ある日、由乃さんがキレた。
「あーもう! ウザイ! ウザイウザイウザイウザイウザーーーーイ!!」
バシバシと机を叩いて爆発する由乃さんに、室内にいた4人――祐巳と瞳子と志摩子さんと乃梨子ちゃんは、揃って目を丸くして由乃さんを見た。
はぁはぁ、と肩で息をしている由乃さんを見つつ、祐巳はそっと志摩子さんに囁く。
「由乃さん、どうしちゃったんだろう?」
「令さまが卒業して以来、あまりこういうことはなかったわよね?」
祐巳もそうだけど、志摩子さんも困惑している。暴走特急の由乃さんだけど、令さまが卒業してからのここ数日は、結構おとなしかったのだ。由乃さんも令さまがいるから、安心して暴走できてたんだなって、二人の絆を再確認していたと言うのに。
「……ですけど、由乃さまが暴走するのは、いつものことではありませんか?」
そこに、瞳子がつんつんと袖を引っ張って参加してくる。なんだろう、瞳子のその可愛い仕草は。お姉さまを悩殺するつもりだろうか。
「確かに、あまり気にする必要はないかもしれません。令さまも『爆発した由乃はしばらく放っておくのが良いよ』と遺言を残していましたし」
同じく乃梨子ちゃんが志摩子さんにぴったりくっつくようにして参加してくる。
確かに乃梨子ちゃんの言う通り、令さまの残した遺言は「由乃さん暴走時の対処法」だった。
「それもそうかもしれないわね」
「そうだよ、志摩子さん。そんなことよりも週末の予定を決めちゃおうよ」
「ええ、そうね」
どうやら白薔薇姉妹は由乃さんタイフーンが過ぎ去るのを静かに待つことにしたらしく、由乃さんの叫びで中断していた週末デートの打ち合わせに戻るようだった。
「あのね、志摩子さん。このお寺なんだけど、近くに小さな教会もあるんだって」
「まぁ、そうなの?」
「うん。だから、ね? 今度の週末に一緒に見に行こう?」
「ええ、良いわよ」
乃梨子ちゃんが志摩子さんとぴったりと肩をくっつけつつ、ちょっと甘えるように誘っている。こんな時の乃梨子ちゃんは、年相応にお姉さまに甘える妹って感じで、なんか可愛く見える。
祐巳が思わず白薔薇姉妹の様子に見惚れていると、瞳子が再びつんつんと袖を引っ張ってきた。
「お姉さま、どうするんですか、由乃さまは」
「あ、うん。どうしよう?」
由乃さんを見れば、両拳を机に乗せて、俯いた姿勢のままピクリとも動かない。
前髪の陰になって表情が見えないのが、なんかちょっとだけ怖かったり。
「……しばらく放っておこうか?」
「瞳子も賛成ですわ。触らぬ由乃さまに祟りナシですもの」
由乃さんの場合、触っても触らなくても祟ることがあるから侮れないのだけど、瞳子が「そんなことよりも、週末のことですわ」と広げた週刊・M駅MAPのスイーツ特集に、祐巳の好奇心がそそられる。
「このお店。瞳子は別に興味ないのですけど、お姉さまは甘い物がお好きですから、買い物の後に寄りませんか?」
「うん、そうだね。でも、アップルパイとモンブラン、どっちもオススメってあるけど、どっちにしようかな。悩むなぁ」
「……瞳子も頼みますから、半分ずつにしては?」
「え、良いの?」
「仕方ありませんわ。お姉さまは両方頼みかねませんもの」
「瞳子、大好き!」
「ちょ、調子の良いことを言わないで下さい!」
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッ!!
祐巳がアップルパイとモンブランを瞳子と分け合う約束を取り付けたところで、再び由乃さんの方向から机を叩く音が聞こえてきた。
再び、祐巳たち四人の視線が由乃さんに集合する。
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッ!!
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッ!!
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッ!!
ダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッダンッ!!
ダンッ!!!!!!
狂ったように三つ編みを振り回しながら机を叩き続けた由乃さんは、そろそろ拳が心配になって来たところで、ひときわ大きく机を叩いて停止した。
ぷるぷる、と震える由乃さんに、意を決したように志摩子さんが近付く。
「あ、あの、由乃さ――」
「ウザイんじゃ、このバカップルどもがーーーーーーーーーーーーっ!!!」
由乃さんが突き出した指先が志摩子さんの額にヒットして、「あうっ」と言いながら志摩子さんが後ろに転がった。
* * *
『室内での姉妹での会話禁止!!』
どこからか引っ張り出したホワイトボードに、由乃さんが黒の極太マジックでそんな一文を書き殴る。
「姉妹での会話禁止……?」
「そうよ! 毎日毎日毎日毎日! イチャイチャイチャイチャイチャイチャ人の目の前で! 揃って! 毎日! アホかーーーー!」
ぐりぐりとマジックをホワイトボードに押し付けつつ、由乃さんが座った眼光を祐巳たちに送ってくる。
「あ、あの、由乃さん、落ち着い」
「悪かったわね、妹がいなくてっ!!」
声を掛けようとした志摩子さんに全てを言わせず、由乃さんがマジックを突き出してくる。あわや額に黒丸が書き込まれようとした寸前に、乃梨子ちゃんが慌てて志摩子さんの腕を引いた。多分、由乃さんはマジックを叩き込む気満々だった。
「……瞳子、今は由乃さんに逆らっちゃダメだよ」
「分かっていますわ」
長年親友をやっていた祐巳の、由乃さん危険アラームが物凄く鳴り響いている。今の由乃さんは令さま以外の人が触れると、間違いなく火傷する危険領域だ。イケイケ青信号どころじゃない、ノンストップの高速道路を爆走中だ。
「そこ! 言ってる側からこそこそしないっ!」
「は、はいっ!!」
由乃さんに指差されて、祐巳は背筋をピンと伸ばして頷いた。
「――私はね、別に羨ましくてこんなこと言っているんじゃないのよ?」
ふぅ、とため息を吐く由乃さんに、隣で瞳子が「嘘ばっか」と呟く。祐巳には聞こえて由乃さんには聞こえない、絶妙な音量に抑えたのは流石だ。
「お喋りばかりでは、仕事は進まない。私達は山百合会なの、生徒の代表なの。私達の仕事振りが、色々なイベントの成否にかかっているの。分かる?」
「……今は仕事がなくて、暇だー暇だーとおっしゃってましたのに」
瞳子がきっちり由乃さんの口調を真似て、それでも由乃さんに聞こえないように言う。
気持ちは分かるけど、由乃さんに聞こえたら怒られるのは祐巳なのだから、ちょっと自重して欲しい。
「なので当分の間、薔薇の館での姉妹間の会話は一切禁止とします! 話したければ別の場所でしなさい! 良いわね!?」
なんて理不尽で一方的な宣言だろうか。
しかし、暴走した由乃さんを止められる人材は、残念ながらこの場にはいない。
祐巳たちに出来るのは「はぁ」とため息を交えながら、不承不承に頷くことだけだった。
* * *
静かな薔薇の館の執務室では、ペンを動かす音だけが聞こえている。
机に向かっているのは、昨日と同じ五人のメンバー。だけど、由乃さん発令の「姉妹会話禁止令」があるため、志摩子さんと乃梨子ちゃん、そして祐巳と瞳子は会話が出来ない。
そうすると禁止されていない2年生同士、1年生同士の会話も途絶えるから不思議だ。
会話禁止だと業務に支障が出るのではないかと、昨日の帰り道で志摩子さんが心配していたけれど、とりあえず今のところは順調に仕事も進んでいる。仕事と言っても、春休み明けの新入生歓迎会に関することなので、急ぎのものではないし。
それに――
「――ふぅ」
志摩子さんが軽く息を吐きながら、ふと顔を上げる。その様子を見た乃梨子ちゃんが、声もなく立ち上がって、志摩子さんに微笑んだ。
ちょっとの間視線を合わせて、志摩子さんが軽く微笑むと、乃梨子ちゃんが頷いて給湯室に向かう。多分、飲み物のお代わりを淹れに行ったのだろう。
さすが、熟年の白薔薇姉妹。お互いのことを完璧に理解しあっている。
つんつん。
祐巳が感心していると、瞳子が祐巳の袖を軽く引っ張った。
瞳子を見れば、ちょっとだけ呆れたような目で祐巳を見ている。
「……お姉さま、間違ってますわ」
そんな風に瞳子が言っているような気がして、祐巳は手元の計算を見直してみる。どうやら祐巳の気のせいではなかったらしく、確かに計算を間違えていた。
瞳子の言いたいことが分かったことに驚きつつ、瞳子に視線でありがとうと語ってみる。これもちゃんと通じたのか、瞳子が少しだけ「やれやれ」みたいなニュアンスを交えて笑みを浮かべた。
中々どうして、新米姉妹である祐巳と瞳子も、目だけで会話が出来るものである。むしろ瞳子の場合、普段が言っていることと気持ちが正反対なことが多い分、目だけで会話した方が分かりやすいかもしれない。
「瞳子、大好き!」
試しにそんな気持ちを込めて瞳子を見てみれば、瞳子が困ったように狼狽し始める。
普段なら「バカじゃないですか!」とか言ってそっぽを向く瞳子だけど、会話は禁止だからそれはNG。仕方なしにぐっと祐巳を睨んで来たけれど、目が見るからに怒ってない。素直だ。
そんな瞳子がいつになく可愛い――なんて気持ちも伝わったのか、「もう知りません!」と一言(一目?)残して、瞳子はそっぽを向いてしまった。
思わず、祐巳は笑いを零す。
そんな様子を全部見ていたのか、志摩子さんと乃梨子ちゃんも、くすくすと笑い声を零し――
「あ、アホかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
何故か由乃さんは、昨日以上の絶叫を上げていた。
翌日、ホワイトボードには赤字で『会話解禁!そっちのがマシ!』と、前回の姉妹間会話禁止令の上に書き殴りが追加され、禁止令自体は1日もたずに撤回されたのだけど。
偶にはああいう日があっても良いよね、と。祐巳は思うのだった。