【3162】 この世の果て  (海風 2010-04-24 15:13:00)



【No:3157】【No:3158】【No:3160】から続いています。











「そちらから、“紅に染まりし邪華”水野蓉子さま。“黄路に誘う邪華”鳥居江利子さま。そして私のお姉さまである“白き穢れた邪華”佐藤聖さま。
 二年生の“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子さま。“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令さま。
 一年生、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃さん。
 ええっと、三年生は代々伝わる薔薇の名を継いでいて、それは事実上リリアンで最も強い三人が背負うものだと言われています」
「ちなみに華の名前が入っているのは三薔薇と蕾だけだから。更にちなみに名称も正確に継いでるから、紅薔薇なのに黄色い感じの異能を使う人もいたらしいよ」
「少なくとも現薔薇三人は、名前を継いでからは一度も負けていません。負けた瞬間からその称号を永遠に失うからです。薔薇は二度と返り咲くことはできません。負けたら自動的に蕾が薔薇に繰り上がりますから、薔薇をやぶった者がそのまま地位を獲得することにはなりません」
「世襲以外の正式な入れ替えは、他の薔薇二人の承認が必要になるわけよ。おまけにその場合は勢力関係も揉めるのよね。そりゃいきなりトップが変わったら、下は反感や不満もあるでしょう。世襲でさえ揉めるのに、嫌いな人や自分が認めていない人がなったらなおのことね」
「そういった理由で、薔薇の椅子が不在になることもあったそうです。確実に言えるのは、一つが落ちたらその椅子を狙って争いが絶えなくなる、ということでしょうか」
「他の薔薇にしても他人事じゃないからね。自分の味方をそこに据えれば、戦局は圧倒的に有利になるし」
「あとは……何かあるかしら?」
「ロザリオ狩られた蕾や、蕾の妹の話は?」
「それは由乃さんの話ね?」
「“反逆者”だって襲われることもあるでしょ」
「いえ、あまり。高等部に入ってからは一度も」
「ないの?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
「志摩子さんずるい!」
「ずるいって言われても」
「私なんて強くなるしかなかったんだからね! BB弾みたいな弾しか出ない銃しか出せなくてさぁ! 弱いししょぼいしまっすぐ飛ばないし当たっても服さえ貫けない! もう直接殴打してたわよ! グリップで!」
「それでよく勝てたわね……」
「奇跡って……起こすものだから……」
「かっこよく言われても……」
「――おーい。すっかり話が脱線してるぞー」




 朝の風景は、とにかく平和だった。
 特に一年桃組はことのほか静かで、にぎやかな朝の語らいは局地的にしか起こっていなかった。
 これを本当に平和と言うべきかどうかは、意見が別れるところかもしれない。

(どうしてこうなった)

 いつの間にやら朝の語らいの中央に据えられている福沢祐巳は、数日前までの日常が懐かしい。
 進級以来の地獄なんて、そんなヌルイものは地獄ではなかったのだ。針の山を登っているかと思えば、それは単に堅い足ツボマッサージのイボイボが痛かっただけだったのだ。
 本当の地獄は、今日これから始まるらしい――そのことを山百合会のお二人が、今、親切丁寧に教えてくれている最中である。
 ありがたくて涙が出そうだ。

「確か、ロザリオを狩られた蕾だの蕾の妹は、それを取り返すまで蕾や蕾の妹だと名乗ることができない、だったっけ?」

 お仲間だと思っていた武嶋蔦子は、なぜか率先して慣れようとしているし。

「そうそう。あんまり黒星ついちゃうと、引き継ぎの時すごく苦労するらしいんだけどね。でも私の場合はもう今更だしなー。苦労しちゃうんだろうなー」

 クラスが違うのになぜかいる“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃も、

「私の方が苦労しそうだけれど」

 このまま行けば半年経たない内に白薔薇の名を継ぐことになる“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子も、祐巳を更なる深遠へ誘う地獄の使者に等しい存在になってしまった。
 いや、それは言いすぎか。
 由乃はともかく、志摩子はお姉さま辺りに命じられているそうだ――朝の内に自分達のことをちゃんと紹介しておいてくれ、と。昼休みには二度目の対談が控えているからだ。
 本当は朝から顔合わせの予定があったらしいが、志摩子の必死の説得で昼休みまで猶予を伸ばしてくれたのだから、むしろ感謝するべきだ。由乃はともかく。
 ――逃げられないのだ。
 もはや薔薇の名を継ぐ者が動いている以上、絶対に逃げられないのだ。もう祐巳の意思など関係ないのだ。本当は今日は休もうと思っていたのに、昨日の夜志摩子から電話で「三薔薇が待っているわよ」と言われてイヤイヤ登校したのだ。すっぽかしたら本当に学校に出てこられなくなるのだ。いろんな意味で。恐怖的な意味でも。

「そういえば、過去に“反逆者”が薔薇の名前継いだケースってないよね?」
「ないのよね……そもそも山百合会入りしたことがなかったはずよ。それに私は、まだ継ぐかどうかさえ決めかねているわ。それどころか継げなくなることもあるでしょうし」
「継げなくなることって?」
「私は闘えないから、白薔薇勢力の幹部辺りに世襲を反対されれば、それだけで無理になるんじゃないかしら。少なくとも強さで継ぐことはできないし、仮に薔薇になったとしても簡単に引き摺り下ろされるでしょうし。薔薇の称号は一度負けたら取り返しがつかないもの」
「結構深刻なんだね」

 蔦子が相槌を打つと、由乃は微笑んだ。

「安心して志摩子さん。志摩子さんがいなくても山百合会は安泰よ!」
「……まあ、由乃さんの言う通り、山百合会に私は必要ないと思うのよね。求められているものがまったく違うもの」
「うんそうだねじゃあ次の選挙出ない方がいいね」
「継いでもすぐに由乃さんに蹴落とされそうだものね」
「私はやるわよ。やるタイプよ」
「どちらにせよ、祥子さまや令さまにも相談してからになるわね。それに白薔薇勢力も無視できないし」
「……あ、あーそう。あの二人に相談、か……そりゃそうだよね、一人で決められるような問題じゃないもんね……」
「ごめんなさいね。テンション高くなっていたのに」
「わざとでしょ?」
「ええ。由乃さんってとても面白いわ」

 志摩子が意外と刺々しいのも、やはり祐巳には衝撃的だった。でもちょっと楽しそうだ。

「だから脱線しないでってば。祐巳さんに山百合会のことを知ってもらうんでしょ? 二人でケンカしないでよ」

 蔦子の軌道修正も入り、改めて説明に戻る。あまり望むものでもないけれど。
 祐巳の机の上には、現山百合会メンバーの写真が並べてあった。
 水野蓉子。
 鳥居江利子。
 佐藤聖。
 支倉令。
 島津由乃。
 目の前にいるので藤堂志摩子の写真はない。
 そして、祐巳が一番気にしている、小笠原祥子。
 全員が類希な美貌を持ち合わせる中、祐巳には祥子だけは一際美しく花開いているように見えた。
 考えないようにしたいのに、気にしないようにしたいのに、それでも気になるのはやはり未来のあの写真があったからだろう。
 祐巳は、自分の未来を見てしまった。
 そんな自分と一緒に写っている人が気になるのは、もう仕方ない。

(それにしても、なんでこんな綺麗な人がわざわざ私を選ぶんだろう。目覚めてもいないのに)

 祐巳の腹の奥ではいまいち納得できない諸々が、不満や恐怖と混じりあって一緒に煮えたぎっていた。他にいい人いるだろうに。高学力・高異能・高容姿的な三拍子揃ったいい人が選べるだろうに。なぜ全て備わっていない祐巳を選ぶというのか。

「といっても、もう話すことが……ああ、あと一つだけ。
 由乃さんは例外だけれど、攻撃系能力を目覚めていない人に向ける行為は、とっても恥ずかしいとされているの」
「私だってこの前が初めてですー。それに本気じゃなかったですー」
「それが言い訳になるとでも?」
「いいじゃない謝ったんだから。ねえ祐巳さん?」
「謝罪は受け入れるけれど、気持ち的にはまだあんまり許してないからね。他の色々も含めて。というか他の諸々の方は」
「……そーですか」

 はっきり言われて、由乃はちょっぴりヘコんだ。

「そういうわけで、三薔薇も蕾も、間接的に巻き込んだことはあっても祐巳さんみたいな人達を攻撃したことは一度たりともないわ。そして今後もないでしょう。継がれてきた薔薇の名の誇りに掛けて。だからその点は安心していいわ」
「本当に?」
「でも巻き込まれたら?」
「巻き込んだあなたが言わないで」
「巻き込んだのは蔦子さんでしょう」
「違うわよ。大元凶は祥子さまよ。気まぐれに祐巳さんに構うからこんなことになったんじゃない。少しはご自分の立場を考えて行動してほしいわ」
「そうよそうよ」
「それは祥子さまのせいだわ」

 でも怖いので責任を問うべく詰め寄ることはできない、と。まあ正直その辺はもうどうでもいいのだ。起こったことはどうにもならないから。
 それより何より今後だ。今後はまだ変更が利く。というか利かないと大変なことになる。

「他に話すことは……ないわよね?」
「私と志摩子さんがどれだけ仲が悪いのかきっちり説明しておくべきでは?」
「もう伝わっていると思うわ」
「そう? じゃあなんだろう。祐巳さん、なんか質問ある?」

 正直何もないのだが、どうせ逃げられないなら、そろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれない。
 今は、あの支倉令が味方につく約束をしてくれている。だがしょせん「今は」止まり。江利子の命令次第で簡単に主旨替えするだろう。それに何より気になるのは、令は由乃に弱いということだ。味方は味方だとしても、万来の味方と捉えているとガッカリしてしまいそうだ。
 できる限り早めのフェードアウトをもって、山百合会関係から離れる!……と言いたいところだが、山百合会一の問題児である由乃に顔と名前をバッチリ憶えられてしまったので、もはや本当に今更あがいてもって感じがする。本人はそう簡単に祐巳を逃がさないだろうし、三薔薇がどう動くかで、祐巳の問題は一つ上のレベルになり、由乃の手から離れてしまうだろう。そう、由乃よりもっと厄介な強制力が働くことになる。
 だいたい昨日言っていた「劇の手伝い」ってなんだ。そんなの一言も聞いてなかったのに。……聞いててもどうせ断れないけれど。
 ――あ、そうだ。

「劇って何をやるの?」

 このままずるずる劇のお手伝いをさせられそうなので、一応聞いておくことにした。劇の手伝いなんて受け入れる気はないが、三薔薇に「やってね」と言われたら断り切れる自信がない。何せ由乃一人でも断れないのだから。祐巳の立場は非常に弱いのだ。

「あ、それは私も聞きたい」

 毎年山百合会は劇をやることを知っているので、カメラマン目線で蔦子も気にしていたようだ。――唯一の慰めは、どういうつもりか蔦子も祐巳と一緒に劇の手伝いをする気になっていることだろう。
 いくら志摩子がいるからと言っても、やはり山百合会以外での知り合いが隣にいるのは心強い。

「劇か……」

 由乃はチラリと志摩子を見る。志摩子はかすかに首を横に振った。

「まだ公開されてないからここでは言えない。昼休みに三薔薇に直接聞いてよ」

 なるほど。ここでは周囲の目と耳があるから言えないらしい。ちょっとの刺激でも爆発する(と思われている)由乃がいるおかげでクラスはしーんとしているので、近くにいるクラスメイトにはきっと会話も筒抜けだろう。
 そして思っているだろう――なぜ祐巳が巻き込まれているのか、と! それもセンターにいるのか、と!
 祐巳自身も誰かに聞きたいくらいである。
 原因はわかっていても全然納得はしていないのだから。

「他に何かある?」
「三薔薇と蕾の異能ってどんなの?」
「……蔦子さん、ストレートに来たね」
「いや、こういう機会でもないと、さすがに聞けないから」

 クラス中の耳が、一気に由乃の言葉に集中し出したのがよくわかった。
 三薔薇と蕾の能力。
 山百合会が山百合会たらしめる核にして重大な秘密。知っていれば確実な踏破の足掛かりになるだろう。知れば確実に女帝の座に近づける類のものだ。
 たとえわずかなことでさえ、由乃も欲しがるくらいには価値のある情報である。欲しがる人もたくさんいるだろう。

「私も全然わからないよ。そもそもあの人達、私なんか相手にしてくれないから」
「そうなの?」
「真面目に……私相手じゃ真面目にやらなくても勝てるくらい強いんだもん。話にならないわよ」
「え、そんなに? 由乃さん弱くないでしょ?」
「今は弱くないと思うけれど、昔も今も結果は同じよ。片手一本であしらわれてたのが、今は両手であしらわれるようになったくらいじゃない? もう冗談きついって。どこまで強いんだっての」

 由乃は心底疲れたような顔で肩をすくめる。がっかりしたようなホッとしたような、そこかしこから音のない溜息が聴こえたような気がした。

「私が知ってることは、たぶんみんなも知ってると思うよ。
 わかってる限りで、異能の名前が公開されてるでしょ? 紅薔薇が“女王を襲う左手(クイーン・レフト)”、白薔薇が“シロイハコ”、黄薔薇が“QB”、祥子さまが“紅夜細剣(レイピア)”、令ちゃ……お姉さまが“疾風”と“流転”。私のはお馴染み“玩具使い(トイ・メーカー)”。
 志摩子さんのも名前があるよね? “反逆者”以外で」
「“憂志の理”」
「“反逆者”の方が有名だから、あんまり知られてないよね」
「そうね。不都合もないから問題ないけれど」

 この流れはチャンスではなかろうか。
 祐巳はずっとずっと気になっていたのだ。
 今こそ、それを問うチャンスなのではなかろうか!

「あのさ、その名前って誰が決めてるの?」
「「えっ?」」

 己を囲む異能持ち三人は、一斉に祐巳を見た。

「本人のセンスで自称なの? それとも誰かが決めたの? 自然とそう呼ばれるようになるの?」
「「全部よ」」

 なんと。全部とは。

「自分で名乗る人もいるし、誰かがそう呼び始めることもあるし、いつの間にか定着してる場合もあるみたいだし。意外な形では、占い関係の異能使いに頼んで決めてもらう場合もあるみたいよ」
「ちなみに私の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”は、過去の異能持ちと同じ名前よ。もっとも実力は私の方が格段に上だけど」
「ふうん……志摩子さんは?」
「中等部の頃に、高等部のお姉さま方が付けてくださったの。よく怪我人の治療に高等部に出張していたから。でも高等部に上がってすぐに“反逆者”って呼ばれ始めたから、あまり浸透していないのよね」
「へえ。由乃さんは?」
「鳥居江利子命名。“玩具”ってなんだ、って反感あったけどね。今では気に入っちゃった――ちなみに!!」

 由乃はびしぃっと祐巳の額を指差す。その瞳は凶悪な光を宿して爛々と光っていた。

「三年にいる“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は卒業までに絶対倒すつもりだから! もう名前ですでに負けてるなんて聞き飽きた言葉は言わせないから!」

 散々比べられたり言われたりしたんだろうな、と祐巳は思った。そもそも“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”さんとやらを知らないのだが。でもきっと能力とか丸かぶりなんだろう。

「じゃあ私は教室へ帰るけど! 最後に何か聞きたいことは!?」

 そろそろチャイムもなるので、由乃は切り上げようとしている。
 そして祐巳は、名前と同じく、ずっと気になっていたことを質問した。

「どうして由乃さん、ここにいたの?」
「ええっ!? い、今頃それを聞くの!?」

 二十分くらい四人で長々話していたのに、お開きになろうという今それを聞くか。由乃は祐巳の天然ぶりに目を見張った。――計算だったら恐ろしい話だが、にぶそうな祐巳を見る限りでは、やはり天然と取るべきだろう。

「そういえば……」
「いつからいたかしら」
「キミらもか」

 天然というより、祐巳達の認識では、由乃は結構自然に混ざってしまっていたらしい。

「なんでって、祐巳さんのために決まってるじゃない。右も左もわからない祐巳さんのために馳せ参じたんじゃない」
「それは嘘だよね?」
「半分はね」

 半分ほどしれっと認めて、じゃ、と手を挙げて由乃は教室を出て――「うわ“玩具使い(トイ・メーカー)”! また!? ここのとこ遭遇率高くない!?」「あら桂さん。本当によく会うわね。運命じゃない?」「それはない」「残念。ではごきげんよう」――廊下で出くわした桂と擦れ違い、行ってしまった。

「由乃さんは元気だなぁ」

 呟いた祐巳に合わせ、蔦子と志摩子もうなずいた。
 ――そういえば。
 いつの間にか、祐巳は由乃のことが平気になっていた。
 なんやかんやあって、すっかり慣れてしまったのだろう。何せ登校中でも下校中でも、授業中でも放課後でも、家にいたって食事していたって風呂に入っていたって寝ようとしていたって、思考は全て山百合会や祥子のことに引っ張られるのだ。
 そんな中、同じ一年生である島津由乃の存在は、同じ一年生という些細な共通点があるだけで、とても大きかった。
 こんな風に三薔薇や蕾……祥子にも慣れてしまったりするのだろうか。
 恐怖なんて忘れて、相手がどんな存在かさえ気にならなくなって、一緒に笑ったり泣いたりする日が来るのだろうか。
 あの写真のように、向かい合う日が来るのだろうか……




 ――あ、やっぱり無理だな、と祐巳は思った。
 再び招かれた(強制連行と言ってもいい)薔薇の館二階の会議室には、昨日と同じフルメンバーが勢揃いである。一度目が強烈だっただけに、二度目はそれなりに楽である。少なくとも、顔は引きつっているが上げていられるから。
 その二度目のコンタクトは呆気なく、とても自然に行われていた。
 そしてとても自然な思考で、祐巳は思ったのだ。
 ここに混ざるのは絶対に無理だ。
 ましてや祥子の妹になるだなんて絶対絶対無理だ、と。

「劇の題目? 『殺人シンデレラ』だけれど」

 なんですかその危険な響きのお題目は。
 和やかな雰囲気で藤堂志摩子が紅茶を淹れ振る舞い、あまり祐巳に視線が集中しない話題が上り、それぞれの昼食が広げられ――由乃が「そういえば、蔦子さんが何の劇やるか気にしてるみたいですよ」と話を振った時の紅薔薇・水野蓉子の返答がそれだった。
 やはり想像通り、山百合会と祐巳との間には越えられない・越えたくない大きな壁があるということか。
 元々ゲージ2割ほどしかなかった食欲が、一気に激減した。もはや1ドットくらいだ。大きくも小さくもなく然したる特徴もない普通の内容物が詰まったお弁当箱を見ているだけで、お腹いっぱいになりそうだった。

「殺人シンデレラ? それ面白そうですね」

 蔦子を遠くに感じた。完全に食欲がなくなった。

「だいたい例年通りなんだけどね。劇中に殺し合うだけのただのシンデレラよ」

 そのまんまかい――祐巳は頭の中でツッコんだ。
 なんでも、学園祭での山百合会の出し物は、毎年劇をやるらしい。しかしそこは最強集団である山百合会、ただ劇をやっても仕方ない。なので劇中で、劇をやりながら登場人物同士が殺し合うのだそうな。

「といっても、劇が続けられないほどの大怪我を負ったり、客席に飛び火する危険があるから、ある程度の打ち合わせはするのよ。……あ、これはオフレコね。『本気でやってるっぽい』のが売りだから」

 だから、関係者以外には話せない内容となる。本当に一歩間違えば大怪我確定だ。もし仕掛けるタイミングや、仕掛ける内容などがバレていた場合、それに乗じた攻撃が客席から飛んできかねない。だからメイン部分は身内だけで稽古するしかなくなるのだ。そんな有様なので劇の手伝いを入れるだなんて、例外中の例外と言えた。
 最大の見せ場は、王子役支倉令とシンデレラ役小笠原祥子を中央に据えた群舞だそうだ。まだまだ打ち合わせ段階だが、令と祥子は周囲を敵に囲まれながらもお互い殺し合い続けるのだとか。

「何年か前には、隣の花寺学院からゲストを招いて劇に出てもらっていたらしいけれど。さすがに今のリリアンには呼べないから」

 それはそうだろう。殺し合う劇に出したところで袋叩きにしたいだけみたいじゃないか。
 いや、ちょっと待て。

「あ、あの」

 まともに発言したのは初めての祐巳に、全員の視線が集まった。祐巳は若干萎縮したものの、なんとか言葉を続けた。

「……あの、劇の手伝いって、どれくらいすればいいんでしょう……?」

 まさか、本当にまさかとは思うが、本番にまで出てくれとは言わないだろう。けれど確認しておかないとずるずる引っ張り込まれそうで怖い。
 安全圏のラインを確認しておくべきだ。ちゃんと確認しておくべきだ。

「うーん……別に?」

 蓉子の答えは、本当にわからないものだった。そもそも返事になってなかった。

「人手不足なのは事実だし、祐巳ちゃんが手伝ってもいいって思える範囲で手伝ってくれるなら、本番まで参加してくれても私達は嬉しいわ」

 別に、は、ちゃんと考えてはいなかった、という感じだったようだ。

「というわけで、祐巳ちゃんのやる気任せってところかしら? 当然、手伝い自体が嫌なら、断ってくれてもいいしね」
「え、いいんですか!?」
「お、やる気ね」

 ――違う! 「断ってくれてもいい」の方にやる気が湧いたんです!

「せっかくこうして出会えたんだし、とにかく稽古には付き合ってもらいたいわね。――まだ一部の人達しか知らない劇の題目を知ってしまったわけだから」
「……へ?」

 じわっと出た。嫌な汗と嫌な予感が。じわっと。

「今頃になって手伝いませんさようなら、なんてことになったら、ちょっと困っちゃうかも……毎年、劇のことは関係者以外には一切漏らさないことを徹底させているから。本当に危険なのよ。情報漏洩は死に繋がる」
「……は、」

 ハメられた――劇のお題を聞くことは、退路をふさがれることだったのか!
 つまり、ここまで知った以上は関係者にならないとひどいぞ、と、そう言っているわけか! なんて計算高い……!
 劇の手伝いをやってくれと言われれば、普通は手伝いの期間や自分のやること、そして劇の題目や内容を聞くものだ。しかしそれを質問したら逃げられなくなるだなんて、あんまりな流れではないか――何より怖くて文句が言えないことを知っていてやっているとしか思えないところが性質が悪い。なんだやり手のOLみたいな顔をして。やり手な。

「祐巳さんがんばろうね!」

 由乃の声に思わず「嫌です」と返しそうになってしまった。言ったら大変なことになりそうなのでなんとか堪えた。そんな自分を褒めてあげたい。

「さすがにちょっと強引すぎやしませんか?」

 来た! 支倉令の援護射撃!

「内容的に、手伝いはどうしても選ばざるを得ない。二人を連れて来た以上、由乃ちゃんは二人を信じているわけでしょう? 私はそんな由乃ちゃんを信じてもいいと思うけれど」
「でも……」
「それに蔦子さんはともかく祐巳ちゃんは無所属らしいじゃない? 時間の捻出は楽にできそうだと思うし、さっきも言った通り知った以上は関係者にはなってもらいたいのよ。だって関係者じゃないのに知ってしまったら、私達が庇う理由もなくなっちゃうもの」
「…………」
「第一、あなたが選んだ妹が連れて来た友達なのよ? お姉さまなら信じてあげなさいよ」
「は、はぁ……」

 令、撃沈。……想像以上に弱かったな、と祐巳は思った。
 いや、相手が悪いと見るべきか。あんなOLっぽい大人びた顔で自信満々で言われたら、間違っていることでも正しく聴こえてしまいそうだ。

「祐巳ちゃんはどう? どうしても手伝いたくない?」
「え、その」
「それとも、手伝えない理由でもあるのかしら?」

 理由はある。だが話せない。特に祥子のいるこの場では絶対に話せない。
 そもそも、やはり、断るのが怖かった。
 山百合会に睨まれたら、本当にこれ以上リリアンに通うことができなくなりそうで怖い。

「か、可能な限りでよければ……」
「ありがとう」

 ここで手伝いを断って、その理由にあの未来の写真の存在を知られる方が嫌だった――もう知られているのだが。

「私達も無茶は言わないから、できる範囲でだけ付き合ってちょうだい。――そうそう、もしこの件に関して誰かに何か聞かれることがあったら、『紅薔薇に緘口令を敷かれているから』と私の名前を出していいから。一応うちの子たちにも通達しておくわ」

 うちの子たち――紅薔薇勢力の幹部辺りのことである。

「あ、私の名前もいいよ」
「私もいいけれど、うちはむしろ由乃ちゃんの名前の方が効果あるかもね」

 白薔薇・佐藤聖と、黄薔薇・鳥居江利子も言葉を付け足した。――三薔薇のお墨付きとは豪華な話だ。まったく嬉しくはないが。

「私もできる限り付き合おうと思っていますが、写真部と掛け持ちになります。それでもいいですか?」
「もちろん。ありがとう、蔦子さん」

 必要な話はそれで途切れ、あとは雑談などをしながら昼食を取る。
 のんびり紅茶を楽しんで、昼休み残り10分ほどになってから、簡単な立ち稽古を一回こなし解散となった。
 山百合会、特に三薔薇は、思った以上に普通の人達だったので、祐巳は少し驚いていた。

 ――小笠原祥子とは一度も言葉を交わさなかった。




 放課後。
 今日、これから、注目の的になっている福沢祐巳を交えた稽古が始まる。
 一足先に薔薇の館に集まっているのは、薔薇の名を継ぐ三人だった。

「どう思った?」

 前置きを省いて、蓉子は問う。

「面白い」
「興味深い」

 聖と江利子は答えた。それぞれ何かしら思うところがあるようだ。
 もちろん、昼休みにちゃんと顔を合わせた祐巳のことだ。

「とにかく反応が面白いよね。嫌そうな顔を隠そうとして隠しきれてないところとか。何度も笑いそうになっちゃった」
「確かに」
「その嫌そうな顔を見て、なお推し進める紅薔薇にも笑いそうになった。子供に嫌いな食べ物を笑顔で勧める母親みたいだった」
「次に母親とか似たようなこと言ったら殴る。――黄薔薇は?」

 こわーい、と言いながら肩をすくめる聖を無視し、蓉子は江利子に目を向ける。

「白薔薇が言った通り反応が面白い。そして同じく、由乃ちゃんの反応が興味深い」
「由乃ちゃん?」
「あの子ね、敵とライバルは多いけれど、友達はほとんどいないから。本人はまったく自覚がないみたいだけどね」
「へえ……そうなの」
「それが思いっきり祐巳ちゃん意識してるみたいでね! もう初々しいやらこっ恥ずかしいやら! 思わず頬が緩んじゃってさぁ!」
「――だいたいわかったわ」

 いやもう少し聞いてくれ、と悲しげに懇願する江利子を無視し、蓉子は結論に入った。

「大丈夫?」
「私はいいわ」
「私もいいけれど、もう少し聞いてよ」

 当然、江利子の主張は無視だ。
 これは福沢祐巳を信用できるかどうか、最終確認だった。
 『殺人シンデレラ』では、本人にも説明した通り、舞台上で殺し合いを行う。もちろん演技だ。出演者が大怪我をしたり、観客に害が出ないよう、細心の注意を払って演出することになる。
 だが演技っぽく見えたら拍子抜けである。そしてマヌケである。より『本気っぽさ』を際立たせるために情報の漏洩を防ぎ、いかにアドリブでやっているかのように魅せるかがキモとなる。――これも代々受け継がれてきた伝統である。
 しかし、演技か否かがバレるのはそこまで重要ではない。
 演技だからこそ派手に魅せることができる部分もあるし、多少マヌケに見えても要は外来客さえ騙せればいいのだ。ベテランの子羊は目が肥えているせいで稚拙に見えるところも……まあそれはいいとして。
 祐巳には「殺し合う」と説明したが、包丁で刺そうとしたり鉄パイプで撲殺しようとしたり電気コードで絞殺しようとするわけではない。そんな地味な殺し合いを見せても、リアルすぎて普通に怖いだけである。
 なので、舞台中に能力を使うのだ。できるだけ派手に見える奴を。
 山百合会に所属しているような者は、ほとんどが戦闘用異能の持ち主である。そしてそれを知られることへの危険は、身に染みてわかっている。
 本当は見せたくないし、知られたくもないのだ。
 公演は一度。
 本当に闘っているわけではないから使用タイミングもわからず、わざとらしい殺意だって漏れない。
 客席から距離もある。
 ……という条件がついて、ようやく渋々「やってもいいかな」くらいに思えるのだ。
 だからこそ、入念な打ち合わせが必要になる。危険でもあるし、バレる可能性もあるから。
 つまり稽古中も能力を使うということだ。
 そして、祐巳や蔦子には条件外で、何度も見せてしまうということだ。
 信用できない相手は、絶対に参加させられない。
 ――ちなみに武嶋蔦子については、あまり心配はしていない。彼女は情報屋、情報規制は必ず受け入れるし、情報屋から強引に情報を引き出そうとルール違反を犯す輩は、様々な方面から報復が行くだろう。この件に関しては三薔薇自らが報復に出張る覚悟もできている。

「でさ。紅薔薇は正直なところ、どう思ってるの?」
「どうって?」

 聖は窓辺に寄り、外を見る――今現在、時間的な余裕はほとんどないので、一、二年生が来ないかどうか確認しているのだろう。

「祐巳ちゃんと祥子のこと。姉妹になってほしいの?」
「言ったでしょう? 祥子次第よ」
「祥子は祐巳ちゃんを妹にする気はなさそうだし、祐巳ちゃんは山百合会自体が嫌そうだし。それはあなたもわかっていて、それでもあえて祐巳ちゃんを引きずり込んだわけでしょ?」

 確かに、祥子の意思も祐巳の関わりたくない意思もわかっていて、蓉子は祐巳に手伝いを要求した。半ば強引に。

「本音はどこ? 姉妹にしたいの? したくないの?」
「それを知ってどうするの?」
「――ま、確かに気にはなるわね」

 江利子もそんなことを言い出す。

「祥子の妹になるかどうかはともかく、うちの問題児は気に入ったみたいよ、祐巳ちゃんのこと。だから祥子の祐巳ちゃんへの態度次第で由乃ちゃんが怒る可能性はある。
 ……で? 由乃ちゃんと祥子が揉め出したら、私は止めるべきなの? それとも放っておくべきなの? 個人的には放っておきたいんだけれど」

 けれど、放っておいたら黄薔薇と紅薔薇の抗争の火種になる可能性は高い。

「あなたの本音がどこにあるか知らないと、少なくとも私は動かないわよ?」

 江利子は戦争を起こしたいわけではないが、退屈なので拒む気もなかった。ただ、今は、祐巳や蔦子を巻き込む可能性が高い――そして巻き込んだとすれば、祥子絡みだからと主導権を握って二人を抱えた蓉子の責任である。
 だからこそ、今、指示を仰いでいる。
 ただし理由に納得できなければ当然反対も反抗もする。劇という共通した目的があるから手に手を取っているだけで、主導権があるからといって上下関係が決まったわけではない。

「本音ね……自分でもまとまっていないけれど」
「じゃあまとめてよ。私、祥子のことは嫌いじゃないけれど、あの子の性格は祐巳ちゃんを傷つけそうよ。それを察した由乃ちゃんは、必ず祥子を恨むわよ。そのまま引き金を引いたって知らないから」
「……あなたの孫の手の早さ、どうにかならないわけ?」
「ならないわね」

 本当に孫に甘いおばあちゃんだ。
 だが、警告する分だけ江利子は親切である。急かすだけの理由もある。蓉子の死角をちゃんと補ってくれるのだからむしろ協力的だ。

「……今あなたが言った通り、祥子の性格よ。祐巳ちゃんと関わって、少しでも変わればいいと思って」

 祥子は一見冷たく、誤解もされやすい。
 だからこそ蓉子は祥子が三年生になった時が心配だった。
 薔薇の名を継ぐ際、そのまま勢力も引き継がれる。しかしそれは当然、蕾がトップに立つことを皆が認めた上で成り立つ。
 祥子の性格は誤解される――たとえば幹部や兵隊が祥子の性格を冷徹だの冷血だのと思っていれば、自分達は捨て駒にされるんじゃないかと疑心暗鬼になる。最初は誰も気付かないくらい小さなほころびかもしれないが、それはあっと言う間に亀裂となり、修復不能な断裂となるだろう。
 リリアンにはいろんな敵がいる。情報操作で仲間割れを画策したり、どこかの勢力を隠れ蓑にして兵力を蓄える者がいたり、裏切ることを前提に他勢力に潜り込み地位を高める者もいる。
 特にその兆候が出やすいのが、世代交代――進級直後だ。蕾時代にちゃんと認められていないと下は付いてこない。
“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子は、強さは充分だ。異能は二つで、両方とも力量的に強すぎるということはないが、それでも圧倒的な実力を誇る。そして二つしかないのに未だ能力の正体を知る者が少ないのは、祥子の並外れた発想力と力の使い方からだ。――天才とはあのような者を言うのだろう、と蓉子は思っている。
 しかし、勢力のトップに立つ者としては、いささか不器用だ。特に感情の機微に疎いのは致命的である。

「どうなるかはわからないけれど、祐巳ちゃんを見る限り、彼女と接触することで悪くはならないと判断し、良くなる可能性を見出した。だから様子を見ることにした。姉妹云々は本人達次第。それと由乃ちゃんはできるだけ止めてちょうだい。――これで答えになったかしら? 」
「結構よ。ついでにもう一つ聞くけれど、姉妹になってほしい? それともならないでほしい?」
「あんなに可愛い孫なら欲しいわね。私には由乃ちゃんみたいなのは荷が重いわ」
「あげないわよ?」
「いらないわよ」




 こうして『殺人シンデレラ』の稽古の日々が始まった。
 祐巳は早朝、昼休み、放課後と拘束され、慌しい毎日を過ごしていた。
 当然のようにクラスメイトに囲まれて「どうして山百合会に〜」だのと質問されたが、「よければぜひぜひ私と代わってくださいお願いします」と言ったら誰も何も聞かなくなったどころか近づいて来さえしなくなった。“黒の雑音(ブラックノイズ)”桂まで若干距離を取り始めたのが地味に悲しかった。
 その代わりに、送迎係になった“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃とは随分仲良くなったし、“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子とはより親しくなった。
 劇の練習は主に薔薇の館で行われた。「殺人」なんて物騒な単語は付いているものの、殺し合い……いや、いわゆる殺陣の練習をするのは、体育館を借りられる日のみになるそうだ。それ以外は普通の「シンデレラ」で、立ち稽古やセリフ合わせをする。
 そして日曜を挟んだ月曜日放課後、初めて体育館での練習が行われる日――

「おっと」

 薔薇の館に到着すると同時に、出てきた白薔薇・佐藤聖とばったり出くわした。三薔薇にももうすっかり慣れたもので、祐巳は驚きもせず、由乃と志摩子とに併せて「ごきげんよう」と言うことができた。――人間の順応力って素晴らしい。

「はい、ごきげんよう。いいところで会えたよ、祐巳ちゃん」
「はい?」
「ちょっと頼まれてくれる? 今から人を迎えに行ってもらいたいのよ」
「私行きますけど」

 足の速い由乃が言えば、聖は「ケンカになりそうだからダメ」と答えた。それで相手がわかったのか、由乃がかわいくむくれた。

「あ、そうか。今日は殺陣か……じゃあパスします」
「でしょ? 由乃ちゃんも志摩子も、私と一緒に体育館に来て。諸々準備がありそうだから」

 みんなもう、体育館の方に移動してしまっているらしい。志摩子と由乃は「わかりました」と答えた。

「――“影”」

 聖があらぬ方に顔を向けると、まるで空気からにじみ出るかのように、人が現れた。やや猫背で俯き加減の表情は読めず、更に長い前髪が感情さえも覆い隠しているように見える――初めて見た時は不気味だと思ったが、今は祐巳も見慣れている。
 彼女は“影”。もちろん通称だ。可能な限り白薔薇である聖の側にいて、聖と白薔薇勢力幹部とのパイプ役を果たしているのだとか。“黒の雑音(ブラックノイズ)”桂と同じくステルス系の異能使いだ。

「祥子、今どこ?」
「あと三分ほどで目視できます」
「ご苦労。もういいよ」

 言うと、“影”はまた消えた。どういった原理で見えなくなるのかはわからないが、本当に消えるのだからすごい。桂の場合は気がついたらいなくなっているのだが、“影”は見ている間に消えてしまう――恐らく“黒の雑音(ブラックノイズ)”より“影”の方が能力的に優秀なのだろう。おまけに他の能力も持っていそうだ。

「祐巳ちゃん、祥子誘って行って来て」
「それはいいんですけど、誰をどこへ迎えに?」
「祥子が知ってるよ。じゃ、後でね」

 聖は由乃と志摩子を連れ、慌しく行ってしまった。そのまま待つこと三分ほどで、本当に祥子がやってきた。

「ごきげんよう。何をしているの?」

 祐巳を見つけても決して慌てることなく優雅に歩いて来て、祥子は冷めた表情で問う。

「ごきげんよう、祥子さま。実は――」

 これこれこういう理由で待ってました、と伝えると、祥子は頷いた。

「それじゃあ祐巳ちゃん、一緒に行きましょうか」

 鞄を薔薇の館に置いて、祥子と祐巳は並んで歩き出した。聞けばミルクホールで待ち合わせをしているらしい。

「少し前に、私達は顔合わせしたのだけれど。あなたは初めてだから顔を合わせるために頼まれたのでしょうね」

 それが、聖が祐巳に迎えに行くよう命じた理由らしい。
 ちなみに蔦子は、今日は写真部の活動を優先するそうで稽古には参加しない――と祐巳は聞いているが、蔦子は三薔薇に「能力を使う稽古をするけどどうする?」と聞かれて、迷わず自粛を選んだ。一年生の情報屋が握るには、あまりに情報の質が高すぎると判断したのだ。自分の手に余る、と。
 なので、蔦子は今後、立ち稽古やセリフ合わせには出席するが、殺陣を含めた一切の稽古はパスする予定となっている。

「これから迎えに行く人ってどんな人なんですか?」
「私の親戚。まだ中等部生だから、こちらの敷地に入る時はできるだけ迎えに行くようにしているのよ。余計な混乱や騒動が起こらないようにね」
「はあ、中等部生……」
「演劇部の部員でもあるし、何より殺し合いの稽古には欠かせないのよ」

 つまり必要で有望な人材だということか。
 ……それにしても、だ。
 たったこれだけの会話なのに、今まで交わしたどの会話よりも長かった。
 祐巳の思いなど知るよしもなく、祥子は祐巳には構わなかった。そして祐巳は極力祥子には近づかなかった。そのせいで交わす言葉は挨拶と、稽古中のセリフ合わせくらいだった。

(やっぱりあの写真は実現しないんだな)

 祐巳は日を追うごとに、山百合会に慣れるたびに、蔦子の撮ったあの写真が現実になるものだとは思えなくなってきていた。
 仲が良いとはお世辞にも言えない、知り合いの先輩後輩程度の関係である。劇中の絡みなどわずかなものだし、目覚めていない祐巳は自然と殺陣からは除外されているので、これ以上深く関わることもなさそうだ。
 最近は由乃も、無理に祥子と接触させようとはしなくなったし、恐怖しかなかった三薔薇は思いのほか優しかった。おまけに「三薔薇の緘口令」は、祐巳に近づく一切の嫌がらせをも排除した。
 地獄の日常から一転、今はかなり過ごしやすい。
 更なる地獄に叩き落されるかと思えば、そこは天国だったとさ。――祐巳は高等部に入って以来初めての安息の日々を過ごしていた。たとえこの幸せが学園祭までしか続かない短い間であっても、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。こんなに毎日が楽しいだなんて思わなかった。失ってから始めてわかる平凡な日常とは、本当は掛け替えのないものなのだ――祐巳の場合は小学部辺りだが。
 ――ところで。
 祐巳の隣を歩いている祥子も、実は似たようなことを考えていた。

(やはりあの写真は実現しないのね)

 祐巳が稽古に加わって以来、彼女のことはさりげなく見てきた。
 もし祐巳があの写真を実現しようとしていたら、「私はあの写真の存在を知っている」と言い渡した上で、正式に姉妹になるつもりはないと宣言するつもりだった。さりげなく気を遣っている三薔薇への意思表示も兼ねて、皆の前で言ってもいいとさえ思っていた。
 しかし、祐巳は祥子に近づかなかった。それどころか避けている節さえ見られた。
 願ったりだった。
 最初は何くれと二人を接触させようとする由乃が邪魔だったが、最近はそんなこともなくなり、劇へ向けて皆が一丸となり、むしろ余計なことを考える暇がなくなってきていた。
 最初は怖がってばかりだった祐巳も真面目にこなしているし、順応力が高いのか度胸があるのか、今ではすっかり溶け込んでいる。身体能力も記憶力も特筆すべき点はないが、言われたことは必死になって取り組む彼女の姿勢や性格は、決して嫌いではなかった。
 これで目覚めてさえいれば、姉妹になることも、真剣に考えていたかもしれない。
 ――いや、これでよかったのだ。
 祐巳のように闘争心があまりないタイプは、目覚めていたって同じことだ。山百合会に入ったところで苦労しかないだろう。このまま劇を終えて、山百合会との関係がなくなった方が祐巳のためだ。
 別に志摩子や由乃と、特に由乃との関係がなくなるわけではないのだから、これまでよりは学園生活も楽になるだろう。山百合会一の問題児は、問題児だからこそ名前が効力を持つのだ。




 率直に言うと、祐巳と祥子は武嶋蔦子の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”を嘗めていた。
 どんなことがあろうと、蔦子の“念写”は九割以上の確率で実現してきたのである。
 そのことを悟るのは、もう少し先の話だ。




 祐巳を勘違いさせる幸福は、更に続いた。
 言葉少なにミルクホールへ入ると、出入り口付近で立っていた女生徒が、祥子を見るなり駆け寄ってきた。

「――祥子お姉さま!」

(祥子オネーサマ!?)

 特徴的な髪型の中等部生は、確かに祥子をそう呼んだ。
 言葉を噛み締め、理解すれば、祐巳の驚愕はそのまま喜びへと変換された。

(いたんだ妹候補!! やった、これでもう……!!)

 基本的に「お姉さま」と呼んでいいのは妹だけ。祐巳は確信した。これで完全に未来予想図が外れた、と。
 祥子は、兵隊の意味での妹は持たない主義なのだそうだ。少なくとも自分の直系、自分の後継ぎの意味を持つ妹を作るまでは――と、露骨に妹話を振って祐巳をプッシュする由乃と祥子との絡みで、祥子が面倒臭そうに言っていた。

「――こちらはお姉さまのお連れのうえぇっ!? そ、それは多すぎる!」

 指まで差されてロザリオにツッコまれたが、そんなことはどうでも良かった。

「……瞳子ちゃん。上級生にそれはないわ」

 冷たい眼差しと冷たい声。瞳子と呼ばれた中等部生は「はぁい」と沈んだ声で答えた――自分だってツッコんだくせに。いや、もう忘れているか。

「どうもすみませんでした」
「祐巳ちゃん、私からも謝るわ。ごめんなさい」
「いえいえいいんですいいんです私なんてどうでもいいんです。私なんてハンガーとでもアクセサリー収納とでも思ってくれていいんですどうでもいいんです」

 祐巳のテンションは上がっていた。まさかの妹候補登場に浮かれていたのだ。

「それよりその、祥子さま、こちらは……?」
「初めまして、松平瞳子です」
「松平、瞳子さん。……瞳子ちゃんって呼んでいいかな?」
「え、ええ……いいですけれど……」

 バカに笑顔で愛想が良い隙だらけの上級生に、瞳子はやや警戒心を抱いた。なんだこの無防備すぎる人は、と。

「初めまして、福沢祐巳です」
「祐巳…さま、ですか。よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 そして祐巳はずいっと歩み寄った。

「それで?」
「は、はい?」

 それで? なに? ――そんな瞳子の戸惑いはもっともだった。

「さ、祥子さまとの関係は……?」
「あの、親戚関係になります。その、……まあ、あまり近い関係ではないのですが……」
「でも遠い関係でもないんだよね?」
「は、はあ……どうでしょう……」

 何この人笑顔でグイグイ来るよ――そんな瞳子の戸惑いは当然だった。

「で?」
「な、なんですか?」
「その、祥子さまとは」
「は、はい」
「もう、その、すでに、な、内縁の妹的な関係で……?」

 ――瞳子はピンと来た。
 つまりこの祐巳なる人物は紅薔薇、いや祥子の信奉者で、媚びへつらうことで今の地位……まあなんかよくわからないが祥子の隣に立っていられるだけの地位にいるとかそういうことで、自分を次の紅薔薇の蕾と予想して早速探りを入れたりご機嫌伺いをしたりとそういうことなのね、と。いわゆる太鼓持ちなのね、と。
 抜けた顔をしているくせになかなかの慧眼だ、と思わざるを得ない。
 そうやって媚びを売る者、へつらう者は多いが、会っていきなりでしかも下級生相手に躊躇なく下手に出るなど、かなり思い切った行動だ。それは自分の勘や、あるいはリサーチによって確信を得ているのか、または瞳子が紅薔薇の蕾になるに相応しいオーラを発していることを敏感に感じ取ったからか……
 まあ、現段階では、自分が一番の祥子の妹候補であるという自負はあった。小さい頃からの知り合いで、関係も良好。おまけに十月になろうという現在、祥子には妹候補さえいないのだ。このまま進級すれば、瞳子が紅薔薇の蕾になる可能性は充分あった。

「まだ決定ではないですけれど。でも祥子お姉さまの妹にならいつでも――」
「あ、まだなの?」
「えっ」

 瞳子はビクッと震えた。やりすぎと言いたくなるほど愛想が良かった祐巳が、急に真顔になったからだ。

「そうなんだ。まだ本決まりじゃないんだ。ふうん」

 蔑むでもなく見下すでもなく、むしろ期待を裏切られてガッカリしたかのような祐巳の視線。
 それまでの愛想の良さも相まって、瞳子はかなりムカッと来た。
 祥子を目の前にしてここまで露骨な掌返しはないだろう。なんだ、まだ妹と決定していないから太鼓持ちをやめるというのか。媚びるのをやめるというのか。いや別に媚びろとは言わないしへつらえとも言わないが、紅薔薇の蕾にならないならあなたになんて用はない期待してたのに残念だよ瞳子クン、とでも言いたげな態度が癪に障る。隙だらけのくせになんだ。
 瞳子は、上級生用にかぶっていた猫を取っ払った。

「祥子お姉さま、ロザリオください!」
「え?」

 なんとなく見守っていた祥子は、いきなり話を振られて驚いた。特にその内容に。
 瞳子には遠回しに催促っぽいことをされたことはあるが、まっすぐに目を見てここまで直球で要求されたのは初めてだった。
 とっさに出てきた言葉だろうとは思うが、その目は真剣そのものである。なんらかの答えを返さないと引かないだろう。

「……そうね、来年までに私に妹ができなければね」

 完全に本音だった。瞳子のことは嫌いじゃないし、実力もあるし、なんだかんだで付き合いも長いので姉妹になる分には抵抗はあまりない。――まあ、逆に率先してそうしたいとも思わないが。そもそもまだ本気で瞳子と姉妹にと考えたことがないのだ。

「フッ」

 しかし瞳子の期待には添う返答だったらしい。ふふーんどうだ、という得意げな顔で胸を張る。そしてチラッと祐巳を見れば、祐巳はまた媚び媚びの満面の笑みで応えた。

「やったね! 内定だね!」

 瞳子の両手を取ってぴょんぴょんはしゃぐ祐巳に釣られて、瞳子のテンションもグッと上がったのだった。




 勘違いは加速する。
 福沢祐巳は、祥子の妹候補(目の前で内定済)出現を本気で祝福し、
 松平瞳子は、そんな祐巳に釣られるようにして大喜びし、
 小笠原祥子は、なんだかよくわからないが初対面から仲睦まじい二人を微笑みながら見守る。




“折紙絶対防御装攻(インスタント・イージス)”松平瞳子との出会いは、こんな感じだった。



 










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