【2790】 全て受け止めよういつでも私は  (ナナト 2008-11-25 21:07:57)


【No:2608】【No:2614】 【No:2789】





少しずつ遠くなっていく背中を見送り蓉子はひとり溜息をついた。
相談になんて来るはずがない。
あの無機質な子に向けたその言葉の無意味さは自分自身が一番知っていた。
たぶんあの子にとってはあの無表情が素顔なのだろう。
私が何をする必要もなくこれからも日常を過ごしていくのだろう。

しかし放っておけるわけがなかった。
違う、放っておきたくなかった。
あんなにも泣いていた。
怖がるでも悲しむでもなく、ただただ泣いていた。
その姿があまりにも哀しく、こちらまで泣き出しそうだった。
無意識に流す涙にはどんな理由があったのか。

初対面でしかない私には詮索する権利なんてありはしない。
もしかしたら下世話な好奇心なのかもしれない。
相手を見下したうえでの偽善なのかもしれない。
私を諌めるはずのそれらの正論は今の私を説得するに足るものではなかった。

具体的には何ができるかなんてわからない。
けれど名前は聞けた。
いくらでも機会は作れる。
とりあえず今の私がするべきことは

「遅刻の言い訳を考えることかしら…。」

館に着いた途端に聞こえてくるであろう姉のヒステリックな声がたやすく想像でき、蓉子は本日二度目の溜息をついた。




初めてのことだった。
あの事があってからのしばらくの間。
泣き続けた日々。
その日々では一度もなかった。
私が流し続けた涙の意味は悔恨と懺悔。
あの子に向けたものなのか、それとも他の誰かに向けているのかさえ分からず謝り続けた。
ごめんなさい。
あの時に流した涙は常にその言葉を伴っていた。
その言葉をつかわずに人前で泣いたのは、あれが初めてだった。
無心で泣いてしまったのは 初めてだった。

いいから。

涙を拭う優しい手とともにかけられた言葉。
その時に覚えた安らぎのような感覚。
きっとそのせいなのだろう。
何日たってもその事が頭から離れないのは。


カシャ

「……?」

おろされたシャッターの音に顔を向けると、予想通りの人物がカメラを向けていた。
しかしその表情は呆けているようで、その隣にいる桂さんまでもが同じような表情を浮かべている。

「どうしたの?」

驚くなら普通撮られた自分なのではないだろうか?
少なくとも撮った側の蔦子さんが驚いているのはおかしいと思う。
桂さんはその表情のままポツリと言葉を落とした。



「今、少しだけど、笑ってた。」



そしてその表情にだんだんと喜色が浮かび始めるのが見て取れた。

「嘘…。」

嘘に決まっている。
無いよ、そんなはず。
笑うはずないよ。
今の私が。

「嘘じゃないわよ…。驚いて思わず撮っちゃったわ。」

「固まるんじゃなくてカメラを構えちゃうのが蔦子さんらしいね。」

我にかえった蔦子さんも桂さん同様に嬉しそうな表情を浮かべている。
なんで二人とも嬉しそうなんだろう?
なんで私はそのことに怯えているのだろう?

「ねぇ、何かいいことあったの?見たことない表情だったわ。」

笑顔で聞いてくる蔦子さんにすこし戸惑う。
もし本当に私が笑ったというのなら原因はわかりきっている。
しかし正直に話すわけにはいかない。
それは泣いてしまった事実まで伝えることになるから。

「あっ!もしかして。」

自信あり、と顔に書いているかのような桂さんの様子に肝が冷えた。
バレる訳がないと分かっているのに。

―泣いた事を知られれば心配をかけてしまうから―

…違う、本当は
そんなのは言い訳でしかなくて

「明日のマリア祭が楽しみなんでしょ?」

「マリア祭?」

的外れな言葉にホッとした、というよりは疑問を覚えた。

「あれ?違うんだ…。」

「的外れだったみたいよ。」

「えぇー、でも…。」

私の様子から間違いだと理解してくれた二人はそれでも楽しそうに話を続けている。
マリア祭。そういえば明日だったっけ。
関係ないことに思いをはせようとしても、抱いている怯えは消えそうにない。
きっと今も私の顔色は変わってない。
なのになんでよりにもよって笑顔だけが。

話そうとしない私を見て、すこし残念そうな顔をすると蔦子さんは溜息をついた。

「まぁ、話したくないなら無理にとは言わないけど。なにかあったらちゃんと話してね。」

「うん…。ありがと。」

返事を聞くと二人とも満足そうだった。
理由は分からなくてもわずかなりとも私が笑ったという事実が嬉しいらしい。
きっと理由を話せば喜んでくれるだろう。
あの人――蓉子様との触れ合いが理由で少し笑えたのだと。


それなのに、なぜなんだろう。

わずかにでも笑顔を取り戻してしまったことが
ひどく罪深いことのように思えるのは

どうしてなのだろう。


人に縋ってしまったということを
安らぎを感じてしまったということを
わずかにでも救われてしまったことを自覚すると


こんなにも、震えが止まらなくなるのは


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