「乃梨子」
雨の音をBGMに、そう背後から呼ばれて、スカートのプリーツを濡らさないよう、いや、跳ね上がった心臓の動きを悟られないよう、ゆっくりと振り返る。
マリア像の前。登校する人影もまだ殆どあたりに見えない時間。考えに耽りながら歩いていた。先週の土曜、垣間見えた剥きだしの感情について。繰り返し呼ばれた名前について。自分の気持について。そこへ声がかけられる。
リリアンで『さん』も『ちゃん』も付けずに自分のことを呼ぶのは志摩子さんだけだった。その暗黙の慣習は二日前に破られた。そのこと自体にわだかまりがあるわけではない。敬称略で呼び始めたのは高等部受験の自分からなのだし、少しばかりの馴れ馴れしさは二者の距離を縮めることの原因でもあれば結果でもある、と素直に考えている。
さらに言えば、向こうから足を踏み出してきたこと、呼称がくだけたことの原因に特に訝しい気持ちがあるのでもない。うずくまった彼女の肩にただ手をかけた。それが結果として、呼び方という些細な現れに優しく反映されたのならば、それでいいと思っている。
気になるのは別のこと。
跳ねた心臓が静かに、それでも余裕なく周りの人気を探っていることに強烈な罪悪感を覚えながら、彼女の顔を見返して例の挨拶を口に出そうとしたとき、思いがけないその表情に心打たれる。
「ごきげんよう」
にっこりと微笑んで肩を並べ、歩き出す彼女にしばし気をとられる。いつもと変わらぬ個性的な髪型、大きな瞳、勝気そうに弧を描く眉。ディテールは自分の知っている瞳子だった。意外だったのはなんだろう。自問してみる。多分、それは雰囲気としか言えないものなのだろう。決意という言葉が頭に浮かぶ。殆どいきいきしていると呼んでもいいような眼差し。彼女はこの二日間で何を考えたのだろう。何にしても、入学当初から常に彼女とともにあった芯の強さが今戻っているのは喜ばしいことだと思う。
歩く。
大雨の朝。瞳子が話し始める。
「雨の音」
「え?」
「雨の音って、ザァーって、文字にされるでしょう?」
「うん」
「今朝はもっと低く聴こえる気がするの」
「低くって、…楽器でいうとベースみたいな音?」
「そうね。…なんだか海鳴りみたい」
「『ゴォー』?」
「そう、でも圧倒されるような感じでもなくて、なんだか優しい」
「優しい?」
「包み込まれるような」
下駄箱に近づくと、人影が見えた。いや、ずっと前から何故か気づいていた。そこに志摩子さんがいることは。志摩子さんはこちらに気づくと、ほわっ、と微笑んでくれる。ほっとして、声をかけようとした―志摩子さん、今日は早いんだね。いや、お姉さま、ごきげんよう、か―瞬間、志摩子さんの姿は見えなくなった。
行ってしまった。
避けられているのではないと知っている。理由はあまりにも明らかだ。あの日、志摩子さんに素直に告げた、瞳子への想い。恋愛とかじゃないって、自分では分かっていた。大切に想う気持。こういうのが親友なのかもしれないって。
最近頑なな表情を崩さなかった瞳子との会話を邪魔すまいと配慮したのだろう。それは分かっている。分からないのは、ディテール。志摩子さんはどう思ったのだろう。もし、誤解させていたとしたら。心底恐ろしくて訊けていない。
ずっと前から、瞳子への気持を言葉に出す前から、好きだった。それは大切に想うなどという説明では足りなくて。もっと強烈に惹きつけられ、惹きつけたくなる恋。少しでも離れたくないエゴ。そんなこんなの入り混じった、今日の雨雲のように膨張し続ける気持。
気づくと、瞳子が不思議そうにこちらを見つめている。無理矢理笑って、歩き出す。
去年までは何と言うこともなくスルーしていた。今年はちょっと違う、バレンタイン。志摩子さんにきちんと伝える良い機会だと思っている。
背後に響き続ける優しい海鳴り。背中をそっと押してくれているのかもしれない。
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初投稿です。お粗末さまでした。
言うまでも無いかもしれませんが時期はクリスクロス冒頭。