その日、久々に祐巳さまと二人きりになった。
志摩子さんは環境整備委員会で遅くなるし、由乃さまは部活。
三年生達は、最近は滅多に顔を出さない。
一月の雨に降られて冷え切った薔薇の館には、ただ静かに雨音だけが響いている。
「雨、やまないね」
紅茶を煎れていた私の耳に、祐巳さまの独り言のような声が聞こえた。ふと見れば、祐巳さまは窓際に佇み、曇った空を見ていた。
「やみませんね」
私はなんとなく答えて、おや、と首を傾げた。
「なんだか憶えがあるやり取りですね」
「そうだね」
「雨やまない」と言ったのは私だったような気もするけれど、大した違いではないだろう。
あの日も雨で。
奇しくも、祐巳さまも憂鬱そうな顔をしていたっけ。
ほとほと姉妹問題で苦労するお人だと思う。瞳子も何を考えているのかわからないし。
「ねえ乃梨子ちゃん」
「はい?」
「アメフラシって雨を降らせるのが仕事なんだっけ?」
「…………さあ、どうでしょう」
さすがにそんなことはわかりません。興味外です。
「…………」
「…………」
……なんだ、この微妙な空気の沈黙は。
祐巳さまがわけのわからないことを言うから、気まずいのかなんなのかよくわからない雰囲気になっているじゃないか。
祐巳さまは、恐らく本人でもどうでもいいと思っていた疑問を口にしたのだろう。その後何か言うようなこともなく、物憂げな表情で雨を見ている。
あんな顔をされたら、楽しい会話でも……という流れを作るのは無理だろうし、この雨の中「ちょっとトイレ」なんて逃げるのも正直寒いしつらい。温かい紅茶も捨て難いし、雨を抜けてやってくるだろう志摩子さんに私が紅茶を煎れてあげたい。そして「ありがとう乃梨子、おいしいわ」と極上の微笑みを向けられたい。
ティーポットに茶葉を入れて、私は決心した。
こんな空気のままここにいるよりは、何か話をした方がいい、と。
とすれば、私内ではあの話が一番に思い出される。
「この前のことなんですが」
「え? この前?」
「ええ、この前のことです――」
――私は用事があって薔薇の館に来るのが遅くなり、小走りでここへ向かっていました。
夕陽が差し込み、空は真っ赤で、私の影が長く伸びています。
いったい何の用事だったのかは自分でもわかりませんが、とにかく急いでいたんです。
もしかしたらちょっとした用事が夕方まで掛かってしまって、誰にも遅れることを伝えてなかったのかもしれません。
「ごきげんよう、遅くなりました!」
階段を急いで駆け、そのままこの部屋に飛び込んだんです。
そして、見てしまいました。
「ああ乃梨子ちゃん、遅かったね」
そこには二年生がいました――祐巳さまです。
で、もう一人の声が……
「遅いぞ一年生」
「あ、由乃さまも来て……わっ」
声に反応して見ると、テーブルには一匹の猫が座っていました。やや茶色がかったアメリカンショートヘアーの、子猫と言うには大きくて、成猫と呼ぶにはやや小さい感じでした。
「どうしたの乃梨子ちゃん?」
猫は由乃さまの声で、不機嫌そうに尻尾を揺らします。
「い、いや、あの……どうしたというか、……由乃さま?」
「ん?」
「……あの、いつ猫になられたので……?」
「猫って何よ失礼ね。人間でしょ、人間」
と、その猫は不機嫌そうに尻尾を揺らしつつ、由乃さまの声で不機嫌そうに言います。
そう、由乃さまは猫になっていたのです!
「――わかった。それ夢でしょ?」
チッ! またかこのタヌキめ!
「祐巳さま、他人が一生懸命育てた話を引っこ抜くのは反則だ……って、前に言いませんでしたか?」
「あ、ごめん。突拍子がなさすぎて」
確かめずにはいられなかった、と祐巳さまは苦笑した。ちなみに紅茶はもう煎れ終わり、私たちはテーブルに着いている。
まあ、祐巳さまが思わず確かめたくなる気持ちもわからなくはないが。あまりにも非常識すぎる話だと私も思うのだから。
「最初に言い置いておいてもよかったんですけどね。でも『夢オチかよ』ってつっこまれるのも、たまには一興かと」
「なんとなくわかる。最近アニメにしろなんにしろ、夢オチって少ないからね」
「夢オチ」は、とんでもない大風呂敷や絶体絶命的危機を「全部夢でした」で終わらせる荒業だ。話にのめり込んでいる人ほど、それに向かう怒りは深い。
「それで、話はもう終わりなの?」
猫由乃さまが新鮮なのか、祐巳さまは笑いながら話の続きを催促する。
「もう少し続くんですけど――」
言いかけた時、階段を登る複数の足音が聞こえた。
「ごきげんよう。寒いねー」
「ごめんなさい、待ったかしら?」
やってきたのは、由乃さまと志摩子さんだった。私と祐巳さまは「ごきげんよう」と挨拶を返し、私は紅茶を煎れるべく立ち上がる。
「あれ? 由乃さん、今日部活じゃなかったの?」
そうそう、私も部活だと聞いている。
「こんな寒い日に道場の床をはだしでなんて、虐待よ」
背後から聞こえる会話によると、どうやら由乃さま、「山百合会の仕事が」という言い訳をして逃げてきたようだ。本当は大した仕事もないのに。
「……で、なんか話してたの?」
「え?」
「祐巳さんの私を見る目が面白がってるから」
……鋭いな、由乃さま。いや、祐巳さまがわかりやすい、と解釈するべきか。
「ああ、うん、乃梨子ちゃんの夢の話を聞いてたんだ」
「夢?」
「由乃さんが猫になってた、って話」
「はあ?」
なにそれ、という反応の由乃さま。
「その事実だけ聞くと、確かに夢らしいわね」
いつもは世間話のようなものには聞き役に徹する志摩子さんも、面白がっているのか口を挟んだ。
「ふーん……猫ねぇ」
「猫由乃さんだよ」
「なにそれ」
由乃さまは呆れたように「ま、サルとかミジンコよりはいいかもしれないけど」と続ける。
ミジンコとかサルとかではなく猫だったおかげで、由乃さまは怒らなかった。
どんな夢を見るかなんて選べないのだから、ここで文句を言われても困惑する以外なにもできない。
「それで乃梨子ちゃん、私どんな猫だったの?」
怒らないどころか、むしろ興味を引いてしまったようだ。
私は振り返りつつ、
「茶色がかったアメショーっぽい感じでしたよ」
「可愛かった?」
「それはもう」
真面目にうなずくと、由乃さまは嬉しそうにふーんと笑った。
確かにアレは可愛かった。
……けど、それが問題だったんですけどね……
「それで乃梨子ちゃん、続きは?」
「え? 続けるんですか?」
祐巳さまの言葉にまた振り返ると、二年生達は全員私を見ていた。暇潰しにはちょうどいい程度にそそる話題だったようだ。
「今日は大した仕事もないし、四人もいたらすぐ終わるよ」
「……別にいいですけど」
だが、あの先は、当事者である(ような)由乃さまを入れてするべき話じゃない……と思う。
でも由乃さまが興味を持った今、話さないわけにはいかないか。今だけ逃げても今後ずっとネチネチ絡まれそうだ。
「くれぐれも言っておきますが、夢の話ですからね。怒ったりしないでくださいね。約束できないなら話せません」
二年生の「わかったわかった」という、信じるに値しない適当な相槌。どうでもいいから早く話せってことらしい。
まあ、形ばかりの約束でも、それが私の逃げ道に使えるんだから、それでいいことにした。
――そう、由乃さまが猫になっていたんです。
「え? 由乃さんが猫?」
祐巳さまは不思議そうに猫(由乃さま)を見詰め、そして私を振り返りました。
「由乃さんは由乃さんだよ?」
どうやら祐巳さまには、猫には見えていないようです。
「乃梨子ちゃん、いきなりなんなの。人のこと猫とか言い出して」
とか言いながら、猫由乃さまは後ろ足でバリバリ耳の後ろを掻いています。そんなの見せられて猫以外のなんだと思えとおっしゃるのやら。
「変な乃梨子ちゃん」
祐巳さまは笑い、私のために紅茶を煎れてくれました。その時なぜか私は、自分で用意しようとは思わなかったんですよね。まあ夢ですからお気になさらず。
そういうわけで、私は椅子に座りました。
正面には猫由乃さまが座っています。純度の高い翡翠を思わせる緑色の目で私を見ていました。
「……何見てるのよ」
猫由乃さまが低い声で唸りました。ふと思い出したのは、猫同士は目を合わせたらケンカになる、ということ。
人相手ではケンカになんてなりませんけど、それでも嫌がるそうです。
「由乃さま、やっぱり猫ですね?」
「だから誰が猫なのよ!? いいかげん引っ掻くわよ!?」
そんなところも猫ですね。
「機嫌がよくなるとゴロゴロ喉を鳴らすんですよね?」
「そんな不気味な奇怪音なんて出さないわよ! ――あ、ちょっとやめなさいよっ、顎を撫でるなっ!」
ここまで可愛いと、もう手も出るってものだ。触ってくださいオーラが常々出ているようなものだ。
「あ、そんなとこまで!? これはもうセクハラよ!」
ゴロゴロゴロゴロ。
……可愛いなぁ、猫は。
猫由乃さまは、知り合い(?)という贔屓目なしに見ても、かなりの美人でした。雪のような白とハチミツ色の虎柄に、ピンと張った白い髭。それはもう大変触りごこちの良い毛並でした。
たまりませんよね。猫って。
「あ、何やってるの!?」
少々我を失って撫でまくっていた矢先、祐巳さまの怒りを含んだ声が聞こえました。
「ダメだよ乃梨子ちゃん! 先輩に向かってそこまで無遠慮にセクハラするなんて!」
ずんずん近付いてきた祐巳さまは、珍しく怒った顔で私の手から猫由乃さまをひょいと取り上げました。首の後ろの皮を摘んで。
「ぐああっ。祐巳さんその持ち方結構苦しいんだってっ」
「あ、ごめんごめん」
濁った悲鳴を上げる猫と、猫に謝る先輩と。
……二人とも、いや、一人と一匹とも、この状況をちゃんと理解してるんじゃないでしょうか?
そんな素朴な疑問も浮かびましたが、黙っていることにしました。
「もう……いくら由乃さんが可愛いからって、触っちゃダメだよ?」
そう言う祐巳さまと、腕の中に抱えられた猫由乃さまも「そうだそうだ」と同意しました。
「志摩子さんに言いつけるからね」
そんなことまで言う始末。猫なのに。
「まったく乃梨子ちゃんはダメだね。何がダメって仏像鑑賞が趣味ってところで微妙だよね」
微妙なのはわかってますよ、祐巳さま。
「こーの大仏面! 誰が猫よ!」
大仏面!? 大仏ヅラって、大仏みたいな顔ってこと!?――そんなことを言われたのは初めてでしたよ、由乃さま。
……あ、なに三人して笑ってるんですか? え? むすっとしたところは似てる? 余計なお世話ですよっ。……え!? パンチパーマにするとそっくり!? いえ一応言っておきますけど、大仏様の頭はパンチじゃないですからね!?
――話を戻します。
大仏面なんて言われて激しい衝撃を受けて固まっていると、ようやく志摩子さんがやってきました。
「ごめんなさい、遅くなってしまったわ。銀杏雑炊が思いのほかおいしくて香ばしかったの」
ああそれならしょうがないね。……なんて言ってしまっていいのかどうか、今の私にもよくわかりませんが。遅刻してまでなんか食ってたとか、食ってたのがよりによって銀杏雑炊なんてインパクト抜群のものだなんてとか。もうどこにつっこめばいいものやら。
……とにかく志摩子さんがやってきました。
そして、目を見開いてハッと息を飲みました。
「どうしたの、その猫?」
視線の先には、祐巳さまに抱かれて欠伸を漏らす猫由乃さま。
「猫?」
「……なによ。志摩子さんまで私を猫呼ばわりするわけ?」
ああ、さすが志摩子さん。志摩子さんも由乃さまが猫に見えるようだ。ボケッぱなしの祐巳さまとは格が違いますよね。
「え? 由乃さんなの?」
「それ以外の何に見えるのよっ」
いや、だから、猫ですよ。
猫由乃さまの声など届いていないかのように、志摩子さんは、ずいっと祐巳さまの前に出ました。
「抱かせて」
真面目な顔で、真剣に。志摩子さんは思わず赤面するようなことを言いましたっ。ええ言いましたよ、一言一句違えることなく「抱かせて」と! DA・KA・SE・TE、と!
「だっ……な、なに言い出してるの志摩子さん!?」
祐巳さまはうろたえます。私もうろたえてます。
「いや志摩子さん、一回落ち着こう! そういうのは知り合いから始めて徐々に仲良くなっていって二人の関係が親密になってから、自然とこう……一部接触するーみたいな? そういうのを踏まえた上でやるべきことなんじゃないかと私は思うのですが志摩子さんはどうでしょう!?」
猫由乃さまも焦っているのか、早口ながらも結構正確で的確なことを言い出した。猫なのに。
焦る私たちなど見えていないのか、志摩子さんは真剣な眼差しを猫由乃さまに向けたままです。
「いいから抱かせて。由乃さんを抱きたいの」
抱きたいの!?――まあ、アレですよね、頭に「猫を」が付いてるんですよね。ほんと。そうじゃないと私ちょっと泣いちゃうかもしれませんから。
志摩子さんは手を伸ばします。
その先にはもちろん猫由乃さま。
その白魚のごとき白く繊細な指が今触れようというところで、猫由乃さまは叫びました。
「いっ……いやぁーーーーー!! 私は祐巳さんにしか抱かれないのーーー!!!」
「――ってところで目が覚めたんですけど」
「「…………」」
二年生の三人は、赤面したまま凍っていた。
ほら見なさい。当事者(みたいな感じの)由乃さまを含んだから、微妙な空気になったじゃないか。
これで由乃さまさえいなければ、祐巳さまも志摩子さんもやや赤面して「なんとなく微笑ましい……かな?」という、微妙だがどこか温かく恥ずかしい空気が作り出せたものを。こんな肉体的寒さなんて気にならないようなね。
「……というか、なに?」
しっかり三分ほど沈黙を守り、ポツリと由乃さまが漏らした。恥ずかしがっているのか怒っているのか判断が付きかねる険しい表情だ。両方かもしれないが。
「私って乃梨子ちゃんから見たら猫っぽいの?」
うーん……
「どうでしょう? そういう意識はないんですけど、でも言われてみると納得できるような気もするんですよね」
「猫っぽい?」
「強いて言えば、でしょうか。強いて言わないなら――」
猪とかバッファローとか、性格はその辺の猪突猛進でしょう。言わないけど。言えないけど。
「……由乃さまは由乃さまですから、それ以上の答えはないです」
「今なにか失礼なこと思わなかった?」
「いいえ、全然」
小言をもらいたくないから絶対言わないぞ。
「……猫かぁ」
祐巳さまはしみじみと紅茶を口に運ぶ。ちなみに私は、志摩子さんと由乃さまの紅茶を煎れて、もうすでに席に着いている。
「なんだか気紛れに令さまに甘えたりして、そういう風に見える時もなくはないかなぁ」
「え、ほんと? そんな感じに見えるの?」
私より由乃さまと付き合いが長く濃密な分だけ、祐巳さまには思い当たる節があるようだ。
「人間って犬派か猫派で大分できるそうですよ」
言うと、祐巳さまと由乃さまは「なにそれ?」と声を重ねた。
「猫好きな人は相手に無償の愛を注ぎ、犬好きな人は相手に服従を求めるらしいです」
「それってSかMかって話?」
「そうなるかもしれません。なんかで聞いたような気がするんですけど、情報源は忘れました」
心理テストだったのか、素人考えのシャドウ論から推測されたのか……本当になんだったかな? まあ、憶えてないようなら信憑性は薄いんだろう。あまり信じられるものではないと思う。
「……うー……言われてみるとちょっと納得できるかも」
祐巳さまは渋い顔で唸った。
「祐巳さん犬っぽいもんね」
「否定できない……お姉さま猫っぽいもん」
さらりと「祥子さま大好き」って言ってるようなものですね、祐巳さま。そして瞳子も猫っぽいですからね。
「令さまも犬っぽいよね」
「令ちゃんはね。でも私、犬が好きってわけでもないわよ?」
「要は猫のような気紛れなワガママが許せるか許せないか、ってことだと思いますよ。許せるのは犬派、許せないのは同系等の猫派だからでしょう」
「…………」
由乃さま、苦々しい顔で黙っちゃったよ。
「志摩子さんはどう? 犬派? 猫派?」
「え?」
祐巳さまから話を振られた志摩子さんは、いつも通りの表情で振り返った。
「どうかしら? 猫も犬も好きだけれど……どちらかと言うと犬の方が好きかも知れないわ」
「そうなの? ちょっと意外」
志摩子さんは微笑んだ。
「だって乃梨子が犬っぽいもの」
し……志摩子さん! そういうセリフはできれば二人きりで私を見ながら言ってよ! もったいないよ! そのセリフだけでご飯三杯は軽いのに!
ああ、もしここで志摩子さんと二人きりだったら――
静かな薔薇の館、優しい雨音、寒さのせいで肌身を寄せ合い「乃梨子が好きよ」とか言われたらもう……もう……!!
「はいはいご馳走様。大仏面と仲良くやんなさい」
大仏面言うな猫! あとリアルに戻すな! もう少し夢を見させてくださいよ!
「……それより由乃さん」
志摩子さんは、真剣な眼差しで由乃さまを見詰める。
「長く生きた猫は不思議な力を持つと言うわ……人に化けるあやかしの力を……」
「…え?」
すっと、志摩子さんは音もなく立ち上がる。
思わず見上げる私たち。
志摩子さんの横顔は、いつになく強く、凛々しかった。
「いつの頃からか由乃さんは変わってしまった……あの可愛らしい一年生の頃と今とでは、似ても似つかない人間になってしまった。
でも、これで全てがわかったわ。
由乃さん……いいえ、あなたは本物の由乃さんと入れ替わった猫だったのね!」
…………
もう、唖然と口を開けることしかできなかった。フォローとかごまかすとか、そういう思考は飛んでいた。
この壮大な……というか、人を一人、しかも親友を否定する大ボケは……
「私にはわかるわ。なぜってお寺の娘だから」
「あー……うん、私もわかった。志摩子さん、私のこと何もわかってないんだね」
大爆撃の的になっている由乃さまも、怒るどころか呆れているようだ。
志摩子さんは由乃さまの控えめなつっこみに、耳を貸さなかった。ここで引いてくれれば被害は最小限に抑えられるのに――
「人を騙していられるのも今のうちだけよ」
ああ……やっぱりミサイル発射スイッチを押してしまうのか……ごめん志摩子さん、私には見ていることしかできない……
「悪霊退散! 化け猫よ、成仏なさい!」
しーんと静まり返った薔薇の館には、ただ静かに雨音だけが響いている。
祐巳さまは、初めてワサビを口にしてカルチャーギャップを隠し切れない外国人のような表情のまま凍りつき。
由乃さまは、「ふーん。それで?」という感じでニヤリと笑っている。だが目は笑っておらず、その奥底に静かな怒りが見えた。普段が激しいだけに、不気味というより大爆発の予兆と捉えた方がいいだろう。
――そして、立ち上がってなんだかカッコよさげなポーズのまま固まる志摩子さんは、次第に顔が赤くなっていった。
「……ご、ごめんなさいっ。寺の娘として何かしないといけないと思ってっ。『抱かせて』とか言ってごめんなさいっ」
志摩子さんは逃げ出した。
「あ、志摩子さん!」
「志摩子さん!」
祐巳さまと私の呼び止める声は、綺麗に揃っていた。だが、志摩子さんは止まってくれなかった。
追いかけようと椅子から腰を浮かせた時、
「……『抱かせて』って言ったのは乃梨子ちゃんの夢の中の志摩子さんなのに……あと『悪霊退散』はどっちかと言うと神社の管轄だと思うのに……」
そんな、祐巳さまの声。
「祐巳さま」
「え? な、なに? 顔が怖いけど……」
「呼び止めようとした理由は、そこにつっこむためですか?」
ええ、確かに現実の志摩子さんは言ってませんよ。言ってませんけど。悪霊退散も神社の方面かもしれませんけど。でもあえて今そこに触れなくてもいいじゃないですか。
「だって、あそこまで全身全霊で力いっぱいボケられちゃうと、慰めが返って傷つけるような気がして」
「…………」
そうかもしれない。
失敗が多い祐巳さまの言葉だけに、大きくも重くもないが、決して無視できない猫の蚤のような説得力がある。
「志摩子さんがあそこまで大胆かつ捨身でボケるなんて、予想外なオチがついたわね」
と、由乃さまは立ち上がり、私の背中をポンと押した。
「――そういうことにしといてあげるから、早く連れて帰って来て。この時期に濡れちゃうと本当に風邪ひくわよ」
「あ」
そうだった。志摩子さんを追いかけないと。せっかく由乃さまが救いの道を開いてくれたんだ、これなら慰めてもいいだろう。
「お願いね」
由乃さまがそっと扉へと私を押し出すと、私は振り返って、おや、と思った。
「これ、なんだか憶えがあるやりとりですね」
「…? そうなの?」
不思議そうに首を傾げる由乃さまの横で、祐巳さまが苦笑してうなずいていた。
会議室を出た時、ふと祐巳さまの声が私の足を止めた。
「――由乃さん、本当に猫じゃないの?」
その言葉は、私に異常なまでの興味を抱かせた。志摩子さんは傷ついたわけでもなんでもなく、ただただフルスイングで空振りして倒れただけなので、深刻ではないと思う。
それより、だ。
由乃さまは猫ではないのか?
当然ながらそんなバカバカしい質問の真偽はどうとかではなく、由乃さまのその問いに対する返答が気になった。
怒るのか。
面白がるのか。
または、失笑なのか。
それによっては、志摩子さんの説得の指針にもなりうる――と考えた。
「…………」
由乃さまは、雨音でそれに答えた。
「……あの……由乃さん……?」
「祐巳さん」
「は、はい」
「志摩子さんが言ったこと、実は正解だったりするんだよね。伊達にお寺の娘じゃないわよ、志摩子さん」
「へ……へ?」
「くくくくふふふっ……祐巳さんを食べちゃうぞー!!」
「ぎゃあっ!?……ふうっ」
ばたっ
「あ、祐巳さん!? ――わっ、気絶してる!? ちょっ、祐巳さんっ、冗談だから! 冗談だって!」
…………
祐巳さま、すごいな。
志摩子さんの勘違いボケもすごかったけど、祐巳さまのボケっぷりには到底敵うものではない。足元にも及ばない。足元どころか脛の傷すら見せやしない。
ま、どうでもいいか。
志摩子さんを追いかけよっと。