【2848】 まったりと意気込みだけでもダメ  (海風 2009-02-23 10:41:25)


志摩子さんが無駄にひどい目に遭います。注意してください。





 その日はとても寒かった。
 吐息すら凍てつかせそうなほど澄んだ空気の中、藤堂志摩子は歩いていた。
 暗色の空は決して陽を見せてくれず、影を薄く地面に刻む。
 寒天のフィルムに覆われた銀杏並木は、どこか白黒映画のワンシーンのようで。
 そして志摩子は、まるでその風景の一部であるかのように溶け込んでいて。
 ただ白い肌は幻想的に輝いていて。
 偶然流れた無声映画を見かけたリリアンの生徒達の心を奪った。
 美しく、穢れもなく、柔らかな髪を揺らしてゆっくりと歩む志摩子は、まるでマリア様のように、現実の存在とは思えないほど美しかった。
 そんな志摩子は。

(イクラちゃんはいつになったら自由に話せるようになるのかしら。いつまでも『ハーイ』だの『ちゃーん』だの『バブー』だのばかりで人生に疲れてきているに違いないわ。あんなに若いのに)

 などという取り留めのなさ過ぎることを、持ち前の生真面目さで少し真剣に考えていた。
 向かう先は薔薇の館である。




 年を重ねた階段が、意地悪な悲鳴を上げて乙女の悩みに訴えかけるも、志摩子は意に介さず登り切る。
 ビスケットのような会議室への扉は、すでに開け放たれていた。もう誰かが来ているようだ。

「ごきげんよう」

 挨拶をしつつ部屋に踏み込むと、「ごきげんよう」の声が二つ返ってきた。
 福沢祐巳と島津由乃だった。
 どうやら換気でもしようとしていたのか、手分けして窓を開けている最中のようだ。

「一年生はまだ来てないよ」

 何か言う前に、祐巳はさっさとそう告げた。

「じゃあ、今日は私が紅茶を淹れるわね」

 志摩子が微笑むと、二人は「よろしく」と微笑みを返し、全ての窓を全開にして回った。
 流れる大気が冷たい。
 痛いくらいの刺すような風が、窓から窓へと駆け抜けていく。ついでのようにスカートを揺らしセーラーカラーをはためかせて。

「うわーさむー」

 祐巳は自分を抱き締めるように腕を交差させ、背中を丸めて二の腕をさする。

「よし。空気の入れ替えはこれくらいで十分ね。ええ、十分だわ」

 窓を開けて1分も経たない内に、あまりの寒さのせいで血の気が薄くなっている由乃は、手近な窓を閉めた。今自分で開けたばかりの窓を。

「え、ちょっと、早くない? 今開けたばかりなのに」
「寒いのよ!!」

 祐巳の抗議は、即座に斬り捨てられた。まるで侍の眼光のような鋭い一言で。
 何も返せなくなった祐巳も窓を閉めて回り、1分後にはまた薔薇の館は巨大な密室に立ち戻っていた。
 そんな二人を微笑ましく見守りながら、志摩子はティーポットに茶葉を舞わせた。




「いや、今日は本当に寒いわね」
「そうだね。暖房器具でもあるといいのにね」

 いつもなら陽だまりのおかげでいくらか優しいのだが、今日に限っては厳しいばかり。厚く覆われた高き場所には蒼がなく、ただ一面の深い灰色が動きも緩やかに我が物顔で安住している。

「なんとか予算で買えないかな? ヒーターとか。デロンギとか」
「いや……さすがに無理だよ」

 欲しい気持ちは否定した祐巳も同じだし、見守っている志摩子も同様だ。だがさすがに生徒会の予算から購入するには許可が下りないだろう。

「じゃあ逆転の発想で、暖房器具そのものが山百合会の備品として必要なものだとしたら?」
「……というと?」
「こたつよ、こたつ。こたつは暖房器具でありながらテーブルでもあるんだから。こたつがないと仕事ができません、って状況にさえなれば」
「色々つっこみたいけど、こたつはダメだよ。絶対誰かこたつから出たくなくなる人が出てくるから」
「鋭いわね、祐巳さん。そう、私こそ一度こたつに入ったらよほどのことがない限りこたつから出ないというこたつ好きなのよ。これぞ世に言うこたつ至上主義者、ジャパニーズこたつシンドロームよ」
「なら余計ダメだね」
「こたつに入る前にみかんを用意するのを忘れてはいけないわ」
「ますますダメだね」
「梅昆布茶と猫を用意しなさい!」
「由乃さんは薔薇の館をどうしたいの?」

 由乃の強気な無茶を祐巳が苦笑しながら止め、志摩子はそれを見ている。
 今度三年生になろうという二年生たちは、自然と、そんな関係になっていた。
 志摩子は、日差しと新緑のように仲が良さそうな二人を見ているのが好きだった。

「あ」

 テーブルに手をついて椅子に座ろうとしていた由乃を見て、祐巳が大きな声を上げた。

「由乃さん、ストップ」
「え?」

 長く維持するには辛そうな中腰で、何事かと動きを止めた由乃。そんな由乃に祐巳は歩み寄る。
 無造作に両手を伸ばし、由乃の左の三つ編みに触れる。

「あ、やっぱり」
「やっぱり、って?」
「枝毛がある。三股のすごいの」
「うそ? ほんと? 抜いて抜いて」
「ああ、いや、切っちゃうから。ちょっと待っててね」

 祐巳はとことこと自分の鞄からソーイングセットを取り出し、またとことこと由乃の元へ戻った。ちなみに由乃はまだ中腰だ。
 糸切り用の小さなハサミを構えると、例の三股の枝毛を切り落とした。

「よく見えたわね」

 祐巳の視力に感心しきりの由乃。

「いや、なんか、なんとなく」

 しっかり見えたわけではなく単に気になっただけ、と祐巳は笑った。

「ついでだし、由乃さんの枝毛を全滅させよう!」
「えー? いいよ別に」

 遠慮する由乃を「まあまあ」と座らせ、隣の椅子に陣取って祐巳は三つ編みに手を伸ばした。どうやら祐巳の中の何らかのスイッチが入ってしまったようだ。

「手入れは一通りやってるから、あんまりないでしょ?」
「うん。綺麗」

 まとめられた毛先のサラサラした感触。祐巳のお姉さまである小笠原祥子の髪より少しだけ硬く、毛の量が多そうだ。
 一本一本を確認するかのようなちまちました作業に、祐巳は真剣な面持ちで取り組みだした。――子供があのビニールのプチプチを潰すのに夢中になるのと似たようなものだろうか、なんて思って由乃は苦笑する。
 なんの得にもならないのにちくちくと丹念に枝毛を落としていくその行為は、ストレートな親愛と友愛の表れのようで。
 由乃は、どことなくくすぐったくなった。

「…………」

 そして、そんな微笑ましい二人をしばらく見守っていた志摩子は。

「祐巳さん。由乃さん」
「「ん?」」

 呼びかけに応じて、二人は志摩子を見た。

「紅茶を」

  ふわぁ

 こめかみ辺りから流れる髪を、指先で後ろに払う。絹のように細い髪がふわりと広がった。

「どうぞ」
「「ありがとう」」

 志摩子が運んできた紅茶を受け取ると、二人はまた、枝毛を落とされる側と枝毛を落とす側の役目と戻った。

「由乃さんの髪って、意外と硬いね」
「祐巳さんほどじゃないけど、私も結構広がるタイプなのよ」
「そうなの?」
「うん。それに、ほら、病気してたじゃない? 学校でベッドを借りることも多かったから、寝癖がね……」
「あ、だから三つ編み?」
「それも理由の一つ。三つ編み状態なら寝癖は大丈夫だし、下ろしててもここまで編み込めば、どんなにひどい寝癖がついてても目立たなくなるからね」
「……なんか余裕を感じるなぁ。私は朝とか、結ぶくらいしか余裕がないよ」
「祐巳さんらしいわね」

 「ひどーい」と笑う祐巳に、釣られるように由乃も笑った。
 由乃はよく笑うようになった。
 それも、一年生の時のような無理をしているような作り笑いではなく、自然と。
 もう一年以上も前になる、福沢祐巳の山百合会参加。
 この事実で一番変化があったのは、もしかしたら由乃だったのかもしれない。
 ――ずっと見てきた志摩子は、そう思った。

「祐巳さん。由乃さん」
「「ん?」」

  ふぁさ…

 志摩子は顔に掛かっていた髪を、指先で丁寧に、こめかみから後ろに撫で付けた。撫で付けられた髪はすぐにまた広がり、わたあめのように甘い香りを漂わせた。

「私の髪、朝はとてもひどいのよ」

 と、微笑んだ。

「ああ、細いし柔らかそうだもんね」
「爆発してるでしょ? 絶対毎朝爆発してるでしょ?」

 爆発してるでしょ、と言いながら――由乃はすでに気付いていた。あ、志摩子さん祐巳さんに枝毛探してほしいんだ、と。イチャイチャしたいんだ、と。
 別にそれを邪魔する気はない。
 が。
 果たして横にいる祐巳がいつ気付くのか、そしてあの志摩子がどこまで自己主張をするのか面白そうだったので、静観することにした。
 だってあんなに露骨に、しかも二度も、いつもはやらないあからさまに違和感しかない髪の毛を強調する仕草を見ても気付かないなんて、鈍いにも限度がある。

「ねえ由乃さん」

 祐巳が耳元で囁いた。

「今日の志摩子さん、なんだかセクシーじゃない?」
「ぶはぁっ」

 由乃は吹き出した。髪を強調する志摩子は、祐巳の目にはセクシーに見えていたらしい。
 二人の「どうしたの?」的視線を受けて、由乃は「なんでもない」と首を振った。
 ――面白すぎるので、やはり黙って観ていることにした。 




 穏やかな時間が、紅茶の湯気と共にたゆたう。
 まるで姉にじゃれつく妹のように、由乃の髪をいじっている祐巳。
 まるで妹を見守る姉のように、微笑みながら祐巳に任せている由乃。
 薄暗い室内でありながらも、二人がいるそこだけは、乙女の清清しい雰囲気に満ちていた。
 だが。
 この時間のように穏やかだった志摩子の瞳が、表情が、今は子供の遊びに本気になり始めた大人のように変わりつつある。たまに会う親戚のおじさんが、たまに会う親戚の子供と遊んでいる時のように。

「ねえ祐巳さん」
「ん?」

  ふぁぁっさぁぁぁぁ…っ

 志摩子は前髪を丁寧に掻き揚げ、軽く首を振って戻した。後ろ髪が広がる。まるで女神の住まう静寂なる水面に投げ掛けられた朝露の一滴のように。

「紅茶、おいしい? 今日は特別、祐巳さんのために心を込めて淹れてみたのだけれど」
「あ、うん。ありがとう。とってもおいしいよ」

 由乃は「ピンポイントに切り替えたわね」と思った。あからさまに祐巳の注意を引きたがっている。

「やっぱり今日の志摩子さん、セクシーだよ」
「そ、そ、そうね。そうね」

 顔を赤らめて凍死寸前なんじゃないかと思わせるくらい寝ぼけたことを言う祐巳に、由乃は顔面全ての筋肉を総動員して笑うのを耐えていた。ブルブルしながら耐えた。
 価値観の違いとは、誰しもにあるもの。
 由乃が「うわー露骨」と思うしかない志摩子の行動は、祐巳から見たらまったく違っていて。

「……いいかげん気付いてあげなさいよ」

 由乃は志摩子には聞こえない声で言った。志摩子の必死さに言わずにはいられなかったが、祐巳は「ん?」と、まったく気付いてくれなかった。
 なんというか、いつもと違う志摩子のことより、目の前の枝毛探しに夢中のようで。

「…………」

 内緒話でもしていると思ったのか、志摩子が軽く睨んできた。由乃を。レア顔である。

「由乃さん、ずるいわ」

 しかも攻めてきた。とてつもなく珍しい。それほどまでに祐巳とイチャイチャしたいのか。

「もう直接言いなさいよ。祐巳さんのボケっぷりは――ああ、もういい」

 由乃は面倒臭くなった。なぜにほとんど自分の意思が介入していない事象で、親友に睨まれねばならないのか。――なぜに意思先行で勝手を通そうとしている時ではなく、こんな時に怒られねばならないのか。
 クルリと視線を横へ向け、由乃は祐巳を見詰めた。

「祐巳さん。志摩子さんが枝毛探してーって言ってるよ」
「え?」

 予想だにしていなかったのか、祐巳は意外そうに目を丸くして志摩子を見た。
 そして志摩子は。

「そ、そんなことはないのよ? でも祐巳さんがどうしてもって言うなら、私……」

 思わずちょっと否定してしまった。
 公私でわがままを言うこと自体が少ない志摩子にとって、由乃の要求はあまりにもまっすぐ過ぎた。
 だから、言いづらいので態度で示していた。
 少々卑怯ではあるが、向こうから察してもらって「ええ、いいわよ」と両手を広げて歓迎する、という形が望ましかった。決してこちらから行くのではなく、待つのだ。待つことに意義がある。

「あ、違うの? だったらいいんだけど。はい由乃さん、反対」
「「え?」」

 祐巳は椅子から立ち上がり、由乃の隣に移動し、もう一方の三つ編みに触れる。
 そして、そんな祐巳を唖然と見ている親友二人。

「…………」

 由乃は志摩子を見た。「なにやってるのよ」という目で。「祐巳さんがどれだけ鈍いか知ってるでしょ?」という目で。




 祐巳は、青空の果てに一粒のサファイアでも探しているかのように夢中で枝毛を探し。
 由乃は、「志摩子さんって、なんだかその、……まあいいや」と呆れ。


 志摩子は両手に顔を伏せて、妖精の羽音のように静かに涙を流すのだった……










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