が勝った形になる。
生チョコブロックを一欠けら摘んだ早苗さまは、それをそっと口に含まれた。
何度か試していたので味には自信がある。
それでも、やっぱり実際に人に食べてもらう瞬間は緊張するものだ。
毎年のバレンタインで同じことを感じてはいたが、今年は違う。
お姉ちゃんではない、渡した相手は桃花の酸いも甘いも知り尽くしている家族ではない。
その事実が、桃花の心臓をバクバクと勢いよく鳴らせていた。
やがて。
「おいしい……とてもおいしいです。桃花、ありがとう」
にっこりと笑って、とろとろ溶けるような甘い声でそう仰って下さった早苗さまに、心の中でガッツポーズ。
浮かれて続けざまにもう一つのプレゼントをお渡ししようと桃花は鞄に手を突っ込んだ、丁度その時に早苗さまがもう一つのブロックを摘まれて仰った。
「あんまりにもおいしくて、私だけが食べていては申し訳ですね。桃花もお食べなさい。ほら」
そっと差し出される、早苗さまの細くて綺麗な指。挟まれたチョコレート。
ごくっと唾を飲んで。
味なんてわかりきっているはずのそのチョコレートに、そもそも桃花が作ったチョコレートに、すごくドキドキして。
「ほら」
なんて、なんともない風を装って差し出してくる早苗さまの悪戯な視線がこそばゆくて。
顔を真っ赤にしながら、意を決した桃花はそれを咥えた。
桃花の唇と早苗さまの指先が触れ合う。
チョコを押し出すように、そして何故か撫でるように早苗さまの指先が動いて、くすぐったいやら恥ずかしいやらで頭の中が爆発した。
「ね? おいしいでしょう?」
余裕たっぷりに笑われる早苗さまが今この時ばかりは憎らしい。
味なんてわかるわけがない。
そんなものよりよっぽど、過ぎていった滑らかな肌の感触とその体温の方が唇に残って熱を持っている。
口に手を当てて固まる桃花を、くすくす笑われながら早苗さまはもう一つ、チョコを摘まれる。
あ。
「お、お姉さま! 実はもう一つお贈りしたいものがあるんです!」
桃花は慌てて、改めて右手を鞄に突っ込んだ。
何かとてつもなく恥ずかしいことを考えようとした自分への防衛本能か、いつまでも遊ばれるわけにはいかないという負けん気か。
多分その両方の意味でそれを取り出した桃花は、ずいっと突き出すようにしてそれを前に出した。
それは桃花が先に渡したチョコレートの箱と同じくらいの大きさの、正方形の箱。
けれどリボンも包装紙も、明らかに素人の手によるものではないものが使われている。
「え? 何、かしら……少し待ってください」
第二のプレゼントはさすがに予想外だったようで目を丸くされた早苗さまは、ハンカチで指先を拭ってからそれを受け取ってくださった。
大きさは同じくらいでも、チョコレートの箱よりは軽い。
軽く降ってみても、中には詰め物がされているせいだろうか何の音もしなかった。
「これもチョコレート?」
「開けてみてください。口には含まないで下さいね」
冗談めかして言った桃花に苦笑しながら、再び解かれるリボンと包装紙。
中から出てきたのは。
「ブレスレット――?」
細い細い銀の鎖で作られた腕輪だった。
シンプルだけど、ところどころにあしらわれた紅と蒼の小さな水晶がささやかなアクセントになっている装身具。
チョコレートの具財を集めるのと一緒に購入していたものだった。
「バレンタインカードにしようか、とも思ったのですけれど」
電灯にかざしながらそれに見入る早苗さまに、桃花は言った。
「私はお姉さまからロザリオを頂きました。綺麗で素敵で、とても大切なロザリオ」
「いつも身に着けています。もちろんですけどね。これがあると、歩いたり立ち上がったりした時に時々感じるんです。ああ、ロザリオがあるな、って。お姉さまの妹なんだな、って」
「私はそれが幸せだから。とても嬉しいから、このロザリオを下さったご恩を返したいと思いました」
「私がお姉さまにロザリオを差し上げるわけにはいきません。だからそのブレスレットを、今までのご恩と、妹に選んでくださった感謝と、未来の絆を込めてお贈りします。よろしければ……どうか受け取ってください。私の、精一杯の気持ちです」
早苗さまは桃花、ブレスレット、もう一度桃花、そうして再びブレスレットに視線をやられて。
泣きそうな笑顔を浮かべられて。
そっと。
それに左腕を通された。
袖口に引っ掛かって、きらきらと電灯を反射する細いブレスレットは、早苗さまに良くお似合いだった。
「ありがとう――ありがとう、桃花。一生、一生大事にします。私とあなたの絆、もちろん物がそのものだというわけでは決してありませんけれど……私とあなたの絆、きっとずっと、大事にします。何からも私は守り通します……必ず」
目尻を拭いながら仰った早苗さまのそんな言葉に。
桃花は、はい、と。
一言で、でも万感の思いを込めて、そう返事をした。
窓の外で静かに降る雪は、そんな二人を優しく見守っていた。