「祐巳さん、祐巳さん」
桂さんがニコニコ、というよりニヤニヤという表情で祐巳に聞いてきた。
「祥子さまの姉妹になったってことは、もう、済ませたの?」
「何が?」
祐巳はわからないので聞き返す。
「あれよ」
「あれって?」
「だから、あれだってば。もう……」
本当にわからないのに、桂さんはわざととぼけてるの? というよう表情でこういった。
「『すいぶちぃたぁ』」
「……は?」
祐巳にとっては十六年生きてきて初めて聞く単語だったので、聞きとるのがやっとだった。何語? って感じさえする単語だった。
「ヤダ、祐巳さんってば、何度も言わせないでよっ!」
小声で桂さんは囁くようにもう一度教えてくれた。
「『すいぶちぃたぁ』よ」
「はあ?」
「山百合会で姉妹になったらやるんでしょう? まさか、やってないの?」
驚いたように桂さんが聞く。
「全然知らない、けど?」
「えー」
と、桂さんは腰砕けるように祐巳の肩をつかんだまま沈んだ。
「ねえ、『すいぶちぃたぁ』って、何?」
逆に祐巳が聞き返すと。
「私は知らないわよ。山百合会じゃないもの」
なんて桂さんは言う。知らないから身近な山百合会のメンバーとなった祐巳に聞いた、というわけらしい。
「じゃあ、もう一人に聞けばいいじゃない」
祐巳は志摩子さんを捕まえた。
「ねえねえ、志摩子さん」
「何?」
「『すいぶちぃたぁ』って、知ってる?」
「……聞いたことないわ」
志摩子さんは一生懸命脳内の引き出しを漁ってくれたようだが、こちらも初対面の単語らしい。
「なんかね、山百合会で姉妹になったらやることみたいなんだけど」
「ごめんなさい。私たちは普通の姉妹じゃないから、たとえ知っていたとしてもやらないかもしれないわね」
と、申し訳なさそうに言う。
「あ、ううん。知らないならいいの。気にしないで」
こちらの方が申し訳ない気分になって、そっと志摩子さんの側を離れた。
こうなったら、情報通の人に聞くべきだろう。
「蔦子さん、『すいぶちぃたぁ』って聞いたことある?」
「ああ。噂では山百合会で姉妹なるとやるって話らしいけど。私は知らない」
ここでも情報は得られなかった。
「祐巳さん、私たちに聞かないで祥子さまに聞いたら? 何かをやるんだったら、実際にやってくれるかもしれないわよ」
なんて事を蔦子さんは言ってくれる。
「もし、事前にやるってわかったら、こっそり教えてよ。いい写真に残してあげるからさ」
と添える事も忘れない。
予鈴が鳴ったので、その話はそこで打ち切ったが、祐巳の頭の中は『すいぶちぃたぁ』という単語でいっぱいになった。英語の時間だったので、それらしい綴りを想像して辞書で調べてみたが、ちっともわからなかった。
山百合会で姉妹になったらやるって言っていたけれど、一体何をやるのか。
祥子さまとやるのか、祥子さま以外のみんなでやるのか、何をやるのか、道具やお金は必要なのか。
掃除をしている間も、油断していると『すいぶちぃたぁ』の事ばかり考えていて、同じところを何度も雑巾で拭いていて蔦子さんに指摘された。
そんな調子で薔薇の館に着いて、志摩子さんと掃除をしていてもぼんやりと『すいぶちぃたぁ』と呟いていたりする。由乃さんに聞いてみようと思ったが、今日は休みらしい。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんようっ」
祥子さまが来たので、祐巳はお茶の準備に取り掛かる。
「祐巳さん、茶葉がこぼれているわ」
「あ、いけない」
『すいぶちぃたぁ』は気になるけど、今はとりあえず脇に置いておいて祥子さまに美味しいお茶を入れることを考えよう。
それにしても、祥子さまに聞いたら? って簡単に言うけど……聞けないよなあ。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
令さまや薔薇さま方も揃い、祐巳は志摩子さんと一緒にお茶を出すと、祥子さまの隣に座った。委員会などの定例の会議のための打ち合わせが始まるがなかなか頭には入ってこない。無意識のうちに『すいぶちぃたぁ』とプリントに書き込んでいた。
「祐巳」
「は、はいっ!」
呼ばれて慌てて返事をすると、打ち合わせは終わっていた。
「あなた、今日は具合でも悪いの?」
「い、いえっ、そんなことは」
「ではしっかりなさい。あなたはもう山百合会の一員なのよ。プリントに落書きして。何なの? 『すいぶちぃたぁ』?」
上の空だったのがしっかりバレてて、おまけに考え事の証拠までつきつけられた。
「も、申し訳ありません! 山百合会で姉妹になると『すいぶちぃたぁ』をやるものだと言われて、ずっと気になっていて、上の空になってしまいましたっ」
平身低頭祐巳は詫びた。
「はあ?」
祥子さまは眉間にしわを寄せ、声を上げる。
情けない妹だと思われたに違いない、と思ったら、意外なことを祥子さまは言った。
「そんなこと、聞いたことないわ」
「へ?」
「あの、皆さま。どなたか『すいぶちぃたぁ』という言葉をご存知ありませんか?」
と祥子さまは打ち合わせが終わって雑談していた一同に尋ねた。
「何それ?」
白薔薇さまが聞き返す。
「聞いたことないわね」
紅薔薇さまも言う。
黄薔薇さまは笑っている。
「祐巳、こんな事は言いたくないのだけど、あなた、かつがれたのではなくって? 山百合会で姉妹になったとはいえ、何か特別なことをするなんて聞いたことなければ、やった事もなくってよ」
なんだ、そういうことか。と祐巳が落ち込んでいると、「待って」と声がした。
「どうなさいました、紅薔薇さま」
「『すいぶちぃたぁ』と言ったかどうかは忘れてしまったけど、そういえば、山百合会に入ったらどうのこうのと言う噂があるのは聞いたことがあるわ」
「そうなんですか、お姉さま」
祥子さまは尋ねる。
「もしかしたら、何らかの事情で私のところに伝わっていなくて、私も祥子を妹にした時に何もしなかったから、その伝統が途絶えてしまったのかもしれないわね」
あごに手を当てて、紅薔薇さまが考えていたが、ふと、何か思い当たったのか、両手をぽんと叩いた。
「もし、私のところでその伝統が途絶えてあなたたちに不憫な思いをさせているとしたら申し訳ないわ。折角だから調べて、いい伝統ならばあなたたちに伝えることにしましょう」
そう言うと、紅薔薇さまは自分の荷物をまとめて帰り支度を始めた。
「そう言うわけで、お先に失礼するわ。祥子たちも帰っていいわよ。ごきげんよう」
紅薔薇さまはビスケットの扉を開けて出ていってしまった。
「どちらに行ったんでしょうか?」
「調べに行くと言ってたじゃないの。さ、それより私たちも帰るわよ」
祥子さまにそう促され、祐巳は荷物を持って祥子さまと一緒に薔薇の館を後にした。
蓉子たち紅薔薇ファミリーが引き揚げたので、聖たち白薔薇姉妹も帰ることにした。
バスは空いていて二人掛けの座席に腰掛ける。
「あの」
志摩子が声をかけてきた。
いつもと違って、ちょっと思いつめた表情だった。
「どうした?」
「私……どうしてもお姉さまに聞いていただきたい事があって」
「待って」
ただならぬ雰囲気を察して聖は降車ボタンを押し、降りる予定じゃないバス停で降りた。手を引いて歩き始める。
「あの、私……」
「この近くに公園があるんだ。話ならそこで」
「でも……」
「ああ、これは寄り道じゃなくて『すいぶちぃたぁ』だから」
祐巳ちゃんが薔薇の館で言っていた言葉を借りてとっさに言った。
「『すいぶちぃたぁ』?」
「そう、『すいぶちぃたぁ』。自販機のだけど、お茶でも飲みながら、ね?」
志摩子にはホットのお茶、自分にはホットのブラックコーヒーを買って、公園のベンチに腰掛けた。
「さて、『すいぶちぃたぁ』だから、何を話してもいいよ」
本来の『すいぶちぃたぁ』がなんなのか全然知らないが、志摩子が少し落ち着いてきたので、これで通す事にした。
「あの、実は──」
『すいぶちぃたぁ』マジックにかかった志摩子は自分の事を話し始めた。仏教の寺の娘であることや、実の両親のことなど、個人的な事ばかりだったが、話していくうちに徐々に落ち着きを取り戻して、話し終わるとすっきりとした表情になった。
「一方的にすみません。でも、どうしても誰かに、いえ、誰でも彼でもというわけではなく、お姉さまに聞いていただきたかったんです」
「うん」
秋の日は落ちるのが早くて、随分と暗くなってきていた。
「また、何か話したい事があったら『すいぶちぃたぁ』で話がしたいって言ってくれればいつでもいくらでも付き合うよ」
「いえ、もう、大丈夫ですから」
「……そろそろ、帰ろうか」
手をつないでバス停までゆっくりと歩いた。途中の道には灯りが点き始めていた。
紅薔薇ファミリー、白薔薇姉妹が帰ると令はほっと溜息をついた。
「驚いたわ。まさか『すいぶちぃたぁ』の話が出るとは。知らないってある意味最強ね」
隣でお姉さまが呟いた。令が苦笑する。
「紅薔薇さまが『すいぶちぃたぁ』の中身を知ってどんな顔をするか、ちょっと見てみたい気もするけど。絶対になかったことにするのがオチよね」
くすり、とお姉さまは笑うと席を立ち、椅子に座る令を背後から抱き締めた。
「お姉さま?」
「祐巳ちゃんがおかしなこと言うから」
耳元でお姉さまがささやく。お姉さまの髪の毛が首筋にあたってくすぐったくなる。
「ねえ。あの時、もし、祐巳ちゃんに『すいぶちぃたぁ』がなにかって聞かれたら、何て答えるつもりだったの?」
「……お姉さまこそ、何とお答えになるつもりだったんですか?」
「あら、質問に質問で返すなんて」
お仕置き、と言われてくすぐられるが、背後から抱き締められているので、ほとんど抵抗できない。
「お、お姉さまぁ」
「ちゃんと答えないからよ」
「……たぶん、誤魔化したと思います」
「あら、私としたことは誤魔化さなきゃいけないような事だったの?」
「まさか」
令は自分を抱きしめているお姉さまの手の上に自分の手を重ねた。
「お姉さまがお望みなら、何度でも」
「由乃ちゃんが見てても?」
「……由乃の事は、言わないでください」
「そうね。今のは私が悪かったわ」
互いの首筋が触れあってドキリとした。そして……。
翌日、祥子は古い温室に呼び出された。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう」
蓉子さまは祥子が入ったときに既に笑いそうな顔になっていた。
「どうなさったんですか?」
「どうもこうも」
と、笑う蓉子さま。相当なハイテンションである。
「お姉さまに電話したらね、『すいぶちぃたぁ』っていうのは、何年か前に新聞部だかが山百合会の反応を見るために作った言葉で、意味はないんですって。時に厳かに、時にいやらしく、意味あり気に単語をばらまいて、運よく引っかかって何かをしでかしたら儲けものってところらしいわよ。もちろん、伝統でもなんでもないそうよ」
「はあ」
祥子は一気に脱力した。
さて、と蓉子さまは古い温室の扉に手をかける。
「私はお姉さまに言われたままをあなたに伝えたけれど、あなたがあの単語をどう使おうとあなたの自由よ」
「え? お姉さま、まさか……」
「頑張りなさい」
くすくすと笑いながら出ていく蓉子さま。
入れ替わるように息せき切って駆け付けた祐巳。
「ご、ごきげんようっ!! も、申し訳ありません。遅れましたっ!!」
蓉子さまのハイテンションの原因はご自身が久々にお姉さまと電話で話しただけではなく、これが原因であろう。
「ごきげんよう、祐巳。走る必要はなかったのに」
落ち着くのを待って、祥子は告げた。
「お姉さまの話では『すいぶちぃたぁ』は山百合会の反応を見るために作られた言葉で、そういう伝統はないそうよ」
「えー」
ちょっとがっかりした表情になる祐巳。
蓉子さまの好意を結果的に無駄にする事になってしまったが、祥子にとってはこれが一番の選択だと思った。
「そういった伝統がなければ作れない絆なんて本物ではないでしょう? 伝統がなくても、これからいくらでも絆は作れるのだから」
「……はいっ!」
祐巳は表情を輝かせて何度も頷いた。
祥子は走っていた間に曲がってしまった祐巳のタイとリボンを直すと二人で古い温室を出た。
一年半後の薔薇の館。
三薔薇さま、つぼみたちが揃って打ち合わせ、それが終わって雑談という段になった時、乃梨子ちゃんが聞いてきた。
「あの、会議とは関係のないことで、どうしても薔薇さまたちに伺いたい事が」
「何?」
「先程菜々ちゃんに『すいぶちぃたぁ』とは何かと聞かれたのですが、全然わからなくて」
「私は山百合会で姉妹になったらそれらしいものをやるという噂を聞きました。しかし、私がロザリオを頂いた時は立て込んでいた時期だったので、それらしいことは何もなく、新学期が来てしまいました。お忘れということはないでしょうが……」
乃梨子ちゃんの言葉を補足するように瞳子が言う。
「クラスメイトに『山百合会で姉妹になったらやるはずだって』そのとき初めて『すいぶちぃたぁ』って知りました。正直におっしゃってください。一体何なのですか?」
菜々ちゃんはちょっと恨めしそうに由乃さんを見つめて聞いた。
「ああ。なんだ。『すいぶちぃたぁ』ね。懐かしいな」
祐巳の言葉に、由乃さんが慌てた。
「ちょ、ちょっと! 祐巳さんっ!!」
「あら、乃梨子とは無かったかしら? 『すいぶちぃたぁ』」
「し、志摩子さんまで何言ってるのよっ!?」
微笑みながら言う志摩子さんの口を由乃さんが慌ててふさぐ。
「あのね、『すいぶちぃたぁ』っていうのは──」
「こんなところで何、破廉恥な事言おうとしてるのよっ!!」
由乃さんに裏拳で思い切り突っ込まれた。痛いよ、由乃さん。
横で、ポン、と志摩子さんが手を叩く。
「そうだわ。折角だから今日の帰りにやりましょう」
「しししし志摩子さん!! 人前でそんなこと堂々と宣言しないでえっ!!」
由乃さんはうろたえる。
「由乃さん、全然破廉恥じゃないと思うけど?」
祐巳が聞く。
「……なんか、黄薔薇さまと他のお二人にもの凄く温度差があるような気がするのですが」
「令さま、一体どういう説明をなさったのかしら?」
乃梨子ちゃんと瞳子が顔を見合わせる。
「お姉さまは、『すいぶちぃたぁ』とは一体何だと思っておいでなんですか?」
不思議そうに菜々ちゃんが由乃さんに聞く。
「菜々っ! 二度とその単語を口にしないのっ!! あ、あなたの事が嫌いとかじゃなくって……ばかっ! そんなこと、わわわわ私にどうしてもしろっていうのっ!?」
「はあっ?」
五人は首をかしげる。
「つぼみたち三人は知らないとしても、祐巳さんと志摩子さんは知ってて言ってるのよね? どうして平気なのよっ!?」
「いや、だって……」
「そんな隠すような内容では……」
瞬きして、平然としている祐巳と志摩子さんに、由乃さんは。
「やめろ、変態!! こっちが異常反応しているとでも言いたいわけっ!? あんなこと、妹にやって平然としてるだなんてこと無理よおおおっ!!」
「由乃さま?」
「菜々っ!! お子さまがそんな真似するんじゃないのっ!!」
真っ赤になって怒鳴る由乃さん。「今後その単語を出したら縁を切る」とまでいうので、由乃さんの前で『すいぶちぃたぁ』は禁句となった。
由乃さんにとって『すいぶちぃたぁ』がなんなのか、祐巳も気にならないわけではなかったが縁を切られるのは嫌なので、瞳子には本当の事をこっそり教えて、謎は謎のままにしておくことにした。