扉を開けたその向こう側には、黄薔薇姉妹が待ち構えていた。
テーブルを挟んだ扉の正面に、某特務機関の司令を思わせるポーズで口元を隠している由乃さん。その傍らには、副司令を思わせるポーズで直立している菜々ちゃん。
扉を開けたその姿勢で、きっかり3秒ほど室内を眺め、なんとなく状況を理解した祐巳は、爽やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「ごきげんよう、由乃さん、菜々ちゃん」
言って、パタンと扉を閉める。ごきげんようって便利な言葉。ハロー・グッバイどっちにでも使える魔法の言葉。そりゃ、本のタイトルにだってなるってもんだ。
「お姉さま?」
邂逅の挨拶を別離の挨拶に瞬時に切り替えた祐巳の様子に、瞳子が訝るような目を向けてくる。
「パターン・イエロー。黄薔薇警報よ」
「なるほど」
祐巳の端的な回答に、瞳子が以心伝心で理解してくれる。妹って素敵だ。
「別れの挨拶もしましたし、帰りましょう」
「うん、帰ろう。二人で逃避行しよう」
瞳子と二人手を取り合って、たった今上ってきたばかりの階段を振り返る。
――と。
「――どこへいらっしゃるのですか?」
「うひぃぃぃあああぁぁぁぁ!!」
階段を上りきったその場所に、菜々ちゃんが直立不動の無表情で立っていた。そんな馬鹿な、確かに菜々ちゃんは由乃さんの隣に立っていたのに!
「部屋には窓と言うものがあるのです、紅薔薇さま」
「読心術!? 窓!? この短時間で!? なんかもう、ツッコミどころが多すぎてツッコミきれないよ、菜々ちゃん!?」
「そんな時はですね、紅薔薇さま」
狼狽しつつ瞳子を守るように抱き寄せた祐巳に、菜々ちゃんはしたり顔で頷いた。
「何も考えずに、事態の成り行きに任せるのが吉だと、かのクリストファー将軍も言っておりました」
「誰!? それ、誰!?」
一応最重要ポイントをツッコんでおいてから、祐巳は菜々ちゃんの提案を全面的に飲むことにした。
クリストファー将軍が誰かは分からなかったけど、黄薔薇姉妹を前にした場合、将軍の格言は真実を適確に表していると思われたからだ。
† † †
『リベンジ☆THE☆ニックネーム』
ホワイトボードに書かれたテーマは、放課後と言う貴重なフリータイムが浪費されるに違いない、と大いに主張しているようだった。
「前回――」
と、紅薔薇姉妹に続いて捕獲した白薔薇姉妹をねめるように見詰めながら、由乃さんが重々しい口調で口火を切った。
「私たち山百合会はより親密でフレンドリーな関係になるべく、ステキなニックネームを民主主義的手法によって導き出しましたが、残念ながら白薔薇さまの強固な反対に遭い、うやむやの内にお流れになってしまいました」
「――どうしよう、瞳子。フレンドリーとはとても思えないとか、由乃さんの独断専行強権発動唯我独尊のどこが民主主義的手法なのかとか、ツッコミどころが満載だよ!」
「ファイトですわ、お姉さま。由乃さまを止められる可能性を有しているのは、お姉さまだけです。限りなくゼロかもしれませんが、ゼロではありません!」
「う、うん……そうかなぁ……?」
こそこそっと泣き言を漏らした祐巳を、瞳子がぐぐっと拳を握って応援してくれる。妹ってステキだ。でも瞳子、今は「ファイト」ではなく「スルーしましょう」って言って欲しかったよ。以心伝心はどこに行ったのかな。
「えっと、由乃さん?」
「却下」
「……」
おずおずと手を上げかけた祐巳に、由乃さんがにべもなく言い放つ。
祐巳はしずしずと手を下げた。
「瞳子、限りなくゼロはやっぱりゼロだったよ」
「だと思いました」
「……」
妹って時々残酷だ。
「反論はないようなので、話を続けるけど。やはりニックネームは必要だと私は思うのよね。だから今日こそはニックネームを決めましょう」
祐巳の意見を一言の下に切り捨てた行為はなかったことになったらしい。
祐巳はツッコミを放棄することにした。とりあえず由乃さんの前口上が終わるまでは、無駄な行為である。終わった後も有意義な行為になる可能性は微少だけども。
「待って! 待って、由乃さん!」
と、そこで普段はあまり由乃さんのブレーキ役をしてくれない志摩子さんが、珍しく声を上げた。ちょっと泣きそうな顔になっているのは、前回の『姐さん』呼ばわりが軽くトラウマになっているのかもしれない。
「どうぞ、白薔薇さま」
志摩子さんの必死な様子に、さすがの由乃さんも話を聞く気になったらしい。由乃さんに発言を認められて、志摩子さんがほっと安堵の表情を浮かべる。
それから、キッと決意に満ちた表情で、乃梨子ちゃんの背後から(いつものことながら、乃梨子ちゃんは志摩子さんを守るように背中に庇っていたのだ。今更言うまでもないことだけども)一歩前に歩み出た。
「志摩子さん……!」
心配そうな乃梨子ちゃんに、志摩子さんが悲壮な顔を向けて頷く。めったに見れない、志摩子さんの真剣な表情に、乃梨子ちゃんは全てを理解したように頷きを返した。
そこには長く姉妹を続けてきた、白薔薇姉妹の絆のようなものが見えた気がして、祐巳はちょっとだけ感動する。頑張れ志摩子さんって乃梨子ちゃんの声が、その視線から聞こえるようだった。
「由乃さん……私、思うのだけど……」
そこで軽く目を閉じて一呼吸を入れる。
そして、決意を溜め込んだ志摩子さんは、ゆっくりと片手を上げて――ビシッと由乃さんに指を突きつけた。
「薔薇さまの威厳を保つため、少なくとも薔薇さまにニックネームはダメなんじゃないかしら!?」
妹 見 捨 て ち ゃ っ た ぁ ぁ ぁ ! !
一同驚愕の視線の中、志摩子さんの指先がぷるぷると震えている。
分かる、分かるよ志摩子さん! 前回の『姐さん』が本気で嫌だったんだよね! だからなんとか由乃さんを止めたかったんだよね! でも今の由乃さんは止まる気配ゼロだって理解したんだよね! 少なくともつぼみ分くらいはニックネームを考えさせないと満足しないって、長年の付き合いから察したんだよね! 正解! 正解だよ、志摩子さん! 多分、それしか助かる道はなかったと思う! でも、でもね! でも、さっきの感動を返してよ!
祐巳がそんな複雑な感情を持て余している中、由乃さんがちょっと考え込むような顔になる。ニックネームは確かに親しみを増すけれど、逆に言えば薔薇さまの威厳を失うことになる可能性もある諸刃の剣。それは否定できない事実である。
その事実を前にして、由乃さんの壊れ気味な信号機にも、黄色信号が灯ったらしい。それだけ志摩子さんの一言は重みがあった。
「由乃さん、私もそう思う!」
そんな由乃さんの心の天秤を、祐巳は迷うことなく後押しすることにした。瞬間、志摩子さんが同罪の堕天使を見付けたかのような表情で振り返った。
今ちょっぴり、紅と白の薔薇の間に、後ろ暗い絆が生まれた気がした。何か大事なところに微細な傷が入った気もするけれど。
「……まぁ、祐巳さんもそう言うなら。確かに、志摩子さんの言うことももっともだと思うし」
由乃さんが迷った末にそう頷いた瞬間。
ついさっき生まれた後ろ暗い絆と微細な傷が、どっちも大きく成長したような気がした。
† † †
議長席に由乃さん、右手側に祐巳と志摩子さん、対面に三人のつぼみが着席し、『リベンジ☆THE☆ニックネーム』改め『リベンジ☆THE☆つぼみ’sニックネーム』会議は開始となった。
と言うか、普段は隣りに座る瞳子が迷うことなく乃梨子ちゃんと連れ立って、対面に着席したのだけど、どうしよう。
「とりあえず、最初は各々思いつくニックネームを上げて行きましょう」
由乃さんがホワイトボードを三分割して、それぞれのつぼみの名前を書き込むと、さぁどうぞとばかりに両手を広げた。
「できれば、何か統一感があった方が良いと思うのね。まぁ、そこにはこだわらないけども」
「それでは、お姉さま。私に一つ、アイデアが」
多分事前に考えていたのだろう、菜々ちゃんが「はい」と手を上げた。
「親しまれるためには愛らしさが必要――ということで、それぞれの名前をちょっと可愛らしくアレンジするのはどうでしょうか。例えば、ネコちゃん言葉のように」
「ネコちゃん言葉?」
「はい。ネコに話しかける時、赤ちゃん言葉みたくなることってありますよね。そんな感じです」
菜々ちゃんの説明に一同がなるほど、と頷く。
「となると――」
「私の場合、菜々ですので『にゃにゃ』になりますね」
由乃さんに促され、菜々ちゃんが答える。
「それで、乃梨子さまの場合は『にょりこ』が適当かと」
「なるほどなるほど」
由乃さんが菜々ちゃんの上げていくニックネーム候補をホワイトボードに書き込んでいく。
由乃さんが『にょりこ』と書き終えたのを確認し、菜々ちゃんは爽やかな笑みで続けた。
「最後に、瞳子さまは『にょうこ』で――」
「反対ですわ!!」
最後まで言わせずに、瞳子がバンッとテーブルを叩いて立ち上がる。そりゃそうだ。なんと言っても言葉の響きが――
「た、大変だよ、瞳子! にょうこって変換したら、一発目の変換が本当に尿子……」
「お姉さまは黙っててください!!」
祐巳がなんとなく天から聞こえてきた事実を指摘しようとしたところ、これまた瞳子がテーブルを叩いて遮った。
「ぷっくくく……ま、まぁ、とりあえず候補の一つね、候補の……」
由乃さんが笑いながらホワイトボードに『にょうこ』と書き込む。瞳子と書かれた枠内に燦然と輝く『にょうこ』の文字。どうしよう、お姉さまとして今凄く世界を破滅に導きたくなっている。
「さて、他に何か案はある? なければこれで決定だけど……」
「もちろん、ありますわ!」
間髪入れずに瞳子が手を上げる。必死だ。凄く必死だ。頑張れ、瞳子。
「そもそも、名前をもじってニックネームとするなんて、安直過ぎますわ。もっとこう、ニックネームを聞けば顔を思い出せるような、そんなニックネームこそ正しいニックネームだとわたくしは思うのですわ!」
「なるほど、一理あるわね」
瞳子の主張に由乃さんが頷く。
「ですので、見た目の特徴をニックネームにするべきでしょう。ええ、分かっております、しかし敢えてわたくしは『ドリル』で構いません。構いませんとも!」
バッと両手を広げて言う瞳子は、演劇部のスキルをフル活用していた。そもそも言い回しが台詞っぽい。
「そして、菜々はやはり『デコ』ですわ! 菜々と言ったらオデコ、オデコと言ったら菜々と言っても過言ではないでしょう!」
祐巳の感覚ではオデコと言ったら由乃さんの天敵を思い出すところだけども、そこは江利子さまを知らない世代の感覚なのだろう。
菜々ちゃんのニックネーム候補から祐巳と同じ人物を思い浮かべたと思われる由乃さんが、ちょっと嫌そうな顔になった。
「そして乃梨子さんは――」
瞳子が隣に座る乃梨子ちゃんを見つつ、言った。
「外見的特長がないので、内面的特長を考慮して『ガチ』で」
「なんでそうなるのよ!」
物凄く適確に乃梨子ちゃんを表現するニックネームを聞いて、乃梨子ちゃんが立ち上がる。
「だってだって、乃梨子さんってば、菜々のニックネーム候補を聞いて、フォローするどころか笑っていましたわ! 瞳子のガラスのハートは傷ついたのです! 親友だと思ってましたのに!」
「親友だったら人を『ガチ』とか言うな! 共学出身者の私から見れば、そもそも姉妹制度自体が怪しさ爆発だってば!」
睨み合う瞳子と乃梨子ちゃんに、由乃さんは爆笑しながらニックネーム候補を追加記入し、志摩子さんはハテナ印を乱舞させながら、こそっと祐巳に耳打ちしてきた。
「祐巳さん……前々から思ってたんだけど、ガチってなんのこと? どうして乃梨子はあんなに嫌がるのかしら?」
「え!? えーと、それは……」
志摩子さんの純粋無垢な質問に、祐巳はちょっと回答に困る。
「それは、つまり……う、うん! 姉妹のことが人並み以上に大好きなこと、かなぁ?」
「そうなの……」
なんとなく真っ白な志摩子さんに真実を告げる勇気がなくて誤魔化すと、志摩子さんはちょっと考え込んだ。
「……乃梨子」
しばしの沈黙の内、志摩子さんは立ち上がって睨み合いを続けている乃梨子ちゃんに声をかける。
「し、志摩子さん……?」
「乃梨子……乃梨子がガチだなんて、とても嬉しいわ」
「え、えぇえ!?」
「だって……乃梨子がガチなら、私だって……乃梨子にガチだもの」
――そ、そう来たか志摩子さん!!
ふわりと笑う志摩子さんに、祐巳は自身の説明の失敗を悟った。
何故ならその瞬間――乃梨子ちゃんが盛大な深紅の噴水を鼻から吹き上げながら、喜びの大地に向かって昇天して行ったからだった。
† † †
色々と後片付けを終えた頃には、さすがの由乃さんも気力ゲージがエンプティの様子だった。
とりあえず乃梨子ちゃんは、祐巳の行った説明を聞いた瞳子から、現実に戻ってくるよう懇切丁寧な説明と説得を受けて、立ち直りつつある。多分この調子なら、先ほどまでぶつぶつと呟いていた、R指定な蛮行に走ることはないだろう。
そしてホワイトボードに大きな×印を書き終えた由乃さんは、ぐったりとテーブルに突っ伏していた。そんな由乃さんを、菜々ちゃんが愛しいペットでも見るような目で見守っている……のは、由乃さんの名誉のために、見なかったフリをしておこう。
「もう良いわよ、そもそもニックネームを会議で決めるっていうのが間違ってたのよ。無駄な努力だったのよ……」
ぐりぐりと額をテーブルに押し付けながら、由乃さんが力なく呟いている。
多分、普通だったら一回で到達するであろう当然の結論に、ようやく由乃さんが到ってくれたことに、山百合会一同、揃って安堵の溜息を吐く。
昨年の卒業式に、先々代の薔薇さまが残していった負の遺産――山百合会メンバーのニックネーム問題――は、ここに至ってようやく、解決の段を迎えることが出来そうだった。
紅薔薇さまはロサ・キネンシス、白薔薇さまはロサ・ギガンティア。黄薔薇さまはロサ・フェティダ。そしてそれぞれのつぼみは『アン・ブゥトン』。
伝統として引き継がれてきた呼び方を、無理に変える必要なんてない。呼び方は変わらなくとも、一般生徒に親しまれる山百合会に変えていくことは出来るのだ。
呼び方なんて表面的なものは重要じゃない。大事なのはその中身なのだから。
「由乃さん……」
志摩子さんも柔らかな笑みで由乃さんの肩に手を乗せる。祐巳も反対側の肩に、それに倣い――由乃さんが、顔を上げて祐巳と志摩子さんを見る。
「祐巳さん、志摩子さん……」
「大丈夫だよ、由乃さん! 一緒に頑張ろ? 一緒に、山百合会を変えていこう!」
「そうよ、由乃さん。私も祐巳さんも、協力するから。だから、元気を出して!」
無理矢理ニックネームをこじつける必要なんてない。親しまれる山百合会は、そんなことをしなくても作っていける。
由乃さんが親しみやすいニックネームの作成にこだわった真意を理解して、祐巳も志摩子さんも力強く頷きあった。そんな二人に、由乃さんはぎこちないながらも笑みを返してくれた。
「そうよね……祐巳さん、志摩子さん……」
由乃さんが笑みを浮かべたまま立ち上がり、その瞳に強烈な意思を宿して拳を握った。
先頭を進む由乃さんと、それを支える祐巳と志摩子さん。きっと今の山百合会は、そんなステキなバランスの上に成り立っているのだ。
そんな祐巳たちを、温かい目で支えてくれる妹たち。きっとこのメンバーなら、山百合会を変えていけるだろう。
どうなることかと思った黄薔薇主催のトンデモ会議も、美しい終焉を迎えようとしていた。全員を引っ張る存在として、由乃さんが力強く宣言する。
「こうなったら……私が責任を持って、面白ニックネームを考える!!」
その瞬間――黄薔薇姉妹を除く全員が「なんでやねーん!」と口を揃えてツッコんだのだった。
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(あとがき?)
と言うわけで、いぬいぬさんの作品から勝手に続けた【No:2827】の続きとなる、ニックネームネタ大団円でした。
というか、前回盛り込めなかった『尿子』を出したかっただけの作品。本当はもう1周分だけネタを回すのが正しい構成だと思うのですが、ネタが思いつきませんでした。反省。