【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
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☆
一年前、リリアン女学園高等部に久保栞という生徒がいた。
正しくは、ほんの半年ほど前まで。
一年生だった彼女は、二年生へ進級することなく、リリアンを去ることになった。
――彼女を疎んじた誰かが追い出した、とか。
――彼女の存在が邪魔だと思った誰か、もしくは組織が圧力を掛けた、とか。
――後ろ盾を失ったからリリアンに居られなくなった、とか。
噂は多々あるものの、しかし、誰も彼女が居なくなった理由を知らなかった。
久保栞は有名だった。
今でこそ“反逆者”と言えば藤堂志摩子を指すが、去年なら久保栞がそうだと言える。
争いがあれば身を投げ出してでも止め。
虐げられる者がいれば身体を張って割って入り。
誰に疎まれようが煙たがられようが、力こそ正義というルールに、真正面から抗い続けた。
そんな彼女の姿に、胸を打たれた者も多かった。
支持する者も決して少なくはなかった。
だが、味方する者はほぼ皆無だった。
問題は、彼女が目覚めていなかったこと。
久保栞は、自分の正義を掲げ、貫くだけの力がなかった。
力なき正義は、この狂ったリリアンでは何の役にも立たない。
だから、彼女は多くの者にとって、ただの邪魔者でしかなかった。
もし当時の白薔薇の蕾――現白薔薇である佐藤聖が彼女の後ろ盾になっていなければ、進級を待つまでもなく、とっくに追い出されていたかもしれない。
そんな彼女の席は、進級を境にリリアンからなくなった。
喜ぶ者は少数だ。
だがほっとした者は多かった。
自らのことではなく、彼女のために肩を撫で下ろした。
もう傷つけなくて済む。
もう傷つかずに済む。
久保栞は決して傷つけてはならない者だった。なぜなら彼女は間違いなく正しいから――誰もがそれをわかっていたから。
多くが邪魔だと思っていたが、誰もが彼女が正しいことを認め、邪魔だと断じる者さえ己の過ちに気づいていたから。
ただ、正しいだけでは生きていけない環境だったから。
久保栞とは、そんな存在だった。
その噂は、ホームルームが始まる前には、学園中に広まっていた。
だからこそ。
今し方登校してきた“竜胆”は、鞄を持ったまま一年菊組に顔を出していた。
目的の人物は、果たして、すでに教室にいた。
“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃は自分の席に着いて誰かと話していたが、“竜胆”の気配を感じたのか顔をドア付近に向け、その姿を確認すると席を立った。
「そっち」
由乃は“竜胆”を押すようにして出入り口から離れ、廊下に出た。
「先に言うけれど、保健室の封鎖は私にもどうにもできないから」
「……やっぱり?」
「うん。その上詳しい事情も聞いてないから、何も答えられないわよ」
大まかには今聞いていたんだけど、と由乃が腕を組むと、教室で話していた相手――新聞部部員・山口真美もやってきた。
「かなりひどくやられたらしいわよ」
新たに顔を出した真美にその事実を聞かされ、一瞬“竜胆”の瞳に殺意が宿るものの、すぐに消え失せた。
「あなたは?」
「一年、新聞部の山口真美。“天使”とは面識があるんだけど、あなたと話すのは初めてね」
自己紹介もそこそこに、話は今朝の一件に戻る。
――何があったのかはわからないが、“瑠璃蝶草”は保健室送りにされた――それが“竜胆”が由乃に会いに来た理由である。
「二年生のあの人、謎が多かったのよね。力の大きさも異常だったし。でもあなた方の仲間だって言われれば少しは納得できるかも」
当然、真美は“契約者”としての繋がりなど知らず、華の名を語る者達という括りで捉えている――今朝襲われた二年生の華の名はついさっき由乃に聞いた。そして“竜胆”がその件で訪ねてきたのだから、何も聞かずとも関係ないはずがないことを確信できた。
ちなみに由乃は、今朝の一件で“瑠璃蝶草”という名前が知れ渡るだろうことを予想して、だから話した。あれだけ大きな事件が起こり、今やその噂で持ちきりである。下手に隠してその奥にある秘密――“契約者”の力を知られることを警戒したからだ。華の名を語ることそのものを隠れ蓑にと考えたのだ。
――由乃の判断は間違っていない。が、独断で情報を漏らしたことの処罰は覚悟している。しかし罰を覚悟してでも、たまには贔屓の情報屋にいい感じのネタを渡すことも必要なのだ。
まあ、その辺の打算はともかく。
登校してすぐ今朝の一件を噂で聞いた“竜胆”は、“瑠璃蝶草”が運び込まれたという保健室へ直行した。だが扉の前には三勢力総統の二人“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の二人が出入りを封鎖していたのだ。
一応交渉はしてみたものの「紅薔薇と黄薔薇に誰も通すなと命じられている」と返答があり――二人が発するピリピリした緊張感の中では、とてもじゃないが食い下がることができなかった。まあ粘ったところで無駄だっただろうが。
そして行き先を失った“竜胆”は、話くらいはできる山百合会の一人・島津由乃に会いにきた。
――今のところ、真美から聞いた新情報を追加すれば、「“瑠璃蝶草”は大怪我を負わされたから保健室に運び込まれた」となる。あまり嬉しくない情報だけは得られたようだ。
「……久保栞が帰ってきた、って」
多くが襲われた“瑠璃蝶草”ではなく、彼女を保健室送りにした相手――久保栞の方に視線を向けていた。
「私も新聞部関係から聞いただけだから、大まかにしかわからないんだけど」
しかし真美の聞いた話でも、“竜胆”が聞いた通りで間違いないらしい。
「今まで虐げられてきた者が目覚めて帰ってきた……ね。血の雨が降りそうだわ」
由乃はさも面白そうに笑うが、話はそう単純なものではない。
「問題はなぜ“瑠璃”が襲われたのか……」
「ん?」
これ以上、二人から得られる情報はなさそうだ。“竜胆”は独り言のように呟き、二人に背を向けた。
さすがに今はおしゃべりしているだけの心の余裕がない。
何が起こったのかを調べなければ気が納まらない。
「あ、ねえ」
大きい声を上げた真美に、“竜胆”は肩越しに視線だけ振り返る。
「詳しく知りたいなら、紅薔薇の蕾を訪ねてみたら? だって――」
――“瑠璃蝶草”が襲われていた時、久保栞を止めたのが小笠原祥子だったから。
“竜胆”の次の目的地が決まった。
「……で、感想は?」
「気配と言うか、感情が読みづらいわね。すごく」
由乃の問いに、真美はそう答える。
初めて話した“竜胆”の感想は、そんな感じらしい。概ね由乃と同じ感想だ。
あのポーカーフェイスとほとんど揺れない感情が、戦闘では相手に心理的圧迫感を与えるのだ。本人はきっと気づいていないだろうが。
あれが与える「ダメージ受けてません辛くないです全然余裕ですけどあなたもう限界じゃない?」みたいな無言の主張はストレスとなり、体力も神経もすり減らして闘う相手の集中力と戦意を奪っていく――それを多く経験し、かつ実践もしている由乃には、その有用性が骨身に染みている。
「考えるべきことが多すぎる。彼女……というより、彼女達と言った方がいいのかしら。何もかも気になるわ」
「……」
正確な言葉の意味は掴みかねるが、由乃は真美の言葉には触れなかった――それは自分が山百合会だからこそ知り得た情報に抵触するからだ。特に“契約者”関係は絶対のタブーとなっている。
(まあ、間違いないだろうけど)
山百合会に深く関わり“瑠璃蝶草”の存在を知る者には、今朝の一件はおぼろげながら理由がわかる気はするのだ。
襲われた理由。恐らくは彼女の持つ能力に関わるだろう――根拠も証拠も何もないが、勘という曖昧なものともちょっと違う。強いて言うなら、それくらいしか理由が思いつかないから、だ。
真美が疑問を持つのもよくわかる。
“雷使い”である“鳴子百合”はまだまだ露出が少ないが、“重力空間使い”と“天使”はもうそれなりに顔が売れている。そしてあの二人だけを見ても、どちらも異常なほどの力量を持っていることがわかる。
そう、異常なのだ。
薔薇に並ぶほどの力量の者など、そうホイホイ現れるわけがない。薔薇に並ぶほどの実力者ならまだわかるが、そうじゃなくて二人揃って力が超えているのは出来過ぎだ。片方ならまだしも。
情報屋からしても、かなり興味深い人物に見えていることだろう。
そしてそんな人物の一人が、今朝、謎の多い負傷した二年生のことを気にして動いている。何かあると考えるのが自然だろう。それも襲われた二年生はなぜかいないはずの人物にやられたのだ。何かあるに決まっている。
――真美のことだから、襲われた二年生に三勢力の護衛が付いていたことは、新聞部絡みで前々から知っていたかもしれない。護衛が付く=重要人物あるいは危険人物と考えられる。その辺の要素も疑問視の判断材料に含まれていそうだ。
理由はわからないが、三薔薇が護衛を付けている。その事実だけで重要視する理由になる。
「ま、向こうはひとまず置いといて」
真美はこちらの本題に戻った。
「昨日、どうして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を追いかけ回していたの? それもあんな豪華な面子で」
「その前に真美さんの情報から聞かせてもらおうかしら」
「ごねるわねー。いつもならすらっと話すのに」
「私はともかく、あの黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が関わってるから出し惜しんでるのよ。聞きたいんだったらそっちが先。当然情報に見合わないようなら話さないから、相応のネタをよこしなさいよ?」
……という感じのやり取りを朝っぱらからしていたところに、“竜胆”がやってきたのだ。
話は戻っても交渉は平行線だった。
まあ、それはそうだろう。由乃の条件はかなり一方的だ。真美の負担は大きいし、出したネタを由乃が気に入らなければ出し損である。(“瑠璃蝶草”の名前のネタは、公表しても良いものとして話したので取引とは別枠ということになっている)
だが、由乃がごねる理由も、真美にはわからなくもない。
「勝手に人の情報売っただろ」みたいな文句を言われた時、対価として得た情報を相手に、今回は“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に話して許してもらう、というよくある流れは押さえておきたいのだろう。よくあるだけに基本と言えば基本である。
本人の言う通り“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”――リリアン最強に近い者が関わっているのだ。大したことのない話でも、有名な人物が絡んでいるだけで価値は上がる。たとえ取り留めのない話でも、ある者にとっては重大な価値がある場合もある。
金銭とは違うのだ。情報の価値は人によって激しく変動する。
人を選ばない唯一無二の情報の価値を挙げるのであれば、情報の鮮度という一点くらいだろうか。
「仕方ない、じゃあ私から」
結局、真美が折れた。
「最新のが一つ、未確認の噂が一つ、由乃さん向きのネタが一つ。由乃さんにとっては三つとも面白いネタだと思うわ」
「未確認の噂も?」
「由乃さんにはこれが一番興味深いんじゃないかな? なんなら真っ先に聞く?」
「……いや、順番は任せるわ」
「了解」
一年菊組から二年生の教室が並ぶ階へと移動する“竜胆”は、そう言えば小笠原祥子の教室を知らないことに気づいた。
(聞けばすぐわかるかな)
何せ相手は有名人である――ちなみに祥子の教室は二年松組だ。
が、どうやら心配はいらないようだ。
この一件で召集があろうだろうと思っていた二人は、すぐそこの現場にいた。
「“鳴子”、“雪”」
声を掛けると、馴染みのある上級生二人は振り返った。いつもなら適当な感じの余裕が見える“鳴子百合”も、いつも優しげに微笑んでいる“雪の下”も、表情が硬い。
「ここが現場なんだってさ」
“鳴子百合”は投げやりに呟く。投げやりな言い方なのは普段も似たようなものだが、発する雰囲気は“竜胆”の知っているものではなかった――いや、それを言うなら“雪の下”も、そして“竜胆”自身もだ。
彼女らにとっては穏やかでいられるはずがないのだ。
何せ、自分達が護らなければならなかった人物が襲われたのだから。
ちょうど階段を登り切った場所。
段を一つずつ登るたびに外の空気が感じられ、開ける視界に飛び込んでくるのは、眼下に中庭が伺える廊下側の壁の風穴だ。派手にぶち抜かれ、とても風通しが良くなっている。
そして、所々床に飛び散っている、赤いもの。
どう見てもここが現場のようだ。
戦闘が起こったことを物語る破壊の痕が残る場所のど真ん中に“契約した者達”は集い、誰も近寄ることを許さない独特の緊張感を漂わせる。力を感じることができない目覚めていない者さえ避けるほどの、殺伐とした空気が三人を中心として一帯に広がっていく。
「どうする?」
気楽に放り込まれた質問の答えは、もう出ている。
「やる。必ず。許さない」
“竜胆”は、一度は失った強い感情を思い出している。――そう、これは確か、恨みという感情だ。
「……私はやめておきます」
反射的に殺気立った視線を向ける“竜胆”の肩を、“鳴子百合”が押さえた。
「理由は?」
「この件は“瑠璃蝶草”の能力に関係しているとしか思えないから。彼女が私達の関与を歓迎するでしょうか? 私はそうは思えない」
「……」
それはある。“竜胆”もそう思う。
――“契約書”という異能は、普通じゃない。
前例がないだの強力な能力だの、そういうレベルで語れるようなものではなく、もっと根源、根本的に別次元のものに思える。誰より優れているとか劣っているということでもなく、「別のもの」という捉え方がしっくり来る。その力で目覚めた“竜胆”達でもそう思う。
だから自然とこう思う。
「いったいどうやってその能力を身につけたのか」と。
このことに関しては、仲間内と話したこともなければ、“瑠璃蝶草”に直接聞いたこともない。しかしここにいる三人は、同じ結論に至っている。
自然に覚醒した? いつの間にか使えるようになっていた?
違う。
恐らく“瑠璃蝶草”も、「誰かと何かしらの“契約”を交わして力を得た」のだ。そうじゃないと辻褄さえ合わない。いきなり強力な力に目覚めることはあっても、いきなり明確な、しかも複雑な異能を形成できはしないのだ。これは目覚めた者ならよくわかる――異能は万能ではないからこそ、自分の形を自分で一から作り上げていくのである。試行錯誤と経験と己のイメージと向き不向きが重要になる。
“瑠璃蝶草”ほどの力の持ち主が、目覚めたことが周囲にバレずにいるわけがない。なのに彼女にはマークがついていなかった。つまり「急に目覚めて明確に使用し始めた」ことになる。
詳しいことは本人にしかわからないが、“契約書”の能力は複雑なシステムで成り立っている。そんなものを能力に不慣れな者がいきなり使いこなせるわけがない。
もちろん、この推測がはずれている可能性もあるが、こうとしか考えられないのが現状である。
だから、三人とも誰かに貰ったのだと考えている。
問題は「誰に貰ったのか」だ。
今回の一件には関係ない……わけがないだろう。闘わない“瑠璃蝶草”が誰の恨みを買うというのだ。襲われるほどの理由ができるとは思えない。
――推測が当たっていると仮定すると、きっと“瑠璃蝶草”は「個人的なことだから」と“竜胆”達の関与を嫌がるだろう。下手に踏み込んで困らせるのも本意ではないから触れなかったし――たぶん今後も自分達からは触れない。“瑠璃蝶草”が話すなら聞くが、問いただす気はまったくない。
ここにいる三人には根本の事情や理由などどうでもよく、ただ恩のある“瑠璃蝶草”に従うことしか考えていない。たとえ“瑠璃蝶草”が誰かに従う状況になろうとも、彼女らが付き従うのは“瑠璃蝶草”だけだ。
「“雪”はそれでいい。でも私は無理」
“竜胆”の死んだ魚のような瞳は、相変わらず死んだ魚のようによどんでいるが、珍しく強い意志が伺えた。
“瑠璃蝶草”は闘わない。そんな彼女を痛めつけて保健室送りにした人物がいる。
許せない。到底許せるものではない。
「それでいいでしょう。私は止めません」
形も触れ方も見方もズレてしまったが、“雪の下”だって“竜胆”が滾る感情の半分くらいは同じものを抱えている。気持ちがわからないはずがない。
「“鳴子”は?」
「その前に話がよく見えない。やったのは久保栞ってことで間違いないみたいだけれど」
「けれど?」
「栞さん、もうリリアンに在籍してないし」
「…………」
「しかも制服も違ったらしい」
それはつまり……
「探しやすいってこと?」
「そういうボケは“雪”の仕事でしょ」
「えっ」
“雪の下”はショックを受けた。わりと本気だった“竜胆”は顔に出ないことをいいことに「じゃあどういうこと?」と話を進めた。
「それが、祥子さんよ」
「祥子……さま? あの紅薔薇の蕾の?」
「そう。祥子さんがやられている“瑠璃”を助けたらしいんだけど――」
現場を見ていたという生徒から話を聞けば、祥子との戦闘中に久保栞は“消えた”そうだ。
「“消えた”?」
「祥子さんが使う紅い剣で胸を刺されたら、栞さん“消えた”んだって」
「……瞬間移動?」
「その前に刺さってる。刺されて“消えた”んだから」
戦闘においてダメージを負うのは大問題で、異能の使用にはそれなりの集中力が必要とする。痛みを感じていると徐々に集中力が薄れて行き、最終的には満足に使えなくなってしまう。
今なら三人にもわかる。
ダメージを負っても何の支障もなく能力を使い続けられるのは、ベテランの証だと。強い弱いはともかく闘い慣れしているのだと。
そして、今回のケース。
些細な傷ならともかく、胸を貫かれてなお異能を使用できるだなんて、正直考えられない。どの程度刺されたのかは定かではないが、胸に剣を突き立てられれば普通に考えて致命傷。意識の有無さえ危うい状況で満足に異能が使えるとは思えない。
「つまり?」
「私がわかるのはそこまで。だから話が見えないって言ったの」
“雪の下”が「あ」と声を漏らした。
「昨日は黄薔薇相手に大変でしたわね。身体の調子はいかが?」
“鳴子百合”は思いっきり呆れた。
「今頃になって取ってつけたように心配してくれてありがとう。おかげさまで絶好調」
「時々“雪”の天然には驚かされる」
「私は今ちょっとムカついたけどね。今頃言うなよ。そういうのは会った時にすぐ言うもんだ」
「まったく。ところで“鳴子”、昨日こてんぱんにやられたけれどもう大丈夫なの?」
「お約束だね」
「うん」
「何を遊んでいるのです。そんな状況じゃないでしょう」
“雪の下”にたしなめられた。“竜胆”と“鳴子百合”はちょっとだけイラッとした。
「さっきの話の続きですが、もしや栞さんは“幻”だったのでは?」
「まぼろし?」
「明確には言えないけど、そういうのに近いと私も思う。じゃないと刺されて“消えた”って事実に説明がつかない」
“鳴子百合”は“雪の下”の意見に可能性を見出すものの、“竜胆”は首を捻る。
「じゃあ“瑠璃”は“幻”にやられたってこと?」
だが幻は幻である。肌のきめ細かさも髪の一本一本も息遣いや鼓動さえも再現できる異能はあるかもしれないが、それでも、それはどこまで行っても“幻”だ。現実に触れることはできない。
「物理的干渉が可能な“幻”だってあるような気がします。あなたの師匠みたいな力もあるわけですし」
そうか、と“竜胆”はうなずく。
「“幻”じゃなくて、誰かが操作する思念体の可能性か」
思念体の構成は、目覚めている者にとっては簡単である。この場の三人ならすぐに再現できるだろう。
ただし、それ以上のプラスアルファが上乗せされると、難易度は想像を絶するほど高くなる。人型を確立する、物理干渉を可能とする、そしてそれを動かすのであれば更に難しくなる。
単純に言えば、実戦に投入するには割りに合わない能力なのだ。それなら武器を具現化して直接殴打した方が早い。
出すこと自体は楽だが、操作するとなると厳しい。蟹名静のように実戦レベル、それも山百合会の一人と肩を並べるほどのレベルで操るには、類希な才能が不可欠だ。
しかし、蟹名静のような使い手が他にいないとは限らない。
静よりも優秀な思念体操作を可能とする者であれば、人間と見分けがつかないような思念体を駆使することもできなくはないだろう。
――話がかなり突飛していることは、三人とも自覚している。しかし“契約書”というこれまた突飛した異能が関わっているのなら、前例のない異能使いが現れても不思議はない。ありえないと判断はできかねる。
「そういう風に考えれば、いないはずの栞さんが現れたことに説明がつく。ただ――」
“鳴子百合”は厳しい顔をする。
「その“幻”、どう見ても人間……栞さんだったんだって。しゃべるし、肉弾戦で手足が光る異能も使っていたって。しかもかなり強かったって。果たしてそこまで巧妙な思念体を使える者がいるのかどうか……」
もちろん高度な思念体とは違う能力である可能性も捨てきれないが。むしろそっちの方が可能性は高そうだが。
「いるよ。静さまならそれくらいできる」
――“竜胆”は断言したが、他はともかく「しゃべる」のは、さすがの静にも無理である。
「“冥界の歌姫”か……そういえば静さんって、今――」
“鳴子百合”が漏らした情報に、“竜胆”は今度は鞄を投げ出して駆け出すことになる。
リリアンには、俗に死装束と呼ばれる衣装がある。
決死の覚悟。
勝利するか、敗北するか。
逃走という道を自ら廃し、前に進むかそこで倒れるか、という意思表示となる。
――ただの体操服だが。
痛いほどの沈黙を破ったのは、“白き穢れた邪華”佐藤聖だった。
「ほー。死装束で来たか」
二人きりのお聖堂は、痛いほどの寒気が篭っていた。
いつもと変わらない聖と。
「念願でしたから。思い切り行きます」
体操服を着て、鉢巻まで締めた蟹名静が、向かい合っていた。
主を背に負い、ステンドグラスから差し込む光を浴びる佐藤聖。
勝利か敗北かの決意を固めてきた静の前に、気負いなく佇む聖は、ただただ眩しかった。本当に人間なのかを疑いたくなるくらいに眩しかった。
「思いっきりねー。そりゃ怖いなー。昨日見てたよ? 静、私の想像以上に強いみたい」
――体操服が死装束と呼ばれる所以は、リリアン女学園の制服だ。
膝下丈のワンピースのセーラー服なんて、激しく動き回るには適さない服装である。だが淑女たるもの、普段から動きやすい体操服でいるだなんてはしたない真似はできない。
だから、全てに置いて動きやすい体操服こそ、ここぞという時の勝負服となった。
絶対に負けられない闘いに臨む時。
決して勝てない勝負を前に「敗北覚悟、情け無用」を主張する時。
中途半端で終わることは許さないという決意を見せる時――そんな時だけ許される、闘う子羊の最後のたしなみとなった。
ただしスパッツだけは例外で、いつもの制服の下に体操服のスパッツを常時着用することは、これまた闘う者のたしなみの一つとなっている。たしなみ以前に、パンツなどをチラチラさせるなんて女子としていただけない。もう淑女とかリリアンとかではなく、女子としていただけない。聖ももちろん履いているし、闘う機会がない藤堂志摩子や立浪繭もこの例に漏れない。例外的なのは島津由乃の水着型アーマーくらいなものだ。
「“契約書”は、すでに“九頭竜”さまに渡してあります。後で受け取ってください」
「わかった」
お聖堂の出入り口には、件の元白薔薇勢力総統“九頭竜”が単身見張りに立っている。聖が無理を言って頼んだのだ――静はまだ知らないが、白薔薇勢力を正式解散した“九頭竜”は、聖の要請で見張りをやる義理も時間もないのだが。
まあ、とにかく。
静の長らくの夢だった聖との一騎打ちは、ここに実現されようとしていた。
「聖さま」
「ん?」
「私が勝ったら、聖さまのロザリオ奪いますから」
「おや。私の妹志願?」
「いけませんか?」
「いや。いいよ」
聖は微塵の動揺も見せず首を回す。ポキポキと骨が鳴った。
「そういう子、少なくないし」
「でしょうね」
だから聖は静と闘う約束をしたのだろう。
他意などなく、ただロザリオを――姉妹となる証を狙っていることが、すぐにわかったから。
聖にとっては、ロザリオを奪われることには二つの理由が絡んでくる。一つは静のように姉妹関係を結ぶため。そしてもう一つは、白薔薇の名を手折ること。
ただ、聖は白薔薇の称号などどうでもいいと思っている。だから勝負を受けたのだ。普通なら、たとえ“契約書”争奪戦中でも、一対一の正式な勝負など受けられない。これが紅薔薇や黄薔薇だったら、本人の意向以前に各勢力側が許さない。
諸々の諸事情は無視するとして、この辺も聖ならではのラフさである。
「申し込みは少なくないけど、でも静ほど強い子は初めてかな。ちょっと手加減できないかも」
「もちろん。ぜひとも本気で」
静の背後に“冥界の歌姫”が生まれる。
マリア像にそっくりの面持ちで目を伏せ微笑み、まるで相対する全てを愛しさと慈悲をもって抱きしめようとするかのように両手を広げている。
神々しささえ感じさせるそれを眺めつつ、聖の集中力が少しずつ高まっていく――いつもなら気合など入れなくても勝てるが、この蟹名静ほどの相手となると、小手先だけでどうこうできそうにない。
「少しばかりしんどいだろうな」というのが聖の素直な感想である。
「ちなみに言っておくけど、私は体操服のシャツはインしてほしい派だから」
「……」
「でもスパッツじゃ入れるの難しいよね。悲しい事実だ」
「……そうですね」
「今にして思えば、ブルマの時代って本当に実在したのだろうか……もはや都市伝説なのではなかろうか……そんな疑問が捨てきれない。どちらにせよ国には失望を禁じえない。なぜブルマを廃止したのかと問い詰めたい。そしてなぜシャツインを義務化しないのか問い詰めたい」
「何でもいいですけど国は関係ないと思いますよ」
ほんとに言い出す――という静のやや軽蔑を含む視線を前に、いきなり聖の瞳に明確な闘争心が生まれた。
「じゃ、始めようか」
どうやらセクハラトークでテンションを上げたらしい。
なんというか、とても聖らしかった。
「え、ほんと?」
「ええ」
目を見開く由乃に、真美は平然と答える。
「今朝、白薔薇と“冥界の歌姫”が一対一で闘ったんですって。もしかしたら今もまだ闘ってるかもしれないけれど」
「な……」
由乃は言葉を詰まらせた。考えることがありすぎて何も言えなかったのだ。
たとえば、今すぐ見に行くべきだろうか、とか。
まだ決着が付いていなければ、聖の能力“シロイハコ”の秘密がわかるかもしれない……とまで考えて、野次馬や見学に気を配らないはずがないと思う。用心深くない者が薔薇の称号など得られるはずがないのだ。見張りなりなんなり立てていることだろう。
「真美さん、その情報の出所は?」
「三年生の方では普通にビュンビュン飛び交ってるわよ? 私は新聞部の先輩に聞いたけれど」
どうも朝一で蟹名静が聖を訪ね、一対一を申し込み、その場で聖はその勝負を受けたらしい。だから周囲に漏れたのだ。というより聖が隠す気がなかったのだ――気まぐれなあの人らしい判断だ。下手に隠すより早く勝負をしてしまうのがいいと判断したのだろう。
――ちなみに静の死装束は、あらかじめ制服の下に着込んでいてお聖堂で脱いだので、周囲には知られていない。
「そうか……それなりに有名なら、見学対策は万全だろうね」
「なんでも白薔薇勢力総統が直々に見張りに立っているらしいわよ」
「そりゃ鉄壁だ」
目立たないし基本穏やかで地味だが、白薔薇勢力総統“九頭竜”は、三勢力のトップにいるだけあって本気で強い。そして義理堅く思慮深い。彼女自身が見張りなりなんなりの話を承諾したのであれば、その職務を必ずまっとうするだろう。行ったところでチラッと覗くこともできなさそうだ。
「で、そっちの情報は?」
「まだ足りないかな」
「えー?」
「だって最新だけど三年生には普通に有名な話なんでしょ? 今真美さんから聞かなかったとしても、今日中には私の耳に入ってたと思うよ」
「……ちぇっ」
由乃の弁に納得してしまった真美は拗ねた。由乃も自覚は足りないが一応は山百合会幹部である。目ぼしい情報は欲しなくても自然と耳に入る。
「はいはい、次のネタ話すわよ。――その白薔薇勢力総統“九頭竜”の話なんだけどね」
「うん」
「白薔薇勢力に大きな動きがあったみたい」
「え? ほんと? どんな?」
白薔薇勢力に大きな動きが――それは黄薔薇幹部として聞き逃せない情報だ。内容によっては叩き潰すチャンスにもなるし、強襲目的ならば黄薔薇勢力側も防衛対策が必要となってくる。
「“九頭竜”が総統を降りたかも、って」
その言葉の意味を認識するのに、軽く5秒は掛かった。
「……はあ!? なにそれ!?」
「ちょっ、いやっ、おちついてっ、くるしっ」
思わず手が出た由乃に胸倉を引っ掴まれ、真美は抗議の声を上げた。
“竜”が舞っていた。
日光を反射しきらきらと輝く“水の竜”は、全身をくゆらせながら優雅に舞っていた。
地面より3メートルから4メートル上空をゆるく旋回し、気ままに飛ぶ透明感のあるその姿は、まるで海中を我が物顔で泳ぐ海蛇を連想させた。
長さは10メートルを越え、頭というか胴回りは、直径50センチほどだろうか。小さな前足後ろ足に鋭いカギ爪があり、細長いヒゲがたなびいている。
ずっと眺めていたいほど美しい“水の竜”は、しかし、見せ掛けだけの動く彫刻などではない。
「――あら。来たのね」
お聖堂に通じる扉に寄りかかり腕を組んで通せんぼしているのは、元白薔薇勢力総統“九頭竜”だ。
付近は死屍累々の惨状である。
見える範囲で7人が倒れている。地面はえぐれ、激しい戦闘の痕が濃く残されている。きっと見えないところでも何人かやられているだろう。
恐らく、飛んでいる“水の竜”に狩られたのだ。
「あの飛んでるのが“九頭竜”ですか?」
師の一大事とばかりに何をおいても駆けつけた“竜胆”は、出入りを禁じている“九頭竜”の前で足を止めるしかなかった。
これほどの惨状の中にいて、無傷の“九頭竜”。
白薔薇総統の称号は伊達ではない。
「私の異能は名前の通りだから。わかりやすいでしょ?」
“九頭竜”。
名前の通り、九つの竜を操るのが“九頭竜”の能力である。
「それで? 静さんの弟子のあなたもこの中に用があるの?」
「ということは、まだ決着はついてない?」
「まだみたい」
答えを貰うまでもなく、それは“竜胆”にもなんとなくわかった。お聖堂からは気分が悪くなるような強い緊張感と闘気を感じる。音は何も聞こえないが、交戦中であることは察しがつく。
「……んー」
“竜胆”は頭を掻いた。
「居ても立ってもいられず駆けつけはしたんですけど、これと言ってどうするかは……」
何も考えていなかった。
“白き穢れた邪華”佐藤聖との闘いは、静たっての望みである。それを邪魔するなんて“竜胆”にできるわけがない。
だが、来ずにはいられなかった。
あの白薔薇と闘うだなんて――認めたくもないし、信じることもできないが、しかし、静の敗北という可能性は低くないのだろう。
「できれば静さまの勇姿をこの目に刻みたいなと」
「無理ね」
「でしょうね」
その辺に転がっている人達を見ればすぐわかる。“九頭竜”は誰であろうと実力行使も辞さない覚悟で封鎖しているのだ。交渉の余地さえありはしない。
「静さまは……負けますか?」
「負けるわね」
事も無げに返した“九頭竜”に、“竜胆”は殺気走った視線を向けた。
「簡単に言いますね」
――“竜胆”は、朝の“瑠璃蝶草”の一件のせいで、本人も知らず気が立っている。
しかしそんな“竜胆”を前にしても、“九頭竜”は眉一つ動かさない。相手に闘う気があろうとなかろうと、誰も通さないと決めているのだ。
「白薔薇に関わらず、紅薔薇も黄薔薇も強いわよ。静さんが弱いわけじゃない。あの人達が強すぎるだけ」
「静さまは勝ちます。絶対」
“九頭竜”はふっと笑った。
根拠のない一言をバカにしたわけでも、無知さ加減に失笑したわけでもない。
師と仰ぐ存在を信じている“竜胆”が微笑ましかっただけだ。
「だといいわね。……ああ、話は変わるけれど」
「はい?」
「あなたどこかに所属している? それともフリー?」
「…? 一応フリーになりますが」
山百合会に対抗するために集められた“竜胆”達は、すでに解散してしまっている。なので一応無所属ということになる。
意識としては全然フリーという気はしていないが。
“竜胆”と他二名は、未だ“契約者”の仲間にして部下のつもりだ。たとえ“契約者”がそう思っていなくても。
「華の名を名乗る以上、現体制に反発しているのよね?」
「強い者が正義、ですか? もしそれを指しているならその通りです」
「だったら力を貸してくれないかしら?」
「生憎、私の心はとある人に捧げているし、私の身体はもう静さまのものなので、あなたの妹にはなれません。ごめんなさい。良い話ですが今回はご縁がなかったということで」
「うん、誰も告白なんてしてないけどね。だから勝手にフらないでくれる?」
常人であれば少々腹が立つ冗談を軽く流し、“九頭竜”は何事もなかったかのように続けた。
「よければ“反逆者”の味方になってくれないかしら」
「……というと、藤堂志摩子さんの?」
“竜胆”は、ここでようやく自分が勧誘されていることに気づいた。何かしらの助っ人要請か取引かな、くらいにしか思っていなかったが。
「志摩子さんは闘わないし、今後も敵味方の区別なくその力を振るう。佐藤聖が去った後もそうあり続けるでしょう。
だから、彼女の槍となり盾となり、彼女の両手になる者が必要なのよ。現体制に反対するのであれば、少なくともあなたの正義にも反しないと思うけれど」
“反逆者”藤堂志摩子。
そう――確かに彼女は“反逆者”で、彼女だけは傷つけてはならない存在だと“竜胆”も思う。噂を聞けば聞くほどそう思う。
だから、志摩子に協力することに抵抗なんてない。
だが。
「さっきも言った通り、心も身体も売約済みなので」
「そうだったわね。残念だわ」
“竜胆”は少し迷ったが、結局言葉を連ねた。
「……“天使”の方でも誘ってみたらどうです? アレなら協力するかもしれませんよ」
「そうなの?」
「人一倍、体制への不満が強いですから」
“雪の下”は、“瑠璃蝶草”への感謝や義理も相当強いが、それ以上に狂った正義への抵抗感が強い。
だから矛盾に苦しんでいる。
自分が力を振るうことは狂った正義に従うこと。
しかし力を振るわなければ何も変わらない。
無力な者は何もできない――去年の久保栞を思えば、悲しいけれどそれが事実だ。
そして“竜胆”は思う。
先はわからないが組織としては解散してしまっている今、いっそ“反逆者”と呼ばれる存在の味方についた方が、“雪の下”は動きやすいだろう、と。
無力な者、闘う意思のない者、そんな者達の“盾”になることは、きっと“雪の下”の望む力の使い方なのだから。変な義理立てなんて合理主義な“瑠璃蝶草”だって望みはしないだろう。
それに。
“反逆者”の活動は、決して“瑠璃蝶草”が目指す正義の敵にはならない。これは非常に大きい。
「でもあなた達はコンビなんじゃないの? あなたはそれでいいの?」
「厳密に言えばコンビじゃないし、そこにこだわりはないですよ。私の力は無差別に鳥を落としますし。元々“天使”とは相性が悪いんです」
“雪の下”は自己主張があまりないだけで、芯ははっきりしている。目指す方向ややるべきことが明確な分だけ、“竜胆”より先を歩んでいる。
彼女と照らし合わせると、“竜胆”のブレはだいぶ大きい。
――自分は何をするべきだろうか。
やることなんてはっきりしているのに、そこへ踏み出す一歩が出ない。足が動いてくれない。
“契約書”を集めることも、“瑠璃蝶草”の敵討ちも、この蟹名静の望む一戦も、意識的にはどれも中途半端だ――最後のは少々違うかもしれないが。
“鳴子百合”は、闘うことが好きなようだ。
“雪の下”は意思が強いので迷うことはないだろう。
では、自分は?
闘うことは怖いし、“雪の下”ほど体制への不満が強いわけでもない。
どちらも選べない。
「“瑠璃蝶草”のために」、という大義名分がなければ闘うことも避けたいくらい臆病だ。
――表面上はまったくわからないが、考え込む“竜胆”の目の前にいる“九頭竜”は、ふいに腕を捻って腕時計で時間を確認した。
「“竜胆”さん、もし暇なら一つお願いがあるんだけれど」
「……何か?」
「詳しいことを話している時間はない。何も聞かずに今すぐ一年桃組まで行ってくれない?」
「一年桃組……」
というと、あの福沢祐巳の教室だ。彼女とは“契約”の一件以来会っていないが、気にはなっていた。“瑠璃蝶草”の話では覚醒は完了しているはずだが――
「率直に言うと、“反逆者”の護衛についてほしい」
「護衛? 志摩子さんの?」
“契約”の一件は、身内を抜かせば山百合会と祐巳本人しか知らないことだ。だから“九頭竜”の用件もそれではないだろうと思っていたが、“反逆者”の名前が出ることは同じくらい意外だった。
「私が行かなくても、白薔薇勢力の護衛がついてるでしょう?」
「話せば長くなるから今は何も聞かないで。理由は時間がある時に話す。……こうして私は不意の用件で動けなくなってしまったから、私の代わりに行ってほしい」
「……」
ここにいても“竜胆”はやることなどない。むしろここにいれば静に怒られるだろう。師弟関係は解消しているのだから。
それに、もしも、本当にもしも、静の敗北を目の当たりにしてしまったら――
正常でいられる自信がない。きっと聖に襲い掛かるだろう。昨日の“鳴子百合”と黄薔薇・鳥居江利子の一戦でもそうだったのだ。かろうじて抑えはしたが、身内がやられると自分がやられる以上に腹が立つ。
それと勝敗は気になるが、それよりも静の安否の方が気がかりだ。「適当なところで引け、危ないと思えば逃げろ、逃げられない理由がなければ逃げるという選択肢を捨てるな」というのが静の教えだった。静も自身の教訓通りに動いてくれればいいが……
とにかく、ここにはいない方がいいだろう。静の安否は気になるが、これは静が望んだことだ。それにもしもの話だが、静が敗北した場合、闘って消耗しているだろう聖に形振り構わず感情のまま襲い掛かるかもしれない。それはマナー違反も甚だしい。師である静の恥にもなりかねない。
「人探しを」
「ん?」
「“九頭竜”さまの代わりに行きますから、私の人探しを手伝ってくれませんか?」
今“竜胆”がやらねばならないことは、“瑠璃蝶草”を襲った犯人を見つけ出して報復することだ。そのためには情報源が必要となる。
白薔薇勢力総統ともなれば、有能な情報屋とコネがあったり独自のネットワークを持っていても不思議ではない。恩を売っておいて損はないだろう。
「見つけられるかどうかは保障できないけれど、手伝うわ。約束する」
「――わかりました。今から志摩子さんのところに行ってきます」
踵を返した“竜胆”は、「あ、もう一つ」と立ち止まった。
「私がここに来たこと、静さまには伏せておいてもらえます? たぶん怒られちゃうので」
返事の代わりに“九頭竜”は肩をすくめ、それを見届けた“竜胆”は駆け出した。
――すぐに見えなくなった背中を見送った“九頭竜”は、意識を背後のお聖堂に向ける。
かすかに歌声が聴こえる。
静が歌っているのだ。
決着はもうすぐかもしれない。
「なんだか急に忙しいわねぇ」
勢力を解散する前までは結構余裕があったのに、解散してからはこの通りだ。
“竜胆”は気づいていたのかどうかはわからないが、今このお聖堂は、十二人ほどの強者に監視されている。
白薔薇・佐藤聖を倒し名を上げようと考える者、その前段階として“シロイハコ”の謎を少しでも解明したいと観戦を望む者、静から預かっている“契約書”を狙っている者……
理由は様々だろうが、共通しているのは、“九頭竜”の存在が邪魔だという一点だ。
「“土竜”」
つぶやくと、見えないところで四つほど悲鳴が上がった。“土”に巻き上げられ高く宙を舞う人は、そのまま地面に叩きつけられる。
“土竜”――異能の使用周波を感知し地面ごと突き上げる条件発動型の“竜”だ。戦闘系にも有効だが、何より隠れている情報系を狩るのに適している。
とにかく、これでは中の用事が済んでもしばらく動けそうにない。
昨日の白薔薇勢力解散の一件で志摩子への被害が予想されたものの、こうして“九頭竜”は足止めされている。本当なら自ら志摩子の護衛に付かねばならない状況なのに。
にも関わらずこうして封鎖に立っているのは、白薔薇・佐藤聖が倒れることへの危機感からだ。
“冥界の歌姫”蟹名静ほどの使い手ならば、もはや薔薇の称号を持つ者でも無傷で勝つのは難しい。きっと聖も手傷を負っているだろう。
そして、弱り目や弱点を狙うのは卑怯でも何でもなく、ただの常套手段だ。戦闘が終わり傷つき疲れているところに更なる刺客が向かうのは、三薔薇ともあろう者なら普通にある。可能性は低いものの、たとえばここに紅薔薇・水野蓉子や黄薔薇・鳥居江利子がやってきたり、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”や“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が来ることもありえなくはない。
その第二波を食い止めるのも、“九頭竜”の仕事である。
化け物のように強い聖のことはあまり心配していないが、万が一にも負けられると、志摩子の後ろ盾がなくなってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
――という色々諸々を考慮して、“九頭竜”は見張りを承諾した。そして聖も色々諸々を考慮して“九頭竜”に見張りを頼んだのだ。
ここで“竜胆”に会えたのは、少しばかり幸運だったかもしれない。
襲撃者の数を見るに、この一戦の噂はもう学園中に広まっているだろう。
つまり、“九頭竜”が動けないことも、広まっているに違いない。
昨日の今日で戸惑いもあるだろうが、元白薔薇勢力の反乱分子にとってはまたとないチャンスである。藤堂志摩子の護衛が薄いという状況で動かないような甘い連中ではない。一応“九頭竜”のコネで志摩子に護衛は付けているが、少々心許ない。本気でやる気なら数も質も投入してくるだろう。
新生白薔薇勢力の発足は急がねばならないが、その組織が完成するまでが勝負だ。今志摩子を叩いておけば次期白薔薇の芽を摘むことができる。
――自分なら今動く。間違いなく今動く。可能な限りの戦力を注ぎ込んで必ずやり遂げる。
だから“竜胆”と会えてよかった。
必要なのは抑止力ではなく、実績と世論だ。
志摩子が襲われれば「次の白薔薇だから襲われた」と噂を流し、周囲にそう認識させることができる。それが大なり小なり志摩子の白薔薇就任の後押しになる。
“反逆者”が薔薇の称号を得る、などということは前代未聞だ。だからこそいきなり始めるのではなく、徐々に「志摩子=次期白薔薇」という方程式を広めていくのだ。
理想を言えば、今日、志摩子が怪我をしない程度に襲われ、“竜胆”が助太刀に入るという形が望ましい。
“竜胆”の実力はまだわからないが、力の大きさだけなら三薔薇クラス。当然周囲は期待の大型ルーキーという見方をし、一目置きつつ様子を見ている状態だ。この大型ルーキーが動くことで話題性も高まるに違いない。
そして本人曰く「“天使”なら協力するかも」という言葉も聞き捨てならないものがある。話題性のみなら“竜胆”より“天使”の方が高いし、ビジュアル的にもシンボル的にも欲しいところだ。前代未聞の闘わない白薔薇に属するのに、これほどマッチする存在もそういない。
「これも志摩子さんの人徳かな」
“反逆者”として知名度を上げ、信頼を得てきた藤堂志摩子に、今追い風が吹いている。
力こそ正義に反する、新しい正義の芽が育ちつつある。
あとは、添え木をして成長を見守るばかりだ。
「――だから噂なの! うーわーさ! まだ確証はないの!」
「離せこら!」と真美は渾身の力で由乃の手を振り払うと、びしっと指まで突きつけた。
「仮にもし本当だとして、由乃さん何する気よ!? することないでしょ!?」
「何言ってるの!? あるに決まってるじゃない! 大事な局面じゃない!」
「いや、ない!」
きっぱり言い切った。
「個人的に動くにはネタが大きすぎるし、できることなんて黄薔薇の指示待ちくらいなものでしょうが! これ以上問題起こしてどうするのよ! どんどんどんどん由乃さんの立場が悪くなるんだからね! それを心配して情報規制した令さまの気持ちも考えなさいよ!」
「う、うぐ……」
返す言葉も見つからない。
「だいたいねえ! この情報が元で由乃さんが問題起こしたら、情報をリークした私まで被害に遭うかもしれないんだからね!」
保身かよ――由乃はツッコミを入れそうになったが、まあ、真美は情報屋である。保身を考えないわけがない。
それより何より、一度冷静になるべきだろう。言っていることは本気で正しい。
「その噂の出所って?」
クールダウンして問うと、ヒートアップしていた真美もちょっと落ち着いた。
「うちの部長の推測。でも」
「ああ、だったら無根拠とも言いがたいわね」
新聞部部長・築山三奈子は、由乃も聞いたことがあるほどのキレ者だ。数々の要素を吟味した上で彼女がそう推測を立てたのであれば、無視することはできない。
「まあ、それが当たっているかどうかはさておき。でも白薔薇勢力に妙な動きがあることは間違いないみたい」
「内輪揉め?」
白薔薇勢力は、聖と勢力の仲が非常に悪いのは有名な話である。
「そう単純でもないとは思うけれど、ないとも言えないわね」
「うーん……」
由乃は唸った。
「仮に“九頭竜”さまが総統から降りたとして、だったら次の展開は何があるかな?」
「降りる理由がわからないから難しいところよね。新たな総統の決定と、本格的な白薔薇バッシング……というより、謀反かしらね。白薔薇と勢力の抗争が始まる可能性は高いかも。
ただ、総統が代わってこれから白薔薇と勢力が争うのならば、最も危険なのは志摩子さんだわ」
当然そうなるだろう。
藤堂志摩子は闘わないし、後ろ盾となっている佐藤聖のウィークポイントだ。志摩子を確保すれば聖の動きを封じる切り札になるだろう。志摩子の味方は少なくないだろうが、白薔薇と勢力の争いは内輪揉めだ。内輪揉めは外野が口を出しづらい。
真美はニヤリと笑った。
「心配なら様子を見てくれば?」
「べ、別に。心配なんてしてないし。というか私志摩子さん嫌いだし」
「へー。ほー」
見透かしているような真美の視線が腹立たしい。
「……でも、まあ、結構お世話になっちゃってるから、借りくらいは返してもいいけど」
「あ、ほんとに行くの?」
冗談半分に冷やかしただけなのに。ちょっと照れた表情の由乃は時間を確認した。ホームルームが始まるまで、まだ少し時間がある。――なんとも意外な反応だ。
「ちょっと様子を見てくる。あんまり表立って味方するわけにもいかないしね」
立場的に、あまり他勢力の幹部に肩入れするわけにはいかないのだ。敵に回すことは良くても、味方するのは色々まずい。たとえ“反逆者”であろうとだ。
あと久しぶりに福沢祐巳の顔を見たくなった。彼女は元気だろうか。
「じゃあ取引は?」
「あ? あー……取引成立でいいから一時中断ってことで。あとでゆっくり話そうよ」
「だったらいいわ。――じゃあついでに最後のネタだけさらっと話しとく。すぐ済むから」
「手短にお願いね」
「紅薔薇の蕾の親戚の、松平瞳子さんだっけ? あの子、昨日の放課後高等部に潜り込んでいたわよ」
「……え? なんで?」
「さあ?」
真美はしばらく瞳子を追いかけてみたが、瞳子は校内をうろうろして、何をすることもなく高等部から去ったらしい。
「まあ普通に考えて人探しでもしてたんじゃない?」
「うーん……」
渋い顔をする由乃を見て、真美は「あれ?」と間の抜けた声を漏らす。
「面白いネタじゃなかった?」
「いや、面白いネタだったよ。ありがたくちょうだいするわ」
ごめんちょっと急ぐから、と由乃は真美を置いて歩き出した。
――最後のネタは、確かに面白かった。
だが、なんというか……考えれば考えるほど、どうも渋い顔になってしまう。
(……ヤバイ臭いがするのよねー)
由乃は別に瞳子のことなどどうでもいい。素質のある下級生なんて好きになれるはずもない。紅薔薇の蕾・小笠原祥子の親戚だと言うなら尚更だ。
だが、上級生のお姉さまとしては、放置するのはあんまりな気がする。
瞳子がどんな目的を持って高等部にやってきているかはわからない。真美の推測通り誰かを探しているのかもしれない。が、それはどうでもいい。
もし昨日の段階で目的を達していないなら、今日も高等部にやってくるのではなかろうか。
――今朝の久保栞の一件。
元々、週末が近付くにつれ危険度が増していくだろう“契約書”争奪戦の真っ最中だが、今朝のあれが絡んだおかげで、危険度が桁違いに高くなったと由乃は思う。
(たぶん“契約者”関係のあいつらは黙ってないだろうし、栞さまが現れたとなれば白薔薇も動くかもしれないし……)
お行儀よく“契約書”だけ追いかける争奪レースならば問題ないが、予想外にして想定外のファクターが多すぎる。、もちろん瞳子の高等部お忍び散策も含めてだ。
不可解なことが多く、かつ危険度が増している今のリリアン高等部に中等部生が紛れ込むだなんて、命知らずもいいところだ。どんな事故があって巻き込まれるかもわからないのに。
気が進まない。
気は進まないが……しかし、知ってしまったから。
(……しょうがないか)
このまま放置して瞳子が怪我でもしようものなら、寝覚めが悪くなりそうだ。それとなく紅薔薇の関係者の耳に入れて、祥子まで伝われば向こうで適当に対処するだろう。
争奪戦中でさえ無ければ、瞳子を「保護」という名目で確保して紅薔薇幹部を牽制してみるのも面白そうなのだが、今そういう遊びをやるのはシャレでは済まないだろう。
なんで自分がそこまでしなければいけないのか、という気持ちもなくはないが、知ってしまったのだから仕方ない。
――しかし由乃は、この直後、松平瞳子のネタをすっかり忘れてしまうことになる。
良くも悪くも、由乃の勘は結構当たる。
この時も、由乃は自分の運の良さ、または運の悪さに、我ながら感心した。
――廊下を歩む双方は、適度な距離で立ち止まった。
「……どいてくれるかしら。島津由乃さん」
見たことのある顔触れが四つ、由乃の正面に立っている。
白薔薇勢力の戦闘要員が三名と、その中央に藤堂志摩子。声を掛けてきた三年生は比較的穏やかに言ったものの、そこに潜む強い緊張感が伺える。
幹部三人は志摩子の左右と後方を固め、強固にして過剰に志摩子の身を護っているように見えるが――
(違うな)
あの布陣は、志摩子の退路を断っているのだ。
これは誘拐だ。
誘拐が言いすぎなら強制連行といったところか。――真美から白薔薇勢力の怪しい動きがどうこうというネタを聞いていなくても、由乃は同じ結論を出しただろう。
「なぜ白薔薇勢力の者が志摩子を連れて行くのか」という疑問は当然あるが、最も有効な「佐藤聖に対する人質」という可能性が一番高いと考えるべきだ。逆に言えば、それ以上の最悪も考え付かない。
――放置するべきだろう。
黄薔薇幹部からすれば、白薔薇の内輪揉め大いに結構。食らい合って弱体化してくれればそれだけ他の勢力は有利になる。
放置するべき、なんだろう。
しかし。
「ねえ志摩子さん」
自分の置かれている状況がわかっているのかいないのか、志摩子は気丈な顔で由乃を見ている。
「私、借りっぱなしってあんまり好きじゃないから」
「…………」
「――だから、ちょっとだけ返すわ」
由乃の瞳に凶悪な殺意が生まれる。
「ちっ――行きなさい!」
一瞬にして戦闘体勢に入った由乃を見て、向こうの指示と動きは迅速だった。
リーダー格らしき三年生は舌打ちし、由乃から隠すように志摩子の正面に立つと、両手に一振りの巨大な鉄棒を具現化させた。身の丈以上、2メートルを超え由乃の胴回りよりも太い――いわゆる“鬼の金棒”だ。
――彼女は白薔薇勢力戦闘部遊撃隊所属“鬼人”と呼ばれる三年生だ。鬼の名に恥じない強靭な身体と怪力を誇り、典型的なパワーファイターと見せかけて頭も切れるという凄腕である。力量自体は高くないが、基礎能力の高さと機転の利く発想とで上り詰めた兵だ。
「おおおおおおおお!!!!」
聞く者の胃を縮ませるような雄叫びとともに“鬼の金棒”が振るわれる。超重量の武器なのに重さを感じさせないほどの速過ぎる横薙ぎは、由乃を正確に射程内に捉えていた。
当たれば、骨力の高い由乃と言えど、骨折くらいするかもしれない。
当たれば、だが。
「なっ――!」
避けることは相手も予想していただろう。
しかし由乃は、襲い来る“鬼の金棒”に片足を掛け、振るわれる勢いと重量を利用して飛んだ。ギリギリ“鬼の金棒”を超える程度の超低空で、“鬼人”の目の前できりもみしながら空中で横に高速回転し、
「おりゃあ!」
遠心力を稼ぎ出した手に愛用のマグナムを具現化し、グリップの底で“鬼人”の首筋を思いっきり叩いた。
衝撃の反動で由乃の身体は一瞬宙に止まる。が、代わりに“鬼人”の方が動く。
その一撃のダメージはほとんどない。鬼のようにと表される相手にとって、由乃の基礎能力では殴ったところで威力などないに等しいのだ。
しかし、これは攻撃ではない。
由乃はそのまま引き金を引いた。
ドン!
「あ――」
“鬼人”は、由乃が引き金を引いた時に、ようやく由乃の狙いに気付いた。
耳元で起こった鋭い爆発音に頭を貫かれ、視界がゆがんだ。経験のない耳の奥の痛みに伴い平衡感覚がおかしくなり、よろめく。
更に。
「いっだぁ!!」
放たれた弾丸は、“鬼人”の指示通り、志摩子を連れて行こうとしていた者の足を撃ち抜いた。――志摩子を連れて行かれればアウトである。由乃は目の前の“鬼人”より志摩子を確保している二人の方に的を絞っていた。
ここまでは由乃の予定通り。
だが、相手も百戦錬磨である。
「えっ!?」
耳の痛みで数秒は動けないだろうと思っていた“鬼人”は、よろめきながらもガッシと由乃の右手を掴んだ。そう、首筋に残っていた右手を。
視界がゆがもうとも平衡感覚がおかしくなろうとも、掴んでしまえば問題ない。
“鬼人”はまるでぬいぐるみのように軽々と由乃の身体を振り回すと、思いっきり壁に叩き付けた。壁に亀裂が走り、由乃の身体がめりこむ。空いた片手で受身を取ってなんとかダメージを抑えるものの、それにも限度がある。背骨に響く痛みに由乃は顔をしかめた。
それで終わりではない。
更に“鬼人”は両手で由乃の両肩を壁に押し付けると、上半身を逸らした。
――頭突きだ。頭突きの溜めだ。
瞬時に看破し、予想し得るダメージも瞬時に悟る。
食らったらアウトだ。後方に逃げることもできない。
もはや選択の余地はない。
迷っている余裕も、他の打開策を捻り出す時間もない。
「警告します! 頭出したらあなたの負けです!」
恐らく今は耳がバカになっているので、聞こえているかどうかはわからないが、由乃は言った。
そして、やはりというか、“鬼人”は躊躇さえ見せなかった。
重く、ひらすら重く硬い頭が、罪人に振るわれる槌のように振り下ろされる――
大きな爆発音が響いた。
ついで、“鬼人”はゆっくり倒れた。
「……はあ……だから言ったのに」
めり込んでいた壁から這い出すように出てきた由乃は、右手から激しく出血していた。ぽたぽたととめどなく滴るそれは、怪我の深さを主張している。
あの一瞬、何が起こったのか、見ていた者でさえよくわからなかった。
――原理は単純である。由乃が力一杯の“火薬”を詰めた“即席地雷”を造り、拳の前に具現化して、振り下ろされる“鬼人”の頭、額の辺りをカウンター気味に殴っただけだ。
由乃の奥の手“スーパードラゴン”だ。
思いっきり自分も爆発のダメージを負うので、相手に警告してでも使いたくない技である。あまり好きじゃないが、しかしどんなに基礎能力に恵まれた者でもちゃんと入れば一撃必殺できる、力の弱い由乃には代えの利かない技である。
「さーて、あと二人か」
右手の肉が飛び散りよく見れば骨もむき出しになっている由乃は、それでも挑戦的な笑みを浮かべた。
志摩子を連れ去ることを忘れている白薔薇戦闘員二人は、山百合会史上最弱と言われる島津由乃から、目が離せない。
“鬼人”は弱くない。白薔薇勢力では十指には入るだろう。
なのに完膚なきまでに敗北した。
相変わらず、感じられる力量はものすごく低い、異能使いとしては最低レベルと言っていい島津由乃に。
「どっちから先に潰されたいですか? 同時でもいいですけど?」
右手は見事に使い物にならなくなったが、引く気はない。この程度の怪我なら日常茶飯事だ。引く理由にならない。
志摩子を挟んでいる片方が、少しだけ怯えの色を見せて由乃から目を逸らさず、言った。
「……作戦を変更しよう」
足を撃たれたもう片方が「え」と振り返る。
「でもあれは最終手段って……」
「ここで失敗するよりマシでしょう!? “鬼人”さまがやられた時点ですでに九割失敗しかかってるのよ!」
すでに興奮状態にある由乃は、「なんでもいいから早くしてくださいよ」と戦闘意欲満々だった。
だがしかし、ほんの10秒後にはすっかり冷静になったりする。
――志摩子を挟んでいる二人は、高らかに片手を上げた。
それが合図だった。
「お……おお…………」
するとどうだろう。
どこかの教室から、階段の上から下から、“瞬間移動”も。
そこらの野次馬からも、窓からも。
白薔薇勢力の戦闘部隊がぞろぞろと現れ、終結し――あっという間に由乃は二十を超える精鋭に囲まれていた。
頭に登っていた血もすっかり下がった由乃は、呆然と周囲を見て、己が逃げ場のない大ピンチにいることを悟り――
「……あ、いたたたたた。あーおなか痛い。おなか痛いからまた今度ねっ」
「「…………」」
誰も道を開けてくれなかった。
しかも志摩子まで軽蔑の目で由乃を見ていた。