※プチ百合注意で。
「魔法のリップスティック?」
「ええ、そうなの。なんでもこのリップを塗れば、意中の人と素敵なキスが出来るという、巷で有名なおまじないグッズらしいわよ」
一年椿組の教室で、3本のピンク色の可愛らしいリップスティックを取り囲み、瞳子たちは額をつき合わせてこそこそと話していた。
話の内容は、本当に他愛のないおまじないのこと。カトリック系のここリリアン女学園であっても、年頃の女の子が集う場所の常なのか、こういったおまじないグッズの話になると、それなりに盛り上がるものである。
リップスティックを取り囲むのは、瞳子と乃梨子、そして新聞部部長の妹である日出美さんの3人だった。
瞳子と乃梨子の組み合わせは同じクラスでもあるので珍しくはないのだが、そこに日出美さんが加わるのは中々に貴重な組み合わせだ。
「……胡散臭い」
スティックを手に取って、率直な感想を漏らしたのは乃梨子だった。
クールで冷静沈着な乃梨子は、そもそも新聞部の日出美さんが訪問してきた時点で警戒していた節がある。
「正直、私もそう思います。そんな、魔法のリップスティックなんて。そんなのあるわけがありませんわ」
乃梨子の意見に頷く瞳子だが、それを聞いた日出美さんは、意外なことに「そうだよね」とばかりに同意の表情を浮かべた。
「そりゃ、私だって魔法なんて信じてないし、眉唾ものだとは思うのだけど……」
そこで日出美さんが二人を身振りで近寄らせ、そっと懐から一枚の紙を取り出した。
「でも、こんなものを見せられたら、さすがに笑えなかった」
「こ、これは……!」
「ま、真美さま!?」
日出美さんが取り出したのは、一枚の写真。
そこに写っていたのは他でもない、日出美さんの姉である真美さまと、その姉である三奈子さまのお二人だった。
別段珍しくない組み合わせだが、問題はその構図――誰がどう見ても、二人はキスをしていたのだ。
「……隠し撮りではありませんわ。真美さまの視線がこちらに向いていますもの。それにこの表情――なんだか、不本意そうな、悔しそうな……?」
「お姉さまなら、仮に――ええ、仮にですけど、三奈子さまとついつい魔が差してキスしたとしても、それを写真に撮らせるなんてことは絶対にあり得ません。隠し撮りならともかく、こうも堂々と――どう考えてもおかしいと思うでしょう?」
真美さまと三奈子さまの衝撃写真を前に、なんか黒いオーラを背負いながら日出美さんが力説する。
「確かに、ああ見えてお姉さま想いの真美さまですから、懇願されてキスすることはあっても、その証拠写真を残すようなことはあり得ませんわ……」
瞳子も眉根を寄せつつ日出美さんに同意した。乃梨子は乃梨子で、二人の衝撃写真を食い入るように見詰め、なんかフーフー言っている。
「魔法のリップスティックなんて、あり得ない――でも、それこそ魔法でも使わない限りこんな写真をお姉さまが残すこともあり得ないと思うのよ」
「合成写真の可能性は?」
「ありません。既にリップスティック一本と引換えに、笙子さんが検査済みです」
「なるほど」
信じられないけれど、信じたくなるような魔法のリップスティック。
机の上に置かれた2本のスティックを、瞳子はジッと見詰めた――2本?
1本は、既に乃梨子の手の中に、大事そうに握られている。
「――それで。ここが一番大事なところなのですけど」
乃梨子に続いて思わず手を伸ばしかけた瞳子だが、瞳子はまだ冷静だった。どうしても気になる質問を投げかける。
「何故、それを私達に?」
魔法のリップスティックなんてものが本当にあるとして、そんなレアアイテムを瞳子と乃梨子にくれると言うのがよく分からない。瞳子なら3本とも独占して、全部自分で使うところだ。
「それがリップスティックを貰う条件だから」
「貰う――日出美さんが入手したわけではありませんのね?」
「三奈子さまがくれたのよ。ただし、瞳子さんと乃梨子さんに1本ずつ配るという条件で」
「……なるほど」
日出美さんの物言いたげな視線を受けて、瞳子は納得したように頷いた。
「つまり、これは三奈子さまからの挑戦というわけですわね。私と乃梨子の、このような衝撃写真を、最後の最後にスクープしてやろうという、三奈子さまの置き土産」
「多分、そうだと思う。ついでに、私の写真も撮る気なんだと思う」
リップを使うかどうか?
使ったとして、その場を三奈子さまが取り押さえ、激写することが出来るかどうか?
キスなんて、短ければ時間にして1秒で終わるものだ。その一瞬を三奈子さまはスクープしようと言うのであろう。
「分かりましたわ。その挑戦、受けて立ちましょう――私たちが受け取らないと、日出美さんもお困りのようですし?」
「う……」
「ただ、乃梨子はともかく――私は別に使うかどうか、分かりませんけれど」
そう言って、瞳子は小さなリップスティックを1本手に取った。
* * *
翌日、薔薇の館で瞳子を待ち受けていたのは、テーブルに突っ伏した乃梨子だった。
「の、乃梨子……?」
「瞳子……」
恐る恐る声を掛けた瞳子に、乃梨子の絶望色に彩られた反応が返ってくる。憔悴し切ったその表情と――テーブルに置かれた小さな封筒から、瞳子は事情を察知する。
「乃梨子、まさか――?」
瞳子の問いに乃梨子ががっくり項垂れる。その様子に瞳子は胸が痛む一方で「昨日の今日で既に試したのかよ!」というツッコミも去来しなくはない。ちょっとは我慢すれば良いのに、と瞳子は呟いた。
まぁ、志摩子さまを前にした魔法のリップスティック装備の乃梨子に、我慢をしろと言うのは酷なことかもしれないが。
「瞳子、ゴメン。詳しくは話せない……話せないけど……負けないで……!」
「あ、乃梨子!」
乃梨子が泣きそうな顔でそう言って、薔薇の館を飛び出していく。あまりにも痛ましいその姿に、瞳子は後を追おうとしたが「志摩子さんとのキス写真げーっと!」とか言う雄叫びが聞こえて来たので、後を追うのを止めた。
「それにしても、乃梨子と白薔薇さままで……」
瞳子はそっとポケットのリップスティックを、スカートの上から押さえてみる。手の平サイズの筒状のものが、確かにそこには存在していた。
多分、乃梨子のことだから志摩子さまにすぐに使うだろう――と言う瞳子の読みは的中した。昨日の今日で速攻とまでは思わなかったけれど、乃梨子の結果を見てから考えようとした瞳子の思惑は当たったわけだ。
そして結果は――限りなく、本物ということになった。しかも三奈子さまからの挑戦だと把握していた乃梨子にも関わらず、しっかり写真を撮られるという体たらくだ。
それほどの魔力が、あると言うのだろうか。ダメだと分かっていても、撮られると分かっていても、止められなくなってしまうような、そんな魔力が。
「そんなの、バカバカしいですわ」
呟くけれど、ひょっとしてという思いも去来する。
意中の人と素敵なキスが出来るという、魔法のリップスティック。その存在はあまりにも魅力的だった。こんなものはとっとと捨ててしまえば良いのだと分かっていても、瞳子は結局リップスティックを持ち歩いている。
「――あ、瞳子。ごきげんよう」
「ひゃ!」
考え込んでいた瞳子は、不意に声を掛けられて思わず悲鳴を漏らしてしまった。
「あれ? 驚かせちゃった?」
「お、お姉さま……ごきげんよう……」
驚きにバクバク高鳴る胸をそっと押さえて、瞳子が挨拶すると、祐巳さまが少し首を傾げた。鈍感で有名な祐巳さまなのだが、何故か妹のことになると時々恐ろしく鋭敏になる。
今回も瞳子の様子がおかしいことに気付いたのか、瞳子を気遣うようにしてテーブルに座らせると、二人分の紅茶を淹れに給湯室へ向かった。
「……び、びっくりしましたわ……」
仕事を任せていることに罪悪感を覚えつつも、瞳子のことを大事にしてくれる祐巳さまに、ちょっとだけ瞳子は幸せを感じる。
そうして、そっとスカートのポケットの中に手を忍び込ませた。
指先に触れる、小さなスティック。
ちょっと迷った後に、瞳子はそれを引っ張り出す。
「使用方法。対象者の目の前で、これは魔法のリップスティックなのだと伝えながら塗るだけです」
使用方法を読んでみる。注意書きにも『魔法の力はすぐに拡散してしまうので、直前に塗ってね☆』と書かれていた。
もちろん、別に使うつもりはないのだけど、と前置きしつつ、瞳子はその注意書きを頭に叩き込んでおいた。別に使うつもりはないのだけど。
「はい、お待たせ。ちょっとだけ甘めにしておいたよ」
「あ、ありがとうございます」
いつの間にか紅茶を手に戻って来た祐巳さまが、瞳子の前にカップを置いて、隣に腰を下ろす。
「今日は寒かったよねー。最近は朝がホント、辛いよ」
言いながら、ふーふーと紅茶を冷まして一口含む。
ふーふーと吹く口許に思わず目を奪われて、瞳子はぶるぶると頭を振った。
乃梨子じゃあるまいし、もうちょっと慎重に――と思いつつ、一方で「こんなチャンスはあまりないのではないか?」との悪魔の囁きも聞こえてきた。
朝早い時間に、薔薇の館で二人きり。
放課後の時点ではリップを使っていなかったから、乃梨子は帰り道で試したと思われる。だが、外で試すのが間違いだったのではないか。
薔薇の館は瞳子たち山百合会のテリトリーである。実際、瞳子は三奈子さまの姿を薔薇の館で見たことはないし、真美さまや日出美さんもイベント時を除けばほとんど近寄らない。
こくん、と瞳子の喉が鳴る。
ふーふーと紅茶を冷ます祐巳さまの、桜色の唇から目が離せない。
この時間は悪魔の誘惑なのか、天使の与えたもうたチャンスなのか――
「あれ? 瞳子、それどうしたの?」
「え!?」
ぐるぐると回る世界で苦悩していた瞳子の手に、祐巳さまの手がそっと触れて、瞳子は現実世界に引き戻された。
「あ、可愛いリップだ。瞳子の?」
リップスティックを握る瞳子の手を祐巳さまの手が包み込むようにして添えられている。
そして、祐巳さまが興味津々の目でリップを見ているのを見て、瞳子は悟った。
これはきっと、天使の与えたもうたチャンスだ!
この際、違っていてもそれはそれだ!
「これは……魔法のリップスティックですわ」
「魔法のリップスティック?」
祐巳さまが「へー」と首を傾げる。頭から否定はしない辺り、いかにも祐巳さまらしい反応だった。
「これを塗ると、意中の人と素敵なキスが出来るそうですわ」
「き、キス……?」
「ええ、そうですわ」
頬を染める祐巳さまに微笑みながら、瞳子はスティックのキャップを外してみた。
少しだけ甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「でも、魔法なんてないと思いますけど。――お姉さまは、どう思います?」
「んー、どうかな。あったらステキかもしれないけど」
「確かに、そうですわね……」
魔法があったらステキ――いかにも祐巳さまらしい答えだと思う。
本当は魔法なんてないんだと理解していても、決して否定はしない。あればステキなんだと、前向きに考える。
瞳子のお姉さまは、そういう人だった。
リップスティックをそっと唇に触れさせる。
祐巳さまの目が瞳子の指先とリップと、そして唇に据えられていることを感じながら――
「魔法があるかどうか、試してみませんか、お姉さま……?」
微笑んだ瞳子は、魔法の存在を一瞬だけ信じることになった――
* * *
とりあえず、シャッター音は聞こえない。
柔らかで甘い感触にしばし浸った瞳子は、名残惜しい気持ちを押さえ込みながら、そっと祐巳さまから離れた。
「……ん?」
「ん?」
離れようとした瞳子が唇に違和感を感じて目を開けた瞬間、同様に目を開けた祐巳さまと超至近距離でバッチリ視線が絡み合う。
「んーーー!」
「んん!?」
思わず赤面して――というか、元々真っ赤だったと思うのだけど――離れようとしたところで、瞳子はその違和感に気付く。
唇 が 離 れ な い !!
そんなバカな、と混乱する瞳子は気付く。
リップスティックの底の部分。くるくる回してリップを出す台座の部分に、刻まれた二つの文字。
の り
「あぁ、瞳子……瞳子も勝てなかったのね……」
「――――――――!!!」
『のり』の意味するところを理解しようとして、頭をフルに空回りさせる瞳子の耳に、乃梨子らしき声が聞こえてきた。
「強力スティックのり――剥がすには、専用の溶剤を使うと簡単です。尚、舐めたり指などについても人体には一切害はありませんので、ご安心下さい。バイ、村内文具店」
「――――――――!!!???」
「溶剤……三奈子さまに、借りてきて上げる……」
乃梨子の失意いっぱいの足音が遠ざかるのが分かった。
ギシギシと遠のいていく足音に、瞳子は絶望的な気分に陥る。
三奈子さまが溶剤だけを持ってこの場に来てくれるだろうか?
答えは、NO。
それは既に、乃梨子の手にしていた封筒が物語っている。
瞳子は――次期山百合会を支えていく二人のつぼみは、負けたのだ。三奈子さまに。
完膚なきまでに。
三奈子さまがポラロイドカメラを手に嬉々として薔薇の館へやって来るまでの間に、由乃さまや令さま、そして何よりも祥子さまが登校してこなかったのは、不幸中の幸いだった。
最後に残ったのは、敗北感と絶対に誰にも見せられない一枚の写真。
そして、祐巳さまの唇を見ると平静でいられなくなると言う、厄介な魔法の残滓だった。