【2604】 壊してしまう前に  (春日かける@主宰 2008-04-22 06:25:13)


 ねぇ、志摩子さん。と、乃梨子が言った。

 なぁに? と、私は答えた。

 そのやり取りから始まった、ただ、それだけのお話。

   ***

「雨、止まないね」
「そうね」
 乃梨子の視線は窓の外。
 ヴェランダの鉢植えは激しくはないが強い雨に打たれ、悲鳴をあげている。
 私の視線は乃梨子の背中。
 小さくもあり、頼もしくもある、不思議な背中。

「今日、さ」
「うん」
「私、ね」
「うん」
「志摩子さんを、ね」
「うん」
「壊してしまおう、って思ってたんだ」
「そう」
「うん」

 リリアンの高等部にいたころが懐かしく感じる。

 あれから3年。
 私はとある場所にある、カトリック系の学園の付属大学へと進んだ。
 理由は単純で、乃梨子と同じ場所にいたくなかったからだ。
 乃梨子は卒業後、実家に戻った。
 今はアルバイトをしながら、いい就職先を探しているらしい。

 なぜ、乃梨子と同じ場所にいたくなかったか。
 その理由も単純で、あのままだと乃梨子が壊れてしまうと思ったからだ。

 ある日。
 私と乃梨子は一線を越えた。

 それはリリアンのいわゆる姉妹制度で生まれた姉妹にとって、日常が壊れた瞬間でもあった。

 あの時の唇の感触は、いまだに忘れることはない。
 だが。
 その時の乃梨子の泣きそうな表情も、忘れることはできない。

 私は、私の軽はずみな行動により、姉妹関係を壊してしまい、そして一方的にその関係を無かったものにしようとした。
「忘れて」なんて一言で、彼女の純粋な心に刻み付けた傷は消えないというのに。

 どんな時であれ、マリア様は優しく私たちを見ている。
 だが、微笑を浮かべるその女神は、何を問いかけても、何も答えてはくれない。

 私は、宗教にしがみついた。
 神の存在を必死になって認め、神を崇め、あの一瞬を忘れようとした。

 乃梨子は悲しそうな笑顔で答えたのだ。
「わかった」なんて一言で、自分の心に食い込んだ棘は抜けないというのに。

 今思えば、あの瞬間に私は乃梨子を壊してしまったのだ。

「ねぇ、乃梨子」
「うん?」
「私を、壊すのでしょう?」

 今思えば、あの瞬間に。

「うん」

 私も、壊れてしまっていたのだ。

「志摩子さんを、壊したい」

 振り向いた乃梨子は、とても素敵な笑顔を浮かべていた。

   ***

 ねぇ、志摩子さん。と、彼女は言った。

 なぁに? と、私は答えた。

 壊してしまう前に。と、彼女は言った。

 そうね。と、私は答えた。

 あの時の感触を上書きする、とても甘美で、とても邪悪な口づけ。

 私は乃梨子を壊して。

 乃梨子は私を壊して。

 私たちは、本当に姉妹になる。

   ***

 心の奥で、あの頃の乃梨子が微笑んだ気がした。


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