【No:2941】【No:2962】から続いてます。
やっぱり長いです。注意してください。
☆
七月の祥子
○七月某日
前夜からずっと降り続いている雨は、今も止む気配はなく、優しい雨音を奏でている。
今日は、本当に久しぶりに、祥子が昼休みの薔薇の館にやってきた。
「ごきげんよう、お姉さま方」
祥子は非常に機嫌が良さそうだった。なんというか、明るいのだ。とても。笑顔もほがらかだ。
これはもしかしたら、という期待が高まる中。
紅薔薇さまは「別に期待してないけど一応聞いてあげる」という態度で、しかし恐らく内心は興味津々だったに違いない。
とにかく、挨拶も抜きに言ったのだ。
「そろそろ孫の顔を見せてくれる?」
祥子の反応は、なかった。
本当になかった。
まるで聞こえていないかのように。
椅子に座ろうという態勢で笑顔のままピタリと止まり、五秒ほど異様な雰囲気を放つと、「そうそう、お姉さま方の紅茶を淹れないと」などと言いながら、すでに流しにいた私を押しのけた。
なんだろう。いつもは手伝おうともしないのに。
お姉さま方と私の疑問符付きの視線が、緩い緊張感を持って絡み合う。
「祥子」
お姉さまの呼びかけに、祥子は「はい?」と、ちょっと怖いと感じられる笑顔で振り返る。
よく見ると、目が笑っていない、ような気がした。
「妹はできたの? それとも妹にしたい一年生くらいは見つけたのかしら?」
姉の仮面を付けている紅薔薇さまの代わりに、こちらは興味丸出しでおでこも丸出しのお姉さまが直球で訊ねた。
「…………」
祥子はまた止まった。今度は十秒ほど。静かな雨音だけが積み重なっていく。
「祥子?」
「ふ…………ふふふふふふ………うふふふふ…………」
うわこわっ! 突然俯き感情のない声を吐き出し肩を震わせ始めた祥子を見て、お姉さまは声を殺して仰け反った。うわこわっ、って感じで。祥子の横にいる私も、同じく、怖い。怖かった。
紅薔薇さまの表情が、かなり厳しくなった。
「祥子、妹はどうしたの?」
「ふ、ふふ……ふふふふふふ……」
壊れたように笑い続ける異常な祥子に、紅薔薇さまは語気荒く「祥子!」と呼びかける。
さすが姉、妹の非常事態には敏感で、当然のように擁護に回る気だ。
私のお姉さまも、きっと私の非常事態には、このように強く味方してくれるに違いない。たとえばひどく落ち込んだ時には。
「ふふふふふ……ええ、ええ、笑えばいいわ。みんなで笑えばいいのよ。この小笠原祥子という名の道化を、心の底から嘲り笑いかるんじ情けなくも卑しく恥知らずにのうのうと生きているこの世に不要な生き物だと認識してしまえばいいのだわ」
「うっわネガティブ……」というお姉さまの呟きは、祥子には聞こえなかったようだ。
とにかく祥子を座らせ、皆で話を聞いてみることにした。祥子にしても、結構一人で溜め込むタイプなので、口に出すことで少しはスッキリするだろう。
ぽつりぽつりと放たれる断片を繋ぎ合わせ、話を要約すると、こうだ。
一年生と知り合うために「ハンカチを落として拾わせる」という昭和から使い古されている王道あるいはベタな作戦に打って出ることにした。
↓
そこにハンカチが落ちていることを不自然に見せないために、校内の至る場所に立っていることで自分の出現ポイントを公開。これには「ハンカチの落とし主=もしかして祥子さま?」という相手の推測を成り立たせるためでもある。さすがの祥子もフルネーム入りのハンカチは恥ずかしくて使えないから、と。
↓
いざ作戦開始!
↓
下調べ通り、必ず一年生が拾うだろう時間を計算し、その上で自分がハンカチを落としてもおかしくない場所に設置し、あとは待つばかり。
落とし物は祥子に直接返って来なくても、落とし物として職員室にでも届けさせられれば作戦成功。今度は祥子から探せばいいのだ。探す理由もある。
↓
こうして一年生と縁を結び、めでたく紅薔薇のつぼみの妹誕生!
というのが計画だったらしい。ハンカチを拾った相手が姉持ちでも、結んだ縁自体は無駄にはならない。いわゆる「友達を紹介」という手段も増えるのだから。ナンパを禁じた祥子には大きな一手である。プライドが高いから知り合いに頼むのは嫌らしいし。
しかし、だ。
祥子はその作戦を失敗した。
特に詳しく話を聞けば、まあ、確かに祥子なら多少壊れてしまうほどひどい結果になってしまったようだ。
全ての計画は問題なく進んでいた、にも関わらず。
最後の最後、ほんの少しの偶然が、隠密裏にかつ自然に見えるよう少しずつ進めて張り巡らせた作戦を狂わせてしまった。めちゃくちゃになってしまった方が返ってすっきりするのに、歯車が一つかみ合わなかったという些細なミスだったのが余計にショックだったらしい。
知り合い自体が少ないくせに、なんの因果か知っている一年生が、そのハンカチを確保してしまった。
あの志摩子が、だ。もちろん彼女としては親切でハンカチを預かり受けたのだろうが。
しかし、その小さな親切が仇となってしまった。
「ばかね。そういう計画は、身内に話しておいてこそ成功するのよ」
とは、笑い出しそうになるのを必死に堪えているお姉さま談。「敵を騙すにはまず味方から、とも言うけれど、そもそも敵はいないじゃない」と。確かにその通りだ。
協力するしないはともかく、話しておくことで、少なくとも事情を知った者は邪魔をしない。失敗できないのなら、なおのこと万全に万全な体制を作り上げるべきだったのだ。……なんて今更だが。後悔は先に立たない。
「ええ、ええ、どうせ私はばかですよ。あはは。笑えばいいじゃないですか。うふふふ。もう笑い話は出ませんよ。もうよだれしか出ませんよ」
「お、落ち着いて祥子……」
いつも芯が強く輝きに満ちていた双眸は濁りきった雷雲のように暗く沈み、なんか首も身体も微妙に斜めに傾ぎ、控えめに垂れるソレは私がハンカチで拭っておいた。素人目にもよくわかる、なんという死相。祥子に限らず人類のこんな危険な顔、初めて見た。
話も聞いたことだし「まあ、人生そういうこともあるわよ」とお姉さまはお弁当を広げ出し、そして黙って聞き役に徹していた紅薔薇さまは厳しい眼差しで言った。
「それで?」
凍りついた。私と祥子が。お姉さまは我関せずパカッと蓋を開いた。
「あなたはいつ、私に孫を紹介してくれるの? 失敗談? それは大変結構、面白かったわ。それで次は?」
「……次、ですって?」
ざわ、と祥子の纏う死のオーラが揺れたような気がした。
「次なんてないわ。どうせ私はお姉さまのように何事もうまくなんてできないのだから。そんなに孫が欲しいのでしたら、どうぞ由乃ちゃんでも可愛がってください」
でもって何よ、と私は思ったが、空気を読んでみた。なぜに今から激戦区になろうという姉妹間の国境付近に踏み込む必要がある。
祥子の反抗的な言葉にピクリと肩を震わせる紅薔薇さまの横で、お姉さまはお箸を握りながら、
「それはダメ。由乃ちゃんは私が可愛がるんだから」
と、ちゃんと祖母ポジションを主張した。私はお姉さまと由乃の性格を考えるに、ちょっとその、なんというか相性はそんなによろしくなさそうな気がして、微妙に嫌な予感がしたりしたのだった。
まあ、それはともかく、今は紅薔薇姉妹だ。
祥子がちょっと反抗的な態度に出るのは特に珍しくない。姉妹同士でじゃれあっているようなものだから。しかし今回ばかりは遊びでも冗談でもなさそうだ。
見詰め合う、というより、もはや睨み合っている紅薔薇さまと祥子。焼きビーフンをほおばるお姉さま。はらはらと見守る私。
そんな(お姉さま以外)緊張感が張り詰めた膠着状態に入った私達の間に、救世主はやってきた。むろんお姉さまじゃない。……本当に基本六割は期待できない人だ。
「やっほー」
ものすごーく軽い調子で現れたのは、白薔薇さまだった。
そうそう、この人はここのところよくやってくるのだ。主に祥子の様子を聞くために。当人の苦労も知らず楽しそうに。
正直良いことなのか悪いことなのかわからないが、祥子の悪戦苦闘ぶりが楽しくてしょうがないらしき白薔薇さまは、最近とても明るくなったと思う。本当に良いのか悪いのかよくわからないが。
というか、お姉さまも白薔薇さまも、他人の不幸の蜜が露骨に好きすぎると思う。結構ダメな人達だ。せめて隠してほしい。
「あ、祥子来てるじゃない。どう? 妹できた?」
悪夢のような時間は、まだ終わらなかった。
祥子はまたよだれしか出なくなった。
そして、とにかく私は、お姉さまがたくあんを咀嚼するぽりぽりという小気味良い音が恨めしくて仕方なかった。
本当に基本六割は期待できない人である。
○七月某日
相変わらず天気は悪かった。
雨は明け方に一度は止んだが、昼前からは煙のような霧雨が舞い、今も降ったり止んだりはっきりしない。
今日も相変わらず祥子は壊れていた。
普段はまるっきり、ちょっと変な人に思えるくらい上機嫌なのに、妹・下級生・一年生・姉妹などのテーマで話し掛けられると、壊れるスイッチが入ってしまうようだ(この情報はお姉さま方の残酷な実験の結果で明らかになった)。
それと、これはまだ私しか気付いていないかもしれないが、祥子は校内どこそこにいる姉妹を睨むようになっていた。特に仲良さげな二人組は、親の仇か命に関わる外敵か、ってくらいに怖い顔をして。
故意なのか無意識なのかは、わからない。
さすがに無意識でできることだとは思えないが、あの祥子が恥も外聞もプライドすらもなく誰彼構わず嫉妬心を剥き出しにする、というのはあまりにもキャラと掛け離れている。
実際ほんとにどうなんだか。
怖くてつっこめない私は親友失格かもしれないが、しかし逆にあまりにも気を遣わなすぎるお姉さま方も、かなりひどいんじゃないかと思う。
うふふあははと乾いた笑い声を上げて無抵抗サンドバッグ状態な親友が、あまりにも不憫だ。私にできることは、一年生達に「しばらく薔薇の館に来ないでね」と通達することくらいだ。
いや。
明日、思い切って、私からお姉さま方に言ってみよう。
いくらなんでも、三人とも本気で祥子を叩きたいだけ、というわけではないだろうから。
そうと決まれば、明日何をどう伝えるかだけ、考えてみよう。
○七月某日
久しぶりの快晴。朝はそんなに夏を感じることもなく快調に寝覚め、由乃の体調もよさそうだった。
校舎で由乃と別れ、私はそのまま三年生達の教室へ向かった。
「令?」
朝一番に、紅薔薇さまに会いに来た。
「祥子のことでお話が」
紅薔薇さまはサンドバッグ化している祥子叩きに参加はしていないが、止めようともせず静観している。祥子の姉として見守るスタンスを貫くつもりなのだろう、というのは私にもわかる。
しかし、状況が状況だ。
「もう少し祥子に優しくしてあげてもらえませんか?」
祥子が落ち込んでいる姿は見たくない、と伝えると、紅薔薇さまは「私もよ」と返してきた。
「別に意地悪をしているつもりはないわ。先月、『祥子の妹探しに口出しする気はない』って言ったの、覚えている?」
なんとなく言っていた、ような。聞いたような気がする。
「あれと同じ答えなのよ。祥子が助けを求めていないから、私は何もしない。手を差し伸べない。代わりにちゃんと見ていることを決めたのよ」
やはりお姉さまなのだな、と思った。友人の私とは、接し方が違うということだ。私は下手に触れることができないだけ、紅薔薇さまは本人が求めていないからしないだけ。
祥子は壊れた姿を晒しても、紅薔薇さまに助けを求めない。
紅薔薇さまは、助けを求めない祥子を見守ることを選んだ。
互いが苦しみあっているにも関わらず、相手の意思を尊重し合っているのだ。
昔、自転車に乗る練習をした時のことを思い出した。祥子は今、紅薔薇さまという補助輪を外して必死にペダルを漕いで、転んでしまったのだろう。転んだって一人で立ち上がらなければいけないことがわかっているから、立ち上がろうと足掻いている。そして紅薔薇さまは手を差し伸べずそれを見ている。
祥子には、姉離れを始めている自覚はあるのだろうか。
もしかしたら、まだないのかもしれない。
いや、意外と自覚しないものなのかもしれない。
誰かの姉になった時、なろうと思った時から、それは自然と始まっているのかもしれない。いつまでも妹ではいられないから。
とにかく、会いに来て良かったと思う。
「まあ、確かにあの二人、最近かなり目障りよね。調子に乗っているわね」
「え?」
「そろそろちゃんと躾けておこうかしら」
しつけ。
冷淡に放たれたその言葉の持つ、全身の毛穴からえぐりこむような恐怖はなんだろう。
怖いので私は知りたくない。
お姉さまと白薔薇さまの安否が気になるが、正直に言えば本当に関わりたくない、というのが本音である。
○七月某日
今日、お姉さまが泣きながら訴えてきた。
「蓉子にいじめられた」と。
関わりたくないので、今日のことは忘れようと思う。
愚痴られた内容についても忘れようと思う。
あんなことを記憶しておいたら、私の紅薔薇さまを見る目が変わってしまいそうだ。
あと由乃が「そろそろ剣道の防具の臭いが特に気になる季節になってきたね」と時事ネタを言っていた。
もしや遠回しに最近私が臭うって言いたかったのだろうか? 汗臭いって言いたかったのだろうか?
だとしたらショック極まりない。消臭スプレーや制汗スプレーを部費で、って無理か。さすがに。
○七月某日
昼休み、薔薇の館で。
そう言えば最近、また白薔薇さまが来なくなったな、と思った。
きっと紅薔薇さまに色々やられたせいだろう。
忘れたいことを思い出したくないので、今日のことを詳しく振り返ることはやめておく。
それにしても紅薔薇さまは強い。伊達に祥子のお姉さまではない。
○七月某日
まだまだ壊れている祥子を見ていて思い出す。
転んだ時にはいつでも何かを拾え。
オズワルドの言葉だ。他にもあるかもしれないが、私は後悔や挫折から学べ、と解釈している。
祥子はきっと、立ち上がる時には何かを得ているだろう。
それが次のチャンスに繋がるだろう。
がんばれ。祥子。
それにしても、今月のコスモス。
気になる。
非常に気になる。
剣道少年と病弱少年の禁断の愛だなんて。
令さん、ついにブルーにも手を出しちゃう?
○七月某日
買っちゃったー。
しかももう読んじゃったー。
青もいいな。意外と抵抗なく読めてしまった。
作者が女性で女性の感性で書かれているから、感覚的に受け入れやすいのかな。
今日はもう余計なことは考えず、禁断の愛の余韻に浸りながら寝よう。
ところで、これらブルー系は本棚に入れてオープンにせず、隠し持っておくべき物なのだろうか。
親に知られると微妙なジャンルだし、まあ、そんな素朴な疑問も、明日にしよう。
○七月某日
今日も晴れ。ここ一週間くらい澄んだ青空が続いている。
目前にまで迫ってきた夏休みが、学生にとって関門である期末テストや、じっとしているだけで汗が出る真夏日を超えるための、巨大なエサのように見える。あそこまで頑張ればエサはすぐそこだ。あと少しだ、と。
しかし、夏休みに突入することで、手遅れになることもあるわけで。
祥子の妹探しも、先月彼女自身が言っていたように、この一学期がある種の節目。かなり重要な期間なのだと私も思う。
もう、一学期を逃したら先はないんじゃないか、と思えるくらいに。
相変わらず祥子は壊れたままだし、少しは元気になってきているとは思うが、まだまだ今は妹関係の話はタブーだ。
早く復帰してほしい。
それにしてもブルーは面白い。
今まで興味はあっても知らない世界だったので、むさぼるようにもう三冊目読了。我ながら呆れるハイペース。正しく寝食忘れて、だ。
今まで手をつけなかったことが勿体無いとさえ思えるくらい面白いが、お小遣いにも限度があるので、これでよかったのだろう。
明日も古本屋へレッツゴー。
○七月某日
今日は大変なことが起こってしまった。
私自身もまだ混乱している気がするので、ゆっくりと一日を振り返ってみようと思う。
今日は、大変だった。
何が大変かって、祥子がだ。
今まで腫れ物のように気を遣い、何も言わずに接してきたものの、その選択が間違っていたことが今日になって判明した。
授業が終わって掃除も済んで、放課後になると祥子が私のクラスにやってきた。
何事かと教室から出てみれば、祥子は「今日はあなたに用があって来たわけじゃない」と言い、代わりに特定のクラスメイトへの取次ぎを申し出た。
私は特に何も考えず、運良く教室に残っていたそのクラスメイトを呼び出す。
「祥子さん?」
後からわかったことだが、そのクラスメイトと祥子は、顔くらいは知っているが話したこともない間柄だったらしい。
そんな関係にも関わらず、しかも私がそこにいることもお構い無しに、祥子は親の仇か命に関わる外敵か、ってくらいに怖い顔で睨みつける。
「あなたの妹、一体どうなっているの?」
聞けば、クラスメイトの妹は、タイを解いた状態で祥子の前を通過したらしい。
幼稚舎から何かある度に「身だしなみには気をつけなさい」と教わってきた私たちにとっては、タイが歪んでいたり緩んでいたりするくらいならまだしも、解けた状態で校内を歩くなど、もはや弁解の余地もないほどの大失態である。
怒りなのか動揺なのか、とにかく強い感情で唇を震わせるクラスメイトに、祥子は更に遠慮なく言う。
「ちゃんと躾けられないなら妹なんて作るべきじゃないわ。姉として恥ずかしくないの?」
こりゃいかん! あの時の私は、本気でそう思った。こりゃーいかん!、と。
まだ放課後に突入したばかりである。廊下は下校もしくはクラブへと赴く生徒、私の教室にもまだまだ残っているクラスメイトも見える。
ただでさえ祥子がいるだけで目立ち、注目も集めてしまうのに、しかも話している内容が内容だ。これは間違いなく噂になる、と瞬時に理解できた。
「そこまで!」
このままだとケンカになりそうだったので、私は強引に止めに入った。この判断だけは間違っていないと胸を張れる。もし止めていなかったどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。
だって、姉として、妹のことに文句を言われると、是非に関わらずムッとするものだから。内容も聞かず考えずあなたには関係ない、と斬り捨ててしまいたくなるから。
「姉としてまだ最高三ヶ月以内の新米姉妹なんだから、至らないところがあって当然でしょ」
「でも令」
「でもじゃない。気になるなら祥子は自分の妹にちゃんと躾ければいいの。基本的によその姉妹のことに口出ししない」
祥子は口を噤むと、何も言わずに帰ってしまった。対するクラスメイトは、鞄すら持たず急ぎ足でどこかへ、きっと自分の妹のところへ行ってしまった。
祥子が言ったことは、間違ってはいない。多少、いや、だいぶ私怨と嫉妬心を内包していたとは思うが。でも潔癖症の祥子らしいとも思う。
それにしても、タイを解いて歩く一年生か。
そんなあまりにもわざとらしい行為、私には誰かに見せつけるためだとしか考えられないのだが。
たとえば、潔癖症の紅薔薇のつぼみの前をその状態で歩いたら、確実に声を掛けていただけるのではないと考えた、とか。
考えすぎかな。
でも、もし考えすぎじゃないんだとしたら、祥子はまた一つ、失敗したのではなかろうか。
そんな下級生に厳しい一面が噂にでもなれば、きっといるはずの祥子の妹になりたいと願っている一年生たちは、腰が引けてしまうだろう。
向こうが起こす「祥子とお知り合いになりたいというアクション」が、祥子の怒りに触れる可能性があることを、今日の一件ははっきりと物語っているのだから。
きっと噂は、明日の朝にはリリアン中を駆け巡っていると思う。多少の尾ひれを付けて、祥子の恐ろしさが誇張されて。
とにかくもう手遅れでしかないので、願わくば、祥子自身が己の失敗を自覚して更に落ち込まないことを祈るのみだ。
あと、クラスメイトには私が明日フォローを入れておこうと思う。
○七月某日
思わず「むはっ」と息が漏れてしまった。
古本屋に目ぼしいブルー系がなくなったので、近そうな物を選んで買ってきたのだが。
大人以外お断りの本だった!
あらすじを見てちょっとパラ見しただけで買ってきたから、本当に驚いた。
ドキドキしながら読んだ。
なんという耽美な世界。
なんというエロス。
まあ、私には刺激が強すぎるので、こっちはなさそうだ。何せ年齢的にもダメだし。
でも一応保管しておこう。
さすがにこれは本棚に納めるのは無理だし、さてどこに隠すべきか。
○七月某日
今日は日曜日。午前中は道場で汗を流し、午後は部屋の掃除をして、久しぶりにドライフルーツのシフォンケーキを焼いてみた。
夕飯後、ここで由乃と一緒に食べたのだが。
「あれ? 令ちゃん、これって?」
見慣れた部屋の小さな違和感に、由乃は敏感な反応を示していた。
「あっ」
しまった! 昨日の例のあの危険な本、適当な隠し場所がなかったせいで、とりあえず教科書とかと一緒の棚に入れたままだった!
ちなみにタイトルは「生物学的男子達」。最後の「男子達」が、他の何物にも身代わりが利かないほどの存在感を主張している。
とにかく言い訳を、でも何を言うべきか、まあそのとにかく穢れなき由乃があんな問題図書に触れることだけは避けたい絶対に姉として!
思考を巡らせ、もはや由乃を強引に部屋から追い出して本を処理する強攻策しかないか、と覚悟を決めた時、由乃は溜息をついた。
「好きなのはいいけれど、程々にしてよね」
「あ、はい」
あの時はそれでお互い納得したが、今になって思う。
由乃はなぜ、背表紙のタイトルだけ見て内容を看破できたのか。
由乃はなぜ、アブノーマルすぎるアレに対する意見を出さなかったのか。
というか、理解を示したのか。
生まれた時からずっと一緒だった従姉妹が、私の知らないところで私の知らない経験をしている。
それは当たり前のことなのに、ちょっとだけ胸がざわざわする。
由乃のことで知らないことなんてない、なんて自惚れるつもりもないけれど、それに近い感情は持っているのだろう。
来年、もし由乃が妹を作ったら、私は何を思うんだろう。
紅薔薇さまのように、手を貸したくても我慢して見守ることができるのだろうか。
いつまでも由乃の側に居られると当然のように思っていたが、絶対にそんなことはないはずだ。
いずれきっと、何らかの形で、別れる時が来る。
その時、私は何を思うのだろう。
由乃がいなくなるなんて考えられないのに。
胸がざわざわする。
この本は、明日捨てよう。
○七月某日
今日は、疲れた。
昼休みのこと。
発端は、些細なことだったんだと思う。私はみんなのお茶を用意するために流しにいたので、ちゃんと聞いていなかった。
気が付いたら。
「お姉さまに私の気持ちはわかりません!」
「甘ったれた妹の気持ちなんてわかるわけないでしょう!?」
紅薔薇さまと祥子が、口論を飛び超えて、すでにケンカを始めていた。
原因はよくわからないが、きっと祥子の妹問題のことだろう。祥子が思いっきりムキになる理由も、それを真正面から受け止める紅薔薇さまも、それ以外のことでこうなる理由はそう多くないはずだ。特に紅薔薇さまなんて、いつもならひらひらと側面に回って攻撃するようなタイプだ、正面からぶつかるなんて、らしくない。
そして紅薔薇さまのすぐ横でニヤニヤしながら二人を見守るは私のお姉さま……止めてくださいよ。今この場で止められるだろう人が楽しんでいてどうする。楽しむな。
「もう妹なんてどうでもいいわ! 私は一生妹なんて作らない!」
「“作らない”じゃなくて“作れない”と言いなさい! あなたの努力不足でね!」
「努力不足ですって!?」
激昂し睨み合う二人。交わされぶつかり合う怒気溢れる視線。ああもうどうしたものやら。紅薔薇さまに対抗できるお姉さまは笑っているし、白薔薇さまは来ないし。
私が止める?
あーむりむり。こうなっちゃったら紅薔薇さまはもちろん、祥子すら止められそうにない。怖い。だいたい姉妹ゲンカに口出しなんてするものじゃない。しかも原因は姉妹の更に姉妹のことなのだから。
下手に止めようとしても火に油を注ぐだけだし、私の力量では止めることもできないだろうから、放置するしかない。
それに、祥子がこれをきっかけに妹探しに復帰する可能性もある。たぶん紅薔薇さまはそれを狙ってもいるはず。怒りは時に絶望を超えるのだ。
とりあえずお茶を配って席に着き、お弁当を広げる。相変わらず紅薔薇姉妹はケンカ中。お腹も空いているだろうに元気なことだ。
「令」
お箸を握ったところで、いつの間にやら紅薔薇さまの隣からちょっと離れたところへ移動していたお姉さまが手招き。目の前でけたたましい言い合いが繰り広げられているので、近くに話し相手が欲しいようだ。
私もせっかくの昼休みをケンカに巻き込まれて台無しにされたくないので、大人しくお姉さまの隣に移ることにした。
「元気よねぇ、この二人。お腹空いてるだろうに」
お姉さまは苦笑する。「同じことを考えてました」と、私も苦笑を返す。
「実際どうなの? 祥子の妹探し」
「ここ最近は動きらしい動きはないみたいです。むしろ周りの姉妹関係を毛嫌いするようになっちゃったみたいで」
「例の、あの噂?」
「噂?」
「ほら、祥子の目の前をタイを解いた一年生が通った、っていう」
あの日から何日か経っても誰も言い出さなかったから、てっきり噂は届かなかったかと思っていたが、さすがにそれは甘いか。注目の紅薔薇のつぼみの噂だ、やはりお姉さまの耳にも入ってしまったようだ。
それも当然。あの噂は、本当に瞬く間に全校中に広がってしまった。紅薔薇さまもきっと知っているはずだ。
「そうだと思いますけど、でも祥子なら普段通りでもやったような気がします」
「まあ、ね。祥子だものね」
そう。潔癖で頑固でヒステリーな、だらしないのが嫌いな祥子だから。
「お姉さまはどうお思いですか?」
「というと、祥子の妹探し?」
「はい。私は未だにピンと来ないんですよね、祥子の妹って」
「そんなの私だってピンと来ないわよ」
お姉さまは笑った。
だから楽しみなんじゃない、と。
「それより令、久しぶりに私達もイチャイチャしましょうか。紅薔薇さんのところに負けないように」
「は?」
「さあ、お弁当を交換よ」
「え?」
「そして交互に食べさせ合うのよ。ほら令、ごはん? それともふりかけ部分のごはん? はい、あーんして」
「いや、あの」
急すぎるお姉さまの気まぐれに戸惑う私。でもまあたまにはいいかなー由乃もいないし、と思った時、向かい合っていた紅薔薇姉妹が揃ってこちらを見た。
「「何イチャイチャしてるのよ!」」
ケンカしていたはずの二人の矛先は、完璧なまでにこちらへ向いてしまった。
別にいいじゃない。
たまには黄薔薇がイチャイチャしても。
自分たちだけ仲良さげにケンカしちゃって。
○七月某日
朝から曇り。今し方ちょっと降り始めた。
「どうしたらいいか」と問われ、私は答えることができなかった。
でも、たぶん。
答えることができたとしても、それは祥子が望むものではなかったんじゃないかと、今更ながらに思う。
昼休み、今にも降り出しそうな薄暗い空の下、私と祥子はお弁当を持って中庭のベンチに並んで座っていた。
こんな天気なのに、私達以外にも意外と中庭に出ている生徒は多い。
「こんな天気だからかな?」
「そうね」
日差しが強い時期なので、太陽が出てない方が外で食べるには適しているのだろうか。でも風や空気は生温いので暑いには変わりない。
直射日光がないだけマシだと思っておこう。
祥子に誘われて来たものの、特に重要な話らしい話もなく、雑談しながらお弁当を片付ける。
授業がどうとか、夏休みどうするとか。
祥子のお弁当箱の中にあるエビピラフの剥きエビの大きさ多さに驚き(もはや米とエビの比率1:1に近い)、焦げ目一つない完璧すぎる黄金色の出し巻き玉子の見事さに目を奪われ、ポテトサラダの芋を感じさせない圧倒的白さに恐怖し、芸術的な厚みでスライスし湯通ししたのだろう人参で作られた薔薇の花の職人技に開いた口が塞がらなくなり、「あぁ、重いわ」と膝の上に置き左手を休憩させつつしか食べられないその漆塗りの名工作であろうことを確信させる渋い弁当箱に恐れ戦き。
いつ見ても小笠原家のお弁当は、なんというか、エキサイティングだ。エビでかいなー。
小笠原家の専属コックさんを料理人として尊敬しつつ、なんだかんだで昼食も終わり。
お弁当箱を仕舞い、腕時計で確認すると、昼休みはあと10分ほど残っていた。
さて。
自然と雑談も止まり、なんとなく雰囲気が変わった。
この頃はなかった祥子との和やかな時間は去り、少しの緊張感を持ってここにあった。
「どうしたらいいのかわからなくなっちゃって」
ようやく切り出したそれが、祥子の本題だった。
「姉妹を見ているとイライラするし、この前なんて無関係なのによその姉妹に口出しまでして、挙句に昨日はお姉さまとケンカまでしてしまったわ」
語る祥子は、ただ穏やかな表情で、空の一点を見詰めていた。その顔は悩みを話す人には見えなかった。
「妹なんてもういらない、と思う反面、それではいけないとも思っている。でも何をしていいのかわからない。いっそ何もしたくないとも思ってしまう」
私は思った。思春期らしいなぁ、と。
色々と常人離れしていた祥子が、今になって天上から地上に降りてきたような感じだ。
地に足が付いていると思える分だけ、祥子はむしろ前進しているのではなかろうか。
「……こんなに苦労するなんて思わなかった」
七月の風が駆けて行く。
五月から始まった祥子の妹探しは、早くも七月に入り、もうすぐ終業式を迎え、八月がやってこようとしている。
夏休みが明けて……目下妹が必要になりそうなイベントは、学園祭だろうか。花寺学院でも、リリアンでも。スケジュールとしては慣例として手伝いに行く花寺が先になるが。
由乃は、花寺学院に行かせることはできないだろう。向こうで体調を崩すようなことがあったら大変だ。
そして、もしかしたら、リリアンの学園祭にも参加できないかもしれない。毎年山百合会では劇をやるものの、由乃が参加できるのは、ちょい役か裏方がいいところだろう。それも当日になって登校できなくなっても、代わりに誰かに頼める程度の。
そう考えると、確かにちょっと厳しいものがある。
花寺の学園祭はまだまだわからないが、リリアンの学園祭は、現状たった五人しかまともに参加できそうにない。
三薔薇さまと、私と、祥子と。その日の体調を問われる由乃には重要な役を任せられないし、志摩子はあくまでも手伝いだ。「出てくれ」という説得に応じる可能性はあるが、薔薇さま方はけじめを付けて、劇の参加は要請しないこともありえる。
演目にも寄るが、五人での劇は大変そうだ。それと平行して劇中の小道具や衣装も用意し、山百合会としての仕事もこなし、劇の練習もして……夏休みが終わればすぐ九月、それから学園祭まで忙しくなりそうだ。おまけに私は翌月の剣道の大会もあるし。
「これからのスケジュール、結構詰まってるね」
「ええ」
七月は、祥子自身もわかっていると思うが、もう無理だろう。何より本人の心がぽっきり折れてしまっていて、未だ復帰の目処が立っていない。
八月は夏休み。休みなだけに期待はできない。
となると、次の勝負は九月。
だが九月はとても忙しいのだ。花寺学院の学園祭、体育祭、そして私達二年生には修学旅行まである。それが終われば十月、すぐにリリアンの学園祭の準備に追われることになる。
八月以降の過密スケジュールの、いったいどこに妹候補を探し逢瀬を重ねいざロザリオ授受へ、という予定を割り込ませる余裕があるのか。しかも出会っているならまだしも、出会ってすらいないのに。
「出会いがないって、ここまで大変なのね……」
「……そうだね」
とてもじゃないが「普通ならナンパのところで出会いなんてゴロゴロあったんだけどね」とは言えなかった。言えば祥子はまた落ち込むだけだ。
それに、もう一つ。
もしこの前の「タイを解いて歩いた一年生」事件がなければ、もしかしたら、本当にもしかしたら、終業式直前に一年生辺りからお手紙などを頂いてストレートに「妹にしてください!」等々の告白劇があったかもしれない。祥子は紅薔薇のつぼみ、人気はあるのだからあってもおかしくはない。
しかしあの一件の噂で、紅薔薇のつぼみ=気難しい・厳しい、というイメージが先行してしまった。残念なことに、あの一件で「お手紙貰って告白される」というかすかな可能性がほとんど消失したと言っても過言ではないだろう。いきなり手紙なんて出したら怒られるかもしれない、と相手に思わせてしまえば、当然のように敬遠されてしまう。
どうしてこうも裏目に出るのだろう。祥子がここまで真剣に考えている事案なのに一向に進展が見られないなんて、気の毒だ。
「ねえ、令」
「ん?」
「私、どうしたらいいと思う?」
「…………」
どんなに考えても、答えは出せなかった。
だから、私は言った。
「今度の休み、デートでもする? 気晴らしに遊ぼうよ」
「……」
「祥子は考えすぎなのよ。一度溜まっているものをぱーっと発散させなさい」
「……そうね。それもいいわね」
祥子が「どうしたらいいのか」はわからない。
でも、今は、祥子は妹問題から少し離れるべきなんじゃないかとは思った。ストレスが溜まり過ぎて壊れて、その上紅薔薇さまに向かって怒って発散させるなんて、ちょっと循環が悪すぎる。
私は祥子の妹問題に積極的な協力はできない、というか、祥子が拒否するだろうから、今のスタンスからは離れられない。
だから、どこかに一緒に遊びに行くくらいしか思いつかない。
がんばれ。祥子。
○七月某日
今日は微妙なことになってしまった。
由乃の目を盗んで家を抜け出し、祥子とのデートへ赴いた。
一緒に行ったのは、近場のアミューズメントパーク。色々遊ぶ場所もあるし、食べる場所もある。
何で遊ぶかは現地決定にしていたのだが、祥子が選んだのは施設内にあるボーリング。
聞けば、ボーリングをやったことがないと言う。
この時点で非常に嫌な予感はしていた。
遠回しに止めようとあの手この手で別の場所に誘うも、祥子は私の真意を読んだのか、意地を張ってボーリングを譲らなかった。
そして、案の定、祥子はガーターを連発。途中で怒って帰ってしまった。
だからボーリングはやめようって言ったのに。
それにしても十六回連続ガーターは、さすがにすごかった。隣のレーンの小学生達が指差して笑ってたもんなぁ。
今日の祥子は妙に由乃に重なって見えた。意地の張りっぷりといい、連続ガーターといい、怒って帰るところといい。
なんとなく帰りにシュークリームを二つ買って帰った。
それにしても、いったいなんのためにデートをしたんだか。
○七月某日
今日は終業式だった。
ここ数日、薔薇さま方、私、祥子、それに由乃と志摩子も集まり、順調に仕事をこなしていたが、それも今日で一旦終了。
夏休み後半からの登校スケジュールも発表され、いよいよ夏休み突入だ。
さあ、ブルーを読みふけるぞー。
ベッドに転がってニヤニヤしながら男の子同士という新ジャンルに没頭する令をほったらかしにし、七月が過ぎていく。
――福沢祐巳と出会うまで、あとニヶ月。