【2659】 喋る動物不思議系清純派  (沙貴 2008-06-22 07:29:06)


 ※オリジナルキャラクター主体です。
 
 
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 私立リリアン女学園。


 ここは、乙女たちの園――
 
 
 リリアン女学園は歴史ある学校だ。
 完璧主義の紅薔薇さまがいた時代があれば、ほんわかゆるゆるな紅薔薇さまがいた時代もある。
 自堕落な白薔薇さまがいた時代があれば、全てを統率せんとした白薔薇さまがいた時代がある。
 自由奔放な黄薔薇さまがいた時代があれば、貞淑を何よりも重んじた黄薔薇さまがいた時代がある。
 
 時と共にリリアンは変わっていく。
 そこに通う乙女達も、また。
 
 これはそんな変わりゆくリリアンの中で、精一杯に生きたとある世代の話だ。
 時代が変わっても薔薇さまが変わっても、変わらない乙女たちの悩みを抱えて、乙女たちの葛藤を紡いで。
 彼女たちは輝かしきリリアンで生きていった。
 一杯悩んで、一杯ぶつかって。
 そして、彼女たちは生きていった。
 
 過ぎ去りし日々の記憶。
 いまや語られることのない、平々凡々な彼女たちの一幕。
 一匹の猫を題材に織り成された、少女たちの現実。
 
 未来に繋がる過去を描く、それは彼女たちが歩んだ”現在”に他ならなかった。
 
 
 〜〜〜
 
 
「あら?」

 それは夏休みが明けて、すぐ。
 二学期はまだまだ始まったばかりで、暑さの残る構内を、二人が並んで散歩していた時のこと。
 身の丈がずいぶんと違うため、後ろ姿からは三年生と一年生のコンビにも見えかねない、両者二年生の二人組。
 声を上げたのは、その小さい方――島崎 桜(しまざき さくら)だった。

「どうしたの?」
 すぐに隣の大きい方、藤堂 若菜(とうどう わかな)が反応する。
 落とした視線は、頭まるまる一つ分。
 遠くを指差して固まった桜さんの綺麗なまつ毛が、晩夏の日差しに煌いていた。
 顔を振り振り、見惚れそうな(実際見惚れたのだけれど)自分を振り払って、指差された方角を見る。
 
 一匹の猫が、風景に溶けるようにして倒れていた。
 
 二人+αがいるのは、煉瓦で舗装された銀杏並木。
 最近一斉に煉瓦の手入れが行われたから、元々散歩コースとして人気の高かった並木路は今とても綺麗で。
 ほんの五分ほど前までは、多くの乙女達が一人だったり二人だったりで行き来していた。
 でも今は貴重な昼休みもあと僅かという微妙な時間帯。
 若菜たちの回りには、二人を除いて誰もいない。
 
 猫は並木道から少し外れた樹の下で、本当に潰れてしまったかのように平たく横倒しになっている。
 木陰や回りの草花と同化して、ちょっと見ただけでは誰も気付かないだろう。
 若菜だって、桜さんが指差してくれなければ絶対に見逃していたはずだ。
「猫」
 小さく、桜さんが呟く。
 若菜は頷いた。
 
 
 近寄ってみると、猫は可哀想なくらいにやせ細っていて、微かに上下する全身を使ってどうにかこうにか呼吸しているような状態だった。
 目は伏せられたまま開かない。
 ぼろぼろにささくれ立った毛には、ところどころに赤黒い染みがある。
 激戦を越えてきたのか、はたまた何らかの追っ手から命からがら逃れてきたのか。
 どちらにしろ、中々にドラスティック過去を持ってそうな姿だった。
 
 桜さんよりも一歩猫に近づいて、お腹に手を当てる。
「若菜さん、汚いわよ」
「良いんだよ。手はまた洗うから」
 優しく撫でてやると、猫は薄目を開けてちらりと若菜の方を見た。
 逃げる気配はない。人に慣れているのだろうか。
 
 注意深く観察しながら、刺激し過ぎないように撫でる。
 毛は汚いけれど、外傷はないようだ。
 でもそれは、今はないだけであって、多分過去には一杯傷をつけられたのだろう。
 掌を通じて伝わる、猫のごわごわとした感触はそれを教えてくれるようだった。
「うん」
 息を吐く。
 若菜は立ち上がった。
 
「どうするの? 先生にお知らせする?」
 若菜が猫を撫でている間、一歩離れた場所から見続けていた桜さんが小首を傾げる。
 さらりと落ちる緑の黒髪。
 何度見ても、どれだけ一緒にいても、綺麗だなぁ、って思う。
 でも今はそれに浸っている場合でもなくて、首を横に振った若菜は答えた。
「弱ってるみたいだけど……お腹が空いてるだけだと思う。多分、お腹一杯になったらどこかへ行くよ。私、食べ物取ってくる」

 バレー部に所属する若菜は、高い背の丈もあって自他共に認める二年生エースの座を勝ち得ている。
 そんな若菜であるから、当然普通の人に比べれば食事の量も多いし速度も早い。
 だからいざという時の栄養源として、こっそり常備しているクッキーがあるのだ。
 それとミルクホールで牛乳でも買ってくれば、猫にも食べやすい食事が用意できるだろう。
 
 桜さんはそんな若菜に「え!」と大きな声を上げた。
 淑女らしからぬ大声を出してしまった桜さんは、慌てて口に手を当てる。
 それからきょろきょろと辺りを見渡して、ほうとため息。
 幸運にも、礼節と貞淑にはお厳しいと評判の黄薔薇さまのお耳には届かなかったようだ。
 
「取ってくる、って何をどこへ? まさか教室なんて言わないわよね、ここからなんて」
 今度はちゃんと声のトーンを落として言いながら、左手首をくるっと返す桜さん。
 覗き込んだ桜さんの時計盤には、今若菜たちがいる場所と教室を往復することはおろか、片道の時間だって少々危ういという心許ない時間が指し示されていた。
 若菜はでも、唇を少し吊り上げて笑う。
 それはあくまでも、プリーツを乱さないように粛々と歩いた場合の時間だから。
 
 若菜の笑みから理解したのだろう、桜さんは呆れたように肩をすくめて言った。
「私は行かないわよ。着いていけないもの」
「うん、だから柚子さんに事情説明だけお願い。多分、そんな余裕ないから」
 言うが早いか、若菜は人気の少ない銀杏並木を駆け出した。
 
 
 願わくは、黄薔薇さまにだけは見つかりませんように。
 紅薔薇さまや白薔薇さまに見つかったのなら、まだ弁解の余地はある。
 先生に見つかったのなら、「わーごめんなさーい」とでも言えば良い。
 黄薔薇さまだけは。黄薔薇さまにだけは、見つかってはならない。
 きっと「まぁ、何てはしたない」なんてお叱りの言葉を若菜だけではなく、バレー部のお姉さま方も一律受けることになるだろう。
 だから構内を走って抜けるなんてとても危険な賭けなのだけれど。
 若菜には次の授業への時間が、猫には――目覚めない眠りへの時間が。
 きっととても少ないのだ。
 だから、走らなければいけない。
 授業への遅刻も、見つけてしまった猫の終わりも、とてもとても嫌なものだから。
 
 全知全能にして父なる主よ、母なるマリア様。
 だからどうか私を、黄薔薇さまの御目よりお隠し下さいませ。
 
 真面目なのだか不真面目なのだか微妙なそんなお願いを聞き入れてくださったのか。
 若菜は首尾よく教室まで戻り、ミルクホールに駆け込み、そうして砕いたクッキーを牛乳で浸して猫の前に差し出し、その上で始業のチャイムを教室の自席で聞くことができたのだった。
 いや、まぁ、本当ギリギリで。
 汗だくの上にぜーはーぜーはー言っていたから、先生には若菜が猛ダッシュでどこからか教室に駆け込んできたんだろうことは想像がついていたのだろうけれど。
 小さく微笑んだ先生は何も言わなかった。
 
 ただその授業で一番初めに指されたのは若菜だったから、完全に無罪放免、というわけではなかったみたいだけれど。
 
 
 〜〜〜
 
 
 その翌日。
 昼休みの中頃、お昼ご飯を早めに終えた若菜は、クラスメイトであり、もう一人の親友である平城 柚子(ひらき ゆずこ)さんと連れ立って、銀杏並木を歩いていた。
 片手には小袋、中身はクッキーと牛乳の瓶だ。
 当然、若菜が食べるおやつなんかではなくて、昨日の猫の分である。
 
「桜さんも意固地ねぇ。来れば良いのに」
 不貞腐れたように若菜が言うと、隣の柚子さんはくすくす笑った。
「まぁ、いないに決まってるわっていう桜さんの言い分もわからないでもないけれど。本質は違うところなんじゃない?」
 そうして、若菜の頬をぷにっと指差して続ける。
「猫ばーっかり構っちゃって」
 
 ぼっ、と途端に若菜の顔が赤くなる。
 柚子さんはこう言っているのだ、「桜さんが来なかったのは、猫にかまける若菜にいらだっているからだ」。
 それはつまり、桜さんが猫に嫉妬しているということで、もしそれが本当なら――考えただけでも倒れてしまいそうだ。
「ち、違うよ。桜さん、昨日の時にもあんまり良い顔してなかったし。もしかしたら、猫が嫌いなのかも」
 
 猫は基本的に可愛いけれど、世界中の猫がみんな可愛いなんてことはない。
 少なくとも昨日若菜たちが出会った猫は小汚かったし、愛らしい仕草を見せる体力もなかった。
 それに猫アレルギーな人だっているし、もしそうだとすれば昨日桜さんが猫を撫でる若菜に近寄らなかった理由もわかる。
 でもそれはちょっと悲しい。寂しい、か。
 だって若菜はこれから当分、お昼休みはあの猫に会いに行こうと思っているから。
 その間、完全に桜さんと離れ離れになるのはやっぱり寂しい。
 
 なぁぅ。
 
 そんなことを考えながら並木道を歩いていると、不意に木の陰からそんな鳴き声が聞こえた。
 柚子さんと顔を見合わせて、頷きあう。
 そっと草むらに入って木の後ろを覗き込むと、件の猫が小さくうずくまってそこにいた。
「あ、いた」
 声を上げた若菜に気付いてか、顔を上げた猫と視線が交差する。
 猫はやっぱり逃げなかった。
 
 
 若菜がいそいそと食事の準備をする脇で、猫の喉や背中をくすぐっていた柚子さんが言う。
「ふぅん……本当に人に慣れているのね。ここまで警戒心がないなんて、珍しい」
 確かに珍しい。というか、多分これはもう異常の域だ。
 今はどうかわからないけれど、間違いなく生まれは野良猫でないだろう。
 人の温もりを知っている猫に違いない。
「多分、飼い猫だったんじゃないかなって思う」
 独り言のように小さく言うと、柚子さんは「でも首輪も何もしてないわ」と呟く。
 若菜は答えなかった。
 
 砕いたクッキーを並べて、牛乳をかける。
 本当はお皿でも用意できればいいのだけれど、そうすると後片付けが面倒だ。
 元飼い猫であるのなら尚更に準備してあげたいけれど、そこまで面倒をみるつもりはないし、みられない。
 振り返ってちっちと舌をならすと、猫は柚子さんの手を振り払って若菜のところへ――正確には、クッキーのところへやってきた。

 精力的に食べる猫を見下ろしながら、若菜は小さなため息を漏らす。
 やっぱりお腹を空かせていた。
 もしかしたら、昨日のクッキーが最後の食事だったのだろうか。
 だとしたら。
 この猫は、今後どうやってご飯を食べていけば良いんだろう。
 
 若菜のようなおせっかいが、これからもずっとこの猫の面倒をみてくれるだろうか。
 若菜が来れない時も、若菜が卒業した後も。
 わからない。そんな確約は誰にもできない。
 
「美味しそうに食べるわね。よほどお腹が空いていたんだわ」
 若菜の隣に腰を下ろした柚子さんが言う。
 うん、と小さく頷いた若菜はそれ以上何も言うことはできなかった。
 そんな若菜の横顔と、猫の食べっぷりを交互に見ていた柚子さんは、やがて。
 若菜の頭をそっと撫でながら言った。
「大丈夫よ。きっとね」
 
 何に対しての大丈夫なのか、何を根拠にしての大丈夫なのかは言ってくれなかったけれど。
 ほんの少しだけとはいえ、それで確かに救われた若菜は。
 また、うん、と頷く。
 
 あっという間に牛乳かけクッキーを食べ終えた猫が、なぁぅと鳴いた。
 
 
 〜〜〜
 
 
「あの猫にご飯なんて、あげるものじゃないわ」

 桜さんはにべもなくそう言い切った。
 腕を組んで、細めた目で若菜を見上げ、いや睨み上げる桜さんの表情は硬い。
 場所は銀杏並木、柚子さんと猫にご飯を上げたその直後だ。
 並木道では、肩を怒らせた桜さんが待ち構えていた。
 
 続ける。
「これでリリアンに完全に住み着いたらどうするの。ここは動物園でも保健所でもないのよ」
「それは、そうだけど」
 いつになく厳しい視線に怯みながらも、若菜はどうにか言葉を紡ぐ。
 反論にもならないそんな言葉に眉を寄せた桜さんは、その長い髪をはらはらと揺らせて首を横に振った。
「昨日、ご飯を上げた。今日もご飯を上げた。それじゃあ若菜さん、柚子さん。お二人は明日もご飯を上げるの? 明後日もその次も?」
 
 畳み掛ける桜さんは止まらない。
「そうやっていつまでも面倒なんてみられないわ。当たり前よ。じゃあその時、あの猫はどうなるの。あなた達を待って、来ないあなた達を寂しく待ち続けて、そして飢えて死んでしまうの?」
「そうはなる前に猫だって気付くわ。自分でご飯を取ろうとする」
「そうかしら?」
 若菜とは違って、明確に反論した柚子さんも桜さんはびしゃりと切り捨てる。
「人にご飯を貰って、貰い続けて命を永らえた猫が。いつどんなタイミングで野生を取り戻すというの? その可能性がゼロだとは言わないけれど、それは柚子さん達があの猫に構えば構うほど下がる可能性じゃないの?」
 
「でも、あのまま放っておくなんてできないよ」
 若菜は言った。
 それは桜さんの意見とは全く次元の違う話かもしれなかったけれど、言わずにはいられなかった。
「わかってるよ。いつまでもあの猫に構ってなんていられないって。でも、お腹を空かせて倒れている猫を放っておくなんてできない」
「だから」
「例え」
 否定しようとする桜さんに言葉を被せて、若菜は続けた。
「それが自然の摂理に反することでも。私の自己満足に過ぎなかったとしても。だって、見ちゃったんだもの。あの猫」
 
 一歩、若菜よりも前に出て、柚子さんは言った。
「私も同意見かな。桜さんの言い分もわかるけど、それに徹底できるほど私は……私たちは、非情じゃない」
 ぐっ。
 喉に何かを詰まらせたような声を発して、桜さんは視線を逸らす。
「何よ……それ」
 そして吐き捨てるように言って、踵を返してしまった。
 
「あ」
 その背中に声を掛けようとした若菜を遮るように、柚子さんが手を伸ばして若菜の前を塞いだ。
 何をするのと視線で抗議をしても、柚子さんは小さく首を横に振るだけで。
 一度も振り返らなかった桜さんはそのまま遠くへ行ってしまった。
 その方向は校舎とは全くの逆だったのだけれど。
 
 腕を下ろした柚子さんの後ろで、はぁとため息を吐く若菜。
 大声を上げて呼び止めるなんてできない。
 そんなつもりは全くなかったけれど、結果的にはまるで桜さんを一人悪者扱いしてしまったように思う。
「まぁ、頭に血が上ってるだけだと思うけどね。ここは柚子さんにお任せなさい」
 そう言った柚子さんは振り返って、若菜に向けてばちりとウインクを決めた。
 
 それはなぜだかすごく安心できる笑顔で、それまで張っていた肩の緊張がどっと抜ける。
「じゃあ、行ってくるわ。若菜さんは先に教室へ戻っていて」
 
 そして桜さんを追っていった柚子さんの背中は、やけに頼もしく若菜の瞳に映ったのだった。
 きっと大丈夫だ。
 そう信じさせてくれる背中だった。
 
 
 〜〜〜
 
 
 若菜さんたちを置いて、ずんずん歩いて。
 校舎とは反対方向に歩いているとわかっていて、それでもずんずん歩いて。
 やがて足を止めた桜は頭を振って唸った。
「ああ、もう」
 そしてため息。
 ため息しか出ないというものだ。
 
 なぜ、たかだか猫のことなんかであんなことを言ってしまったのだろう。
 桜だって猫とか犬とか、可愛い動物は好きだ。大好きだと言って良い。
 確かにあの猫はそんな風に思えるほど可愛くはなかったし、汚かったし、何の躊躇もなく触ることができた若菜さんに驚きもしたけれど。
 それでも、それは「見殺しにしろ」という意味の発言をするほどのことではなかったはずだ。
 
「まったく、何なのよ。猫のくせに」
 それでも口をついて出るのはあの猫への悪態しかなくて。
 自分は本当は、猫嫌いなんじゃなかろうかといぶかしんでしまうくらい、その時の桜はあの小汚い猫を憎んでいた。
 
 
 再び歩き始めた桜は、ふらふらと。
 教室に戻ろうにも何となく戻れなくて、ふらふらと。
 やがて辿り着いたのは銀杏並木の少し奥迫った場所にある、特別な場所。
 見上げた桜の目の前に、青々と茂った葉を侍らせる桜の木があった。
 
 けれども、そこには先客。
 忘れもしない、小汚いあの猫だ。
 突然やってきた桜を見上げていた猫と相対する。
 桜はじっと見つめる。いや、睨む。
 先に目を逸らしたのは猫の方だった――けれども、それは敗北の意思表示ではなくて。
 改めてその場で丸くなった猫は、桜から興味を失ってしまっただけのようだった。
 
 それからもしばらく見つめて、ずっと睨んで。
 がっくりと肩を落とした桜は負けを認め、桜を挟んで猫の反対側。
 幹にもたれ掛かるようにして腰を下ろした。
 
 桜の木。
 自分と同じ名前を持ち、そしてリリアンに一本だけで存在するこの桜の木は、桜にとって本当に特別な場所だった。
 ファンタジック、ロマンチックな噂が立つことも珍しくない場所だから、それはきっと桜に限った話ではないのだろうけれども。
 桜にとって特別な場所であることには違いはなかった。
 目を伏せて、幹に浸る。
 
 晩夏の涼風は、桜の瞼をゆるゆると伏せさせる心地よさを運んできた。
 
 
「私が、嫌い?」

 五分か、一時間か。
 瞬間にも永劫にも思えた時間を経て、そんな声が桜の背後から聞こえてきた。
 いや、それは正確ではない。
 桜の背後は、桜が現在もたれている桜の幹が占めている(ややこしいなぁ、もう)。
 声は、その後ろから聞こえてきた。
 そこには誰も居なかったはずだ――あの猫を、除いては。
 
「だから、ご飯を上げるな、なんて言うの?」

 声は続いた。
 聞いたことがあるような、ないような声。
 何のことを言っているのか、初めはわからなかった。
 けれども。
「そんなことはないわ」
 勝手に答えていた桜は、きっとどこかでわかっていたのだろう。
 それが、あの猫の言葉だということを。
 
 「私」ということはあの猫、性別は確認したことはなかったけれどメスだったのだろうか。
 さすがはリリアンに入り込んだ猫である。
「好きではないけれど、嫌いだと言うほどでもないわね。そんな理由じゃない」
「じゃあなぜ? どうして、私はご飯を貰っちゃいけないの?」
 猫は問う。
 桜は一瞬言いよどみ、でも答える。
「私を含めたあの子らは人間で……あなたは猫だから。あなたには、あなたの世界がある。そうじゃない?」
 
 野良猫なら、野良猫然としてあるべきなのだ。
 食事は自ら狩り、寝食の場は自ら見つける。
 それが正しい在り方ではないのか。
 桜は、若菜さんは、柚子さんは、そこに介入すべきじゃない。
 それは桜たちがせめて猫なら、そうではなかったのだろうけれど。
 
「でも、私は人間と一緒に暮らしてるわ。一緒に暮らしてきた」
 猫は嘆く。
 桜は聞き耳を立てて言葉を待った。
「人間は時に頼りないけれど、時にはちゃんと頼れる相手。誰もいないとお腹は空くけれど、誰かがいればお腹は空かない」
「あなたは猫なのでしょう? 猫としてのプライドはないの?」
 何もかもを人間に依存するかのような発言に、思わず桜が噛み付く。
 猫は。
 猫は答えた。
 
「私は猫だけど。人間と暮らしてきた猫だもの」
 
 
 だから、今更野生には戻れない。
 
 だから、人間の傍にいたい。
 
 
 そう聞こえた。
 そう聞こえてしまった。
 であれば、もう桜に言うべき言葉なんて数少ない。
「そう」
 納得の意思表示。
 そして。
「それなら、好きになさい」
 諦めの宣言。
 そして。
「残念だわ」
 本音の吐露――。
 
 今、わかった。
 桜は、あの猫に望んでいたのだ。
 若菜たちに頼らずに生きていく、強い姿を。
 一人でも雄雄しく地を踏みしめ、泥を啜り肉を食み、逞しく生きるその姿を。
 
 それはなぜか。
 あの猫は一匹だったからだ。
 一匹で、たった一匹で、地に伏していたからだ。
 
 今でこそ桜は若菜さん、柚子さんという二人の親友を得て幸せな学園生活を送っている。
 その自覚はある。
 でも、それ以前の桜はといえば、常に一人だった。
 孤高だったといえるほど高尚なそれではなかったけれども、孤独だった。
 
 その頃の自分と、あの一人ぼっちの猫を重ねていたのだ。
 桜は一人でも頑張ってやっていた。
 届かない恋に身を焦がしながらも、一人で。
 猫にもそうあって欲しかった。
 きっと、そういうことなのだろう。
 
「ごめんなさい」
 猫は謝る。
「良いのよ」
 桜は許した。
 
 
 遠い空の彼方で、始業のチャイムが鳴っていた――
 
 
 〜〜〜
 
 
「あの猫のところに行くの?」
 
 翌日。
 お昼ご飯をまたしても早めに終えた若菜と柚子さんが席から立ち上がると、桜さんが問うた。
「う、うん」
 一応、昨日の時点で午後の授業には遅刻して戻ってきた若菜さんと仲直りはしている。
 更に遅れて帰ってきた柚子さんから詳しい事情は聞けなかったけれど、「大丈夫」という言葉を信じて、それからもいつも通りに接していた。
 確かに「大丈夫」らしく、桜さんはいつもの桜さんであったことだし。
 
 けれど、猫の話を改めて振られるとどうしても身構えてしまう。
 また、若菜たちを止めようとするだろうか。
 それを振り払うのは精神的にかなり辛いのだけれど――と。
「今日は私も行って良いかしら? 一緒に行って何ができる、というわけではないけれど」
 そんな若菜の危惧を吹き飛ばすように、桜さんは微笑んでそう言った。
 そう言ってくれた。
 
 思わず隣の柚子さんを見る。
 ばちん、と再び柚子さんがウインクをするのを見て、本当に「大丈夫」だったんだということを実感して。
「うん、勿論だよ。一緒に行こ!」
 思わず、若菜は桜さんの手を取って宣言した。
 ぎゅっと握ったか細い手から伝わる桜さんの温もり。
 いろんな意味で感激してしまった。
 
 驚いたように目を丸くしていた桜さんは、やがて。
「じゃあ、行きましょう。きっとお腹を空かせているわ」
 なんて。
 昨日の剣幕が嘘のような笑顔を見せてくれたのだった。
 
 
「ところで、あの猫に名前つけない? 猫、猫じゃ寂しいじゃない」
「あ、柚子さん良いこと言った。そだねー、名前つけてあげたいね。可愛い名前」
「名前、か。そうね。悪くない提案だわ」

「ふっふー、実はもう考えてあるんだ。Merry! どう?」
「それって昨日の英語で出た単語じゃない。えっと……陽気な、だっけ?」
「そう、メリー・クリスマス、のメリーね。メリー……なんだか羊みたい」

「えー。可愛いじゃない。メリー、メリー、メリーさん、なんて呼んで上げると」
「羊! 最後確実に羊だよ! うーん、私は……お昼休みに見つけることが多いから、ランチ、なんてのも良いかなって思うけど」
「ランチ? 食べるの?」

「うわお。若菜さんたら意外に野生的」
「た、食べないよ! そんなわけないでしょ、もう。桜さんは? 何か考えてる?」
「そうね……ゴロゴロ寝てるから、ゴロンタなんてどう?」

「微妙」
「微妙だね」
「微妙だと思うわ」

「じゃあ、やっぱり猫?」
「うーん、それだとやっぱり味気ないし……」
「チェリー」

「え?」
「え、チェリー?」
「そう。チェリー。Cherry Blossomで桜、って意味になるんだけれどね。昨日、桜の下で見かけたから」

「へぇ」
「桜。桜って……もしかして?」
「そう。あの桜」

「チェリー。良いんじゃない?」
「うん。私も気に入ったよ」
「じゃあ、チェリーでいきましょう。私たちの他にもあの猫に名付けている人たちはいるかもしれないけれど」

「私たちは、チェリーと呼ぶ」
「うん、良いと思う。チェリー。良いな。チェリー。うん、待っててね、チェリー!」
「うふふ」


 笑いあいながら、銀杏並木をゆく若菜たちは知らない。
 リリアンにはいつの時代も、一匹の猫が住み着いていたんだってことを。
 三年経っても五年経っても十年経っても、猫がそこにいるんだってことを。
 
 メリーさん、ランチ、ゴロンタ。
 多くの呼び名で呼ばれることになるその猫が、全て同じ猫であったなんてことはありえないけれど。
 少なくとも、若菜たちがチェリーと呼んだその猫は、若菜が卒業するその時までリリアンにいてくれたのだった。


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