【2816】 このままでいいなんて素敵な苺大福  (沙貴 2009-01-12 18:02:02)


 ※オリジナルキャラクター主体です。
 
 
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 私立リリアン女学園。


 ここは、乙女たちの園――
 
 
 女の子が大好きなものって、なーんだ。
 ふわふわした、可愛いもの?
 きらきらした、綺麗なもの?
 それはもちろん、その通り。
 
 だけどそれだけじゃない。
 どんなに可愛くっても、どれだけ綺麗でも、それだけじゃ満たされないことがある。
 良い匂いで、甘くて、美味しいもの。
 乙女の不満、空腹を最善に満たしてくれるのはそんなものだ。
 
 でも甘いものといっても、世の中にはそれこそ砂か星の数だけ種類はある。
 苺の乗ったショートケーキに、チョコレートケーキ。
 モンブランにふわふわのロールケーキも外せない。
 水羊羹に綺麗に模られた砂糖菓子、モナカにお団子、豆大福。
 
 これは、そんな甘いお菓子に魅せられたごく普通の女の子達の。
 ごく普通ではない、一つのお話。
 
 
 〜〜〜
 
 
 慌しく、かしましく、そして楽しかった一日が終わろうとしている。
 リリアン高等部図書館、その司書室で自分用に淹れたコーヒーに一人舌鼓を打つ藤堂 若菜(とうどう わかな)は、長い息を吐いてそんな寂しさを伴った感慨に小さく目を細めた。
 今日は十二月二十四日。
 世間一般的にはクリスマス・イヴと呼ばれる日であり、また同時に世間一般的な小・中・高校であれば二学期の終業式が行われたであろう日でもある。
 そして宗教的な意味はそこに一切ないまま、家族や恋人など大切な人と時間を過ごすべきだと多くの人達から認識されている不思議な日。
 それはリリアンにおいてもその通りであるし、今日この日を愛する姉や妹と過ごしている、あるいは過ごした姉妹の二人は数多く居るだろう。
 若菜だってそうだ。
 大切な、愛する図書委員会の面々とついさっきまでクリスマス・パーティに興じていた。
 楽しかった。幸せな時間だったと思う。
 
 そんな大切な一日の夕刻を、若菜が今と同じようにリリアンの図書館で過ごすようになってこれが丁度十年目となる。
 さすがに図書委員、および委員会として年中図書館に詰めている彼女らとパーティをして過ごすのは毎年ではないけれど、初めてでもない。
 若菜を慕ってくれる子は毎年のように新入生から出てくるし、若菜はそんな彼女らと交友を深めつつ三年後にはしっかりとその背中を押し出してきた。
 本年度のそれもまた、三ヵ月後に迫った未来だ。
 年の瀬になると毎年のことだが、それを思って寂しくなる。年が明ければ、慌しさに忘れてしまったり、本当に間近になった所為で諦めがつくことも多いのだけれど。
 
 コーヒーをまた一口、啜った。
 思い切りに甘く淹れたコーヒーは、パーティで食べたホールケーキの残り香を優しく洗い流してくれる。
 年の割にはまだまだ出ていない(と思っている)お腹をぽんぽんと叩き、腹具合を確認。
 大丈夫。
 まだお菓子の一つや二つは十分入る――甘いものは別腹、なんて胸を張るような年ではないか。
 小さく笑った若菜はカップを持ったまま立ち上がる。
 あの子達にも秘密にしていた、今日この日この時に食べるべく用意していたお菓子を取るために。
 
 食器棚の奥にこっそりと入れておいた小箱、今日の行きがけに馴染みの和菓子屋で買ってきた。
 毎年同じ時期同じ物を買ってゆく若菜を慮ってだろう、ここ数年はこの時期に若菜が店を訪れるだけで初老の店主は優しく微笑んでそれを包んでくれる。
 十年以上前、若菜が始めて買いに行ったのもそのお店だった。
 なけなしの千円札を叩いて買った思い出の和菓子、苺大福二個。
 店主の皺も、あの頃からしてみれば少々深みを増しているだろうか。
 
 苺大福。
 今はぎりぎり初物が間に合うくらいの時期だ。
 本当なら彼女の墓前に供えるべきなのかもしれない。
 けれども、若菜はそれを今まで一度もしたことはなかった。
 毎年二つ購入して、二つとも自分で食べている。
 きっと、あの子もそれを願っている――そんな気がしているから。
 
 お皿を二つ並べ、それぞれに苺大福を一つずつ乗せる。
 コーヒーの入ったカップは流しにおいて、お湯飲みを二つ。やはり和菓子には日本茶だろう。
 司書室には給湯ポットが常備されているから、一人きりでする夕方のお茶会の準備は手早く終わった。
 それらをお盆に載せて、自分の席に戻る。
 窓の外は雪が降りそうなほど寒いのに、漆黒の夜闇にちらつく白い影は見えない。
 雪でも降ればロマンチックなのに、と。
 若菜は年甲斐もなく乙女チックなことを考えた自分に苦笑した。
 
 と。
 
「わ・か・ちゃーん」
 
 司書室の扉がノックもなく開いて、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
 年功序列の厳しいリリアンにおいて、目上たる若菜を呼ぶにしては余りにも砕けすぎたその呼び名。
 それに対して目くじらを立てることは、もう五年以上前に止めてしまった。
 ぎっと椅子の背もたれを鳴らして振り返ると、これまたこの三年間で見慣れた顔とセミショートが司書室の扉の傍で揺れている。
 位置の関係から見えないけれど、彼女の妹もその背後に居るのだろう。
 
「どうしたの? 皆と一緒に帰ったんじゃないの?」
 彼女――平坂 紫苑(ひらさか しおん)は、若菜のそんな声に反応して、ぴょこんと司書室の中に跳び込んだ。
 続けて、やはり彼女の背後に隠れていた妹、秋山 茜(あきやま あかね)もぺこりと頭を下げて部屋の中に入ってくる。
「うん。皆は帰ったよ。私らは居残り」
 言いながら、若菜の方へと歩み寄ってくる紫苑。
 彼女の笑顔が胸に痛い。
 彼女の声が耳に響く。
 小さく眉を寄せたのは、無意識ではあったけれども、彼女らの来訪に対する若菜の率直な意思だった。
 
「お姉さま」
 いち早くそれに気付いたのだろう茜が、わずかに顔を強張らせて紫苑の袖を引く。
 それで若菜は自分がしかめっ面をしてしまっていることに気付いた。
 生徒を怯えさせるとは、司書とはいえ教師失格である。
 眉間を親指でグリグリやって皺を揉み消した若菜は、自分でも無理と分かる笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいのよ、秋山さん。お茶でも飲んでいく? 丁度淹れたところだから」
「わあい」
 茜よりは空気を読むことを知らない紫苑は、そんな若菜の言葉に素直な笑顔を見せる。
 けれども、それもまた彼女の魅力の一つであることを若菜は知っていた。
 一年の頃から若菜に良く懐いてくれている紫苑も、あと三ヶ月もすれば卒業だ。
 願わくば、卒業してからもその純朴さを失わないで居てくれますように。
 
 
 紫苑と茜用の椅子を近場から拝借して配置し、彼女ら用のお茶を淹れる。
 机の上の苺大福は気になったが、わざとらしく自分から触れるのは何となく気が引けた。
 如何に紫苑が若菜と気の置けない間柄にあるといっても、勝手に食べるような真似はしないだろう。
 それに。
「若ちゃん、これ何? おやつ?」
 紫苑は気になったことはちゃんと聞いてくる子だ。言うべきことはちゃんと言う子だ。
 時にそれは鬱陶しく、他人の結界を安易に無視して踏み込んでくる暴挙である。
 だけど、やはりそれもまた彼女の力。魅力。
 否定はすまい。
「ええ。私のおやつよ。あげないんだから」
 
 別に良いよ、と紫苑はカラカラ笑う。
 お茶を差し出すと、彼女は表面にふーふー息を吹きかけてからそれを啜った。
 茜は逆に差し出された茶には手もつけず、二つの苺大福と若菜の顔をちらちらと伺っている。
 隠そうとはしているようだが、そこはそこ、まだまだ高二の女学生である。
 めでたくも何ともないが、三十路寸前である若菜とは人生経験とそこから来る表情の読みに差があり過ぎた。
 苦笑して、若菜は問う。
「気になる? 今、この司書室には私一人しか居ないのに、二つ用意されていた苺大福」
 茜は数瞬悩んだけれど、結局は頷いた。
「聞きたいなら、話してあげても良いわ。私は、余り話したくはないけれど」

 意地悪のつもりではなかった。本音だ。
 彼女との想い出は、できることなら誰にも話したくはない――若菜の胸の内にだけに秘めておきたい。
 この話は、二十年来の親友である平城 柚子(ひらき ゆずこ)にすら話していないことだから。
 ただ、ほんの少し、気になった。
 若菜が消極的な拒否を示した時に、紫苑が。そして茜がどんな反応を示すのか。
 答えはすぐに出た。
 
「聞きたい」
「ちょっと、茜」
 
 半分予想通り、半分期待外れ。
 茜は踏み込み、紫苑はそれを諫めた。
 紫苑が安易に他者の領域に踏み込んでくるのは、それは人の心を、その機微を詠む術を余り持たないからだ。
 茜が踏み込んでくるのはそれとは違う。
 彼女は、他人が張っている結界の存在を認識して、その上でそれを破ろうと踏み込んでくる。
 
 小さく息を吐いた若菜は、自分の湯飲みを口元に持っていくと言った。
「あの日は、雪が降っていたわ。小さく細かな雪……まるで霧のような」

 そう。
 あの日は雪が降っていた。
 窓の外でちらちらと夜闇から浮かび上がる小さく細かな雪が。
 忘れもしない十二月二十四日。
 
 若菜の時が止まった日のことだ。
 
 
 〜〜〜
 
 
「このままで良いわ」

 彼女はそう言って笑った。
 長らく――といっても、結局は半年ほどだがともかく――彼女の傍にいた若菜をして、初めて見る哀しい泣き笑いのような笑顔で。
「あなたが持ってきてくれたのだもの。どんなリボンも、どんな巻紙もいらない。ほら、こんなに素敵な苺大福」
 彼女はそれをそっと摘み上げると、電灯に透かすようにそれを頭上に掲げた。
 その姿が余りにも綺麗で、そして儚くて。
 若菜は腕を上げたままの彼女を、そっと正面から抱きしめた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 島崎 桜(しまざき さくら)さんの様子がおかしくなったのは、秋口冒頭のイベントである体育祭の頃からだ。
 バレー部の自他共に認めるエースである若菜にとって、体育祭といえば格好の活躍の場である。
 所属部的にも性格的にも文化系まっしぐらである柚子さんや桜さんとは、そもそも体育祭に賭ける意気込みからして違っていた。
 できれば三人で一緒に競技を楽しめれば良いけれど、それはそもそも無理だということを知っていた。
 柚子さんなんて「私たちの分まで若菜さんが頑張るから良いのよ」なんて言って、クラスの合同練習ですらサボり気味であった程なのだから。
 
 桜さんはその中、一所懸命に頑張っていた。と、思う。
 細い腕と指で必死で綱引きの大綱を掴んでいたし、ダンスだって慣れない重心移動に何度も転びながらも笑いながら立ち上がって練習を続けていた。
 桜さんは言った。
「だって楽しいんだもの。そりゃあ、若菜さんみたく上手にはできないわよ? でもそんなの、関係ないじゃない」
 低い身長と長い黒髪に加えて安易には近づき難い美貌(ちょっと、若菜フィルターは入っているだろうけれど)、それに排他的な性格の所為でクラスでも孤立していた桜さん。
 その桜さんが朗らかに笑って汗を流す姿に、若菜がどれだけ感動したか知れない。
 
 きっと楽しい体育祭になる。
 柚子さんは柚子さんでのんべんだらりとやり過ごすだろうし、桜さんは桜さんで一所懸命に頑張る。
 そして若菜は若菜で、クラスを先導するポイントゲッターとして張り切るのだ。
 それぞれ楽しみ方は全く違うけれど、「三人がそれぞれに体育祭を楽しむ」という一点に関しては全くの同一である。
 それはきっと、いいや絶対、ものすごく楽しい体育祭になるだろう。
 最中も、終わってからも、来年も、その次もずっと話のネタとして盛り上がることができるような。
 
 けれど、体育祭も後一週間ほどに迫った頃。
 桜さんは季節外れの風邪を引いてしまった。
 学校を休んだのは一日だけだったけれど、登校するようになってからも結構コンコンと咳が続いていた。
 体育の授業も何度か見学したし、何とはなく若菜たちの体育祭に薄暗い雲がかかって来たような、嫌な予感。
 
 もっとも、風邪みたいにいきなりやってくる病気ばかりはどうしようもないことなので、それに関して若菜が不満を言うことはなかったけれども。
 本当は、「何でこんな時期に」と思うことは確かにあった。
 まぁでも、風邪の所為で練習が疎かになって困るのは桜さん自身だ。
 少しでも若菜たちがそれをフォローできたら、それで良いと思う。今できる万全だと思う。
 きっと。
 
 あるお昼休み、桜さんはこんなことを言っていた。
「今年の風邪……っていう時期でも本当はないんでしょうけれど。性質が悪いのね」
 もぐもぐやっていた里芋の煮っ転がし(夕べの残りだ)をごっくん、と飲み込んだ若菜はそんな台詞に小さく笑う。
「何だかその言葉って良く聞くよね。今年の風邪は性質が悪い」
 すると柚子さんも笑って頷いた。
「毎年どんどん悪化してるんじゃないの? ふふ、再来年辺りには不治の病になってるかもね」
「もう、二人とも」
 言って、桜さんも笑う。
 
 この時は、そんな冗句に皆笑った。
 それは桜さんの病気がただの風邪だと信じて疑っていなかった所為だ。
 ほんの数日体を休ませれば、言うまでもなく体育祭までにはちゃんと、桜さんは全快して徒競走でびりっけつになったり、大綱引きで汗だくになったりする。
 そんなことが極当たり前のこととして、確定された未来として、若菜たちの間で信じられていたからだ。
 
 
 当日ダンスの演目の間中ずっと、若菜たちを白チーム応援席から眺め続けた桜さんの姿という、全く正逆の方向に裏切られることになるなんて、この時は誰一人想像もしていなかった。
 
 
 〜〜〜
 
 
 桜さんの咳は止まなかった。
 華やかではあったけれども、どこか侘しかった若菜たちの体育祭が終わり、続けて修学旅行の準備が迫ってきても。
 桜さんの片手にはいつもハンカチがあった。
 授業中はもちろん、若菜たちと話していても、ご飯を食べていても。
 
「桜さん、お医者様には行ってないの?」
 さすがに二週間以上もコンコンと続いていると不安になる。
 若菜はある時、思い切ってそう聞いた。
 その時も軽く咳き込んでいた桜さんは、ハンカチで押さえていた口元を離すと、力なくそっと首を横に振った。
「いいえ。先週に一度行ったわ。一応咳止めを飲んではいるのだけれど」
「そこは掛かり付けのところなの?」
 続けて柚子さんが問うと、今度ははっきりと首肯する。
「私を含めて、家族がずっとお世話になっているお医者様よ。余り大きなところではないけれど」

 コンコン。
 
 また咳き込んだ後に桜さんが時折不快そうな顔をするのが気になるけれど、いかんせん、桜さんではない若菜にはその意味は分からない。
 ただ思うのは、きっと今の桜さんの咳は風邪の後遺症じゃなくて、別の病気なんだろうということ。
 気管支炎とか……なんか、そんな感じの。
 病気の名称とか症状に明るくない若菜には想像することもできないけれど、咳がずっと続く病気が風邪と別物であることくらい想像がつく。
「早く……治ると良いね。修学旅行も近くなってきたし」
「そうそう。桜さん、体育祭の時みたいにお休みなんてダメよ? きっとずっと後悔しちゃうんだから」
 若菜と柚子さんがそう言うと、桜さんはハンカチをぐっと握り締めて頷いた。
 か細い指で握られた拳にはうっすらと血管が浮かんでいて、桜さんの決意が本気であること声高に訴えている。
「もちろんよ。高校生活での一番の華ですもの。這ってでも行ってやるわ」

 ちょっと、大人気ない本気であるような気がしないでもない。
 
 だけど残念ながら、修学旅行の部屋割りに関して、やはり健康管理第一ということで桜さんは保険医の先生と二人部屋ということになった。
 若菜は柚子さんと一緒の部屋だ。
 仕方がないから、いかにして桜さんを部屋から連れ出すか(主に夜)を何度も柚子さんと話し合った。
 その内何度かは桜さんにも参加してもらって、「そんなことしたら先生に怒られるわよ」と呆れながらも、結局一番熱心に議論していたのは桜さんだった――ように思う。
 やっぱり、桜さんも寂しいのだ。
 
 だからこそ、若菜たちはそれに応えてあげたいと思った。
 自由時間はもちろんずっと一緒だけれど、それ以外でも。
 一分でも一秒でも、若菜と桜さんと柚子さんが一緒に居られるように。
 
 柚子さんの言葉、「きっとずっと後悔しちゃう」は嘘じゃない。
 若菜たちはまだ十六〜十七歳の女子高生に過ぎないけれど、高校生活の修学旅行がきっと一生の思い出になるってことは知っている。
 だからそれを楽しむために策を弄したり手間をかけたりするのは全然苦じゃないし、むしろそれはそれで楽しい。
 特に若菜にとっては、桜さんと打ち解けてからの(今度こそ)初めてのイベントである。
 楽しむためなら何だってしよう、一生の思い出として心に深く深く刻みつけよう。
 
 
 そんな決意を秘めた、若菜たちの修学旅行出発日。
 桜さんは、二年桜組の集合場所に姿を見せなかった。
 
 昨晩になって、急に発熱してしまったとのこと。
 残念だけれど、今回の修学旅行に桜さんは参加できないこと。
 それらを事務的に、極めて端的に、担任の先生はお話された。
 
 若菜の吐いた重いため息は隣の柚子さんのそれと重なり、淀んで濁って地に落ちた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 桜さんの咳は止まなかった。
 目新しいものばかりではあったけれども、とても寂しかった若菜たちの修学旅行が終わり、続けて学園祭の準備が迫ってきても。
 桜さんの片手にはいつもハンカチがあった。
 咳き込む度に顔を顰める桜さんの表情も、哀しいかな、見慣れてしまった。
 
 その頃になって、桜さんは掛かり付けのお医者様から別の総合病院を紹介されたらしい。
 いつもお世話になっている方はいわゆる町医者で、最新の機器を用いた精密検査とかはできないから、と。
 最新の機器を用いた精密検査。
 その言葉を構成する単語にはどこにもネガティブな要素はないのに、どうしてこんなにも胸を締め付けるのだろう。
 
 秋の夕暮れ、運動部の歓声が遠くから聞こえてくる銀杏並木。
 久しぶりに桜さんと二人の家路についている最中、桜さんは言った。
「きっと、ちょっと、面倒な病気なの」
 若菜が小さく首を傾げることで言葉の先を促すと、桜さんは前方を見据えたまま続ける。
「自分の体のことは自分が一番良くわかる……ってわけでもないけれど、自分の体が”おかしい”のは。っ。わかるわ」
 ぐっと何かを飲み込んでの台詞。
 ”おかしい”それが、もう桜さんから普通の声すらも奪おうとしているのだろうか。
 
 その”おかしい”何かを若菜が取り除けるものなら綺麗さっぱり取り除いてあげたい。
 だけど、バレーで鍛えた筋力も、クラス一高い上背も、桜さんの変調の前では全くもっての無意味。
 せめて何かしてあげたいけれど、何をしてあげれば良いのかもわからない。
 それはきっと、若菜が頭のどこかで「何もしてあげられない」ことを理解している所為で。
 俯いた若菜は、自分の無力さに凍えてしまいそうだった。
 
 ふ、と。
 そんな若菜の左手に暖かな感触。
 
「そんな顔をしないで。これは私の問題だもの。私が病気をちゃんと治せば済む話。若菜さんがそんな泣きそうな顔をする必要はないわ」
 顔を上げた若菜の前には、斜陽に照らされて淡く微笑む桜さんの顔。
 若菜の左手には、冷たいけれど芯にある温もりをじんわりと伝えてくる桜さんの右手。
「ね?」
 桜さんの困ったような笑顔が、夕日に滲んだ。
 
 
 それからの数日、桜さんは小康状態を保っていた。
 検査の結果が出るまで、と総合病院で貰った咳止めが良く効いていたらしく、ハンカチを握り締めないで桜さんと会話できることが随分と久しぶりに思えて、柚子さんを交えて三人で胸を撫で下ろしたものだ。
 慌しい日々は流れるように過ぎ去って、文化祭の前日になって、そして当日になって。
 桜さんは変わらずリリアンに居てくれたし、ちゃんと若菜たちの間に居てくれた。
 今回は体育祭や修学旅行とは違う。
 その事実に、その事実だけに、若菜はマリア様と総合病院のお医者様に心から感謝した。
 
 
「んー、じゃあ次はどこに行く? 演劇部の演目はまだ先よね?」
 構内地図を片手に若菜が言うと、桜さんは図書館の辺りを指差して言った。
「そう言えば、今年の図書委員会の出し物って何だったかしら。去年の展示は結構面白かったのだけれど」
「え、桜さん去年のアレ行ったの? 地味すぎると思うけれど……私、あれは最初から完全に除外してたわ」
 柚子さんがそう言うと、「まぁ、委員会の方々に失礼よ」なんて桜さんが諫める。
 
 コンコン。
 
「委員会の方々だって、一所懸命に資料を集めて展示されているのだから。それを拝見できることに感謝しないと」
 拳を口に当てて咳を押さえた桜さんがそう続けた。
 昨日まではほとんど咳をしていなかったのだけれど、さすがに今日はリリアンにも人が多く、埃も立っている。
 再発か、どういう原理かはわからないけれど、咳止め薬の許容を超えたのか。
 どちらにしろ、今日の桜さんは一月前の桜さんのようだった。
「桜さん、真面目だなぁ」
「本当、本当」
 若菜たちが若干の呆れを含めて言うと、桜さんは露骨に肩を竦める。
「ようし、決めたわ。じゃあ、本年度の図書委員会の出し物を見に行きましょう。行き先は図書館よ」
 
 言って、さっさと歩を進め始める桜さん。
 顔を見合わせた若菜と柚子さんは苦笑い。基本強情な人だから、もうきっと何を言っても図書館行きは免れないだろう。
 仕方がない、演劇部の出し物にはまだ時間もあることだし。
 ここは一つ、桜さんの可愛いわがままにお付き合いするといたしましょう。
 声にならないそんなやりとりを交わした若菜と柚子さん。
「桜さん、待って」
「わかったわよ、行くから」
 なんて、その背中に声を掛けた。
 
 コンコン。
 コン。
 コンコンコン。
 
 桜さんは立ち止まっていた。
 肩を痙攣させるように小刻みに震わせて、咳をしている。
「桜さん?」
 
 コンコン、コン、ゴッ、ゴッ、グ、コン、コン。
 
 咳の仕方が違う――と若菜が気づいた時には、桜さんは既にその場に蹲っていた。
 
 ゴッ、ゴッ、ゲ、ゲホ、ゴホッ。
 
「桜さん! 桜さん!」
 必死で口に当てたハンカチに、勢い良く咳き込んでいる。
 ぼろぼろ涙を流しながら、両手でハンカチを押さえ、小さな体をより小さく縮ませて。
「桜さん! 桜さん!」
 隣に跪いた若菜は、桜さんの背中を無意識に摩った。
 摩り続けた。
 それでも一向に桜さんの咳は止まなくて――やがて。
 
「グ、ぅ――くぅん」

 胸を押さえて、喉の奥から捻り出したような、おおよそ人の声とは思えない音を発して桜さんは倒れた。
 桜さんが取り落としたハンカチは、ぞっとするほどに紅く染まっていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 学園祭、という言葉がトラウマになってしまいそうな悪夢の日。
 若菜が桜さんの声を聞くことができたのは、その日から一月程経ってからのことだった。
 リリアンの廊下で意識を失った桜さんは、その日から搬送された病院に入院。
 意識は数日で取り戻したけれど、別の病院への転院だの経過観察だの何だので、事実上の面会謝絶状態が続いていた。
 
 一言で言えば、桜さんの体を蝕んでいた病魔がいよいよその牙を剥いたのだ。
 けれどその牙は、若菜や柚子さんが想像していたそれを遥かに超える巨大さ凶悪さで、事態の急変についていけない若菜たちをあざ笑っていた。
 始まりは風邪だった。
 次は止まない咳。
 
 それから、あの悪夢の結末を果たして想像できただろうか?
 想像力と桜さんへの心配を総動員して、想像すべきではなかっただろうか?
 
 そんな自戒と自虐の問いだけを頭の中でぐるぐると回しながら日々を過ごしていた若菜の元に、桜さんから電話があったのはモノクロの終業式を終えた後。
 ベッドに寝転がり、テレビから流れてくるクリスマスソングを聞きながら天井の節目を数えていた頃だ。
「若菜ー。島崎さんからお電話よ」
 初め、その言葉の意味が分からなかった。
 それよりも数えている節目を忘れてしまいそうな外界からの刺激に、少し、いやかなり、苛立ったことを覚えている。
 無視しようと思った。
 無視してどうにかなるものではないことなんて、考えればすぐに分かることだけれど、その時の若菜に「考える」だなんて高等技術は使いこなせないでいたのだ。
 
「若菜ー。電話ー」
「はーい!」
 (当然だけれど)繰り返し呼び掛けてきたお母さんの声に大声で答え、体を起こす。
 視界がくるんと回って、それでほんの少しだけ正気に戻る。
 電話だって? 島崎さんから。
 島崎さん。
 島崎――桜さん?

「ええっ!」
 悲鳴染みた声を上げた若菜は、それこそ転がり落ちるようにベッドから降り、ドタバタと足音を立てて廊下を走った。
 訝しげに眉を寄せるお母さんから受話器を引っ手繰って、耳に当てる。
「も、もしもし、桜さん! 桜さんなの!」
 息を呑むような声が聞こえた。
 いきなり若菜が喚いた所為だろうけれど、それからしばらくは耳が痛くなるような沈黙の時間が流れて。
 やがて。
 
 くすっと。
 小さな笑い声が聞こえた。
 
「ええ、桜よ。若菜さん。久しぶり」
「桜さぁん――」
 瞬間、若菜の膝が折れる。
 桜さんだった。
 桜さんの声だった。
 本当に久しぶりの、心の底から聞きたいと欲していた、桜さんの声だった。
 
「心配を掛けてごめんなさい、若菜さん。電話ができるようになるまで、結構掛かっちゃって」
 コンコン、と。
 小さくそれでも咳き込んで桜さんは言った。
 見えないだろうけれど、受話器を耳に当てたまま首を横に振って若菜は答える。
「ううん、良いよ。桜さんの声が聞けたんならそれで。桜さんが、ちゃんと、――なら、それで」
 生きているなら。
 言葉にはならなかった。
 
 桜さんの微笑が脳裏に浮かぶ。
 困ったような笑顔――何故だか、夕日に照らされていた。
「ねぇ、若菜さん。今、時間取れるかしら? まだご飯食べてないわよね?」
「え? う、うん。大丈夫だよ。時間なんていくらでも取れるよ」
「じゃあ、お願いがあるのだけれど――」
 
 
 〜〜〜
 
 
 そうして若菜がやってきた病室のネームプレートには、「島崎 桜」の名前が載っていた。
 桜さんがここに居る。
 桜さんがこの部屋の中に居る。
 会いたくて逢いたくて、仕方のなかったあの桜さんが。
 
 そんな感動と、小雪の降る中走ってきた寒さで震える手を叱咤し、そっと病室の扉を開ける。
 踏み込んだ病室の奥で、元々線の細かった体を痛ましいまでにより一層細らせた桜さんが、ベッドの上で半身を起こしていた。
「桜――さん」
 余りの姿に、持ってきた紙袋を取り落としてしまいそうになる。
 チューブや呼吸器の付いている姿でないだけきっとマシなのだろうけれど、それにしても。
 桜さんは微笑んだ。
「若菜さん。ごきげんよう」

 ゆっくりと歩み寄って、ベッドの脇に据えられている椅子に座る。
 その間じっと若菜のことを見つめていた桜さんの顔に、自然と手が伸びた。
 頬を撫でると、それまでの桜さんの肌とは比べ物にならないくらいにガサガサした質感が伝わってくる。
 そっと伏せた瞼の下にはうっすらと隈ができていた。
 もちろん、若菜の知る女の子の中で一番の美人さんであることは変わりないけれど。
 痛々しい姿だった。
 
「桜さん……体は、どう、なの?」
 
 小さく、でも、問わなければならない問いを若菜は投げる。
 桜さんは頬に当てたままだった若菜の手にそっと手を重ねて、そして小さく首を横に振る。
 それだけだった。
 代わりに言う。
「今日はありがとう、若菜さん。どうしても今日、あなたに会っておきたくて」
 間近で聞けば、桜さんの声が微かに掠れているのがわかった。
 本質はリリアンで、若菜の傍で、凛と発していた頃の声のままだけれど。
 それでも、聞き違えてしまいそうなほどに弱く儚くなってしまった桜さんの声。
 
 胸が締め付けられる苦痛を隠して、若菜は「どうして?」と聞いた。
 我ながら馬鹿な質問だったと思う。
 でも桜さんはちゃんと、若菜の目を見て答えてくれた。
「だって今日はクリスマス・イヴでしょう? クリスマスプレゼントを貰える日だもの」
 
 言って、くすりと笑う。
 その笑顔に、若菜はようやく自分が持ってきた荷物を思い出した。
「あ、あはは、なる、ほどね。ごめん、そんなことならプレゼント用の包装にしてもらえば良かったよ」
 そうして紙袋から取り出したのは、一つの苺大福。
 一応二つ分買ってあるそれは、桜さんからのリクエストだった。
 
 桜さんのお願いとは「お見舞いに来て欲しい」。
 それと、「できれば美味しいお菓子があると良いな」だった。
 だけど病人の桜さんが食べられるものがどんなお菓子なのか、若菜にはわからなかった。
 わからなかったけどとにもかくにも早く桜さんの元に駆けつけたかった若菜は、病院に向かって良く中途で和菓子屋さんを見つけ、そこで苺大福を二個買った。
 桜さん一番の大好物、というわけでも若菜のそれでもないけれど、二人とも大好きなお菓子であることは違いない。
 美味しいお菓子だからリクエストには添えているはず、とお店を出ながら確信した若菜は、改めて病院に向けて走り出したのだ。
 
 だから、持ってきた苺大福は本当にお店で売っているそのままで、プレゼント用に可愛らしくデコレーションしてあるとか、例えばメリークリスマスの砂糖菓子があるとか、そんなものではなかった。
 普通の、薄いフィルムで包まれただけの苺大福。
 だけど。
 
「このままで良いわ」

 桜さんはそう言って笑った。
 長らく――といっても、結局は半年ほどだがともかく――桜さんの傍にいた若菜をして、初めて見る哀しい泣き笑いのような笑顔で。
「あなたが持ってきてくれたのだもの。どんなリボンも、どんな巻紙もいらない。ほら、なんて素敵な苺大福」
 桜さんはそれをそっと摘み上げると、電灯に透かすようにそれを頭上に掲げた。
 その姿が余りにも綺麗で、そして儚くて。
 若菜は腕を上げたままの桜さんを、そっと正面から抱きしめた。
 
 哀しかった。嬉しかったけれども、それ以上に哀しかった。
 そんなことに、心から感動してくれる桜さんが。
 本当ならもっとちゃんとしたクリスマスプレゼントも用意できた筈なのに。
 こんな、むき出しの苺大福に感謝してくれる桜さんが、感謝せざるを得ない桜さんが、途方もなく哀しかった。
 
 ぽんぽん、と桜さんの細い手が若菜の背中を叩く。
 ぎゅっと抱きしめて、若菜は呟く。
「ねぇ、桜さん。どうして私たち、同い年なんだろうね」
 ん? と若菜の胸に顔を埋めた桜さんが問う。
「もっともっと、学校以外でも桜さんと一緒に居ればよかった。もし桜さんが年上なら……年下なら……きっと素敵な姉妹になれたと思うんだよ。それなら、もっとずっと一緒に居られた。今日だって、きっとずっと違った」
 胸の中の桜さんが身を捩る。
 首を横に振ったのだとわかった。
「同じ学年で……同じクラスで……私は良かった。あなたの隣を歩くことができたのだもの。私はあなたの姉でも妹でもない――それはとても幸せなことよ」

 言って、そっと若菜の体を押した桜さんは告げた。
「さぁ、食べて。苺大福。その為に持ってきてもらったんだもの」
「へ?」
 意味深な桜さんの台詞に混乱している最中、不意に飛んできた指令に若菜は間抜けな声を上げた。
 食べて? 若菜が? え? 若菜が食べるの?
 ?のオーラを全身から発散する若菜に気付いているのかいないのか、手際よくフィルムを取り除いた苺大福を指先で摘み、桜さんはそれをやっぱり若菜に向ける。
「ほら、あーん」
「え、ちょ、ちょっと桜さん」
 突然のことでうろたえる若菜。当たり前である。
 桜さんのために買ってきた苺大福を若菜が食べるわけにはいかないし、あまつさえ食べさせてもらうなんて。
 
 けれども桜さんは悪戯な笑みを浮かべて続けた。
「これが、私のクリスマスプレゼント。私、若菜さんが美味しいもの食べてるところを見るの、大好きなの。とっても幸せそうな顔をするんだもの」
 言われて、若菜の顔がぼっと熱くなる。
 そんな幸せそうな顔してたのか、とか。
 桜さん、そんなところ見てたのか、とか。
 桜さん、それ、大好きなのか、とか。
 混乱の極みに達した若菜の脳が思考を停止する。
 
 
「はい、あーん」
 
 
 きっと、この言葉には人間の口を開かせる魔法が宿っているに違いない。
 
「うふふ」
 そうして笑った桜さんの前で、嬉しいやら恥ずかしいやらで若菜はもう、顔を真っ赤にして悶えるしかできなかった。
 
 
 窓の向こうでは細かな雪がちらちらと部屋の灯りを反射していた。
 
 
 〜〜〜
 
 
「それが、結局は最後になったわ。柚子は翌日にお見舞いへ行ったのだけれど、結局眠ったままでね」
 
 ふぅ、と。
 長い話を終えた若菜がお茶を啜る。
 初めに入れたお茶はもうほとんど冷めてしまっていた。
「若ちゃん――」
 紫苑が呻くように名前を呼んだ。
 答えることはできなかった。
 
「ごめん、若ちゃん」
 茜が頭を垂れて謝った、けれどもそれにはしっかりと首を横に振ってやる。
「良いのよ。話したのは私だから、秋山さんが気に病むことはないわ」
「後で重々言い聞かせておくよ。本当ごめん、うちの妹がでしゃばった所為で」
 紫苑が茜の頭を押さえつけるようにして、そして自分も頭を下げた。
 良いから、と苦笑しながらその手を払う。
 紫苑はこういうところ厳しそうだから、庇ってあげないと茜が可哀想だ。
 
「だから、この苺大福は二つとも私のものなの。ほら、もう戻りなさい? 日も落ちてから随分経ったわよ」
 半ば無理やりだったけれど、若菜がそう促すと紫苑も茜も大人しくそれに従って立ち上がった。
 二人から湯のみを受け取って、視線のみでその背中を押した。
「それじゃ。メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス。来年もよろしくね」
 二人がそうして司書室を後にすると、再び静かな時間が若菜の城に戻ってきた。
 
 
 お茶を淹れなおして、席に戻る。
 苺大福のフィルムをはがして、一摘み。
 ふ、と窓の外に視線を飛ばした若菜は小さく呟いた。
 
「メリー・クリスマス」
 
 夜闇に吸い込まれたそんな言葉は、果たして桜の元まで届いただろうか。
 砂糖と苺のほんのりした甘さに自然と緩む頬を撫でながら、若菜はそんなことを思っていた。


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