【2347】 お二人と一匹はしょせん一夜の夢  (沙貴 2007-07-29 22:39:23)


 ※1:オリジナルキャラクター主体です。
 ※2:時間軸は「ウァレンティーヌスの贈り物(後編)」に合っています。


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 私立リリアン女学園。
 
 ここは、乙女たちの園――
 
 
 さてさて季節はバレンタイン。
 大好きなあの方に、お世話になってるあの人に、想いを込めたチョコレート。
 悩んで作って手渡して。
 
 でも、「どうぞ」「ありがとう」を交換し合えばそれでおしまい?
 そんなことではもったいない。
 折角、恋する乙女のために用意されたイベントなのだ。
 チョコレートと一緒に映画のチケットを渡したり、次の休みの約束なんかを取り付けたりするのは基本中の基本。
 新たな絆を紡いで、すでにある絆を確認して、それで、もちろんその後も続いていく。
 
 そんな大事で大切なバレンタインだから、不思議なことも結構起きたりするもの。
 それは愛の殉教者が用意してくれた奇跡か、高まりきった乙女の恋のエネルギーか。
 お天気雪が降ってみたり、届くはずのない告白が相手の胸を揺り動かしてみたり。
 奇跡。
 偶然。
 後付の理由なんて何でも良い、そんな不思議が起きたりする。
 
 これは、そんなバレンタインの残り香が起こした、ちょっぴり不思議なお話。
 二人と一匹、一夜の夢。
 
 お話は、一人の少女がとある猫に出会うところから始まる――。
 
 
 〜〜〜
 
 
 はぁっ。
 
 宵闇を歩く一人の少女、田辺 小春(たなべ こはる)は胸にたまった甘ったるい空気を絞り出すように、大きく白い息を空に吐いた。
 夜も遅い時間、街路を吹き抜ける冬風はびしっとした寒さを肌に突き刺していく。
 もこもこのダウンジャケットを着ているとはいえ、露出している頬や鼻の感覚はもうかなり怪しくなっていた。
 寒い。
 かなり寒い。
 ぶるっと一度大きく身震いした小春は、満天とは言わないまでもそれなりに星の散った夜空を見上げる。
 
 雲のない、高い夜空。
 ちかちか光る赤い点が、小春の視界で右から左にゆっくりと移動していた。
 明日は良いお天気になりそう。
 呟いた小春はかじかんで満足に動かない頬の筋肉を総動員して、小さく笑った。
 
 明日。
 視線を地上に戻した小春は、その言葉を噛み締めるように繰り返す。
 明日――すなわち、二月十四日。
 小春にとって、とてもとても大切な日だ。
 もちろん、普通のリリアンっ子やリリアンでない子らにとっても大切な日であることは間違いないのだろうけれど、小春の場合はちょっと事情がある。
 
 小春には大好きなお姉さまがいる。
 お姉さまといっても本当に姉妹の契りを交わした相手ではなくて、リリアンの先輩、という意味のお姉さまだ。
 名前は青田 百合子(あおた ゆりこ)さま。
 小春が所属する図書委員会の当代図書委員長であり、いつもさらさらのセミロングが凛々しい、小春が誰よりも心酔するお方だ。
 
 小春は憧れの先輩の真似をして髪を伸ばしている親友を一人知っているけれど、一時はそれが途方もなく悔しかったことを良く覚えている。
 羨ましかった。
 お揃いの髪型に出来る権利が、密かに妬ましかった。
 小春にはそれがなかったから。
 小春の髪は天然パーマで、何度クシで梳かしてもふわっと膨らんでしまうのだ。
 百合子さまのような指通り滑らかな直毛など望むべくもなく、ストレートパーマを当てようと何度思ったことかわからない。

 もしも。
 もったいない、と渋る親友らを振り切って美容院に駆け込むことを決めていた当日、
「前から思っていたけれど、小春ちゃんの髪って何だかふわふわで羨ましいわ。私なんか思いっきりストレートだからすぐにヘタれちゃうのよね」
 と百合子さまが仰ってくださらなければ、今頃の小春はがらっと印象を変えていただろう。
 大好きな先輩に褒められた髪質を変えようと思う子はきっと少数派。
 その日から、小春は自分の髪を誇らしく思うようにすらなった。
 
 そんなこんな、この一年で積み重ねてきた小春と百合子さまの思い出。
 でもそれができるのも後僅かな時間だけ――三年生である百合子さまは、卒業されてしまうから。
 他県の大学に合格されたと仰っていた。
 来年の春、百合子さまは武蔵野にいない。
 小春の過ごすリリアンに、百合子さまのお姿はない。
 だから、百合子さまにチョコレートをお渡しできるのは今年が最初で最後になる。
 そりゃあ気合いも入るというもの、込める気持ちは三年分かそれ以上だ。
 
 とはいえ、百合子さまには天野 早苗(あまの さなえ)さまという姉妹がおられるので、余り手の込みすぎたものをお渡しするのも気が引ける。
 難しいところである。
 小春は早苗さまにも良くしてもらっているので出し抜くような真似はできないし、本来の妹より豪勢なものを渡す後輩というのもあらぬ噂を立てられかねない。
 じゃあ簡素なもので良いのかといわれれば、小春的にちょっとそれは待ってくださいなと首を振りたくなる。当然だ。
 大好きな相手にプレゼントを渡すのだ。簡素なものか豪勢なものかの二択なら、迷うことなく後者を選択するに決まっている。
 
 そこで小春は考えた。
 そしてわかった。
 気持ちをたっぷり込めて、それでいて妹たる早苗さまの顔を立ててることもできるチョコレート。
 そんなものは――
 
「できない、ということですわ」
 
 言葉と一緒に漏れた溜息が、寒風に吹かれて消える。
 チョコレートは結局のところ食べ物であり、その価値は量やら味やら見栄えやらでしか表せない。
 その中でも、アピールポイントとして量と見栄えは選べない。早苗さまを上回ってしまっては本末転倒だからだ。
 じゃあ味で?
 小春の考える美味しいチョコレートは、百合子さまの考える美味しいチョコレートとは違う。
 ある程度お好みに合わせることは出来るけれど(百合子さまはビター系がお好き)、でもそこまで。
 気持ちを込めて美味しいチョコレートを……ということ自体はもちろんだけれど、度合いを表現することなんてできない。
 美味しいものはただ美味しいものであって、三年分の気持ちがこもっているから美味しいなんてことは、ない。
 だから、できないのだ。
 
 明日お渡しするチョコレートは、小春特性のブラックとホワイト混在オセロチョコレート。
 美味しくできたとは思う。
 手間もそれなりに掛かったし、シンプルながら見栄えも綺麗にできた。
 この時間――リリアンの生徒として、一介の女子高生として、散歩をするには少々非常識な時間までかかってしまったけれど、明日の準備は万全といえる。
 そう、それで、万全なのだ。それ以上は望めない。
 
 夜道を丸く浮かび上がらせる街灯、儚げな舞台を連想させる弱々しいスポットライト。
 浴びながら、小春はこの日何度目かの溜息を吐いた。
 
 チョコレートが全てではない。
 ものすごいものをプレゼントできれば良いというものではない。
 そんなことはわかっている。
 小春だって、そんなことくらいはわかっている。
 百合子さまは例えどんなものをお渡ししても喜んでくださるだろう。
 むしろ、すごすぎるものをお渡しすれば困ってしまわれるかもしれない。

 だからお世話になっている後輩として、日頃のお礼のチョコレート。
 それをお渡しするのが最善だとわかっているのに、やりきれない何かが胸の中でくすぶっている。
 初めてなのに。
 そしてそれが最後になるのに。
 ただのチョコレートしかお渡しできないのが、悔しい。切ない。
 
「――あら?」
 
 俯きかけた視界の端に、きらりと光る二つの点。
 思わず小春は足を止める。
 道の反対側で、一匹の猫が闇の中でもかがやく銀の瞳を向けて小春を見つめていた。
 まるで主を待っているかのように、行儀良く座っている。
 
 その距離、約5メートル。
 見下ろす小春と見上げる猫は、お互い微動だにしないままじっと見つめあった。
 小春が明かりに照らされているからだろうか、猫の輪郭はぼんやりとしていてそれが何の種類かまでは、良くわからない。
 少なくともスコティッシュやアメショのようなタイプではないことは確かけれど、三毛猫のようでもない。
 闇のせいか、本来の色か、猫の体毛は夜に解けるような黒で。
 
 何とはなく、よく魔女とセットになっている黒猫をイメージさせた。
 
「こんばんわ、猫さん。お使いの途中ですか?」
 冗談交じりに小春が問うと、猫はぺろりと顔を洗って立ち上がる。
 そのまま気品を感じさせる優雅な振り返り方で背を向けた猫は、ゆっくりと小春が来た方向とは逆の方向に向けて歩き出した。
「あら」
 嫌われてしまいましたか。
 苦笑する小春を、けれど急に歩みを止めた猫は首だけを向けてじっと見る。
 小春もじっと見返す。
 
 ふいと顔を前に戻して歩き出す猫。
 小春は、ほとんど無意識にその後を追っていた。
 
 
 音もなく歩いてゆく猫と、ぺたぺたとスニーカー特有のちょっと間抜けな足音を響かせながらついてゆく小春。
 不思議なことに、猫は塀の上を歩いたり茂みに飛び込んだりすることはなく、普通の道、つまり小春が何の問題もなくついていける道をひた進んでいた。
 普通なら猫を追ったとしても、急に家と家の隙間とか車の下とか、狭い場所にふらっと入ってそのまま見失ってしまうものなのに。
 小春の猫追い経験にはそんな苦い思い出しかない。
 きっと小春の友人知人の誰に聞いても同じような答えしか返ってこないだろう。
 
 貴重な体験をしているんだという自覚を胸に、夜行を続ける小春と猫。
 住宅街をすり抜け、人気のない裏路地を進み、やがて河辺に辿りついたところで小春は足を止めた。
 河辺といっても名のある川というわけではない――小春は知らないだけかもしれないけれど。
 夜の闇を吸い込んで真っ黒に染まった水面がさらさらと流れるさまはぞっとするほど綺麗で、静かな水音と相まって何だか神秘的だった。
 
 だけど、いつのまにか水辺らしい冷気が身体を取り巻いて、小春は小さくくしゃみをする。
 夜散歩ということでそれなりに着込んできたつもりだったけれど、さすがにこんなに長い間外にいるつもりはなかった。
 猫との散歩は貴重だけれど、それで風邪をひいてはいけない。とんでもないことだ。
 これで明朝熱など出して、病欠なんてことになったら目も当てられない。
 
 帰りましょうか。
 チョコレートの匂いも気にならなくなりましたし、気分も少しは――晴れました。猫さんのお陰ですね。
 変わらぬ夜空を見上げて、小さく呟いた。
 大きな吐息の塊が澄み切った夜風にさらわれる、ちょっぴり物悲しい光景が諦めにも近い納得を小春の胸に刻む。
 
 と。
「猫さん? あら、猫さん?」
 顔を戻した小春は、視界から件の猫が消えていることに気付いた。
 首を左右に振って探してみても、やっぱり見つからない。
 猫らしく気紛れに消えてしまったのか、それとも足を止めたことに気付かず猫は先に行ってしまったのか。
 わからないけれど、夜散歩はもうおしまいなんだということだけははっきりとわかった。
 
 先に帰ろうかと思いついたのは小春の方だけれど、急に相方がいなくなると寂しいもの。
 数え切れない回数で吐いた本日最後の溜息は、それまでよりももう少し重たかった。
 小さく頭を振って、きびすを返す。
 その瞬間。
 再び、きらりと光る何かを小春の瞳は捕らえた。
 
「――石?」
 
 見失う前まで猫がいたとおぼしき場所。
 ほのかな星明りに照らされた、親指大の小石がぽつんと転がっていた。
 
 
 〜〜
 
 
 明けて次の日。
 決戦のバレンタインデーである。
 
「お姉さま、バレンタインのチョコレートです。どうぞ、お受け取りください」
 トレードマークの片お下げを揺らして、早苗さまが恭しく差し出したのはチェックの包装紙で綺麗にラッピングされたチョコレート。
 場所は三年松組前廊下、時間はお昼休み終盤。
 教室から廊下に呼び出された時点で大方予想されていたのだろう百合子さまは、驚くことなくとても自然に「ありがとう、早苗」と微笑まれた。
 本日、リリアン構内の各所で行われているであろう姉妹によるチョコレートの授受。早苗さまと百合子さまバージョンだ。
 目の前で行われているそれがどこか微笑ましいのは、早苗さまと百合子さまのお二人に気負われたご様子がないからだろうか。
 
 昨年の夏頃に姉妹の契りをなさったらしい百合子さまらのこと、バレンタインイベントは二度目ということになる。
 そうでなくとも一年と半分を一緒に過ごせば、イベント毎に浮き足立ってはいられなくなる――のだろう。
 何だかちょっともったいない気もするけれど、それだけ仲がよろしいということ。
 善きかな、善きかな、である。
 
「今年も去年みたいにトリュフかしら? 早苗はお菓子作りも上手いから楽しみだわ」
 渡された小箱を何故か顔の前で傾けながら百合子さまが問われると、早苗さまは嬉しそうに表情を緩めて仰った。
「はい、実は今年も去年と同じトリュフです。形も、数も。でも今年は去年と違いますよ」
 ちいさく首を傾げて百合子さま。
「違うって?」
「はい。でもそこは開けての、食べてのお楽しみということで」
 
 正面でにこにこ顔の早苗さまと、手元のチョコレートを何度か見比べて、百合子さまは「ふうん」と納得いかなげな息を漏らされる。
 けれど。
「ま、了解。楽しみにするのは変わりないしね。改めて、ありがとう早苗」
 そう仰って、すぐにしかめっ面を改められた。
 途端に広がったほんわか空気に当てられて、小春の頬も自然とほころぶ。
 一時期、早苗さまに妹ができた時(彼女は小春の親友でもあるのだけれど)に一悶着のあったお二人だけれど、今となってはそれも良い思い出。
 第三者ながら関わった小春にとっても、お二人の絆は自分のそれのように尊いものだ。
 
「百合子さま」
 だからこそ、というわけではないけれど。
 それとはまったく別の境地で、放っておかれたのが悔しかったとか寂しかったとかそんなのではなくて。
 小春は一歩踏み出した。
 右手にはリボンで封をした透明なフィルムの小袋。中にはラッピングした小箱、オセロチョコレート。
 左手にはリボンで封をした水色なナイロンの小袋。中には――。
 
 早苗さまが気を利かせて、道を開けてくださった。
 百合子さまの視線が早苗さまから逸れて、小春に合う。
 小春だけに合う。
 ドキドキした。
 正面から顔を見られることなんて今まで数え切れないほどあったのに、さすがに今回はちょっと違う。
 嘘。
 かなり違う。
 
 目を閉じて深呼吸を二回して、改めて百合子さまを見た。
 両手を差し出して言う。
「百合子さま、メリーバレンタイン。どうぞ」
 言葉は飾らず、シンプルに。
 百合子さまは先程と同じような凛々しくも余裕たっぷりの笑顔で「ありがとう」と受け取ってくださった。
「二つ……あるのね。両方ともチョコレート?」
「いいえ、チョコレートはこちらの透明な方です。こちらは何と申しますか……オマケ、でしょうか」
「オマケ?」
 くすくす笑いながら器用に早苗さまと小春のチョコレートを左手だけで持たれた百合子さまは、”オマケ”の袋を小さく振った。
 ぽと、ぽと、と小さな音がする。
 袋の中で一つだけの何かが上下している音だ。
 
「今、開けても?」
「はい。ぜひに」
 待ちきれない、と仰りたげな百合子さまに小春は頷く。
 元々この場で開けてもらってちょっとした解説をするつもりだったのだ。
 猫との散歩、そして見つけた袋の中身のことを。
 
 
 百合子さまの細く長い指に挟まれて取り出されたのは一つの白い小石。
 ただの白い石なら、花崗岩なり大理石なりの破片だろうということで取り立てて珍しくもないのだけれど、それは少し違った。
「これ……ガラス、かしら? 水晶じゃないわよね?」
 一見しただけでは判り辛いが、小石を挟んで反対側が透けて見える。
 つまりが半透明なのだ。
 しかもただの半透明な石ではない。
「少し、よろしいでしょうか」
 小春は百合子さまからその小石を受け取って、良く見えるように左手の親指と人指し指で挟む。
 持ち上げると、窓から差し込む太陽の光できらきらとそれが輝いた。
 
 水晶を通過して、廊下に落ちていた太陽の光を右手で遮る。
 広げた小春の手の平に、石の形に光の影がぼんやりと浮かび上がった。
「あ」
「まぁ」
 顔を寄せられた百合子さま、続けて早苗さまが驚きの声を上げられた。
 それもそのはず、小春の手の平に落ちた光は白色の石を通過してきた色とはとても思えなかったからだ。
 
 普通、赤色のフィルムを通過した光は赤色になる。
 それなら白色の石を通過した光は白色――元々太陽の光は白と黄色を混ぜたような色だけれど、とにかく白い光になって当たり前だ。
 でも、ならない。
 この石を通じた光はそうならない。
 
「銀色――ね。これ」
 中の不純物がどういう仕組みで働いているのかはわからない。
 でも、表面はどんなに目を凝らしてもただ白いだけのこの石を通過した光には鈍みがかった色がついて、とても綺麗な銀色にすり替わってしまう。
 夕べ持ち帰って、それを知った時は小春も本当に驚いた。
 
 本当は、ただ灰色になっているだけかもしれない。
 でも透き通るように煌く鈍色は灰色というよりもやっぱり銀色で。
 太陽から反対方向に向けて石から延びる銀色の柱は、まるで映画のワンシーンを縮小しているかのように神々しかった。
「私、夕べチョコレートを作り終わった後で散歩に出ました」
 石と光に見入るお二人を前に小春は話し始める。
「ほんの気晴らしのつもりでしたわ。いえ、気晴らしというとちょっと違いますか……とにかく、散歩に出まして、そこで一匹の猫に会いました」
「猫?」
 話の方にも興味をもたれたか、光の柱に顔を寄せられている関係上、上目遣いになっている百合子さまが問われた。
 はい、と小春は頷く。
 
「今振り返ればロシアンブルーのようでしたが、野良のようでした。少なくとも首輪はなかったように記憶しています」
 こちらは逆に石よりも話の方に強く惹かれたのだろう早苗さま、上体を起こして聞く体勢に入られた。
 小刻みに左手を動かして光の陰影を作りながら、小春は続ける。
「多分、黒猫でした。何だか不思議な猫で……私はその子の後を追いました。ついて来い、って言われたような気がして」
 話しながら、小春はまるで児童文学みたいだと思った。
 他人事のようだけれど、実際にあったことで、そして実際に児童文学みたいだったのだし。
 多少脚色を加えても面白そうだけれど、小春は基本的に読む専門。
 あるがままを話す、それだけでも十分に違いない。
 
「それでついていったは良いのですが、家の近くの川に着いたくらいで見失ってしまったんです。丁度その頃は私もすごく寒くて、帰ろうかな、って思っていた頃でした。そして気がつけば、私の前を歩いていたはずの猫はもうどこにもいなかった」
 再び光の柱に視線を戻された百合子さまは、ふうんと鼻息を漏らしながら見る角度を色々変えてその不思議に小さく頷かれる。
 早苗さまはくすくすと微笑まれた。
「もう、小春ちゃんたら……そんな遅い時間に出歩いてはいけませんよ。風邪を引いてしまいます」
 小さく肩を竦めて、小春は苦笑う。
「はい、私もそう思ってすぐに帰ろうとしました。猫もいなくなっちゃったし、散歩するにも遠出しすぎました――と。ただ」
「そこでこれを見つけた。猫がいた辺りに」
 確信すらも感じさせる断言口調で、百合子さまが小春の先を仰った。
 先を読まれるとは思っていなかった小春は思わず目を丸くする。
 
 すわ、予知能力。いや、先見というべきか。
 
 そんなファンタジック全開な単語が脳内で飛び交う小春に、姿勢を戻された百合子さまは首を横に振られた。
「推理でもなんでもないけどね。石の話をしている最中に、キー人物? な猫がいなくなっちゃったんでしょ。じゃあそこで話が終わるしかないじゃない」
 からから笑われたのは全く持ってその通りだと思うけれど。
 そう、何というか、論理的に解明されてしまうと神秘さも面白みもなくなってしまった気がして、つまらないではないですか。
 そんな不満を押し隠して、こほんと一度咳払い。
 小春は続けた。
「そんなわけで、見つけたこの不思議な小石がオマケです。この石、太陽だけではなくて、部屋の照明でも良いのですわ。どんな光も銀色に変えてしまいます」
 赤色とか青色の光を当ててみたわけではありませんけれど、と補足して。
 小春は石をそっと百合子さまの手の平にお返しした。
 
「ふふふ。さしずめ、”白い石”と言うところかしら?」
 すると、にやりという形容詞がぴったりな風に百合子さまの唇が釣りあがる。
 全く同種の笑みを浮かべて小春は頷いた。
「そう仰ると思いましたわ。だからこそ、お贈りしようと思ったわけですけれども」
 ふっふっふ。
 顔を寄せ合って二人揃って怪しげに笑う小春らに、早苗さまは「白い石?」と小首を傾げられた。
 
 それは、と解説しようとした小春に先んじて百合子さまが仰る。
「と、いうことは」
 一言。
 ただその一言。
 ああ、でもその一言でも小春は百合子さまの仰りたいことが痛いほどに知れてしまいます。
 早苗さまへの説明か、百合子さまへのお約束的な返答かで一瞬悩んだ小春は。
「はい。探す価値はあると思いますわ――全てを金に変える”赤い石”を」
 後者を選択した。
 これは早苗さまがどうこう百合子さまがどうこうというよりも、小春自身がその一言を言いたかっただけで。
 当然、置いてけぼりを食らった早苗さまは小さな唇を尖らせられた。
「もう、お二人とも……何のお話ですか? 私には何のことだかさっぱり」
 
 密談を終えた(すぐ傍に早苗さまがいて密談もないものだけれど)小春らは、ぱっと顔を離してもう一度にやりと笑いあう。
 百合子さまが先に早苗さまに向き合って仰った。
「もっと本を読みなさい、ということよ。私達の会話についてこれるくらいわね」
 すると、露骨に肩を落とされて早苗さま。
 はぁと何ともいえない溜息を吐いて仰った。
「お二人の趣味をとやかくは言うつもりはありませんが……私には無理です」
「頭を柔軟になさい、現代の科学があるのは――」
 
 
 つらつらとお得意の講釈を始められた百合子さまは、早苗さまでも止められない。
 結局小春と早苗さまはお昼休みが終わるぎりぎりまで、耳にタコができるレベルで聞かされた話を改めて聞かされた。
 小春は全く問題ないのだけれど、頬を引きつらせっぱなしだった早苗さまはさすがにお気の毒だった。
 これは一年半の長い早苗さまと百合子さまの姉妹関係の中で唯一といっていいほど少なく、けれど決定的に噛み合わない部分だ。
 
 すなわち。
 好んでよく読む本のジャンルである。
 
 
 〜〜〜
 
 
 ドタバタ、と称していいだろう本年度のリリアンバレンタインを越えて、翌日曜日。
 時刻は午前十二時五十五分。
 先々週と同じように、小春はK駅前に来ていた。
 その時は、バレンタインを見越した合同チョコレート作成練習会。
 待ち合わせていたのは親友の一人だった。
 
 今日は違う。
 百合子さまとデート、いやお出かけ、いやいや捜索の旅だ。
 デートという言葉の意味が占める割合もそれなりにあるのだろうけれど、今日は小春も割りと捜索側に意識が向いている。
 目的はもちろん、先日百合子さまにお渡しした”白い石”の対となる、”赤い石”。
 あるかどうかもわからない、というか本物は100%絶対確実に存在しない、それを探すことにとてもワクワクしていた。
 途方もなく浮かれていた。
 小説や映画のような冒険譚になるとは思わないけれども、それを実践するのはやっぱり楽しみでしかたがない。
 そもそも”白い石”は存在したのだ、今も百合子さまの手元に確かにある。
 だから似たような石が他にあっても不思議ではない。むしろ、あって当たり前な気すらした。
 
 そんなわけで歩くことが目的な今日の服装は、げんを担いであの夜と全く同じにした。
 ブルーのジーパンに厚手のプリントシャツを二枚重ねて、その上にベージュのダウンジャケット。
 手袋は少し子供っぽいかもしれない幾何学柄のピンクで、合わせたマフラーもピンクだ。
 太陽が照っていても風は二月らしく冷たくて、考えてみれば本当にあの夜散歩は無謀でしたと反省する。
 それでもあの石を見つけられたのだから、散歩に行ってよかったのだろうとは思うけれど。
 
 
 ”白い石”、”赤い石”とはとあるマイノリティーなジャンルにおいてキーになる単語だ。
 ”賢者の石”と聞けばピンと来る人も多いだろう。
 小説や漫画、よりはファンタジーのゲームなどで良く出てくるこの言葉。
 実態は”哲学の卵”と呼ばれるフラスコで精製する特別な金属のことで、いわゆる錬金術の用語に当たる。
 
 あらゆる金属を銀に変える”白い石”。
 あらゆる金属を金に変える”赤い石”別名”賢者の石”。
 小春と百合子さまは、通過した光を銀に変えるあの不思議な小石を、それらにかけて”白い石”と呼んだのである。
 
 何故にそんな非一般的かつマリア様、引いては神様の御許に違いないリリアンの学び舎に似つかわしくない用語を、そこに在籍する生徒二人が知っているのかといえば――ひとえに、趣味だ。
 趣味以外の何ものでもない。
 そしてこの年頃の乙女が熱を上げるのは正直どうか的な趣味こそが、小春と百合子さまを一番初めに繋いだ切っ掛けであり。
 早苗さまと百合子さまのお二人の間に横たわった絶妙な相違部分。
 オカルト。
 で、あった。
 
 
 午後一時を回って少しして、百合子さまは現れた。
 活動的なカーゴパンツにグレーのロングコートを羽織って颯爽と。
 冬風にさらりとなびく黒髪とそのスマートな出で立ちが相まって、まるでどこかのモデルのように格好良い。
 麗人、なんて言葉が小春の頭の中に浮かんだ。
 正にその通りだ。
 小春はくらくらする頭をどうにか堪えて、「ごきげんよう」と頭を下げた。
 
「はい、ごきげんよう。ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
 仰って、にへらと笑う。
 最近特に板についてきた気がする、そんな親しみ溢れる笑顔もどこか凛々しい。
 ある程度は小春フィルターが掛かってしまっている自覚はあるけれども、これが生まれにして僅か二年の差とは到底思えなかった。
 小春は「いえ」と答えて、人知れずそっと溜息を漏らす。
 
「それでは、とりあえず猫を見つけた辺りから行ってみましょうか? 私も完全に道を覚えている訳ではありませんから」
「そうね。先ず現場から当たるのは基本よね」
「それはジャンルが違いますわ」
 そしてそんな軽い掛け合いを皮切りに、二人の”赤い石”捜索の旅は始まった。
 
 
 小春の家はK駅から一駅しか離れていない。
 だから歩いても十分いける距離なのだけれど、歩く方向を考えれば一旦列車に乗った方が早く済む。
 というわけで、先ず二人は電車に乗った。
 がたごと揺られて。
 一区間分をさくっと進んだ二人は、小春の先導によって冬晴れの下を改めて歩き始めたのであった。
 
 
 駅を出た辺りから、百合子さまはあの石を取り出されている。
 仰るには、お守り代わりとして常に持ち歩いているのだとのこと。
 何のお守りだかわからないけれど、お渡ししたものが常に百合子さまの傍にあるというのは何ともいえず嬉しかった。
「もし”赤い石”が見つかったらお譲りしますので、その”白い石”の方は頂けますか? お揃いではないですけれど、何だか素敵ですわ」
 小春がそう言うと、百合子さまはくすりと笑って仰った。
「あら、折角小春ちゃんから貰ったのに返さないといけないの? それはちょっと酷いんじゃない」
「百合子さま、両方の石を持たれるおつもりですか? いけませんわ、強欲者の辿る末路にろくなものはございませんもの」
 小春の不満に、そうじゃなくて、と百合子さまは軽く手を振られる。
「”赤い石”を小春ちゃんが持てば良いじゃない。それなら、お揃いではないけれども何だか素敵でしょう?」

 それは少し前の小春の台詞をなぞった言葉。
 素敵、と仰って下さったことは嬉しいけれども、そこはちょっと譲りがたい。
「いいえ、私がそちらを持つなんて恐れ多いですわ。明らかに上下がありますもの、百合子さまが”赤い石”。私が”白い石”。それが自然の流れではないでしょうか?」
「意外に体育会系ねぇ。それとも、リリアン的と言った方が良いのかしら」
 苦笑される百合子さまに、小春は小さく肩を竦めて「どちらとでも」と返した。

 
 そんな中、程なく目的の場所に着く。
「この辺りですわ。私がこの街灯の下で……猫は、私の反対側。ちょうどあの辺りにいました」
 指差しながら小春が言うと、猫がいた位置まで歩んだ百合子さまが地面を指差しながら「この辺り?」と聞かれた。
 小春は頷いて答える。
「お行儀良く座っていましたわ。多分、ですけれど……私も上の空でしたから、いつからそこにいたのかは正確には覚えておりません」
 ふむと顎に手を当てて頷かれた百合子さまは、けれどすぐに首を捻って仰った。
「猫は猫だからどこにいてもおかしくはないけれど、ロシアンブルーって言ったわよね」
「はい。顔も身体もすらっとして、手足も心なし長かったように思いましたので、私の知る限りはそれが一番近いかと」

 やがて小春の元へ帰って来られる中、百合子さまは再度首を傾げられる。
「純血のロシアンブルーってそれなりに高いのよ。まぁ、雑種はともかくアメショとかシャム猫に比べてって意味だけどね。それが野良になるかしら……?」
「飼い主の都合で、飼えなくなってしまったとか。ペット禁止のマンションに引っ越すから、とかはそんなに珍しいことではないと思いますが」
 ちっち、と人差し指を振った百合子さまは、「あのね」と前置きして続けられた。
「例えば拾った猫とか、安く手に入れた猫ならそれで良いと思うのよ。ああ、良くはないけれどね。納得はできるって意味」
 補足に納得して小春が頷くと、百合子さまは腰に手を当てて再度猫がいた場所に目をやられる。
 
 じっと見つめる先に、今はいない猫を見定めるようにして――仰った。
「年齢にもよるけれど、大体十万は下らないわ。餌をあげて育ててあげて、それをあっさり捨てられる人は少ないだと思うのだけど……まぁでも、わからないわね。そこにロシアンブルーがいたのなら、そういうことでしょうし」
 考えても無意味だと思われたのか、百合子さまは話しながら首を何度も横に振られる。
 そして最後にもう一度だけ猫のいた場所をご覧になって、そして仰った。
「良し。それじゃちょっとその猫の道程を追ってみましょうか。小春ちゃん、案内お願いね」

 はい、と。
 頷きあって怪しく笑い、歩む小春と百合子さま。
 爽やかな昼の太陽はそんな二人の道筋を、眩しいまでに照らし出してくれていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 ふうと疲れた息を惜しみなく漏らして、小春は目の前の紅茶を揺らす。
 アップルティーの甘い匂いが、歩き疲れた全身に染み入るようで心地良かった。
 隣に座る百合子さまもさすがにお疲れのようで、カウンターの背もたれにぐったりと上半身を預けられている。
 本日のメインイベント、”赤い石”捜索。
 結果は、押して知るべしというところである。
 
 アップルティーを一口飲んで、小春は店内に視線を走らせる。
 日曜の夕方ということもあって、中は女性客で一杯。
 小春らの年代も多いけれどもう少し上、OLや大学生と思しき方々が多く入っていた。
 現在、小春らが足を休めている喫茶店は外観は小じゃれた洋館といった風な上に看板を出さないちょっと特殊なお店。
 だけれどK街にある、学校も近い、ということで口コミ効果は絶大なよう。
 リリアンにおいては少し前にかわら版によって紹介されたこともあって、割と有名な喫茶店だった。
 
 小春も紹介されて以来、休みに何度か足を運んでいる。
 紅茶専門店のように堅苦しくなく、喫茶店のようにフランクでもない微妙な空気が結構お気に入りだ。
 ただ、今日のように休みの日はかなり混雑する。
 カウンターまで埋まることは珍しいとはいえ、テーブルは高い確率で相席になる。
 今回疲労困憊の二人は、相席を断ってカウンターを選択した。
 
 騒がしいというほどではないけれどそれなりに雑音に満ちた喫茶店の中。
「疲れたわー。さすがに良く歩いたわね」
 百合子さまは天井を見上げる姿勢のまま仰って、続けて「あー」とやたら低い声で唸られた。
 疲労を隠せない笑みを浮かべて、小春も頷く。
「途中からは捜索というよりは普通に街歩きでしたけれど……そうですね。私もこれだけ歩いたのはもしかしたら初めてかもしれませんわ」
 
 小春が猫を見つけた場所からK駅を挟んで反対側であるこの喫茶店まで来たのは、つまりがそういうこと。
 予定調和的に見つからなかった”赤い石”を諦めて、中途から本屋を巡って駅ビルに。
 休日らしいウインドウショッピングを延々経て、疲れた二人はこの店にやってきたのだ。
「でも、考えてみたら初めてね」
 ぐいっと半身を起こされて、頼んだまま放置されていたミントティーを手に取っての一言。
 小春は首を傾げた。
「これだけ歩いたことがですか?」
「いえ、休みの日に小春ちゃんと遊んだこと……違うわね。早苗以外の誰かと外に遊びに出たことなんて、これが初めてな気がするわ」
 
「のどかさまとは……?」
 小春は他校に転入されてしまったという百合子さまのご友人、椎田 のどか(つちた のどか)さまを上げた。
 のどかさまと小春は直接の面識があるわけではないけれど、百合子さまが最も信頼されている方だとは聞き及んでいる。
 その方と遊びに出たことがないとは思いずらいけれどと考えた辺りで、百合子さまは小さく笑われた。
「ごめん、言い方が悪かったわね。後輩と。図書委員会の後輩と、ね。学校外で会ったこと自体少ないわ。病院を除いてね」
 ちょっぴり自虐的にくすくす笑って。
 フォローに困った小春は苦笑いしかない。
 
 百合子さまはカップに向き直って、小さく溜息を落とされた。
「もう少しね……やり方はあったのかなって思うの。今となってすごく思う」
 小春は言葉を挟まずに、百合子さまの続きを待つ。
 しばらくの沈黙の後、やがてミントティーを一口飲まれて仰った。
「のどかがいなくなって、三年生は私だけになって。必然的に図書委員会長でしょ。示しをつけないといけない、先輩としてお姉さまとして厳しくしないといけない、って春の頃は良く思っていたの。図書館は本をただ読むだけの場所じゃないからね」
 小春は頷いた。
 図書館は皆で持ち寄ったオススメ本を掻き集めている場所じゃない。
 暇つぶしに読みたい本を漠然と読むだけの場所じゃない。
 歴史ある蔵書を確実に保管し、必要に応じてすぐ参照できるように整理し、静かに読書または勉強にいそしめるような環境を保たれた場所。
 それが図書館である。
 小春らが日々力を合わせて管理している、図書館である。
 
「でも早苗、紫苑(しおん)ちゃん、菫(すみれ)ちゃんが小春ちゃんらと協力して運営している今の委員会を見るとね……ちょっと私は厳しすぎたのかなって思う。もうちょっと和気あいあいとしても良かったのかなーって」
「そんなことありませんわ。百合子さまが素地を作ってくださったからこそ、今の委員会があるのですもの」
 百合子さまはどこか力なく頷かれた。
 アップルティーを机に戻す。
 何だか急に飲む気にならなくなった。
「自信を持ってくださいませ、百合子さまは間違ってなんていませんわ」
 ああ、いや、と曖昧に返答を濁しながらミントティーをもう一口。
 百合子さまは仰った。
「私も自分が間違ってた、とまでは思わないよ。委員会以外の図書委員とはちょっと距離ができちゃったかも知れないけど、それはそれで。うーん、言い方が難しいな。単純に羨ましいのよ。早苗たちが」
「羨ましい」
 オウム返しに呟いた小春に、百合子さまは頷かれた。
 
「さっきも言ったとおり、私はこれが初めて早苗以外の図書委員と外に出た。同級生がいなかったというのもそれはあるかもしれないけれど、それって寂しいことじゃない?」
 それは。
 それは、その、通りだと思うけれども。
 しようがなかった。しかたがなかった。
 そういう一面があることも確かだったと小春は思う。
 今年の春から、図書委員会のいわば全権がその双肩に乗ることになったのだ。
 全ての作業を一人ですることはないけれど、その責任はどうしても全て百合子さまに向かう。
 気負いの仕方は今の早苗さまたちとは比較にならないはずだった。
 
 それに、今の早苗さまたちをご存知だからそんな風に感じられてしまうのだ。
 あのお三方はとても仲が良くていらっしゃるから、そこに憧れを覚えるお気持ちは痛いほどに良くわかる。
 小春たち一年生も同じようなことを良く感じるからだ。
 でも――
 
 
『あーっ!』
 
 
 唐突に、喫茶店にそんな声が響いた。
 何人分もの声が重なった「あーっ」。何だか聞き覚えのある声だったような気もする。
 無意識に振り返った小春の視界で、見覚えのある方々が互いに指差しあっていた。
 思わず小春は目を見開く。
 そこにいたのは何ともまぁそうそうたる面子で、紅薔薇のつぼみ小笠原 祥子さまに、その妹祐巳さん。
 由乃さんの山百合会幹部に加えて写真部の蔦子さんに――その向こうに座られているのは新聞部の三奈子さまだろう。
 揃いも揃ったり有名人。
 どこかチグハグな感じはするものの、色んな意味でとんでもない組み合わせであることは違いなかった。
 
 しかし、正直まずい。
 振り返った小春は、同じように祥子さまらを見やっていた百合子さまと目があった。
 何かを懐かしむような微笑を浮かべて、百合子さまはすぐに視線をカウンターに戻される。
 フォローが必要だった。
 関係が希薄だと嘆かれていた百合子さまの目の前で、見るからに関係の強そうな五人が一つのテーブルについたのだから。
 何かフォローが必要だった。
「百合子さま」
 だけど、考えるよりも先に言葉になったのはそのお名前で。
 そのお名前だけで。
 無力な自分が悲しくなるくらい、小春は二の句が継げなかった。
 
「まぁ、今となってはなんだけどね……私も秋口に早苗たちに委託してからだし。どうもあの辺りから私、変なのよ。何だか急に気が抜けちゃったみたい」
 あははと笑うお顔は、平時の百合子さまからは信じられないくらいに弱々しくて。
 小春の胸が締め付けられる。
 そんな悲しいことを仰って欲しくなかった。
 そんな空しいお顔をされて欲しくなかった。
「大丈夫ですよ」
 だから、小春は言った。
 
「今となっては、ではなくて、今になったから、なのですわ。私たちと百合子さまの関係は終わってしまったわけではありませんもの。誘ってくださいませ、私も何かの折にはお誘いするようにいたします。今なら、私たちにそう厳しくされる必要もないのでしょう?」
 そんな言葉に面食らった百合子さまは、きょとん目を丸くされていたけれど、すぐに意地悪な笑みを浮かべて仰った。
「わからないわよ? 中々性格は変わるものでもないし、関わり始めたらまた細かいことに口出すかも」
「それでも」
 百合子さまの言葉に被せるように、小春は言う。
 自信を持って、両の拳をぎゅっと握って。
「それでも、です。まだ時間はありますもの。卒業なさるまで――卒業なさっても。百合子さまは私達のお姉さまであることは違いないのですから」
 
 そうしてしばらく無言で見詰め合って。
「そうね……ありがとう、小春ちゃん」
 と百合子さまは小春の頭をそっと撫でて下さった。
 でも。
「もう少し、早くに気付きたかったわね。惜しいわ」
 最後にそう締め括られた百合子さまの言葉に、小春はやるせなくなった。
 撫でてくださる優しい手つきが、とても悲しかった。
 
 そして耳をそばだてれば聞こえて来る、背後の楽しげな会話がただ切なかった。
 
 
 〜〜〜
 
 
 喫茶店を出た時にはもう夜の帳が降りようとしていた。
 散会するには良い時間だったけれど、後半になってようやく調子を取り戻された百合子さまの「最後にもう一回、歩いてみましょ。時間も頃合だわ」なんて一言から、小春らは再び猫と出会った場所まで戻ることになった。
 猫の後を追って歩いて、そのままK駅まで行って解散。
 本日の締めとしては悪くない。
 
 再び錬金術からカバラ、ルーン魔法にカフナ魔術と節操なしに展開されるオカルト談義を交わしながら、闇の迫る街路をゆく。
 バレンタインも含めて、何から何まで最初で最後。
 きっとこんな時間はもう二度とないのだろうなという寂しさを伴った確信を胸に、だけどお互いそれは口にすることなく進んでゆく。
 そうして。
 
「あ」
「え?」
 
 思わず小春は声を上げてしまった。
 振り返りながら問われた百合子さまに、震える指先で前方を差す。
 顔を向けた百合子さまも「おお」と感嘆の息を漏らされた。
 
 猫が、いた。
 あの夜、あの猫がいた場所に、一匹の猫がいた。
 間違いない、あの夜の猫だった。
 
 やはり誰かを待っているかのようにお行儀良く座っている。
 その金の瞳は小春か百合子さまか、とにかくこちらの方に向けて固定されている。
 まさかもう一度見つけることができるとは思っていなかった小春は本当に驚いて、百合子さまのコートを掴んだ。
 その上からそっと手を当ててくださった百合子さまの唇が「いたね」と声なく動く。
 小春はこくこくと頷くしかない。
 
 まるで対峙するかのようにじっと見つめあう、二人と一匹。
 均衡を崩したのは、やっぱり猫の方だった。
 なぁと小さく鳴いて立ち上がり、ゆったりした仕草で歩き始める。
 二人は顔を見合わせて――静かに後をつけた。
 
 
 猫はあの夜と同じように、人間でも容易に通れる道だけを選んで歩いていく。
 道程も全くの同じで、街路を抜けて裏路地を越えたところで川に出た。
 秋の日のみならず冬の日も当然つるべ落としで、その頃にはもう辺りは真っ暗。
 遠い街灯の明かりだけが頼りだった。
 
 小春と百合子さまの隙間にひゅるりと風が吹いて、急に体感気温が下がる。
 夜気と、水場特有の冷気のせい。
 ――だけだと、小春は断言できなかった。
 寒さ以外の理由で手が震えていた。
 
 しばらく川に沿って歩いていた猫は、とある橋の手前で土手を降りる。
 高い土手ではなかったので、猫はすぐに川原に降り立った。
 けれど、そのまま前に進み続けて橋の影に消えた猫は、しばらく待っても出てくることはなかった。
 土手の上から橋の両端を覗き込み続けること数分。
 小春と百合子さまは、手を取り合って土手を降りた。
 
「居ない、わね」
 呆然と百合子さまが呟かれた。
 居なかった。
 確かに橋の下に入ったはずの猫は、陰も形もなくなっていた。
 ただしその箇所には背の高い草が密集していて、それは橋を越えても続いている。
 ちょっとかき分けてみると、土手には土手で枯れた水道管らしきパイプが朽ちたまま口を開けていた。
「ああ……でもこれではわからないですわ」
 本当に消えたか。
 草に潜って、小春らが気付かない間に先に行ったか。
 あるいは、水道管を入って行ったか。
 ただし猫は居なくなってしまったのは紛れもない事実で。
 猫との夜散歩はここまでだと、告げられたようなものだった。
 
 はぁ、と重い溜息が二人分。
 泥に汚れたりはしなかったけれど、これだけ歩いて結局いつの間にか見失ったのだから溜息も出るというものだ。
「残念だけど、帰りましょうか。やっぱりそうそう”赤い石”なん――、て」
 首を振り振り、肩を竦めてそう締め括ろうとされた百合子さまの言葉が、途中から消える。
 と思ったら、急にしゃがみこんで草を掴まれた。
「百合子さま? どうかされまし――」
 歩み寄りながら聞いた小春も、途中で声を失った。
 しゃがまれた百合子さまの正面。
 掴まれた草の根元。
 
 
 遠い街灯に僅かに煌く、一個の石が転がっていた。
 
 
 大きさはあの不思議な小石と同じくらい。
 でも色はわからない。
 赤く見える。
 黒くも見える。
 光に当てればわかるだろうけれど、草をかき分けた百合子さまもそれを上から見下ろす小春も、それを手に取ろうとは何故だか思えなかった。
 
 わからない。
 その石が何なのか。
 あの猫と何の関係があるのか。ないのか。
 わからない。
 ただ二人とも、それは本当はただの石かもしれないのに、見てはいけないものを見てしまったような奇妙な罪悪感に捕らわれていた。
 
 やがて百合子さまが、そっと顔を上げられる。
 だけど小春には言葉がない。
 どうすれば良いのかなんてわからないし、何を求めて百合子さまが小春に目配せなさったのかもわからない。
 だから小春はもう小刻みに首を横に振るしかできなくて。
 それから何を感じ取られたのか、百合子さまは顔を再び石に戻された。
 
 草を掴んだまま、パンツのポケットから何かを取り出す――それは石。
 通過した光を銀色に変える、不思議な石。
 ”白い石”。
 それを手にしたまま、もう一度百合子さまが小春をご覧になった。
 今度はわかる。
 何をなさりたいのか、そしてその許可を小春に求める意味がわかる。
 
 小春は小さく頷いた。
「強欲者の辿る末路は決まってますわ」
 
 百合子さまも頷かれた。
「そうね。ろくなものではないわね」
 
 お互いの震える言葉尻には聞こえない振り。
 百合子さまは手にされた石を、見つけた石の隣にそっと置かれる。
 別にファンタジーの小説や漫画みたいに、二つの石を合わせるとぴったりと当てはまるようなくぼみがそこにあったわけではないけれど。
 二つ並んだ石はやっぱり、初めからそうあったようにしっくりきた。
 似ても似つかない色だけど、それでも。
 
 
 
 パンツを叩いて立ち上がった百合子さまと、小春は声もなく土手を上がる。
 どこかで、猫の鳴き声が聞こえた。
 
 ような、気が、した。


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