【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
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☆
木曜日、朝。
薔薇の館二階会議室、早朝のことだった。
まだ三薔薇も出てきておらず、ここには福沢祐巳と武嶋蔦子、藤堂志摩子の三人しかいなかった。
紅茶を飲んだり掃き掃除でもしてみたりと適当に時間を潰していると、蔦子は流しにいる祐巳にこそっと近づいた。
「喜びなさい祐巳さん」
「……え?」
“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”武嶋蔦子は、なんだか元気のない祐巳に、朗報を持ち込んだ。
「あの写真、撮れなくなったわ」
とんでもない不幸が訪れた翌日、まるで不幸分のマイナスを補うような幸運の知らせが舞い込んできた。
だが、祐巳はなんとも複雑な顔をする。――嬉しいことは嬉しいけどそれどころじゃないんだよね、とでも言いたげな顔だ。
あの「覚醒→枯渇」……極端に言えば「望んだ天国に行ってすぐそこから突き落とされてやっぱり地獄行き」を数十秒の間に経験してしまった祐巳は、よっぽど寝込んでしまいそうになったが、こうして出てきたのはある種の諦めから来ている。
――どうせそんなもんだよね、みたいな。
――このクィーン・オブ・平凡が、何かしらの力を得るなんて夢見すぎだよね、みたいな。
――たった数十秒だけでも能力者みたいになれたんだからもういいかな、みたいな。
リリアン女学園高等部に進学して学んだではないか。
何事も気にしないことだ、と。
そう考えると、あのくらいだったら大したことでもないのではなかろうか、と。
……気にしない気にしない大したことない大したことない平気平気と二回ずつ自分に言い聞かせるたびに、なぜか悲しくなって泣きそうになってしまうものの、気にしたらダメだ。気にしたら潰れてしまう。
現状維持でOK!
生きてるだけでスバラシイ!
それでいいじゃないか。
生きるってとても悲しいけれど、それでいいじゃないかっ。
「あの写真が……って?」
「何、忘れたの?」
「いや忘れたわけじゃないんだけれど」
そういえば説明していなかったっけ、と、蔦子は思い当たった。祐巳に「写真」と言えばあれしかないので、言わんとしていることは通じているようだが、言葉の意味は通じてないようだ。
「簡単に言うとね、私の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”を使用して写真が撮れないと、イコールその未来は存在しない、ってことになるのよ」
「あ、じゃあ」
「そう。祐巳さんは祥子さまの妹候補から完全に外れたってこと」
「……おぉー」
いまいち感動が薄いものの、祐巳はそれなりに喜んだ。――もっとも“折紙絶対防御装攻(インスタント・イージス)”松平瞳子の登場で、祐巳は祐巳で未来の可能性を見ていたのだが。でもそれに根拠が重なるのであれば、それは歓迎だ。
やはり、これでよかったのかもしれない。
下手に目覚めて何かしら能力を使えるようになっていれば、それこそ小笠原祥子の妹候補によっぽど近づいてしまうような気がする。
どんな能力が使えるようになろうと、祐巳自身、闘うなんて嫌だ。怖いし痛いのも嫌だし、誰かを傷つけるのも怖い。
蔦子のような情報系ならちょっと欲しいかな、とも思うが、情報を扱う者は頭の回転を求められる。祐巳はそれも自信がない。
一番欲しいのは、目立たないステルス系だが――しかし祐巳はわかっていない。ステルス系こそ一番注目され、警戒され、何くれと疑いの眼差しや敵意を向けられることを。本人にその気はなくても、他の人はいつの間にか情報を探られているかもしれないと思われてしまう。スパイに適した能力を持つがゆえに、存在自体が猜疑心を煽ってしまうのだ。“黒の雑音(ブラックノイズ)”桂も、実はそういう理由で有名なのだ。決して能力的に超が付くほどの高性能だから、というわけではない。特性はともかく、あれくらいのステルス系ならザラにいる。
理想的なのは、志摩子のような“反逆者”だ。……けれど志摩子も、表に出さないだけでそれなりに苦労しているし、修羅場も経験しているし、たまに戦闘にも巻き込まれる。
大きな力には、責任が伴うものである。
目覚めていない……いや、能力を使えない祐巳は、それを知らない。
「あんまり嬉しくない?」
「そんなことないよ」
ただ、色々と、複雑なだけで。
その情報を一日早く貰っていれば、小躍りして喜んだに違いない。
「そう?」
蔦子は、祐巳のこの微妙な反応は、「もしかしたら祥子の妹になりたくなったのか?」と勘繰るが、どうも違うようだ。失望や愛惜の情は伺えない。
まあ、微妙と言えば、蔦子の心情も微妙だったりするのだが。
――昨日の放課後に試した結果、あの写真は撮れなかった。
しかしこうなると、問題は推移である。
一枚目、普通に向き合う。
二枚目、祥子は怪我をしていて祐巳は腰が曲がっている。
そして三枚目は撮れなかった。
一枚目と二枚目は時間が空いたものの、二枚目と三枚目は一日置いただけである。
この変化はいったい何を表すのか。
たった二日の間に何があって、祥子と祐巳が向き合う未来が無くなるというのか。
真っ先に考えられるのは、リタイアだ。
流れを読むのであれば、祐巳か祥子が、怪我をして登校できないというケースが真っ先に考えられる。二枚目の祥子のあの大怪我状態からすれば、祥子の方がそうなる可能性は高いと見るべきか。それに二枚目と三枚目の狭間には「存在する・しない」という0か1か、くらいの明確な壁が立ちはだかるわけだが、当然「撮れなかった三枚目のその先」もある。
撮れなかった三枚目の先に、祐巳の未来、祥子の未来が確実に存在しているのだ。
二枚目と三枚目の狭間をシンプルに考えるならば、三薔薇くらいの力量を持つ者が、祥子または祐巳の仲を叩き壊す、という感じになる。
微妙な話である。
祥子はまだいいとして、祐巳の身にも何かが起こる可能性もあることが、とても微妙である。
(それにしても……)
蔦子は唸る。
このところ、色々と読みづらくなってきている。
昨日のリリアン瓦版号外に載った連中なんて、三薔薇の力に勝るとも劣らないというではないか。そんなのが動いたら蔦子の未来予想は確実に狂わされてしまう。しかも二人もいるらしい。
瓦版号外からの情報、あと噂程度を併せて信憑性はそこそこ。だがそのピースを与えられたことで合点がいったのだ。
マリア像の前で、祐巳と祥子が向かい合うシーン。
ここのところ、あの一枚目を左右している未来の不安定さは、かなり異常である。「存在する・しない」の二択ならば問題ないが、「祥子が怪我をしている二枚目」の存在が不安定さを強調しているではないか。どういうことだ。
――そろそろ来たのかもしれない。
未来実現確率9割オーバー、全自動機能付超高性能念写撮影術“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”の、更なる可能性を見出す時が。
元々、三薔薇が立場上ほとんど動かなかったからこその実現率9割である。あの人達が派手に活動していれば、当然“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”の実現確率はそれなりに落ちているだろう。
不確かであればあるほど、確率が下がれば下がるほど、それは情報としての質の低下と比例する。
三薔薇ほどの力を持つ者が本当に現れたのであれば、今の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”だけでは心もとない。もしルーキー達が三薔薇に対抗するようなことがあれば……まあ華の名前を名乗ったそうだからそうなると思うが、本格的な抗争が始まる前に編み出しておきたい。
何か一つ、“過去もしくは未来を写す”という基本性能以上の、応用型の能力を開発する。
三薔薇だって、このまま穏やかに卒業を迎えるわけがない。
あの人達が本格的にアクションを起こす前に、その活動に付いていけるような能力を。
少し落胆と、前向きな野望と。
それぞれの思いに没頭する二人を、藤堂志摩子は紅茶を片手になんとなく見ていた。
――なんだか楽しそうだなぁ、と思いながら。
だが、状況は蔦子の想像以上に早く動いていた。
その日の昼休み、事態は誰も予想し得なかった方向へ舵を取ることになる。
――いや、誰も、ではない。
現状を打破する切り札を提示する者と。
唯一、その可能性を考えていた、紅薔薇・水野蓉子だけが知っていた。
この日の昼休み。
やけに騒がしい午前中の授業が終わり、変わらず稽古のために集う山百合会とそのお手伝い達は、例外なく薔薇の館に顔を出していた。
そして。
テーブルに着き、それぞれの昼食を広げる最中、一人のイレギュラーが立っている。
「ごきげんよう、山百合会の皆さん」
小柄なメガネの彼女は“瑠璃蝶草”と名乗った。羅生門蔓の古名らしい。
毅然とした態度。気負いのない姿勢。しわ一つないピシリと糊の効いたハンカチのような通る声。
このメンバーを前に、そしてこの薔薇の館で、堂々としたものだった。
取り次いで連れてきた志摩子は、彼女が踏み込んだ瞬間から張り詰められる緊張感にハッと息を飲んだ。
「祐巳ちゃん、蔦子さん」
黄薔薇・鳥居江利子の目が二人に向けられる。
「悪いけれど席をはずして。山百合会関係の話になりそうだから。昼休みの稽古も今日はなしで」
昼食後は稽古をしているので当然のようにここにいた祐巳と蔦子は、揃って席を立った。
昨日色々とあった祐巳は、ちょっとだけ“瑠璃蝶草”を見ていた。
あの「すみませんでした」には、少しだけ救われたのだ。何も言われず腫れ物のように扱われて気を遣われていたら、少し泣くくらいじゃ立ち直れなかったかもしれない。
が、彼女は祐巳とは視線を合わせず、前だけを――三薔薇だけを見ていた。
――祐巳達が薔薇の館を出たことを確認してから、会議室の時は動き出した。
「“契約者”と言えば、もうわかりますね?」
「ええ」
蓉子は頷く。――白薔薇・佐藤聖の推測通り、口止めを兼ねた話し合いに来たのだろう。交渉に臨む決断が早かったのは幸いだった。明日まで接触がなければ、大掛かりな捜索を開始していたところだ。
「よければ」
「結構です」
空いた席を勧める江利子に、“瑠璃蝶草”は即座に返した――馴れ合う気はない、という意思表示でもあるのだろう。
「私は“瑠璃蝶草”を名乗っています。売れていない本名より、こちらの方が通りが良さそうなので、そちらで呼んでください」
山百合会フルメンバーの前で、華の名を口にする度胸だけは大したものだ。だが隙だらけの佇まいといい、どうやら戦闘に関するノウハウは全く無さそうだが。
「賢明な皆さんにおかれては、私が尋ねた理由もわかっているかと思いますが」
どうですか、と問いたげにかすかに首を傾げる“瑠璃蝶草”に、蓉子は口元を隠すように両肘を立て指を組んだ。
「色々考えてはいるけれど、それがあなたが言いたい理由とは限らない。相手の推測に任せず、あなた自身の口から言ってくれるかしら?」
「“契約者”の存在は表沙汰にはできない。だから口止めに。交渉の余地は?」
「ないわね」
蓉子は指の向こうで不敵に笑う。
「その一点に関してだけは決定事項であるべきだわ。交渉の余地なくそうするしかない」
“瑠璃蝶草”の眉が動く。
「真意を?」
「これ以上の被害を出さないため。でしょ?」
さすがだ、と“瑠璃蝶草”は思った。こちらとしては、踏み込まれても可能な限り不利な条件に応じる覚悟はしていた。それが“瑠璃蝶草”の正義の証明だからだ。
しかし、そんなものは愚案だった。
相手の弱味に付け込んで一方的な交渉をするような恥ずかしい真似はしない、ということだ。
「他のお二人も同じ意見ですか?」
「私はいいよ」
「問題なし」
聖と江利子も頷き、これで“瑠璃蝶草”の用件は済んでしまった。
呆気なく。
済んでしまった……わけだが。
「それでいいんですか?」
「ん? 何が?」
「味方を増やさない、などの条件を提示されると思ったのですが」
三薔薇は軽く顔を見合わせ、代表のように蓉子が口を開いた。
「あなたは爆弾」
「……はい?」
「あなたは爆弾のような存在だ、と。下手に触れると爆発して、それこそ収拾が付かなくなる」
だから恐ろしいのだ。
“重力空間使い”や“天使”、“鳴子百合”のように、更にどんどん覚醒させて味方を増やして現在のパワーバランスが崩壊するよりは、放置の方が無難である。
交渉などをして決裂し、取り返しのつかない「存在の公開」などという一手を打たせるわけにはいかないのだ。絶対に。
今話してみた限りでは、“瑠璃蝶草”自身も、それは避けたいようだ。だが正義のタガは結構はずれやすい。それも自己犠牲に陶酔するようなら自らの手を汚すことさえ辞さなくなる。やってはいけないことをやるのも、そういうタイプが多い。
それは絶対に避けねばならない。
追い詰めれば鼠だって猫に反抗するものだ。
「あなたも正義なんでしょう? だったら好きになさいよ。私達は、その正義がリリアンを苦しめるわけがないと信じているから。だから規制なんてしない。条件も提示しない。――でも華の名を語る以上、容赦なく狙わせてもらうけれど。その名前は例外なく許せないから」
“瑠璃蝶草”は驚いた。
まさか、歪んだ正義の象徴のような山百合会、それも三薔薇の内の一人が、他の正義を認めるような発言をするなんて。
蓉子は更に続けた。
「あなたはあなたの信じる正義を貫くために、その力を大いに振るえばいいわ」
蓉子の意見に驚いたのは、蕾達と由乃もだ。聖と江利子だけは納得している……が、それはそれとして、仲間を増やす行為をそのまま見過ごす気はなかったりするが。「やるならやれ、止めるけど」と。
このまま行けば、“瑠璃蝶草”は順調に仲間を増やし続けて、いずれは山百合会と全面戦争が起こるのだろう。
――結構なことじゃないか。
強者こそ絶対のルールである以上、それを拒む理由はない。
それと。
三薔薇は、“瑠璃蝶草”の揺らぎに気付いていた。
きっと山百合会を悪く思うことで、己の中の正義を奮い立たせてきたのだろう。彼女の中では三薔薇は仲が悪くて利己的で野心旺盛でねちっこく笑う悪役のイメージであった方が、遠慮なく敵に回れたに違いない。
揺らぐということは、山百合会の正義と、自分の正義にも疑問を抱いたということだ。
つまり覚悟が足りない証拠――彼女もルーキーだ。恐らく参謀役。頭の回転は悪くないのだろうが、やはり経験不足のせいで揺さぶりに弱そうだ。
――奇しくも、“瑠璃蝶草”はギリギリの最後の選択だけは、花マルものの大正解を引いていたのだ。すでに組織解体を経てここにいる以上、もう参謀ではない。もし組織を解体していなければ、己の未熟と経験不足のせいで、闘うまでもなく山百合会どころか勢力幹部に潰されていただろう。まともにぶつかるには、仲間の質も規模も、参謀役も、組織体制さえも、目に見えない部分さえ差がありすぎていた。そして、それを自覚できない未熟さこそが一番の問題なのだが、自覚がない以上それに気付いてさえいない。
まあ、それはともかく。
「でも闘う人数が増えれば増えるほど、リリアンにも、一般生徒にも被害が及ぶわ。それだけは忘れないで」
能力者を増やすのもいいが、増やした分だけ怪我人も増える。蓉子はそう言いたいのだが、尚も言葉は続いた。
「ねえ、“瑠璃蝶草”さん」
「……はい?」
「私達はいつまで闘わなければいけないと思う? いつまで血を流し続ければいいのかしら?」
「…………」
「私は、あなたの力は、闘いを終結させるためにあるとしか思えないのだけれど」
いったい何度驚かせてくれるのか。まだ10分も経たない謁見に、どれだけ先を見越している。
出すかどうか、ここに来て迷ってしまった切り札。
他の者はわからないが、蓉子だけは、それを見通しているとしか思えない。
“瑠璃蝶草”は、違う意味で、決断を迫られていた。
自分達の正義と、山百合会……水野蓉子の持つ正義は、同じ方向を向いているのではないか、と。
だとしたら、出すべきだ。
迷う必要はない。
――自分達以外の誰かが勝つ。可能性が高いのは、山百合会の誰かが頂点に上り詰めることである。
それが唯一の懸念だったが、今では、それはそれでいいのではなかろうかと思える。
山百合会。
彼女達も、間違いなく正義だ。
それがわかったからこそ、自分に残された最後のカードを出すべきだ。
一時的に被害は広がるだろう。怪我人も続出するだろう。
でも、それを乗り越えれば、望む未来が待っている。
山百合会の姿も意外だったが、何より、自分の仲間達を信じたい。仲間の誰かは、きっと頂点に立ってくれる。そう約束して組織を解体したのだ。
だから。
「失礼」
覚悟を固めた“瑠璃蝶草”は、右手を上げて、そこに紫のオーラを放つ“契約書”を呼び出した。蕾達が若干身構えたのは、感じていた力の大きさを目の当たりにしたからだろう。
「一つ提案したいと思います。私の“契約”の力があれば、リリアンの頂点に立つ女帝に、女帝たらしめる力を与えることができます。
そろそろ決めませんか?
強者こそ絶対の正義であるという、その言葉を体現する女帝を」
“瑠璃蝶草”の言葉を聞いて、蓉子は笑った。
「やっぱりできるのね」
「やっぱり」。
本当に。
本当に、直接ぶつかりあわなくて良かったと、“瑠璃蝶草”は思った。
どんな組織を形成しようと、どんなに優秀な駒が揃っていようと、水野蓉子には勝てる気がしない。
「私の“契約”の力は、まず力を駆使する私と、その私を信じる相手が居て成立します。専用のペンで署名して、ようやく書面上にある効果が発動となります」
“瑠璃蝶草”は“契約書”をテーブルに置き、蓉子の前に滑らせる。派手なオーラを放つ“契約書”を、蓉子は躊躇なく手繰り寄せた。
「一文目に効果。二文目以降は契約条件になりますが――」
「……象形文字?」
「使用者たる私と、その“契約書”を向けられた相手にしか読むことができません」
「なるほど? あくまでも一対一の取引が原則ってわけか」
「そういうことです」
蓉子は、気にしているメンバーに“契約書”を回す。
「それで? あなたが言う、女帝に力を与える“契約書”は?」
「今そこにある、それです」
聖の手元にある“契約書”を指差す。
「……署名欄が三つ、か。つまりこれ、私達のサインが入るのね?」
“瑠璃蝶草”は頷く。
「普通は一対一ですが、扱う力が大きくなると条件も変わるんです――今回に限りは、条件の方に扱う力を合わせてみましたが。
サインを入れれば読めるようになりますが、大雑把に言うと、そこには『この“契約書”を持つ者を女帝として認める』と書かれており、三薔薇のサインが入ることで、三薔薇がそれを承認する、という意味になります」
「ふーん……サインしたら読めるようになるわけだ。じゃあ、試しにサインしてみようかな」
「お姉さま?」
自身の姉の発言に、志摩子の目が大きくなった。どんなものかもわからないのに試してみようだなんて、と。
「大丈夫。私がこれが読めないってことは、別にサインするのは薔薇じゃなくてもいいってことでしょ?」
「はい」
ただし「三薔薇が認めていない女帝」が、果たして「女帝」と呼べる存在になるのかどうかは疑問である。
“契約”の力は、“瑠璃蝶草”と“契約書”を信じ認めることで力が発動する。その前提が必要である以上、万人が認めるであろう人物が“承認”していないと、果たして“契約書”が発動するかどうかあやしいのである。サイン自体は誰でもできるが、三薔薇じゃないと意味がない。
簡単に言えば、三薔薇が認めるから女帝になれるのだ。そうじゃなければ誰も認めないだろう。
「ついでに言えば、三人分の署名がないと効果を発揮しません」
「そう。――そして“条件を口にする時、偽りを語らない”……なんて条件もあったりするんでしょ?」
「……よくわかりますね」
そう、“契約書”のことを語る時、“瑠璃蝶草”は嘘をつくことができない。それは“契約違反”として、自分の能力にも関わらず“契約書”が拒否するのだ。ちなみに勘違いや間違いなどは含まれず、「無意識下の嘘の自己申告」を読み取っているようだ、というのが自分なりの推測だ。
だから騙まし討ちのような真似は絶対にできないようになっている。――あくまでも公平な取引として“契約書”は発現しているのだ。脅迫や詐欺の類は不可能で、相手が「この条件でいい」という認識の下に署名する=相手が“契約”を認める、という意思が絶対必要なのだ。それがないと署名しても発動しない。
「占い系の能力者に似たような使い手がいるのよ。いつだったか、嘘ついたら正確に占えないだろうがーってキレてね、“使用者も対象も嘘を吐かない事”って条件を付加したんだって」
聖はニヤニヤ笑う。
「嘘ついたらそれはそれは恐ろしいペナルティがうふふふふ……知りたい?」
「いいから早くサインしなさいよ。しないなら寄越しなさい」
「なんと、10分かそこらだけ、対象の顔が十年後から三十年後くらい老けちゃうんだって!」
「なにそれ面白い。紅薔薇みたいなポン酢の違いにこだわりを持つキャリアウーマン顔になれちゃうの?」
「早くサインしなさいよ! しないなら寄越しなさい!」
怒り狂う蓉子など無視して、聖と江利子は「今度紹介してあげよう」「うわー楽しみー」などと盛り上がる。
そんな変な間を越えて、聖は“瑠璃蝶草”が出したペンで“契約書”に名を記した。
「あ……ほんとだ。読めるようになった」
聖の網膜に、紫のオーラが映っている。
「なんて書いてある?」
「んー、だいたい彼女の言った通りのことが書いてある……あ」
書面の下の方に目が向いたところで、聖の表情が変わった。
「署名を終えた時点から168時間後……一週間か。一週間後にこの契約書を持つ者を、頂点を極める女帝と承認し女帝に相応しい力を与えるものとする――だってさ」
「一週間後?」
色々な疑問点が浮上するが、“瑠璃蝶草”がさっさと話を進めた。
「私のプランでは、署名を終えた書類を四分割して、三薔薇と私とで保管します」
それだけで、意思は伝わった。
「へえ?」
「面白いわね」
「どうにかして四枚集めて“契約書”を完成させれば女帝誕生、ってか」
三薔薇がやる気をたぎらせた。目に見えない力で壁に押し付けんばかりの恐ろしい圧迫感を放ち出す。
「“契約書集め”の面白いところは、闘うだけじゃなくて窃盗や交渉も対象に入るところね」
「それだけじゃないわ。タイミングによっては奪った“契約書”を守り続けなければいけない。そして」
「これほど共闘と裏切りが際立つゲームはない、と」
食いついた――“瑠璃蝶草”の切り札は、リリアン最強の三人に採用されたようだ。
そう、この“契約書集め”は、戦闘のみに限らないからこそ良いのだ。実力勝負のみに限れば、昨日今日目覚めたようなルーキーには絶対に勝ち目がない。
ただし、所持している“契約書”を奪うだけなら、誰しもに等しくチャンスがある。誰かと闘っている時の隙をついてもいい、同じ目的を持つ者と一時的に手を組んでもいい、奪った“契約書”を誰かに渡すことで未来の女帝に取り入るのもいいだろう。
だがしかし、“瑠璃蝶草”は山百合会を軽く見過ぎていた。
三薔薇は余裕で彼女の上を行く。
「これはアレね?」
「アレよね?」
「やっちゃう? 勢力解散」
「え」
勢力、解散?
三人の女王はニヤニヤしながら不穏な空気を放ちつつ、恐るべきことを口にする。
「当然解散でしょ。こんなお祭り、限られた一部の人達だけ参加させてどうするのよ」
「新聞部で大々的に取り上げてもらいましょうよ」
「いいねー。周りは敵だらけか。まるで一年生の頃みたい」
退屈に退屈を重ねていた三薔薇は、即座に、一番楽しいゲーム方法を見出していた。
――狂気だ。
戦闘狂……いわゆる三度の飯よりケンカ好き、という昭和世代の不良漫画に居そうなキャラより、もっともっと危険だ。
何せ、楽しみのためだけに、代々築き上げてきたものを簡単に捨てると言うのだから。
「本気ですか?」
あまりのやり方に、話を持ちかけた“瑠璃蝶草”の方が引いている。
――もっとも、これも彼女の未熟さゆえの誤解だった。
たった四人構成の新設組織じゃあるまいし、代々築き上げてきた組織が、そう簡単に解体などできるわけがないのだ。本当に解散させたいのであれば、率いる薔薇ごと全破壊して、薔薇の心までへし折って、そこまでやって初めて完璧に解体できるのだ。
薔薇はそれぞれの勢力を率いてはいるが、薔薇と勢力は一心同体ではなく、それぞれ個々に存在するのである。過去、自分達を率いる薔薇を認められなくなった勢力側が、薔薇の名を手折ったことさえあるのだから。
だからこそ、勢力幹部の発言はたとえ薔薇でも無視できない。それなりに力を握っているのだ。
蓉子の瞳には、ゆらゆらと燃える闘争心が見えた。
「もちろん本気」
見据えるその視線だけで、相手を捻り潰せるのではないかという重圧。どこまでも本気のようだ。
まあ、強いて言い含めずとも、薔薇の伝える解散宣言なんて、向こうが勝手に一時的なものだと判断してしまうに違いない。ゲームが終わればまた自然と集うだろう。一朝一夕の組織ではないのだから。
それに。
もし女帝の座についた誰かが新たなルールを創った場合、勢力どころの話ではなくなってしまう可能性も充分ある。
ただ言えることは、権利だけは公平にしておきたい、ということだ。どこぞの勢力の誰であろうとも、上下関係のしがらみもなく。三薔薇勢力はそうするというだけの話だ。
退屈してくすぶっているのは、薔薇だけではないのだから。大掛かりな組織の幹部だって似たような立場なのである。身軽な島津由乃が心底羨ましくなるくらいに。
「早速やりましょう。今日が木曜日だから、明日か明後日にはゲームルールの公開。月曜日からゲームを始めて最終日は土曜日、ってところかしら。忙しくなるわね」
「――お姉さま」
黙って話を聞いていた祥子は、冷ややかな視線を向ける。
「学園祭は来週の日曜日です。私達の劇は殺陣の打ち合わせが終わっていませんし、終わっていたとしても現在の完成度はまだ低い。この時期にわざわざ事を急く必要はないように思いますが」
祥子の言うことはもっともで、同意と言わんばかりに令と志摩子も頷いていた。
しかし、蓉子……いや、三薔薇の意見は違った。
「一つ、公平を規するため。間を置くと、これを仕掛ける私達が有利になる。熟考し、プランを立て、仲間を集うことができる。やる・やらないじゃない。それができるという時点で問題なのよ。
二つ、同じ理由で薔薇勢力の幹部達が有利になる。勢力幹部にはどうやっても私達から情報が漏れてしまう。それに計画を立てたり根回ししたりは、私達より各幹部の方が得意だから。私達より彼女達の方が問題視されるでしょうね。
そして三つ目に、彼女」
蓉子は“瑠璃蝶草”を見る。
「彼女が一言『こういう計画がある』と誰かに漏らし、校内中にこの件が広まった場合、ゲームをせざるを得なくなる」
「たったの一言でそうなりますか?」
「女帝の椅子は、今まで誰も辿り着けていない。長らく頂点に近い場所にいる山百合会、歴代の薔薇の誰もが届いていない。
でもこの“契約書”は、具体的な物証として現実に存在する。これを手にするだけで頂点に立てる。闘う必要はなく、ただ集めて持っているだけでいい。
実力不足、戦闘異能を持たない、そんな人達にも等しくチャンスが訪れる。野心溢れるリリアンの子羊達には魅力的な話よね」
それに、だ。
「白薔薇」
「ん?」
「“影”がこの会話、聞いてるんじゃないの?」
「あー……いる?」
「――ここに」
聖がどこかに声を掛けると、“瑠璃蝶草”のすぐ隣に少々猫背の女生徒が現れギョッとした。
「あなたのことは信用してる。でもあなたと同じように、気付かないところから情報が漏れる可能性は絶対に否定できない。そうでしょう?」
「私からはなんとも」
“影”は言葉を濁し、また消えた。“瑠璃蝶草”は今まで彼女がいたところに手を伸ばしてみる。視覚情報通りそこには何もなく手ごたえはない。やはり消えているようだ。
それはそれとして、蓉子の懸念は納得できてしまった。
どこで誰が聞いているのか、見ているのかさえわからない、というのは冗談でもなんでもない真実だった。
ちなみに“影”がここにいる理由は、白薔薇の側近だからというだけではなく、彼女が持つ異能にも関係している。
「あ、もう一回出てきて」
「――はい」
聖が呼ぶと、また“影”は現れた。ちょうど手を伸ばしている“瑠璃蝶草”の目の前に。
「うわっ」
いきなり出てきたので思いっきり胸をむにゅってしてしまった。見た目によらず結構ずっしりとした質量でだいぶ立派だった。
「ご、ごめんなさい」
「……」
“影”はチラッと“瑠璃蝶草”を見ただけで、何も言わなかった。その目は非難げではなく「気にするな」と言っているように見えた。
「ねえ、この“契約書”、“地図”に投影できない?」
「それだけの力を放つ物質なら可能かと」
“影”は拝むように両手を合わせて開く――と、そこには“羊皮紙風の紙”が発現した。大きさはB4サイズ程度で、紙面には真上から見たリリアン女学園の敷地が描かれている。
――これが“影”の異能の一つ、“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”である。
“影”が直接触れるという条件で“登録”した人物は、敷地内にいるのであれば常にこの“地図”に表示される。簡単に言えば誰がどこにいるのか一目瞭然でわかる“地図”である。
彼女はステルスで相手に近づき、相手にわからぬよう条件をクリアして、主立った能力者を全て“登録”している。縮尺のせいで潰れているが、サイズはある程度自由で、“地図”を大きく発現すれば“登録者”全員が確認できるようになる。
この能力を持っているから、“影”は常に聖の側にいて、自由にここに出入りし、山百合会の内密な話さえ耳にすることを許されている。――彼女はこの能力で、薔薇の館や山百合会に近づく者を見張っているのである。“影”と同じく超高性能のステルス使いもいるからこそ、“影”の“地図”は重宝している。ちなみに“影”のステルスは有名だが“戯言を囁く地図(バベル・クラフト)”の方を知る者はほとんどいない。
この“地図”は人物のみに対応しているという話だが、オーラを放つほどの具現化物質ならば“登録”できるらしい。いや、たぶん元から物質も“登録”できるのだろう。やる意味がなさそうなだけで。
「貸してください」
“影”はテーブルに“地図”を広げると、回ってきた“契約書”に触れ何事か呟き――紙面の薔薇の館を示す建物の中に、紫色の丸印が浮き出してきた。これで“登録”できたらしい。
「四つに分けてもいける?」
「恐らく」
「ちなみに“地図”の最大具現化時間は?」
「丸一日くらいでしょうか」
「私の言いたいことはわかるよね。可能? 不可能?」
「可能です」
「よし、なら決まりだ」
三薔薇は頷き合う。
「“契約書”は誰が持っているかは表示させないで、どこにあるかだけこの“地図”上で公開する」
聖が「それでいい?」という視線で見ると、蓉子と江利子から異論はなかった。
そう、これは、無関係な人達を極力巻き込まないための采配だ。誰が持っているかわからなくなって、片っ端から手当たり次第……なんて愚挙に出る者を防ぐための。
「お姉さま方がどうしてもやりたいという意思はわかりましたが、劇はどうするんですか?」
責任感の強い祥子は、これから始まるゲームにかまけて劇を放り投げることに抵抗があるようだ。
「殺し合いさえ含まなければ、劇はもう完成しているわ」
「つまりノーマルで?」
「あとはアドリブで適当に合わせましょう」
「……アドリブで殺し合いを? 本気ですか?」
「自信がない?」
「やれと仰ればやりますけれど」
「じゃあやって」
「……わかりました」
諦めの溜息を吐き、祥子は姉の意思を尊重した。今までよっぽど退屈だったのだろう、食いついたエサを離すつもりは微塵もなさそうだ。それは令や志摩子も同じで、とてもじゃないが説得に応じるようには思えない。
まあ、祥子も、急ぐ理由はわからなくもない。
薔薇の名を継ぐ者、そしていずれ引き継ぐだろう者達には、ルールを厳守するべき者として一切の言い訳も許さないし、許されない。
それを証明するために、考える時間を持たないのだ。
組織を一時解体し、味方の野心さえ許すという寛大さも持ち合わせるのは、プライドの問題だ。華の名を背負うならそれくらいの遊び心は持ち合わせるべきだろう。余裕がない支配者など滑稽でしかない。
そして開始時には、最も頂点に近い三薔薇が“契約書”を所持し、皆の的になるのだ。
最後まで所持し続けるか、誰かに奪われるか、また奪い返すか。
どうあれ、一番危険な役目を望んで負うという姉に、妹が付いていかないわけにはいかない。
それに、ある意味ちょうどいい。
学園祭という区切りがあるから、出し惜しみなくそれまでに力を注げるのだ。区切りを超えてだらだらとくすぶり続けないように。
しかしやはり抵抗はある。
学園祭は外来客がやってくる。なのにそれまでに暴れまわって校舎は半壊、生徒の半数は怪我のため欠席、なんて目を覆いたくなる惨状に陥る可能性もなくはない。
まあ、その場合は、目覚めていない者達でなんとかしてもらうしかないわけだが。元々山百合会以外で異能を使用する出し物自体は少ないので、あまり問題はなさそうだが。
それに、これは総力戦や掃討戦ではなく、争奪戦だ。
無駄に潰し合うより、謀略や共闘を視野に入れた立ち回りが重要になる。――奪えたとしても、今度はそれを守り通さねばならないのだ。奪うことに全力を注ぐと、今度はそれを守りきれない。闘うにしろ何にしろ、余力は残しておかねばならない。
考えることは多々あった。
そして由乃は当然として、祥子も、令も、血が騒ぐことを禁じえない。
ただ闘うのではなく、奪い合う。
それは横行しているロザリオ狩りよりも危険度が高く、同じく競争率も高い。おまけに薔薇を手折るよりも簡単に一発逆転を狙える。チャレンジするには充分過ぎる報酬が約束されているのも魅力的だ。
つまり、無駄がない。ゲーム内容も報酬も。面白くならないはずがない。
「かなり微妙な時期ですが、本当にやりますか?」
“瑠璃蝶草”としては、学園祭以降にしてもらった方が都合が良い。時間が作れるのであれば、仲間達はその時間分だけ強くなれる。できれば学園祭以降の方がありがたいが……
しかし蓉子の答えは、単純明快だった。
「はっきり言うなら、あなたの連れに時間を与えたくない、というのも急ぐ理由の一つ。……というより理由の半分はそれ」
もう驚かない。
“紅に染まりし邪華”水野蓉子は、間違いなく天才だ。
――いや、彼女だけではなく、“白き穢れた邪華”佐藤聖も、“黄路へ誘う邪華”鳥居江利子も、それは視野に入れているようだ。
力だけなら彼女らを超えている“契約した者達”を油断なく見ている、ということだ。決してルーキーだからと軽視せず、自らの力に慢心し奢ることもなく。
とんでもない組織である。
経験不足ばかりが集まった新興勢力がこれに勝とうとしていただなんて、それこそ慢心だ。
この時点で、“瑠璃蝶草”は、自分達は限りなく勝算が低いことを正確に認識する。
だが、たとえ勝算が低かろうと、これしか勝機がないことも同じく認識した。
山百合会を――三薔薇を出し抜くなんて至難を極めるが、三薔薇を倒すことに比べれば、なんと優しいハードルだろう。……どっちも山のように高いが。
こうして、争奪戦の計画が立てられた。
翌日のリリアン瓦版には早々にこのゲームの存在が公開され、激震を呼ぶことになる。
細かいルールはない。
1、三薔薇が持つ“契約書”を三枚集め、週末土曜日の制限時間まで所持していること。
最後の一枚を持つ“瑠璃蝶草”の存在は隠匿され、土曜日のその時まで表舞台には立たないことになっている。
2、「(自分の名前)はリタイアを宣言します」を口にすると、それ以降“契約書”に触れることができなくなること。
これは戦闘にやぶれ怪我を負った後、更に追い討ちを掛けられ大怪我をすることを防ぐためである。この争奪戦はあくまでも争奪戦で、「リタイア」さえ宣言しなければ何度でもチャレンジできる仕組みになっている。
ただしこれには裏があり、「リタイアを宣言しても争奪戦に参加はできる」のである。ただ“契約書”に触れない――女帝になる権利がなくなるだけで、たとえば誰かの助力に奮闘することは可能なのである。このシステムに気付いた者は利用するだろう。
ルールは以上の二つのみ。参加証も登録も必要なしで、その気になれば目覚めていない者でさえ参加できる。
誰も座したことのない、女帝の椅子。
野望滾らせ野心旺盛な子羊達は、目の色を変えて思考を巡らせ始める――
“瑠璃蝶草”が約束通り四日間という時間を捻出した、その頃。
“重力空間使い”こと“竜胆”は、廊下に仁王立ちしていた。
そして、彼女の目の前には、「うげー嫌な奴に会ったー」と言わんばかりの顔を惜しげもなく晒さしてる“冥界の歌姫”蟹名静の姿が。
「静さん」
「ごきげんようさようなら」
静は視線を合わせないようにして“竜胆”の脇をすっと通り抜け――がしっと捕まった。
「トイレ? お付き合いしても?」
「腕を組まないで。知り合いだと思われるじゃない」
力を抑えることができない新参者の“竜胆”は、その存在感を主張しまくって異様に目立っているのだ。
集まる視線が気になる静は露骨に嫌な顔をするが、
「知り合いだからそれでいいと思う」
彼女はまったくめげなかった。しかも大通りを行く恋人のように指を絡めて手を繋ぎだす始末だ。
「……めんどくさい奴に捕まったわね」
思いっきり本音をポロリしてしまったが、“竜胆”は華麗に無視した。
「静さん。実はお願いがあってあなたを待っていた」
「……何? デートのお誘い?」
「ある意味そう。――強くなりたい。今日を含めた四日で、三薔薇を超えるくらい」
「無理」
「じゃあ、由乃さんに勝てるくらいに」
「それも無理」
「なら、今の私以上になれればそれでいい」
「…………」
「お願い。同じ“空間”系であるあなたにしか頼めない。私には強くなる方法がわからない」
やる気はなさそうだが真摯に見詰める“竜胆”を、静は溜息をつきつき腕から引っぺがす。
「そういうのは自分で探すものよ」
「生憎、間違えている時間がないから。手探りでは間に合わないから。確実に強くならないといけないから」
「なぜ――いえ、いいわ。理由なんてどうでも。でも私を巻き込まないで。私は闘うことが嫌いで、面倒も嫌い。ついでに言えばあなたもあまり好きじゃない」
「私は静さんが好きだけど」
「……だいたいねぇ、口の聞き方を知らない一年生なんて相手にしたくないのよ」
そう、今日から彼女らの姿が校内で確認でき、噂が飛び交い、それは静の耳にも入っていた。
この“竜胆”、実は一年生である。
「ああ、そうか……私達は基本的に無礼講だったから。すみません」
ちなみに“鳴子百合”が三年、“瑠璃蝶草”と“雪の下”が二年生である。
「静さま、お願いします」
四十五度くらいの勢いで頭を下げる“竜胆”。
そんな彼女を五秒ほど見ていた静は、やれやれと頭を掻いた。
顔はまったくやる気がなさそうだが、彼女は彼女なりに覚悟を決めて、静と接触したのだろう。そう簡単には引かないし、諦めないだろう。
「……あの“教室”、入れる?」
「はい。修行用に借りています」
「なら結構。行くわよ。今日を含めて四日でしょう? 雑談する時間もないわ」
「トイレは? 行くところだったのでは?」
「トイレじゃなくてミルクホールに行くところだったのよ。昼食を取りに。まあどっちにしろ、あなたをぶちのめしてから行くことにするわ。
――加減しないから。一切。死ぬ気で励まないと本当に死ぬから、覚悟しておいて」
この後、“竜胆”は日曜登校までした四日間で五回ほど死にかけ、地獄を見ることになる。
“冥界の歌姫”蟹名静は、蕾達に勝るとも劣らない使い手であることは、結構有名な話であった。
“竜胆”が静に師事したことをかなり後悔したのは、言うまでもない。……が、その甲斐あって、それなりの成長を見せることになる。
成長しなかったら死んでいた――島津由乃の辿った苦労の片鱗をその身体で知ることになるのだが、それはほんの2、3分ほど未来の話である。
その頃、“雪の下”は図書館にいた。
本棚から引っ張り出してきた本を数冊抱え、椅子に着く。
まず手に取ったのは、絵本である。
『騎士になれなかった泣き虫騎士のお話』
話云々はともかく、防具――甲冑のデザインを参考にするために引っ張り出したのだが。
果たして、この本を手に取ったのは偶然だったのか、あるいは運命だったのか――彼女としては後者を信じたくなった。
この絵本は、挿絵も話もまるごと“雪の下”の糧となり、彼女の可能性を大いに成長させた。
イメージが湧いてくる。
具現化を得意とする“雪の下”には、感覚として、それがとても大切であることを本能的に理解できていた。
「“雪の下”さま」
「はい?」
顔を上げると、そこには新聞部・山口真美の姿があった。友好的にも敵意があるとも見えない無表情である。
「あら真美さん。ごきげんよう」
「ごきげんよう。調べ物の最中に失礼ですが、インタビューをお願いしても?」
今日になって校内で見かけるようになり、その凶悪なまでの力を隠すことさえできずに晒しまくって目立っている彼女らは、情報に携わる者じゃなくてもとても気になる存在だ。
そんな連中が三人現れているが、真美が“雪の下”を選んで接触したのは、彼女とは言葉を交わしたことがあり、印象として好戦的には感じなかったからである。こんな力の持ち主に牙を剥かれたら真美なんてひとたまりもない――という警戒心から、情報屋を含む諸々の接触はないようだが、今“雪の下”や真美を観察する目は感じられた。
穏やかな表情を浮かべたまま、“雪の下”は首を振った。
「申し訳ありません。今はまだ、自分のことを話せる段階にありません」
未熟な自分は、些細な情報さえ漏らせない。それが命取りにならないとも限らない――仲間達との約束を守るために“雪の下”も必死なのである。
「……そうですか」
真美は引いた。
食い下がることもなく、質問を重ねることもなく。
“雪の下”の瞳に、少しだけ、死闘を見据え集中力を研ぎ澄ます百戦錬磨の子羊の影を見たからだ。ならばどんなに言葉を重ねても、きっと口を開くことはないだろう。
(もしかして、何かが起こる……?)
そんな“雪の下”の様子に何かを予期した真美は、この日の放課後に、争奪戦の存在を知ることになる。
その頃、“鳴子百合”は、“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”と一緒にいた。
あの時と同じように、あの“教室”で、油断なく対峙していた。(ちなみに“竜胆”が持っている“扉”とはまた違う空間に成り立つ場所である)
「…………」
「…………」
再会した時も、ここへ誘った時も、今も、言葉は一つもなかった。
“鳴子百合”は当然のように彼女をここへ誘い、“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”も当然のように付いてきた。
バチッ
“鳴子百合”の両手が電気を帯びるのを合図に、二人は動いた。
“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”は近くにあった机を掴み、“鳴子百合”に向かって投げつけた。山なりどころか一直線に飛んできたそれを“鳴子百合”はひょいとかわし――まず失敗した。
「いてっ」
机が壁にぶつかる音と同時に、背中に痛みを覚え振り返る。と、包丁を持った腰くらいまでの大きさの「クマの人形」が“鳴子百合”を切り付け、今まさに二度目の斬撃を加えようとしていた。
――“創世(クリエイター)”で仮初の命を吹き込まれた物質は、使用者の力量に伴い動く。“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”の力はそれほど強くないが、こと戦闘には慣れていた。感覚的なものになるが、対象を大まかに操ることもできた。
そして彼女のもう一つの応用技が、物質を縮小させる能力である。
机の中に入れた縮小した「クマの人形」を、“鳴子百合”が回避したタイミングに合わせて解除し元の大きさに戻し、動かした。これが“鳴子百合”に起こった現象である。
しかし。
経験不足にして異能自体にも明るくない“鳴子百合”は、未だ“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”の能力を見抜き切っていなかった。
前回と同じく。
そして前回は、この正体不明の能力に対して動揺した結果、“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”を倒すことを最優先した。それは間違ってはいない。能力を見抜かなくても相手を攻撃することはできるし、倒すこともできる。
が、今回は違う。
闘うことが目的ではない。
この能力を見抜き、かわし切り、1分1秒でも長く戦闘を続けること。それが経験となり、血肉となり、糧になるはずだ。――“鳴子百合”が選んだ強くなる方法は、戦闘を重ねること、だった。
だから、攻撃はしない。そう決めている。
が――
ゴッ!
背後の「クマの人形」に注意が逸れた一瞬の隙を見逃す“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”ではない。
縮小解除で取り出した金属バットで、“鳴子百合”の頭を横殴りにした。随分と年季の入ったバットで、ところどころへこんでいるし、ところどころ赤いモノが残っているような凶悪な獲物だ。
「いだっ」
“鳴子百合”の上半身が傾ぐ。だが基礎能力の差は大きい。これくらいでは“鳴子百合”に与えられるダメージは低い。
それでも“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”に動揺はない――由乃と一緒にずっと闘い研磨してきた者である。経験も実力も判断力もルーキーなどとは桁が違う。
「……あ、あぁ!? なんじゃこりゃ!?」
あらかじめ金属バットに設置しておいた「ただの黒い布」を、殴ると同時に縮小解除し命を与え、“鳴子百合”の顔面に貼り付けた。
視界をふさがれ動揺した“鳴子百合”の頭を、今度は逆からフルスイングで殴打する。それと同時に「クマの人形」が右足首を斬りつけた。
「うくっ…!」
ふいの痛みに“鳴子百合”は膝をつくものの、横に飛んで派手に机にぶつかりながら“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”と距離を取った。
力任せに「ただの黒い布」をようやく剥ぎ取り、“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”を見据える。
(やっぱ強い)
彼女は強い。そして自分は弱い。
動揺して隙を作り、攻撃されてひるんだら集中力を欠いて、電気の維持ができなくなる。
未熟さを痛感する。
だからこそ、これでいい。
今一度電気を帯び、構える。
“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”の実力はこんなものじゃないし、自分の力もこの程度じゃないはずだ。
「……正義ってさ」
ここで初めて“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”が口を開いた。
「やっぱり、強くないといけないと思わない?」
それは、初めて二人が闘った時に、“鳴子百合”が言ったセリフである。
そして“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”はこう答えた。
『正義が強いんじゃなくて、勝った者が正義だ』と。
全面同意する気はないが、同感ではあった。弱い正義に意味などなく、勝たなければ始まらないのが、このリリアンのルールなのだから。
“鳴子百合”は頷いた。
「そうだね。やっぱり強くないと」
頬を伝った生ぬるいモノは、冷や汗か、それとも血か。
――“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”の金属バットと「クマの人形」は、どこへ消えた?
前は脇目も振らずに彼女を追いかけていただけだったが、今は彼女の一挙手一投足が気になり、未知への恐怖を感じていた。
前回は、こんな奴を相手に猪突猛進をしていたというのか。自分はなんて恐ろしいことをしたのだろう。
たとえるなら、落ちたら確実に死ぬであろう長距離の綱渡りを、そうだとは知らずに全力疾走したようなものである。助かったのは偏に基礎能力と力量の差、ただそれだけ――己の力で左右できたわけではなく、スペック差で引き分けただけだったことを今知った。
そう思うと、更なる恐怖に膝が震える。
今すぐここから逃げてしまいたいほど恐ろしい。
だが。
自分達が目指す頂点は、彼女よりももっと恐ろしい者を越えた先にしか存在しないのである。
乗り越えねばならない。なんとしても。
そして、約束の地へ。
行くのだ。必ず。
“鳴子百合”が味わう悪夢はこれからである。
金曜日。
朝から配布された瓦版号外は、予想通りの反響でリリアンを揺るがした。
ただ闘うのではなく、争奪戦であることに、並々ならない注目が集まり――今まであまり名が売れていなかった者まで参加を決意する。
限られた時間で策を練り、一時的な同盟を結び、自らが持つ異能に更なる磨きを掛けて。
それぞれができることを精一杯やって、ゲーム開始のその日はやってくる。
そして月曜日。
争奪戦の開始日。
いつもは委員会便りが張り出されている掲示板には、今日から土曜日に配られたルールの書かれた瓦版号外と、羊皮紙風の“地図”が掲げられていた。
早朝にも関わらず“三枚の契約書”の場所は記され――なんだか半信半疑だったゲームの存在は、三薔薇が本当にそれを持っていることで、本気で開催されたことを証明した。 紐を通されて首から下げられている紙片――一目瞭然の“契約書”は紫色のオーラを放っており、女帝云々の信憑性を高めた。あれだけの力を放つ物質である、本当に女帝たらしめる力を与えるのだろう。
しかし、相手は薔薇。
最強に最も近い者達である。
報復を恐れ、誰もが遠巻きに見て、なかなか“契約書”に手を伸ばせない。
開戦の狼煙は、静かに、そして意外な形で切って落とされた。
「どう?」
「全然。そっちは?」
「同じく」
「視線が鬱陶しいだけね」
二時間目の休み時間、廊下で偶然出会った三薔薇は、首から下げている剥き出しの“契約書”を向かい合わせていた。
これまで、強奪行為はなし。それどころか誰も仕掛けてこない。
暇である。
予想外に暇である。
きっと皆すぐに襲ってくるだろうと思っていた三人は、拍子抜けしていた。
「放課後……かなぁ」
聖の呟きに、蓉子と江利子も「そうねぇ」と苦笑する。――放課後になれば、きっと血気盛んな島津由乃辺りが堂々ふっかけてくるのだろう。それに華の名を持つあの連中も黙ってはいないはず。
楽しみは多いが、今は予想外の静けさである。
ぜひ、嵐の前の静けさであってほしいところだが――
しかしそれは杞憂であった。
フッ、と、風を感じた。
それは髪も揺らさず、肌で感じたのか、それとも感覚に掠めたのか……
「…………」
「…………」
「…………」
消えた。
三薔薇が互いの“契約書”を視界に入れている中、その“契約書”が三枚とも一瞬にして掻き消えた。
「「……えっ!?」」
三薔薇と、“契約書”を狙って様子を伺っていた数名、ステルスで隠れて観察していた者も、声を揃えて驚いた。
いったい何が起こった?
わからない。
わからないが、“契約書”が奪われた。それも三枚とも一瞬にして。
三人は油断なんてしていなかった。何があっても臨戦態勢に入れるよう心構えもしていた。
それにも関わらず、強奪者はその影さえ見せなかった。
「……くっ」
「ふふっ」
「あっははははははっ! やってくれるじゃない!」
三人は笑った。大いに笑った。
――だから異能使いは油断などできないのだ。油断していなくても出し抜くような、とんでもない奴がゴロゴロしているのだから。
唖然としている三薔薇を背後に、“契約書”三枚をポケットに納めて人込みに紛れる女生徒がいる。
(なーんだ。三薔薇も大したことないのね)
彼女の名は、“居眠り猫(キャット・ウォーク)”立浪繭。
「お姉さま狩り」を専門とする、ロザリオを狩ることだけを目的とした異能を駆使する一年生である。
戦闘にはからっきし自信はないが、小さな何かを“奪う”だけなら、誰よりも上手くやり遂げる自信があった。
こうして三薔薇も簡単に出し抜けるのだから、ちょろいものである。
そして、“契約書”を入手した繭を密かに追う者も数名いるのだが、彼女はまだ気付いていなかった。
――“契約書”争奪戦、開始。