【2789】 瞳閉じて絶対誰にも言わない  (ナナト 2008-11-24 17:11:08)


半年前に投稿した【No:2608】 【No:2614】の続きです。




あぁ、まただ。
目覚めと同時に目じりから流れ出るものを感じた。
原因ははっきりしている、夢を見ていたせいだ。
あの子の夢を見た日はいつもこうだ。
意識のあるときにはこんなふうにはならない。寝ている時はやはり押さえているものが溢れてしまうのだろうか。
いつものように顔を洗い、目が腫れていないか確認する。
鏡に映るいつもと変わらない無機質な表情に少しの安堵を覚えた。
きっと泣いていることを知られたらまた心配をかけてしまう。
そういう意味では涙を流すのが寝ている時でよかったと思う。寝顔を見られる機会なんてめったに無いだから。
みんなは優しくしてくれる。しかしそれに甘えるわけにはいかない。
これ以上みんなに心配をかけたくはないから。
笑えないならせめて何も感じていないかのようにふるまおう。


桜が見たい。
そう思ったのはやはり夢のせいで感傷的になっているからなのか。
授業を終え、みんながそれぞれの放課後をすごそうとする中、私は薄紅色のなかにいた。
校舎の裏手にある桜並木、その一本を背もたれになんとはなしに考える。
桜が散る様子に儚さを感じるのはただの感傷なのだろう。
その証拠に来年にはまた同じように花は咲くし、それまでの期間も確かに桜は生きている。
決して桜は儚くなどないのだと思う。
きっと強いのだろう。人間なんかよりも。
笑顔はよく花に例えられる。毎年咲く桜とは違い私は咲くことを忘れてしまった。笑えなくなった私には桜のような強さは持ち合わせていないのだろうか。
それとも、いつか――――

寝不足の体はつまらない考えを掻き消すかの様に私を眠りにつかせた。




桜が見たい。
水野蓉子はふと思い浮かんだその考えに従おうとそちらに足を向ける。
考えれば山百合会が忙しくてこの春は落ち着いて桜を眺める機会がなかった。
桜が見たいなんて我ながら少し少女趣味が過ぎるかと苦笑をもらしたが、欲求に素直に従うのも魅力的に感じた。
どちらにせよ館に行く前に少し眺めるくらいなら時間もとらない。今を逃したらまた来年、ということにもなりかねない。
考えているうちに到着したしたその場所では染井吉野にあふれていた。
来てよかった。
満開に咲き誇るその淡い色の風景に素直にそう思った。
少々疲れがたまっていたらしいこの体も少しは落ち着けるだろう。
眺めながらも足を進めていると、桜木にもたれかかっている深緑の制服が目に付いた。
あの子も桜を見に来たのだろうか。興味を覚え、そちらに近づいてみる。
どう声をかけようかと思ったが、ほとんど動かないその様子にその子が眠りについている事に気がついた。

どうするべきだろうか?

リリアンの学生としては注意するべきだろう。こんなところで眠るなんてはしたないとたしなめなければならない。けれど下級生であるだろう彼女に紅薔薇の蕾になった私が注意すればショックを与えてしまうかもしれない。そして私もこんな気分の時に小言など言いたくない。
らしくもなく悩んでいるとその眼尻に光るものに気がつき、思わず息をのんだ。
苦しんでいるようにも、うなされているようにも見えない。しかし安らいでいるようにも見えない。その何の感情も読み取れない寝顔に流れる涙はどこまでも透明だった。




意識が浮上し、目が覚めていく間に自分がまたもや泣いていることに気づいた。
幸せだったころの記憶がどうして涙を誘発させるのだろう。あの子が既に過去にしかいないことを理解してしまっているからか。
目を開くとこちらを覗き込んでいる心配そうな顔に気づき、意識が急速に覚醒していった。

見られた。

涙を拭うことさえ忘れてしまうほど混乱してしまった。

「ぁ…。」

何かを言わなければと思い口を開くが、涙と混乱で言葉にならなかった。
心配そうに眺めていたその人はすこしほほ笑むとハンカチを取り出すと私の顔にその手をのばした。

「驚かせてごめんなさい。とりあえず少し落ち着きましょう。」

穏やかなその声にすこし落ちつきを取り戻す。そして涙をふいてもらっているという現状に気づいた。

「…すいません。あの、自分でできます。」

「いいから。」

安心させるかのような、言い聞かせるようなその言葉と涙をふくその手に私は心地よさを覚えた。



「すいません。迷惑をかけてしまいました。」

平常を取り戻した私はあらためて謝罪をした。
本当に申し訳なく思った。何が誰にも心配をかけたくないだ。見知らぬ人にこんな迷惑をかけて。
どこまで自分は人の重荷になるのだろうか。

「大丈夫よ。私は迷惑だなんて思ってないわ。」

「でも…。」

暗く、沈んでいく思考を読み取ったのか。その人は先ほどのように穏やかに言葉を続けた。

「いいの、私が好きでしたことだから。あなたもおせっかいだと思ってくれていいのよ。」

「そんなこと…」

できるはずがない、と続けようとしたが、こちらの発言など予想しているかの様な微笑みに言葉を飲み込んだ。

「…なにがあったのか聞いてもいいかしら?」

「なにもありません。すこし夢見が悪かっただけです。」

あの子の夢をそんな風に言うのに罪悪感を覚えた。

「本当に?」

気遣わしげなその表情に私は思った。
この人は優しい人だ。
優しい人の負担にはなりたくない。
お父さん。お父さん。桂さん。蔦子さん。そして…あの子。
なんのとりえもなく何もできない私を支え、気遣ってくれる人たち。
もういいよ、と思う。もう十分だと思う。
今の私にはこれ以上の優しさは怖い。

「はい。心配をかけてすいません。」

私はまた無表情を取り戻している。だから平気だ。
このまま立ち去ってしまおう。

「…わかった。とりあえず信じるわ。」

わかっているが、誤魔化されてくれた。そんな感じだった。
距離の取り方、端正な顔、優しい性格。自分とのあまりの違いに安堵を覚える。
どうせもう関わることはないだろう。この人とは住む世界が違う。
今回のことも蔦子さんや桂さんに伝わることがなければそれでいい。

「今日はありがとうございました。失礼します。」

立ち上がり、背を向ける。これで終わり。
しかしそんな勝手なことは許してもらえなかった。

「待って。名前を聞いてもいいかしら?」

「…一年桃組の福沢祐巳です。」

本当は答えたくはなかったけど迷惑をかけたのだから名乗らないわけにはいかない。

「そう、福沢祐巳さんね。私は二年松組の水野蓉子というの。」

彼女はそう名乗ると微笑んだ。

「なにかあったらいらっしゃい。相談に乗るわ。」

「はい。ありがとうございます。」

一礼して私は歩きだした。
きっとこの先会いに行くことなんてないだろう。そしてあの人――蓉子様もないと分かっているように思えた。


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