【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】から続いています。
☆
一撃必殺技。
リリアンの子羊は、中堅から上のレベルとなると、何かしら奥の手を持っているものである。
例えば“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃の爆発する弾丸“爆竹”も、奥の手の一つである。力自体はやはり小さいが、弾丸のスピードと貫通性能を兼ねつつ火薬の才覚特有の爆発性能を併せ持つあの技は、三薔薇や三勢力総統にも脅威を感じさせる技である――当たるか否かは別として。あくまでもそれ自体の威力と性能のみの話だが。
そして、一撃必殺技。
それを出せば必ず相手を仕留めるという、奥の手中の奥の手だ。
「――だからこそ、勝負が決するのはほんの一瞬。全体で考えても五分以内になることが多い」
「お互い一撃必殺技を繰り出し、それが当たって死合い終了?」
「そういうこと」
“竜胆”の言葉に、“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子はうなずく。
眼下には、適度に距離を取って隙を伺う二人――“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令と、“冥界の歌姫”蟹名静がいる。
離れているここからでも、肌を刺すような緊張感と、見る者の神経を昂ぶらせる強い闘気が感じられた。
「中堅から上級……いわゆる二つ名持ちと、それ以外の二つ名を持たないベテランとの差は、能力的な差はほとんどないの。代わりにあるのは必中技か必殺技のどちらか、あるいはどちらも持ち合わせ、更にそれがどこまで性能が良いかが問われる。
空間系が強い、と言われる所以もここにあるのよ」
そういえば、と“竜胆”は思う。確かに師匠もそれっぽいことを言っていた――正確には「重力系は強い」だが。
祥子にそう伝えてみると、さも当然と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「当てる必要がない――いえ、有効範囲にいれば必ず影響を与えられる、というのがあなたの特性でしょう? 回避不能の支配領域なんて能力、弱いはずがないと思うけれど」
と言われても、“竜胆”にはいまだピンと来ないのだが。
「あなたと同じ空間系の静さんも、噂以上に危険みたいね」
「静さまは強いですよ」
「知っているわ。そして彼女は……いえ、二人とも、最初の一撃必殺を失敗した」
瞬きの間に終わった電光石火の攻防は、令に軍配が上がっている――ように思えるが、“竜胆”の意見はきっと玄人からすれば「甘い」と一蹴されてしまうのだろう。
試しに言ってみる。
「今は令さまが押してます?」
「どこが? 贔屓目で五分、と言いたいところだけれど、静さんの方が優勢かしらね」
ほらこの通りだ。
「どうして? 静さま、思いっきり怪我しちゃったみたいですけど」
「代わりに“疾風”の特性が割れたはず。わからないまでも推測くらいは立てたでしょう――令攻略の一歩を踏めるのであれば、骨一本で済むなら充分安いわ」
能力がわかれば対策も練れる。
対策が練れれば自ずと勝機も見えてくる。
あまりにも速すぎて令の持つ木刀“疾風”の特性まではわからなかった“竜胆”だが、間近で見てしかも体感してしまった静には、きっとわかったに違いない。だから祥子の意見は納得できる。
では逆はどうなのか。
「静さんの能力? 原理も単純で、できることもだいたい予想ができるから、攻略は難しいでしょうね」
「単純なのに難しいんですか?」
「単純だからこそ難しいのよ。みんなそれを攻略してきた。そしてその都度静さんは相手の予想を上回ってきたはず。単純なものほど奥深いから油断できないのよ」
“竜胆”としては“冥界の歌姫”はそこまで単純な能力ではないと思うのだが、百戦錬磨からするとそうでもないようだ。
だが、確かにそうかもしれない。
思念体による物理攻撃――“冥界の歌姫”を一言で表すならそれで事足りるのだから。
「“雪”、わかった?」
横で真面目な顔をしている“雪の下”に振ってみると、彼女の返事は力強かった。
「半分は理解しましたわ」
祥子の力説は半分しか伝わってないようだ。こんな時もやはり残念な奴である。
「祥子さま、コレにもわかるように優しく説明を」
「優しくお願いしますね?」
「そこまで面倒は見ない」
祥子はさっさと匙を投げて、睨み合う二人に注視する。
「これから面白くなるわよ。一瞬たりとも目を逸らさないことね」
白木の木刀を正眼に構える支倉令と、左肩を押さえている蟹名静。
わずかな油断さえ許さない二人が発する闘気は、目には見えないものの、最初からずっとせめぎ合っている。
そして、わずかな違和感を令は感じていた。
(何かが違う)
静の闘気に、何か違うものを感じる。殺気や敵意などの刺々しいものではなく、この場にふさわしくない気配を。
元から強いだけに、令は戦闘の数はともかく死闘の数は少ない。接戦になる前に勝ってしまうからだ。
だから違和感の正体がわからなかった。
自身の妹である“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃なら、違和感の正体に気づいただろう。由乃の修羅場経験は、数も質も桁違いだ。
――まあ、それはともかく。
違和感よりも、静自身の方がよっぽど大問題だ。
(かなり痛い)
令は平然としてはいるが、“冥界の歌姫”に殴られた顔はとても痛いし、あまりの威力に一瞬意識が飛びかけた。回避できないタイミングだったから仕方ないが、もう二度と“冥界の歌姫”から攻撃を貰ってはいけない。当たり所が悪ければ、基礎能力の高い令でも一発で沈んでしまうだろう。
あの破壊力が支配空間のどこにでも発生させられるという事実に寒気を覚える。
やはり空間系は強い。
(いや、静さんが強いのか)
不用意に飛び込んだわけではないが、静はダメージにひるむほど甘くなかった――甘く見ていた、というよりは、一手目で仕留めるつもりだったからだ。
通常、確実に攻撃を当てたいのであれば、カウンターを狙うのが普通である。直接攻撃が原則の近距離型の攻撃は、当てる瞬間は絶対に近くにいる。あたりまえのようだが、これは非常に重要なことである。
カウンターは、相手の攻撃を避けつつ自分の攻撃を当てるのだ。令達くらいのレベルになると、それができて当然になってくる。それに下手に動き回ったり避けようとしたり防御しようとするよりよっぽど安全でもある。
令は、一撃で倒すつもりで突っ込んだのだ。
そして静は、それを回避し、更に反撃を行った。
(カウンターか……)
思えば、静の“冥界の歌姫”は、近距離において至極合理的なカウンター攻撃が行える能力だ。
令がこれまでに割り出した異能の特性では、静の思念体は鋼鉄のような強度にすることができるということと、それに伴う思念体の腕力は、常時肉体強化の令に勝るとも劣らないということ。
つまり、片方の手で攻撃を受けてもう片方の手で反撃できる。静本体も計算に加えれば更に手数は増す。
令のような攻撃の読みやすい剣士タイプなら、特に闘いやすいだろう――恐らくそれを見越して、小笠原祥子ではなく支倉令を対戦相手に選んだに違いない。
(……カウンター)
そういえば、由乃もカウンターを覚えてからメキメキ強くなった。それも飛び道具特有の、近距離を含む中距離からの回避不能の銃撃だ。同じタイプ……というより由乃の手本となっている“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”辺りとなると、もうカウンターがどうこうというレベルを超えてくる。
カウンターを封じる手としては、自分から攻めなければいいわけだが。
しかしそう簡単に待たせてもらえるような相手とも思えない。前触れのない背後からの強襲など、立ち止まっていれば良い的になってしまう。
(ならば――)
相手が追いつけない速さで攻撃し続ければいい。
令は音もなく、二度目の攻撃に出た。
圧倒的なスピードで緩急をつけることで無数の残像を残しながら、再度静に肉薄する。
右――鎖骨の折れた左肩側の位置を支配する。
その間、静の動きは視線のみ。微動だにせず目だけで令の全ての残像を追いかけ、自分のすぐ傍に迫った令を捕らえた。
――時が止まる。
二人を見守る者達も、そして本人達も、それを錯覚した。実際にはありえないようなスピードで動いていた令が、ほんの一瞬止まっただけの現象に、まばたきほどの違和感を覚えただけだ。
そして、違和感を認識した頃には、令は残像を残して静の胴を払い抜けていた。
(手ごたえがおかしい)
どうやら先程と同じく、“冥界の歌姫”でガードされたようだ。
無論、予想している。たかがスピード頼みのフェイントに引っかかるほど静は未熟ではない。
しかし。
令は動きを止めず、再度、往復するように静の逆胴を放つ。
振り向こうとしている静に、これもガードされた。
だが静が振り返った先には、もう令はいない。
ゴッ
「…っ!」
今度は当たった。
静は声を上げなかったが、木刀越しに感じられる鈍い感触は、静の左腕が折れたことを物語る。
静の反応速度を超えた連続攻撃、むしろ初手と二手目を防いだだけでもすごいと言えた。特に二手目は先読みしていたからこそガードできたのだ。
令は止まらない。
ダメージを与えた分だけ静の領域に踏み込み、己の攻撃距離を占領する。
そして静は、ダメージなんて関係ないと言わんばかりに、半歩たりとも引かなかった。
思念体の拳と、木刀。
至近距離での乱戦が始まる――
避けるだけで精一杯だった。
掠るだけで四肢を削る鋭く重い斬撃と、掠るだけで衣類さえ切り裂く、もはや肉眼では追えない突き。静も攻撃はしているものの当たっていない。そして令の攻撃は確実に静の身体にダメージを蓄積させる。
そんな目にも留まらない乱打の応酬は続いている。
――闘い方がわかりやすい剣士、それも近距離でしか闘えない一直線タイプ。
そう判断して支倉令から“契約書”を奪おうと思えば、
(本当に性質の悪い冗談だわ)
静は、これまで闘ってきた誰よりも強い剣士を前に、じりじりと闘志が湧き上がるのを感じていた。
痛みは遠くなり、令の動きが少しずつ見えてくる。
集中力が高まってきているのだ。
令もきっと気づいているはず――ダメージを与える毎に、静の“冥界の歌姫”の精密さと速度が、段々とあがってきていることを。
――この感覚は久しぶりだった。
死闘特有の、死に触れた本能の揺れと高揚感。追い込まれれば追い込まれるほど、自分のレベルがじりじり上がっていく感覚。視界は目の前の相手にしか向かなくなってくるが、代わりに頭の中はクリアで、回避行動に手一杯でありながらもはや本能で“冥界の歌姫”を操作し攻撃行動を繰り返しつつ、目の前の剣士をどう倒すかを考え始める。
いや、その点のみを拾い上げるのであれば、静はまだ気が楽だ。
この強敵を倒す必要はないのだから。
「そういえば」
静は呟く。
先程の“疾駆戦車(スピード・マシン)”田沼ちさとの時よりも素早い動きで対応している静の声は、それをわずかに超えて動く令の耳には届いていないかもしれない。
「私の能力がなぜ“冥界の歌姫”って呼ばれるようになったか、知っている?」
返答は期待していなかったが、予想外にも返ってきた。
「さあね。あなたと闘う予定はなかったから」
静は笑った。
「じゃあ先に謝っておくわ。ごめんなさい」
「――!」
言葉に警戒し、令は大きく距離を取った。
静の狙い通りに。
「ごめんなさい」
改めて、静は言った。
「どうやら私の勝ちみたい」
必要だったのは、支配領域内で令の動きを止めること。できれば3秒くらい。
「…あっ!」
見下ろす令の視線の先で、“冥界の歌姫”が地中から手を出し、令の足首を掴んでいた。
「捕まえた」
いくら空間系でも、視界の届かない場所――地面の中に思念体を潜行させ、更に正確に操るには、ある程度集中してからじゃないとできないのだ。いや、できないこともないが、時間が掛かりすぎるのだ。3秒で掴むのだって静の感覚ではものすごく大変なことなのだ。
それに令ほどの相手となれば、失敗したら二度と同じ手は通用しない。必ず捕らえなければならなかった。
「もう一つ。これもごめんなさい」
静は自分の背後に立つ“冥界の歌姫”を指差す。
そう、これもフェイク。
令はきっと勘違いしていただろう。
いや、勘違いなどではなく、最初から自然とそう思い込んでいたはずだ――“冥界の歌姫”は一体だけだ、と。
最初からわざと見せたり消したりしていたのは、使えるのは一体だけだと思い込ませるためだった。
現在、“冥界の歌姫”は静の背後と、令の足元の地中に二体いることになる。
なんとか拘束を外そうともがいていた令は、この時点で諦めた。令がどんなに力を込めても思念体の手はびくともしない。少しでも動くのであれば抵抗もするが、ピクリともしないのであれば力で外すことは不可能と判断するべきだろう。
「……なんで今まで同時攻撃を仕掛けなかったの?」
思念体二体に寄る攻撃なら、確かに令を圧倒できたかもしれない。一体を防御に、もう一体を攻撃用に、という分担もできる。静ほどの使い手なら二体ぐらいなら実戦レベルで使いこなせるだろうに。
「令さんには悪いけれど、私にとっては次が本命なのよ。だから――」
佐藤聖が見ているかもしれないこの状況で、できる限り手の内を出したくなかった。本当は二体目の存在だって隠しておきたかったが、それは不可能だった。
「ごきげんよう」
静の背後の“冥界の歌姫”が消え、令の目の前に現れた。
右手を握り、拳を引く。
令は具現化していた白木の木刀を消し、唸りを上げて顔面に迫る拳を、両の手のひらで受けた。わずかに身を引き、手を引き、肘と肩の関節でバランスを取り、衝撃を完全に受け止める。
当然、二手目――今度はがら空きになったボディへ攻撃が来るだろうと予想していたが……
消えた。
“冥界の歌姫”も。
蟹名静も。
令の首に掛かっていた“契約書”も。
「……うーん」
取り残された令は頭を掻いた。
――まんまとしてやられたようだ。
最後の攻撃は、ただ令の視界を塞ぎつつ注意を逸らすためだった。注意が逸れた、いや、全ての注意が一点に向けられた一瞬に“冥界の歌姫”で“契約書”を奪い、恐らく仕掛けた瞬間から静も逃走を始めていたに違いない。
闘争心の中にあった違和感の正体は、これだったのだろう。静の目的は闘うことではなく、奪うことだった。だから攻撃や防御に完全に専念することもなく、奪う機会と逃げる機会を常に念頭に置き、かつその状況を最初から組み立てていた。
戦況は令が押していた。だが、静が闘うつもり、令を倒すつもりでいたのであれば、互角以上に競り合っていたかもしれない。
「あれはスカウト行くわ」
まさかあれほどの使い手が、どこの組織にも属していないとは。三勢力のどこに入っても幹部クラスは当然、次期総統候補と呼ばれても何ら不思議ではない。
孤高の二つ名持ちは、皆あんなに強いのだろうか?
だとしたら、令が今まで認識していた以上に危険な存在が点在していることになる。
「“冥界の歌姫”の名前の由来……か」
情報収集してみるべきかもしれない。
闘う予定がない相手でも、今日のように予定外に闘うこともあるのだから。
「――甘い」
呟く祥子は、とても厳しい顔をしていた。
「本当に騙し討ちに弱いわね、令は。精神鍛錬が足りないわ」
最後のやり取り。何を言ったかまではわからないが、乱戦中に二人が何事か話したのはわかった。
恐らく蟹名静が仕掛けたのだろう。令を引かせるために。
「いえ、素晴らしいです」
“竜胆”は感心していた。
地中から這い出る手は、足どころか形を潜めている絶望まで掌握する。――修行中、自分の時は、足を掴まれた時点で全てを諦めた。どうしようもないと思ったからだ。しかし令はそこで諦めなかった。きっとその次の展開まで考えていたはずだ。たとえ移動手段を奪われたとしても。
あの危機に令はどう対処したのか。
どうやって拘束を解いたのか。
“竜胆”の興味は尽きない。
「あなたも甘いわね。あの“冥界の歌姫”の弟子にしては甘すぎるわ」
「そうでしょう? この甘さも静さま譲りなもので」
「……あなた、静さんに嫌われてない?」
「まさか。私達はいつでも相思相愛です。ラブラブです」
相思相愛。どうも信じがたいが。まあ祥子からすればどっちでも構わないが。というよりどうでもいいが。
――祥子は見抜いていた。静は最初から令を倒すことではなく“契約書”を奪うことを目的に動いていたことを。
一つ一つはそれとわからないくらい小さなズレ――その程度にしか思えないフェイクの数々は、たった一つのトラップとして集束した。
全てが、己と同等かそれ以上の相手である、支倉令を捕らえるためだった。ダメージを受けたことさえ、それ自体も静はフェイクの一つに昇華していた。
口では非難めいたことを言う祥子だが、令が騙されるのも無理はなかったとも思う。あそこまで複雑かつ不自然に見えないフェイクを重ねられては、攻防の最中に見抜くのは困難を極めるだろう。
“冥界の歌姫”蟹名静。
正直な話、あれが好戦的なタイプじゃなくてよかったと思う。敵に回せば大きな脅威の一つになり得た。噂や情報だけでも危険だと判断していたが、実際にこの目で見てみれば噂や情報以上の存在だった。
まあ、闘えば負けるつもりはないが。
「で? あなたは私の“契約書”は欲しくないの?」
心持ち胸を張って、首に掛かる紫のオーラを放つそれを強調する祥子。“竜胆”はそれをチラッと見て、すぐに視線を外した。
「今はいいです」
「そう」
祥子は踵を返し、その場を後にした。
今の一戦、“契約書”を持つ祥子にとっては他人事ではない。静のように正面から堂々仕掛けられるならともかく、不意打ちで襲われたら非常に厄介そうだ。それも静クラスの二つ名持ちが向かってきたら……
いつも以上に気を張っておいた方がよさそうだ。
――遠ざかる祥子を見送りつつ、“雪の下”は言った。
「どう思います?」
「かなり強いと思う」
言わずと知れた支倉令も、今更語るまでもない蟹名静も、そして抜け目なく些細な所作さえ見逃さなかった小笠原祥子も。
三人とも遥か高みにいる。
「なんだか気が重いなぁ」
“竜胆”からすれば、静は絶対的な強さを誇る師匠だった。自分が何をしようがどんな策を練ろうが、ダメージを与えることさえ困難な相手。相手が誰であろうと勝利し、誰であろうと倒せない最強の存在だった。そういう存在であってほしい、という願望も含めて。
しかし山百合会の一人は、静の強さと並んでいるように見えた。
つまり、あれだけ強い蟹名静であってもリリアン最強ではない、ということだ。本当はわかっていたのだが、目の前で見せられるといささかショックだった。静が最強ではないことも、静以上の存在がいる、という事実も。
上には上がいて、頂上付近では三人の薔薇が睨み合っている。
気が重い。
勝機が見えないのに、それでも闘わなければならない……そんな状況が近い内にやってくるのだ。
あの小笠原祥子に立ち向かうのか。
それとも、師匠である静に歯向かうことになるのか。
唯一ターゲット外なのは、味方である“鳴子百合”が所持している一枚だが、あのまま最終日まで所持し続けるのは難しいだろう。案外今頃とっくに所持者が変わっている可能性も充分考えられる。
「“雪”、腹括った?」
「とっくに。そうじゃなければ“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に絡んだりしません」
「そう。……私もそろそろ腹括るから」
これまでも色々と怪しい感じだったが、これから先、本当に敗北を賭けた戦闘に発展するだろう。
華の名前は誇りであり、プライドであり、“竜胆”達にとっては“契約者”との絆である。潔い負けではなく、みっともない逃走を選びたくなるほど大切なものである。
しかし、大切にしてばかりもいられなくなる。
「闘いには慣れた?」
「慣れるほど闘ってません」
「……大丈夫?」
「なんとかなりますよ」
いやならないだろう、と“竜胆”は思った。昨日の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”戦と、今の一戦を見て、どうしてなんとかなると思えるのか。自分達は圧倒的に経験が足りないし、たとえまともに経験を積んでいたとしても勝てるとは思えないような人達がゴロゴロしているのに。
まぐれで勝てるようなレベルではないのに。
運だけで勝てるほど自分達は強くもないのに。
「甘く見てるの? それとも勝つ自信があるの?」
「――やるしかないとしか思ってませんわ。私達ができることなど、そう多くないでしょう?」
「…………」
“雪の下”は、確かに腹を括っている。
もしかしたら、覚悟が足りていないのは“竜胆”の方かもしれない。
彼女はもう負ける覚悟をしている。
そして、負けた上で、何度も困難に挑もうとしている。
名前を捨てる覚悟を固めている。
――“竜胆”が躊躇っている一線を、すでに越えている。
いろんなことを知り、中途半端に経験を積んでしまったせいかもしれない。
何も知らなかったあの頃は、島津由乃にケンカを吹っかけることだって簡単だったのに。
何より、闘うことの怖さを、知ってしまった。
もう蟹名静に頼ることはできない。
“竜胆”にとっての正念場は、ここから始まる――
まんまと逃げおおせた“冥界の歌姫”蟹名静は、今現在、一階のトイレの個室に篭っていた。
蓋を下ろしたままの便座に座り、ようやく息を吐く。こんなところで少々アレだが、深呼吸して高ぶっている感情を落ち着ける。
令の追跡の心配はない――あるとすれば静ではなく“契約書”を追ってくる不特定多数のみ。
どちらにせよ時間的な猶予はあまりないだろう。
しかしすぐには動けそうもない。
「いったー……」
左鎖骨と左腕の骨折。裂傷は数え切れないほど。制服もボロボロだ。そして何より、極限まで感度を上げて無理を強いた神経の疲労がひどく、意思に抗議するように身体を重くしている。一度集中が途切れてしまうとすぐこうなる――静の異能“冥界の歌姫”は強力だが、使用、特に一体を超える操作となると非常に負担が大きい。
――この程度で済んで幸運だったと思う。
令が勝負を急ぎ、未だ正体不明の“流転”を使っていたら、静は今頃倒れていたかもしれない。使用する前に捕まえられたことは幸運だった。
あれは温存していて勝てるような相手ではない。
しかし本命が後に控えている以上、どうしても温存しなければならなかった。
まあ、最強の一人として数えられる白薔薇・佐藤聖と闘うための代償であるなら、これでも破格だが。
(勝負は急ぐ必要がある)
このまま“契約書”を所持しているのは危険だ。ついさっき、あの黄薔薇・鳥居江利子が自ら“契約書”を奪いに行っていた。黄薔薇やその他の腕利きに襲われるのも嫌だが、最悪なのは奪われた場合だ。
その前に、佐藤聖との約束を果たす。
果たす、べきだが。
(でも今日は無理か)
怪我はともかく、能力使用の疲労が大きい。普段ならたった一戦でここまで疲れないが、令の相手をするためにスピードもパワーも、精密さも、全ての動きに並々ならない集中力を注ぎ込んでしまった。その時はいいが、このようにツケは後から回ってくる。まるで重力攻撃でも食らっているかのように身体が重い。
この状態では、放課後になっても全力で闘えるようにはならない。
長らくの望みだった聖との闘い。絶対に万全で闘いたい。
「よし」
大きく息を吐きつつ、静は顔を上げた。いつまでもここにはいられない。
ポケットから“御札”を出す。令との一戦に向けて、事前に“複製する狐(コピーフォックス)”と取引したものだ。
一枚はすでに貼ってある――左肩、折れた鎖骨の上に。文字は“瞬”、瞬間移動の“御札”だ。左肩の辺りを押さえている時から、もう逃げる準備はしていたのだ。いや、準備というなら最初からからか。ずっと手で押さえて隠していたので令は気づかなかったようだが。
あの時、地中に一体、正面に一体、更に令の背後に立たせた三体の“冥界の歌姫”を構成した。そして三体目の“冥界の歌姫”が令の“契約書”に触れた瞬間、“契約書”ごと瞬間移動して、静は即座に逃走した。能力発動中の瞬間移動――それができることは事前に試してあった。支配空間内でなら“冥界の歌姫”にも効果が現れたのはツイていた。
とにかく。
更に取り出したもう一枚の“御札”には、“反逆”の二文字。“反逆者”藤堂志摩子の“複製品”だ。
左腕に貼って力を開放すると、全身にじわじわと熱が巡り始める――治療が始まったようだ。
(骨折まで治るのかしら?)
コレの使い手の話では、“御札”一枚が持つ力はそんなに高くないらしいが。細かな裂傷は問題なさそうだが……
まあいいか、と静は重い身体を奮い立たせた。治りきれないようならオリジナルに頼めばいい。
瞬間移動の“御札”は、あと二、三回ほど使用したら役立たずになるだろう。
今日のところは逃げ回る。
そして明日の昼休み……いや早朝でもいい、とにかく聖との勝負を急ぐ。
最大の難関だった“契約書”の奪取は成功したのだ。今日一杯逃げ切るのなんて苦労の内に入らない。
「行くか」
予定を決めた静は、ドアの鍵を開けてその場から消えた。
その写真が、武嶋蔦子を悩ませていた。
(もしかして、私は知ってはいけないことを知ってしまったのではないか?)
写真部の部室にて。
相変わらず新能力の試行と、それによる情報整理に忙しい蔦子の前に、普段であれば絶対に考えないことを本気で思わせるほどの奇怪な写真が並んでいる。
黒いオーラの写り込んでいる数々。
それは本人も見えなくなるほど濃く、深く、巨大な黒色だった。
しかもそれの持ち主が、信じがたいことだが、あの福沢祐巳であるらしい。
おかしい。
そんなはずはない。
これだけはっきりくっきり本人も見えないくらい濃いオーラを放っているのに、その大きな力が感じられないわけがない。さりげなく直接触ってもまったく感じられなかった。そんなことはありえないのに。
祐巳はどう見ても目覚めていない。
目覚めていない、はずなのに。
しかしそのありえない事実を証明し、今までの慣例を否定しているのは、己の能力に他ならない。
「祐巳さんが目覚めている……それも尋常じゃない力を持っている……」
口に出すと、とてもじゃないがピンと来ない。物証が出ているにも関わらず、それでも信じがたい事実である。何かの間違いだ、と言われた方がよっぽどすっきりするのだが。
しかし次の瞬間、蔦子は「あっ」と声を漏らした。
――まさか、これが繋がるのではないか?
(ずっと不思議に思っていたけど)
あの小笠原祥子の妹になる、みたいな感じの写真が撮れた理由は、これなのではないか?
祐巳が目覚め、異能使いとなり、だから祥子の妹になる。
そう考えると、あの写真が撮れた理由がわからなくもなくなる。
この写真が示す通りの力を祐巳が持っているというのなら、力だけならリリアン最強と言ってもいいだろう。それならば山百合会の一員として迎えられることは決して不思議ではない。
今の山百合会にある枠は、紅薔薇の蕾の妹――祥子の妹というポジションだけである。祥子がよっぽど祐巳を嫌っていないのであれば、自然とそこに収まるだろう。もちろんお互いの気持ちもあるだろうけれど。
なんといっても、あれは十割に近い的中率を誇る“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”で撮った一枚である。外れることは確認しているが、問題の写真が撮れた理由くらいは判明してもおかしくない。
――あの祥子と祐巳の写真が撮れた理由は、祐巳がリリアン最強クラスの異能使いとして覚醒したから。
そういう理由が付くのであれば、あの写真の存在も納得はできる。
ただ、問題は。
(というか、本当に目覚めてるのかな? しかもこんな不気味な色して……)
力を感じない、触れても感じられないなんて、超高性能のステルス使いだって不可能である。その点だけで言えば、むしろ自分の新能力を疑った方がまだ信憑性が高いだろうか。
いや、まあ、これだけのオーラ=力があるのなら、今までの常識だの通例だの、全て無視したところでおかしくないとも思えるが。
「……わからん」
祐巳は目覚めているのか? いないのか? 目覚めているならどんな能力を使うのか? なぜ感じられないのか? 浮かんでは消える疑問の数々には、少なくとも今ここに答えは存在しない。
祐巳はきっと、自分の覚醒に気づいていない。だから自分のことながらどんな異能が使えるのかもわかっていないに違いない。
興味は尽きないが、しかしこれほどの力となると下手に触れるのも恐ろしい。
――結局、どれだけ考えようとも、今は様子を見るしかないのだろう。
こと強者に関わることは、他方の勧誘やら何やらで周囲も放っておかない。ポロッと情報を漏らすと、本当に祐巳に災難が降り注ぐことになるだろう。それも島津由乃にバレた時以上に大変なことになりそうだ。
「祐巳さんが目覚めた、かぁ……」
背もたれに寄りかかって、呟いてみる。
あの祐巳が目覚めた。
尋常じゃない力の大きさと、誰とも似ていない黒いオーラ。
不思議な気もするし、意外な気もするし、なんとなくだが成るべくしてという気もする。
その事実を歓迎すべきか憂慮すべきかも判断できない今、蔦子は迷わず静観を選ぶことにした。
力を得ると変わる人も多い。虐げられてきた者だと特に。
祐巳に限って、という気もするが、色々なことがはっきりするまでは触れないでおくべきだろう。
本人のためにも。
何より自分のために。
そしてこの日も、暗室にこもっていたせいで支倉令と蟹名静の一戦を見逃したことに、蔦子は深く深く後悔することになる。
放課後、皆がそれぞれの目的に動き出す。
争奪戦に参加する気がある者は、“契約書”の足取りを追い。
そんなことに興味がない者は、目の前に迫っている学園祭に向けて準備を進め。
無関係な者達は帰宅し。
大なり小なりの野望が蠢く……のは、まあ、いつものことだが。
掃除が終わり、帰宅部組の多くがリリアンを後にした頃。
それでもまだまだ人が多い学園内では、にぎやかな事件が起こっている。
多くは組織関係の小競り合いや戦闘――争奪戦中だからこそ起こっている、いわゆる即席の組織力強化のアクションだ。争奪戦は一週間あり、まだ火曜日。木曜か金曜のギリギリまで組織力を高めたり策を練りに練ったりと、確実に勝つための準備期間に当てているチームや個人は多い。
たとえ奪い取ったとしても、土曜日の規定時刻まで守り通さねばならないのだ。それを考えると、急いだところでメリットはあまりない。それどころか、下手に動いて怪我をして、以降争奪戦に参加できなくなることの方が問題だ。
これも、それの一つなのだろう。
人もまばらな廊下の向こうから、二人の女生徒がスカートのプリーツを乱しまくりセーラーカラーを翻らせたりしていた。
「待てー! こらー! 一年ー!」
「あーもう! しつっこい!」
とんでもない速度で追いかけっこをしている彼女らは、ひぇっ、と悲鳴を上げて道を空ける福沢祐巳の真横を高速で駆け抜ける。後続の――追いかけている方の恐らく上級生が「ごめんね」と言い残して止まることなく行ってしまった。
祐巳は「うわー速いなぁ」と何気なく背中を見送ると、そのまま何事もなく帰宅した。
しかし、追いかけっこはまだまだ続いている。
(やっぱりやめておけばよかった)
追われている女生徒――立浪繭は、後悔していた。
つい先日、ちょっとした悪戯心と好奇心とで、リリアンで最も強いであろう三薔薇に手を出してしまった。
そのことだけならまだよかったものの、問題は、誰にも気づかれなかったはずの行為が一部の人にはバレてしまったことだ。
繭を追いかけているのは“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”と呼ばれる二つ名持ち――“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃と仲が良い二年生だ。
昨日の放課後、第一次コンタクトが発生した。簡略すると「“契約書”奪っただろ」「知らない」というやり取りを経て終わったのだが、今日はそれだけで済ませる気はないらしい。
本気なのだろう。色々な意味で。
だが、それは繭としては、非常に困る。困るのだ。
繭にも“居眠り猫(キャット・ウォーク)”という二つ名があるが、闘う力はまったくない。もしトップレベルの猛者達と渡り合える要素があるとすれば、異能によるスピードだけだ。ちなみに“居眠り猫(キャット・ウォーク)”の特性は誰にも話しておらず、繭本人しか知る者はいない。周囲には「ロザリオを盗むだけの存在」という認識をされていて、繭自身もそれで間違っていないと思っている。
とにかく。
由乃と仲が良い二つ名持ち――繭も名前だけは知っている――という時点で、“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”は立派な武闘派である。そんな相手が繭を追いかける理由なんてろくなものじゃなさそうだ。
というより、現状で考えるなら「“契約書”を取って来い」みたいな依頼、あるいは命令をされるのだろう。
冗談じゃない。
女帝だの何だの興味がない者を己の利権争いに駆り出そうだなんて、なんて身勝手だ。しかも失敗したら繭が注目を浴び、今以上に方々から恨まれたり憎まれたりするのだ――まあ九割は繭自身のせいだが。
それに、あれだ。
時代の影に動いた者は、人知れず消されるのが歴史の常……
もし繭の協力の結果、リリアンの頂点に立つ者が生まれたとして、その時、果たして繭は無事でいられるのだろうか?
――裏切りも常套手段のリリアン女学園である。女帝の座につく者が姑息な策を労したという汚点は様々な理由から残しておくべきではない。
時代錯誤と断じて目を背けるには、あまりにも賭けるものが大きすぎる。
「参ったな……」
調子に乗って仕掛けた結果がコレである。繭は後悔を噛み締めながら走るしかなかった。
捕まったらどうなるのか、あまり考えたくない。
考えたくないのだが――
「わっせろーい!!」
「えっ!?」
どこぞの教室から飛び出してきた誰かが、横手から繭にタックルを仕掛けてきた。
見事な不意打ちだった。
踏み切りの力強さ、躊躇のない頭からの激突、正確に重心の下を狙い、相手を転倒させつつ自らの優位を取ることを約束された、熟練を感じさせるタックルだった。
完全に不意を突かれた繭は、避けるどころかまともな反応さえできず、飲まれた。
「ぎゃああああああああっ」
飲まれて揉まれて転がって。なまじ高速での追いかけっこをしていただけに、それは大惨事になった。二人は一個の物体となってきりもみ状態で派手に廊下をゴロゴロ転がり進む。
「ひっ、肘がっ…肘がぁっ」
きりもみ中にぶつけたらしく、繭は右肘を負傷したようだ。
「止まれ“鋼鉄”!!」
まるで音がぶつかってくるような、見事な啖呵だった
廊下の端から端まで届きそうなほどの強烈な音に、繭は――いや、繭も我に返った。
目の前の本人も、それで正気に戻ったようだ。
「……危なかった」
己にやってきた危機は肘の負傷などではなく。
「……それは私の台詞だと思いますが……」
そう、それは繭の台詞だった。
恐らく反射的なものなのだろう、タックルを仕掛けてきた人物は実にあざやかにマウントポジションを取っており、今まさに繭を殴ろうと右手を振り上げていた。
タックルからマウントパンチまでの攻撃が、すでに身体に染み付いているのだ。あのきりもみ状態を経てからでも繭を仰向けにし、馬乗りを違和感なく取るような人物である。異能だけに頼って生き抜いてきた者ではなく、百戦錬磨の強者と見て間違いないだろう。
それに。
振り上げている右手が深い灰色に変色し、鈍い金属製の光沢を放っている――肉体変化系だ。あの右手は、文字通りの“鉄の塊”だろう。
面識はないが繭も知っている。
彼女は“鋼鉄少女”の二つ名を持つ者。これまた由乃と仲が良い二年生だ。
――本当に危なかった。
闘う力のない繭は普通に打たれ弱い。“鉄の拳”なんかで殴られていたら一発で保健室送りだった。
「何やってるのよ! 危ないなぁ!」
繭を追いかけ、目の前の人物の動きを止めてくれた追跡者が到着した。
「あなたが殴ったらシャレにならないでしょうが!」
「いやあ、はっはっはっ。条件反射って怖いね」
“鋼鉄少女”は笑うが、決して笑い事ではない。
「いいから早くど……ああ、いえ、そのままでいいわ」
いや。ちょっと。
「あの、どいていただけませんか?」
愛想良く下級生らしくかわいくお願いしてみたが、上級生のお姉さま方は冷めたものだった。
「私達の話が先。OK?」
「……オーケーです」
どうも脈がなさ……いや、逃げられないようだ。見事に捕まってしまった以上、そう答えるしかなかった。
「どんな面白おかしい話を聞かせてくれるのか楽しみです」
苦し紛れに皮肉を口にすれば、二人は声を揃えて「生意気さが足りない」と言い切った。
“居眠り猫(キャット・ウォーク)”立浪繭が確保された時を同じくして、昼休みに“冥界の歌姫”蟹名静が一時避難場所として利用したトイレの個室に、一人の女生徒がいる。
下ろしたカバーの上に座り、校内の帰宅ラッシュを避けるため、ここでじっと待っている。
喧騒はだいぶ遠くなってきた――そろそろいいかもしれない。
女生徒は、髪を結わえているリボンをほどき、髪をまっすぐおろした。しかし元からかなり特徴的にセットしてあった髪は、決してストレートにはならない。
人がいないことを確かめてから個室を出て、洗面台の前に立ち鏡を見ながら櫛を通す。後ろ髪が全体的に波打っているが、まあ、これくらいなら見苦しくはないだろう。ウネウネ具合ならあの藤堂志摩子の巻き毛の方がすごい。
「よし」
気合を入れると、トイレから出た。
その途端、動きが止まる。
「あ……」
擦れ違う女生徒――福沢祐巳は、動きを止めた彼女に視線を向けることもなく、隙だらけの足取りで目の前を通り過ぎていった。
「……あの人、やっぱり抜けてる」
女生徒――松平瞳子は、祐巳の背中に呟いた。
祐巳は、髪を下ろした瞳子に気付かなかった。付き合いも浅いし髪型も違うので無理もないとは思うが。しかしこうもあっさり素通りされるとなんだか悔しい。少しくらい髪型じゃなくて顔を覚えていてほしかったのに。
いや、まあいい。
今のところ祐巳に用事はないし、気付かれたところで話すこともない。色々と気になることもあるにはあるが……少々顔を合わせづらいので、好都合と言えば好都合か。
祐巳とは、あの誘拐事件以来会っていない。
「さて……まずは“契約書”の足取りからかな」
瞳子は歩き出した。
――高等部に潜り込んだ理由は、単純な復讐である。
瞳子は、来年には山百合会の一員になる予定だ。小笠原祥子の内定があるので、小さな疑いもなくそう思っている。だからこそ今高等部の校舎にいる。
己についた黒星を返上するためだ。
あの先週の福沢祐巳誘拐事件は、瞳子の責任である――と本人は思っている。そんな大変な汚点を残したまま山百合会入りなんてできない。何よりこのまま小笠原祥子の妹になってしまうと、そっくりそのまま祥子の恥になってしまう。
自分のことだけならまだしも、祥子に迷惑を掛けてしまうのであれば、話は別だ。必ず不名誉をそそがねばならない。
標的は“天使”だ。彼女には一撃食らった借りもある。
「――よし!」
すぐ隣に見える中庭から、覇気みなぎる勇ましい声が飛ぶ。「ん?」と顔を向ければ、四名の女生徒が集まっていた。
「野郎どもっ、“忠犬”を探すぞ!」
「「おう!(掛け声)」」
拳を振り上げる女生徒に合わせ、三人も力強く天を突く。
「え……」
お、おいちょっと待て――瞳子は思わずツッコミを入れたくなったが、ツッコミどころが多すぎてどれから手を付ければいいのかわからない。何気なく見た風景なのに、かなり強烈なワンシーンが広がっている。
まず、顔ぶれがすごい。
何気に高等部でトップレベルの猛者が集まっている。知らない者の方が少ないだろう黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”を筆頭に、強さというよりは曲者具合で有名な“複製する狐(コピーフォックス)”に、なぜか参入している“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃。あと一人は見覚えはないが、駄々漏らしで感じられる力は薔薇をも超えているかもしれない輩だ。
いったい何の集まりだ。面子がえらいことになっているではないか。そこらの組織なら勢力ごと瞬殺できる面子じゃないか。
次に、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が鼓舞し続ける内容がすごい。
「まず校内に散って“忠犬”を補足! なんやかんやで捕獲する! そして気がついたら四人掛かりでぼっこぼこにしてるだろうから、その後に明日のお昼の交渉をするのだ!」
「「おう!(掛け声)」」
正気かおい――“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”はかなり無茶をするタイプだと聞いていたが、あれは無茶すぎるだろう。「なんやかんや」とか「気がついたら」とか、非常に大事な部分が曖昧じゃないか。あれは作戦なのか? ギャグなのか?
だが面々の顔は真剣で、力強い気迫が感じられる。
――瞳子はまだ知らない。四人を暴走させている、その感情の正体を。
人はそれを「飢え」と呼んだ。
少しの狂気と逆らい難い食欲に支配された飢えし獣達は、素早く散り行き、瞳子が見ている間にさっさと消えてしまった。
「“忠犬”って、確か……」
確か、主にライバルが呼ぶ“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の俗称だったはず。
――あの面子が“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を探して補足してぼっこぼこに?
あれだけのメンバーなら物理的に可能な気はするが、しかし黄薔薇勢力総統や山百合会の一員が数や仲間に頼った戦闘なんてするとは思えない――とまで考えたところで、瞳子ははっと我に返った。
ものすごく気になるものを見てしまったが、今はそれより自分の復讐を優先せねば。せっかく高等部の制服まで用意して潜り込んだのだ、やるべきことをやらねば。
争奪戦が始まって方々に動きがあり、高等部全体が軽い興奮状態にある今だからこその隠密行動である。普段であれば目覚めた者への監視の目が厳しいが、今だけは相当緩いのだ。今を逃せば復讐の機会なんて来年になってしまうだろう。
速やかに用件を済ませ、速やかに撤退する。
本来居てはいけない場所にいる瞳子に、寄り道や余所見をしている余裕はない。
――だがしかし。
足早に移動する瞳子は、たった今擦れ違った女生徒が振り返ったことに気づかない。
「……ふうん」
髪を下ろした瞳子の正体を一目で見破った新聞部部員・山口真美は、さてどうしようかと少し悩んだ後、面白そうだから瞳子を追いかけることにした。
この日の放課後、“彼女”ははっきりとした足跡を残した。
――“彼女”は夢想する。
いや、夢などではない。
かつてのリリアン女学園は、伝統と平和が強く息衝き、清らかなる心を持った子羊が集う学園だったのだ。
なのに今はどうだ。
血の臭いは絶えず、破壊の音は群雲を打ち、数え切れない怨念は行き場をなくして彷徨っている。
どうしてこうなったのか?
違う。
そんなことは、もう、どうでもいい。
それより、これからどうすればいいのかを考えねばならない。
今、“彼女”と同じことを想い、同じことを願う者の背後に、“復讐者”が降り立つ――
翌日。
校門を潜り、下駄箱を通過し、どこにでもいるリリアンの子羊として普通に歩いていた“瑠璃蝶草”は、“彼女”を目撃して衝撃を受けた。
それはリリアン女学園のものではない、白い制服を着た女生徒だった。
白い制服。
廊下の先に見えるそれは、異様なほど目立ち、早くも名だたるベテランの子羊達に絡まれている“彼女”の姿は人垣に遮られてチラチラとしか見えないものの、
「まさか――」
思わず呟くと、“彼女”はまるで聞こえていたかのように振り返り、“瑠璃蝶草”を視認した。
そして、来た。
昨日の支倉令のスピードと同じくらいの速度で走ってくる。
だがそれとはかなり異なる。
“白い制服の少女”は朝の混雑の最中にも関わらず、誰にぶつかることも掠ることもなく、ただただ風を巻き起こしながら“瑠璃蝶草”目掛けてやってくるのだ。複雑かつ繊細な動きは、恐らく注視していない者には見えておらず、通過した証の風しか感じられないに違いない。
この動きだけで、見る者が見ればすぐにわかるだろう。
速さも異常だが、この速さをキープしたまま減速することなく動く障害物を避ける見事な体捌き。
――闘うだけの能力を持たない“瑠璃蝶草”には、ただ速いとしかわからないが。
しかし、“瑠璃蝶草”の護衛についている“影”には、異常な速度で急接近する“白い制服の少女”の危険度を瞬時に理解した。
(この動き、白薔薇以上……いや、それよりもこの顔……!)
動揺はした。だがすぐにそれを捨てた。
“影”がステルスを解除して“瑠璃蝶草”をかばうように立ちふさがる頃には、“白い制服の少女”はもう攻撃モーションに入っていた。
見慣れた空手の正拳の型――“彼女”が引き溜める右拳は、光り輝いていた。
単純なパワーアタックだ。
ただし――
「邪魔です」
小さく言う“白い制服の少女”は、“影”に拳を振るった。
「……っ」
威力も速度も申し分ない、教科書通りの正拳突き。ただし予備動作から軌道も狙い所も読めている。
綺麗に手のひらで受け、もう片方の手で補助までする。しかし骨は容赦なく軋み、踏ん張りが利く筋肉の許容量を簡単に超えてしまった。確実にガードし、衝撃まで殺して打撃という根本を抑えたにも関わらず、“影”は押された。
いや――単純に力を込めただけのこの攻撃こそが、“彼女”の能力なのかもしれない。
押されて体勢を崩された“影”は、次の攻撃を避けられなかった。
“影”にはブレたようにしか見えなかった――“白い制服の少女”の後ろ回し蹴りが強襲する。
まるで巨大なハンマーで殴られたかのような衝撃だった。反射的に腕を上げて直撃だけは免れた“影”だが、ガードに上げた腕はあっと言う間にへし折れ、強烈に蹴り飛ばされた。
「“影”っ…!」
“瑠璃蝶草”が叫んだ時には、“影”は宙を舞っていた。
スローモーションのように、はっきり見えた。
ベキベキと木材が折れ曲がり、パリンと窓ガラスが割れる音が、なぜか後になって聴こえてきた。
“影”は壁と窓をぶち抜き、三階から転落した。
視界に木片が舞う。
“白い制服の少女”は、“影”のことなどどうでもいいらしく、“瑠璃蝶草”を見たままだった。
「――返してもらいますよ。あなたの能力」
誰かが“彼女”をこう呼んだ。
「あれは久保栞だ」と。