【2844】 悲劇の走れ祥子  (海風 2009-02-19 13:13:02)





 薔薇の館にはトラップが常備されている。


 三月。卒業間近。
 水野蓉子は、たった一人だけ無人の薔薇の館の会議室にいて。
 ただただ、何をするでもなく、紅茶を楽しんでいた。
 長いようで短かった、瞬きの狭間に過ぎて行ったリリアン高等部での生活。
 山百合会の仕事。
 姉との出会い。仲間との出会い。妹との出会い。
 
 だが過去を懐かしむ最中、大変なことに気付いてしまった。

 薔薇の館にはトラップが常備されている。
 蓉子がそのことに気付いたのは、残念ながら、もう卒業間近の今日であった。
 きっと山百合会の誰もが、この時期には遅かれ早かれ気付くのではないだろうか。
 しかし、誰にも教えない。
 これは語り継ぐべきものではなく、自分で気付いて自分が活用し暗黙の上で継がれるものだと思うから。
 卒業していったかつての薔薇さま方も、絶対に後輩には伝えることをしなかった。
 自分がその天然のトラップを活用できなかったがために、後続に教えるのがちょっとだけ惜しかったのだろう。
 そんな気持ちが痛いほどよくわかる。
 知っていれば、全てが違っていたかもしれない。
 そう、全てが。

「……ふっ」

 蓉子は自嘲気味に笑うと、席を立った。
 あと一日。
 あと一日だけ早く知っていれば。
 最後の最後に、こんな悔恨の念を抱かせるなんて。
 我が孫は、結構な大物だ。


  「――あーつめた」
  「――わ、由乃さん。指先が真っ赤だよ」
  「――お湯が出ないからね、ここ」
  「――貸して。温めてあげるから」
  「――ゆ、祐巳さん……」


 知らなければその分だけ幸せだった。
 ただの微笑ましい日常として流していたこれまで通り、気付かなければよかった。
 きっと、薔薇の館を旅立っていったお姉さま方も、こんな気持ちを抱えたまま卒業を迎えた人もいたのだろう。

「……そうだ」

 なんだか一人で悔しがるのも癪なので、それとなく親友に話しておくことにした。







 薔薇の館にはトラップが常備されている。


 三月。卒業間近。
 鳥居江利子は、たった一人だけ無人の薔薇の館の会議室にいて。
 ただただ、何をするでもなく、紅茶を楽しんでいた。
 長いようで短かった、瞬きの狭間に過ぎて行ったリリアン高等部での生活。
 山百合会の仕事。
 姉との出会い。仲間との出会い。妹との出会い。
 
 だが過去を懐かしむ最中、大変なことに気付いてしまった。

 薔薇の館にはトラップが常備されている。
 江利子がそのことに気付いたのは、残念ながら、もう卒業間近の今日であった。というか親友に聞かされて気付かされてしまった。
 きっと山百合会の誰もが、この時期には遅かれ早かれ気付くのではないだろうか。
 しかし、誰にも教えない。
 これは語り継ぐべきものではなく、自分で気付いて自分が活用し暗黙の上で継がれるものだと思うから。
 卒業していったかつての薔薇さま方も、絶対に後輩には伝えることをしなかった。
 自分がその天然のトラップを活用できなかったがために、後続に教えるのがちょっとだけ惜しかったのだろう。
 そんな気持ちが痛いほどよくわかる。
 知っていれば、全てが違っていたかもしれない。
 そう、全てが。

「……ふっ」

 江利子は自嘲気味に笑うと、席を立った。
 あと一日。
 あと一日だけ早く知っていれば。
 最後の最後に、こんな悔恨の念を抱かせるなんて。
 あの天然たぬきは、かなりの大物だ。


  「――祐巳ちゃん。そこのタオル取ってくれる?」
  「――あ、これですか? 令さま」
  「――それそれ。……さすがに二月の水は冷たいね。一年生は大変だ」
  「――令さま、いい方法がありますよ」
  「――いい方法?」
  「――人肌で温めるんですよ。さ、お手を」
  「――ゆ、祐巳ちゃん……」


 知らなければその分だけ幸せだった。
 「ほほう令が照れてるわ珍しい」なんてニヤニヤしながら見守った日常として流していたこれまで通り、気付かなければよかった。
 きっと、薔薇の館を旅立っていったお姉さま方も、こんな気持ちを抱えたまま卒業を迎えた人もいたのだろう。

「……そうだ」

 それが負の連鎖であることの自覚はあったが、一人だけ仲間はずれにする方がアレな気がしたので、それとなくもう一人の親友に話しておくことにした。







 薔薇の館にはトラップが常備されている。


 三月。卒業間近。
 佐藤聖は、たった一人だけ無人の薔薇の館の会議室にいて。
 ただただ、何をするでもなく、インスタントのコーヒーを楽しんでいた。
 長いようで短かった、瞬きの狭間に過ぎて行ったリリアン高等部での生活。
 山百合会の仕事。
 姉との出会い。仲間との出会い。妹との出会い。
 
 だが過去を懐かしむ最中、大変なことに気付いてしまった。

 薔薇の館にはトラップが常備されている。
 聖がそのことに気付いたのは、残念ながら、もう卒業間近の今日であった。というか親友に負の連鎖として聞かされて気付かされてしまった。
 きっと山百合会の誰もが、この時期には遅かれ早かれ気付くのではないだろうか。
 しかし、誰にも教えない。
 これは語り継ぐべきものではなく、自分で気付いて自分が活用し暗黙の上で継がれるものだと思うから。
 卒業していったかつての薔薇さま方も、絶対に後輩には伝えることをしなかった。
 自分がその天然のトラップを活用できなかったがために、後続に教えるのがちょっとだけ惜しかったのだろう。
 そんな気持ちが痛いほどよくわかる。
 知っていれば、全てが違っていたかもしれない。
 そう、全てが。

「……ふっ」

 聖は自嘲気味に笑うと、席を立った。
 あと一日。
 あと一日だけ早く知っていれば。
 最後の最後に、こんな悔恨の念を抱かせるなんて。
 天然って、時々だが誰よりも上を行く。


  「――あ、志摩子さん。袖濡れてるよ」
  「――本当? 気付かなかったわ」
  「――結構派手に濡れちゃってるね」
  「――これくらいならすぐ乾くと思うけれど」
  「――いや、ちゃんと乾かした方がいいよ。幸い今日は体操服あるし。はい、脱いで脱いで」
  「――きゃっ。ゆ、祐巳さん」
  「――志摩子さん肌白いねー。しかも綺麗だね」
  「――ゆ、祐巳さん……」


 知らなければその分だけ幸せだった。
 「おぉー脱がしてる脱がしてる。祐巳ちゃん押し強いな」とかニヤニヤしながら見守った日常として流していたこれまで通り、気付かなければよかった。
 きっと、薔薇の館を旅立っていったお姉さま方も、こんな気持ちを抱えたまま卒業を迎えた人もいたのだろう。

「……そうだ」

 非常に悔しいので、一年後の今日辺りに、今の二年生にそれとなく話しておくことにした。
 気の長い話だし、来年には忘れているかもしれないが、気が向いたら思い出すだろう。







 薔薇の館にはトラップが常備されている。


 三月。卒業間近。
 小笠原祥子は、たった一人だけ無人の薔薇の館の会議室にいて。
 ただただ、何をするでもなく、紅茶を楽しんでいた。
 長いようで短かった、瞬きの狭間に過ぎて行ったリリアン高等部での生活。
 山百合会の仕事。
 姉との出会い。仲間との出会い。妹との出会い。
 
 だが過去を懐かしむ最中、大変なことに気付いてしまった。

 薔薇の館にはトラップが常備されている。
 祥子がそのことに気付いたのは、残念ながら、もう卒業間近の今日であった。というか卒業していった先輩に聞かされて気付かされてしまった。
 きっと山百合会の誰もが、この時期には遅かれ早かれ気付くのではないだろうか。
 しかし、誰にも教えない。
 これは語り継ぐべきものではなく、自分で気付いて自分が活用し暗黙の上で継がれるものだと思うから。
 卒業していったかつての薔薇さま方も、絶対に後輩には伝えることをしなかった。
 自分がその天然のトラップを活用できなかったがために、後続に教えるのがちょっとだけ惜しかったのだろう。
 そんな気持ちが痛いほどよくわかる。
 知っていれば、全てが違っていたかもしれない。
 そう、全てが。

「……ふっ」

 祥子は自嘲気味に笑うと、席を立った。
 あと一日。
 あと一日だけ早く知っていれば。
 最後の最後に、こんな悔恨の念を抱かせるなんて。
 我が妹は、どこまでも我が妹だ。


  「――はぁ」
  「――瞳子。手、貸して」
  「――え?」
  「――この時期の水仕事は大変でしょ。ほら、温めてあげるから」
  「――お、お姉さま……その、指を絡める必要は、ない、ような……」


 知らなければその分だけ幸せだった。
 「祐巳、それ私にはしたことなかったわね」なんて悔しげに見詰めていた日常として流していたこれまで通り、気付かなければよかった。
 きっと、薔薇の館を旅立っていったお姉さま方も、こんな気持ちを抱えたまま卒業を迎えた人もいたのだろう。




 一人で悔しげな思いをするのも悔しいので、親友の支倉令にそれとなく話してみると、「あ、私も祐巳ちゃんに手を温めてもらったことがあるよ」と嬉しげに返されたので、ものすごーく悔しくなった祥子は。
 恥も外聞も関係ないとばかりに、その日の放課後に薔薇の館に乗り込み。
 無理やり祐巳に水仕事をさせて。
 祐巳の冷たい手をさあ温めてやろうと思っていたのに、あっさり瞳子に横取りされ。


 腹が立ちまくったので、父のフェラーリ(新車)で峠を攻めに行ったとか。

 




 

 薔薇の館にはトラップが常備されている。











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