【No:2941】【No:2962】【No:2973】から続いてます。
相当長いです。注意してください。
☆
八月の祥子
1
夏休みも後半に差し掛かった。
例年通り、山百合会の面々は休み返上で登校し始めている。
じめじめした暑さに負けそうになったり、肌を焦がす殺人光線のような陽射しに意思が折れそうになったり、「そもそも夏休みなんて暑くて勉強どころじゃないから休みになってるんじゃないのこれじゃ本末転倒じゃない」なんて愚痴の一つもこぼしたくなるほどの理不尽さを垣間見たり。もちろん、授業はないから勉強はしないじゃない、なんて正論は求めていない。
とにかく。
山百合会と一部の生徒だけは、ある意味もう新学期が始まっている、と言っても差し支えのない状況にあった。
「暑い」
「暑いねー」
お姉さま方が潰れていた。
「ふー…………あっつい」
「いいから早くやりなさい」と、最後まで仲間を率い抵抗を見せていた紅薔薇さまも、今し方熱く深い溜息とともに陥落。
テーブルに伏せるお三方は、普段の威厳もオーラもさっぱり消え失せ、ただただ暑さに負けてぐったりとしていた。その姿は今時のかったるそうな女子高生でしかない。
そして支倉令は、そっと立ち上がり、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出すのだった。朝から仕込んでいただけに、多少は冷えている。氷はすでに使い切っているので仕方ない。
「あと二時間ですから。がんばりましょう」
薔薇さまと呼ばれ、リリアン生たちの憧れである方々のこんなにだらしない姿なんて、未だかつて見たことがなかった。
まあ、気持ちはわかるけれど。
この時期だし毎日暑いし愚痴を言っても始まらないが、今日は特に暑かった。からっと晴れていればまだいいが、あいにくの曇り空だ。湿度が異様に高くジメジメムシムシと地味に室内を蒸し上げ、吹き込む風もなかった。いっそ雨でも降ってくれた方が涼しくなりそうな気もするが、降りそうなのにまだ降らない。
今日は暑い。
令だって鍛えた忍耐強さのおかげで我慢できるだけであって、暑いことに代わりはない。
カップを寄せてくれる気力も尽きたお姉さま方の席をわざわざ回り、献身的にこぽこぽと麦茶を注いでいく令。そして注がれる端から飲み干していくお姉さま方。飢えや渇きはプライドを凌駕していた。余裕で。
「……今日、もう解散しない?」
一際暑さに弱そうな白薔薇さまこと、佐藤聖さまが虫の息で喘いだ。一週間で生涯を終えるセミにさえ負けそうな生命力しか伺えない。
「……ねーようこー。おでこさわらせてあげるからー。きょうはもうやめようよー」
家庭環境の影響からか妙に甘えた声が上手な黄薔薇さま、令のお姉さまである鳥居江利子さまが舌足らずな子供のように可愛らしく囁く。だが声の主はぬぼーっとテーブルに伏しているので、見ている方にしてみれば、甘えているというよりはからかっている印象が強かった。
「……そうしましょうか」
「「ほんと!?」」
今の紅薔薇さまから元気はちきれんばかりのお叱りの言葉が出るとは思わなかったが、反論すら出なかったことに、白薔薇さまもお姉さまも驚き身を起こした。
態度はだらけていても芯までだらけているとは思っていなかったので、令も驚いた。
「こう暑いと仕事にならないわ。効率が悪すぎるだけだもの」
ゆっくり上半身を起こす紅薔薇さまは、麦茶のボトルを持ってその辺に立っていた令をチラリと見た。
「それに――」
バタン ドドドドドド しーん
「…………」
「…………」
白薔薇さまとお姉さまは、速攻で逃げた。恥も外聞もなく、淑女らしさすらも投げ捨てて逃げた。きっと紅薔薇さまが「なんて言えればいいけれど、そういうわけにもいかないでしょう」なんて続ける前に、冗談を真実にしてしまおうと考えたのだろう。
それにしても、なんて見事なスタートダッシュ。席を立ちドアへ向かうまでの速やかなる隠密性、そしてドアを閉めたところから最速の走りで距離を稼ぐと同時に、乱暴な足音で“静止の声を聞き取れなかったことにする”という細工まで施す徹底ぶり。もはや確認なんて無意味なことはしないが、きっとお姉さまと白薔薇さまはもう煙のように消えているだろう。正規の帰り道=最短ルート、などという追跡可能な帰路など選んでいようはずがないからだ。
高度な技術を違わずこなす身体能力と、それに伴う瞬間的思考。わずか数秒足らずでここまでの策を弄するとは見事と言わざるを得ないが、どう考えてもここで使用するには無駄に高度すぎると思われる。
「……逃げましたね、あの二人」
ポツリ残された令は、そう呟くしかなかった。
「別にいいわよ。ふー」
同じくポツリ残された紅薔薇さまは暑そうな息を吐きながら、落ち着いたものだった。どうやら「帰ろう」に同意したのは冗談ではなかったようだ。
「こう暑いと仕事にならないもの。いっそ今日は最初から中止にすればよかったわね。祥子も休んだのだし」
そうだった。今日は紅薔薇のつぼみ・小笠原祥子が、家の事情でやってこなかった。むろん前から聞いていたので令も了承済みだ。
ただ。
「すみません」
「ん?」
「由乃のことです」
「ああ……体調を崩したのならしょうがないじゃない」
令の妹である島津由乃は、とかく山百合会の出席率が悪かった。本人も気にしているものの、だからこそあえて誰も、本人も口にしない暗黙のルールのようなものが出来つつあった。
ここ最近の夏休み返上の登校は、更に出席率が悪い。
「それより」
紅薔薇さまが手招きした。令は意思を汲み取って麦茶のお代わりを注ぐ。なんだか座るきっかけがなくて立ったままだ。
「ありがとう。――仮に由乃ちゃんが出てきたとしても、人手不足は否めないわね」
そうかも、と令は思った。
休みを返上してまで集まるのは、学園祭で山百合会の出し物について色々決めなければならないからだ。
山百合会は劇をやる。
九月は体育祭だの修学旅行だのでバタバタするし、花寺学院の学園祭もある。次いで学園祭の出し物以外の仕事もあるし、今の内にある程度準備を進めておかないと余裕がないのだ。
「去年の今頃は、もう私も祥子もいましたからね」
先代三薔薇、つぼみ時代の蓉子さま聖さまお姉さま、そして令と祥子。去年の今頃は八人もいたのに、今年はかなり厳しいことになっている。
出欠が不確定なので由乃は除くのが妥当だし、祥子の妹問題は相変わらず解決の糸口もないまま、ようやく先月の傷が癒えてきたくらいの進展度。
指折り数えてみると、現在まともに参加できるのは五人しかいない。
「志摩子はどうするんでしょう?」
致命的な人手不足。当然のように、表向きは応急処置のように確保していた山百合会のお手伝い・藤堂志摩子のことも、話題に上がっている。
「白薔薇さま次第」
と、紅薔薇さまは手招きした。令は麦茶のお代わりを注いだ。
志摩子の劇参加要請は、今のところ保留になっている。白薔薇さまが良い顔をしないからだ。今度こっそり応援要請を出したら、本気で白薔薇さまが何をするかわからない。山百合会の手伝いの段でも揉めたのだから、二度も話を通さず物事を進めるのは避けるべきだろう。
「たとえ白薔薇さまがOKを出したとしても、本人が拒否することも考慮するべきよね。何よりそこまでやらせるのは私も抵抗がある」
「そこまで、と仰いますと」
「いつまでもお手伝いとして置いておくわけにはいかない、ってことよ。このまま中途半端に拘束するのも彼女のためにならないわ」
仮に志摩子が山百合会に留まる意思があるならまた話も違うけれど、と紅薔薇さまは麦茶を飲み干す。
令も同意見だった。
志摩子はあくまでも手伝いに徹している。それは山百合会に入りたがっていたり留まりたいと願っていたりはしない、という意思表示にも思える。付き合う時間で育てた情の分だけ別れを惜しんでくれるとは思うが、それは離れ難いという執着心であって、ここに留まりたいという願望ではない。
本人が望むなら話は別だ。だが離れ難いだけで残られるのは、ちょっと違う気がする。似ているようでそれらはきっと違う。
紅薔薇さまからすれば、志摩子を白薔薇さまの側に置くことで何らかの反応、または新たな関係の発展を期待したのだろう。しかし今のところ空振りで、これまで空振りだった以上、今後もあまり期待できそうにない。だからこそ、これ以上の拘束は厳しいものがある。
「できることなら、志摩子への助っ人要請はしない方がいいと思うけれど。でも今の状況を考えると、せざるを得ないかしらね」
悩みの種が自分の妹関係にも根付いている辺りが、紅薔薇さまの頭を重くしているのだろう。
「……ふー」
ほら、不機嫌な溜息をおつきに。
「暑いし、江利子も聖も劇なんて関係ないし興味ないって顔してるし、暑いし、飲んでも飲んでも喉が渇くし、祥子は妹候補すら捕まえられないし、暑いし、今日は特に暑いし、祥子はふがいないし、暑いし、イライラするし……セミは早朝からうるさいし……地球温暖化は進むし、でもクーラー切ったら暑いし……とにかく暑いし……クーラー切ったら眠れないし……入れっぱなしで寝たら風邪ひきかけたし……暑いし……お風呂上がってすぐまた汗かくし……」
ぼやき出した。暑さのせいか、それともその他の不満も含めてか、まるで生気を感じさせない濁った目をして、紅薔薇さまの内に秘めし心の闇がじわっと溢れ出てきた。
ここは一つ話を変えようと、令は思考を巡らせる。というかこうなってしまうとさっさと二人して帰ればいいのだが、なんとなく帰りそびれた。座りそびれて帰りそびれていた。
「ところで、劇の題目は決まったんですか?」
「……え? 何?」
ぶつぶつぼやいていたせいで聞き逃したらしい。令はもう一度同じ質問を繰り返した。
「劇? ああ、それならとっくに決まっているけれど」
「え?」
とっくに決まっているけれど?
「……でも聞いていませんが」
「話してないからね。でも私達三年ではもう決定しているわ。祥子にはまだ秘密なだけ」
ちょっと衝撃の事実だった。僭越ながら、令もなんの劇がいいかと密かに考えていただけに。まだ決まっていないと思っていただけに。
「祥子には、って、祥子にだけ秘密なんですか?」
「そう。なんならあなたには教えてもいいわよ? どうせ今月末には発表しちゃうしね」
「……今まさに外堀を埋めている、って感じですか?」
紅薔薇さまは、両肘をついて手を組み、口元を隠した――恐らく笑っている。
「退路を塞いでいる、の方がストレートで好き」
「なるほど」
令は納得した。今年の主役は小笠原祥子のようだ。
「で、何をやるんですか?」
「シンデレラ」
令は納得した。それはもう、祥子以外ありえない。そしてタイトルを口にしただけで祥子もきっと警戒するし、抵抗もするだろう。二年生主体で題が「シンデレラ」では、どう比べようとも令より祥子の方が適任だ。百人に聞いて百人ともそう答えるに違いない。
「去年の劇も、かなり嫌がってましたからね」
去年の学園祭では、祥子は何度か練習をサボッていた。口には出さなかったものの、態度を見れば何かに強い不満を抱いていたことくらいはわかった。
「そうなのよね。なんなのかしら。目立つのが嫌とか、劇が嫌だとか、劇の内容が嫌だとか、そういう理由ではないみたいだったけれど」
「今年もあんな感じになるんでしょうか?」
「ならないわね」
「というと?」
「私のお姉さまがご卒業されたから」
令は苦笑した。ものすごく、ものすごーく、先代紅薔薇さまは孫にあたる祥子を可愛がっていた。祥子が嫌がることを率先して庇い、守り、甘やかしていたのは令もよく憶えている。そのたびに紅薔薇さまが不機嫌になっていたのも憶えている。
「今年は逃がさないわよ」
紅薔薇さまの瞳がギラリと輝く。令は平和の尊さに想いを馳せた。
「帰りましょうか」と紅薔薇さまが立ち上がり、令も麦茶を冷蔵庫にしまい帰り支度を始めた。
薔薇の館を出て、昨日のテレビがどうとか夏休み読んだ本がどうとか最近ブルー系がちょっと……などという他愛ない話をしながら、紅薔薇さまと肩を並べて歩く。そういえば紅薔薇さまと二人きりで帰るなんて相当珍しいな、と令は思った。
「それにしても半端な時間になったわね。本当に今日は中止にすればよかったわ」
午前中に集まって、お昼には解散。より暑さがジメっと激しくなる午後はフリーになっている。だが今日はさっさと終了してしまったので、帰ってもまだ昼前だろう。
「制服だとあまり寄り道もできませんからね」
たとえばこのまま喫茶店で涼むだとか、気の向くままふらふらウィンドウショッピングに楽しむだとか。夏休みなので厳密に言えば寄り道や道草ではないのだが、制服姿では体裁が悪い。せいぜい寄れるのは本屋くらいではなかろうか。
せっかくの夏休みなのに、休日返上で登校した挙句に大した仕事もせず無駄に家と学校とを往復するだけでしかも暑い、では、確かにぼやきたくもなる――家が近い令はあまり気にならないが。
「それより何より制服が暑いわ……いえ、暑いというより、見た目でも着た感想でも、なんだか重いわ……」
「それは言わない約束です」
温厚な令にしてはいつになく毅然とした口調で、紅薔薇さまの呟きを斬り捨てた。「何よー暑いのよー文句あるのー先輩よー」と酔っ払いのように絡んでくる紅薔薇さまを「はいはい」と軽くあしらう。
紅薔薇さまは、暑さのせいでちょっと変になってしまったようだ。
銀杏並木の真っ只中で、空を見上げる。青空には程遠い、重圧を感じる雲の層しか見えない。
おまけに風も吹かないし、空気の動きも微々たるもの。着慣れている制服ごと身体にまとわりつくような蒸し暑さ。涼というものの一切を感じられない。
変になるのもちょっとわかる気がした。
「今日みたいな日は、運動部は地獄ね」
休み返上で登校しているのは山百合会幹部だけではない。
コートで汗だくのテニス部、グラウンドを駆ける汗だくの陸上部、蒸し風呂状態の体育館でダムダム汗だくだろうバスケ部にバレー部……想像するだけで暑くなる。確かに地獄だ。
「剣道部はないの?」
「午前中しかやらないので、私だけ休ませてもらっています。代わりに自宅で汗を流す予定なので」
妹欠席の穴を埋めるためにも、令は今は山百合会を休む選択肢はないと思っている。由乃のことがなくても人手不足なのだから。
「文化部はいいわね。休み返上もなくて」
「そうですね」
とは言え、出てきている部もあるとは思うが。
「……あ」
紅薔薇さまの足がピタリと止まった。令もつられて足を止める。
「どうかしました?」
「トイレ」
そりゃそうだ。あれだけ麦茶を飲めばトイレも近くなるだろう。
「いい? 待っていなさいよ?」
「え?」
「暑さで仕事も中止になって結局何をしに来たのかわからない挙句に友達はおろか後輩にまで置いて行かれて一人で帰るなんて寂しい状況になったら、泣いてやるんだから」
紅薔薇さまは、精彩を欠く死んだ瞳で「ほら」と令に鞄を押し付け、校舎へ向かっていった。
本格的に暑さでおかしくなっているようだ。しかもちょっと気持ちがわかるところが、なんだか放っておけない気持ちを無駄に煽り立てるのだ。
置いて行った友達なら面白がって放置しそうだが、後輩は大人しくそのまま待つことにした。家が近いのでこの程度なら目くじらを立てる必要もない。帰ったところで急ぎの予定もないし、本気で泣かれても困る。
10分経たずして紅薔薇さまは戻ってきた。前髪が少し濡れているのは、きっと顔を洗ったからだろう。幾分精気が見て取れるようになっていた。
「暑いわ」
「開口一番それですか」
きっとトイレの個室も相当暑かったのだろう。
「暑いから考えたわ」
「はあ」
表情はスッキリしているが、しかし目が死んでいる。もはや正常とは思えないほど虚ろで、令を見る視線もどこか焦点がズレているような気がする。
大丈夫かと本気で心配になってきた時、紅薔薇さまは地味〜に気になる言葉を口にした。
「カキ氷パーティってどう思う?」
「は…?」
令は思わず首を傾げた。
「カキ氷、パーティ?」
2
祥子は震えた。
決してカキ氷があまりにも冷たくて身震いしたわけではない。
「――小学部の時、『将来の夢』って作文だかなんだか書きませんでした? 当時の私は特に何もなかったので、友達の作文を真似して『お嫁さん』って書いたんですけど。
でも色々と考えて書いていると、不思議なもので、それが本当に自分の夢のようなものに感じられてきて……まあ、こうだったらいいな、っていう願望むきだしな作文になっちゃったんですよね。
お父さんみたいな優しい人がいい、なんて書いてあるところに頭の中で注意書きを加えて。ただしイケメンに限る、とか。年収一億円以上の人に限る、とか。
でも、私、今ならきっとこう書きました――『とりあえず人並みに胸のある女』と……」
祥子は今一度震えた。
とんでもない一年生を見つけてしまった、と。
――話は先週まで遡る。
七月の半ばから終わり頃に激しく落ち込み、現実逃避してみたり。
八月の頭頃に「このままではいけない」と無理やり立ち上がり。
八月の中旬に、色々と考えてまた軽く落ち込み。
そして八月下旬。
小笠原祥子は一種の悟りの境地に辿り着いていた。
仕事も一段落しあとは帰るだけ、という段になって。
「実はね」
何気ない顔をしているお姉さまの言葉に、祥子は驚いていた。
いきなり何を言い出した、と。
しかし聞き違いというわけでもなさそうで、白薔薇さまも黄薔薇さまも軽く驚いているようだ。
例外は、話を進めるお姉さまと、親友の支倉令くらいだ。
「何その“カキ氷パーティ”って」
黄薔薇さまが、ちょっとだけ興味を示した。まあ聞くからに涼しげなのだから、こう暑いと気になるネーミングではあると思う。
「聞いての通り、そのまんまの意味よ」
ということは、みんなでカキ氷を囲んで涼を取る、という認識でいいのだろうか。そう考えるとパーティと言うには少々大袈裟な気もするが――
「ただし」
やはりそれだけに止まらないようだ。
「クラブで登校してきている生徒達にも声を掛けてやってみないか、っていう話」
「へえ」
「発想が貧困な紅薔薇さまにしては面白そうな企画ね」と黄薔薇さまは瞳とおでこを輝かせ乗り気の意を見せる。そして紅薔薇さまはそのイヤミに「おでこが油でテカッてるわよ」と面倒そうな半眼で応えた。確かに、黄薔薇さまの額はうっすら浮かぶ汗のせいで、いつも以上に眩しく見えた。
「何人くらい集まるかわからないけれど、最低でも五十人はいるんじゃない? そこまで大規模になっちゃうと、かなりキツイと思うよ。用意する氷も資金面的にもね」
白薔薇さまは、どうでもいいって感じで現実的な問題に触れた。
「資金はシロップ代だけでしょ? 氷はこっちで……というか家庭科室の冷凍庫で用意する。あそこならお皿もスプーンもあるしね。シロップは各部持参。これで資金面はクリアよ。かち割りだの天然水の氷だのなんて贅沢は言わないから、煮立てた水道水で問題ないでしょう。あとはそれらの準備の手間だけ」
自分達でわざわざシロップを用意してまで参加したいならどうぞ、ということか。いったいどれくらいの人数が集まるのだろう。
「黄薔薇さまも白薔薇さまも、乗り気じゃないならいいわ。令はもう賛同してくれているから、あなた達が参加してくれなくても私と令だけで回すつもりよ」
一足先にお姉さまの計画を聞いていたらしき令は、集まる視線に軽くうなずいた。
「もしもの時は剣道部から何人か手伝いを探してきますから、お姉さま方は無理に参加していただかなくても」
「あら。紅薔薇さまが企画を立てた上に学校でやる以上、一応は山百合会主催の校内イベントになるわけでしょう? そうなると妹が参加するのに姉が参加しないわけにはいかないわ」
建前はそれでも、黄薔薇さまはやる気まんまんのようだ。今年はカキ氷まだだし、と、それはもう嬉しそうだ。
そして、黄薔薇姉妹の言い分をそのまま捉えるのならば、祥子も手伝わずにはいられないわけだ。こっちは向こうとは逆で、姉が参加する。こっちこそ姉が参加するのに妹が参加しないわけにはいかない。
まあ、断る理由は特にないが。涼しげで楽しそうだ。祥子も暑いのだ。首筋に汗で張り付く後ろ髪も鬱陶しいのだ。
「祥子はどうする?」
「お姉さまが参加するなら」
答えなど聞かずともわかっているだろうに、お姉さまはあえて聞き、祥子はあえて答えた。いわゆるお約束だ。
「これで四人ね。白薔薇さまはパス?」
「面倒ね」
「そう。――ああ、参加しないなら関係ないけれど、念のために耳に入れておくわね」
「何?」
「志摩子にも一応声を掛けてみようと思っているの」
その名前が出た途端、比較的無愛想だが穏やかだった白薔薇さまの目が、鋭く細められた。
「なぜ?」
「それは『なぜ参加しない自分に言うのか?』と聞きたいの? それとも『なぜ志摩子を誘うのか?』と聞きたいの?」
「どっちもよ」
「前者は『お手伝いに誘った時はあなたに断らなかったから』。また怒られるのも嫌だしね。後者は『きっと志摩子が退屈しているだろうから』。あまり友達もいないみたいだし、あの性格でしょう? せっかくの夏休みなのに友達と遊ぶこともなかった、なんてちょっと寂しいじゃない。退屈だったら来るでしょうし、そうじゃなければ断るでしょうし。普通に誘うだけよ」
「……あっそう」
お姉さまの言い分に納得したのか、白薔薇さまは不機嫌そうに顔を逸らした。
「あなたも気が向いたら参加して。紅と黄まで揃ったら、白も欲しいわ」
いやともいいとも。白薔薇さまは何も答えなかった。
「いつ聞いたの?」
「昨日の帰り」
祥子と令は並んで歩いていた。
企画が立ち上がった以上、早速やるべきことが発生する。といっても今回は、準備よりも当日の方が大変そうだが。
「必要なものが少ないから現実的だったし、こう暑いとカキ氷も食べたいしね。だから私は賛成したんだけれど」
会場はこのリリアン女学園の家庭科室。
今お姉さまと黄薔薇さまが、当日の家庭科室使用許可を貰いに職員室へ向かっている。
まさかの家庭科室使用予定に対するダブルブッキングの可能性もなくはないから、まだ日取りは未定扱いである。――まあ、ダブルブッキングの心配よりは、監督兼引率の教師が必要になる可能性の方が高いか。休みの日の特別教室使用は職員室の都合も関係してくるのだ。
一人参加が怪しい白薔薇さまは、先に帰ってしまった。
「運よくうちにカキ氷マッスィーンもあるしね。型古いけど」
「マ、マッスィーン……?」
「それに、祥子」
「マッ……え、何?」
令はまっすぐに祥子を見る。
「紅薔薇さまの気持ち、ちゃんとわかっている?」
「気持ち?」
「形としては“パーティ”なんて陽気なことになっているけれど、紅薔薇さまの本音では“妹に出会いの場を設けた”ってところだと思うよ」
祥子は息を飲んだ。
出会いなど皆無に等しい夏休み中にあって、一年生と出会う方法として、わざわざお姉さまが考えた企画。
言われてみると、そう考えた方が納得できた。ただ暑いから、ただ気晴らしに騒ぎたいから、なんて、あのお姉さまからすればあまりないと思う。それよりは仲間内でどこか涼しいところに遊びに行った方がよっぽど避暑にも気晴らしにもなる。
だから、祥子のためにこんな企画を立ち上げた、と。
きっと祥子の意思を汲み取って、妹問題には具体的な口出しなどしないと決めているだろうお姉さまが、「祥子のために企画したのよ」とは絶対に言わないはず。……が、無言で見守り続けるのはそろそろ我慢の限界なのだろう。
未だ進展のない、ふがいない妹としては、言葉も出ない。
「薔薇さまもつぼみも一同に会してカキ氷食べようって話よ? 一般生徒と触れ合いまくりじゃない」
「そう……そうね。いわゆるチャンスよね」
呟く祥子はローテンションだった。
確かにお姉さまの気持ちは嬉しい。その意思を読み取って念を押す、心配させている令にも済まない気持ちがある。何より、もっともらしい理由を付けてまで、仲間を巻き込むことも辞さないお姉さまの気遣いっぷりには目から鱗が落ちそうだ。
だが、祥子はもう――
「なるようになると思うの」
「え?」
「なるようになる。縁があったらカキ氷パーティで出会うだろうし、出会えなかったとしてもなるようになるわ」
「それって」
厳しい顔になる令。祥子は何を考えたのかすぐにわかった。
「妹を作るの、諦めたってこと?」
即座に首を振る。横に。
「じゃあ、どういうこと?」
「だから、なるようになるのよ」
もう焦ったりしない。
慣れない策に走らない。
自分らしくない自分が作った人間関係なんて、長続きするとも思えない。もちろん妹候補ができれば、その子にロザリオを受け取らせるだけの努力は惜しまない。けれどそれも自分らしくやるだけ。
相手の気持ちも大事だが、自分の気持ちだって大事にしないと、どちらかが我慢し続けるような関係になってしまいそうだ。
「その時がくればどうにかするわ」
「……余裕があるのはいいけれど、そんなこと言っている場合?」
場合じゃないことは、令より祥子の方がよくわかっている。
花寺学院の学園祭へのカウントダウンは、とっくに始まっている。焦らないはずがない。余裕なんてあるはずがない。更にその先にはリリアンの学園祭が控え、きっと、いや、必ず花寺の生徒会長が手伝いにやってくるのだ。
彼とは会いたくない。絶対に。
男嫌いを打ち明けるのも嫌だが、それより何より彼との再会は絶対に避けたい。
だが、心の底の方で、もう諦めの念が芽吹き成長している。理想論だけでうまくいくなら、今うまくいっていないことがすでにおかしいのだから。
現実とは、時々残酷なまでに思い通りに行かない。そんなことは小学校くらいで十分学べる。
それに、思う。
みっともなく足掻くのは、逃げるのと同じくらい嫌だ、と。何よりお姉さまに恥を掻かせたくない。
「焦ったって仕方ないじゃない。なんならあなたの意に添うように、必死になって見境なく一年生を見るなりロザリオを差し出しまくりましょうか? 私、今ならできるわよ?」
「……わかった。落ち着いていこう」
令は察したかもしれない。
本当は余裕なんてないんだな、と。
結構崖っぷちにいるんだな、と。
ささやかな風で押されても一線を越えてしまうんだな、と。
「まあ、そう悲観することもないんじゃないかな?」
なんだか声のトーンがちょこっとだけ高くなった気がする。
「ほら、今回はさ、私や紅薔薇さまが側にいるわけだし。あまり当てにできないけれど私のお姉さまも参加するし。周りに味方がいれば、もしもの時にサポートできるじゃない?」
「もしもの時にサポート?」
「いらないなんて言わないでよ」
「いらないけれど、どうせ言ったってやるんでしょう?」
祥子は「仕方ないからやれば?」みたいな態度で肩をすくめた。
しかし本音では「全力でサポートしなさい。私、この夏休みはもう無理だと思っていたけれど、この企画に懸けるわ」と、それはもう全身全霊で期待しまくっていた。
予想だにしなかったチャンス到来である。
――これはちょっとがんばらねばなるまい!
紅色のオーラが立ち上りそうなほどの気合が、代わりに汗となって全身まんべんなく噴き出し始めた頃、二人はクラブハウスに到着した。
「で、どうするの?」
「部長だけ呼び出して企画概要を説明して、各部部長から部員に通達。ただし参加人数が未定だから部員以外には絶対に漏らさないこと、を厳守。一般生徒まで押し寄せたら確実に氷が足りなくなるから」
「そうね」
「要点は、部員以外に話さないこと。今週末にやること。シロップは各クラブで用意すること。会場は家庭科室でやること。この四つを伝えてね」
今週末。そうだ、今週で夏休みは終わりなのだ。
ついに怒涛の二学期が始まってしまう。
去年は先代紅薔薇さまのおかげで学園祭関係はなんとか乗り切ったが、今年はそうもいかないだろう。
もしかしたら、時間的にも時期的にも、これが本当にラストチャンスなのかもしれない。
「じゃ、ここは祥子に任せるね」
「ええ」
入り口で令と別れ、祥子はクラブハウスに踏み込んだ。令はあのまま外で活動をしている運動部を周って呼び掛けるのだ。この暑いのに外回りなんてご苦労なことだ。
まあ、こちらも大差ないが。
「さて」
静まり返ったこのクラブハウスに、いったいどれだけのクラブが出てきていることやら。
力のこもった瞳で前を見据え、祥子は手始めのドアをノックした。
3
「意外と少ないわね」
昨日はそのまま現地解散となっていたので、翌日の集いで報告を交し合う。企画担当者
になっている紅薔薇さまは、寄せられた情報にそう返した。
ミスプリントの裏を活用しているメモに、さらさらとペンを走らせる。
「えー、お菓子作り同好会、バレー部、漫研、落研……と。こんなところ?」
令と祥子はチラリと視線を合わせ、祥子から先に口を開いた。
「急な話なので正式な返事はもらっていませんが、予定日とシロップ持参は伝えてきました」
「こちらも正式な返事はまだです。運動部は、さすがに二学期が始まる直前の二日は、疲れが残らないよう自粛するそうです。例外のバレー部は、顧問の都合で予定がズレたとかで出てくるらしいですが、これも自由参加というくらいゆるい招集だそうで」
ふうん、と紅薔薇さまはお姉さまに向かって「各部何名って覚えている?」と尋ね、お姉さまは「そこまでは把握してないわ」とつまらなそうに首に引っ付いた髪を払う。
「だいたい三十名くらいだと思うけど?」
「そんなものかしらね。確かバレー部が多かったわよね?」
「まあでも、部員全員が出てくるとは思えないし、少なくはなっても多くはならないでしょう」
「そうね、三十くらいを想定しておくわ。……ところで落研はなぜ登校しているの?」
紅薔薇さまの視線がクラブハウスを回った祥子に向けられるものの、祥子は「さあ?」とそっけなく紅茶を口に運ぶ。出てきている理由も、実は主な活動内容すらもあまり知られていない、ちょっと謎の部である。何より女子校にあるには渋い部だ。
「それより、お菓子作り同好会とお会いに?」
クラブハウスで会えなかったので、祥子はそれが気になるようだ。なんでも昨日職員室へ向かったお姉さまと紅薔薇さまが、お菓子作り同好会への連絡を行ったらしいのだが。
「会えたのは顧問によ。ちょうど来ていてね。家庭科室使用許可の申請がてら企画を話したら部員に声を掛けてくれるって。もし参加するなら、許可申請も氷の準備も向こうでしてくれるって話になったから、参加してくれるとありがたいわね」
となると、だ。
「あとはシロップとカキ氷マッスィーンを用意するだけですね」
「……マ、マッスィーン?」
「私達は一応企画サイドになるので、全員使い方を知っていた方がいいと思います。明日持ってきますね」
「マ……え、ええ、そうね。お願いね、令」
うなずく紅薔薇さまは、なぜかちょっと戸惑っていた。
「それで、志摩子はどうなりました?」
大元のお手伝いに誘ったのが紅薔薇さまなので、紅薔薇さまが志摩子への連絡をすると言っていた。令は「同級生である由乃から連絡させた方がいいのでは」と提案したが、結局そういうことになってしまった。
「家の用事で出られないかもしれないから、許されるなら前日まで返事を待ってくれ、ですって」
返事保留ということになったようだ。そして紅薔薇さまの隣でつまらなそうな顔をしている白薔薇さまの反応は、特になかった。
「……何よ」
何気なく全員の視線を集めてしまった白薔薇さまは、居心地悪そうに呟いた。
とりあえず必要な話も終わったので、話題はカキ氷パーティからカキ氷そのものへと移行した。
一般的に知られるイチゴ、メロン、ブルーハワイ、レモン等のシロップ各種。シンプルなみぞれに、ちょっと豪華な宇治金時も有名だ。
変わったものでは、台湾ではあたりまえらしい黒蜜、とある県で楽しまれているという酢醤油、缶詰などのフルーツをトッピングし練乳をかける九州発祥のシロクマ。
あわせ技でレインボーなどという数種類のシロップをかけた派手なものもある。
「何もかけないのを白雪っていうらしいわ」
「何もかけない? え? それは氷だけってこと?」
お姉さまのびっくり発言に、紅薔薇さまは不可解な顔で聞き返していた。氷だけのものなんて、紅薔薇さまにとってはカキ氷としての存在意義に関わるような発想だったのかもしれない。それはただの削った氷じゃないのか、と。
話していると食べたくなるから、と言う少々ご不快そうな祥子のもっともな発言を受け、令達は帰り支度を始めた。
そして翌日。
朝からそわそわしていた乙女達は、ようやく水を得た魚のように生き生きと動き始めていた。
「持って来ました」
「こっちも持ってきた」
「抜かりなしよ」
令が某有名デパートの大きな紙袋をドンとテーブルに置いたら、お姉さまと紅薔薇さまは揃って親指で冷蔵庫を差す。
紙袋の中は、もちろんカキ氷マシーン。そしてお姉さまと紅薔薇さまが持ってきた物は、もちろんシロップだ。
こういう状況で、かつ、こう暑いとなると仕事を少々……いや、結構……いやいや、だいぶ……いや、どう考えても仕事そっちのけ状態になってしまうのも無理はない。最低限の仕事はこなした上で、今日はもう仕事終了である。
ここからは、パーティ企画の準備時間に入る。あくまでも準備、あくまでも企画のための時間である。決して本人達の楽しみなどではないのである。
「私はマッスィーンのチェックをします。家でもやってきましたけどね」
令の言葉に合わせ、いそいそと冷蔵庫へ向かう薔薇さま二人。その姿にはプライドも威厳もなく、ただただ甘い物の誘惑に乗りまくる普通の女子高生でしかなかった――いや、きっと祥子に一年生との出会いを提供するべく必死になりすぎているだけなのだ。企画を必ず成功させるために気がはやっているだけに違いない。なんと妹想いなお姉さまだろう。
そんな姉心を理解できない残念な祥子は、少しばかり呆れた顔で二人を見送って、
「令」
紙袋からマシーンを取り出し、外していたパーツを組み立て、ハンドルをキコキコ回して起動チェックをする令を見上げた。
「あずきの缶詰を持ってきたのだけれど、開けて」
「自分で開けてよ」
「やったことないもの」
ほら、と、手提げから取り出されたのは、なんの変哲もないその辺で売っているあずきの缶詰と、専用ケースから出された高価そうで重厚、無骨な作りでありながら幾つもの使用方法を持つ銀一色の万能缶切り。恐らくアウトドア用だろう。
「それくらいは自分でやりなさい。お姉さまになるんでしょう?」
令としては痛いところを突いたつもりだったが、祥子は平然としていた。
「これくらいのことなら妹にやらせるわ」
なんということだ。妹なんて候補すらできていないくせに、姉としての風格と威厳だけはすでにあるというのか。未だ実用の目処もないのに無駄なスキルだけ身に付けて。
さてどうしようかと考えていると、横からニュッと伸びてきた手が、問題の缶詰と缶切りを奪い去っていった。
「他に何持ってきたの?」
なんと。白薔薇さまだった。
「返してください。令にやらせますから」
「いやいやいや。自分でやろうよ」
さすがの祥子も先輩にやらせるわけにはいかないと慌てるものの、令のツッコミもろとも白薔薇さまは無視して缶切りを使い出す。
「私は何も持ってこなかったから。手伝いくらいさせてよ」
代わりに食わせろ、と。働くからカキ氷よこせ、と。
参加もしない、シロップなどの物も持ち寄らなかったので、労働という至極わかりやすいもので対価を払おうとしているのだ。
むろん、そんなことしなくても自然と「食べますか」と聞いたはずだが、「お言葉に甘える」のが嫌なのだろう。
それがわかった祥子は、もう返せとは言わなかった。
「あとは練乳を。シロップ類はどこで買えばいいのかわからなくて」
聞けば、缶詰も練乳も今朝コンビニで買ってきたらしい。
「でも、別に持ってくるよう打ち合わせしたわけではないんですけどね」
令が言うと、白薔薇さまは「そうなの?」と言いながら、缶詰の蓋を開いた。仕事が早い。
「マッスィーンチェックだけ予定してました」
「マ……あ、そう。じゃあシロップだの練乳だの持ってきたのは、予定外だったわけだ」
「予定外でも、予想範囲内でしょ?」
紅薔薇さまがやってきた。両手にあるのは、普段は使わないお皿と、キューブ型……家庭でよく見られる一般的な製氷機に入ったままの氷。お皿は祥子が、製氷機は令が受け取る。ちなみにお姉さまは流しで砂糖水を作っているようだ。
底に刃のある受け皿の上で、グリッと捻ってガラガラと氷を落とす。あとはハンドルを回して氷を削るだけだ。
「示し合わせたわけでもないのに、私も黄薔薇さまも祥子も持ってきたんだから。いわば総意の結果よね」
「まあ、ね」
いつもなら憎まれ口でも返しそうなものだが、白薔薇さまは素直に笑った。
「こう暑いと氷でもないとやってられないよね」
それはとても同感だった。
「よし。みぞれの準備もOKよ」
そう振り返ったお姉さまの額は、今日も光っていた。汗でいつもより。
4
お姉さまの説得は、穏やかな笑顔で拒否された。
「あなた本当に来ないの?」
「うん」
「ちょっとだけでも顔を出してみない?」
「ここ数日食べ放題だったし、もういいや」
白薔薇さまは軽快な足取りでドアへ向かい、今し方やってきた藤堂志摩子の肩をポンと叩き、
「私の分まで楽しんできてね」
「あ、はい……」
そう言い残し、白薔薇さまは会議室を後にした。
消えた背中と軋む足音を目で追っていた志摩子は、どちらも追えなくなると、同じように見えないものを見ていたお姉さまに言った。
「あの、白薔薇さまは」
言いよどんで、ちょっとだけ困ったように首を捻る。その先の言葉に妥当なものが見付からないのだろう。
もしかしたら、お姉さまも今の志摩子と同じような心境だったのかもしれない。
「別にあなたが来たから帰ったわけじゃないわよ」
そう、志摩子が問いたかったのは「私はお邪魔でしたか?」だろう。何やら熱心にお姉さまと話していたかと思えば、志摩子が来たとたん、白薔薇さまは話を切り上げて帰ってしまったのだから。しかし志摩子からしてみれば、誘われたから来たのであって、決して予定外に押しかけてきたわけではない。
来ることをちゃんと伝えてあったから、もしやの予想に戸惑ったのだ。
「白薔薇さまは元々乗り気じゃなかったし、ここのところ毎日カキ氷ばかり食べていたから。飽きたんでしょう」
人見知りするタイプだから知らない人も集まるパーティなんて元より参加したくもないだろうし、連日食べていたことでカキ氷への未練もなくなり、いよいよ本気で参加する理由がなくなってしまったのだろう。
志摩子が参加するから行かない、なんて。本心はともかく、それを表に出すなんて子供じみた真似をするわけがない。仮に表に出すのなら、明確に相手に伝わるよう子供らしさもろとも強調するだろう。
だが去り際の穏やかな表情は、それに矛盾する。それは向けられた志摩子自身も感じたはずだ。
なのでお姉さまの言葉を借りて「飽きたから」の意見に祥子も賛成だ。単純に飽きたから。非常に白薔薇さまらしいと思う。
「何を持って来たの?」
いつまでも帰ってしまった人のことをあれこれ考えていても仕方ない。さっさと話題を変えようとして、祥子は志摩子の持ってきたビニール袋を指差し問う。
「ごきげんよう。祥子さま、紅薔薇さま。本日はお招きいただきありがとうございます」
そういえば、まだ挨拶すらしていなかったか。挨拶を交わして得た答えは、「一応シロップを持参しました」とのことだ。
夏休み最終日に会った志摩子は、日焼けもなく遊び疲れた様子もなく、七月に見た時と変わらなかった。
「夏バテとか夏風邪とか、大丈夫だった?」
「おかげさまで」
笑顔も変わらない。とにかく大事なく夏休みを過ごしたらしい。何よりだ。
「ところで、黄薔薇さまと令さまは?」
ここにいるのは祥子とお姉さまだけ。白薔薇さまはついさっき帰宅した。由乃ちゃんは不参加だ。
冷蔵庫からキンキンに冷やした山百合会用シロップ各種を持参エコバッグに入れながら、お姉さまは言った。
「先に家庭科室に行っているの。準備のために先行したのもあるけれど、そろそろ始まっているんじゃないかしら」
「そうなんですか」
「で、私達はここであなたを待っていた。……というのは理由の半分」
「残り半分は?」
「白薔薇さまの説得。見ての通り逃げられたけれど」
いないと困るわけではないが、お姉さまとしてはせっかくだから三薔薇揃って出席したかったようだ。せっかくだから、と考えると、祥子もなんとなく気持ちはわかる気がする。
必要だからではなく、友達だから居て欲しいのだ。志摩子を呼んだ理由にもそういう感情があるに違いない。
冷蔵庫から次々出てくるシロップの瓶をぼんやり見守っていた志摩子は、ふと口を開く。
「なんだかシロップだけ余りそうですね」
「だから持ってこなくていいって言ったでしょう?」
「あ、こういう時の礼儀だと思いまして……手ぶらで来るのもなんだか悪い気がして」
「気持ちは嬉しいけれど……本気で処理に困りそうね」
志摩子は悪くない、と祥子は思った。
ここ連日のカキ氷パーティ予行練習(と題した食べ放題)のせいで、冷蔵庫に眠る瓶シロップや練乳の本数がとんでもないことになっているのだ。それこそビニールや紙袋では心配だから布製エコバッグを代用するくらいにだ。
「うーん……さすがに二学期が始まったら、ここでカキ氷を食べるのはまずいわよね」
お姉さまは「調子に乗りすぎたわ」と苦笑する。そして志摩子も持ってきてしまった追加シロップ。なんとか今日中に消化し切れればいいが。どれもこれも口が開いているので、いつまでも冷蔵庫に入れておくわけにはいかない。
ずしりと重くなったエコバッグは祥子が持ち(志摩子が「自分が」と申し出てくれたが今日は手伝いとして来たわけではないから断った)、三人は家庭科室へ移動を始めた。
夏休み中の取り止めのないことを話していると、自然と二学期の学校行事のことが話題に上る。二年生は修学旅行が、だの、学園祭が、だの。
その中の一つに、祥子の心は大きく乱された。
――何より花寺の学園祭が一番大きいイベントなのよね、私達にとっては。
そうお姉さまが漏らした何気ない一言。
リリアン内でのイベントも大事だが、リリアンの看板を背負った客として、ゲストとしてよそへ手伝いに行く。いわゆる親善大使のようなものだ。そして大使としては恥を掻くわけにも、また相手に恥を掻かせるわけにもいかない。そういう意味で責任者としては一番気を遣うのだ。
だが祥子の個人的な事情では、親善大使扱いは気が重くなるだけ。押し付けられた感が非常に強く、未だ完全に納得できていないリリアンの学園祭でやる劇「シンデレラ」以上に憂鬱になる。
できれば、いや、絶対に花寺には行きたくない。
こうなると、思考は原点に戻ってしまう。
やはり自分の身代わりにする妹が必要なのだ、と。
家庭科室前の廊下に、十名ほどのバレー部部員がはみ出していた。
「あ、紅薔薇さま」
「紅薔薇のつぼみだわ」
邪魔になるので自然と縦列になった先頭をお姉さまが歩む。口々に上る「ごきげんよう」に余裕の挨拶を返すと、まるでモーゼの十戒のように人垣が割れて道ができた。集まる羨望の眼差しなど物ともしない。さすがお姉さま、と祥子はこっそり得意げな気持ちになった。
導かれるまま家庭科室に入ると、室内はぎゅうぎゅう詰めの「泳ぐスペースがない海水浴場」という最悪の芋洗い状態、というわけではなかった。バレー部がはみ出していたから若干覚悟はしていたものの、彼女らは狭いから室内にいられなかったのではなく、単に廊下の方が風通しがよかったからあそこにいたのだろう。運動後で特に暑いから。
室内には身内を除いて十三名。
お菓子作り同好会の数名、落研の数名、陸上部数名、そしてバレー部の三年生らしき「あら蓉子さん」と親しげにお姉さまに声を掛ける者二名。あとはお菓子作り同好会の顧問の教師一名と、白衣が眩しい保健室の保科栄子先生だ。
頭がキーンとしていたり隣の人のカキ氷をちょっと味見していたり「この下に溜まったシロップと氷が溶け完全なる1となった氷水こそカキ氷の醍醐味なのよ」と自分なりの正義を語ったりしていたり。
「遅いわよ」
そんな和気藹々としたパーティの中、ちょっと鈍くおでこを輝かせたカキ氷の器を持つ黄薔薇さまと、カキ氷マシーンの前で汗だくな者が一人――令である。この分だと黄薔薇さまは妹をこき使っているようだ。
「あなた、少しくらい令と交代しなさいよ」
ざっと見で二十名以上。この人数分の氷を一人で削ったとなると、それは汗も噴き出すというものだ。
お姉さまの真っ当な言葉に、だが黄薔薇さまは堂々言い放った。
「大丈夫よ。令って体力あるから」
なんて姉だろう。祥子は心底、黄薔薇さまの妹じゃなくてよかったと思った。
「令、大丈夫?」
「腕が痛い……祥子代わっ」
「私、イチゴがいいわ」
「代わ」
「イチゴ」
「……はい」
何か言いたげだった令は、諦めたようで儚く笑った。三十分ほど前には呆れるほど元気だったのに、三十分ほど後には元気のかけらも見えないこの憔悴っぷり。夏とは恐ろしいものである。
「志摩子も来たんだね。久しぶり」
「あ、はい、ごきげんよう。その……か、代わりましょうか?」
軽く雨に降られたような令の姿に、祥子の隣でオロオロしていた志摩子は、心配せずにはいられなかったようだ。
「もういいよ。慣れた私がやるのが一番早そうだし」
そりゃそうだ、と祥子は思った。――ちなみに祥子は、この数日ただの一度もカキ氷マシーンを使わなかった。お姉さまですらレクチャーを受けているにも関わらずだ。
「私が代わりましょうか?」
「ありがとうございます、紅薔薇さま。お気持ちだけいただきます」
企画者であるお姉さまが気を遣うも、令は首を横に振った。なんというか、男らしい諦念ぶりである。
「紅薔薇さまと志摩子は何にします? 今日中にシロップ使い切った方がよさそうですし、レインボーなんてどうですか?」
「ああ、そうそう、そのシロップよ」
お姉さまはポンと手を打つと、祥子の手から重いエコバッグを奪い、その辺の調理台に置いた。
「山百合会の分がかなり余っているから解放しましょう。もしどこかのクラブのシロップが足りなくなるようなら、ここから使うよう言ってちょうだい。……足りなくなりそう?」
「あとからバレー部の後続が来るそうですから、ある程度は消化できると思いますよ」
今廊下にいるのは二年生三年生のみで、一年生は後片付け等で遅れてくるのだとか。なんとも体育会系らしい話だ。
お姉さまが「なら結構」と満足げにうなずくと、お菓子作り同好会の生徒が氷を持ってきた――どうやらお菓子作り同好会は令のサポートとして動いているようだ。
馴れた手つきでガリガリと削られていく氷は、あっと言う間に細かな粒となり雪のように皿の上に積もっていく。山盛りになったそれを渡され、祥子は手近なシロップから毒々しいとさえ思える赤い液体入りの瓶を選び出し、山盛りの雪に振りまいた。化粧で彩られた雪山は、赤を振りまいた先から音もなく崩れていった。
これで一丁上がりだ。
小さなティースプーンで掬い、早速一口。――今日も甘くて冷たい。
「祥子、祥子」
ハンドルを回す令の隣で、黄薔薇さまがニヤニヤしながら手招きする。ろくな用事じゃなさそうな遠慮したい類の顔だが、先輩が呼んでいるのだから行くしかない。
「落研、おもしろいよ」
「はい?」
いきなり「おもしろい」と言われても。落語でも聞けと言っているのだろうか。
「この夏休みいっぱい、おもしろかろうがつまらなかろうが、とにかくボケていこうって話になってるらしいのよ」
ボケていこう?
「あら、それはおもしろいわね」
話の意味がわからない祥子の横から、お姉さまが、毒を持っている蛇を連想させるほどどぎついレインボーカラーのカキ氷を持って割り込んできた。
「察するに、日常会話中ボケてボケてボケ倒すって意味?」
「そう。なんでも落語の稽古の一環だとかで」
「へえ。どんな感じ?」
「おもしろいわよ。すべるのがわかっているくせにつまらないネタでボケる姿なんて、涙なしでは見ていられないほどよ」
とか言いながら笑っている黄薔薇さま。お姉さまは「それはまた痛々しい……」と顔をしかめてつぶやいた。
「でね」
話を続ける黄薔薇さまは、祥子を見ていた。
「まだまだ未熟の極みにいる一年生に、箔というか度胸付けというか、とにかく薔薇さまやつぼみとお話でも、っていう話が来てるのよ」
来た! というか、来てた!
祥子はいろめきだった。もうこの際、落研だろうがボケだろうが一年生ならばなんでもいい。学園祭回避のために妹ができればそれでいい。
出会いのチャンスは、かなり呆気なく巡ってきた。というか巡ってきていた。むろんそれを活かさない手はない。
――逃しはしない。
祥子の瞳は、腹を空かせた肉食獣のようにギラついていた。
ギラついている間に話はさくさく進み、「呼んでみてよ」というお姉さまの言葉に「おーい」と呼びかける黄薔薇さま、固まっていた落研数名は一人の生徒を輪からはじき出した。
青いヘアピンを左耳の上に通して髪をまとめている、小柄な……恐らく一年生が、やや挙動不審にこちらへやってきた。
「ご、ごきげんよう」
見ている方が気の毒になるくらいガチガチだった。
「この暑い中、季節的には怪談でも……って感じですが、本当はもっと有効な話があるのをご存知でしょうか?」
でもガチガチながら、とにかく口は回った。
「――そうです、つまらないギャグを聞いた時の無音空間……アレは言った本人も聞いた人達もうすら寒くなるのです。ふとんがふっとんだ」
…………とりあえず、祥子にはついていけなかった。
「うわぁすごい……カキ氷がぬるく感じられるくらいすごく寒い……」
黄薔薇さまは身震いした。背筋にかつてないほどの悪寒が走ったのだろう。
「……強烈だわ……」
お姉さまも身震いした。まるで突然首筋に冷たい缶ジュースを押し当てられたかのように。
その妙な空気を作り出した青ヘアピンの娘は、緊張感を残しつつなぜか「どうだ」と言いたげに胸を張っていた。
そして祥子は…………ちょっと考えて、首を捻って、考えて、考えて、青ヘアピンの娘が言った言葉を反芻して、考えて、ようやく言った。
「あ、ふとんがふっとんだがギャグなのね?」
ハッと振り返るお姉さまと黄薔薇さま、そして青ヘアピンの娘。
「さ、祥子……」
「そこ蒸し返すんだ……」
お姉さまと黄薔薇さまの祥子を見る目が、なんだか、嫌な感じだった。たとえるなら、シンデレラが置いていったガラスの靴を無理やり履こうとして靴を破壊してしまったシンデレラ候補と名乗る無茶な女性を見るような視線だ。
「……祥子さま、やりますね」
「え?」
「しかも真顔で言うなんて」
「え?」
青ヘアピンの娘が、熱い熱い眼差しで祥子を見上げる。そこにはもう緊張の色はなく、しかし代わりに、祥子だけをなんらかの対象として網膜に映していた。お姉さまでも黄薔薇さまでもなく、祥子を。
確実に、何かしら彼女の興味を引いたのだ。
だがあいにく祥子にはまったく意味がわかっていないのだが。いったい何が彼女の琴線に触れたのだろう?
いや、まあいい。
なんだか意味がさっぱりだが、ファーストコンタクトの結果はこれで、決して悪くはなさそうなのだから。
青ヘアピンの娘は、にっこりと微笑んだ。
「いやー、アツはナツいですね」
「さむっ」「うわベタっ」というつぶやきが聞こえたが、今の祥子にはそれに構っている余裕はない。
「そうね。アツはナツ……あら?」
言いかけて、違和感にハッとする。
「「今気付いた!?」」
お姉さま、黄薔薇さま、青ヘアピンの娘、そして気になって聞き耳を立てていたらしき令の声が綺麗に重なった。しゃくしゃくとブルーハワイを口に運ぶ志摩子だけ至福の表情でニコニコしていた。
「て、天然? ねえ蓉子、祥子って天然?」
「いえ、たぶん、この辺のベタなお約束ギャグを知らないんだと思う。だから付いていけないのよ」
「あ、それ、心当たりあります」
「――聞こえているんですが」
ごちゃごちゃやっている薔薇さま方と令に目を向けると、三人は揃って顔を逸らした。しゃくしゃくとブルーハワイを口に運ぶ志摩子だけ「んー」と唸りながらこめかみを押さえていた。
「こ、こんな逸材がうちの部の先輩以外にいたなんてっ…!」
なんだかよくわからないが、青ヘアピンの娘は感動に打ち震えていた。
まあ、本当に理解できないが、とにかく。
この獲物は逃がさない。
時に空回りしながら、時に途方に暮れながら、ようやく訪れた出会いである。数少ないチャンスである。
相手の言っていることの意味は全然わからないが、逃がしてなるものか。なに、お互いの理解なら後からでも十分追いつく。
今は、今だけは、とにかく時間がない。もはや影は見えている花寺学園祭を避けるためには、この出会いこそがきっとラストチャンスなのだ。
祥子は、この青ヘアピンの娘に的を絞った。
他にも一年生はいるものの、ここまで強い関心を引ける相手はまずいないだろう。意味はわからないが。
そんな祥子の意思や意向を、言葉を受け取らなくても理解した仲間達は、少しずつ距離を取って、気がつけばいわゆるツーショットという一対一の場を自然と設けてくれた。もちろん何かあった時はすぐさまフォローに回れるよう、付かず離れずの距離に居てくれる。志摩子だけがひたすらしゃくしゃくカキ氷を食べていた。
「――漫才、漫談、コント、落語。似ているようで違うとも同じとも言えるけれど、やはり違う世界のそれらは、違う世界でありながらも無関係だとは言えないほど近いものなんだと思います」
「そうなの」
「なので、ディズニーアニメの動きが異様ななめらかさで怖いだとか、読書感想文でストーリーで原稿用紙二枚を埋めて最後の一行で“おもしろかったです”で締めるだとか、スイカ割りで飛び散ったスイカを見て“これ見たらお百姓さん泣いちゃうかもね……こんなぐちゃぐちゃにされるために丹精込めて作ったわけじゃないのに、って思うんだろうね……”だとか、そういうせつないことだって考えざるを得ないって部分もあると思うんです」
「そうなの」
「雀の後に付くのは?」
「荘なの」
熱く語る青ヘアピンの娘に、祥子は意味不明ながらも「ちゃんと聞いてますよ」と言わんばかりの顔で相槌を打ち、氷をつつきながら、果たしてコミュニケーションとして成立しているのかどうか非常に怪しい親睦を深める。
その姿は、誰がどう見ても仲が良さそうで……いつのまにか誰の介入すらも受け付けそうにないという、二人きりの独特の世界が構築されていた。
もしかしたら、小笠原祥子と青ヘアピンの娘は、傍目には姉妹にすら見えていたかもしれない。
少なくとも祥子はもう決めていた。甘くはないがとても熱い蜜月の時は、祥子の理想と期待を増幅させ、強い愛着を抱くになんら不思議はなかった。そして志摩子はどこぞのクラブのフルーツ缶詰に手を出したらしく平謝りしていた。
そんなこんなで時間も過ぎ、パラパラとカキ氷パーティ参加者は減っていき、いよいよ落研の生徒が青ヘアピンの娘を呼ぶ。
ここでようやく、祥子……そしてある種の確信を持って祥子を見守っていた山百合会の面々は、自分達が犯していたミスに直面することとなる。
「――そろそろ帰るわよ」
「――あ、はい、お姉さま」
ポン
ギャグマンガだったら目玉が飛び出すような衝撃。音はマヌケで、実際もマヌケで、「えーっ」と言いながら思い至るのだ。
「なんたるイージーミスだ」と。
なんてことはなく、青ヘアピンの娘はもうとっくに誰かの妹でした、という単純な話だ。至極単純なオチだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
唖然とする祥子、お姉さま、黄薔薇さま、令は、言葉もなく、引き上げていく落研の背中を信じられないモノを見るような視線で見守ることしかできなかった。
いや、信じられないのだ。実際。
学園内でもトップクラス揃いの秀才が集まる山百合会の全員が、初歩の初歩のまず真っ先に確認するべきである「お姉さまはいて?」を誰一人思いつかず、前に似たようなミスで懲りた祥子すら目の前のチャンスに浮かれて失念していた。
だとしたら、いったい。
「この時間は、なんだったの……?」
思わず口を突いた祥子のつぶやきに、答える声は一つも、溜息すらもなかった。
始めに的を絞ったせいで、他の出会いは皆無。
パーティ参加者の三分の二はすでに帰宅し、今から出会いを探すだなんて不可能だ。
そして――だが、祥子は平気だった。
「なるようになるわ。令、氷をちょうだい」
折れそうになった心を隠し、毅然と、堂々と、祥子は言い放った。「なるようになる」、そう自分に言い聞かせないとこの場で泣き崩れてしまいそうだったから。
令は無言でハンドルを回し出し、「私も」「私も」とお姉さまと黄薔薇さまも最後の一杯を所望。お菓子作り同好会の「これで氷は最後です」の声にお代わりを求めていた志摩子は絶望した。
ずいぶんと減ったシロップもこの一杯でちょうど使い切り、祥子は、お姉さまと黄薔薇さまに挟まれ、前方には向かい合った令、後方で「この世の終わりか」というほどにがっかりしている志摩子に囲まれ。
左手のカキ氷を、シャンパングラスのように掲げ上げた。
「夏休みに乾杯」
「「乾杯」」
しゃくしゃくと氷を掬い、四人とも同時にキーンとして額を押さえた。
志摩子は羨ましそうな顔をしていたが、氷を分け与える者は誰一人いなかった。
なるようになる。
現実逃避に等しい言葉を拠り所にする祥子に氷水を浴びせて、残酷な八月は過ぎて行った。
――福沢祐巳と出会うまで、あと一ヶ月。