※やっぱり変なのです。
その日、菜々はお祖父ちゃんの部屋に呼ばれ、二人で向かい合って座っていた。
「菜々。12歳になったらこの家の者は必ずやらなければいけない事がある」
ふうん、というように菜々は頷く。
「12歳になったら、一人で歩いて旅をするんだ。これは、ご先祖さまがお侍さんだった頃からのしきたりで、お祖父ちゃんも、お前の母さんもやってきた事なんだよ」
一人で旅、というだけで菜々はちょっと興奮した。
「と、いうわけで、菜々。今年の夏休みの宿題は早めに片付けなさい。旅は夏休みに決行する」
「はい」
菜々は言われた通り、その年の宿題を頑張って7月中に片づけた。自由研究だけは、旅の事を書いた日記を提出する事にした。
ルートは山梨から奥多摩を抜け家に帰ってくる。それだけのものだったが、準備から一人で行わなくてはならない。必要なものをリュックに詰め、立ち寄れそうなキャンプ場などをチェックする。
そして、いよいよ出発の日がやってきた。
夜遅く、お父さんの運転する車にお祖父ちゃんと一緒に乗って山梨に向かう。
お祖父ちゃんが慣れたようにあっち、こっちと指示を出し、やがて車はある場所に止まる。
菜々は車から降りて、荷物の入ったリュックを背負い、靴ひもを結び直す。
「あの山から朝日が出たら出発だ。もし、旅が出来なくなったと判断したら、連絡を寄越しなさい」
「はい」
菜々は頷いた。
朝日が昇り、菜々は自宅のある武蔵野に向かって歩き始めた。
事前に調べてあったルートを通って、予定通り初日に泊まろうと思っていたキャンプ場にたどり着く。リュックからテントを出して、飯ごうで炊いたご飯を食べて、毛布にくるまって、懐中電灯の明かりで今日の出来事を日記に書く。
別に大した事があったわけじゃない。ただ、歩いただけだが、風景やら、通り道にあったお地蔵さまやら雲の模様やら、話しかけてきたおじさんやら、菜々にとっては全てが刺激的だった。
その全てを日記に書く事は出来なかったが、とても満足して眠りについた。
3日目に予定外の事が起こった。
大雨が降って、予定していたルートが崖崩れで通行止めになり、別のルートを使わなくてはならなくなったのだ。
慌てて地図を広げるが、やっと見つけた代わりのルートは予想外に遠かった。道はぬかるみ思うように進めない。キャンプ場にたどり着く前に日没。それも、森の中という最悪の状況である。
なんとかテントを張って、ビスケットをかじる。
とにかく今日は休んで、明日森を脱出しよう、そう決めて毛布にくるまった時、何かの気配があった。
(野犬? 熊だったら、どうしよう……)
「誰かいますか?」
テントの外から女の子の声がした。
人間だ。
菜々は恐る恐るテントの外を見てみると、中学生ぐらいの女の子が立っていた。
「夜分遅くすみません。あの、突然で申し訳ありませんが、一晩泊めていただけませんか?」
少女は申し訳なさそうにそう言った。
普通に街で見るような綿のパンツにスニーカー、フードの付いたジャケットその中はたぶんTシャツ、髪は二つに縛っているが帽子はかぶっていない、リュックも持っていないようだ。
「あ、あの。あなたは一体?」
「私、リリアン女学園中等部2年桃組の福沢祐巳といいます」
聞くと、福沢さんは雨のせいで泊まろうと思っていた場所が水浸しになってしまい、泊まれそうな場所を探していてテントを見つけたとの事。事情は痛いほどわかったが、菜々にも事情がある。
「あの、このテントは一人用で」
「邪魔にならないようにするから、お願い!」
手を合わせて拝まれる。
「……わかりました。テントの中に入れるだけですよ」
「ありがとう」
笑顔でギュッと手を握られてドキッとして、慌てて振りほどく。
「じゃあ、私はこの辺で丸まって寝ますから、福沢さんはその辺で」
「うん。あ、そうだ。私の事は祐巳って下の名前で呼んでね」
そう、祐巳さんは言うと、菜々の指示したあたりで丸まってすぐに眠ってしまった。
(何なんだ、この人……)
菜々はそう思いながら、予想以上に疲れていたのですぐに眠ってしまった。
翌朝。
菜々が目を覚ますと、テントの中に祐巳さんの姿はなかった。代わりに外からいい匂いがする。
そっとテントから外をうかがうと、祐巳さんが火をおこして、魚を焼いていた。
「おはよう。あ、起こしちゃった?」
「いえ。あの、それより、それ……」
「近くに沢があって、そこで捕ったイワナ。魚は嫌い?」
「いえ」
「じゃあ、テントに入れてもらったお礼に一匹どうぞ」
祐巳さんはにこにこしながらそう言った。
「熱っ!」
菜々は有難く魚を頂いた。
「ねえ、お名前聞いていい? テントに入れてくれた恩人の名前を知りたいの」
祐巳さんは魚を頬張りながら聞いてくる。
「恩人だなんて、大した事はしてませんよ。それに、魚を頂いたので、その件は貸し借り無しです」
「あ、そう」
祐巳さんはちょっとがっかりしたようだった。
「名前は、田中菜々です」
「菜々ちゃんか。菜々ちゃんはどこへ行くの?」
「家に帰るところです。家のしきたりで、12歳になったら一人で歩いて旅をするんです」
「へえ、似たような事をする家があるんだね」
祐巳さんがちょっと驚いて言う。
「うちはね、昔、鬼退治をした家だって言い伝えがあって、14歳になったら一人で家から鬼退治をした場所まで行って、帰ってくる旅をしなくちゃいけないしきたりがあるの。もちろん全部歩き」
へへっと祐巳さんは笑う。
「でも、荷物とか、ありませんよね?」
昨夜の光景を思い出して菜々が聞く。
「荷物はご先祖様が鬼退治の時に持って行った『布』と『火打石』と『縄』だけ。お金も駄目」
そう言うと祐巳さんは荷物を見せてくれた。
「布」は普通のバンダナで、「火打石」は普通の石みたいだったし、「縄」は庭で木を縛るような縄だった。
「それだけで、旅をしてるんですか?」
菜々は自分の持ち物と比べて驚いた。
「うん。鬼退治の場所には行ったから、あとは家に帰るだけ」
菜々ちゃんと一緒だね、と言って祐巳さんは笑う。
「ねえ、家はどこ?」
祐巳さんが聞く。
「武蔵野です」
「それも私と一緒だね。じゃあ、また会うかも」
そう言うと祐巳さんは立ちあがった。
「一人旅、頑張ってね」
祐巳さんは出発してしまった。
見送りながら、祐巳さんだって、一人旅じゃないの。と菜々は思った。
旅は続き、その日は朝から快晴で暑かった。
地図の上では東京都に入ったあたりで、朝からヘリコプターが山の上を旋回していた。
人里を目指してズンズン進む。
ガサガサ……
何かの気配がする。
びっくりして立ち止まる。
じっとそちらを見ていると、見覚えのある顔が出てきた。
「菜々ちゃん、こんにちわ」
「ああ、祐巳さん」
菜々は内心ほっとした。
「ねえ、あれの事知らない?」
あれ、とヘリコプターを指して祐巳さんは訪ねるが、菜々も知らないので首を振る。
「そっか。菜々ちゃんがラジオでも持ってたら何か知ってるかと思って声をかけたんだよね」
祐巳さんは、それは残念、という顔をした。
「菜々ちゃんは気にならない?」
「まあ、ちょっと」
「ちょっと、か。じゃあ、このあたりに友達がいるから、聞きに行かない?」
行く、とも言っていないのに、祐巳さんは菜々の手を取って駆け出した。
夏の真昼、日陰もなく眩しいくらいの日差しの中を二人で駆けていく。
ぽつん、と家が見えてきた。
「おじさん」
ベランダで窓を開けてお爺さんが何か作業していたが、祐巳さんが声をかけるとお爺さんはにっこりと笑った。
庭につながれていた犬が嬉しそうに吠える。
どうやらこのお爺さんが祐巳さんの友達らしい。菜々の予想とは違っていたのでちょっとびっくりした。
「おや、祐巳ちゃん。その子は?」
「友達の菜々ちゃん」
「とっ……」
いつ友達になったんだ、とも思ったが、わざわざ否定してややこしくするのもどうかと思って黙っていた。
「もう、鬼退治の場所には行ったのかい?」
「はい。これ、おじさんにお土産です」
祐巳さんはポケットからお守りを取り出してお爺さんに渡していた。
「祐巳ちゃんの分は?」
「私の分はちゃんとあります」
微笑んで祐巳さんが答える。
お爺さんに勧められるまま家に上がり、お茶とお菓子をごちそうになってしまった。
取り留めのない話をした後、祐巳さんがついでのように聞いた。
「あの、朝からヘリコプターが飛んでますよね。どうしたんですか?」
「ああ、この辺に悪い奴が逃げてきたって今朝ニュースで言っとった」
凶悪犯で、警察からこのあたりの住民に注意が回ってきたらしい。
「うちは離れておるから、避難しなさいと言われたが、留守にする方が不安だからな。それに、あの子もおるし」
お爺さんは庭の犬を指して笑った。
「祐巳ちゃん達はどうする? もう夕方で危ないから今日は泊まって行かないかい?」
「菜々ちゃん、お言葉に甘えて、今日は泊まって行こうよ」
祐巳さんがお祖父さんの言葉に乗っかる。
「えっ!?」
菜々は驚く。確かに気が付いたら日が暮れかけている。
「で、でも。私は一人旅をするしきたりで──」
「おや、しきたりが大流行だね。それならうちの事を手伝って行きなさい。そのお礼に泊めてあげるよ」
「そうしようよ。実は、行きもおじさんの家に泊めてもらったんだよね」
優しく祐巳さんが笑顔でそう言う。
何故か、なんとなく、それならいいか、と菜々はお爺さんの家の手伝いをするという条件で泊まって行くことにした。
夕食の支度、お風呂掃除などを手伝い、3人でご飯を食べる。
有難かったのはお風呂で、今までキャンプ場のシャワーかテントの中で体を拭くくらいだったので、祐巳さんの「背中流してあげようか」と言うのを丁重に断り、とても気持ちよく頂いた。
布団を敷いて、久々に体を伸ばして休む。隣で祐巳さんがプールに飛び込むように布団の上でバタバタしていておかしかった。
「菜々ちゃん」
真夜中に揺さぶられて目が覚める。
お爺さんの緊張した声がする。
「よくない奴が近くに来たみたいで、電話線をやられた」
「えっ」
菜々は飛び上がらんばかりに驚いた。
「祐巳ちゃんと菜々ちゃんは押し入れの中に隠れていなさい。俺はお隣さんのところへいって警察に連絡する」
お爺さんがそう言うと、祐巳さんに押し込まれるように、菜々は押し入れに入った。続いて祐巳さんが入る。
「気をつけて」
お爺さんが何かを持って出ていく。
犬の吠える声がする。
「あのおじさんは」
祐巳さんが小声で教えてくれた。
「熊撃ちの名人で、多少の事は大丈夫。シロ──あの犬も強いから」
菜々は祐巳さんにしがみついていた。
暗闇の中どれぐらいこうしていただろう、不意にシロの悲鳴が聞こえる。
菜々のしがみついた手に力がこもる。
大丈夫だよ、というように祐巳さんが優しく菜々の手に手を重ねてくれる。
ベランダが開く音がする。何者かが入ってくる気配がする。
静かに、というように祐巳さんが口に指をあてる。怖くて声なんか出やしないのだが。
気配がゆっくりと2階に向かっていく。
祐巳さんが押し入れの扉を開く。
菜々は慌てる。
「大丈夫」
祐巳さんは荷物の縄を柱にくくりつけてそっと戻ってくる。
「合図したら、思い切り引っ張って」
そう言って祐巳さんは縄の端を菜々に持たせると暗闇の中に消えてしまった。
一人で押し入れの中に残されて、不安な時間が過ぎていく。どれくらい時間がたった事だろう。
「菜々ちゃん!」
夢中で力いっぱい縄を引っ張る。
大きく何かが倒れる音、シロの声、押し入れの中からそっと覗いてみると、つまづいて犬に襲われてる男の人を祐巳さんが武器で殴りつけていた。
「菜々ちゃん、手を放して!」
菜々が手を放すと同時に祐巳さんが縄で素早く男を柱に縛り付け、電気をつけた。
男は気を失っていた。
「一体──」
「ご先祖様は、こうやって鬼退治をしたそうよ」
祐巳さんの手にはバンダナが握られていた。
バンダナの端っこで石をくるんで縛り、余った部分を長くひも状にして、反対側の端っこに結び目が作ってあった。
「おお、鬼退治までしていたか」
お爺さんが警察官を連れて戻ってきた。
菜々はその場にへたり込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫、というか、気が抜けた、というか──」
菜々は放心していた。
恐怖なのか、安堵なのか、緊張から解放されたからなのか、たぶん全部なのかもしれないが、腰が抜けたように動けなくなってしまった。
祐巳さんがよしよしと言うように抱きしめてくれたので、甘えるようにしがみついた。夜が明けるまでそうしていた。
朝が来て、警察の人に話を聞かれた後、家に連絡が行った。旅もここまでという事か。
「祐巳さん。旅が終わっちゃいましたね」
「うん? 終わってないよ」
祐巳さんは笑顔で答える。
「旅は中断。家に帰って落ち着いたら、もう一回ここからやり直すつもりだもん」
そうか、と菜々も思った。
「じゃあ、私もそうします」
うんうん、と祐巳さんが頷いてから言った。
「しかし、菜々ちゃんは大人だね。私は昨日、怖くて仕方がなかったけど、菜々ちゃんが落ち着いてたから頑張れたんだよ。一人だったら怖くて泣いてたかもしれない」
菜々は驚いた。
「そんな、私だって怖くて怖くて、もう、どうしていいかわからなくって」
「そう? でも、菜々ちゃんがいてくれたおかげだよ」
自分は何も出来なかったのに、縄を引っ張ったのだって必死だったし、いろいろ思いついて「鬼退治」をしたのは祐巳さんなのに、そう言おうとしたら名前を呼ばれた。
「菜々」
振り向くとお父さんが迎えに来て、挨拶して別れた。
「……で、帰ってきました」
菜々は旅の顛末を祖父に語っていた。
「なるほど。まあ、そんな奴にあったのは不運だったが、よく頑張った」
お祖父ちゃんは優しい笑顔でほめてくれた。
「でも──」
「中断なのだろう? 落ち着いたらまた続ければいい」
菜々は黙る。不運だったと慰められても、再開してもいいと言われても、本当は最後まで歩きとおして家に帰りたかった悔しさがあった。
「お前の姉たちに比べたら立派な旅だぞ。やれ靴ずれしただの、蚊に刺されただの、風呂に入れないのが嫌だのと言ってとっとと帰ってきたのだから」
「へっ!?」
姉たちの情けなさより、そんなに簡単に帰ってきていい旅だったのか、というところに菜々は驚いた。
「やっぱり、お前かな」
何がお前なのか、を聞いて菜々はまた仰天する事になる。
その後、菜々の苗字が有馬に変わり、リリアンに通う事になったが、祐巳さんと再会するのは3年後である。