【3115】 普通じゃない様子に気付かなければ  (RS 2009-12-24 20:54:36)





 二年続けてつぼみではない立候補者が出たせいなのか、生徒たちの選挙への関心は高い。
 つぼみが次の薔薇さまになることが当然のように思われている中で、立候補を表明するには勇気がいることだろう。立候補することが、現在の生徒会役員とその後継者たちに対する実質的な不信任だと受け取る生徒も多いから、どれほどあるのか分からない批判票を集めるだけでは、当選できるはずもないことを立候補する者は知っているからだ。
 立候補の届け出が終わり、選挙運動が始まってしまえば、候補者自身は投票の前に開かれる立会演説会の準備に追われることになる。
 投票日は月末の土曜日。
 立ち会い演説会はその週の水曜日。
 それが伝統的なスケジュールだ。
 立会演説会では、決められた持ち時間のうちに、自分の考えを有権者である生徒たちに伝えなくてはならない。自分を支持してくれる生徒たちの支持をさらに堅いものとし、自分以外の候補者を支持する生徒に対しては、自分に投票するようにその考えを変えさせる。候補者同士による討論会のような機会はないだけに、一方通行であっても整理した考えを示して、自分が生徒会長にふさわしいと納得してもらう必要がある。

 立会演説会を翌週に控えたある日。
 祐巳は二年生ながら白薔薇さまである志摩子さんと、図書館の閲覧室で隣り合って座っていた。立会演説会に参考になりそうな本を探すと言い残して、薔薇の館を出てきたのだ。原稿はほぼできているけれど、演説の経験が多いわけではないので、何か参考になるものがあればいいという気持ちだった。
 祐巳がそんなことを話したとき、去年の選挙を経験済みの志摩子さんも図書館に行くと言って、二人で連れ立ってきたのだ。
 薔薇の館からのもう一人の候補者である由乃さんは、姉であり従姉妹であり、幼なじみのお隣さんであり、現薔薇さまである令さまの受験壮行会を両家で開催するとのことで、一度薔薇の館に顔を出してすぐに帰っていった。
 祥子さまは受験がないからなのか、選挙運動が始まってからも薔薇の館に顔を出すことが多い。といっても、選挙のことでアドバイスしてくれることもなく、長い時間いることもなく、紅茶一杯飲む間、文庫本を眺めて帰るということが多かった。今日も、紅茶を飲みながらしばらく文庫本を眺めた後、図書館に向かう祐巳たちと一緒に薔薇の館を出て、銀杏並木の方に向かっていった。
 だから、今の薔薇の館には、仕事をしながら、二人が戻ってくるのを待っている白薔薇のつぼみだけがいるはずだ。

 志摩子さんは、新聞の縮刷版をめくっている。
 祐巳は、心当たりがあったわけではないので、スピーチについてのハウツー本やアメリカ大統領選挙の名演説集やその近くに並んでいた本を持ってきて、何冊かを積み上げておき、何冊かを開いて目の前に置いている。なのに、本から伝わってくるものはない。調べながら本を読んでいるつもりなのに、意識は薔薇の館の外からの候補者のことに向かってしまう。考えが堂々巡りしていることに気づかないほどに。
 なぜ瞳子ちゃんは立候補したのだろう?
 そんなに薔薇さまになりたかったのだろうか?
 それなら、祐巳のロザリオを受け取れば、一年後には、自動的とはいかないけれど、ほとんど確実に薔薇さまになれたのに……。
 祐巳のロザリオを受け取らなかったのは、祐巳の妹になる気はないということだろうか?
 瞳子ちゃんは祐巳の妹にならないで薔薇様になろうとしてるのだろうか?
 祐巳が卒業してからでも、立候補することはできたはずなのに、その一年が待てなかったのだろうか?
 ロザリオを差し出したことの意趣返しのように立候補したのはなぜなんだろう?

 瞳子ちゃんを妹にしたい気持ちは変わっていない。
 クリスマスパーティーの後のことは、お姉さまやみんなのおかげで冷静に考えられるようになったし、お正月に由乃さんに言われた「妹の部屋」を自分がつくってしまっていたことも理解できているつもりだ。だから、選挙のことと瞳子ちゃんのことをいっしょくたにしないように考えていたはずなのに、頭に浮かんでくるのが瞳子ちゃんのことばかりになっているのに気づいて、ため息をついてしまった。図書館に来ることで気分転換になるはずだったのに、これでは時間を無駄遣いしているようなものだと思った。

 ため息は志摩子さんに聞こえていたようだ。
「祐巳さん、どうかした?」
「ううん。どうもしないんだけど、考えがまとまらなくて……」
「瞳子ちゃんのことね?」
 閲覧室はいつものように静かだけれど、無人ではない。それでも、まわりにならって小声で話す分には問題ない。
 今の二人にとって、閲覧室の利点はなんといっても、候補者が薔薇の館の外でいっしょにいるところを見られても、無遠慮に話しかけられることがないということだ。ほかのところであれば、あいさつだけでなくいろいろと話しかけてくる人もいる。図書館にいる限りは、それぞれの用事を優先するだろうし、他人の用事の邪魔をしようとも思わないだろう。館内で話すときに声を抑えるのは、マナーと言うまでもない常識だ。それに、選挙期間であろうとなかろうと、現職の薔薇さまとつぼみが一緒にいるのは不思議でも何でもない。

「うん」
 ちょっとうつむいた祐巳を見て、志摩子さんも手を止めた。
「祐巳さん」
「うん?」
 顔を上げた祐巳に志摩子さんが続ける。
「あまり考えすぎない方がいいわ。瞳子ちゃんがどういうつもりで立候補したかは分からないけれど、今は同じ候補者なのだから、正々堂々と選挙に臨むべきだわ」
 言ってるのは真面目なことなのに、話しているうちに、なぜだか志摩子さんは笑顔になってしまった。
「そんなにかしこまった顔をしないでよ」
「えっ、そうだった?」
「ええ、なんだか授業の時より真剣な感じだったわ」
「えへへえ。知らないうちに力が入っていたかな」
 祐巳は、いつの間にか前屈みになっていた体を伸ばすようにしてから椅子に座り直し、顔をちょっとマッサージするようにこすった。
「選挙のことは選挙のことで、瞳子ちゃんのことは瞳子ちゃんのことって、頭ではわかってるつもりなんだけど、浮かんできちゃうの」
 瞳子ちゃんの顔が。それがとても寂しそうでどうにかしたいのに、どうしていいか分からなくて。
「ねえ、志摩子さん」
「はい?」
「これじゃダメだって分かってて。なのに、どれがいいのか、どうしていいのか分からないときってあるよね?」
「……あるわね。今の祐巳さんみたいに」
「志摩子さんにはお見通し?」
「祐巳さんを見てれば分かるわ」
「えっ、また百面相してた?」
「ええ。もう、思いっきりグルグルしてたわ」
「あーっ。それも、なんとかしなくちゃ」
「うふふ、うそよ」
「えーっ」
 同じ二年生だけれど、春から薔薇さまをやってきた経験によるものだろうか。それとも、もう妹がいるという余裕なのだろうか。志摩子さんはゆったり落ち着いていて、今の自分と違って、ちょっとやそっとのことでは動揺しそうにない。貫禄のようなものを感じてしまう。薔薇さまであることや妹がいることでその余裕があるのだとすると、自分は当分の間それを持てそうにないなと思った。選挙が終わって、瞳子ちゃんを妹にするまでは。
 志摩子さんが似合わない冗談まで言ってくれたのは、気持ちをほぐしてくれようとしたのだということは分かる。
 ずっと以前、一年生の頃にもこんなことがあったような気がする。
 思い出した。祥子さまと姉妹になる前、学園祭の手伝いをすることになって新聞部に追いかけられていたときだ。
「なんだか志摩子さんにはいつも助けられてるみたい」
「え? そうかしら」
「ほら、一年生のときも――」
 そう。あのときは、講堂裏の志摩子さんの季節限定指定席で、二人でお弁当を食べながら、祥子さまの申し込みを断った話をしたんだ。
「そうだったかしら」
「新聞部が桃組に来てたとき、かくまってくれて、一緒にお弁当食べたとき――」
「ああ、そんなこともあったわね」
 二人とも、祥子さまの妹になることを断ったもの同士だったけれど、志摩子さんは前回の選挙で薔薇さまになり、今、自分は祥子さまの妹として選挙に臨もうとしている。
 一年前は分からなかったことが、今は分かっているだろうか。

「あのとき、祥子さまの申し込みを断った話をしてくれて、志摩子さんは、お互いに相手に求めるものが違うから与えられるものが違って、だから姉妹にはならないって話してくれたわよね」
「そんなことも言ったかもしれないわね」
「ということは、志摩子さんと乃梨子ちゃんは、相手が求めるものを与えることができてるってことだよね?」
「そう言われると、そういうことになるのかしらね」
「そして、自分は相手から、自分が求めるものを与えられているってことだよね?」
「それも、そういうことになるかしらね」
 たしかに、白薔薇姉妹を見ていると、志摩子さんの横には乃梨子ちゃんがいて、乃梨子ちゃんの横には志摩子さんがいるのが当たり前で、この二人が別な人と姉妹であることなんて考えられない。学園祭のあとくらいに、ここで二人を見かけたときは一枚の絵のように見えたっけ。
「祐巳さんだって同じでしょう? 祐巳さんが求めているものは祥子さまに与えられて、祥子さまが求めるものは祐巳さんが与えているということで、それが何かとかどんなものかということは関係がなくて、二人がそういう関係を結んでいるということに意味があるのではないかしら……」

 志摩子さんの言うとおりだと思う。
 うん? あれっ。何かが引っかかった。
 志摩子さんの横にいる人。それは、乃梨子ちゃんが入学してくるまでは佐藤聖さまだった。その二人が並んでいるのがいつもの、当たり前の光景だった。
 志摩子さんにとっての聖さま、聖さまにとっての志摩子さん。二人は、きっとさっき祐巳が言ったとおりの関係だったはずだ。
 でも、今は志摩子さんには聖さまではなくて乃梨子ちゃんがいて……。
 あー、難しい。
 自分と瞳子ちゃんについては、どうなっていくのか想像もできないのはさっきと同じだけど、姉妹についてはちょっとだけ見通しがよくなった気がしたのに。かえって分からなくなったみたいだ。
 いつの間にか、また前屈みになっていたみたいで、「あー、分からない」って思ったらまたため息をついていた。思わず口を押さえた。
「あー、いけない。ため息を一つつくと幸せが一つ逃げてくっていうもんね」
「あら祐巳さん、それを信じてる?」
「志摩子さん、信じてないの?」
「心構えは分かってるつもりよ。ただ、前に乃梨子に同じようなことを言ったことがあって」
「乃梨子ちゃんに? そうしたら乃梨子ちゃんは、なんて言ったの」
「ため息で逃げていくような、頼りない幸せだったらいらないんですって」
「……らしいっていうか、なんていうか」
「それを聞いてから、それもそうかなって思うようになったの」
「でもさ、どんなのでも幸せはいっぱいある方がいいと思うんだけど」
「今思うと、そのときは乃梨子も瞳子ちゃんのことが心配で、あまり余裕がなかったのね。ため息で幸せが逃げるなら、幸せではない人からも幸せは逃げていくだろうかとか、持っていないものをなくすとはどういうことかなんて、理屈っぽい話をしていたわ」
「うーん。それまた乃梨子ちゃんらしいというか、そういう話につきあうのが志摩子さんらしいというか」
 当の二人のためだけでなく、乃梨子ちゃんと志摩子さんが姉妹でよかったなと思う。
 そういう話を乃梨子ちゃんから振られたことはないけれど、自分ではなんとも答えられないだろうということには自信がある。でも、相手によって適切な話題を選ぶというのは、ごく当たり前のマナーだから、乃梨子ちゃんは私に気を遣ってくれているのだろう。そもそも、そんな話題で会話が続く姉妹が変わりものなんだと思う。

「そのときに、さっきみたいなことも話に出たの。求めるものと与えられるもの」
「どんな話?」
「本当に大事なものは無くしてから分かるって、よく言うでしょ?」
「聞いたことがあるような……。でも、分かるよ」
「なくしてわかるありがたさ。親と健康と……?」
「なくしてわかるありがたさ。親と健康と……」
 思い出した。
「せろ「しっ!」」
 正解が分かって喜んだ祐巳の声が大きくなる前に、志摩子さんが一瞬のうちに立ち上がって、祐巳の口を押さえてくれた。おかげで図書館中の注目は集めないですんだ。でも、クイズみたいな口調で言われたら、誰だって答える声は大きくなると思う。
 祐巳がタップすると、志摩子さんは手をはなしてもとのように椅子に座り、「ごめんなさいね」と言った。
「祐巳さんが、図書館の中なのに、大声で商標登録された商品名を叫ぶんじゃないかって思ってしまったの」
「そのとおりだから、止めてもらってよかった」
「それでね」
 志摩子さんは何もなかったように話を戻す。これは、貴重な才能だと思う。まだ、まだ呼吸は整っていないけど、続きを聞かせてもらうことにした。
「同じように、与えられてはじめて、何を求めていたかが分かるということもあるんじゃないかって言われたの」
「うーん。自分が何を求めているかを与えられたことで知る……っていうこと?」
「そう。自分が誰かに、その人に何を与えられるかを知らないように、自分もその人に求めていることを分かってはいないのかもしれないって」
 その人が何を求めていて、自分がその人に何を与えられるか、普段は意識することなんてない。落ち込んでいる人に、元気になってほしくて励ますことはあるけど、それが、そのときその人が求めていることかどうかなんて考えたりしない。そういうことなんだろうか。
 でも、姉妹についてはそういうことでもないと思う。一時的なことだったら似たようなことはあっても、一対一で続いていく関係の場合はそれだけではないような気もする。
 瞳子ちゃんは何を求めているのだろう?
 自分は瞳子ちゃんに何かを求められているのだろうか?
 自分は何を求めているのだろう?
 瞳子ちゃんが与えてくれるものはなんだろうか?
 自分が与えられるものってなんだろう?
 疑問は広がり、深くなっていくばかりだ。
 堂々巡りする考えを破るように、志摩子さんの声がした。

「だいじょうぶよ。祐巳さん」
「えっ、どうして?」
「誰だって持っているものしか与えられないわ。その人が持っていないものを求めてみたって、それは無いものねだりでしょ」
 祐巳が、「そうだね」と頷くと、志摩子さんはちょっと遠い目をした。
「そして、みんな自分が持っているもの、与えることができるものについて全部理解しているわけではないもの」
「それは、志摩子さんの経験から?」
「そう言ってしまえば、そうかもしれないわ。でも、求めるものは、何か一つだけからしか得られないということでもないと思うの」
 やはり妹の存在は、今の志摩子さんをかたちづくっている大きな要素のようだ。
 去年の今頃は、静さまが薔薇の館に乗り込んできて、そのせいで志摩子さんが立候補を決めたり、自分はなんだか祥子さまの選挙にちっとも役に立っていないように感じて、暗い気持ちになったりしていた。それが今年は、自分の選挙のことや妹のことを考えているんだから、変われば変わるものってやつかもしれない。
 去年の自分はつぼみの妹。今年は紅薔薇のつぼみ。立場が違えば、考えることも違って当たり前。
 だとすると、聖さまといるときの志摩子さんと、乃梨子ちゃんと一緒のときの志摩子さんが違って見えるのも当然なのかもしれない。
 深いところでつながっているのは同じ。でも、妹として姉に求めるものと姉から与えられるもの、姉として妹に求めるものと妹から与えられるものが、違っているのも当然なんだ。
 そこのところは、なんとなく分かった気がする。
 祥子さまが言っていた、「聖さまと志摩子さんは、表だってベタベタしてないけど、深いところでつながっている」ということは、そういうことかもしれない。それを聞いたときは、そういうこともあるのだろうと思い、けれど、自分たちとは違うと思っただけだった。
 今になると少し分かる気がする。聖さまとはあんなにあっさりとしていたのも志摩子さんで。乃梨子ちゃんとベタベタしている志摩子さんも、やっぱり志摩子さんで。
 その二人だからそういう関係になる。
 立場も違えば相手も違う。二人だけの関係がそうだから、ということなのかもしれない。

「お葬式や法事のときに――」
 ちょっとの間、何か考えているみたいだった志摩子さんが話し出した。
「赤ちゃんや小さい子が来るときもあって」
「あ、小偶寺に?」
「そう。その子たちの面倒をわたしが見ることもあって、そういうときに泣き出す子がいるのよ」
「それは、おっぱいがほしいとか、おむつを替えてほしいとか?」
「そうなの。でも、おっぱいをあげようとしても、全然飲まなかったり、おしめを確かめても何もしてなかったりすることもあるの」
「どこかが痛いとか痒いとか、暑いとか寒いとか?」
「たいていは、そういう理由だと思うのだけれど、本人は話せないからこちらには分からないの」
「そうだよね」
「それで、そのときにできることをやってみても、どれもハズレで、泣きやんでもらえないこともあるの」
「そんなときは、どうするの?」
「泣き疲れて眠るか……」
「うん」
「お母さんが来て抱っこしたら、たいていはそれで解決ね」
 なぜだか、志摩子さんは不思議な笑顔を浮かべた。
「だから、お母さんが来れば全部解決してしまうことが多いの。母は偉大だわ……」
 姉が母に例えられているなら、何となく分かる。包み込んで守るのが姉。
「少し分かったのは、小さい子や赤ちゃんは、泣くことで自分に足りない……欠けているものがあることを訴えているんじゃないかって。足りないものが何であるか、ということは伝えられなくてもね。そしてそれは、違っているところはあっても、年をとっても同じなのかもしれないって」
 そう言って、今度は志摩子さんがため息をついた。
「あら、いけない」
 静かに話していたのに、あわてた様子で口を手で押さえて、驚いたように言ったのがおかしかった。
「なんだか、私だけがおしゃべりしてるみたい。でも、祐巳さんをみてるとね、お手伝いしたくなるのよ。だから、瞳子ちゃんのことで言わせてもらうなら、機が熟していないだけだと思うの」
「機が熟していない?」
「そう。機が熟していないの」
 ちょっと重々しく断言した。こんなところは乃梨子ちゃんも似ている。
「なるべくしてなることにも、機というものはあるのよ。草の葉の上に結んだ露が、水滴となって大地を潤すのにも、機というものがあるの。草の葉が水滴を落とそうとしたのでもなく、水滴が自ら草の葉から落ちようとしたのでもなく、その機が至れば落ちるものだと言うわ。祐巳さんと瞳子ちゃんも、由乃さんと菜々ちゃんも」
 聖書にある譬えだろうか。物事はタイミングが大事だということなのだろう。由乃さんのところは、菜々ちゃんが高等部に来なければ姉妹にはなれないから、それはその通りだと思う。でも、瞳子ちゃんは、そのときになれば祐巳の妹になるのだろうか。特に自信のようなものはわいてこなかった。でも、志摩子さんが言うならそうなのだろうという気はした。
「かえって、考えさせてしまったみたいでごめんなさい」
「ううん。志摩子さんに言われて、気は楽になったの。ほんとよ」
「なら、よかったわ。今はそのときになるまで、祥子さまの跡を継いで薔薇さまとなるために、できることをすることがいい結果につながると思うの」
「ありがとう。瞳子ちゃんのことを考えるのはやめられないだろうけど、自分にできることをしなきゃって思えるみたい」
 祐巳がそう言うと、志摩子さんはほんのりと笑った。
「なんだか、忠告めいたことを言ってしまったけれど、私は、祐巳さんと由乃さんと三人で薔薇さまになりたいの」
 きっと、志摩子さんの本当の気持ちなんだろう。それを聞いて、なんだか何も言えなくて、ただ「うん」とだけ言った。それだけで、祐巳の気持ちも伝わったと思う。

「もう一ついい?」
 祐巳が「どうぞ」っていう顔をしたら、志摩子さんは、ちょっと考えるようなそぶりをして、いつも以上に真面目な顔で話し出した。
「瞳子ちゃんは、きっともがいてるんだと思うの」
「もがいてる?」
「そう。流れの中で溺れそうになりながら。流れのこちら側なのか向こう側なのか、それとも別な方なのか。どこに向かってかは分からないけれど。何か事情があるとは思うけれど、あえて、自分が望んでいない方に泳いでいるんじゃないかって……私はそう感じるの」
 何か事情があるとして、それを知っているとしたら柏木さんだろう。でも、聞かなかった。そして、それは正しかったという自信がある。
「祐巳さんの方が、ずっと長く、多く瞳子ちゃんに接しているのだから、これは当て推量。私は、瞳子ちゃんが、闇雲にもがくんじゃなくて、もう少し心を開いて、みんなの気持ちをそのまま受け取ってくれたらいいのにって思うけれど、それがそう簡単なことではないことも分かるわ。でも、乃梨子を見ていると……」
「乃梨子ちゃんがどうかしたの?」
 乃梨子ちゃんは瞳子ちゃんのクラスメイトだし、今となっては数少ないかもしれない、瞳子ちゃんと深く関わっている友だちだ。親友と言っていい存在だと思う。乃梨子ちゃんが何かを感じていることはありそうに思えた。
 志摩子さんは、祐巳の方ではなく、積んである本に視線を向け、今までよりもっと小さな声で言った。
「乃梨子が泣くのよ……」
「泣く? 乃梨子ちゃんが?」
「瞳子ちゃんのことでね」
 あの、しっかり者でいつもクールで、上級生相手でも言いたいことを言う乃梨子ちゃんが、泣く?
 見たこともないし、想像もしにくかった。でも、お正月に会ったとき、電車の中で乃梨子ちゃんに謝られたこととつながっているような気がした。
「瞳子ちゃんも泣きたいんじゃないかしら。でも、今はもがいている最中。まだ、瞳子ちゃんが泣けるときではないのよ、きっと。だから、乃梨子が泣いてしまう」
 ハッとして志摩子さんを見ると、志摩子さんと目があってしまった。志摩子さんの目は、悲しいような怖いような光をたたえていた。
「乃梨子が泣きたいのなら、私は、いくらでも私の胸で泣かせてやることができるわ。涙をふいてやることもできる。私は、あの子の姉だから」
 志摩子さんの胸に顔を埋めて泣いている乃梨子ちゃんを想像してしまった。声もたてずに涙を流し続ける乃梨子ちゃんと、乃梨子ちゃんを優しく抱きとめている志摩子さん。聖画にも似た姿が浮かんできた。
 志摩子さんは、祐巳から目をそらさずに続ける。
「でも、その涙が流れないようにすることは――涙を止めることは、私にはできないの。それができるのは……」
 胸を突かれたような気がした。
 そう。それができるのは……。
 志摩子さんは、言いたいことが祐巳に染みとおるのを待っているかのように、しばらく黙っていた。祐巳は、志摩子さんが祐巳のために考えていること、乃梨子ちゃんのために考えていること、瞳子ちゃんのために考えていることが、頭だけじゃなく、体中にしびれるような感じで伝わってくるような気がした。それでいて暖かく、じんわりと。
「ありがとう、志摩子さん。いろいろ考えることが増えて、考えが堂々巡りしないなんて、まだ言えないけど、とっても気が楽になったみたい」
「お役に立てたならうれしいわ」
 さっきまでの、悲しいような怖いような目をしていた志摩子さんは、どこかに行ったみたいだ。
「なら、ここでのおしゃべりはこれでお終い。借りていく本が決まったら、薔薇の館に戻りましょ。きっと乃梨子が、今か今かと待っているわ。温かい紅茶を入れるのはまだかなって」
 志摩子さんが気を遣ってくれているのは分かる。祐巳の気を楽にさせようとしてくれているのが分かる。それなら、今はその気配りに甘えさせてもらおう。
「えーっと、この辺を借りていこうかと――」
 適当に積み上げた本を持ち上げて答え、ほかの本を書架に戻しながら、できるだけさりげなく聞いてみた。
「ねえ、志摩子さん。乃梨子ちゃんのこと、私が聞いちゃってよかったの?」
「ええ、かまわないわよ。恥ずかしいことでもなければ、聞かれて困ることでもないし、祐巳さんは、それを吹聴する人じゃないもの」
 信用されているのはうれしいけど、志摩子さんか乃梨子ちゃんが自分で言うまで、由乃さんにも、三年生にも言えないな。なんだか、乃梨子ちゃんに会うのが照れくさい気がする。
「それに、親友の姉妹のことで、あれこれ悩んだり考えたりできるのは、ぜいたくなくらいに素敵なことだわ」
 志摩子さんが、ちょっと照れくさそうに言ったけど、本当にそうだ。
 親友の妹。親友の姉、姉の親友。妹の親友。
 みんなのことが気にかかるように、みんなが気にかけてくれている。
 なんだか、申し訳ない気持ちと感謝の気持ちがごちゃ混ぜで自分でもよく分からない。
 でも、今はもうちょっとだけ、みんなに甘えさせてもらおう。あれこれ悩んだり考えたりしてもらうことになるけれど、自分にできることをしっかりとすることでお返しするんだ。
 そして、先を歩いている志摩子さんに早く追いつこうと思った。



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