【3182】 夏へのトビラ  (bqex 2010-06-08 22:31:23)


『マリア様の野球娘。』(『マリア様がみてる』×『大正野球娘。』のクロスオーバー)
【No:3146】【No:3173】【No:3176】【これ】【No:3195】【No:3200】【No:3211】
(試合開始)【No:3219】【No:3224】【No:3230】【No:3235】(【No:3236】)【No:3240】【No:3242】【No:3254】(完結)

【ここまでのあらすじ】
 平成時代の福沢祐巳はありさと出会い、大正時代に連れて行かれ、桜花会と一緒に野球の試合をするために一週間も過去に留まる羽目になってしまう。
 一方、残された小笠原祥子は祐巳の日記と松平瞳子の証言から祐巳が大正時代にいることを知って動き始めた。



 大正十四年八月八日土曜日。
 現在、福沢祐巳を悩ませる問題は三つあった。

 一つは下着である。
 当時は女性の下着といえばズロースぐらいしかなく、ブラジャーなんてない。和装であればつけない人もいるが、洋装ではつけないわけにはいかず、ましてや野球をするのであれば、必須である。
 だが、こちらに来てすぐにありささまから手渡された着替えと日用品はこちらで揃えたものらしく……ありささまが計画性がない人だという事が身にしみて理解できた。
 袋には一緒にこちらの時代のお金もいくらか入れられていたので材料を買って作ることも考えたが、そんな余裕がないほど運動不足の体は疲れ切っていて、仕方がないので、頑張って用意してくれた下着をつけている。洗濯はしてあるので、明日の試合は向こうから着てきたものをつけようと思っている。

 ──ジリリリリリリリ……

 二つ目は乃枝さんである。
 彼女はとにかく目覚めが悪く祐巳が起こしてあげなくてはいけない。
 昨夜もこう頼まれた。

『祐巳、明日の朝はこのバットでひと思いに殴って起こして』

『無理』

 バットは特製の金属バット。この時代には桜花会が作らせた2本しか世界に存在していない貴重なアイテムである。
 世界初の金属バット殴打殺人事件の犯人になるわけにいかない祐巳は乃枝さんの布団をはぎとり、それを素早く床に広げる。
 そして、ベッドに横たわる乃枝さんをそおれっと転がして、ベットから下の布団に落とす。

「ん……」

 反応があっても手を休めると二度寝してしまうので、構わず乃枝さんを転がし続ける。
 そのうちに目が覚めたようでパッと乃枝さんは祐巳の手を払い、寝巻の乱れを直す。

「もう結構よ」

 今日は何とか成功するが、さて明日はどうしてくれようか。
 ため息をついて洗面所に向かう。

「おはよう」

「おはよう。お嬢」

 洗面所にはお嬢こと晶子さんがいた。

「祐巳、朝から疲れているようにみえるのだけど?」

「あ、いや。なんでもない」

 乃枝さんの寝起きの悪さは固く口止めされている。

「しっかりして頂戴。明日は試合なのよ」

「もちろん」

 そのために今自分はここにいるのだから。と祐巳は思う。

「では、お先に」

 そう言ってお嬢は去っていった。

 祐巳は祥子さまのご先祖様である晶子さんのことを『お嬢』と呼ぶようになっていた。
 きっかけはこちらに来て数日後、祐巳はふと桜花会の面々にどうして野球をすることになったのか、と尋ねたことからだった。

「ああ、それは──」

 話では、お嬢はパーティーと称した見合いの席で、婚約者から女は家庭に入るべきで、学歴もいらなければ社会に出る必要はないと散々説かれ、怒りのあまり婚約者が打ちこんでいる野球で鼻をへし折ってやろうと思い、野球をしようと思い立ち、現在に至る。との事であった。
 お嬢は半分笑いながら、でも、とても悲しいような寂しいような表情で教えてくれた。
 祐巳は笑えなかった。
 祥子さまは高校入学直後、婚約者の柏木さんに自分は男色家で女性は愛せない、と拒絶されてしまいすっかり男嫌いになってしまった。それを姉妹になる前、古い温室で祐巳に打ち明けてくれたことがあった。
 お嬢は顔のパーツなどはそれほど祥子さまに似ているということはなかったが、たまに見える表情が祥子さまにそっくりで、特にその悲しいような寂しいような表情は、あの時のことを祐巳に思い起こさせた。その日以来、祐巳は皆と同じように晶子さんのことを『お嬢』と呼び、彼女のためにも試合に勝ちたいと思うようになった。

(あ……)

 そういえば、お嬢の顔のパーツ、ちょっとだけ柏木さんにも似ていた。柏木さんは祥子さまの従兄、つまり、お嬢は柏木さんのご先祖様でもある。

(嫌なこと思い出した)

 そんな事を考えて、ボーっとしていたら誰かとぶつかりそうになった。

「うわっ!」

「ちょっと、どこを見ているの」

 目の前には三つ目の問題、静さんが立っていた。ぶつかりそうになっただけだが、かなり機嫌が悪そうだった。

「ご、ごめん」

 今はバタバタしていてゆっくりと話をするには向いていない。
 祐巳は謝るとその場を立ち去る。
 静さんとは一昨日の練習から冷戦状態が続いている。

(ちゃんと、話さないとな)



 静は巴お姉さまを不機嫌に見送った。
 ランデヴーのため、念入りにお化粧をして、白いワンピースに白い帽子で出掛けて行ったのだ。それはずっと一緒に育ってきた静が贔屓目に見なくても誰よりも女らしくて綺麗で、自分と出かけるときとは大違いでそれはそれは面白くない。
 そのうえ、直前までランデヴーに口出しするな、ついてきたら三日は口をきいてあげないとはねつけられ、渋々見送ったのだ。

「ねえねえ」

「……!」

 はしたなく悲鳴を上げそうになってこらえた。
 すぐそばで祐巳が静の袖を引っ張っていたのだ。
 立て直すと冷ややかな視線を送り、冷たい声で聞いた。

「何をなさっているのかしら、祐巳さん」

 袖をつかむ手を振り払う。

「呼びかけたけど、返事がないからつい。それよりちょっといいかな?」

 笑顔で聞いてくるが、それが今の静には癇に障る。

「よくないわよ」

「あれ、静さんもお出かけ?」

「別に関係ありませんわ」

「いいじゃないの、仲間なんだし」

「仲間って……たまたま一緒に試合をすることになっただけじゃない」

「それを仲間と言わずになんというのよ。それより、これからご予定は?」

「別に」

「ないのね。そう。じゃあ、つきあってくれる?」

「はあっ!?」

 はしたない声を上げてしまう。
 祐巳は全然静の話を聞かずに話を進める。

「私、こっちのことは不案内で困っていたの。学校の周りで構わないから、案内していただける?」

「そ、そんなのは他の人にでも……お嬢や雪さんだって、今日は出かけないっていってたわよ」

「私は静さんがいいのよ」

「私はよくないのよっ」

「あ、もしかして、静さんもこちらに不案内とか?」

「……そ、そうね」

 知らないから案内できないと突っぱねて、今日は諦めて大人しく寮にでもいようか、と静が考え始めた時、祐巳は言った。

「じゃあ、二人で冒険しよう」

「どうしてそうなるのよっ!?」

 かっとして手を振り上げようとして、慌ててひっこめる。
 東邦星華女学園の乙女がそんなはしたないことをしてはいけない。
 それにしても。
 小梅といい、祐巳といい、どうしてこうもがさつというか、にぶいというか、調子を狂わせてくる人に好かれてしまうのか。
 静はため息をつく。

「ようし、じゃあ決定。レッツゴー!」

「だから、人の話をお聞きなさいっ!」

 祐巳は無理やり静を引っ張って学校の外に出た。
 少し歩くと、ちょうど巴がタクシーに乗ってどこかへ向かうところだった。

「巴さん、どこへ行くんだろうね」

「……ランデヴーですわ。この前の浅黄中学との試合の前にとりきめた約束を果たして、野球のことを知るためだそうよ」

 説明しながらわなわなと体が震えてくる。
 もう、いろいろなこと(祐巳とか巴とか祐巳とか巴とか)が重なって、静は爆発しそうになっていた。

「ああ、ランデヴー。じゃあ、私たちもついていく?」

「へっ?」

 乙女らしからぬ声で聞き返してしまうが、祐巳は気にせず言う。

「だって、私も静さんも不案内だから、道に迷って『偶然』巴さんとばったり出会っちゃっても仕方ないじゃない?」

「……」

 内心、その手があったか、と手を叩いた静だが、すんなり祐巳の作戦に乗るのも腹立たしい。
 しかし、それ以外でいい方法など思いつかない。

「あっ、静さんが嫌ならついてくのはやめて、学校の周りで私とランデヴーする?」

「行くにきまってるでしょう!? なぜ祐巳さんと私がランデヴーしなくてはいけないのよっ」

 つい、静はそう言ってしまって慌てる。
 祐巳は近くで待っていたタクシーを捕まえて、静を押しこむと自分も乗り込んだ。

「あの……あれ、巴さんはどっちに行ったんだっけ?」

 運転手に祐巳がそう聞くので運転手が苦笑する。

「運転手さん、あっちのほうへ」

 運転手は静の指さす方に車を走らせた。
 そして、ついた先は。

 新宿。
 大正時代、歓楽街として有名なこの街は健全な女学生が安易に来るべきところではない。

「こ、こんないかがわしいところで、お姉さまとランデヴーだなんて……」

 武道の心得のあるお姉さまのことだから、もしや万一ということはないだろうが、こんな猥雑な街に姉を連れ込む相手の男性に静は怒りを覚えた。

「あっ、巴さん」

 祐巳の声で、静が見ると、新宿三越の前で巴が男性と会話をしていた。
 遠いので話の内容は聞き取れないが、二人は連れ立って歩きだす。
 相手が手をつなごうとしたのを巴が拒否してくれてほっとする。

「祐巳さん、行きましょう」

 静は一緒に来ていた祐巳に合図を送るが、祐巳の反応がない。

「祐巳さん?」

 振り向くと、祐巳は。

「うわー、何だろうあれ。今と全然違う。さすが大正時代だあ」

 きょろきょろとあちこちを見て感動している。

「田舎者みたいなはしたない真似およしなさい。行くわよ」

 静はグイッと祐巳の手を掴んで、巴にばれないように尾行する。

「おっとっと」

 引っ張られて、祐巳は静についていく。
 巴たちは店に立ち寄った後、また別の店に向かう。

「一体、どこへ向かうのかしら?」

「さあ?」

 二人は尾行を続ける。
 ある店に巴たちが入っていく。

「私たちも入ろうか」

 祐巳が言うが、静は茫然と立ちつくした。その場所は。

 カフェ。
 カフェーともいうが、平成の世のおしゃれなコーヒーショップではなく、大正時代のカフェはメイド喫茶がキャバレー化したような店で、やはり乙女の園の子羊が足を踏み入れるような店ではない。

「こ、こんな不良の巣窟にランデヴーと称してお姉さまを連れ込むとは……」

 静は全身が怒りで震えているのを自覚した。
 何人とも侵してはならない東邦星華女学園の「王子さま」にとんでもないことをしてくれる不埒者も不埒者だが、その不埒者についていく巴も巴だ。情報収集のためとはいえ、やり過ぎではないのか。

「祐巳、静。ちょっといいか」

 不意に声がして二人が振り向くと、環が立っていた。

「た、環さん!? こ、これは──」

「あはは。道に迷っちゃって」

「いいわけはどうでもいい。それより雪が誘拐された」

「えっ!?」

 環の発言に二人はぎょっとする。

「雪の母親が学校に乗り込んできて、家に連れて行ってしまったのだ」

「あれ、雪さんのご両親は雪さんが野球をやることに反対してなかったよね?」

 祐巳が環に聞く。

「どうやら、野球というものがよくわかっていなかったらしい。雪は将来呉服屋の女将の跡取りで婿を取ると思えば当然見合いにも響く。もしかしたら、急な縁談でもあったのかもしれない」

「その場合試合はどうなっちゃうの?」

「一応一人欠けてもなんとかなるが、やはりお雪がいないと……あの手では九回まで出られるかどうか……」

 鏡子の回復は思いのほか早かったが、試合に通して出るのは厳しいと誰もが思っていた。

「とにかく、一度学校に戻って欲しい。お嬢も銀座に胡蝶と鏡子を迎えに行った」

「銀座?」

 祐巳が聞き返す。

「乃枝がランデヴーに行ったのを気にしてついていったんだ」

「まあ」

 はしたない、と言いそうになって静は口をつぐんだ。自分たちも同じことをしているのだ。

「でも……」

 静はカフェを見る。
 中には巴がいるのだ。

「巴なら大丈夫だろう。さあ、早く」

 静は迷う。
 巴をこのまま見張るのか、雪の一大事に駆けつけるのか。

「静さん」

 祐巳が言う。

「ここは巴さんを信じて。今は雪さんの方に行こう」

 静は無言で祐巳を見る。

「巴さんはこのまま見張っていても無理はしないよ。でも、雪さんは自分の力じゃなんとも出来ない状況にあるわ。今、私たちの力が必要なのは、巴さんじゃなくて、雪さんの方」

 そこまで言われては、静としても反論のしようがない。

「たまちゃん、タクシー捕まえるから一緒に行こう」

 祐巳は静が小さく頷いたのを見るとすぐにそう言った。

「いや、私は雪の家に先に乗り込んで様子をうかがってくる。二人は学校に戻ってお嬢と一緒に来てほしい。それと、たまちゃんとは呼ぶな」

 環がぴしゃりと言い返す。
 タクシーに乗り込んで、静が祐巳と学校に戻ると、ミス・アンナが御立腹の様子で待っている。
 お嬢たちが戻ってくる。

「雪さんを取り返しに行きますよ」

 ミス・アンナに従って雪の家に行った。
 雪の母はたいそう怒っていたが、ミス・アンナが雪は野球をやっても走らない、と強引に説得し、雪を連れ帰ることに成功した。
 戻ると巴と乃枝も帰ってきていた。
 どこへ行っていたのかと尋ねる二人に向かってミス・アンナは言う。

「お参りですね。必勝祈願とあなたたちの恋の成就を」

「断じて恋ではありません!」

 二人は否定する。
 口には出さなかったが、もちろん静も否定した。

「私たちの力なんて、必要なかったようですわ」

 祐巳と二人になり、静は巴のランデヴーの結末を見れなかった腹いせに嫌味でチクリとやる。

「そんなことはないわよ。私たちで問題を解決できたんだから」

 自信たっぷりに祐巳は言う。

「それは、環さんとミス・アンナが──」

「じゃあ、どうしてわざわざ新宿まで私たちを探しに来たと思う?」

 遮って祐巳が聞く。

「それは──」

 静は言葉に詰まる。

「このチームで乃枝さん、巴さん、小梅さん、お嬢の力は大きいよ。でも、それだけじゃあ駄目なの。出来る人に頼ったり、出来る人だけが何とかしようだなんてそれはチームじゃない。出来る出来ないに関係なく、みんなの問題を一人一人の力を信じて頑張るのがチームなんだから。彼女たちに頼れない場面って試合では必ずあると思う。そういう場面でも私たちは頑張れるっていうのがわかったんだから、大きな収穫じゃない」

「そうかしら?」

「ええ。みんなが来なかったら、環さんもミス・アンナも動けなかったかもしれない。あの二人が動けるように支えたのは私たちの力で間違いないのよ」

「自惚れが過ぎるんじゃないかしら?」

「ううん。そうじゃなくて、みんなのことを信じているから」

 にっこりと祐巳は静の目を見て笑う。

「私たちは『仲間』なんだから、もっとお互いのことを信じよう。試合の時もそうだよ。微妙なところにボールが飛んできた時、自分で捕る時は『任せて』。無理な時は『お願い』って必ず声に出そう。そして、任されたら頑張って捕る。任せた時は信じてカバーに入る」

「……わかってますわ、そんなこと」

「約束ね」

 そう言うと祐巳は小指を差し出してくる。

「な、何を──」

「約束といえば『指きり』でしょう。あ、もしかして、ここには『指きり』なんてないのかな?」

「そ、そんなの聞いたことありませんっ!」

 プイッと静は横を向いた。
 本当は指きりがどういうことかは知ってはいたが、絶対にしてやらない。と静は思った。



 夜。

「小梅さん、今夜はお嬢と同じベッドで眠ってね。これは大切なことなんだから」

 乃枝さんが小梅さんとお嬢に向かって言っている。

「ねえ、何、さっきの?」

 部屋に戻って祐巳は聞いた。

「あの二人には今日から試合終了までの間結婚してもらったの」

「はあっ!?」

「投手と捕手というのは夫婦と一緒なわけ。だから、今宵一晩でも一緒に過ごしてもらわないと」

 平然とすまして乃枝さんは言うが、祐巳は顔は真っ赤、頭は真っ白になる。
 夫婦ですかっ。一緒のベッドですかっ。そこまでさせるんですかっ。そんな事頼まれなくてよかった。と、胸をなでおろした時に乃枝さんが祐巳に言った。

「あ、祐巳にも頼みがあるのよ」

 うわわわわあっ!! 何かわからないけど何かが来るっ! 乃枝さん、何かはわからないけど勘弁してっ。一緒にベッドで寝るなんて。祥子さまとだってそんなこと……と突っ走る祐巳の脳内に祥子さまが現れた。それは真っ赤になって「祐巳っ!」と怒る祥子さまだった。

「何を想像してるわけ?」

 乃枝さんが突っ込みを入れる。
 過去に戻っても百面相がなくなるわけではなく、笑いをこらえるような乃枝さんの表情を見るかぎりむしろパワーアップの感すら否めない。

「明日の朝はこの試作品の目覚まし時計で起こしてほしいのだけど」

「無理」

 それはどう見ても銃のようなものだった。
 大正時代の殺人犯にはなりたくない祐巳は今朝と同じ方法で必ず起こすと約束し、勘弁してもらった。
 日記を書いて、眠りにつく。そして、あっという間に朝が来て、試合になってしまった。

 桜花会は頑張った。
 みんなでやるべきことをやり、その全ての力を出し切った。
 でも。
 負けてしまった。
 中央に集まって礼をした後、お嬢の婚約者が前に出たのをぼんやりと眺めながら祐巳は思った。

 祥子さまはどうなってしまったのだろう。

 ◆◇◆

 祐巳さまはどうなってしまったのだろう。

 平成。
 その日、瞳子は教室にカバンとコートを置くとクラブハウスに忘れ物をしたことに気づいて校舎の外に出た。
 そこで、祐巳さまを見かけた。話しているのは今まで見かけたことのない、たぶん上級生だと思われる大人っぽい生徒だった。
 その生徒に手を掴まれると祐巳さまが崩れ落ちるように見えた。
 そして、消えてしまった。二人とも。
 瞳子は慌てて祐巳さまが消えた辺りに駆け寄ってみるが、何もない。
 捜索範囲をマリア様のお庭と呼んでいる、マリア像とその周囲に植物が茂っている辺りにまで広げると、和服の女性がいた。

(え……)

 それは先程祐巳さまと話をしていた生徒だったのだが、奇妙なことに、袴姿──剣道着とは違ってどちらかといえば卒業式の女子大生のような格好だった。
 じゃあ、祐巳さまはどうしたのかと思い、話を聞こうとその生徒の肩に触れる。

「あの──」

「え!?」

 瞳子の体がぐらりと揺れた。

「何!?」



 激しい眩暈ののち、辺りを見るとそこは瞳子にとっては異世界としか思えない光景があった。
 アスファルトではないむき出しの土の地面、歩いている人は和服と洋服の人が半々くらい、しかも洋服の人もレトロな雰囲気の、大正とか昭和初期のドラマに出てきそうな雰囲気のある格好をしている。しかも、冬だったはずなのに、夏になってしまったように強く日が射している。
 あの生徒の姿はない、どちらへ行ったものかと坂をゆるゆると下り始める。とりあえず街の中に日本語があるので日本なのだろうが、まるで別世界である。大きな建物があった。こう書いてある。

『東邦星華女学院』

 確か、都心の方にある学校だと瞳子は記憶していた。
 古くからあるキリスト教系の学校で、リリアンと比較されることもある。
 だが、それにしては街の風景があまりにもおかしい。都心なのにそういえば自動車をまだ見ていない。ここはいったいどこかのか。と思って見ていると不意に声がした。

「瞳子ちゃん!」

 瞳子が振り向くとその人は目の前いにいた。
 先ほどとは違い、リリアンの制服ではなく、クラシックなワンピースを着ていた。

「ゆ、祐巳さまっ!?」

「わあ、やっぱり瞳子ちゃんだ!」

 というなり祐巳さまが抱きついてくる。

「な、何をなさるんですかっ!?」

 慌てて瞳子は祐巳さまを振りほどこうとする。

「だって、しばらくぶりじゃない? 嬉しくなっちゃって」

「昨日も廊下でお会いしたじゃありませんかっ!」

「へ? 昨日会ってた? 嘘っ、じゃあ、瞳子ちゃんはいつからこっちに来てるの?」

「はあっ!?」

 ちっとも会話がかみ合わないので、瞳子はここで話を整理しようと思った。

「祐巳さま、とにかく落ち着いて。とりあえず離れていただけませんか? 逃げませんので」

「いいじゃない、これぐらい」

「暑いから離れてくださいとお願いしてるんですっ!」

 気のせいか耳まで熱くなってきた。

「暑い? じゃあ、こっちにおいでよ。そうだ、お茶でも飲む?」

「私の話も聞いてくださいっ!!」

 なんとか折り合いをつけて、祐巳さまの案内で東邦星華の敷地にある寮にお邪魔した。
 談話室とやらでお茶を飲み、ようやく話を聞くことが出来た。
 祐巳さまはありささまという方に祥子お姉さまの危機と聞かされ、一週間ほどというから協力を約束したら、大正時代に連れてこられて十日間を過ごしたという。

「ちょっと待ってくださいっ! 十日も大正時代にいたですってえっ!?」

 ドン、とテーブルを叩いて瞳子は叫んだ。

「ま、まあ、落ち着いて」

 両手を上げてなだめるように祐巳さまが言う。

「これが落ち着いていられますかっ! そんな簡単に連れて来られるだなんて、警戒心がなさすぎじゃないですかっ!」

「め、面目ない」

 しゅん、と祐巳さまは落ち込む。

「それより、瞳子ちゃんはどうしてここに?」

 瞳子はこちらに来た経緯を話した。
 祐巳さまが消えたのを見かけ、たぶん、ありささまと思われる生徒にどういうことか話を聞こうと肩に手をかけたらこちらに来ていたのだ。

「ちょっと待って。私の姿が消えたのを見ていたのに、不用意に声をかけちゃったの?」

「うっ」

「瞳子ちゃんの方こそ、警戒心がなさすぎるんじゃない?」

「な、何言ってるんですかっ!? あの方に触ってしまったら大正時代に飛ばされる。なんてことがわかっていたら触りませんっ!!」

 図星をさされて、瞳子は素直に認めることが出来ずに憎まれ口を叩いてしまった。

「まあ、そうだよね」

 それをどう受け止めたのか、祐巳さまは納得する。
 祐巳さまの十日間はいろいろな事があったようだ。

「ところで、どうやって平成の時代に戻るんでしょうか?」

 瞳子が聞くと、祐巳さまは言った。

「どうやって戻るんだろうね?」

「え、ええっ!? そんな……そんなことになったら、どうやって暮らしていけばいいんですか?」

 大変なことになってしまった、と瞳子は動揺する。
 当たり前だが、今目の前にいる祐巳さま以外知り合いはいない。祐巳さまだって、たまたまここにいるだけで、身内なり知り合いなりがいるわけではない。身寄りのない十代の小娘が大正時代でどう生活していけばいいのやら。

「うーんとね。まず、下着は平成とは違うからズロースで──」

「そんなこと聞いてるんじゃありませんっ!? ……って、ズロース?」

「見たいの?」

「な、な、何を。ふざけたことを、おっしゃらないでくださいっ!」

「あと、ブラジャーもなくて」

「ちょちょちょちょちょちょっと待ってくださいっ、じゃ、じゃあ、今は……」

「……御想像にお任せします」

「何が『御想像にお任せします』ですかあっ! 想像なんかしたくもありませんっ!!」

 学校の先輩じゃなかったら、殴っていたかもしれない。

「和装で過ごすっていうのも手だよ。そうしたら下着、つけなくてもいいみたい」

「つけないで過ごす方がよっぽど精神衛生上よくありませんっ!! いい加減にからかうのはやめにしてくださいっ!!」

 下着以外、関心はないのか、この人は。

「とにかく、私たちをここに連れてきたありささまを探しましょう。あの方なら、何かご存知なんでしょう」

「あ、そうか。──ありささま。瞳子ちゃんが」

 祐巳さまが振り向いて呼ぶと、噂のありささまが、いた。

「祐巳さまあぁーっ!」

 裏拳で突っ込むところだったが、ギリギリで寸止めするほどの理性が残っていたことを瞳子はマリア様に感謝した。

「祐巳さんを平成に戻すためにこっちに来たのだけど、あなたにみられて、その上巻き込んでしまっていただなんて。ごめんなさい」

 ありささんはすまなそうに謝る。

「巻き込まれたとはどういうことですか?」

「私が時空を超える時に、私の体に触れているとその人や物も一緒に時空を超えてしまうのよ。四、五人くらいが限界かしらね。それ以上はお話しできないわ」

「あの、私たちは元の時代に戻れるんですか?」

「もちろん。二人には平成時代に戻ってもらわないと私も困るのよ」

 瞳子は少し落ち着いてきた。

「では、すぐに戻れるんですよね」

「時空を超えるには少し体力を使うの。だから、出発にはもう少し待って頂戴。向こうへの到着はなるべくこっちに来てから間がない時刻を狙うから」

「えっ、そんなことができるんですか?」

 祐巳さまが驚いたように聞き返す。

「……確実に何日の何時何分なんていうのは駄目なのよ。誤差があって、二、三日ずれることもあるのよね」

「ああ、それで一週間が十日になっちゃったんですか?」

「ええ」

 なるほど、と祐巳さまが納得する。

「でも、夕方には出発できるから、それまでは好きに過ごしていて大丈夫」

 ありささまが言う。

「好きに過ごしてって……」

 瞳子は戸惑う。

「じゃあ、大正時代の見物に行こうよ。もう、来れないような場所だし」

 祐巳さまがそう言う。

「何をおっしゃるんですか。何かあったら、どうなさるおつもりで?」

「大丈夫、大丈夫。あ、そうだ。小梅さんの家が洋食屋さんなんだって。行ってみようよ」

 そう言うと祐巳さまは瞳子の手を取って立ち上がった。

「夕方には戻ってきますね」

「気をつけてね」

 ありささまに見送られ、瞳子は祐巳さまに引っ張られて外に連れ出された。

「えっとね、確か……こっちだったと思う」

「だから、見切り発車で動くのはやめてくださいっ!!」

「大丈夫、大丈夫」

 全然大丈夫じゃありません。
 結局祐巳さまは見事に道に迷った。人に道を訪ね、目的地の『すず川』に到着した時にはお昼はとっくに過ぎていた。

「ごきげんよう」

「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらに」

 席に案内され、オムライスとソーダ水を二つ注文した。

「祐巳さま、料金は?」

「それは大丈夫。ありささまにこっちの時代のお金は用意してもらってたから。ほら」

 祐巳さまが見せてくれたのは大正時代の硬貨だった。何種類かを並べてくれたのだが、単位が円ではなく銭で、しかも初めてみるものばかりだった。

「子供みたいなこと、しないでくださいよ」

「20円分だって言ってたけどほとんど使わなかったから結構余っててね。もうすぐ帰るから使っちゃおうと思って。よかったら、記念にあげるよ」

「こんなもの、貰ったって……」

 その時、オムライスがきたので急いで硬貨をしまう。
 一枚がこぼれて、とっさに瞳子が拾う。

「お待たせいたしました」

 目の前にオムライスが置かれる。
 
「美味しそう。いただきます」

 祐巳さまはさっそく食べ始める。

「美味しい! 瞳子ちゃんも早く食べなよ。冷めちゃうよ」

 そういえばお腹が空いている。
 瞳子はとりあえず硬貨をポケットにしまうとオムライスを食べ始めた。

「なんか、こうしてるとデートしてるみたいじゃない?」

 不意に祐巳さまが言う。

「……単なる、時間つぶしですっ。どうして祐巳さまとデートしなくてはいけないんですかっ!」

「ふーん……時間つぶしか」

 大正時代のソーダ水を堪能し、帰りはほとんど迷わずに東邦星華に到着した。

「さて、それでは帰りましょうか」

 ありささんに連れられて、人気のないところに行く。

「二人とも忘れ物はない?」

「大丈夫」

 祐巳さまはリリアンの制服に着替えてきた。

「じゃあ、行くわよ」

 二人でありささまの手を握る。
 ぐらり、と先程も体験した眩暈のような感覚が襲ってくる。
 と、同時に。

 ──パチッ!

 強い静電気のような感覚があった。

「えっ!?」

「きゃっ!?」

「何!?」

 眩暈のような感覚が収まると、そこは大正時代のままだった。

「あれ?」

「どうして?」

「そんな馬鹿な……」

 ありささまが口元に手を当てて言う。

「もう一回やってみるから、しっかり手を握ってて」

「は、はい」

「わかりました」

 祐巳さまと一緒に瞳子はしっかりと手を握る。
 再び襲ってくる眩暈のような感触。
 そして、同時に襲ってくる静電気のような感触。

 ──パチパチッ!

「ひっ!」

「うわっ!」

「……おかしい、こんなの今までになかった」

 もう一回、もう一回とチャレンジするが、その度に静電気のような感覚がひどくなる。

 ──ビリビリビリビリッ!

「きゃっ!」

「痛っ!」

「そんなっ! どうしてっ!!」

 ありささまが焦り始める。
 祐巳さまが言った。

「ありささま、人数が多いということはありませんか?」

「そんなことはないわ。何度か四、五人で移動した事があるもの」

「でも、私も瞳子ちゃんもこっちに来た時は一人ずつでしたよね。もしかしたら、一人ずつなら帰れるかもしれません」

 それはつまり、祐巳か瞳子のどちらかがこの時代に残るという提案だった。

「なっ! 何を言い出すんですか、祐巳さまっ!?」

「……わかったわ」

 しばらく考えたのち、ありささまが言う。

「あっ、ありささまっ!?」

 何をわかったというのだ。いや、瞳子にだってわかってはいるのだ。
 しかし、瞳子はその結論を聞きたくはなかった。
 ありささまが結論を話す前に祐巳さまが言った。

「では、瞳子ちゃんからお願いします」

「祐巳さまっ!?」

「だって、万が一失敗して、取り残されることになったとしても、瞳子ちゃんはこっちには誰も知っている人がいないもの。私は、桜花会のみんながいるから、もう少しだけなら頑張れるから」

「そんなっ! 祐巳さまが先にこちらの世界に来たんですから、先に祐巳さまが帰るべきです!」

「ありささま、お願いします」

 無視して祐巳さまが言う。

「ええ」

 ありささまが瞳子の手を捕まえる。
 また眩暈のような感覚が来るが、今度は静電気が起こらない。

「祐巳さま! 今度は行けそうです! ご一緒に──」

 瞳子は祐巳さまに手を伸ばす。祐巳さまに触れようとしたその瞬間。

 ──バチバチバチバチッ!

 静電気というより雷といった方が近い衝撃に襲われた。

「きゃあぁっ!」

「と、瞳子ちゃん!」

「無理しないでよっ! 時空が壊れたら大正時代も平成もみんななくなっちゃうわっ!!」

 ありささまの叫びと同時に祐巳さまは瞳子を突き飛ばした。
 静電気が弱まっていき、ぐにゃりと祐巳さまの顔が歪んで見える。

「祐巳さまっ! 祐巳さまっ!」

「駄目っ! 瞳子ちゃん、駄目よっ!」

 ありささまが暴れる瞳子に組みつくような体制になり、そのまま祐巳さまと大正時代の風景が見えなくなった。



 そして瞳子はリリアン女学園のマリア様のお庭の前にひざまずくような格好でいた。
 冬の冷たい風が吹いている。
 全ては幻だったのだろうか。
 あまりのことに放心していて指一本動かせない。

「松平さん?」

 立っていたのは先生だった。担任ではなかったが、その先生の授業には出ていた。

「心配したのよ。姿が見えないから。もしかして、具合でも悪いの?」

 先生がそっと瞳子の肩を抱く。

「ああ、外にいたのにこんなに温かいだなんて、熱があるのね。気づくのが遅れてごめんなさい。保健室に行きましょう」

 先生に抱えられて立ち上がった時に、瞳子はようやく自分があるものを握りしめていることに気付いた。
 それは、自分のものではない赤いリボン。
 大正時代で祐巳さまがつけていたものだった。
 まさか、と思ってポケットを探ると『すず川』で拾った十銭硬貨が出てくる。
 瞳子は先生に連れて行かれる時にマリア様を見て思った。

 ああ、マリア様、マリア様。
 あなたはどうして大正時代に残す方に私なんかじゃなくて祐巳さまをお選びになったんですか?

【No:3195】へ続く


【マリア様がみてる派へのフォロー】
アンナ・カートランド:アメリカからやってきた小梅たちの担任兼チームの監督。ヘッドロック、キスなどのいきすぎた愛情表現と過剰なスキンシップが得意でやられる方はたまったものではない。生徒たちをいつも優しく見守っていて、いざという時には頼りになるヒーローかもしれない。女だけど。

【大正野球娘。派へのフォロー】
『物語の舞台』
 「平成」と明記されてはいるもののシリーズの長期化に伴い、辻褄が多少合わなくなってきたため、「平成のいつか」「特定されないほうがいい」「『マリア様がみてる』はファンタジー」と原作者の開き直……じゃなくって、「設定上、かなり無理がある平成」である。場所も「武蔵野」以外はM駅、K駅など特定できないようにはなっている。でも、マニアはなぜか三鷹や吉祥寺だと知っている(笑)
 リリアン女学園は明治三十四年創立の伝統校だが、原作者の出身校といわれる仏教系の女子校がモデルらしいのでキリスト教の学校にしては(以下略)


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