【3174】 平行世界の時の流れは  (海風 2010-05-16 15:36:26)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】【No:3171】から続いています。









 福沢祐巳が確保される10分ほど前――




「え?」
「だから、私は瞳子ちゃんを迎えに行ってから薔薇の館に行こうかな、って」

 教室の掃除をしている祐巳を迎えに来た島津由乃は、同じ内容の言葉を二度告げられた。
 いや、言っていることは充分わかる。
 松平瞳子を中等部からわざわざ呼び出しているのは、山百合会である。そんな彼女を迎えに行くのは山百合会の仕事で、代役に頼むなんて礼を失する行為だ。
 だが体育館使用日は、その時間さえ短縮したいほど貴重な日。台本はできているが、殺陣はまだ出来上がっておらず、スケジュールはギチギチだ。この日しか殺陣の打ち合わせができないので、さすがの由乃も遅刻なんて許されない。
 しかし、だ。
 確かに祐巳なら、もうあたりまえのように山百合会の稽古に参加している祐巳なら、もはや部外者とは言えない。むしろ身内と言っていいくらいの存在である。そして殺陣に参加しない祐巳は、あまり急ぐ必要もない。
 瞳子を迎えに行くのは、適役ではある。非常に効率が良い。

「由乃さんは志摩子さんと先に行ってて。準備とかあるんでしょう?」

 確かにある。三薔薇の仕事ではあるが、各幹部への指示出しと警備配置の割り振り等、別に由乃がいてもやることはないのだが、そういう集まりに顔を出すことは黄薔薇ナンバー3である由乃には義務に近い――たまには義務を果たさないと色々まずいだろう、とは由乃も少しは思っているのだ。
 それと、今日は殺陣の日なので、"罪深き双眸(ギルティ・アイ)"武嶋蔦子は欠席である。

「そういえば志摩子さんは?」
「今ゴミ出しに……あ、帰ってきた」

 ゴミ箱を持った藤堂志摩子は、由乃の姿を見つけると寄ってきた。

「もう行くの?」
「そのつもりだったんだけど……」

 由乃は、祐巳の主張を志摩子に伝えてみた。

「そう……確かに悩むわね」
「そうなの?」

 きょとんとしている祐巳は、ちゃんと理解できていないようだ。
 由乃は、祐巳の送迎係を任されている。任されている以上、それは何があろうとこなさなければならない。何らかの事情で無理になるなら代役、今は志摩子に頼む必要がある――昨日のように。
 しかし、祐巳が一人で瞳子を迎えに行ってくれると助かるのは事実で、今から急げば幹部会議に出られるのは確かである。
 由乃が幹部会議をすっぽかし続けるせいで、姉である支倉令が各幹部に嫌味を言われるのだ。しかもよその幹部にも言われるのだ。「あなたの妹さんまた欠席なの? ふうん? 黄薔薇は随分ゆる……失礼、下にお優しいのね。羨ましいわ」などと。由乃が偶然それを聞いてしまったおかげで危うく戦争になり掛けたのも記憶に新しい事実である。――撃っておいて戦争にならなかったのだから、ある意味奇跡だ。

「やっぱり由乃さんが付き合った方がいいんじゃないかしら?」
「……だよね」

 この時由乃は、祐巳のガードという立場での外敵への危機感よりも、上からの命令を遂行しないとまずいよなぁ、くらいの認識しかなかった。

「いいっていいって。私も瞳子ちゃんとすぐ行くから」

 ほがらかな笑顔で祐巳は言うと、止める声も聞かずに、小走りで鞄を持って教室を出て行ってしまった。
 由乃と志摩子が迷っていたことを察して、さっさと行動を起こしてしまったのだ。
 そして、そんな祐巳を追わなかったのは、読まれた通り二人とも迷っていたからだ。

「…………」
「…………」

 残された二人は、ちょっと嫌そうな顔で互いを見詰め合う。

「……志摩子さんと二人きりで行くの?」
「1メートル以内に入らないでくれると嬉しいわ」
「子供か」
「あら。自慢気に玩具を見せびらかしている子供はあなたでしょう?」
「ほー。言うじゃない」
「きゃっ。さ、触らないで」
「ぐにゃぐにゃじゃない。志摩子さんちょっと余計なお肉が付いてるんじゃない?」
「その余計なお肉を欲しがっているのは誰かしら? 誤魔化してる人に言われたくないわ」
「あれは心臓をより強く守ってるのよ!」
「これは余計なお肉じゃないのよ!」

 ギスギスした空気を発しながら、二人は薔薇の舘へ向かう。


 ――10分後には死ぬほど後悔することを知らずに。


 ポツポツと文句を言い合いながら一度薔薇の館に寄り、鞄を置いて体育館へ向かう。
 体育館前には、すでに三薔薇と蕾を含む各幹部が勢揃いしていた。
 各勢力から五名ずつ、山百合会を除く十五名が、志摩子と、珍しく会議に顔を見せた由乃へと注目する。
 よく知った者、顔は知っている者、名前も顔も知らない者、その力さえ感じさせない者、様々な顔が三薔薇を中心に集結している。はっきりしているのは、この15人はすごい腕利きかとんでもない切れ者か恐ろしい異能を持っているか、である。
 
「早いわね由乃ちゃん。祐巳ちゃんは?」

 挨拶さえ飛ばして、黄薔薇・鳥居江利子は由乃に問い掛けた。

「実は――」

 手短に「瞳子ちゃんを迎えに行きました」と伝えると、江利子は顔をしかめた。

「私はあなたに送迎を頼んだはずだけれど」
「あの、祐巳さんが気を遣って、一人で行くと言ってくれて」

 弁解する気はないのだろうが、志摩子がそう口添えした。

「由乃さんも一応幹部ですから、たまには出ないとまずいです」
「……まあ、時間を惜しむのはわかるけれど。でも――いえ、いいわ」

 江利子は言葉を切った。
 こうなってしまえば、今言っても仕方ない。
 ――正体不明の曲者が動き始めている今、祐巳を一人にするのは危険だ。由乃も志摩子も今日の瓦版号外は読んでいるだろうに。
 だがしかし、江利子も選択を誤った。
 面白がって由乃と祐巳を接触させようと送迎係なんてものに任命したはいいが、志摩子の言う通り、由乃も幹部なのだ。かなりの率で集まりをすっぽかすが、たまには出てもらわないと困るのも事実。
 じゃないと江利子自身はまったく平気だが、姉と幹部と妹とに挟まれまくっている令がかわいそうである。

「どうしたの?」

 江利子が一年生の前で難しい顔をしていると、紅薔薇・水野蓉子が声を掛けてきた。

「あなたのところのスパイ、祐巳ちゃんに付いてるわよね?」
「ええ、頼んであるけれど。……祐巳ちゃんは?」
「瞳子ちゃんを迎えに行ったあとに合流するんですって。気を遣ってくれたみたい」
「……そう」

 蓉子も微妙に顔をしかめるものの、それだけだった。
 ここでどうこう言ったところでどうにもならないし、各幹部が集っている今、よその薔薇や勢力へ非難も意見も――ほんのちょっとしたことでも揉め事の原因になる。
 何より蓉子が言いたいことくらい、江利子はすでにわかっている。あえて言う必要もない。

「とにかく始めましょう。時間が惜しいわ」

 いつもなら志摩子が来た時点で開始となるが、今日は由乃までやってきた。一人も欠けることなく全員が集った今、やるべきことは一つである。
 幹部達に向き合う三薔薇と、それを支えるように後ろに控える蕾と蕾の妹。三薔薇はテキパキと指示を出し、各幹部に警備ポイントを割り振っていく。そして幹部警備網の更に周囲を、有志の勢力兵達が自発的に見回りを行っている――まあ見回りというか、うろついている。幹部のお姉さま方が働いているのに、下の者がさっさと帰るわけにはいかないからだ。用事やクラブがある者はともかく。
 そんなこんなの厳戒態勢を敷いた上で、殺し合いの打ち合わせが行われる。どれだけ機密漏洩を警戒しているか想像に難くない。
 ――やっぱり出てもやることないなぁ、と思っていた由乃の視界に、女生徒が突然現れた。"瞬間移動"でやってきたらしい。

「…?」

 余裕のなさそうな表情の彼女は、挨拶する間も惜しんで、蓉子の側に寄り耳元で何かを囁いた。その礼儀を飛ばした態度に、全員が不快さを滲ませるより先に、緊急事態であることを悟る。
 蓉子は険しい顔を作り小さく頷くと、おもむろに口を開いた。

「ついさっき、祐巳ちゃんと瞳子ちゃんが襲撃を受けた」

 まさに寝耳に水の言葉だった。
 誰もが凍りつき、動けず、言葉の意味さえ理解できない。
 ほんの2、3秒ほどの静止した沈黙を破り、江利子はおもむろに振り返った。

「令、由乃ちゃんを確保」
「は、はい」
「……え」

 まだ情報を処理し切れていない由乃は、横にいた姉の令に羽交い絞めで拘束される。
 そこでようやく気付いた。
 言葉の意味も、黄薔薇の支持も、姉の行動も。

「黄薔薇! どういうことです!?」

 そして自分がやるべきこともわかった。だから噛み付く由乃に、江利子は冷静なものだった。

「あなたのためよ」
「なんですかそれは! 離しなさいよ令ちゃん! 犯人殺してくるから!!」

 言葉の意味がわからない。が、代わりに背後の令が小声で答えた。

「祐巳ちゃんと瞳子ちゃんを救うのは、由乃の仕事じゃないってことよ」
「はあ!?」

 意味がわからない。
 送迎係の自分が役目を果たさなかったから、祐巳と瞳子が誰かに襲撃された。自分さえいればそんなことはなかった、もしくは返り討ちにした。または、自分が壁になり囮になり、時間稼ぎくらいできただろう。
 自分のミスだ。
 だから由乃は今すぐ現場に駆けようとし――そう来るだろうと考えた江利子の指示で、今止められている。

「面子が潰れるって言ってるの」

 面子。面子だと。
 
「面子なんかより祐巳さんの方が大事でしょうが!!」
「――だから言ってるんじゃない」

 暴れる由乃の正面に立つ江利子は、冷徹ささえ感じさせるほど静かなものだった。

「祐巳ちゃんを襲撃。その理由は? 理由はわからないけれど、少なくとも目覚めていない者を痛めつけたって、ただの恥にしかならない。ならば狙いは一緒にいた瞳子ちゃんか? 違う、高等部生にもなっていない瞳子ちゃんを襲ったところで、同じくただの恥さらしよ」

 ――松平瞳子は「自分が小笠原祥子の親戚であり妹内定済みだから重要視されている」と考えたが、そもそも瞳子の情報自体があまり高等部に浸透していない。特に姉妹内定済なんて、本人と祐巳と祥子しか知らないことである。
 大部分の者が「祥子と親戚らしいだけどまだ中等部生」と見ている。誇り高いリリアンの子羊達が、下級生ならまだしも、中等部生にまで手を上げるなどという恥ずかしい行為はできるわけがない。
 言ってみれば、瞳子は己の背伸びを目算に入れて考えて、推測を誤ったのだ。中等部と高等部には、越えられない壁がある。

「こと山百合会にケンカを売る、山百合会に恥を掻かせることを目的とするならば、むしろ警備が手薄の時を狙うのは、自分達の姑息さを強調するだけよ。そこに山百合会の一人さえいないのであれば尚のこと。
 つまり、襲う以外の目的がある、と考えた方が自然だわ。ケンカ売るのが目的じゃない」

 江利子はそこで、蓉子を見た。

「私だったら誘拐するかな。それが襲った理由よ」

 蓉子も同意見だった。

「そうすれば山百合会……いえ、彼女達をお手伝いとして抱えた責任のある、私の恥になるから」
「――もはやそれだけで済むとも思えないけどね」

 黙っていた白薔薇・佐藤聖が、そこで入ってきた。

「私も誘拐だと思う。そう推測した上で先手を打つべきだわ。……人質解放の条件を鑑みるに、結構まずい状況よね」

 そう、人質解放の条件として「三薔薇の異能を教えること」だのなんだの、死活問題に直結する条件が突きつけられる可能性は充分考えられる。
 もしそうなった時、三薔薇はどうするのか。
 ――わからない。条件通り教えるかもしれないし、祐巳と瞳子を見捨てるかもしれないし、その二択以外の選択肢を選ぶかもしれない。
 こんなこと、前例を許してはいけない。だから条件を飲むわけがない――由乃はそう考えた。
 だから祐巳達は見捨てられるか、または――

「祥子」
「はい」
「30分で解決してきて。方法は問わない。私の名前を使って何をしても構わない。必ず二人を救い出しなさい」

 由乃は震えた。

(紅薔薇、本気で救う気だ)

 絶対にやると決意したのだろう蓉子の本気の目を見た時、由乃は喜びに打ち震えた。
 30分間だけ、何があろうと、たとえ相手からの要求などが届こうとも、どうにか時間を稼ぐ。
 そうして捻出した時間で、解決する。
 誘拐犯の条件は飲まない。
 祐巳と瞳子も見捨てない。
 紅薔薇の失態は紅薔薇が拭う。
 この三つを、必ずやるつもりだ。
 姉はもう決断した――あとは、その覚悟を妹が一緒に背負うかどうか。

「わかりました」

 祥子の答えは、迷いも躊躇いもなかった。

「では早速――」
「私も連れて行ってください!」

 由乃は、言わずにはいられなかった。どんなに足掻こうとビクともしない令の拘束は、ちゃんと同意を取らないと抜け出せないくらい強かった。
 だから口に出した。
 全員が由乃を見て、それから江利子を見る。
 そして江利子は祥子を見た。――あなたが決めなさい、と。

「……隠密行動を取るわ。もし私の指示に逆らったりごねたり勝手な振る舞いをしたら、即座に斬り捨てます。いいかしら?」
「はい」

 由乃も迷わず頷く。
 祥子は必ずそうするだろう――それはわかっているが、何より、祐巳と瞳子を救うことが最優先事項である。いがみ合う暇などないし、そのためなら捨て駒にだってなる覚悟がある。
 祥子が令に目配せすると、由乃は解放された。

「由乃ちゃん」

 江利子はつまらなそうに呟いた。

「四人で帰って来い、なんて私は言わない。どうせ行くなら役に立ってきなさい」
「もちろん」

 江利子の言葉の意味は、ちゃんと理解できた。黄薔薇幹部として「たとえ身を捨ててでもやり遂げろ」と言っている。
 だってこれは由乃のせいだから。送迎係の任を果たせなかった自分のせいだから。
 だから、なんとしても二人を救い出す。
 たとえ身を捨ててでも――言われるまでもなくそのつもりだ。

「まず現場に行きましょう」
「はい」

 二人は駆け出した。




 時は少しだけ遡る。
"天使"の強襲を確認し、福沢祐巳に張り付いていたガードが紅薔薇の元に移動し出した頃。




「あら」

 向こう側にいた蟹名静は、向こう側で起こっている騒動にようやく気付いた。
 誰かが割ったのだろうガラスの砕ける硬質な音に、何かが衝突したのだろう壁に走る亀裂。
 ドアの向こうで誰かと誰かが抗戦に入ったのだろう。

「な、何?」
「いいから寝てなさい」

 ベッドから起きようとするするクラスメイトを押し留める――あまり仲が良いわけではないが、怪我をして転がっていたからここまで連れて来たのだ。目覚めている者は自然治癒力も高い、もう少しすれば立てるようになるだろう。

「向こうで誰かが闘い始めただけよ」

 ……と思ったが、それ以降の音がない。
 まあ、決着がついたにしろ場所を移したにしろ、好都合である。
 ここは保健室。
 いくらなんでもここを戦場に選ぶような不届き者は、あまり闘うことが好きではない静でも許しておけない。それは最低最悪の行為だ。

「様子を見てくるから」

 一応確認だけはしておくかと、椅子から立ち上がりドアを開け――止まる。

「…………」

 向こう側は、想像以上のとんでもない状況だった。
 今日の瓦版号外で見た、華の名を持つ山百合会反対勢力の二人……確か"竜胆"と"雪の下"と言ったか、目に見えるほど強大な力を持つ、今日からもっともリリアンで注目されている存在がそこにいた。
 それとわかるのも、一目瞭然の"天使"がいたからだ。言いすぎでもデマでも見間違いでもない、本当に"天使"そのものである。白いオーラに包まれた彼女は神々しく、人とは違う存在だと錯覚するほどの常人離れした力量。なるほど、新聞部が惜しげもなく"天使"と評するはずだ。
 ――なんだかなぁ、と静は苦笑する。
 周囲の人間は、朝から放課後まで躍起になって彼女らを探していたのに、まさか探す気のない自分が見つけてしまうなんて皮肉な話である。
 いや、人生なんてこんなものか。

「ねえ、あなた達」

 そこにいた数名……四人ほどが静を見た。

「保健室の前で暴れるの、今すぐやめてくれるかしら?」

 その気はないが自然と目が行く"天使"に言うと、彼女は身体ごと静に向き直った。

「失礼致しました。もう終わりましたので」

 好戦的には見えない。だから静は好奇心そのまま言葉を重ねた。

「ついでに壁のヒビと窓ガラス、直して行ってもらえると助かるけれど」
「申し訳ありませんが、私達は"創世(クリエイター)"系は使用できませんわ」

 物質に仮初の生命を与える"創世(クリエイター)"は、壁や床の修繕に力を発揮したりする。仮初の生命を吹き込んで自然治癒を促すのだ。制服が破れたりした場合も有効で、この異能使いがいるからリリアンの校舎や制服は今も健在だと言えた。
 そうじゃなければすでに校舎は瓦礫の山で。世紀末の救世主のように袖のない制服だの、応援団に代々伝わる裾がボロボロつぎはぎだらけの学ラン風というワイルド系の子羊達ばかりになっているだろう。

「あなたは使えますか? もし使えるのであれば、ぜひお願い致します」
「ごめんなさい。私も使えな……ん?」

 ここでようやく気付いた。
 どうも見覚えがある子がいると思えば、時々音楽室で会う福沢祐巳だ。
 しかしどうも正気とは思えない。顔面は蒼白で、目に見えて震えている。どう見ても友達に囲まれているようには見えない。

「……やれやれ」

 何が起こっていようと触れずにおこうと思っていた。闘いたい者はとことんやりあえばいいのだ。どうせ止めても聞かないし、下手に口を出すと巻き込まれる。面倒は面倒だからごめんだ。ようやく各勢力の勧誘なども減って過ごしやすくなってきたのに。
 しかし、知っている子、それも目覚めていない子が望まず巻き込まれて怯えているのなら、話は別だ。
 静は保健室から出て、廊下に立った。
 とかく目立つ白いオーラを放っている"天使"、蒼いオーラを発する刀を持った……確か"重力空間使い"、怯える祐巳、そしてその祐巳が見ている――誰だ? 特徴的な髪型の子が壁に寄りかかってなんとか立っている。静には見覚えのない女の子だ。
 仮に片方だけでも勝てるような相手じゃなさそうだが、静は立ちはだかる。
 面倒は嫌いだが、この状況を見て何もせず引くのは、目覚めている上級生としては恥ずかしい行為だ。

「選びなさい。その子達を置いていくか、私を倒していくか、事情を説明するか。三択あげるわ」

"天使"は首を傾げ、少しだけ考えたあと言った。

「もしやあなた、祐巳さんのお知り合い?」
「ええ」
「そこをなんとか、見なかったことにしていただけません?」
「残念。もう見てしまったから無理よ」
「どうしても?」
「……あなたはこの期に及んで私が言葉で引くとでも思うわけ? そのつもりなら最初から関わらないわよ」

 この"天使"、なかなか間が抜けている。

「"雪"、あまり時間がない」

"重力空間使い"が言うと、"天使"は「ええ」と同意する。

「ああ、そうですわ。あなた彼女の足止めを」
「絶対イヤ」

 きっぱり一刀両断の答えだった。刀使いだけに。

「こんな場面に由乃さんが乱入してきたら、間違いなく殺されるわ。私はまだ死にたくない」
「情けないお方」
「あなたが足止めしてもいいと思うわ」
「……でもその方、とても強そうですもの。まだ負けるにはいきません」

 どうしよう――静はちょっと困っていた。なんだこの緊張の欠片もないグダグダ感は。こいつらは祐巳を脅しているんじゃないのか。なんなんだ。

「あのさ、この子達をどうするつもりだったの?」
「え? いえ、ちょっと来ていただこうかと思いまして……」

 なるほど誘拐か。

「理由は行けばわかるの?」
「ええ、まあ」
「ふむ……」

 正直、これだけの力を持つ存在が相手では、闘って勝てる相手とは思えない。たとえ片方だけとやりあったとしても同じだ。ここまでの力量を持つ者が二人も現れるなんてとんでもない話だ。しかも静の"冥界の歌姫"は"空間"系で、この状況で使用すれば祐巳達を巻き込んでしまう可能性が高い。
 最悪を想定してみる。
 ――あっと言う間に静が敗北して時間稼ぎもできず祐巳達がどこかへ連れて行かれるパターン。
 なんだそれは。かっこ悪いにも程がある。あんた何がしたいんだよ、とでもツッコまれること請け合いである。
 となると、だ。

(最善としては、闘わずに祐巳ちゃん達を助けられればいいわけだ)

 この抜け切った感じの"天使"や、「殺される」という理由で対戦をきっぱり断る潔いんだか情けないんだかわからない"重力空間使い"の二人が相手ならば、どうにでもなる気がする。
 ――とにかく時間がない。
 これは誘拐。誘拐と強盗は時間との勝負だ。恐らくすぐにでも誰かが駆けつけるだろう。あの二人だってそれはわかっているはず。
 追い詰められて、最初のプラン通り「片方が静の相手をして、もう片方が誘拐を成立させる」という、ベタだが有効な手を打たれた場合、祐巳達を救うことが困難になる。しかも静が速攻で負ける可能性もある。
 祐巳達を救うのが先決だ。ならば戦闘は避けるべき。闘えばどんな結果になろうと確実に祐巳達を見失うだろう。
 それに、やっぱりかっこいい上級生としては、敗北なんてかっこ悪いところは見られたくないなぁと思ってしまう。祐巳が静のことをかっこいいと思っているかどうかはさておき。
 ならば。

「私も連れて行って」
「「え?」」 
「じゃないとその子達を巻き込んで大暴れするわよ。しかも今すぐ大声を出すわ。言っておくけど私の声は大きいわよ。そして考え付く限りの悪意ある言葉であなた達を罵倒してあげる」
「ば、罵倒?」
「この薄汚い――」
「やめてっ!」

"天使"は悲鳴を上げて耳を塞いだ。

「あなたリリアンの生徒でしょう!? 薄汚い雌なんとかとか言っていいとでも思っているのですか!? このなんとか虫野郎とか言うつもりですか!? 白ポンチョで転んであられもない姿を晒して泣くところを皆に見られて笑われてしまえとも仰るの!? なんと恐ろしい……恥を知りなさい!」

 泣きそうな顔で説教されてしまった。見た目が"天使"そのものだからだろうか、静はかなり罪悪感を煽られた。
 でも冷静に考えると、誘拐犯にモラルを説かれたところで説得力があるわけがない。

「いいから連れて行きなさいよ。時間がないわよ?」
「……どうしましょう、"竜胆"?」
「連れて行くしかないわ。もうこれ以上、1秒たりとも無駄にできない。抵抗されるのもごねられるのも困るから」

"重力空間使い"は、刀を消すとポケットから一枚の紙を出した。四つ折にたたんでいたそれを広げると、ほのかに紫のオーラを放ち出す。

「急ごう」

 彼女はそれを、保健室の壁にぺたりと貼り付けた――途端、紙そのものが拡大し、あっと言う間に両開きの白い"扉"となった。
 ――なんだこの能力は。
 静は戦慄した。
 こんな能力、見たことも聞いたこともない。当然この"扉"は、向こう側の保健室に通じているわけではなく、どこか別の場所……あるいは別の空間に繋がっているのだろう。

(……なるほどねぇ)

 間の抜けた使用者はともかく、使用者が持っている異能そのものは、感じる通りに桁違いらしい。
 これは付いていくことを選んで正解だったかもしれない。
 この"扉"の向こう側が、"この世界のどこか"ならいいが、"この世界じゃないどこか"へ繋がっていたら、祐巳達の救出方法はこちら側からは見つけられないだろう。
 この二人を見る限りでは、とんでもない性格破綻者だとか、人を苦しめて楽しむ真性のドSだとか、そういう風には見えない。どんなに冷遇されようと三食昼寝付き以下にはなるまい。
 それに、ちょっと気になる。
 これだけの力量を持ち合わせる二人が、目覚めていない祐巳になんの用があるのか。
 誘拐と言えば身代金だが、誰を脅すつもりなのか。
 ――勢力図にも戦闘にも興味がない静は、祐巳が山百合会に出入りしていることを知らなかった。




 だが、知っていても知らなくても、あまり意味はなかったのだ。
 彼女らの目的は、脅迫などではなかったから。




 一足遅かった、らしい。

「どういうこと!?」
「わ、わからないわよ! ちょうどここに"扉"ができて、その中に入っていって、消えたのよ!」

 掴み掛からんばかりの由乃の剣幕に、尾行要員として現場に留まっていた祐巳のガードの一人は、戸惑い気味だ。まあ彼女の動揺は由乃のせいだけでもなさそうだが。
 動揺もするだろう。
 何もない場所に"扉"を出して、どこか違う場所へ行く能力なんて、祥子も心当たりがない。どう考えても"天才"系で、未知の異能はやはり怖い。
 移動に関わる異能に限るなら、強化による"加速"か"瞬間移動"のどちらかが一般的である。
 でも昨日と今日だけで、更に二つの系統が増えた。
"飛行"と、今聞いた"扉"である。

「……まさか三人目?」

"扉"を出す際、紫色のオーラを放つ"紙"を見たとか。つまりそれは"重力空間使い"と"天使"と、更にもう一人"扉使い"の存在を示唆するのではないか?
 ――どう考えても異常である。こんなに短期間にこうも新たな、そして強大な力に目覚める者が台頭するだなんて、絶対に何かがおかしい。
 それにしても間の悪い話……いや、狙ってやったのだろう。きっと。
 祐巳のガードには、少なくとも紅薔薇勢力からは、ステルス系が一人とステルス含む"瞬間移動"が使える者が一人、そして戦闘要因の幹部が一人の、三人が護衛につくことになっていた。
 唯一の例外は、殺陣をやる今日――体育館使用日のみ。この日だけは、戦闘要員の幹部が祐巳の側から離れ、体育館へと直行する。だから由乃が送迎係になっていたのだ。
 確かに油断はあった。
 たとえ由乃が送迎できなくなったとしても、同じクラスに志摩子がいた。どちらも張り付かないパターンは完全に想定外だったのだ。
 ガードに付いていた戦闘要員を除く二人は、自分達の役割をちゃんと果たしている。むしろ下手に先走って首を突っ込んでくれなかった分だけ評価できる。

「祥子さま!」

 念のため向こう側――保健室を確認してきた由乃が駆け寄ってくる。

「やっぱり向こうにはいませんでした! これからどうするんですか!?」

 これから……そう、今リリアンに起こりつつある不可思議現象の考察より、祐巳達の救出が最優先だ。

「"扉"……」

 祥子は、そこに"扉"が出現したという壁に触れてみる。なんの変哲もない壁でひんやり冷たい。そのすぐ横にはヒビが入っている――報告では、松平瞳子が"天使"の超高速突進をモロに食らった時の痕跡だとか。

「瞳子ちゃんも連れて行かれたの?」
「え、ええ……いえ」
「どっちよ!?」
「うるさいわね! 私二年なんだから敬語使いなさいよ! ケーゴ!」
「――由乃ちゃん、ちょっと黙ってて」

 祥子はとりあえず由乃を黙らせた。焦る気持ちはよくわかるが、これでは話もできない。

「それで?」
「遠目で見ていただけだから会話はわからないけれど、瞳子さん、自分から連れて行けって要求していたみたいなの」

 自分から要求して、祐巳に付いていった。
 ……どういった気持ちかまではわからないが、瞳子は祐巳を護るために同行したのだろう。自分が現場にいたにも関わらず祐巳を連れ去られることに対する責任感、だろうか。

「それと」
「それと?」
「偶然保健室にいた"冥界の歌姫"も、なぜか一緒に行ってしまったわ」
「冥界の……ああ、蟹名静さんね」

 どこの勢力にも属さない、闘うことにも興味がないという主義の、"空間"系という非常に珍しい異能を持つ存在だ。方々の勢力から勧誘が行っているはずだが断り続けているとか。
 なぜ彼女が同行を?
 まさか静は彼女達の仲間?
 いや、その線は薄いだろう。昨日からではあるが、"空間重力使い"も"天使"も、活動に場所を選んでいない。
 放課後もすぐの今現在、人の目が非常に多いのだ。そんな衆人環視の中で活動する理由は二つ。
 隠れる必要がないか、見せ付けているか、だ。
 ただし、彼女達はまだ名前もクラスも知られていない、という条件が付く。
 目立つ彼女らと、有名人である静が接触していれば、「交友関係がある」という情報はすでに入ってきているはずだ。
 なのにその目撃情報がないということは、これ以前の接触はなかったと見るべきだ。
 ――もしくは、今までは"扉"の向こうで密会を重ねていた?

「…………」

 真実がどうあれ、推測で結論は出ない。そもそも静が仲間であろうがなかろうが、連絡の取れない現段階ではなんの関係もない。
 どうあれ、味方だと思いたいところだが。

「"扉"」

 彼女らはどこへ消えた?
 壁に"扉"を作った時点で、すでに次元は越えている。時空……は、さすがに無理だと思うが。
 次元。
"扉"の先は、この世界のどこかか、もしかしたら"この世界ではないどこか"かもしれない。
"扉"がない。
 それどころか行き先さえわからない自分達は、これ以上追うことができない。

「"扉"、"扉"」
「さ、祥子さま……?」

 由乃の呼びかけに返事はなかった。祥子は「"扉"、"扉"」と呟きながら、その辺をうろうろと歩き出す。どうやら考え事をしているらしい。そうじゃなければ急に怖い人になってしまったことになる。

「……違う世界……空間……"扉"……"ゲート"は、作れる……? でも問題は……」

 ――大丈夫だろうか。
 由乃は不安げに、右や左へと歩き回る祥子を目で追うことしかできなかった。




「面白いですわ」
「すごいなぁ」
「はあ……」
「もう一回出してくださらない?」
「……いいですけど」

 ――まるで宇宙みたいだ、と静は思った。
 窓から見えるのは深い黒一色。
 星もなければ月もなく、光もなければ影もない。
 上も下も何もなく、右も左も何もない。
 ただ黒い空間にここだけが存在している、そんな世界だった。
 ここは、教室だ。
 どこのクラスかもわからないが、とにかく教室だった。整然と並ぶ机に黒板……しかし時間割やプリントも張り出されておらず、時計もない。何より誰かが居た、誰かが使っていたという形跡や痕跡、いわゆる温かみが一切ないのだ。「教室を真似た場所」という表現がしっくりきた。
 その教室の周囲には何もない。外は夜のように真っ暗で、当然のように窓は空かない。廊下に出るドアも開かず、はっきり言えば密閉空間である。
 体感的に、ここに到着して、時間にして10分ほど経っただろうか。静、祐巳、瞳子は色々と試行錯誤した後、なんとなくそれぞれ自己紹介した後は落ち着いてしまった。
 とにかくここからは出られない。
"竜胆"も"雪の下"も、別に危害を加えることはなく祐巳に訊問するでもなく、人が来るのを待っている。その人が祐巳に用があるのだとか。
 あとは各自自由にしていてくれ、ということらしい。

「ねえ、トイレはどうするの?」
「出られるから。普通に……あっ」

 静が声を掛けると、ぼんやりしていた"竜胆"は顔を上げた。

「もしかして今漏らしそう?」
「漏らしそう、って言ったら?」
「あと少し我慢してほしい」
「できないって言ったら?」
「……我慢する」
「それは漏らしても我慢するから遠慮なく漏らしていいって意味?」
「一度出たら入れなくなるから、どうしてもと言うならここから出すけれど……別に静さんには用はないし」
「ああ、そう。だったらいいわ」

 一先ず、この"教室"を作った者だけが出入りを許可できる、というわけではなさそうだ。
 とにかく安心した。
 これで、この"教室"を作った人が現実世界で何らかの事故なりなんなりでここに来られなくなったらこっちは出られなくなり飢え死に確定、という絶望的な牢獄みたいなものではないらしい。
 一度出たら入れなくなる、片道の安全地帯。
 そう、ここは閉じ込められる場所なのではなく、外敵がやってこない場所、と捉えた方が正しい気がする。

「「おぉー」」

 祐巳と"雪の下"の声が重なる。
"折紙"で作った"鶴"が飛んでいる。"紙飛行機"が飛んでいる。"帆掛け舟"が飛んでいる。……いや、"舟"は飛ばないだろう。まさか"帆掛け舟風の宇宙戦艦"だろうか?
 それらは不思議な力で飛び続けている。"鶴"は鋭利な羽ではばたき、"紙飛行機"は飛ばした時の推力を維持したまま教室中をグルグル回り、時々宙返りやきりもみなどのアクロバット飛行を繰り広げ、"船"はぷかぷかゆっくりと漂っている。

「……なんだかなぁ……」

 こう緊張感がないと、危機感を察知して付いてきた自分がバカバカしい。
 こうやって地味にコツコツ"竜胆"から情報を引き出しているというのに、向こうは何をしている。何を遊んでいる。
 待っている時間が退屈してきたのだろう。祐巳と"雪の下"は、瞳子に出してもらった"折紙"で遊び始めた――何気に聞こえたのは「"折紙"の可能性がどうとかこうとか」らしい。どういった経緯でそうなったのかはわからないが、怯えていた祐巳も瞳子も、もう開き直っている。特に祐巳は、目覚めてもいないことを考えると、度胸があるというかなんというか。
 窓際最後尾の机に行儀悪く腰掛ける静と、その隣の席にちゃんと座っている"竜胆"。教室のど真ん中で、瞳子を中心に集う祐巳と"雪の下"。そしてそこらを舞う"折紙"。どうやらこれが瞳子の異能らしい。
 なんとも楽しげな能力だ――旋回して額に当たりそうになった"紙飛行機"を避けつつ、静は更に"竜胆"から情報を探る。

「あなたの異能は、"重力空間"だったかしら?」
「ええ」
「すごいわね。激レアじゃない」
「すごいの?」
「すごいわよ。過去に一人しかいないとか、それくらい珍しい能力よ」
「……でも、弱いわ」
「え?」

 どんな形であれ"重力"系は強い。特にそれが無差別に及ぶのであれば、相当強いはずである。

「私は由乃さんに勝てない。強い能力だと思っていたのに、まったく役に立たなかった」
「由乃さん……"玩具使い(トイ・メーカー)"ね」

 それは、相手が強いとか、相手が悪いと見るべきだろう。

「あなた、最近目覚めたんでしょう?」
「ええ」
「だったら勝てないわ。だってあなた、まだ能力を使いこなせていないもの」
「使いこなせていない?」
「そう。まさかあなた、そのまま使ってないわよね?」
「そのままって…………え?」

 どうやらそのまま使っているらしい。

「それじゃダメよ。もっと工夫しなきゃ。――たとえば、攻撃を仕掛ける直前に重力付加を掛けてみれば? そうしたら相手は驚くんじゃない?」
「…………」

"竜胆"のやる気のなさそうな目がわずかに大きくなった。

「反対に踏ん張っている相手なら、仕掛ける直前に解除するのも驚くでしょうね」
「……詳しいね。静さんも"重力"を使うの?」
「いや、普通に考えただけ」

 むしろなぜこんな簡単なことを考えないのか。ただの緩急ではないか。緩急を付けるなんて戦闘の基本中の基本だ。

「それで由乃さんに勝てる?」
「無理なんじゃない?」

 島津由乃。"玩具使い(トイ・メーカー)"。
 何かと派手な由乃の噂は、静も幾つか聞いている――だって面白いから。

「向こうは半年足らずで200戦は越えるほど闘ってきたような相手よ? 経験が並じゃない。思いつきで考えうる浅い手段なんて、全て彼女の予想範囲内だわ」

 ただ、予想範囲内でも、"重力"のオン・オフは非常に鬱陶しいだろう。そして空間に作用するのであるなら、オン・オフを切り替えるメリットはあっても、デメリットが存在しない。これほど便利な揺さぶりを使わない手はない。戦闘慣れしている由乃だからこそきっとものすごく嫌がるだろう。
 ――という説明をすると、"竜胆"は訝しげな顔をする。

「もしかして、静さんは戦闘の天才なの?」
「だから普通に考えただけだって」

 むしろあなたがあまりにも経験不足すぎるだけだ、とでも言ってやりたいところだが、静は情報収集がしたいのだ。自分がペラペラしゃべってどうする。

「あのね」
「"雪"、ちょっと来て」

 ――聞けよ。おい。

「なんです?」

 ――なんで頭に"兜"乗っけてる。浮かれすぎだろ。

「あなたもこの天才に相談するといいわ」

 ――だから普通だっつーの。

「相談? 最近肩凝りがひどいのですが、何か良い解決方法はありますか?」

 ――タイ式マッサージでも行って未だかつてない身体の伸ばし方されてこい。

「違う。戦闘に関して相談して」

 ――戦闘嫌いに戦闘のことを相談するな。

「戦闘? では……こう、空中から突撃する際、何か注意することはありますか?」
「怪我しないように防具でもつければ」

 静は相当面倒臭くなっていた。知り合いを誘拐するような相手の相談に乗っていてどうする。「そんなこと知るか」と言わなかっただけ立派である。
 しかし、適当に答えたそれに"雪の下"は感動していた。

「防具……! そうですわ、なぜ私は"翼"だけ具現化しているの!? 防具、そう防具よ!」

 なんだなんだ。興奮気味の"雪の下"に、祐巳と瞳子の視線が向けられる。
 彼女は頭に乗せていた"兜"を取り、しげしげ見詰める。
 そしてそこらを舞う"折紙"を見回す。

「私はもっと重くても"飛べる"!」

 ……だそうだ。

「お役に立てたようで何よりだわ」

 盛り上がる"雪の下"を見る静は呆れていた。――なんかめんどくさい奴らだなぁ、と思いながら。

「さすが天才! あなたはとても素晴らしいですわ!」
「あーはいそりゃどーも」

 どうにもめんどくさい奴である。




「――祥子さま! 六人確保できました!」

 ひとっ走りクラブハウスまで駆けた由乃は、六名の(脅迫された)有志を連れて戻ってきた。
 
「ご苦労様」

 こうして保健室の壁前に九名が集う今現在、約束の時間の半分が過ぎようとしていた。
 三薔薇からの連絡はない。
 まだ誘拐による脅迫を受けていないのだろう。それさえも犯人追跡の材料になるのだから、祥子達に隠す理由はない。ここまで堂々とした誘拐だ、この状況で「自分達を探すな」みたいな条件が付加する可能性は低い。もし付くのであれば、それは犯人側が「追跡は可能だ」と認めることでもあるのだから。

 ――実は、この時間と同じくして、三薔薇の方でもある事件が起こっているのだが、祥子は知るよしもない。

「皆さんに集まっていただいたのは他でもありません」

 不安げな、そして不満げな六名の有志に向き直り、祥子は言う。

「紅薔薇の名において、あなた方の力を貸していただきたいからです。時間がないので説明はありません。報酬もありません。強いて言うならあなた方が五体満足で部室に戻れることくらいです。
 従う気があるならそのままで。もし不満があるなら10秒以内に前に出なさい。私が直々に斬り捨てます」

 祥子は、自分でも相当な無茶を言っていると思っている――だが時間がないのだ。最初から手段は選んでいられない。
 彼女らは互いの顔を見合わせ、祥子と由乃、そのままやることもなく残っている追跡要員の祐巳のガードの三人を見て、祥子がどこまで本気で言っているのか察してくれたようだ。
 全部本気だ、と。
 きっちり10秒待った末、そこには六名の祥子の要求を受け入れた有志がいた。

「それでは、作戦の説明をします。――あなた方"召喚"系の異能使いを集めたのは、この壁に"ゲート"を作ること。そしてこの先から繋がるであろう誰かが作った異次元空間に接続すること、の二つです」

 ざわついた。予想通りに。

「待ってください」

 召喚師の一人がおずおずと歩み出る。

「確かに"召喚"は、次元を超えて物質を取り出したり呼び出したり逆に入れたりする能力です。力の強い人となれば、自分より体積が大きい物質を呼び出したり入れたりもできます。でもそれは自分だけが知りえる自分だけの空間に限りで、他人の空間に繋げるなんて――」
「是が非でも繋げてください」

 むちゃくちゃだ――そう言いたかった彼女は、祥子の本気の目を見て黙るしかなかった。
 これ以上口答えをしたら斬る、と雄弁に語っていたからだ。

「私は"召喚"を使えないので、あなた方に頼るしかありません。方法は問いません。でも必ずやってください」

 由乃が集めてきたのは、誰もが校内で名の知れた"召喚"系六名である。これだけ居れば、正体不明の"扉使い"と、力量だけなら互角かそれ以上のはず。
 繋げた空間の先から何かを取り出したり、祐巳達を救出する必要はない。ただ繋げる――人が数名通れるだけのパイプを作ってくれればいい。片道でも構わない。ほんの数秒だけでもいい。
 ――祥子の考えはこうだ。
 経験上、そして何かの折に使用者本人からも聞いた話によると、"召喚"とはその力量に見合った自分だけの異次元空間というものを持ち、そこに最初から自分で何かを入れておいたり、必要な場所や時代に空間を直結して取り出したりするらしい。
 その空間は使用者にも詳しいことはわからず、常に自分の側にある空っぽの倉庫のような四次元だとか、用途によって自分の知らない遠い場所に自動接続して取り出すだとか、四次元の番人が手渡してくれるだとか言われているが、確かなことはわかっていない。もしかしたらそれら全てが答えであり、人それぞれで違うのかもしれない。
 ただし共通しているのは、自分や他人をその空間に入れることはできないことだ。
 祐巳と瞳子、"天使"、"重力空間使い"、なぜか一緒に行ったという"冥界の歌姫"蟹名静、そして別に使用者がいると考えられる"扉使い"。
 できないはずなのに、増してや"扉使い"に至っては、使用者本人を含めれば六人もの人間を許容していることになる。
 つまり、"扉使い"の能力は"召喚"系とは違う可能性が高いということ。
 異次元空間に自由に出入りできる。
"召喚"系は、物質や、人さえも制限付きで呼び出すことはできるものの、人が入ることは確認できていない。恐らくそれが不可能だからこそ"召喚"なのだ。
 だから"扉使い"のあの現象は、"どこかに用意した空間に出入りするだけ"と推測を立てた。"召喚"は時空さえ越えることがあるが、"扉使い"は時空まで超えるとは思えない――そこまでいったら"召喚"系になるからだ。人が出るのはいい、だが人が入るのは該当しない。
 祐巳達はこの時代に必ずいる。
 それも、壁一つ隔てたような"絶対行けないけれどごく近い場所"にいる。その空間を作り出すのが"扉使い"の能力で、人の出入りさえ可能としているのが"召喚"との相違点だ。
 己の楽観的希望を含めて、祥子はそう結論を出した。――正直半分以上が推測だけで成り立つという、不安込みで組み立てられた作戦だった。
 はっきりわかっているのは、祐巳達がいるであろうその空間は、非常に大きい、非常に大きな力が働いている、ということだ。
 大きければそれだけ探しやすいのではないか、というのは素人考えではあるが、もうこれ以外の手を思いつけなかった。
 刻々とタイムリミットは迫っている。誰かと相談している時間もない。議論を重ねてより良い作戦を立てる時間もない。

「難しく考えないで、とにかく一番大きな力量を感じる空間を探せばいいのよ。そこに繋げれば――」

 空間を作り出すような強力な異能使いなら、その力そのものが夜に輝く灯台のようなもの。
 次元空間の中でそれさえ探し出せれば、誘拐犯へと辿り着く道になるはずだ。
 不可能でも無茶でも、穴だらけの推測の上に立てた計画だろうと、やる以外の選択肢がないのだ。




"雪の下"が変なテンションになって、更に5分ほどが経過した頃だろうか。

 ――それは音もなく、いつの間にか壁にできていた。

 紫のオーラを放つ"白い扉"。
 静がそれに気付いた時には、"扉"はもう開かれ、向こう側から誰かが入ってくるところだった。
 メガネを掛けた小柄な女生徒だ。不機嫌そうな顔で面々を見回す――その背後では、もう"扉"が消滅していた。

(彼女が"扉使い"か……)

 そう直感し、何があってもすぐに動けるよう、さりげなく机から立ち上がった。仮に違ったところで、どちらにしろ彼女達の仲間だろう。というかどんな存在だろうとここに来る者は味方ではあるまい。
 静の動きを見た"竜胆"が振り向き、メガネの彼女に気付いた。

「"瑠璃"」

 声に反応し、今度こそ全員がメガネの女生徒を見た。

「…………」

 彼女は鋭い視線で全員を一瞥すると、言った。

「想定外の人が二人いる。なぜ?」

 静と瞳子のことだ。

「ただのゲストですわ」

"雪の下"がそう答える。

「私達は正義です。ならば誰であろうと、何者であろうとその目を憚る必要はありません。違いまして?」

 誘拐犯が正義を口にするか――と思った静だが、しかし、その言葉でようやく全てが繋がった気がした。
 そう、彼女達は正義なのだ。
 悪党ではなく、野望を燃やすでもなく、覇権を狙うでもなく。
 リリアンを支配する「強者こそ正義」の唯一無二のルールに同意しない、自分達が持つ「正義」を掲げているのだろう。
 だからこそ、一緒にいた瞳子はともかく、ほとんど無関係の静さえここに連れて来た。
 これは謀略や策略によるものではなく、もちろん誘拐でもなく、ただの強引な任意同行……少なくとも"雪の下"はそのつもりなのだろう。
 これで合点が行った。
 選択さえ誤らなければ、彼女達は敵にも味方にもなりうる。彼女らを誘拐犯と見て猜疑心旺盛に見ていた静と違い、祐巳と瞳子は早々にそれに気付いたのかもしれない。案外無自覚のまま。

「私は」

 メガネの女生徒は、顔どころか声さえ不機嫌になった。

「ゲストはどうでもいい。でも私の計画通りに事を動かさなかったあなた達には腹が立つ」

 きっと彼女は計画を立てるのが好きで、立てた以上はその通りにならないと気が済まない神経質なタイプなのだろう。

「『手を出すな』と厳命したのに山百合会に手を出して。人目に触れるなと言ったのに新聞部に接触して記事に載って。まだ動くべき時じゃないと言ったのに惜しげもなく異能を見せて。その上今日は、こうして無関係の人まで連れてきて」

 静は彼女に同情した。

(ああ、うん……そりゃあ怒るわ……)

 細々したところはよくわからないが、彼女の計画では、彼女らはまだ人目に触れる予定ではなかったらしい。

「あなた達が勝手をしたから山百合会に見つかって、説明する間もなく福沢祐巳さんを連れてくることになったのに。何? 何なの? 私の指示には従いたくないの? それとも私に個人的な恨みがあるの? いやがらせなの?」

 相当ストレス溜まってそうである。――気持ちはよくわかる。仲間がこう抜けていて計画を無視して動き回るのだ。それはもう大変だろう。

「こっち見なさいよ。私の目を見なさいよ。ねえ。おい」

"竜胆"と"雪の下"は、メガネの視線を避けるように顔を背けている。
 静はもう、言わずにはいられなかった。

「あなたも大変ね」

 メガネの女生徒の鋭い視線がギラリと向けられた。

「同情しないで」
「あら失敬」

 どうやら見た目通り、プライドも高いらしい。

「……慰められたらきっと泣いちゃうから、優しい言葉をかけないで」
「…………」

 ただの泣き虫と見るべきか、見た目以上のストレスマックスと見るべきか。
 とにかくかわいそうになるくらい大変そうだ、としか言いようがない。

「――話を戻す。福沢祐巳さん」
「は、はい」

 場の空気に飲まれていたらしき祐巳は、向けられた視線に驚いた。……さりげなく瞳子が身を屈めたのは、何かあったらメガネの女生徒に飛び掛かるための前準備だろう。

「私は"瑠璃蝶草"です。以後お見知りおきを」
「る、るり……?」
「羅生門蔓なら聞き覚えがある? それの古名なんだけど。面倒なら"瑠璃"でいい」
「は、はあ」

"瑠璃蝶草"は知らないが、羅生門蔓なら知っている。やはり華の名前である。

「まず、来て頂けたことに感謝します。そして身内が強引なことをしたかも知れないけれど、それも代わってお詫びします。私達はどうしてもあなたと話がしたかった」
「はあ、なんの用でしょう?」
「……あまり時間がないので、単刀直入に行きます」

"瑠璃蝶草"は右手をかざした。右手からは紫のオーラが吹き出し、いつの間にか"扉"を作ったあの"紙"が現れる。

「私は"契約者"。次のステージへの"扉"を開く者。"契約"により万物さえも支配する者――って言わないと"雪"が怒るから言ってるんだけど、要はあなたの可能性を試す者ってわけ。あと万物と言ってもできることとできないことははっきりしてるから。なんでもはできない」

 案外見た目に寄らず性格は軽そうだ。

「祐巳さん、あなた、目覚めてみない?」
「……え!?」
「あなたの素質次第だけど、私にはあなたが目覚めるきっかけを与えることができる。そういう能力なのよ」
「そ、そんな馬鹿な!」

 瞳子が椅子を蹴倒し立ち上がる。

「誰かを目覚めさせる異能だなんて、そんな便利なものが実在するはずがありません!」

 瞳子が動揺するのもわかる。この異能の存在がリリアンに広まったら、それこそ収拾がつかなくなる。今でさえ混沌としているのに、更なる地獄が始まってしまうだろう。

「そう言われても、ここに"契約書"があるんだから仕方ないじゃない」

 だが、異能自体が奇跡のようなもの。これも同じく奇跡的な力だと思えば、そういう異能使いが現れたって不思議ではない。
"竜胆"と"雪の下"は、この"契約書"にサインしたから目覚めたのだろう。偽らざる証人が二人もいるなら、疑う余地はない。信じたくないという気持ちは静も同じだが。
 ただ、幾つも引っ掛かることがあるし、まず聞くべきだろう。

「代償は?」
「……」
「強力な異能には、それに伴うリスクがあるはず。あなた達のオーラの可視化だって、どちらかと言うとただの欠点でしょう? オーラが出ていたら異能を使っているか、使う前兆であると判断できる。そして発動中は強すぎる力を隠せず隠密行動が取れなくなる――違う?」
「違わない」
「ならば、あなたのその異能に必要な代償は何? この場合は、対象の……祐巳さんの負うリスクよね? まさかマインドコントロール? そうやって"竜胆"と"雪の下"を配下に加えたの?」
「あなた……ええと、誰?」
「蟹名静」
「静さん。私は別に隠す気はないから、わざとらしく間違えて挑発なんてしなくていい」

 なるほど。"竜胆"と"雪の下"とは違ってしっかりしているようだ。

「静さんの言う通り、これには条件が必要になる。それは祐巳さん、あなたがどれだけ目覚めたいと思っているかがそのままイコールで結ばれる。――たとえば"竜胆"と"雪の下"は、"雪の下"の方が望む想いが強かった。だから彼女の力の方が強くなった」

"竜胆"は具現化した刀のみがオーラを発し、それに比べると"雪の下"は全身である。見た目そのままなら確かに"雪の下"の方が強いことになる。色自体はあまり関係ないのか、それとも系統ごとに決まっているのだろうか――聞いてみたい気はするが、それよりも今は祐巳のことである。

「そしてもう一つ。"契約書"はその強い想いを吸収することで効果を発揮する……吸い取られたあなたは妙にすっきり気分爽快になって身体が軽くなって意味もなくハイテンションになるけれどそれは大したことじゃないから」

 ちょっと待て。

「つっこみどころが多すぎてどこから触れればいいのかわからないけれど、まずそのアブナイ薬みたいな紹介はどうにかして」
「飾るのは嫌いだから」
「いつも真実が正しいとは限らないでしょ。だから飾ったりぼかしたりするのよ」
「ステキな考えだわ、静さん。でも私はイヤ」
「私は賛成ですわ」
「私も色々とオブラートに包んでほしい」
「叙情的かつ繊細に、そして大胆に言葉という景色を時間という枠に納める……それが日本語です」
「瞳子ちゃんかっこいいよ。ちょっと何言ってるかわかんないけどかっこいいよ!」

 本当にめんどくさい面子だな、と静はちょっとイライラしてきた。大事な話をしてるんだから子供は黙ってなさい、と言ってしまうお父さんお母さんの気持ちがわかった気がする。

「何よ。多数決で勝ったからって私は変わらないんだから」

 だったら泣きそうな顔するなよ、と静は思った。

「とにかく、祐巳さんの強い想いが、そのまま覚醒した時の力になる」

 まあ、一番の問題はそこだろう。

「"強い想い"って何?」
「さっき言ったはず」
「力を望む気持ち、だったかしら」

 だとすれば、"強い想い"とは、間接的な結果ではなかろうか。
 彼女らは正義を口にした。静もそれには反対しないし、むしろ認める部分の方が大きい。きっと手違いさえなければ、祐巳を誘拐まがいで連れ込んだりはせず、穏便に事を運んだに違いない。
 彼女らが共通する「強者こそ正義」に反する「正義」。
 つまり、だ。

「その"想い"って、もしかして"恨み"じゃない?」
「……」

"瑠璃蝶草"は黙したままメガネのフレームを押し上げる。

「リリアンに、異能使いに、目覚めていない自分に、形はなんでもいいから恨んだり妬んだりした"憎悪の感情"を代償に、そのまま覚醒した時の力になる」

 だとすれば、祐巳に目をつけた理由に納得がいく。
 あのロザリオの数を見るに、祐巳はどうみても皆に虐げられている。いじられたりいじめられたりしていると一目瞭然なのである。これだけ派手な物証がある生徒なんてきっと祐巳くらいだ。
 ならば、その恨みの感情は、察するに余りある。
 唯一無二のルールに反対したくもなるだろう。自分が苦しめられてきたルールなんて、無くなってしまえと思うに違いない。それを覆せる力を得たなら、覆すために動き出すことも自然な成り行きだ。
 だからこの三人は手を組んだのだろう。既存の狂った正義を叩き壊すために。

「"憎悪の感情"を取られたせいで、"竜胆"も"雪の下"も並以上の力を持つのに戦闘への意欲が低く、山百合会に対する敵対心も相当薄い。……違う?」
「違わない」

"瑠璃蝶草"ははっきり頷いた。

「私はそれを"浄化"と呼んでいる」
「浄化? 人の感情を奪っておいて?」
「奪わなかったらどうなると思う? 強い力に目覚めて、今までの復讐ができるようになる。そうなった方がよっぽど多くの人を傷つけると思う。それに、別に静さんにつっこまれなくても話した」
「…………」
「これは取引だから。このまま何もせずいずれ目覚めるのをひたすら待つか、自分が育ててきた"負の感情"を捨てることで力を得るのか――"竜胆"と"雪の下"は後者を選んだ。
 その選択が正しいかどうかは私にもわからないし、それを決められるのは当人だけ。
 でもはっきり言えるのは、目覚めているあなたが非難できることではない。それだけは確信を持って言える」

 確かに。目覚めていないせいで生まれた怨恨であるなら、目覚めている静には何も言えない。静のような闘うことが嫌いな存在さえ、その気はなくても誰かには恨まれているかもしれない。目覚めている者といない者とでは、静が思う以上にとてつもなく大きな隔たりがあるのだろう。
 まあ、別に非難する気もない。
"瑠璃蝶草"の言う"浄化"というワードも、少々抵抗はあるがその通りだと思う。"竜胆"と"雪の下"が納得しているなら尚のことだ。強い力を得た上で恨みまで抱いていれば、自然と周囲に危険が及ぶだろう。――過ぎた力には振り回されるのがオチだ。
 静はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。

「わかった。私はもう口を出さない」

 これは祐巳の問題である。彼女らが正義であるなら、語る言葉に偽りなんて一つもないだろう。
 特に"雪の下"だ。
 全身から放たれるオーラといい、底抜けに気の抜けた態度といい。
 彼女はいったい、どれだけの恨みを抱いていたのか。どれだけの恨みと引き換えにその力を得たのか。
 神々しい、と思ったのは、あながち間違いではないのかもしれない。
 彼女は多くの、そして大きな負の感情を失い――人間らしい穢れまで失っているのだから。

「祐巳さん。私は"契約"を交わすからと言って、私達の仲間になれとは言わない。祐巳さんが強い者が正しいというルールに反感を持っていることを知っているから。だからあえて言う必要もないし、別の道を選んだところで私達の敵にならないことも知っている。
 ――もっとも、あなたに素質がなければ、"契約"しても目覚めることはないけれど」

"瑠璃蝶草"は祐巳に歩み寄ると、机の上に"契約書"と、新たに生み出した万年筆を置いた。それは彼女の手から離れても紫のオーラに覆われている。祐巳と瞳子は、興味深そうに"契約書"を眺める。

「それに署名すれば、祐巳さんに素質があれば"契約書"は祐巳さんの身体の中に吸収され、恨み、妬みといった感情を糧にして力になる。――私達はその選択を選んでもらうためにあなたをここに招ちょっと待って早いまだ話が終わ」
「祐巳さまもう少し考えて書名しあーああぁぁ」



 誰が止める間もなく、祐巳は迷わず署名した。
 まあそりゃそうか、と静は思う。
 音楽室でたまに会って話をする祐巳は、恨みや妬みなどとは無縁の純粋無垢な天使さまである――なんてこともなく、日々の不満に愚痴を言っては耐え忍んでいる普通よりだいぶ立場の弱い人間だった。
 だからこそ静は気に入っていた。
 変に卑屈にもならないし、強がったりもしないし、素直に「結構つらいんですけど」と口でも顔でも語るような子だったから。
 相手のやったことや言ったことに、ストレートな反応を返してくれるから。
 静のみならず、祐巳を気に入っている者は、みんなそこが良かったと思っていたはずだ。
 だからこそ、この反応にはとても納得できた。
 あくまでも祐巳は普通の人間である。それをきちんと理解しているから。
 そして望むべくは、感情を失っても祐巳は祐巳のままであってほしいと思うこと。
 ただそれだけだった。




 空中を旋回していた"紙飛行機"が消滅したのは、祐巳が署名を終えるのとほぼ同時だった。
 己が具現化させた力が消えたことを感じた瞳子だけが、それに気付くことができた。




 意外と呆気なかった。
 祥子が言った「強い力量を感じてそこへ繋げばいい」という単純明快な言葉が、「他人の空間に触れる」という不可能に困惑していた"召喚師"達の指針となった。
 力を感じる場所に繋ぐ。
 実は、この感覚には心当たりがあったのだ――いわゆる"生物召喚"である。かなり高度な"召喚"となるが、それは確かに生命という力を感じ取って呼び出す技だった。
 力を追う。
 それだけに限れば、とても簡単なことだった。
 ただし――

「確証がありません」

 これで本当に繋がっているのか、わからない。
 仮にどこかに繋がっているとしても、それが本当に祐巳達がいる空間なのかもわからない。
 行って戻ってこれる確証もない。
 そもそも生命が存在できる空間かさえもわからない。
 だって、これは何かを呼び寄せる能力であって、誰かを送る能力ではないから。"召喚"を成立させる第一段階の「次元に穴を空ける」という一点で作業停止をし、穴を空けたまま目当ての空間を探し当てて今に至る。
 この現象を"召喚"と呼べるのか、それとも"簡易扉"を開いていると判断できるか、祥子の推測では後者だが、それが正解なのかは大いに疑問が残る。
 そもそもが穴だらけの推論に成り立つ現象である。一か八かなんてバクチを打つにはリスクが高すぎる。

「行けばわかるさ!」

 どこぞのプロレスラーみたいなことを言って無謀に飛び込もうとする由乃を押さえつつ、祥子は焦れていた。
 あと一つ。
 あと一つだけ、何か確証が、判断材料が欲しい。
"召喚師"達が「強い力を感じる」という空間には繋げてくれた。今この壁の向こうは、目当ての場所である可能性は非常に高い。正解さえ引ければこそ戻ってこられる可能性も出てくるのだ。
 しかし、確証はない。
 こんな試みは全員が始めてで、前例もないし、誰も何も保証なんてしてくれない。いくら全権を任せられた祥子でも由乃を行かせることはできない。
 たとえ二人ともその身を厭わない覚悟を決めているのだとしてもだ。
 なんの役にも立たずリタイアすること、しかもそれが原因で祐巳達や三薔薇までも窮地に追い込むことの方が、よっぽど最悪の事態なのだから。
 焦れている間にも時間は過ぎていく。
 飛び込むべきか、否か。
 ちょっと覗いてみる、とか。
 ダメだ。危険だ。何があるかわからない。そもそもそれでさえ引き返せる保証がない。
 何か投げ込んでみる、とか。
 ダメだダメだ。何も反応がないならまだいいが、もしこちらのやっていることを相手に知られたら、祐巳達がどうなるかわからない。
 ――こんなジレンマを何度も何度も繰り返し、そして、それはやってきた。

「「え……?」」

 それは壁から突如現れた。祥子はそれに見覚えがあった。

「"折紙"…!?」

 悠々と飛んできたのは"紙飛行機"だった。
 これで確信が持てた。
 ――この壁の、この先の空間には、少なくとも"折紙絶対防御装攻(インスタント・イージス)"松平瞳子は確実にいる!
 もう迷うことはなかった。
 由乃を解放すると、彼女は物も言わずに飛び込んでいった――今由乃は"紙飛行機"をちゃんと見ていただろうか? まさか本気で「行けばわかる」と思って一か八か飛び込んで……いや、さすがの由乃でもそこまではするまい。

「このまま維持! 5分以内に戻らなかったら閉じなさい!」

 早口でまくし立てると、由乃の蛮勇にやや戸惑った祥子も突入した。




 己が具現化させた力が消えたことを感じた瞳子だけが、それに気付くことができた。

  1秒

 祐巳以外の全員が、唐突に生まれた強い殺意に総毛立った。
 リリアン特有の黒い制服を着たそれは、まるでドーベルマンのように見えた。身を低くして机の合間を縫い疾駆する姿は、乱暴なまでのスピードと、絶対に障害物に触れない繊細さとを兼ねた、獲物を襲う獣そのもの。
 ただしそれは、二本の尾がたなびく。
 ――"玩具使い(トイ・メーカー)"島津由乃だった。

  2秒

 強い殺意を放ちながら飛び込んできた、由乃――いや、この時点で誰かまで判別はできなかったが、とにかくその影を目視した者の反応は、様々だった。
 しかし、誰よりも早く、瞳子の方が先んじて動くことができた。
"折紙"を飛ばした時から脱出の機会を伺っていた瞳子は、すでにやることを決めていた。
 瞳子は飛ぶ。
"契約書"に署名を済ませた祐巳の腰辺りに抱きつき、できるだけ誰もいない方向へ、祐巳を巻き込んで押し倒す。
 自分の身を盾にして、祐巳を戦火に巻き込まないために。
"折紙"には、わずかな力の変化を感じて飛ぶように細工していた。それは空間の裂け目や肌で感じられないほどのわずかな風の動きを察知するため。しかしそれで救出が来ることを悟っていたわけではない――が、そのおかげで向こう側は確証が持てたのだ。
 「脱出したい」「救出したい」と、双方の目的が一致したからこそ実現した、救出隊の突入だった。

  3秒

 祥子が飛び込んできた。

「全員止まりなさい!」

 現れたのは前方の出入り口ドア――ドアの開閉はないが、祐巳達が入ってきたところからである。
 そしてその声が言い終わる頃には、由乃は教室の最後方まで辿り着いていた。彼女がこの空間――教室であること、人が点在すること、六人いること、ここがどこで何であるかを確認できたのはこの時点で、だった。
 次元の壁の向こう側がどうなっているかわからなかった以上、先鋒を買って出た由乃の役目は、壁の向こうのすぐ側にいるかもしれない敵の注意を引き、後続が入る出入り口付近から速やかに遠ざかること。つまり状況さえ見えない中で、行けるところまで突っ込むことだった。
 そんな由乃は行けるところまで行った教室後方でわざと立ち上がり、両足を踏ん張って銃を構えようとしていた――この時点でようやく敵を目視した。
 視線の先には"竜胆"と静。窓際に座る二人。
 いや、誘拐犯の刀使いのみ。
 由乃は、走りながら具現化し掛けていた大口径を両手で構える。"竜胆"と静は影を――由乃を目で追っていた。

  5秒

 それはいつものマグナムではなく、具現化に4秒も掛かる由乃の奥の手、"爆竹"と名付けた単発銃である。マグナム弾六発分の火薬を一発に凝縮した弾丸を放つ特別製で、弾丸が当たれば爆発する――という条件にしたかったがそこまで器用なことはできないので、ある一定距離まで飛べば自然爆発するという半端な使用となっている。いわゆる弾丸の速度で飛ぶタイマー式小型爆弾である。
 しかし、これはこれでよかった。細かな操作ができないのなら、爆発する距離を憶えておけばいいだけだ。変に目視による操作が加わらないからこそ先読みに併せることもできた。
 後方出入り口辺りから窓際席にいる"竜胆"までの距離は、ちょうど自然爆発に巻き込める距離である。
 由乃の両手に"爆竹"が具現化された頃が、祥子が飛び込んできた時である。

  6秒

 そして、祥子が言葉を言い終わった直後に、由乃は引き金を引いた。

  ドゴォ!

 いつもの銃声より更に大きな音を立て、文字通り由乃の銃が火を吹いた。全身で構えても身体は浮き、衝撃に両手が痺れる。
 そして、それを見ていた"竜胆"は、当然のように動く――と同時に静も駆け出す。祐巳を守るために。
 向かう先は違うが二人とも滑るように動き出すと、"竜胆"は紙一重で弾丸を避けながら由乃へと向かい――左腕を爆発に巻き込まれた。
 左腕。"竜胆"が刀を生み出す腕だ。
 予想外の爆風によろめき驚愕に目を見開く"竜胆"の前では、単発銃を早々に捨てた由乃が、いつものマグナムを生み出そうとしていた。

  7秒

 由乃がわざわざ時間の掛かる単発銃を使った理由は、後続するであろう祥子が、二番目の陽動になると考えたからだ。
 一番目は由乃の殺意に注目させ、二番目が祥子の啖呵。そして由乃の撃った"爆竹"が三番目の陽動となる。強制的に注意を二つに向けられた結果、相手は著しく反応が悪い――反応が鈍すぎたのは嬉しい誤算だった。
 これはあくまでも救出。
 攻撃を仕掛け掃討や打倒を目的とするわけではなく、まず人質の確認と救出が優先される。
 完全な陽動、完全な囮として迷うことなく深奥まで駆けた由乃と違い、後続の祥子はきちんと状況を見て動き出した。
 "紅夜細剣(レイピア)"を構えた祥子が、祐巳達の一番近くにいた敵――"瑠璃蝶草"に迫る。
 戦闘要員ではない上に戦闘経験も皆無の"瑠璃蝶草"は、絶え間なく続いた陽動に悲しいほど引っ掛かり、ほとんど何もできずにその場に立ち尽くしていた。祥子の剣先は間違いなく、首の一点、確実に一撃で戦闘不能にするその一箇所を的確に突こうとして――

  キィン!

 横手から割り込んできた"雪の下"に阻まれる。彼女は白いオーラを放ちながら、真っ白い盾を構えていた。
 ――出し惜しまない。
"雪の下"の強い目を確認して、祥子の身体は"揺れた"。
 爆発的に速度を上げた祥子の剣は、数え切れないほどの残像を残しながら超高速で振るわれる。"雪の下"の盾、防御の隙間を縫って身体を刻み、赤い刃を更に赤く、血に染めていく。

  8秒

 それでも"雪の下"は引かず、急所のみを固めて耐え、無闇な攻撃を仕掛けることもなかった――背後に庇う仲間を守るため、必死で祥子の正面に立ち続けた。
 視界の端で、走り寄る静と祥子の目が合う。
 今まで言葉すら交わしたこともない、ただ顔を知っているだけの者同士。
 しかし、言わんとしていることはわかった。
 ――祥子は「祐巳と瞳子を頼む」と目で語り、静は「そのまま敵を引き付けておけ」と目で語る。
 祥子の啖呵のおかげで、二人が出現した場所は全員が見ていた――反応が早すぎた瞳子と祐巳以外は。もし瞳子が祥子の出現場所を見ていれば、祐巳を庇って床に伏せるだけではなく、脱出を試みようとしたかもしれない。
 だが瞳子の判断は正解だった。その行動があったおかげで、祥子は躊躇なく攻撃に入れたのだ。映画でよく見る、人質を盾にした「動くな」という手段を封じてくれただけで表彰ものだ。
 あとは、静が祐巳達を撤退させれば、救出は成功だ。




 そんな10秒にも満たない抗争は、瞳子の声で急停止させられた。

「祐巳さま!?」

 絹を裂くような、悲鳴じみた声だった。
 マグナムを撃とうとしている由乃に、
 少々肉を持っていかれた左腕にようやく刀を具現化した"竜胆"に、
 剣を振るい続けた祥子に、
 圧倒的な攻め手になす術もなかった"雪の下"に、
 ようやく祐巳達の側に寄れた静に、
 そして、"契約者"に。
 全ての者の動きを封じるには、充分な声だった。


 ――そう、全てはこのために。
 ――祐巳の覚醒が始まった。


「こ、これは……!?」

 ゆっくりと立ち上がる祐巳の身体から、黒いオーラが吹き出し始めた。
 なんという不吉な色だ――根拠はないが、全員が、祐巳本人さえもそう思った。まるで祐巳の中に詰まっていた悪意が剥き出しになったかのような色だ。
 禍々しい気は感じられない。
 だが、色も質も量も、異常だ。

「な、なんて力……!」

"瑠璃蝶草"は驚く。"雪の下"の時もその力の大きさに驚いたが、祐巳の力は更にその上を行っている。
 いったい何が起こっているのかわからないのは、突入隊の二人である。
 ただ事じゃない、ことだけは、わかる。
 身体が動かない。
 あまりにも祐巳の発する力が強すぎて、身体が、本能が強張っているのだ。


 全てが終わる。



































「あ、あれ?」

  プシュー

 風船から抜ける空気のような音を立て、祐巳を覆っていた黒いオーラは消えた。

「「…………ん?」」

 全員が、祐巳さえも、首を傾げる。

 ――え?
 ――あれ?
 ――力は?
 ――覚醒は?
 ――ん?

 そんな疑問が浮かんでは消えていく。
 戸惑いは全員一緒で、疑問も全員一緒である。
 あれほど強大な力が、今は消えている。
 まったく、
 微塵も、
 これっぽっちも、感じられなくなった。

「…………あ、あのぅ」

 祐巳は、えへへと照れ笑いを浮かべた。

「な……なんか、目覚めたけど、力自体がすぐ枯れちゃったみたいです……えへへ」





 福沢祐巳、覚醒。

 ――そして何事も起こらず終了。












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