【3117】 指導黄色い薔薇に今  (海風 2010-01-04 11:17:37)





この話は95パーセントが島津由乃成分で構成されています。
この話は読者様の島津由乃への愛が試されるほど長いです。
この話は変化球を投げようとしたら九級ともすっぽ抜けた感じの印象を与えますが気のせいです。
この話は島津由乃の魅力を一割以下しか伝えられないと思います。









目次
 1.いつもの祐巳さん 
 2.聖夜物語
 3.傘
 4.藤堂志摩子まみれ
 5.ラーメン「由乃屋」
 6.三年生になったら……
 7.伝言メモ
 8.令ちゃんの鞄
 9.リリアン最後の侍ガール








●1.いつもの祐巳さん 


 春がやってきた。
 令ちゃんが卒業して、初めての春。
 菜々がやってきて、初めての春。
 一年生の頃の手術を皮切りに、私の学園生活は大きな変化を遂げた。
 黄薔薇革命で先陣を切り、妹オーディションで牽制し、去年の締めには中等部の生徒にロザリオを渡すという大事件をこなしてきた。もちろん細かいものを入れたら切りがないほど色々やってきた。
 そして今年である。
 初めてのお姉さま不在と、初めての妹在席という、初体験づくしの最後の高校生活。
 淡い青空にあざやかな桜が舞う。
 風に香る清涼は、自然と心と身体を引き締めた。

「ごきげんよう。黄薔薇さま」

 黄薔薇さま。
 そう。まだ慣れないが、私のことだ。
 かつての鳥居江利子さま、そして大好きな令ちゃんが勤めてきた薔薇さまに、ついに私もなってしまったのだ。
 笑顔を返す私の横を、見覚えのない――恐らく一年生が――ちょっと頬を赤らめた微笑を浮かべて追い越していく。
 ああ、私はちゃんと、今日も後輩の憧れのお姉さまで居られているようだ。
 乙女達の通行路を少しはずれ、銀杏並木へと踏み込む。薔薇の舘へ行くためだ。
 気心の知れた仲間達が、私を待っているのだから。


 開いたままだったドアを「ごきげんよう」と潜ると、頼れる仲間達が返事を……あれ?
 違和感を憶える……いや、もはや異常とも呼べるその反応は、私の予想をはるかに越えていた。

「…………」

 いわゆる、無視だ。
 席に座る志摩子さんも、乃梨子ちゃんも、瞳子ちゃんも、私の妹である菜々でさえ、やってきた私に挨拶するどころか見向きもしないのである。微動だにせずそれぞれテーブルのどこか一点を見詰めている。
 え?
 何これ?
 いじめ?
 へーふうん。
 私を仲間はずれにしようなんて良い度胸してるじゃない。
 この私を令ちゃんありきの存在だとか、令ちゃんがいないと何もできないだとか、令ちゃんという強い外皮をかぶった弱々しい中身だとか思っているなら、それはそれで結構。
 これからキッチリ地獄を見せてあげ――

「お姉さま、お姉さま」

 腹の底から怒りの感情がコンコンと湧いてきた頃、菜々が立ち尽くす私を小声で呼んだ。そして彼女は、とあるモノを指差していた。
 それでようやくわかった。
 この反応のない空間は、別に私が無視されているわけではなく、他の理由があるのだということに。
 そう、たとえば、私に背を向けて窓際に立つ、菜々が指差している親友の存在だとかだ。
 彼女の後ろ姿は、特になんの問題もなかった。雰囲気だっていつも通り、特筆すべき点など皆無。トレードマークの左右に跳ねた髪だって普段と一緒だ。
 「祐巳さん?」と、私は声を掛ける。
 いつも通りの彼女は、しかし。
 バッと身体ごと振り返った祐巳さんは、決して普段通りとは言えなかった。

「HEY! ゴキゲンYO、ヨッシー! FU!」

 まあ一言で言えば、祐巳さんはラッパーになっていた。
 なんかごっついサングラスを掛けて、長すぎるだろってくらい長い首飾りをジャラジャラさせ、ノリノリでゆらゆら身体を揺らして、人差し指を強調して微妙な具合に曲げた手を突き出したりしている。

「オレタチ フレッシュ 山百合会ー
 リリアン オレらの テリトリー
 手ぇ出す奴ぁ 容赦しない
 昨日のゴハンは デリバリー YO!」

 ゆらゆら歌いながら祐巳さんが近づいてくる。
 なぜだかやたらうまいのが、なんというか、…………いや、今は胸がいっぱいで、とても感情や情景を上手く言葉にすることができない。

「シマシマ 今日も 超美人ー
 ヴィッグなウェーヴ 超ロンヘー
 胸とか尻とか 超セクスィー
 細い足首 超エロイ

   すべて ギンナン造りだZE YO!」

 察するに、「シマシマ」は志摩子さんのことで、やたら発音の良い「ヴィッグなウェーヴ」と「超ロンヘー」はビッグなウェーブの超ロングヘヤーのことで、あとはまあ言葉通りだろう。
 
「オカッパ頭 RIKO キュート
 最近 色気づいて クレオカット
 もしや 好きな人 できたと?
 にんじん ピーマン  トマト  YHEAAAAAA! HAAAAA!!」

 祐巳さんはソウルからシャウトした。
 だがリリック(詩)がかなりいいかげんになってきたことを私は決して見逃していない。いきなり訛ったり関係ない野菜を並べたり。なぜ野菜で締めたのかと問い詰めたいところだが、痛いものに触れるのが嫌なのでやめておく。
 ちなみに「クレオカット」はクレオパトラカットの略だろう。ああ、なぜこんなどうでもいいことが以心伝心しているのか。

「オレの妹 超ドリル
 マンドリルじゃなくて 超ドリル
 関係ないZE 社会のルール
 オレタチ いつでも マイ・ルール

   常識なんて ドリルで粉砕!!」

 実はすでに、祐巳さんはゆらゆらしながら私の手の届くところまでやってきていた。正直、親友として今すぐ張り倒してあげたいところだが、祐巳さんのためにもそうしてあげたいところだが、なんとなく放置することにした。だって触ると痛いもん。

「オレの ダーリン 超ゴキゲン
 今日も三つ編み NO ヘアピン
 ナオト・タケナカより ストロン(グ)
 キライな食べ物 みかん

   オレら ヨッシー 鬼LOVE(ロベ)!」


 祐巳さんは「YO」だの「HO」だの「ノリが悪いZE BOOOO!」だのしばらくゆらゆら揺れていたが、歌い切ると大人しくなった。
 じっと見詰めていると、急におどおどし始め、とりあえずサングラスを外した。
 更にじっと見詰めていると、ジャラジャラうるさいネックレスも外した。
 まだまだじっと見詰めていると、なぜか「ご、ごめんなさい……」とか細い声で謝った。
 しつこく見詰めていると、ぐすっと鼻をすすり涙目になった。
 軽く舌打ちすると、わっと泣き崩れた。
 瞳子ちゃんが側に駆け寄るものの、私を見る目は「止めてくれてありがとう」と語っていた。乃梨子ちゃんはヒソヒソと「どう触れても痛いだけなのに痛い想いをせずに止めるなんて」と志摩子さんに語り、志摩子さんは「どうやらヨッシーの認識を改める必要があるYO-NE」と少々伝染しつつ返した。そして菜々は私に尊敬の眼差しを遠慮なく注いでいた。


 色々言いたいことはある。
 別にみかんは嫌いじゃないとか、誰がヨッシーで誰がダーリンだとか。
 竹中直人より強いとか。どこから出てきた竹中直人。

 だがそんなことより重要なのは、なぜ菜々の歌がないのかという点だ。
 楽しみにしてたのに。
 なんで菜々だけないのよ、とかあえてツッコミどころを作ったつもりだったんだろうけど、それはもはやミスだよ、祐巳さん。そのミスで全部台無しだよ。歌自体は結構うまかったのに残念だよ。


 でもまあ、今日もいつもの祐巳さんだ。








●2.聖夜物語


 それは初めて見るものだった。
 全身に淡く色づいたピンク色は、次第に色を濃くしていった。それはとても短いわずかな時間である。まるで恥じるようだった桜色のそれはあっと言う間に朱に染まると、脳を麻痺させるような濃密な香りを立ち上らせた。
 甘く、優しく、気品と情熱を失わずして、しかし魅惑のダンスは続く。
 なんと魅惑的な色だろう。
 由乃は堪らず目を逸らした。
 このまま見ていたら我慢できなくなってしまうところだ。

「どう? すごいでしょ?」

 熱っぽい息を吐く由乃の耳元で、江利子は笑いを含んで囁いた。

「ええ、すごい……ですね……」

 いつもの憎まれ口が叩けないくらい、それはとてもすごかった。
 全てを兼ね揃えた魅力、とでも言えばいいのだろうか。
 派手である。
 だが楚々としている。
 華々しくある。
 だが清楚でもある。
 熟れた果実を思わせる圧倒的な香りの波は、わずかな時間で由乃を魅了して離さない。ともすればもう一度それを肉眼で確認したい、だが確認したら最後、もう我慢できなくなってしまうだろう。砂漠を彷徨う旅人がオアシスに駆けるがごとく、我を失ってむしゃぶりつくかもしれない。
 大袈裟でも何でもない。それだけの魅力を放っているのだ。
 扇情的なダンスは続いているのだろう。
 徐々にその身を開きながら、その存在の全てを掛けて踊り続けているのだろう。

「江利子さまは、これを……?」
「一度だけ味わったことがあるわ。……本当にすごかった」

 ほう、と江利子はうっとり視線を漂わせる。

「例えるなら、そうね、…………いえ、例えようもないわね。例えられないほど素晴らしいものなのよ」

 例えられないほど素晴らしいもの。その言葉は下手に例えられるよりも、由乃の好奇心をくすぐった。
 ああ、なんと罪作りなのだろう。
 まだ触れてもいないのに、こんなにも深く強く、由乃の心に入り込んでしまうなんて。
 早く口に含み、舌の上で楽しみたい。
 味覚や嗅覚だけではなく、全身で感じたい。
 それは由乃を天国へ連れて行く、と言われても過言ではないほどの物なのだから。
 早く、早く。
 由乃の鼓動は、次第に激しくなっていく……








「由乃ちゃん、紅茶どう?」
「あ、もういいと思います」
「楽しみだよね、100gン万円なんでしょ? さすが小笠原家だわー」
「今日はクリスマスイブですから。特別です」
「あらあら。本当は祐巳ちゃんにいいところ見せたいだけでしょ?」
「お姉さま!」
「「あははははは」」




 



●3.傘


 新しい傘の使い方を考えてみよう

   例 ホームでゴルフクラブ代わりに振り回すおじさま


 小笠原祥子案
  「鼻血が出た時に詰める。両方から出たら両方に詰める」


 福沢祐巳案
  「モロヘイヤーと声を上げ、傘を掲げて突撃する騎兵隊になる」


 松平瞳子案
  「わーお。風を捕まえて空が飛べちゃう」
 

 支倉令案
  「実はうどんでできているのでお腹が空いたら食べられる」


 島津由乃案
  「でも実はうどんじゃなくてディカプリオの栄光でできているので食べられないし、無理して食べたらお腹を壊すしファンにも怒られる」


 藤堂志摩子案
  「“止まれ! 止まらんと撃つぞ!”って、小さい頃に兄がライフル銃に見立てて遊んでいたわ。……でも止まったのに撃たれたの」


 二条乃梨子案
  「傘をさしたらお肌がカッサカサになる。悲しいことに」




  卒業生にも聞いてみよう




 水野蓉子案
  「ゴルフじゃなくて野球のバッターのフォームで振り回してみて、その高さが偶然塾帰りの小学生の頭の高さで、パカーンとホームランが出た後に警察に捕まる。三年くらい捕まる」


 鳥居江利子案
  「傘がないならカッパを着ればいいじゃない」


 佐藤聖案
  「キノコ園に開いて立てかけておくことで超巨大しいたけに見せかける。そしてしいたけ神に祭り上げて農民を騙して作物や財、酒、年頃の娘をイケニエに捧げさせてウッハウハ」








   由乃「っていう感じで答えてね」

   全員「もうそれでいいよ」








●4.藤堂志摩子まみれ


「でもさー」
「んー?」
「もし黄薔薇さまが、私達と同じくらい白薔薇さまのファンだったら、大変なことになってるだろうねー」
「大変? ……ああ、うーん…………いや、あのさ、別に黄薔薇さま、こうなんというか、マニアックなタイプじゃないと思うけれど」
「だから私達くらい、よ。あの性格よ? あの暴走っぷりよ? どこまで行くのかこの狭い日本を、って感じよ? もう世界進出よ?」
「私、あなたの親友だけれど、時々あなたがわからなくなる」
「まあ聞いてよ。まず聞いてよ。引かないでよ」
「……何?」
「もし私が山百合会の一員にして、白薔薇さまと肩を並べる黄薔薇さまだったとする。というか由乃さまだったとする」
「うん」
「まず、書類仕事に勤しむ凛々しいロサ……いえ、志摩子さまの横顔に見惚れる。お仕事に集中する志摩子さまなんて、私達のような一般生徒には絶対に拝見できない表情ですもの」
「ああ……うん、見たいね、それは」
「それでロサ・キネ……祐巳さま辺りが言うのよ。“由乃さん仕事してよー”って」
「ああ、言うだろうね。それは」
「そこでこう返すわけよ! “志摩子さんが凛々しいのが悪いんじゃない”ってね!」
「キャー!」
「見られたくなければそんなステキな顔しないでよね、ってね!」
「逆ギレ風なところは黄薔薇さまっぽい!」
「でしょ!?」
「あーあ、黄薔薇さまはいいなぁ。黄薔薇さまなら、毎日毎日、白薔薇さまに挨拶代わりに抱きついたりできるんだろうなー……」
「あの柔らかそうな髪に顔をうずめたりするのかー……」
「しかも毎日よ?」
「あー憎たらしい! 胸とかも当たったりするんだよね!?」
「そんなの当たりまくりよ! 首筋の匂いなんかも嗅ぎまくりよ!」
「体臭か!?」
「体臭言うな! さも臭そうに言うな! 志摩子さまの香りは三国一の傾国の芳香よ! 少なくとも私という名の国の、理性という名の城壁は確実に崩壊よ! 一嗅ぎでね!」
「私もよ! もうっ、黄薔薇さまめっ!」
「黄薔薇さまめっ! ずるい!」
「でさっ、薔薇の館の志摩子さまを盗撮とかしまくるわけよ!」
「もう自宅の部屋の中、隠し撮り白薔薇さまでいっぱいにして!」
「そうそう! 志摩子さまに囲まれた生活よ! 学校でも自宅でも志摩子さまよ! 志摩子中毒よ! 志摩中よ! 志摩子まみれの志まみれよ! 志まみれって言い方なんかアレね! なんかいただけないわね!」
「志摩子さままみれ……たっ、たまんないわね!」
「でしょ!? でも本当にまみれたらたぶん止まることなき鼻血で死ぬね!」
「いえ大丈夫! 乃梨子さんまだ生きてるし!」
「あ、そうか! そうね! ……いやっ、彼女にはきっと免疫ができてるはず! でも私達は免疫できるほど接触してないわ!」
「あーそうかー……黄薔薇さまくらい一緒にいたら、免疫もできてるんだろうね」
「もうっ! 黄薔薇さまはずるい!」
「ずるいよね! ずるいよね!」

  キーンコーンカーンコーン

「あ、チャイム」
「早く教室戻ろう」




 ようやく個室から出られた由乃は、とりあえず流してゆっくり手を洗い、授業が始まろうというのに急ぐ気力も湧かず、ともすれば膝さえ付きそうなほどの脱力感に苛まれていた。
 聞かなければよかった。
 こんなにダメージを負うくらいなら、少々気まずくなろうとも堂々と出て行って手を洗ってトイレから出ればよかった。いや、悪口を言われているならそうしただろう。悪口ならば。
 けれど、あの内容は……
 だが冷静になると、理不尽な悪役扱いが悔しくなったので、しばらくの間はお望み通りに、挨拶代わりに志摩子に抱きつこうと決めた。傾国の芳香とやらも嗅ぎまくろう、と。


 そして由乃は、複雑に絡み合う人間関係のもつれが原因で、部活中に菜々にいじめられることになるのだった……








●5.ラーメン「由乃屋」


「いらっしゃいませー!」
「いらっしゃいませー何名さまですかー!?」

 さわやかな来店の挨拶が、胃袋をくすぐる店にこだまする。
 ラーメン屋「由乃屋」の店内に集うお客さまたちが、今日も空腹を抱えて、黄色い暖簾をくぐり抜けていく。
 汚れを知らない心身を包むのは、深い色のエプロン。
 うっすら透き通って黄金に輝く鶏がらスープはこぼさないように、熱くたぎった湯に泳がせた由乃の汁は飛ばさないように、ゆっくりと造るのがここでのたしなみ。もちろん、六道輪廻や燕返しといった、はしたない湯切りなどしようはずもない。
 ラーメン「由乃屋」。
 明治三十四年創立のこのラーメン屋は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるラーメン屋である。
 東京都下。武蔵野の面影を未だ残している緑の多いこの地区で、客に見守られ、幼稚園児から初老の方までラーメンが楽しめるお客さまの園。
 時代は移り変わり、リフォームを三回も繰り返した平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちのラーメン通が箱入りで出荷された挙句にチェーン進出もしているので全国だいたいどこででも楽しめるようになって仕事などで地元を離れても安心できる、という仕組みが未だ残っている貴重なラーメン屋である。


 彼女――、福沢祐巳は一見さんのお客さまの一人だった。




 ちょっと小腹が空いた祐巳は、弟が「あそこは美味い!」と力説していたラーメン屋の前にいた。
 ラーメン「由乃屋」である。
 お店の前まで、とても美味しそうな出汁の匂いが漂っている。あまりラーメン屋に行ったことがないので何味の匂いなのかはわからないが、たぶん食べればわかるだろう。
 それにしても、全国進出しているだけあって、十数名の行列ができている。それだけラーメン業界では有名だったり、祐巳のように口コミで聞いて来た人もいるのだろう。
 それにしても、なぜだろう。
 ここに来るまでは絶対にラーメンが食べたいとは思っていなかったのに、店の前に来たら絶対にラーメンが食べたくなってしまった。行列に並ぶくらいなら空いている喫茶店でサンドイッチでもいいのに、少々の時間を費やしてでも「由乃屋」のラーメンが食べたくなってきた。
 祐巳が心奪われている前でサラリーマン風のおじさんが二人並んだのを見て、祐巳も慌ててその後ろについた。
 と、その瞬間。

「あっ!」
「うわっ!」

 同じように横手から人が走りこんできたと思った瞬間、祐巳は身体の前面に軽い衝撃を受けた。次いで視界が傾ぎ景色が回って、その後すぐにお尻に激痛が走った。
 その後「私が押しつぶしちゃったの!?」みたいな一悶着があった挙句、同じリリアン女学園の先輩後輩という関係が明確になった時、その人――小笠原祥子さまは急に態度を一変させ偉そうになって「気をつけなさい」とのたまった。だが祐巳は基本的にMなので、押しつぶされてまだお尻が痛くても責められてちょっと嬉しかった。だって美人だし。

「時にあなた、ツレはいて?」
「いません……けど?」
「結構」

 なんとなく一緒にラーメンを食べることになった。


 ほどなくして、祐巳と祥子さまも無事店内に入ることができた。
 まず、店内に充満する熱気と、「食」のみを追及した食欲をそそる香りが身体を貫いた。鼻腔どころではない、全身に感じられるのだ――ラーメンを造る店長の、己を戒め、鍛え、研磨を続ける侍のような強烈なこだわりを。
 空いたカウンター席に祥子さまと並んで座ると、驚いた。
 どんな気難しそうな人が造っているのかと思えば、厨房には祥子さまと同じくらいの年齢の少年みたいな少女が、額に汗して慌しく動き回っていた。サッパリしたショートカットと、凛々しい顔立ちがかっこいい。そして店内をパタパタと走り回るのは、黄色いエプロンをかけて線の細そうな見かけに寄らない大胆な動きでラーメンを運んだり会計をしたりする、髪を二本の三つ編みにまとめた女の子。動きに併せて踊る三つ編みが可愛らしい。

「まずはお手並み拝見ね」
「え?」

 祥子さまのつぶやきは、喧騒に紛れて上手く聞き取ることができなかった。しかし不敵に笑みを浮かべたその横顔は、非常にSチックで基本Mの祐巳の心をときめかせた。だって美人だし。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 お冷を運んできた三つ編みの店員さんに、祐巳と祥子さまは普通のラーメンを頼んだ。
 チャーシューメンやベース以外の味噌やしょうゆ、ラーメンセット、チャーハンや餃子もあるようだが、とにかくお値段が少々高くなる……のはあまり気にならないが、初めての店の場合は最も力を入れている普通のラーメンが一番だ――と祐巳の弟が力説していた。
 三つ編みの店員さんの「ラーメン二つ!」という威勢の良い声に、厨房のショートカットの女性は「あいよラーメン二つ!」と復唱した。どうやら二人で切り盛りしているらしい。
 店内を踊る三つ編みをなんとなく目で追いかけていると、祐巳達のラーメンが出来上がり、ショートカットの女性が「熱いから気をつけてください」と言いながらカウンター越しにどんぶりを差し出した。
 これが、待ちに待った由乃屋のラーメン。
 ずっと匂いに当てられ、お腹の虫も大騒ぎしていた祐巳は、どんぶりを大切な宝物のように両手で受け取った。
 透明な黄金色のスープはものすごい勢いで芳醇な鶏がらの香りと湯気を立て、浮いた油に照明がキラキラ輝いていた。半分に割られた黄身がとろーっとしている半熟卵と、スープに溶け出す魅惑のバラ肉チャーシューが二枚。色の強い刻みネギの緑が映え、歯ごたえのあるメンマも添えてある。
 普通と言えば普通の見た目である。が、これ自体をあまり食べない祐巳は、透き通るスープがとても綺麗だと思った。

「見た目は普通か」
「え?」

 祥子さまを見ると、彼女はパチンと割り箸を割った。

「ぼんやりしていると伸びるわよ」

 それはいけない。このラーメンを食べるために並び、今ここにいるのだ、ぜひとも一番美味しい状態で食べるべきだ。
 祐巳も割り箸を一本取り、左右に割った。その隣では見目麗しき祥子さまが、ズゾゾゾゾゾゾーとイメージを瓦解させる音を立てていた。なんというか、豪快だ。でも美人だ。
 それにしても、とても美味しそうな音である。きっとラーメンとは、そう食べてこそ美味しいのだろう。変に気取らないところが良いのだろう。
 祐巳がようやくスープに箸を付けた時だった。

「由乃が固いわ」
「へ?」

 祥子さまのその言葉は、今度こそちゃんと聞き取れた。それが意味することまでも理解できた。
 そして、厨房にいるショートカットの女性にも、聞こえていたようだ。

「好みなのでしょうけれど、由乃が固い。でもこのスープであるなら、もっと火を入れた方が味が絡むはず。それにしてもオーソドックスなストレート由乃、ね。もう少し他の選択があったのではないかしら」

 祥子さま、いったいどうなさったの!?――と一瞬ギョッとしたが、すぐに一瞬どころではないことを悟った。
 祐巳はハラハラした。厨房から覗くショートカットの女性の瞳は、どんどん剣呑な光を帯びて祥子さまを見ているのだ。
 しかし祥子さまの口は止まらない。

「濃い出汁のあっさりスープは良い。若干和のテイストも入っているところがアクセントね。チャーシューへの香り付けも、少々奇抜だけれどアリだと思うわ。味付け卵もいいし、ちょっと多めのネギが香りの邪魔をしているようで全体の調和を成立させている。静のみで統一するのではなく、静に対する動を絶妙のバランスで組み立てたのは見事よ。素晴らしいわ。
 けれど、だからこそ惜しい。この由乃ではマッチしない。紙一重の誤差がこの小宇宙に影を落としている……」
「私の由乃にケチ付ける気?」

 ああ、ついに厨房の女性が口を出してきた。いや、ついに、ではない。祥子さまはきっとそうさせるために言っていたのだ。わざと聞こえるように。 

「ケチなんて。もったいない、と言っているだけだけれど?」
「何、クレーマー? だったらお代はいらないからお引き取りください」

 明らかな拒絶をもって、ショートカットの女性は祥子さまに背を向けた。だがしかし、次に放つ祥子さまの一言で、彼女は振り向かざるを得なかった。

「――ちぢれ由乃は当然試したのでしょう?」
「…っ!」

 振り返った女性は、それこそ殺意を放つ剣士のような瞳をしていた。
 しかし、祥子さまは一ミリたりともひるまない。相手の放つ敵意も殺意も驚愕も、全てを受け止めていた。

「ちぢれ由乃よ。どう考えてもあっちの方がこのスープには相応しい。違う?」
「…………」
「ここまで油分も薄くあっさりしているのであれば、決して胃にもたれない。それどころか客の舌に、客の身体に馴染ませれば馴染ませるほどリピーター率が上がるわ。悲しいけれどスープを味わってくれない客もいる。しかしラーメンを頼んで由乃を食べない客はいない。ちぢれ由乃であれば、由乃を楽しませるだけでスープをも味わってもらえる。どう考えても由乃の選択を誤っている」
「私はストレート由乃が好きなのよ! 確かにちぢれ由乃もいいけれど、子供の頃からストレート由乃に慣れ親しんで育ってきた私にとって、ストレート由乃は私にとって無くてはならない存在なの! 文句があるなら食べなければいいじゃない! 私の由乃に文句は言わせない!」

 喧騒に満ちていた店内が、しんと静まり返った。グツグツと何かを煮込む音と、テレビから流れてくる無機質な音だけがこの場を支配していた。
 フッ、と、祥子さまは笑った。

「そうやってムキになるってことは、あなた自身も理解しているようね」
「なんのこと!? だいたいあなた誰よ!?」

 掴み掛からんばかりに詰め寄るショートカットの女性の目の前に、祥子さまは素早く何かを差し出した。どうやら名刺のようだが……
 それを見たショートカットの女性は、ハッと息を飲んだ。

「お、小笠原祥子……あのR−1グランプリ初代優勝者の……当時十歳で優勝をさらったあの天才少女!?」

 店内がざわめいた。R−1……祐巳はまったくわからないが、なんかまあ、ラーメン通には有名なコンテスト的なものらしい。そう、きっとRはラーメンを意味しているはずだ。

「私と一緒に、ストレート由乃を使った究極のラーメンを造ってみない? ――どうかしら、支倉令さん? 私とあなたが組めば必ず造れるはずよ」
「……あなたは卵とほうれんそうを練りこんだベジタブル系由乃が専門でしょう? そしてそれに合うスープを多数開発した。なぜ今更ストレート由乃に興味を持つの?」

 訝しげに腕を組む支倉令さんに、祥子さまは慈愛すら感じさせる穏やかな笑みを向けた。見た者の心を捉えて離さないような、そんな微笑みを。ほら美人だ。

「ラーメンを、由乃を、極めたいの。うどんのような歯ごたえのある超極太由乃も、滑るように入っていく極細由乃も、独特の食感が楽しい平由乃も、人の数だけ好みの食べ方があると言われる付け由乃だって。もちろん癖のない由乃だって好きよ。
 私は由乃の全てを愛しているのよ」


 騒然とする店内。
 返事を待つ祥子さま。
 名刺を手に返事ができない支倉令さん。
 そして、なぜか赤面して「告られた……」と謎の呟きを漏らす三つ編みの店員さん……

 天才・小笠原祥子と、鬼才・支倉令の出会いは、革命のプレリュード。
 六千年の歴史を持つラーメン業界は、ここから退廃的な創造と、前衛的な破壊を繰り返すこととなる。
 それらが行き着く先に何があるのか……


 ラーメンを愛する少女達が、由乃を手繰って運命の歯車を回し始めたその時。




 祐巳は「あーおいしかった」と言いながら、満足してラーメン「由乃屋」を後にしたのだった。
 あれなら由乃大盛りでもいいかなぁ、とか思いながら。








●6.三年生になったら……


  三年生になったら
                             一年菊組 島津由乃

 三年生のお姉さま方を見上げて、果たして自分が本当に三年生になる日が来るのか、と疑ったことがある。
 私から見た三年生は、凛々しく、芯がしっかりしていて、大人のような責任感と尊敬する品格も持ち合わせ、考え方も発想もたった二歳違いだとは思えなかった。たかだか七百日ちょっと長く生きているだけで、こんなにも違うのかと愕然とした。
 持病のせいもあるのかもしれない。
 気持ち上の積極性はあっても、私の身体はそれに応えられない。皆が簡単に踏み出すであろう一歩さえ、私には越えることのできない大きな壁になり得た。その壁を登る意思はあっても、意思だけでどうにかなるほど現実が甘くないことは、これまでの人生だけでうんざりするほど思い知らされた。
 だが、それはいったん置いておく。未だ手術を受ける覚悟ができない以上、この病も私自身だからだ。解決法を知っているのにそれをしないのは、認めたくはないが、ただ逃げているだけに過ぎない。そして逃げている事実を率先して何かの言い訳になどしたくない。

 話を戻そう。
 そう、三年生のことだ。
 私から見れば、縁があったから、としか云い様のないことだが、高等部生活が始まって間もなく、私は山百合会の一員となった。これまでの人生にほとんど縁のなかった、二つ上の先輩という、とても遠い存在とお近づきになってしまった。私個人の能力や縁に寄るものではないので、望むべくもなくというか、否応無くというか。たとえそれが予想できる未来であったとしても、想像と現実は違うものだから。当初はだいぶ戸惑ったことが自分的にも新鮮だった。
 しかも、その二つ上の先輩というのが、普通の高校であれば生徒会長に値する存在である。恥じる点など一つもなく、できないことなどないと主張するかのように堂々とし、当然のように成績優秀で容姿端麗、おまけに突然変異か優良遺伝子の塊かってくらいに胸も大きい。たった二歳違いなのになんて余裕だろう。
 三年生になったら。
 私もあんなに胸が大きくなるのだろうか。
 いや、よそう。
 そんな幻想を本気で信じられるほど、高校一年生は甘い夢と脆い砂糖細工でできた存在ではないのだから。特に私は現実の厳しさ、恐ろしさを痛みを伴い理解している。高校一年生ともなれば、素質のあるものはメキメキと二つの乳頭、いや、頭角を胴体やや上部から前方に突き出し威嚇し始める。そして素質のないものは小・中学時代の下着を今でも簡単に着けられてしまうという各ご家庭で経済的に、かつエコロジーで地球に優しい存在なのだ。もちろん走る時だって邪魔になどならない。更に「揺れる」だの「弾む」だのといった重力のリスクを極限まで受けない。これはもう地球の恩返しとも言えるのではなかろうか。そうだとすればもはや地球に選ばれた人種だと言っても過言ではないのだが、今はまったく関係ない。

 紅薔薇と呼ばれる、水野蓉子先輩。
 白薔薇と呼ばれる、佐藤聖先輩。
 そして黄薔薇と呼ばれる、鳥居江利子先輩。
 学園では敬称が違うので「先輩」と書くと自分でも違和感があるものの、世間的にはこれで正解だ。
 薔薇などという称号も大概現実離れしているが、それが似合うという稀有な人材が同学年に三人もいるという事実も奇跡的だ。まあ、そういう人達が選ばれているから当然だ、と見るのも解釈の一つかもしれないが。
 だがそう解釈すると、私が山百合会の、黄薔薇のつぼみの妹というポジションに入ってしまった現実とは、なかなか残酷ではないだろうか。
 山百合会は世襲制ではないものの、学園では山百合会に所属する二年生や一年生が、当然のように生徒会選挙に出て、当然のように当選するというシステムがすでに出来上がっているのだ。
 今はまったく現実味がないものの、私も三年生になったら、薔薇という称号を継ぐのかもしれない。たとえ私がどんな存在であろうと、山百合会に在席しているというだけで、その称号を手にするためのエスカレーターには乗れたのだと思う。全校生徒の手で、全校生徒の意思で選ばれる代表ではあるが、極端に言えば毎年選り取りみどりで選べるほど立候補者が出ていないのだから、それはすでに「山百合会の住人」と珍しいラベルが貼られた者が当たり前のように当選する確率も高くなるし、競争相手への牽制の意味も強くなる。

 それにしても、私が薔薇の称号を得るなんて、本当に想像もつかない。
 私が三年生になったら。
 あの水野蓉子先輩のように、大人びたOLのような雰囲気を持ち合わせているのだろうか。もちろんOLといっても、イメージしやすいドタバタ新人のそれではなく、入社当初からキャリアウーマンのようなできる女風のだ。別に決して「あんたほんとに十代かよ」とツッコミを入れたいわけではない。決して「十代にして熟女の魅力を兼ねた少女」などとも思ったりなんてしていないのでそこんとこ誤解しないでいただきたいと思います。
 私が三年生になったら。
 あの佐藤聖先輩のように、異国風のエキゾチックな魅力を身につけているのだろうか。まあ、エキゾチックというか、所作の一つ一つが洗練されていて、なんというか妙に官能的なのだが。さりげなく肩を抱いたり、さりげなく頬に触れたり、さりげなくお尻にタッチしたりするのだ。セクハラだろうか。あれはセクハラなのだろうか。確か女性同士でもセクハラは成立するはずだが、あれはセクハラということでいいのだろうか。リップクリームを塗ってくれたりするのもセクハラだろうか。
 いや、逆に考えよう。
 薔薇の称号を得たら、セクハラしなければならないのではなかろうか。そういう義務が発生するのではなかろうか。
 うん。そんなわけない。どう考えても。

 私が三年生になったら。
 だがしかし、あの鳥居江利子先輩のようにはなりたくない。
 アルバムで見たあのおでこ、どう観察しても、毎年少しずつ、面積が


 ×  ×  ×


 私は、原稿用紙を閉じた。
 これは確か、一年生の夏休み、読書感想文の宿題で読んだ本のテーマが「将来への理想と現実」だのという内容で、そこから自分に照らし合わせて筆を進めたものだ。
 むろん、言うまでもないが、これはボツ原稿である。書いている内に想いが加速し、夢中になりすぎて何を書いているのかよくわからなくなった末の結晶である。こんなものを世間に出したら、私はきっと何者かの報復を受けるだろう。当時の私からすれば本気で命に関わったに違いない。
 それにしても懐かしい。
 何もかもが懐かしい。
 私がまだ病と付き合っていた頃の葛藤、悩み、環境の変化への戸惑いが、手術の違和感もなくなったこの胸に蘇る。
 私が三年生になったら……か。
 実際三年生になってしまったわけだけれど、あの頃の私より、私は成長したのだろうか。
 胸は相変わらず地球に優しいままなのだが。
 寄せておいた鏡に、今の自分を映してみる。

 蓉子さまのような熟女の魅力は……まあ、身に付いていない。
 見れば見るほど童顔だ。私服だったら中学生に間違えられるかもしれない。十七だっつーの。もう少しで車の免許取れるっつーの。
 十代でありながらキャリアウーマンの魅力、か。
 だったら蓉子さまが歳相応に見えた頃って、いつくらいまでだったんだろう? 中ニか中三くらいだろうか? 薔薇さまの時にはすでにそうだったからなぁ。
 きっと蓉子さまも苦労しただろう。バスの大人料金とか。街のホステスのスカウトとか。未成年だっつーの、と思ったに違いない。


 聖さまのようなセクハラは……正直できかねる。
 あれはもう才能だ。何されても大概のことは「まあ聖さまだからね」で済んでしまうのだから、ある意味恐ろしい話だ。
 それにしても、女の子の身体を触って何が楽しいんだろう?
 ……今度試してみようかな?


 過去の自分に想いを馳せた後、少々の恐怖心を感じつつ、そっと前髪を上げてみる。


 ――ああ、江利子さまのおでこだけは、狙い通り阻止できたか。








 私は原稿用紙を折り畳み、デスクライトを消し、椅子から立ち上がった。


 月と、過去の由乃だけが彼女を見ていた。






 

●7.伝言メモ


・部室棟に行ってきます。ついでに武道館に顔を出して田沼ちさとにイヤミを言ってきます。 由乃

・今日、偶然祥子さまにお会いしたので聞いておきました。委員会でも式に向けての用意があるそうなので、一度顔を出してきます。  志摩子

・由乃さんが戻ってこないので、武道館に迎えに行ってきます。  祐巳

・職員室へ行ってきます。その足で瞳子と一緒に各部へ書類を届けてきます。  乃梨子 瞳子

・科学部に行ってきます。でも本当にリリアンに大阪弁の子がいるの?  由乃

・申し訳ありませんが、昼休みにお話した通り、家の都合で本日は先に帰らせていただきます。あと大阪弁ではなく関西弁だと乃梨子が。  瞳子

・関西弁ってなんだか怖い印象があるのよね。  志摩子

・でんがなまんがなー。ねぇちゃんかわいいなー。  由乃

・きゃあ怖い。  志摩子

・楽しそうだね。  祐巳

・仕事してくださいよ。  乃梨子

・今日、お姉さまとグラウンドでお会いした。体操服を着ていた。やはり胸がなかった。  瞳子

・瞳子。いろんな意味で叱ってあげるから今度うちに泊まりに来なさい。  祐巳

・きゃっ。祐巳さん大胆。  由乃

・由乃さんがすごく嬉しそうな顔をしているので、なんだか元気を吸い取られているような気分になりました。近頃腰が痛いです。  志摩子

・お姉さまのために湿布を持ってきました。冷蔵庫に入れてあるので、必要な方はご自由にどうぞ。  乃梨子

・あの空を自由に羽ばたく翼が欲しい

・これ誰のメモ?  由乃

・志摩子です。なんだかふわふわしてとっても気分がいいの。  志摩子

・今日のお姉さまはすごかった。実は天才なんじゃないですか?  瞳子

・確かにすごかった。日本一の漫才師の魂が乗り移っていたかのように。  由乃

・別に普通だよ。ところで最近志摩子さんの元気がないね。  祐巳

・私が吸い取ってるのよ。色々。  由乃

・返せ。(あえてタメ口で書きました)  乃梨子

・なんだか最近手が震えるのよ。腰の痛みも増してきたし、なぜかお尻も筋肉痛で。ここ数日は慢性的に足が筋肉痛なのだけれど、ついでのように寝ている間にこむら返りを起こしたみたいで歩くたびに脹脛に痛みが走るようになって、階段を三階まで登るとなんだか胸の鼓動に刺すような違和感があるの。そういえば少し熱っぽいし、喉も少し痛いわ。肩凝りのせいか頭痛もするのよね。あとどうでもいいけれど体育館の使用許可関係の書類がありませんが、誰か持っていますか?  志摩子

・志摩子さん、これ読んだらすぐ帰れ。  由乃

・由乃さんに同意。帰って。乃梨子ちゃん、仕事はいいから付き添ってあげて。 祐巳

・ボロボロじゃないですか。道理で顔色が悪すぎる割にはハイテンションだと思いました。お花畑じゃないですか。車を回してもらうよう手配しておきましたので、家まで送ってもらってください。  瞳子

・瞳子ありがとう。遠慮なく使わせてもらう。では、今日はこれで。  乃梨子

・蔦子さんから伝言 反抗期はツンデレとは違う、だって。  祐巳

・誰への伝言?  由乃

・真美さまから伝言 リリアンの代表は山百合会でいいとして、日本の代表は地井タケオでいいよね? と。  瞳子

・タケオではダメよ! それではベッカムに勝てない!  志摩子

・タケオって言うな! 知り合いみたいに言うな! あとタケオならがんばればベッカムに勝てるよ! タケオを舐めるな!  由乃

・そうだよ志摩子さん! 志摩子さんはタケオの地力を軽視しすぎてるよ!  祐巳

・でも相手はあの世界のベッカムですからね。果たしてタケオはやってくれるのか……  瞳子

・一回落ち着きませんか? このメモでのやり取り自体に疑問があります。  乃梨子




 卒業式を目前に迎えた昨今。
 ここ数日の山百合会は、多忙に多忙で昼休みも放課後もまともに集まれないような状況だった。
 そんな中、メンバー同士が確実に連絡を取り合う手段として、「些細なことでもメモを残す」を徹底し過ごしてきたのだが。
 一度冷静になってメモの束を頭から見直してみると、由乃は「うわぁー」という感じのやり切れない気分になった。
 疲労がピークに近づくにつれ、肉体疲労に反比例して皆の精神状態がニュートラルからハイになって行く様が如実に表れている。もうすごい勢いの右肩上がりだ。
 特に志摩子さんは、二年生でありながら白薔薇さまなもんで、自然と仕事が集中してしまった。真面目なせいでそれを均等に回すでもなくがんばりすぎたせいで、今もおかしい。血の気の薄い真っ白な顔で「南ちゃんは結婚なんかでは幸せになれないタイプじゃないかしら?」などと言っては自分の妹を困らせている。彼女はこの後、松平からのお迎えの車が到着し次第、強制退場が約束されている。本人は……まあ、たぶん正常ではないだろう。その義務感と責任感は尊敬に値するが、がんばりすぎると妹や周囲が心配してしまう。点滴でも打ってくればいいよ。


 まあでも、この激務も毎年のことなので、もう慣れたものだった。








●8.令ちゃんの鞄


 私は奇跡を見たことがある。
 ただただそこに存在するだけの、誰のためでも誰のものでもない、誰も知らずに埋もれ消えていくはずだった奇跡を。
 でも奇跡と言っても、別に大したものではない。人命に関わるものでもなければ、誰かの役に立ったりするものでもなくて、もし存在理由があるのだとすれば、一時でも私に「うわ奇跡だ」と呟かせるくらい小さな感動を生んでくれたことくらいである。
 話のネタになるかならないか、くらいの小さな出来事で、正直に言って出所も内容も微妙なので大声では言いづらいのだ。
 でも、あれは紛れもなく、誰にも否定させられない純然たる奇跡である。


 奇跡は、令ちゃんの鞄の中にあった。


 きっかけは、部活中の令ちゃんを待っている間に、持っていた文庫本を読み切ってしまったこと。
 あれは中等部時代。
 五月末の教室は、暑くもなく寒くもなく、長時間いても負担は少なかった。
 暇つぶしに教科書を読みふけるほど勉強熱心ではないし、放課後になれば宿題以外で勉強に触れたくもない生徒は、私だけじゃないだろう。
 何より読了後の余韻である。このなんとも言えない満足感だけは、たぶんお金を払うだけでは得られない類のものに違いない。そしてそれは温まった椅子から立ち上がったら、きっとなくなってしまうささやかなものである。まあ有体に言えば立つのが面倒なのだが。
 さてどうしたものか。
 待っていると約束した手前、先に帰るわけにはいかない。第一に待ち時間はあと10分程度である。いくら短気な私でも待てない時間ではない。
 だがこのままぼんやり待つ、というのもあれだ。退屈だ。
 そこで目に付いたのが、隣の机に置いてある令ちゃんの鞄である。今日の剣道部はミーティングのみなので一緒に帰ることになっていた。で、令ちゃんは行きに荷物をここへ置いていったわけだ。
 どうせ令ちゃんのことだから鞄の中にはコテコテの恋愛小説が入っているに違いない。ああ見えて乙女分が切れたら生きていけない体質なのだ。令ちゃんは。
 退屈しのぎに、私は躊躇なく令ちゃんの鞄に手を伸ばした。プライベートなバッグならともかく学生鞄である。真面目なリリアンの生徒として、入っている物に危険物などあろうはずがない。だいたい私達の仲でプライベートのバッグだろうと学生鞄だろうと隠したい物など存在しないのだから。
 それに、目的は本だけである。仮にアレな物が入っていたとしても気にしない。……たぶん。
 変な心配をしつつ中身を物色してみる。当然のように教科書とノートが入っているし、目を覆いたくなるブツもなかった。
 そして目当ての文庫本を発見した。
 カバーなんてつけちゃって。
 さてさて、最近はどんなベタベタ恋愛小説を読んでいるのかな、と――

「……“よいこの恋愛マニュアル”?」

 一瞬ハウツー本かとも思ったが、そういうタイトルの小説らしい。
 あらすじを読んでみる。
 えー、高校生になった天里ノアは、同じクラスの秋原アキラに一目惚れする。実はアキラもノアに片思い中。二人は両思いなのだが……!?
 なのだが?
 パラパラと捲ってみる。
 あー……あーそう。
 二人は両思いなんだけど、二人ともこれが初恋だからどうしていいのかわかんなくてなんたらかんたらってことね。あーそう。なるほど。あ、そう。そしてお約束のように周囲にはバレバレで、気付いてないのは本人達のみって寸法ね。あーそう。健康的なラブコメってことでいいわけね。あ、そう。
 一番盛り上がるシーンに栞を移動させておく、なんてイタズラはしないで、私はそっと文庫本を鞄に戻した。
 せいぜい乙女の夢を見なさいよ、と思いながら。




 そんなことがあった一ヶ月後、似たような状況になった。
 私はなんとなく令ちゃんの鞄を開けた。今どんなの読んでるんだろ、と興味半分で。
 見覚えのあるカバーがかかった文庫本を取り出し、開いてみた。

「……“シーラカンスは夏に舞う”?」

 一瞬夏空に魚型宇宙船が群れてやってくるSF話かと思ったが、やはり恋愛小説らしい。
 あらすじを読んでみる。
 えー、怪我が原因で水泳を捨てて以来、生きる意味を失った少女・千歳かなえは、ひょんなことから学校一の不良男子・相田裕二が泳げないという秘密を知ってしまう。「おまえを殺して俺も死ぬ」と必死の形相で訴える彼に、千歳が取った行動とは……!?
 行動とは?
 パラパラと捲ってみる。
 あー……ほー、へー。
 なんやかんやあって嫌々ながらも裕二に泳ぎを教えることになったかなえは、裕二の類希な運動センスを見出しそれが恋になってどーたらこーたらってことね。へえー。恋愛よりスポ根と青春の苦悩がメインみたいね。特に最後の方がちょっと熱い。色々あって不良グループと決別し水泳選手として才能を開花させ始めた裕二と、失った水泳を故障した身体でまた始めたかなえが水泳で勝負、ってところで終わっている。どっちが勝ったのかは読者の想像にお任せなのか、これから続巻が出るのか。恋愛方面でもっと書けることがあるような気もするが、話的にこれがもっとも綺麗な終わらせ方かもしれないとも思う。
 一番盛り上がるシーンに栞を移動させておく、なんてイタズラはやはりしないで、私はそっと文庫本を鞄に戻した。
 これはちょっと面白いかもしれない、と思いながら。気が向いたら貸してもらおうかな。




 それから二週間後、今度は私の部屋だ。
 昨晩から熱を出して寝込んだ私の部屋に、学校帰りの令ちゃんがやってきた。
 昨日からずっと寝ているせいでさすがにもう眠れないし、もう微熱程度まで下がった。明日には登校できるだろう――という体調で、安静は必要だがベッドから出ることはできない。なので本を読むくらいしかできることがなかった。
 しかし未読の本はもうこの部屋にはない。
 というわけで、今回は堂々と「何か文庫本ない?」と、直接本人にお伺いを立ててみた。前のスポ根みたいなのなら恋愛要素があっても楽しく読めそうなので、面白そうなら令ちゃんの次に貸してもらおう。シーラカンスは自分でネタバレしちゃったから読む気が失せたのだ。惜しいことをした。

「文庫本? 今読んでるのはこれだけど」

 今更隠すような仲でもないので、令ちゃんは鞄から見覚えのあるカバーの本を出し、私に差し出した。
 お礼を言いながらそれを受け取り、さっそくパラッと表紙を捲ってみる。

「……“海苔を食べるおいしいおかず”?」

 一瞬そういう名前の恋愛小説かと思ったが、当然のようにただのお料理本だった。そりゃそうだ、だっておいしいおかずの本だもの。おいしそうな写真図解付きの本だもの。
 なんとなくパラパラ捲ってみる。
 …………ふーん。

「おいしそうだね」

 黒々と、または青々としているものばかりだが、なじみの食品なのでどれもこれも普通においしそうだった。

「でしょう? そこに載ってる海苔汁はかなりおすすめ」
「ほんと? 今度作ってよ」
「いいよ」

 しばらく海苔関係の料理で盛り上がった後、令ちゃんは帰った。
 海苔汁、楽しみだ。




 それからまた一ヶ月が過ぎた頃。
 学校の帰り、令ちゃんと一緒に本屋に寄った際。
 私は、令ちゃんが買おうと手に取った本を見て、思わず「うわ奇跡だ」とつぶやいてしまった。
 だがそんなことが本当にありえるのか、と自分に問い掛けてみると、胸がざわざわっとした。
 ――令ちゃんは全てわかっていてそれを買おうと……いや、私に見せたのではないか、と。
 そんなことを一瞬思ったものの、首を振る。そんなことはありえない。令ちゃんの鞄には、同じ本は最長でも三日くらいしか入っていない。きっかけから今日まで一ヶ月などの短期間であるならともかく、三ヶ月は経過しているのだ。最初も最後も選べないのだから、そんなはずがない。絶対にだ。
 ならば、これはなんなんだろう。
 やはり奇跡という奴だろうか。

「令ちゃん、その本……」
「ん? これ?」

 恐る恐る声を掛けると、令ちゃんはひょいと手に持っていた本の表紙を私に見せ付けた。

「……“萌え黄の大地”……」




 私は三冊目くらいから気付いていた。
 そこまでは偶然だと信じて疑わなかった。
 なのに、奇跡は起こってしまった。

 一冊目は“よいこの恋愛マニュアル”。
 二冊目は“シーラカンスは夏に舞う”。
 三冊目は“海苔を食べるおいしいおかず”。
 四冊目は“萌え黄の大地”。


 奇跡である。これは紛れも無い奇跡である。
 ただし、はっきり言って、どうでもいい類の奇跡である。

 そして他に何があるわけでもなく、令ちゃんは五冊目に「ハイティーン・メイドさん」などという何かのネジがゆるんだタイトルを呆気なく選ぶのだから、やはりただの偶然という奇跡だったのだ。




 正直な話、気付かなければよかったと、ちょっと思っている。








●9.リリアン最後の侍ガール


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」

 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。


 一人の少女がいた。
 足音一つ立てない高度な摺足で身を運び、隙のない動きで周囲を警戒し、ともすればすぐに抜刀できるであろう、だが自然体の無形の四肢。
 彼女こそ、リリアンに通う日本最後の侍ガール、島津由乃その人であった。




 ある昼下がりのこと。
 どこぞへの上り電車に、こんな親子が乗っている。

「わーいわーい」
「あらあら太郎ちゃん、そんなに走ると危ないわよ」

 乗客にぶつかったり蹴ったりしながら大声を張り上げ走り回る子供、携帯に夢中で全く注意しない親……周囲の人達は一様に迷惑そうな顔をしていた。
 そして――リリアン最後の侍ガール、島津由乃は立ち上がった。

「フォォウ!」
「ぎゃあ」

 容赦なき一刀! 怪鳥の雄たけびかマイケルのシャウトを思わせる声を上げ、由乃の放った袈裟懸けに子供はとても簡単に散った。
 振り下ろされた刀は刹那の間すらなく、次いで横一文字に走った。

「あっ」

 その刃は次元さえも両断しそうなほどの鋭さで駆け抜け、一筋の閃光は澄んだ音の鍔鳴りとともに消え、音とともに母親も散った。
 ほんの二秒にも満たないわずかな間に、侍ガール由乃の手で悪は断たれたのだった。




 ある昼下がりのこと。
 かのリリアン女学園の校門前に、あやしい男が立っている。

「ねえ君、あのさ、こう黒髪がすごく長くてシュッとしてて背が高くてプロポーションも良い、大人っぽい子のこと知らないかな? たぶん高等部の子だと思うんだけど。ロサなんとかとか呼ばれててさ。あ、僕ね、タレント事務所のスカウトなんだけどね、知らないかな?」
「し、知りません。近づかないでください」

 明らかに引いている女生徒に詰め寄るスーツ姿の男。今にも泣きそうなほど怯えているのに、男はやや興奮気味に「あ、これ僕の名刺ね」と身分証明のつもりかゴミに等しい紙クズを見せようとしている。
 そして――リリアン最後の侍ガール、島津由乃は動いた。

「……え?」

 砂埃を踏む音すらなく、由乃は男の真横を通り過ぎた。速過ぎる居合斬りは落ち葉の囁きほどの鍔鳴りだけを残しただけで誰の目にも止まらなかった。
 男は自分の身に何が起こったのか、痛覚さえ感じることもなく意識を失った。
 男が倒れ込み散った頃、侍ガール由乃は何事もなかったかのように粛々と校門を潜るのだった。




 ある昼下がりのこと。
 チャラチャラした女が歩いている。

「てゆぅーかぁー。アンタとはぁアソビだしぃー」

 軽薄にデコった携帯片手に軽薄そのものが軽薄な服装をして軽薄な口調で軽薄に歩きながら軽薄な見せブラ全開で谷間とかすごい軽薄な感じだ。頭とかも超盛ってるし。
 そして――リリアン最後の侍ガール、島津由乃は動いた。

「巨乳は消えろ!」
「それ超やつあたりだしぃー」

 軽薄な女はバレリーナのようにクルクル回ってドラマチックに散った。そしてなぜかリリアン最後のボケ姫・福沢祐巳がどじょうを掬っていた。




 ある昼下がりのこと。
 道端で接吻などという破廉恥なことをしている男女がいた。

「子供に悪影響!」

 男女は散った。そしてなぜか急にリリアン最後の舞姫・藤堂志摩子があっぱれ扇子で舞っていた。




 ある昼下がりのこと。

「OH! プリティSAMURA-Iガール!!」
「ちゃんと発音しろ!」

 観光外国人は散った。「ニホンゴワカラナーイ」と言って値切り倒した最新型デジカメごと散った。




 ある昼下がりのこと。
 タバコのポイ捨てをした男は散った。




 ある昼下がりのこと。
 前花寺生徒会長は散った。




 ある昼下がりのことマッチョは散った。




 Gは散った。




 なんか散った。




 ドリルが散った。本体を残して散った。








由乃「っていう感じの現代活劇はどうかな?」
二人「却下」


 八月某日。
 今年の劇の題目は、まだ決まらない。











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