「それじゃあ、お先に失礼するわね」
薔薇の館が一般生徒でいっぱいになるという夢のような時間を過ごしたあと、私は学校をあとにした。
本当は祥子と一緒に帰りたかったのだけど、祐巳ちゃんと約束があるという。
聖に聞いたところによれば、二人は私がいない間、結構ぎくしゃくした関係を続けていたらしい。
「去年の蓉子と祥子を見ているようだったよ」
私はその言葉に、そうと小さく応えただけだった。
姉妹の契りを結んだとはいえ、そこから新たなステップに進むにはそれなりに気力と体力がいるのだ。
私が祥子を妹にした時もそうだし、わたしがお姉さまの妹になったときもそうだった。
あの二人は姉妹になってまだほんの数ヶ月しか経っていない。
だから、そういうことも起こるだろう。
私は少し迷って、聖から聞いたこの件を聞かなかったことにした。
本当に姉妹の仲が壊れるくらいのお話になるなら、祥子の方から相談してくるだろう。
それに、私はもうじき卒業してしまうのだ。二人の問題は二人で解決しないといけないだろう。
二人には仲良くやって欲しい。それは間違いなくそう思っている。
それでも、やっぱり寂しいなと思う。祥子がずっと遠くに行ってしまったようで。
それは、あの秋の日以来感じていること。それも、仕方のないことなのだろう。
祥子がいつまでも、私に依存しているようでは駄目だし、私が祥子にべったりでも駄目なのだから。
私はぼんやりとそんなことを考えながら、駅へと向かうバスに乗った。
バスと電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは小笠原邸。今日はここに泊めてもらう約束だった。
小笠原邸に泊まる約束。それは、1年前の約束。この約束をしたときは、当然の事ながら受験なんて意識していなくて。
でも、たとえ受験だとしても祥子と交わした約束は破りたくなくて。
受験中なのにと渋る母親を何とか説得して――実際には父親にめいっぱいおねだりしたのだが――私は何とか外泊する許可を取り付けた。
チャイムを押し、来訪と祥子が一緒じゃないことを告げる。
本来は祥子と一緒に来るべきなのだろうけど、あの子は祐巳ちゃんとお話があると言っていたし、どこかで祥子を待つ気力も今日の私にはなかった。
最近は祐巳ちゃんに心を奪われている祥子だけど、さすがに約束は忘れていなかったらしく、私はすぐにいつもの客室に通された
正直、疲れた。人生最良の日とはいえ体調は最悪なのだ。
私は用意していた普段着に着替えると、ちょっと一休みするつもりで綺麗に整えられたベッドに潜り込んだ。
数分後には私の意識は深い闇に覆われていた。
小さく聞こえるピアノの音。優しい音色。
祥子が好きな曲だ。半分眠っている頭でそう認識する。
この曲はシューマンのトロイメライ。
祥子は言っていた。
この曲を弾くと、夕暮れの中で一生懸命遊んでいる子供たちが見える。
その子供たちが、私にはなぜか懐かしく感じさせ、私を優しくしてくれるようだから好きだと。
「私には、そんな思い出は全くないのですけどね………」
そう言いながら、寂しそうに笑う祥子の顔が私には忘れられない。
その顔を見て、私は強く思った。祥子に寂しい想いをさせないように、ずっと包んであげたいと。
やがて、最後にたたかれた鍵盤の音が静かに、あたりにとけ込み、ピアノで語られる夢が終わった。
ぱたりと何かを閉じる音がして、足音がこっちに近づいてくる。
「お姉さま………」
小さく語りかける声。祥子の声。それは迷い子のように寂しいものを感じさせた。
「うん」
起きている。と言う意志を告げようと、私は声を出す。
それと共に、やっと意識が覚醒していく。
目を開けると、心配そうにのぞき込む、祥子の顔。
その祥子は、私が目を開けるのを見ると、本当に嬉しそうな表情を浮かべて言った。
「おはようございます、お姉さま」
「うん。………おはよう」
起きた直後の頭が働かない状態で、とりあえず祥子の言葉に反応する。
「だいじょうぶですか?」
寝ぼけた頭で、ゆっくりとベッドから起こす。
「うん。大丈夫」
そう言いながら、枕元においてあった腕時計を確認する。
小笠原邸にきてから3時間が経っていた。ずいぶんとゆっくり寝てしまったらしい。
「お待たせしてすみませんでした」
「ちょっと体調が悪かったから、ちょうど良かったわ。一眠りしたらだいぶ楽になったし」
「そうですか。ご飯は食べられますか?」
「ええ」
「じゃあ、準備させますね」
祥子はそう言うとなぜか少し嬉しそうに部屋から出て行った。
祥子との二人きりの食事が終わった。
「ごちそうさまでした」
清子おばさまは用事があるそうで、夜半ごろ帰ってくるのだそうだ。
「お姉さま、今日はこれからどうしますか?」
「お部屋でのんびりとお茶でもしましょうか? お願いできる?」
「はい。ダージリンの美味しいのが先日入ったところなんです」
「じゃあ、おねがいするわね」
そう言って私は部屋に戻り、祥子はキッチンへと歩き出した。
カップに注がれた琥珀色の液体。私はそれにそっと口を付けた。
ゴールデンルールに乗っ取って丁寧に入れられた紅茶。ほっとする薫りが口の中に広がる。
「おいしいわ。祥子」
「うまく煎れられたようで良かったです。お姉さまに紅茶を煎れるのは久しぶりでしたので、緊張しました」
その言葉に祥子は嬉しそうに微笑みながら、同じようにそっとその琥珀色の液体に口を付ける。
しばらくの間、お茶をすする音とカップとソーサが立てるカチリという音だけが響く、ゆったりとした時間を私たちは過ごした。
私のカップが空になり、祥子がすぐにコジーをはずしてポットから琥珀色の液体を注ぐ。
それは、何となく姉妹に成り立ての頃、偶然にも二人きりで過ごしたあの薔薇の館の日を思い出させて。
わたしは、祥子を流れるような動作をじっと見つめていた。
そんな私に気がつくと祥子はにっこりと微笑む。
そして、しばしじっと見つめ合い、ほんの少し、私と祥子の間だけ時が止まる。
そんな時間をお互いにクスリと笑い合い、再び時が流れ始める。
姉妹になってお互い何度も繰り返してきた仕草。そんな仕草を祥子と交わすのも、 もう何度もないのかもしれない。そんなことを思いながら、祥子の煎れてくれたお茶に口を付けた。
「そうだ、お姉さまに食べて欲しいものがあるのですけど……」
私が口に含んだ液体をこくりとのどの奥に送ったときに、思い出したように祥子が言った。
出てきたのは茶色い小箱。その箱の中には、チョコレート。
綺麗に並べられているはずの箱の中のチョコレートは、すでに何個も食べたのか、のこり数個を数えるのみだ
「これは?」
「今日、祐巳からもらったんです。バレンタインで」
「そう」
そう言って私は、祥子に困った表情を向ける。
祥子がもらったモノを祐巳ちゃんに内緒でもらうのは気が引ける。そしてもっと言うのであれば、何でここで、あなたのチョコレートじゃなく祐巳ちゃんのチョコレートを出すかなという気持ちだ。
「祐巳のチョコレートは趣向をこらしてあったので、是非、お姉さまにも食べていたただきたくて」
私はしばらく祥子の表情を伺った。
祥子の私を見つめるその顔は本当に嬉しそうで、穏やかで。無理に断ってその顔を曇らせるのも、莫迦らしい。
だから、私はしょうがなく祐巳ちゃんのチョコレートを一つ摘んだ。
チョコレートの甘さが口の中に広がる。
手作りだから形はいびつだが、まあ、悪くない出来といえるだろう。
「どうですか?」
「ええ、美味しいわ」
「あたりだったみたいですね」
「あたり?」
「ええ、祐巳が言うには、今日のチョコレートは実はあたりとはずれがあって、はずれは、とても美味しくないんです」
「で、あなたは、当たったの?」
「ええ」
祥子は苦笑しながらも嬉しそうにそう言った。
「で、あたりだったら、何かあるの?」
「ええ。今度の日曜日に半日デートする権利がついてきました。
本当に嬉しそうに、楽しそうに報告する祥子の顔を見て、ちょっとほっとする。かわいい妹が、孫と喧嘩しているところは、やっぱりみたくないから。
「せっかくだから、めいっぱい楽しんできなさい」
「はい」
その祥子の顔が本当に嬉しそうで。だからこそ、私はちょっとむっとする。祥子にこんな顔をさせる祐巳ちゃんがちょっとうらやましくて。そんなむっとした気持ちをなんとか表に出さないように、そっと深呼吸する。そうやって祥子にばれないように気持ちを落ち着かせると、私は近くにある鞄を引き寄せた。
そして、私は鞄の中からきれいにラッピングされた箱を取り出す。
「これは、私からよ」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食らったようなきょとんとした顔で、私と箱を、交互に見比べる。
「これって?」
「もちろんチョコレートよ。私から、あなたへ」
「ありがとうございます。お姉さまっ」
手渡されたチョコレートを胸元で大事そうに抱きしめるその姿に、やっぱり用意してよかったなと思う。
去年はお姉さまにあげる分で手一杯だったし、バレンタイン直前に祥子と思いっきり喧嘩したから、祥子に用意しようという気にもなれなかった。
でも、こんなに喜んでくれるのなら、去年も渡してあげればよかったなと、うれしそうに包みをあけている祥子を見て思った。
「おいしそう」
私が祥子に用意したのは有名店の生チョコレート。とろりとした触感と、すこし苦みがきいたほどよい甘さがお気に入りだ。
「受験だったから、手作りじゃないけどね」
「食べてもいいですか?」
そこで、ダメって言う人が普通いるだろうか。
祥子だってそれがわかっているから、私の返事も聞かずに手がプラスチックの楊枝にのびていた。
「もちろん……ダメ」
「え!?」
でも口から出たのはそれとは真逆の答えだった。
再び祥子は鳩が豆鉄砲を食らったようなきょとんとした顔で、じっと私を見つめる。
わたしはそんな祥子からプラスチックの楊枝を取り上げると、チョコレートの一つにそれを突き刺し持ち上げた。
「お姉さま?」
訳がわからないといった感じでじっと私のことを見つめる祥子。
まあ、無理もないだろう。チョコレートを渡されて食べようと思ったら、だめ出しをされたのだから。
もちろん、私が祥子に対しチョコレートを食べるのをやめさせたのは、理由がある。
私はまだ、本当の祥子からのチョコレートをもらっていないのだ。ちょっとくらい意地悪しても罰は当たらないだろう。
わたしはチョコレートが落ちないように手を添えると、それを祥子の口元まで持って行った。
「はい。あーん」
「そ、そんなことしてもらわなくても、自分で食べられます」
「はい。あーん」
祥子の言葉を無視し、私は口を開けることを要求する。
みるみるうちに祥子の顔が紅く染まっていき、何かに助けを求めるように目が泳ぐ
しばらく、目を泳がした後、恥ずかしそうに祥子は口を開いた。
私は内心でガッツポーズをする。あんな後だったからこそ、私はこの祥子の顔が見たかった。
祥子のこの恥ずかしそうな表情は鋼の鎧に包まれていない時しか見せない非常に珍しいモノなのだ。
家族は別にしても、家族以外の人物がこの表情を引き出すことは難しい。妹の祐巳ちゃんも祥子からこの表情を引き出すのはまだまだ難しいだろう。
つまり、祥子のこの表情は家族を除いて私といるときしか見せない数少ない表情なのだ。
私はしばらくその表情をじっとみつめた。
さらに祥子の顔が紅く染まる。
本当はもう少し見ていたかったのだけれど、これ以上見ているといい加減祥子も怒り出しそうだったので、私は祥子の口の中に、そっとチョコレートを差し入れた。
「どう?
「美味しいです」
口の中でチョコレートを転がしながら、紅い顔をしてそう答える祥子を見て、胸の中にあったむっとしたモノがすぅーと消えていくのがわかった。
それは、自分が祥子にとって、本当に心を許してくれていると改めて感じたからだ。
一年かけて培ってきた絆。それが実感できたのが嬉しかった。