【2366】 遊びにおいで楽しみが何倍にも  (沙貴 2007-08-26 23:29:44)


 ※1:オリジナルキャラクター主体です。
 ※2:時間軸は「いとしき歳月(前編)」に合っています。
 
 
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 私立リリアン女学園。


 ここは、乙女たちの園――


 流れるように過ぎ去っていく日々。
 変わっていないようで、少しずつ変わってゆく日々。
 大きな変化があり続けるようで、結果的には、元の形に戻っているような日々。
 それは無意味なようで貴く、大変なようで普遍な時間。
 
 リリアンに限らず、高等部で過ごす時期は長いようで短い。
 それは多くの人と出会い、別れ、話し、触れ合うことで費えてゆく有限の水にも似ている。
 水は何もしなくても蒸発してしまうから。
 出会ったり別れたりすることで、その蒸発が早まっても。早まってしまうように感じても。
 乙女たちはその水を使ってゆく。
 時間という名の大切な水を蒸発させてゆく。
 
 大切なお姉さまに巡りあった乙女がいた。
 大事な妹を獲得した少女がいた。
 生涯の親友を見つけた生徒がいた。
 それらは費やした水のお陰。
 人と触れ合うことを選んだ彼女たちの結果。
 
 水は使えば消えていくもの。
 多くの水を残している子がいれば、もうほとんど残っていない子もいる。
 残された僅かな水を、のんびりと眺めて過ごすか。
 しっかりと使い切って、新たな水を得る受け皿を作るか。
 少女たちには選択の余地がある。
 
 そしてこれは、容赦なく使い切ることを選んだ一人の少女の物語。
 リリアンに残してきた最後の水を、彼女は思い切り良く振り散らす。
 変わらない日々を思い出し。
 変わってしまった日々を確認するために。
 
 
 〜〜〜
 
 
 もう春も間近なんだな。
 肌を刺す寒風の中に微かな春の香りを感じながら、一之瀬 桃花(いちのせ ももか)は思った。
 もう春も間近。
 進級、そして卒業。
 年度始まりには遥か遠い未来のことだと感じていたそれが、今や目の前で待ち構えている。
 暖かな春風に包まれていた時も、厳しい夏の日差しに焦がされていた時も、物哀しい秋の空気に浸っていた時も、凍える冬空を見上げていた時も、そんなことは感じなかったのに。
 冬から春に切り替わるこの時期、木々の各所でぷくりと膨らんでいる芽を見つけるたびに、そんなことを感じてしまう。
 そしてそれはいつも、桃花を嬉しいような寂しいような、不思議で微妙な気持ちにさせた。
 
 原因はきっとわかっている。
 自分が進級して、新しい立場になって、また一歩大人になることが嬉しい。
 誰かが卒業されて、新しい立場になられて、また一歩大人になられることが寂しい。
 自分勝手な想いだとは思うけれど、そう感じてしまうのだから仕方がない。
 一人だけ大人になることはできないし、リリアンにおけるお姉さま方のご卒業はあらゆる意味での門出なのだ。
 寂しがるどころか、お祝いして差し上げないとばちがあたるというもの。
 
「うーん、しかし難しいなー」
 図書館に続くなじみの道程を歩みながら、そんな感慨にひたっていた桃花の隣で声が上がる。
 がしがしと後頭部をかきながら眉根を寄せるは桃花のクラスメイトにして親友、秋山 茜(あきやま あかね)さん。
 言葉どおり物理の難問に突き当たったかのように、うんうん唸りながら首を捻っていた。
 余りにもわかりやすい苦悩っぷりに思わず桃花は苦笑する。
「全くなにも思いつかないわけじゃないけれど、確かに難しいね。なんだか思いつくものは全部微妙な気がするよ」
「そうなんだよねぇ。適当に……っていうと言葉は悪いけれど、何をしても喜んでくださる気がするからこそ、手が抜けないっていうか」
「うんうん。何か良い案はないかなぁ」
 二人揃って小さなため息。
 小春日和の冬風に吹かれて消えた。
 
 消えた先で、ふわふわのウェービィヘアを揺らすのはもう一人の桃花の親友、田辺 小春(たなべ こはる)さん。
 可愛らしく(意識してはいないだろうけど、似合いすぎ)唇にちょこんと指を当てて言った。
「やっぱり形に残るもの……プレゼントが無難ではないですか?」
「でもプレゼントだと渡すのって一瞬じゃん? 最近バレンタインもあったし、何だかね。小春はその時差し上げたんでしょ?」
「ええ、まぁ。結局チョコレートだけですけど」
「あれ? 小春さん、チョコ以外にもオマケがあるって言ってなかったっけ?」
 記憶の片隅から、そんなことを嬉しそうに言っていた小春さんの姿が蘇る。
 「最初で最後のバレンタインですもの、特別なものが用意できて何よりですわ」とかなんとか。
 すると小春さんはにっこり微笑んで静かに首を振った。
「色々ありまして……結局オマケはなくなってしまいました」
「ありゃ、それは残念」
「ホントだね。張り切ってたのに」
「思い出にはなりましたもの、残念でもありませんわ。でもそんなわけで、私としては形に残るものを推したい、というところです」
 
 現在三人が頭を悩ませている切っ掛けは、一年菊組の教室から出る際に言い放った茜さんのこんな一言だった。
「百合子さまに何かして差しあげることはないかな?」
 百合子さま、とは三年松組に在籍なさっている青田 百合子(あおた ゆりこ)さまのことだ。
 三年生であられるので最近はほとんど登校なさっていないけれど、名義上は三月末日まで当代リリアン図書委員長である。
 最もお世話になっているお姉さまの一人で、桃花も百合子さまから委員会の仕事その他もろもろをこの一年で優しくも厳しく教わった。
 主に、厳しく。
 
 でも性根は優しい方だって元々知っていたし、秋頃の色んなイベントでより距離の近づいた桃花には、苦手意識なんてものは全くない。
 そもそも、百合子さまは桃花のお姉さま、天野 早苗(あまの さなえ)さまのお姉さまでもあられる。
 早苗さまを挟んで姉と妹。火花を散らすようなことはなかったけれど、微妙な立ち位置や座席取りはもはやおなじみである。
 だから、茜さんの提案には二つ返事で頷いた。
 頷いた、のだけれど――
 
「もの……うーん、何が良いかね。定番だとアクセサリーとか置物なんだろうけど」
 晴れ渡った青空を見上げながら茜さんが唸る。
 そう、百合子さまに何かして差し上げること自体は大賛成だ。
 ただ具体的に何をして差し上げるのか、あるいはどんなものを差し上げるのか。
 それが難しい。
 先日のバレンタインでも散々悩んだようなことだけれど、誰かに何かをして差し上げようとなると避けては通れない道なのだろう。
「置物? 表彰の楯みたいなの?」
「その例えはどうかと思いますけれど……まぁ、そのような。綺麗なガラス細工なんて素敵ですわね」
 ダイレクトに”置物”から連想した言葉に苦笑した小春さんは、そう言って想像力の足りない桃花をフォローしてくれた。
 綺麗なガラス細工。つまりが実際に置いて、見て、それで楽しむものだ。
 なるほどそれは良い案だけれど、ああいうものは安価なものはやたら見た目もチープで、見栄えの良いものを用意しようと思うと金額もかつんと跳ね上がるものが多いような気がする。
 見た目が全てのものだから仕方ないけれど、余り高価なものをお渡しするのも気がひける。
 かと言って貧相なものをお渡しするくらいなら、もう別の手を考えたいところだ。
 
 
 そんなこんな、三人揃って頭を捻りながら冬風の吹き抜ける銀杏並木を歩いていると。
「あらぁ、桃花ちゃんたちじゃない!」
 そんな声が聞こえた。
 聞いたことがあるようなないような、不思議な声。顔を上げると右前方、一人のリリアン生徒が桃花たちに向けて満面の笑みで手を振っていた。
 ポニーテールで括っている桃花と同じくらいに長い髪はストレートに下ろされて、冷たい風に揺れている。
 桃花は右の茜さんを見た。茜さんも桃花を見ていた。
 桃花は左の小春さんを見た。小春さんもやっぱり桃花を見ていた。
 確信した、三人が考えていることはこの時ばっちり一致している――「あの人、ダレ?」と。
 
 親しげに「桃花ちゃんたち」と呼ばれはしたものの、桃花たちからしてみればその顔にさっぱり見覚えがなかったのだ。
 遠めに見ただけでも強烈に自己主張しているさらさらの黒髪は背中まで伸びている。派手ではないけれど、目立つ髪形。
 校内で一回すれ違うだけでも結構印象には残りそうなものなのに、桃花にはそんな記憶がない。桃花自身、髪が長いからその辺りやや無頓着なのかもしれないけれど。
 しかも桃花「ちゃん」、ときた。
 リリアンにおいてその呼びかけをされるということは、ほとんどの場合において桃花たちから見て年上、すなわちお姉さまであることを意味する。
 部活動に入っていない桃花にとって、縦の繋がりはほとんどない。
 あるとすれば所属する図書委員会くらいだけど、桃花の記憶が正しいなら、少なくとも目の前の方は図書委員会には所属していないはずだった。
 
「おーい。ちょっと、三人とも固まってないで。こっち来なさいな、警戒されると哀しいわ」
 その方はやっぱり親しげに桃花たちをそう手招きするけれど、それでホイホイついていくほど桃花たちは純朴ではなかった。
 ……というか、あやしい。
 かなりあやしい。
 目を細めてじぃっと眺めても、一度目を閉じて頭を空っぽにして、それで改めて見てみてもやっぱり桃花には心当たりがなかった。
 けれど。
 
 この馴れ馴れしさ、どこか別の場所で感じたことがあるような。
 あの綺麗な髪、自慢げにたなびかせた方がおられたような。
 
 そんな思いがどこからか飛んできた流れ矢のように桃花の胸を貫いた。
 それは突然だった。何が切っ掛けだったのか、わからないけれど。
 でも確かにそんな記憶があった。顔よりも態度、そして綺麗な髪の毛が鍵になって、あっという間に記憶の引き出しが開いていく。
「あ」
 そして思わず不躾ながら指差してしまった桃花をとがめることはきっと誰にも出来なかったはずだ。
 だって、その方は桃花も合わせて数回しか会ったことがない方であるし。
 そもそもこんなところで会うべき方ではない。会えるような方ではない。
「ああっ!」
 でも間違いなかった。
 気付かなかった最大の要因は、彼女が「リリアン生徒」であったことだ。
 
 
「の――」
 
 
 〜〜〜
 
 
「のどかっ!!」
 
 
 数分前の桃花と同じような大声が、図書館に響いた。
 もちろん桃花の場合は敬称つきだったけれど、この際そんなことはどうでも良い。
 ある意味予想通り、だけどいつも冷静だった百合子さまからしてみれば予想外に大きなリアクション。
 何事かと、数人しかいなかったとはいえ、全ての来館者が顔を上げて桃花たちのいるカウンターを見た。
 
「大きな声出すんじゃないわよ、まったく。ここをどこだと思ってるの、図書委員長さま?」
 そういって呆れたように肩をすくめるのどかさま、フルネームで椎田 のどか(つちた のどか)さま。
 年齢は桃花より二つ上、百合子さまと同級生の三年生だ。
 リリアン高等部では、ないけれど。
 のどかさまは今年度の春、というよりも昨年度の末にリリアンから他校に転校なさっている。リリアンで会えるような方ではない、とはそういうこと。制服を持たれているのはそれで納得だけど、それを身にまとってリリアンに現れた意味はさっぱりわからない。
 そもそも今日は祝日でもなんでもない普通の土曜日。
 他校とはいえ一般の学生であるのどかさまが、ひょっこり転校前の学校に現れることができるものなのだろうか。
 
「あ、あんたね。何考えてるの。今日、学校はどうしたのよ」
「何言ってるの。今の時期、私らに学校なんてあってなきものでしょ。お気楽極楽自主登校、だから私は自主的に登校したってわけ」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ――って、早苗! あなた、こういうことね!」
 顔を覆って首を振り振り、図書館だということも(多分)忘れられて百合子さまは再度声を荒げられる。
 桃花の隣でことの推移を見守っていた早苗さまは、答える代わりににっこり微笑まれて小さく首を傾げられた。
 何のことだか、と仰る仕草だけど、それはもうほとんど肯定の意味だ。
 百合子さまは額に手を当てて唸られた。
 
「でも本当に来られるんだから、のどかさまも大概よね」
 茜さんの隣、小声でそう仰って苦笑されるのは平坂 紫苑(ひらさか しおん)さま。
 百合子さまから引き継いだ図書委員会を早苗さまと並んで引っ張られるお三方の二人目。腕を組んだ姿勢がキマっている、茜さん自慢のお姉さまだ。
 そうして最後の一人は今、桃花を挟んで早苗さまの反対側に立っている一之瀬 菫(いちのせ すみれ)さま。
 桃花の実の姉にして、のどかさまの妹に当たる。とはいえもうのどかさまはリリアンっ子ではないので、元・妹かな。
 でも眼鏡の奥から百合子さまらを見つめる視線は、早苗さまや紫苑さまとはやっぱりちょっと違うものだった。
「でも、のどかさまらしいと思います。菫ちゃんから聞いたときはさすがに驚きましたけれど」
 くすくす笑いながら頬に手を当てられる早苗さま。手首できらりとシルバーのブレスレットが光った。
 本来、のごかさまのお言葉にある通り百合子さまは自主登校の身。半日授業の土曜日ともなれば、登校なさること自体が珍しい。
 そこに早苗さまが介入し、このサプライズを仕組んだとのこと。
 もちろん話の流れはのどかさま→お姉ちゃん→早苗さま→百合子さまという流れなのだろうけれど、妹はこういう大事な話をする場合、相変わらず蚊帳の外だ。
 早苗さまはともかく、同じ屋根の下で暮らしているお姉ちゃんに関してはいい加減待遇改善を要求すべきかもしれない。
 
「菫ちゃん……どうですか。一年ぶりでしょう、のどかさまの制服姿」
「早苗、その言い方だと私がなんだか制服フェチみたいじゃない」
 冗談めかして言いながら、お姉ちゃんはでも結局頷いた。
 うん、って。
 妹の桃花の前では絶対にしない相槌を打って。
「夢みたいだわ。この図書館に、お姉さまがもう一度来られるなんて」
 お姉さま。
 お姉ちゃんはのどかさまをそう呼んだ。
 転校しても、すぐ傍にはおられなくなっても、やっぱりお姉さまはお姉さまなんだ。
 
 無意識に桃花は早苗さまを見た。
 その視線に気付いたのか、頬から手を下ろされて桃花に向き直る早苗さま。
「どうかしましたか?」
「いえ、ただ――」
 すぐ傍に早苗さまがおられる桃花はきっと幸せものなんですねって。
 思っただけです。お姉さま。
 
 
 やがてのどかさまが百合子さまを引っ張って司書室に消えると、図書館は改めて静けさを取り戻した。
 茜さんと紫苑さまは返却本の整理へ、桃花は早苗さまと並んでカウンター待機。
 小春さんとお姉ちゃんも始めはカウンターにいたけれど、いつの間にか消えていた。司書室に行ったのだろう。
「不思議です」
 不意に、早苗さまは小さくそう呟かれた。
「不思議?」
 おうむ返しに桃花が言うと、早苗さまは手元の書類に視線を落としたまま頷かれる。
 どこか物憂げな横顔に見とれそうになる自分を自戒、自戒。
 桃花は気をしっかり持って言葉の続きを待った。
「のどかさまがおられて、桃花がいる今が、不思議です。一年前に戻ったような……戻ってないような。それぞれは自然なことなんですけれど、その二つが合わさると自然ではなくなってしまうことなんてあるんですね」

 早苗さまの仰ることは、何となくだけど桃花にもわかるような気がした。
 のどかさまがリリアンにおられた昨年、桃花はこの図書館にほとんど来ていない。
 お姉ちゃんがいたから、全く来ていなかったわけじゃない。早苗さまともその頃にはもう知り合ってはいたはずだ。
 もっとも、当時の桃花にとって早苗さまは「お姉ちゃんの友達」であって、存在とその名前を覚えていたくらい。顔まではきっと覚えていなかった。
 当時の早苗さまも、桃花は「菫ちゃんの妹さん」くらいにしか考えておられたなかっただろう。そしてその頃には、そんな桃花なんてどうでも良いくらいに大きな存在――「菫ちゃんのお姉さま」であるのどかさまがおられた。
 この図書館に、百合子さまと一緒に指示されるのどかさまの下に、早苗さまはおられた。
 それは一年間続いた。
 
 のどかさまがリリアンを去られた今年、桃花はこの図書館に通いつめている。
 お姉ちゃんがいたからではなく、もちろん始めはそれが主目的だったけれどともかく、そうやって桃花は本格的に早苗さまと知り合った。
 のどかさまの存在自体は知っていた。お姉ちゃんとの会話、年度始めの図書館においてその名前は頻繁に出ていたから。
 何度か一之瀬家に遊びにも来られている。桃花の中にあるのどかさまの記憶はそこでのものだ。
 でも桃花の良く知るこの図書館にのどかさまはおられず、図書委員会最高学年は百合子さまお一人で、それが普通だった。
 この図書館に、百合子さまが指示される下で、桃花や茜さんたちの面倒をみながら、早苗さまはおられた。
 それも一年間続いた。
 
 図書委員会に、桃花とのどかさまが同時に所属した時期はない。
 でも今、のどかさまはリリアンの制服を着て、図書館におられる。
 桃花たちが一所懸命に働いている、この図書館におられる。
 それはきっと、同じ図書委員会として。
 
 桃花にとってもそれは不思議だった。
 桃花の知らない一年前の図書委員会が、今、少しだけ蘇っているのだから。
「お姉ちゃん、嬉しそうでした」
 早苗さまと二人きりということで、桃花は気取らずいつもの呼び方でお姉ちゃんのことを話した。
 「そうですね」と頷いた早苗さまも嬉しそうで、それが桃花の心を温かくする。
 お姉ちゃんとのどかさまの絆、交流の線は途切れているわけではない。今でも結構頻繁に連絡を取り合っているそうだ。
 それでも、電話越しの声や私服で遊びに出かけるのと、制服で、そしてこの図書館で会うのとは意味が違う。
 きっと、すごく、意味が違う。
 だからお姉ちゃんはあんなにも嬉しそうだったんだろう。
 だから、あんなにも切なそうだったんだろう。
 
「今頃、中で何を話してるんでしょうね」
 司書室の扉を振り返りながら桃花が言う。
 いつも司書室におられる、リリアン図書館の事務兼司書さん、藤堂 若菜(とうどう わかな)さまは勤められて長い。
 当然のどかさまがおられた頃から司書室にはおられた。
 歴代の図書委員会と極めて深い交流を持たれる若菜さまのこと、のどかさま不意の来訪に積もる話もあるのだろうと思う。
「紫苑ちゃんたちが帰ってきたら、私たちも行ってみましょうか。一年前の話が主になるので桃花には少し詰まらないかも知れませんけれど……」
 申し訳なさそうに仰る早苗さまに、桃花は首を横に振った。
 確かに話の内容は桃花にわからないことばかりだろうけど、桃花の知らない時代の話が聞けるのだから同席する価値は十分にある。
 それに、早苗さまだってのどかさまとお話したいはずなんだ。
 桃花を置いてきぼりにするかも知れない、って思ってもそれでも。
 そんな、ある意味でのワガママを早苗さまが仰ることはとても珍しい。
「詰まらなくなんてないですよ。是非に」
 だから桃花は、どこか誇らしい気持ちで頷いた。
 早苗さまはにっこり笑って、「ありがとう」って仰ってくださった。
 
 
 なーんて、言ってたのだけれど。
「早苗ちゃん、SFの棚ってあっちの奥じゃなかったっけ?」
「ああ、ええと元はそちらだったんですけど。今は三本奥の左側に移動してます」
「ほいさ、了解」
 リリアン生徒にあるまじき(リリアン生徒ではないのだけど)軽すぎる返答と共にのどかさまは軽く手を振られて、早苗さまの指差した方向へ向かわれた。
 胸に抱えるのは三冊束ねたSF小説。先ほど返却された図書館の蔵書だ。
「心配だからちょっと行ってくるね」
 そういってお姉ちゃんが後を追う。
 にこやかに手を振る早苗さまの背後で、百合子さまが長いため息を吐かれていた。
 
 のどかさまたちは、茜さんたちが帰ってくるよりも先に司書室から出てこられた。
 そしてその第一声がこうだ。
「さて。早苗ちゃん、何か仕事ない? 雑用でもパシリでも何でも良いよ。私に何かやらせてちょうだい」
 曰く、今日は元図書委員会メンバーとして繁忙たる図書館のお手伝いにやってきた。
 今日は土曜日で、もともと平日に関しても大きなイベントでもない限り閑散としている図書館をご存知であるはずだから、結局はそれも建前なのだろう。
 仰る意図を測りかねて、目を白黒させる早苗さまと桃花に、のどかさまの後ろから現れた百合子さまが仰った。
「何でも良いのよ。掃除でも棚の整理でも。受付でぼーっとするよりは身体を動かせる方が良いわね……そこの本は?」
「あ、こちらはつい先ほど返却されてきた本です。管理番号の確認もまだですが」
「丁度いいわ。のどか、それやんなさい。今更手順なんて聞かないわよね」
 するとのどかさまは耳の後ろで髪を書き上げ、「ふふん」と自慢げに鼻で笑われる。
 似合いすぎる流し目と合わせてさらさらの髪が散り、その姿は誰がどう見てもリリアン全開のお嬢さまだった。
「まかせなさいな。一年くらいで自分の庭を忘れるわけがないわ」
 
 お言葉通り手早く確認を終えたのどかさまはそれを持って意気揚々と出かけたのだけど、夏頃の大整理で配置が微妙に変わっていることはさすがにご存じなかったようだ。
 カウンターに残された面々に苦笑が漏れる中、百合子さまが仰った。
「まったく世話を焼かせるわ。ごめんね、皆。大所帯にしちゃった上に面倒ごと引っ張り込んで」
「面倒ごとだなんて、そんなことはありませんわ。私たちにとっても良い思い出になりますもの」
 ね、と桃花に振ってくる小春さん。
 桃花は頷いた。
「はい、楽しいですよ。何だかんだ言って百合子さまも菫さまも楽しそうですし、たまにはこんな日も」
 そんな言葉に小さく肩を竦められた百合子さまは、何だかちょっとだけ幼く見えた。
 
「でも本当に、懐かしいですね。昔を思い出します」
 早苗さまはそう仰って、過去に思いを馳せるように少しだけ目線を上げられる。
 その視線の先に思い出されているのは、桃花のいなかった去年のこの場所だろうか。
 そうねと呟かれた百合子さまの呟きが、静かな図書館に流れて消えた。
「あの、少しだけよろしいでしょうか」
 おずおずと手を上げた小春さんに視線が集まる。
 小春さんは言った。
「あの、ちょっと踏み入った話になるかもしれないのですけれど……のどかさまはどうして転校なさったんですか?」
「小春さん」
 それはプライベート過ぎるんじゃない、と咎めかけた桃花とは対照的に、百合子さまはあっけらかんと仰った。
「どうしてもなにも。家庭の都合ってやつよ」
「確か、お父さまが転勤なさったのですよね」
 その辺りの事情はご存知らしい早苗さまが補足される。
「元々はのどかさまだけこちらに残って、ご両親が他県に行かれるという話だったと記憶しておりますが……」
「あの子、思いっきりファザコンだから。ほとんど無理やり付いていったのよ」
「ファザッ」
 予想もしていなかった言葉に、桃花は思わず繰り返した。
 ファザコン。
 ファザコンかー。
 やっぱりいるのかなぁそういう方。
 何だか今日一日でのどかさまの印象が大いに変わりつつあることを自覚しながら、桃花は胸中で首を捻った。
 
「で、では割と望んで転校なさったのでしょうか?」
 その展開は小春さん的にも意外だったようで、顔を引きつらせながら問う。
 それに答える前、近場にあった席に百合子さまが腰掛けられると、皆思い思いの席に座った。
 開館中の図書館なので声は潜めているけれど、何だかまったり語りムードである。
「そうね、そういえると思う。私も止めたし、菫ちゃんなんて泣いて縋ったのに」
「なっ!」
 だというのに桃花は大声を上げて、しかもガタンと椅子の音を大きく立てて立ち上がってしまった。
 あっけに取られる図書委員会一同。そして背後からぐさぐさと突き刺さる視線。
 恐る恐る振り返ると、やっぱり来館者全員が本やノートから顔を上げて桃花を見つめていた。
 すみません、と両手を合わせて頭を下げて、引っ込むように着席。
 百合子さまの厳しい御目が痛かった。
 本当は先ほど、桃花と同様の失態をされてはいるのだけれど、ここで持ち出そうものなら大変なことになる。
「す、すみません……あんまりにもあんまりだったので」
 言い訳にもなっていない言葉を紡ぎながら桃花は小さくなった。
 
 でも、それはもう仕方がないことだと百合子さまにもご理解していただきたい。
 菫ちゃんなんて泣いて縋ったのに。
 お姉ちゃんが泣いて縋ったのだ。あの、お姉ちゃんが。桃花のお姉ちゃん、一之瀬 菫さまが。
 信じられない。
 いつもクールで知的な眼鏡をきらりと光らせているお姉ちゃんが、そんな。
 
  行かないで、待ってくださいお姉さま!
  ごめんなさい。わかって、菫。私にはもう選択肢がこれしかないの。
  どうして! どうしてですか! お姉さま、私よりもあの方を選ばれるのですか!
  選ぶなんて言わないで! 私だって辛いのよ! でも、私はどうしてもあの人を諦めることが――
  お姉さま! お姉さま!
 
 無理やりに想像した光景は、そんな風にきらきら輝く涙を零しながらのどかさまに詰め寄るお姉ちゃんの姿だった。
 なんだ、これ。
 というかこれは明らかに恋人に捨てられたヒロインの図。しかもあの方、あの人、っていう対象はのどかさまのお父さまだし。違うと思う、いくらなんでも。
 ええとリリアン風にすると、こんな感じ?
 
  お姉さま――ああ、お姉さま。お願いです、どうか思いとどまってくださいませ。
  泣かないで、菫。もう決めたことなの。私はもうリリアンを去るわ……あなたを一人残してね。私を呪いたければ呪っても良い。それで気が済むのなら。
  そんな、お姉さまを呪うだなんて私にはできません。お姉さまは、私のお姉さまなのですから。
  ありがとう、可愛い菫……いいこと。確かに私はもうあなたの傍にいることは出来なくなってしまう。でもそれは、これでお別れという意味ではないわ。
  ぐすっ、ぐすっ、お姉さま……?
  私たちにはそのロザリオが繋いでくれた絆がある。リリアンの姉妹として結ばれた事実がある。それはいつまでも続くものよ、終わらない誓いよ。
  ロザリオ……姉妹……
  そう。私たちは――
 
 だから、待て。桃花。
 とりあえず誰だこの二人は。のどかさまはともかく、お姉ちゃんは明らかに別人だぞ。
 もう想像してて身悶えしたくなるほど麗しい別れだけど、さすがに非現実的っぽい。
 うーん。今ののどかさまとお姉ちゃんを当てはめてみると……
 
  もうすぐですね、出発の日。
  そね。まぁ、でもどうせすぐまた会えるわよ。適当に帰ってくるし。
  ロザリオ、頂いたままでもよろしいのですよね? まぁ、今更返せと言われるとちょっと哀しいのですけれど。
  あら、ちょっとなの? そんな可愛くないこと言うんだったら返してもらおうかしら。
  お、お姉さま。
  うふふ、冗談よ。こおんな美人のお姉さまが居たんだということを末代まで語り伝えるためにもそれは必要でしょう。持っていなさい。
  ……はい。はい、お姉さま。……どうしても、行ってしまわれるのですよね。
  そうね。自分勝手で本当に悪いとは思っているのだけど、そもそも私に一人暮らしなんて無理だから。百合子のこと、よろしく。
  ……ぁい。っわかりました。
  ほら、もう泣かないのよ。さっきも言ったけれど今生の別れでもないんだから。
 
 こんな感じだろうか。
 あり得る。あり得るけど、本当にありそうで逆に嫌だ。
 お姉ちゃんが、あのお姉ちゃんが誰かの前で泣きながらそんなことを言うなんて――、などと悶々考え続けていた桃花に、百合子さまは仰った。
 非常に軽く。
「まぁ泣いて縋ったってのは冗談だけどね」
「冗談ですかっ」
 もう振り回されっぱなしで桃花の方が泣きたい。
 でも桃花の隣で早苗さまが苦笑されているところを見ると、あながち冗談でもないのかな、と。
 桃花は不満げに唇を尖らせながら思ったのであった。
 
 
 それからもしばらくのどかさまの思い出話なんかで静かに盛り上がっていたところに、どこか遠い……というか先ほど早苗さまが指差した方向。
 のどかさまの消えられた方向で楽しげな笑い声が聞こえた。
 声から察するに、紫苑さまと茜さんだ。お二人とも帰りが遅いと思っていたら、どうやら向こうでのどかさまたちと合流したらしい。
「まったく、相変わらず騒がしいったらないわ」
 憤懣やるかたなし、と言わんばかりに肩を怒らせた百合子さまがカウンターを飛び出す。
 プリーツを翻して走る、とはいわないまでもリリアン流速歩術の中ではかなり高位の早歩きだ。
 私が行きます、と立ち上がりかけた小春さんにも気付かない勢いで、冷静さを欠いた百合子さまはすっ飛んでいかれた。
「な、なんだか百合子さまの印象も随分変わってきているような」
「あら、お姉さまはずっとあんな感じでしたよ。桃花たちも始めの頃は良く怒られていたでしょう?」
 くすくす笑われながら早苗さまは仰ったけど、うーん。
 確かに百合子さまに怒られっぱなしだった年度始めの記憶は桃花にある。でもあんな怒り方じゃなかったような気がするのだ。
 もっと静かで、冷徹で、有無を言わせぬ迫力を押し付けるような。
 単に年の差で萎縮してしまっていただけなのだろうか。
 わからない。わからないけど――
 きっと、わからないままでも良いんだろう。
 年度始めの百合子さまも、今の百合子さまも、同じ青田 百合子さまであることは変わらないんだから。
 
 しょぼんと肩を落としたのどかさま、お姉ちゃん、紫苑さま、茜さんの四人と、その後ろで鬼気らしきものを立ち上がらせる百合子さまがカウンターに戻ってこられると、再びまったりムードが漂った。
 図書委員会が勢ぞろいした上に+1がカウンター内にいるので正直狭くて、椅子も足りなかった。
 でも漏れないように皆で声を潜めてお話をするのはとても楽しくて、そんなことは気にならなかった。足りない椅子は司書室から引っ張ってきた。
 のどかさまを質問責めにしたり、逆にのどかさまから今のリリアンを聞かれたり。
 時々発生する雑務はのどかさまが率先して行われた。
 一年生である桃花たちの立つ瀬がない、と訴えても聞いてはもらえず、とても楽しそうに詰まらない事務や面倒な整理作業を行われた。
「いやぁ、一年前はホンット、こんな詰まらないことやってられるかーとか思ってたけどね。久しぶりにやると楽しいわ」
 とはのどかさまの弁。
 ちなみに。
「遊びでやるんなら帰りなさい」
 とばっさりと切り捨てたのは百合子さまの弁。
 のどかさまはにへらと笑って受け流されたのだけれど、この辺りはさすがというか何と言うかである。
 もし同じことを桃花や小春さんが言われたら泣きながら逃げ出してしまいそうだ。
 
 閉館時間になると手分けをして片付けを行った。
 日々の作業の一部だけれど、さすがに人数が違う。瞬く間にそれは終わって、桃花たちは揃って外に出た。
「土曜日だし、とりあえず節度は守ってくれたから今回は良いけど。もうこんなことしちゃだめよ。図書館は喫茶店じゃないんだからね」
 その辺り、若菜さまからしっかりと釘を刺されはした。
 まぁ、お咎めなしなだけでも重畳である。
「でも椎田さんも、青田さんも。良い思い出にはなったかしら?」
 そんな言葉にのどかさまと百合子さまは、はっきりと頷かれた。
 のどかさまは満面の笑みで。
 百合子さまは渋い顔で、でもきっとそれは表面だけで。
 若菜さまは「それなら、良し」と微笑まれた。
 
「若菜さま」
 最後に、のどかさまは。
「去年も言いましたけど……二年間本当にお世話になりました。ありがとうございました」
 直角に身体を曲げる勢いでお辞儀された。
 不意に飛んできたそんな謝辞に、若菜さまが目を丸くされる。
 その時、早苗さまが片手で桃花の胸を押さえて、一歩下がるように指示された。
 同じように紫苑さまと茜さん、お姉ちゃんと小春さんも一歩下がる。
 若菜さまとのどかさま、そして百合子さまのお三方を残して。
 
「便乗するようで申し訳ありませんが――」
 そして一歩、前に出て。
 百合子さまも同じように頭を下げて仰った。
「三年間。お世話になりました。ここで学んだ多くのことを、私は忘れません。ありがとうございました」
 それは卒業にはまだちょっと早い時期でのお別れ。
 でもきっとこれが本当にお別れの言葉なんだろう。
 自主登校の百合子さまが登校されることはあと数えるくらいしかないはずだ。
 その中に閉館時間まで残って、若菜さまと会う機会が含まれるかどうかはわからない。
 だから今、ここで。
 百合子さまも若菜さまにお礼と、お別れを仰ったのだ。
 
「はい、お疲れさま。二人とも、大学に行ってからも頑張るのよ」
 数秒の間を持って、若菜さまはそう仰りながら頭を下げたお二人の肩をぽんぽんと叩かれる。
 顔を上げたお二人は声をそろえて「はい!」と大きな声で返事をされた。
 何だか呆気ないけど、爽やかなお別れだった。
 ふと、夢想する。
 目の前のお二方は、一年後の早苗さま、紫苑さま、お姉ちゃんの姿そのものなのだろう。
 きっとその頃も、お三方は自主登校になっているからきっとリリアンにはそうそう登校なさることはない。
 もちろん図書委員会からも手を引かれていて。
 三人ともが登校されることなんて相当な確率が成立しないとダメだ。
 
 その頃。一年後。
 桃花はやっぱりこうして、若菜さまにお礼を言う早苗さまを後ろから眺めているのだろうか。
 こんな風に早苗さまのご卒業を前に、新旧図書委員会が一堂に会する一日があるのだろうか。
 いや。
 きっとある。絶対、作る。
 ちょっと詰まらなくて少し面倒くさくてでも楽しくて嬉しくてそれぞれやり続けてきた図書委員会の仕事を、皆でもう一度最後にする一日。
 それはきっと、今日の百合子さまはのどかさまと同じように、楽しさも嬉しさも何倍にも感じられる素敵な一日になってくれるだろう。
 
 ちらりと盗み見た早苗さまの横顔に、桃花はそんなことを感じていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 三年生二人、二年生三人、一年生三人の都合八人という本年度図書委員会始まって以来の大所帯で、夕暮れの銀杏並木を行く。
 学年の順に三列に並んだ桃花たちは、慌しかった今日という一日を振り返りながら、ゆっくりと長い並木道を歩いていた。
「でも思い切ってるよねー、制服と生徒手帳があるからって昔の学校に忍び込むなんて」
 今日一日で一気にのどかさまと親しくなった茜さんは、そう言ってからから笑う。
「ホントだよ。ちょっと凄いなんて一言で言っちゃって良いのかどうかもわかんないくらい凄いね」
「でも今日は、ほんの一日で百合子さま方の色んな面を知ることができましたわ。惜しいですわね」
 残念そうに俯く小春さんの気持ちは痛いほどに伝わった。
 もしのどかさまが転校なさっていなかったら、今日みたいな一日はこの一年間ずっと続いていたのだ。
 惜しい。
 本当に惜しい。
 それはのどかさまがいなかったからこの一年は楽しくなかったという意味では決してなくて。
 この一年とは全く違った、別の楽しい一年もあり得たのだという可能性を知ってしまったから。
 知らない間は欲しくなくても、知ってしまえば欲しくなる。人間てそんなものだ。
 
「のどかさま、か。お名前は良く聞いていたけど……あんな楽しい方だったんだね」
 しみじみと桃花が呟くと、隣で茜さんもうんうんと頷いた。
「私たちと入れ替わるようにして転校された、って話だけだったもんね。色んなこと想像しちゃったよ」
「色んなこと?」
 小首を傾げる小春さんに、茜さんは声を潜めて続ける。
「だってさ、何か転校って聞くと訳ありっぽいじゃん? 特にうち(リリアン)からって聞くと。転校じゃなくて退学寸前だったとか……ほら、黄薔薇革命の時の黄薔薇さまみたいに」
「妊娠騒動? まさか」
「相変わらずゴシップ好きですわね……まぁ今年は色々かわら版が騒がしてくれましたから、わからないでもないですけれど」
「何よ、二人ともその辺り全然考えなかったっての?」
 桃花と小春さんの返しが気に入らなかったのか、茜さんはちょっと不満げにそう言った。
 小春さんと顔を見合わせて思わず笑う。
「だって一応、私は菫さまと今でも仲が良いってこと知ってたし。そんな大問題の末の転校だとは思ってなかったなぁ」
「私は……恥ずかしながら、余りのどかさまのことは考えてもいませんでしたわね。そんな方が居たんだ、くらいで」

 枯れてるなぁ、と茜さん。
 間違ってるのは桃花たちの方……だとは余り思えないのだけど、ここは黙っておく。
 代わりに言った。
「それよりもさ、さっき思ったんだけど。来年もこういうのしない?」
「こういうの、と言いますと?」
 茜さんはぶうと頬を膨らましたままだったけれど、小春さんが問い返してくれる。
 ふて腐れは放っておくことにして、桃花はその小春さんに向き直った。
「今日みたいに、皆で集まって仕事するの。一年生から三年生まで。多分、秋くらいまではそれが普通なんだろうけど……この時期になると、多分ちゃんとお誘いしないといけないから」
 気が早いですわ、と前置きしてから小春さんは頷く。
「良いと思いますわ。桃花さんの仰るとおり、その頃は紫苑さまたちもお忙しいでしょうから、実質委員会活動には来られないでしょう」
「だよね。うん、約束だよ。きっとしよう」
「ちょっとちょっと、置いてきぼりにして話し進めないでよ」
 そんな風に途中から割り込んできた茜さんを交えて、三人で来年の話をする。
 現実味があるかどうかもわからない、とても不確定で遠い未来の話だけど、でもきっと確定して現実のものなるんだ。
 そんな根拠のない自信が、桃花の中に溢れた。
 
 
 リリアン正門にて。
 長いようで短かった半日というのどかさまとの時間。
 それが終わろうとしていた。
 
「さぁて、それじゃあここでお別れかしら」
 いつの間にか八人ごちゃまぜの集団になっていた桃花たちだったけれど、のどかさまがそう仰って足を止めると、いつの間にか正門をはさんでリリアン内外に分断されていた。
 リリアン内にはのどかさまとお姉ちゃん。
 リリアン外にはそれ以外の六人が立っている。
「もう少し残っていくの?」
 百合子さまが問われると、のどかさまは「もうちょっとだけね」と頷かれた。
 その隣にはお姉ちゃん。
 きっと、お姉ちゃん以外はその場所に立ってはいけないということなのだろう。
「今日は楽しかったわ。本当に。色んなこと思い出したし、色んなこと教えてもらった。ちょっと恥ずかしかったけど」
 スカートを摘んでちょっぴり笑う。
 やっぱり恥ずかしかったんだなぁ、そりゃそうか。
 思わず笑ってしまった桃花の隣で、早苗さまが仰った。
「お久しぶりにお会いできて嬉しかったです。何かの折にはまたいらして下さい、学園祭などもございますから」
「ですね、図書委員会一同お待ちしてますよ。菫のことも、より一層可愛がってやってください」
「ちょっと紫苑」
 茶化した紫苑さまをお姉ちゃんが咎めると、のどかさまは「言われなくとも」大笑いされた。
 一年生三人は気持ち半歩下がって、ぺこりと頭を下げる。
 今日半日お世話になりました。
 これからも、是非よろしくお願いします。
 そんな言葉を内にこめて。
 のどかさまは三人の顔を見渡して、それから、うん、と頷かれた。
 
「じゃあね、のどか。また連絡するわ。菫ちゃんも、ごきげんよう」
「のどかさま、菫ちゃん、ごきげんよう」
「ごきげんよう。お元気で。菫もごきげんよう」
『ごきげんよう、のどかさま、菫さま』
 
 百合子さま方はそれぞれに、桃花たちは一斉に、お別れの定例句。
 のどかさまは全部まとめて。
「ごきげんよう。皆」
 と、何かの達成感を滲ませる、とても清清しいお顔で仰った。
 
 
 改めて着いた帰路にて。
「きっと来年も同じことをしようね、って茜さんたちと話してたんです」
「それは良いですね、是非に。私も楽しみです」
「その時には桃花ちゃんにも妹がいるのかな? その場にいられないのは残念だわ」
 なんて、未来の話をしたり。
 
「でも小春ちゃんがのどかさまと初対面、ってのも考えてみれば意外な話ね」
「え? 何故ですか? 私たちが高等部に入った頃にはもうおられなかったのですし……不思議ではないかと」
「いやそりゃ、百合子さまベッタリの小春が、のどかさまと会う機会がなかったのかなーって話だよ。ね? お姉さま」
「ベッ! ベッタリという言い方はどうかと思いますけれど」
「いや、実際そういう意味だけど?」
「紫苑さままで……もう」
 なんて、今の話をしたりして。
 
 図書委員会の面々はおのおの、不意に始まって慌しい半日と大切な思い出をもたらしてくれた、のどかさまリリアン来訪のイベントを振り返っていた。
 百合子さま、のどかさま、早苗さま、紫苑さま、お姉ちゃん、桃花、茜さん、小春さん、そして若菜さま。
 集まるはずのなかった九人が集まった、今日という一日は奇跡みたいで楽しかった。
 でもそれは。
 きっと今の時期だから起こりえた奇跡なんだろう。
 
 卒業。
 百合子さま、そしてのどかさまの門出。
 
 それは近い、とても。
 きゅっと胸を締めるそんな思いに、桃花は思わず後ろを振り返った。
 リリアン女学園。
 桃花たちが過ごす、早苗さまたちが過ごす、そして百合子さまが過ごす学び舎。
 校内を吹き抜ける風は、もう春の香りを含んでいた。
 九人が集まることはもうない。
 そして八人が集まることも――あと、僅か。
 胸を締める思いは、まるで悲鳴のようだった。
 
 きゅっ。
 その時、右手を誰かに掴まれた。早苗さまだった。
 ぎゅっ。
 その時、左手を誰かに握られた。百合子さまだった。
 両手から伝わる優しい体温、柔らかな肌の感触。
 それは両手を誰かに取られる、ちょっと幼稚な格好。
 構わなかった。
 
 桃花はちょっと俯いて。
 すんっ、と小さく鼻をすすって。
「えへへ、ありがとうございます。お姉さま。百合子さま」
 そう、笑うことができたから。
 
 
 ちなみにその頃、人気のないリリアンにて。
 誰に知られることもなく、秘めやかに歩く二人のこんな会話があった。
 
  こうして回ってみると、やっぱり変わらないわね。
  一年くらいじゃそうそう変わりませんよ。
  あはは、それもそうか。でもアレね。菫も変わらなかったのね、この一年で。
  ? 何がですか?
  あなたの首に、結局今もロザリオは掛かってるなってこと。
  それは。
  桃花ちゃんに限らず、あなたの傍にいてくれる子が……現れてくれたらなって思ってたから。
  それは……お姉さまの代わりに、という意味ですか。
  そうは言わないけど。そうね。近いわね。
  
  もう、相変わらず菫は泣き虫ね。やっぱり変わらないわ。
  ……っ一年くらいじゃ、そうそう、変わりませんよ。
 
 
 変わらない日々。
 変わっていく日々。
 春の訪れは、もう、間近――。


一つ戻る   一つ進む