誰もいない校舎の中を歩く。
ふと、世界中に自分一人だけが取り残されたような感覚におちいる。
それは恐怖か、悲しみか。
―――否、それとも安堵なのか。
リリアン女学園の高等部に来て、どれくらい経っただろうか。
実際には約半年間という人生にとってはごく僅かな年月に過ぎないが、色々なことを経たためかとても長く過ごしているように感じられた。
―――そう、本当に色んなことがあった。
―――そして、これからも起こるのだろうか。
ゆっくりと歩いていた足を止め、窓から廊下の外の世界に目を向ける。
外の世界は静かで、薄暗い影を落としつつあった。
それはまるで自身の心情を映しているかのようで、ひどく不快に感じられるとともに、どこか愛おしさをも感じさせた。
―――否、もう何も起こりはしない。
―――なぜら、一度全てが終わってしまったのだから。
誰もいない校舎の廊下の世界。
―――それは誰も存在しない、自分すら存在しない、自分の世界。
窓の外の静かで暗雲とした世界。
―――それは切り離した、醜く汚れてしまった、あの人達がいる世界。
二つの世界を隔てる窓。
―――それは見えてはいても超えることの出来ない境界線。
それなのに・・・、なぜ・・・また・・・。
不意に自分の影から湧き上がるようにして浮かんできた疑問に答える声はない。
なぜならこの世界には今、一人しかいないのだから。
―――そう、細川可南子ただ一人しかいないのだから。
〜〜〜 意外に心地良い愛もない相合い傘大作戦 〜〜〜
リリアンの体育祭も終わったとある休日、可南子は一人、高等部の校舎にきていた。
文化祭に向けての準備のために必要な書類を届けるために。
生徒会である山百合会に所属してない、ましてや一年生の可南子がなぜこんなことをと思わないでもない。
否、自分の不運を何度呪ったことか・・・。
―――これも全て、あの人のせいだわ。
あの人とは、リリアン高等部に在籍する皆さんがご存知、福沢祐巳。
山百合会所属の現・紅薔薇こと小笠原祥子の妹(スール)にして、紅薔薇のつぼみという列記とした生徒会役員の一人。自身は未だスールは無し。特徴は、ツインテールの髪型に愛嬌のある可愛らしいタヌキ顔。以前、誰かが「天使のようなお方」と言っていたが、断じてそんなものではない。タヌキで十分だ。特技は百面相におせっかい。二年松組で出席番号は・・・忘れた。
スラスラと思い浮かべた祐巳のプロフィールを途中で中断する。
もちろん本当に忘れたわけではない。
一時は「ストーカー」なんて不本意なアダ名をつけられていたぐらいだ。そうそう簡単に忘れるはずもない。
しかし祐巳との関係を終わらせたと思いたい可南子にとっては、祐巳のプロフィールをスラスラ言えてしまう自分が、まるで祐巳を今でも崇拝しているようで嫌だった。
―――やっぱり、祐巳さまのせいだわ。
いつでも、のほほんと笑っている祐巳さま。
絵に描いたような良い子ばかりがいるようなリリアンで、すでに象徴的は存在になりつつある。
そもそもリリアンにいる生徒はどこかおかしい。
自分が言えた義理じゃないのは承知しているが、それでもリリアンの生徒の価値観はどこか世間から離れているように感じられる。
自ら庶民派を豪語する祐巳さまも、やはりその筆頭で浮世離れしているのだろう。
でなければ・・・。
―――なぜ私が、文化祭の手伝いに・・・。
体育祭での祐巳さまとのカケ。
負けた方が、勝った方の言うことを一つ聞くこと。
それは終わってしまた関係を、また結ばなければならないもので・・・。
祐巳をあれほど拒絶した可南子にとっては苦痛でしかないはずなのに・・・。
また逆に、祐巳にとっても可南子といることは苦痛であるはずなのだが・・・。
―――それなのに、なぜ祐巳さまは私を・・・。
可南子はもう何度目になるか分からない、答えの出ない問いを繰り返していた。
やることを済ませてしまえば休日の校舎になど、何ら用は無い。
校舎の窓から見える空は、先ほどよりも薄暗く、今にも泣き出しそうだ。
可南子は傘を持って来ていない。
―――ここは、雨が降り出しそう、と言うはずなのに・・・。
校舎の廊下と、そこから見える窓の外の世界。そして自分の世界・・・。そんな詩的なお遊びをしてしまった自分は、どこかおかしい。今も、空が泣きそう、だなんて表現をしてしまっている。
きっと本調子じゃないのだ、祐巳さまのせいで。
それにさっさと帰ってゆっくり過ごしたい。どうせ月曜になれば文化祭の手伝いでコキ使われるのだから、祐巳さまのせいで。
しかし可南子の足取りは、その心が思うようには進まず、ゆっくりとしたものだった。
可南子は靴を履き替え、社交口でたたずむ。
案の定、雨が降り出していた。
―――あんなにゆっくり歩くから。
自身に呆れて笑えないが、情けなさと自傷の念を込めて無理やり口を小さく歪めて笑った。
校門近くのバス停まで走って行くか。
そこまで着くのに、随分濡れてしまうだろう。もしかすると風邪を引いてしまうかもしれない。
―――否、いっそ風邪を引いてしまえば。
学校を休めるかもしれない。そう考えてから、少しの躊躇。
しかし可南子は動き出さない。
そして空を見上げる。
同年代の女の子に比べて高い身長。けれど、どんなに手を伸ばしても空に届くことはない。お日様を掴むことなど出来ないのだ。
なぜなら空と自分の間には雨を降らせる雲があるのだから。
―――雨雲・・・、お日様と私の間にある境界線。
―――あの人と私の間にある境界線を引いたのは・・・。
「そこ、どいて下さいませんこと」
―――ッ!!
いきなり後ろから掛けられた凛とした声に思考が混濁する。
そして慌てて後ろに振り返ってみる、と・・・。
「松平、瞳子・・・」
「そこ、どいて下さいませんこと」
躊躇も容赦も思いやりも無い言葉が再び掛かる。しかし、辺りによく通る声だ。
本日初の校舎で出会った生き物。
いや正確には書類を提出した時に教師には会っているが、あれは機械作業のようなもの。
可南子は、自分を真っ直ぐと見たまま動かない同級生を見下ろしながら思う。
―――松平瞳子。祐巳さまの次に嫌いな女。
先ほどの思考と動揺をさとられぬよう、焦りを自分のうちに隠した。たぶん上手くやれている。
可南子は無表情のまま道を譲った。
社交口にある出入り口は一つではない。まして自分と敵対している人間がいる所を選ぶなんて普通はしない。
しかし、瞳子はあえて自分の所に来たのだ。さすが松平瞳子。
瞳子は可南子の脇を通り過ぎると、先ほどまで可南子がしていたように一度空を見上げてから鞄の中を探り始めた。
その様子を可南子は横目で黙ったまま見やる。
「いつまでもそんなところで突っ立っていたら邪魔ですわよ」
「別に・・・、あんたには関係ないでしょ」
そのまま無言。
そう言えば、なぜ休日の学校に瞳子がいるのか。疑問に思うが問いはしない。
お互いに相手の存在は癪だから。
なんせ「嫌い」と公言できるほどなのだ。影で色々言われるより、いっそ清々しいが。
瞳子は鞄の中から折り畳み傘を取り出すと、それを広げた。
そして無言で歩き出す。
可南子も無言でそれを見送る。
「ごきげんよう」も何の挨拶もない、相手など存在しないかのように、ただ無言で。
動き出す方も、じっとたたずむ方も、どちらも無表情だ。
10メートルほど進んだところで瞳子が止まる。
そうして動かないまま時間が流れる。
2分か3分か、あるいは5分ぐらいか。10分も経っていないと思うがその間、可南子は瞳子の背中を呆っと眺めていた。ただ呆っと。
突然、瞳子が振り返り勢いよくコチラに向かって早足で歩いてきた。そして―――
「入って行ったら」
睨み付けんばかりの眼光で可南子を見ながらそう言った。
答えに窮する可南子が、口を少し開いてまた閉じるという動作を繰り返していると。
「傘、ないんでしょう?バス停まで一緒に入って行ったらいかがかしら」
苦々しいものを噛み締めるようにしながら瞳子は言い切った。
「それ・・・、私に言ってるの?」
「今、ここには私とあなたしかいませんわ。不本意ながら」
「あんた、私が嫌いなんでしょう」
それなのになぜ、という疑問を可南子は瞳子に視線で投げかける。
「ええ、嫌いですとも。でも困ってる人を見て見ぬ振りをするのは嫌ですもの」
「私は別に困ってない」
「それでも、周りから見たらそう見えます」
「ここには、あんたと私の二人しかいないんじゃなかったの」
「でしたら、もう結構です。勝手にすればいいでしょう。瞳子のただのおせっかいを無理強いするつもりはありません」
「・・・・・」
矢継ぎ早の応酬、そして沈黙。
勝手にしろと言うわりに、瞳子はそこから動き出そうとはしない。
可南子はまた、しばしの躊躇。そして―――
「バス停までなら」
「はい?」
「いや。バス停まであなたの傘に入れて下さらない」
今日はやけに変な思考におちいる日だ。だからだろうか、そんなことを言っていた。
きっとこれも、祐巳さまのせいだ。
けど、しぶしぶ言うのも癪だから、思いっきり丁寧に言ってみせた。
「ふんっ。いいですわ、その代わりあなたが傘を持って下さいまし」
あなたの方が背が高いのだから、と瞳子は高圧的に言いながら傘を差し出した。
可南子はそれを受け取り、そして無言で歩き出す。
瞳子も無言でそれに着いて来る。
そして二人並んで傘の中を歩く。ゆっくりと歩く。
マリア像の前、お祈りをすませた可南子が瞳子を待つ。
あまり信心深くない可南子に比べ、瞳子は幼稚舎からリリアンということもあり割と熱心にお祈りしているように見える。
瞳子のお祈りの内容なんて、どうでもいいが。
瞳子がお祈りを終え、少し可南子を見上げる。
二人の視線が刹那かち合ってから、すぐにそれを反らしてまた無言で歩き出す。
二人並んで傘の中を歩く。が―――
「ちょっと、もう少しゆっくり歩いて下さいませんこと」
「別に・・・、普通に歩いているわよ。単にあんたが短足なんじゃない」
「瞳子はあなたみたいに無駄に背も足も長くないだけです!」
「はいはい。ったく、うるさい女ね」
「分かっていただければいいんです。だいたいその傘は瞳子のですし」
「あんたが親切の押し売りしてきたんでしょう。祐巳さまみたいに」
「押し売りだなんて!あなたが捨てられた子犬みたいな目をしていたから。祐巳さまみたいに」
「ハッ!それじゃあ祐巳さまみたいだったから助けた、と」
「違いますわッ!だいたい、それを言えばあなただって、祐巳さまみたいな押し売りだったから受け取った、ということになりますわ」
二人並んで傘の中を歩く。キャンキャンと喚きながら。
いつのまにか、お日様を遮っていった雨雲は無い。
雨はまだ降っている。でも二人とお日様の間にあった境界線は消えていた。
だけど二人は気付いてない。
もしかすると虹が見えるかもしれない。
お日様に輝く虹の道が。お日様に続く虹の道が。
けれど二人は気付くだろうか。
それでも二人並んで歩く。傘の中を並んで歩く。
おしまい