【3380】 いつまでも心の中に  (海風 2010-11-11 10:21:51)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】【No:3327】から続いています。












「――というのが、さっきの会議で決定したことです」

 いつかその時が来るだろう。
 それは進級してからすぐに理解できた。
 そして今。
 大掛かりなイベントが始まったことで、ギリギリで噛み合っていた歯車がようやく外れた。
 彼女は大変革を望むことはないが、時間の経過とともに汚染されていくそれには、あまり未練もなかった。

「……これからどうしますか?」

 いつもの繋ぎ役である白薔薇――元白薔薇勢力隠密部隊所属の一年生の声には、不安があった。自身も今後の身の振り方に迷っているのだろう。
 だが、彼女は迷うことはない。
 自らの二つ名を決めた時から、彼女が歩むべき道は決まっている。 

「あ……」

 彼女は久しぶりに一年生の前に姿を見せると、優しく肩に触れた。今までの感謝と今後の無事を祈って。
 それだけだった。
 彼女は何も言わず、また姿を消し、去った。


 ――“影”を名乗る少女は、こうして、名目上は無所属となった。




“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子がリリアンの逆賊ならば、“影”は山百合会の腹心である。
 名目上は白薔薇勢力に所属していることになるが、薔薇の館に出入りを認められる代わりに三薔薇全員に仕える身となっている。
 そして彼女が動く時は、普段なら名目上は主となる白薔薇・佐藤聖の命令になるが、その命令に関しては紅薔薇・水野蓉子と黄薔薇・鳥居江利子も了承あるいは認知の上でのこととなり、更には聖の命令より三薔薇の決定の方を優先されることもある。
 ストレートに言うなら三人共通の隠密という立場だ。場合によっては蓉子や江利子の命令でも動くし、場合によっては聖の意向に反することもある。
 三薔薇の隠密となっていることに関しては所属していた白薔薇勢力の誰も知らず、山百合会だけの秘密となっている。何かと接触していた白薔薇勢力総統“九頭竜”は気づいているかもしれないが、確証はないはずだ。
 ――ついさっき、白薔薇勢力が解散したらしい。
 昼休み終了間際の定時連絡で知らされたものの、“影”にはあまり関係なかった。
 たとえ所属勢力が解散しても、三薔薇が決定した「“契約者”の監視と護衛」は継続されるし、解散に関して話をすることも、今後の指示を仰ぐ必要もない。


(――ああ、そうだった)

 自分が今どうなっているかもわからない状況で、“影”は「自分は影として生きよう」と決めた時のことを思い出していた。
“影”は、恐らくリリアン随一のステルス系の使い手である。そしてステルス以外の情報系能力も抜群の性能を誇る。
 だが戦闘にはほとんど役に立たない。基礎能力自体はそれなりに高いが、最初から闘うことなど想定していなかったので、戦闘用の能力開発も一度だってしたことはない。立場上、単独行動が多いのでそこそこ闘えるよう訓練は積んでいるものの、決して強すぎるということはない。
“影”は優しすぎた。
 せっかくのステルスも、有効活用できるスパイ活動をするには良心の呵責が許さず、それを利用した不意打ちなんて一度たりとも考えたことはない。
 目覚めたところでやりたいこともなかったし、闘うことも嫌だった。しかし、ただ目覚めただけのことで、危険が向こうからやってくるようになってしまった。
 暴力なんて、やるのもやられるのも、見るのだって好きじゃない。残念ながらテレビでやる格闘技だって観たくない。
 だから考えた。
 自分の力で何ができるのか。何をするべきなのか。
 その結果、当時の、今で言う先代の白薔薇に自らを売り込んだ。
 リリアン最強の組織に所属する者しか、狂ったリリアンを変えることはできないだろうと思ったから。白薔薇は“影”の意思を汲み取り、更に有用性を見出すと、「三薔薇に仕える者」として山百合会への出入りを許可した――いや、有用性を見出した時点で、山百合会の防御の要として頭を下げて迎え入れたのだ。
 先代も今も三薔薇は誇り高く、決して“影”を疑うことなく、また裏切ることもなかった。いつしか、そんな人達に仕えることも“影”の喜びとなっていたが、理由はもう一つあった。
 それは、己を殺す代わりに、手を伸ばしても決して届かない人に近付くため。
 ――“影”は、聖のお姉さまに当たる一代前の白薔薇に強く憧れていた。白薔薇がその気持ちに気付いていたかどうかはわからないし、“影”も気持ちを伝えることはなかった。そして白薔薇は「できるだけでいいから聖を頼む」と言い残して卒業してしまった。
“影”はそのまま白薔薇勢力に腰を降ろし、できる範囲で聖に協力していた。先代白薔薇の妹……嫉妬がないと言えば嘘になるが、聖のことも嫌いじゃないので、仕えることに抵抗はなかった。

 一瞬の浮遊感に走馬灯のように思い出が駆け巡った直後――“影”は強く地面に叩きつけられ、全身を強打して何度もバウンドし転がった。突風に翻弄される新聞紙のように無造作に、何の抵抗もなく。
 久しい痛みだった。
 痛みを伴う戦闘に巻き込まれたのは久しぶりだ。山百合会に、三薔薇に仕えてからは、ほとんど闘っていない。
“影”は一直線に砂煙が立ち上る先に倒れた。使い古されてゴミになる寸前の雑巾のようにボロボロになっていた。
 三階からの落下。
 いや、落下というより、もはや三階からシュートされたサッカーボールとでも表現した方が適切だろうか。下に落ちる、と表する角度ではなかった。飛行機の不時着とでも言った方がわかりやすいかもしれない。

「……ぐっ、……」

 数秒ほど動かなかった“影”は、左手を付いて立ち上がろうとする。右手はなぜだか動かない。足もどこか踏ん張りが利かない。意識は朦朧としていて、自分がどうしてこうなったかさえ失念し、唯一あるのは「護衛をしなければならない」という己に課せられた命令の遂行のみだった。誰を護るかさえも混濁した意識の奥に埋没しているにも関わらず。
 注目が集まる。
 瀕死の虫のように弱々しく蠢く“影”を助けようなどと思う者は、いなかった。
 そもそも“影”を知る者が少ない。
 仮に知っていたとしても、白薔薇勢力関係は自分の今後に悩んで人に構う余裕などなく、それ以外は「やられた方」ではなく「やった方」に注目し、リタイアした方に興味など示さない。目覚めていない者はさも気の毒そうに見ているが、誰もが関わりを嫌い、自分に害が及ぶことを恐れて近付かない。

 一人を除いて。

「急いで! 早く!」
「わ、わかったから! 絶対名前呼ばないでよ!? 絶対だからね!?」

 一階の窓から飛び出したのは、一年生二人だ。
 ――山百合会に関わったことで一躍有名になった福沢祐巳と、知る人ぞ知る“黒の雑音(ブラックノイズ”桂だった。




 今し方登校してきた祐巳は、“影”がものすごい勢いで転がっていくのを偶然見てしまった。
 その時は、よくある朝の風景程度にしか思わなかった。誰かが闘って倒れて敗北して。入学当初から見てきたいつもの光景で、さして珍しくもない。派手にやられてるなー、痛そうだなー、くらいにしか思わなかった。
 やられたのが“影”だと気付いていなかったのだ。

「すっごい転がったわね、今」
「あ、桂さん」

 何気なく見ていると、いつの間にか横に桂がいた。どうやら彼女も今登校のようだ。

「ああいうの見ると、祐巳さんみたいに目覚めない方が幸せなのかな、ってちょっと思う」
「……私はよくわかんない」

 ここ最近、随分と濃く刺激的な日々を過ごしてきた祐巳も、若干の心境の変化があった。
 以前は目覚めたいと強く思っていただけだが、一時的にでも目覚めた者達の輪の中に入れてもらったことで見えたこともある。
 確かに、目覚めた者の方が、痛みも苦労も多そうだ。目覚めているからってなんでも自由に振る舞えるわけではない。トップに君臨している山百合会なんて、偉そうにふんぞり返っているだけかと思えば、むしろ普通に尊敬できる人達の集団だったりもした。
 だが、力を向けられてなんの抵抗もできないという弱者の状況というのはつらいし、なにより理不尽さが嫌だ。持つ者と持たざる者の差があまりにも大きく、その差が負の感情を生み出す――妬んだり恨んだりも普通にしてしまう。
 問題は、力の有無ではなく、力の使い方なのだ。それを強く実感できた。
 しかもアレだ。
 思いっきり地面を転がって倒れているあの人を見ると、桂の言うように、目覚めてない方が気楽なんじゃないかという気も確かにするわけで――

「……んん!?」
「ん? どうしたの祐巳さん?」

 窓を開け、前のめりになって倒れている人を凝視する祐巳。陽光もそう強くないのになぜか目の上に手を当ててひさしを作ったりして。
 砂煙はもうもうと立ちこめ、本人も保護色とばかりに埃まみれになっているが、転がっているあの人は――

「……“影”さま?」
「え? 誰?」

 「時代劇とかの上さま的なあだ名? 影武者的な?」と微妙なボケをかます桂を無視し、祐巳はなおも上半身を乗り出す。乗り出しすぎて危うく下半身が浮いたところで桂が慌てて腰を掴んだ。
 間違いない、とは、言い難い。似たような体格や髪の長さの人なんてたくさんいるし、“影”自体が見た目も没個性だ。遠目でしかも倒れている者の判別なんて、目の良い祐巳でもさすがにできない。
 だが、もしそうなら――

「桂さん、救助行こう!」
「えっ!?」

 違ったら違ったで保健室に運べばいいし、正解なら正解で、これまた保健室に運べばいいのだ。

「で、でも、ほっとけばあの人の知り合いの誰かが行くだろうし」

 渋る桂は、とにかく目立ちたくないのだ。救助活動そのものも誰かの癪に障ったりするし、戦闘でやられたのであれば、関係者だと思われて巻き込まれる可能性も低くない。
 だから誰も救助に行かないのだ。桂は間違ったことは言っていない。
 そしていつもなら、祐巳もそうなのに。

「いいから早く! お願いだから!」

 祐巳はその辺に鞄を置いて初めて行儀悪く窓から外へ出ると、外から桂の袖を引っ張る。「えぇ……本気……?」と桂は思いっきり嫌そうな顔をするも、親友にお願いされては行かないわけにはいかない。

「あーもうわかったから! 行くから! だから名前呼ばないでよ!? 約束だからね!?」

 しつこいほど「名前を呼ぶな」と念を押す桂の袖を逃がすまいと掴んだままの祐巳は、誰の目も気にすることなく走り出した。
 スカートのプリーツは乱れて白いセーラーカラーは翻る。制服のまま全力疾走したのは、窓から出たのと同じく初めてだった。
 近くに寄れば寄るほど、その人は、見覚えのあるあの人にしか見えなかった。

(やっぱり…!)

 激しく震える左腕を使ってなんとか上半身を起こそうとする彼女は、何度か見たあの人――“影”と呼ばれていたあの人だった。

「大丈夫ですか!?」
「あ、祐巳さん! 揺らしちゃダメ!」

 駆け寄って膝をつき、足腰が立たず這うようにして腕を立てている“影”の肩を掴もうとした時、桂が厳しく静止を呼びかけた。

「意識がほとんどないみたいだから、頭をぶつけてるかもしれない」

 手を伸ばせば触れられるほど近くにいる祐巳に、“影”は視線を向けようともしない――桂の言う通り意識がはっきりしていないのだろう。

「……これは保健室に運んだ方がいいみたいね」

 右腕の骨折と、恐らく脳震盪。こうして動いているところを見るに、ボロボロな見た目ほど身体の損傷はひどくなさそうだ。しばらくすれば意識も取り戻すだろうが、放置できるほど軽症でもないと桂は判断した。
 祐巳はこういう現場に居合わせたことも駆けつけたこともなかったので、何から手をつけていいかわからなかった。が、何度か救助活動をしている桂は、見るべきところはちゃんと見ていた。
 だらりと力なく下げられている右手は、きっと折れているのだろう。だがその他は大した外傷は伺えない。きっと転がった時にやったのだろう擦り傷は無数にあるが、致命傷と言えるほどの怪我はなさそうだ。出血もあまりない。
 校舎を見れば、そこから誰かに飛ばされたのだろう、不自然に空いた風穴が見えた。あれだけの高さから飛ばされ派手に不時着したのにまだ動けるのであれば、基礎能力は低くないのだろう。

「志摩子さんに頼む必要もないかも……祐巳さん?」

 反応の悪い祐巳は、振り返り、校舎を見ていた。
 ――風穴が空いている。たぶんあそこからここまで飛ばされたのだ。

「祐巳さん? 祐巳さんってば」
「待って」

 祐巳は何かが引っかかっていた。
 「もしかしたら“影”かも」と思った辺りから何かが引っかかっていた。
 なんだ?
 何が引っかかってる?
 何が――

「あっ!」
「うわっ!? なに!?」

 祐巳は何に引っかかっていたのか、ようやく思い当たった。
 ――だとしたら、これは相当危ない状況なのではなかろうか。いや、危ないというより、まずいと表現した方が適切かもしれない。

「……桂さん! あとお願い!」
「え!? また!?」

 桂を置いて祐巳は再び駆け出した。
 目指すは、もう二度と行く機会もないだろうと思っていた、薔薇の館である。

「……まあ、いいけどさ」

 思いっきりぽつーんと取り残された桂は拗ねたように呟くと、「よっこいしょ」といまだもがき立ち上がれない“影”を肩に抱え上げた。目覚めていない祐巳がいたところでなんの足しにもならない。人を一人運ぶくらいなら基礎能力の上がっている桂一人で事足りるのだ。というよりそれを期待して祐巳も桂を引っ張り出したのだ。

「コーヒー牛乳でもおごってもらおうかな」

 祐巳の知り合いを救助しに来て、肝心の祐巳は救助者と、事情を知らないツレをほったらかしでどこかへ行ってしまった。それくらいの報酬を夢見ても罰は当たらないだろう。




“影”は護衛に付いていた。
 それが祐巳が引っかかっていた点である。
 その護衛が誰かにやられたのであれば、答えは一つである。

(きっと誘拐だ!)

 自身も(それっぽいのを)経験しただけに、直感的にそう考えた。
“影”が護衛していたのは、あの“瑠璃蝶草”である。ならば“影”がやられたのは“瑠璃蝶草”を狙った誰かのしわざだ、と。
 あの「“契約”ぬか喜び事件」を経た祐巳からすればそこまで助けたいとも思えない人物だ。が、決して嫌いではないので「放っておく」という選択肢は、最初から祐巳の頭にはなかった。
 何より、山百合会が困るだろう、と。
 祐巳は重要なことも問題点もよくわかっていないが、“瑠璃蝶草”に山百合会に出入りしている“影”が張り付いていた以上、山百合会にも関係があることは明白だ。
 ほんの短い間ではあったが、地獄の学園生活を過ごしていた祐巳を救い上げたのが、その根源とも思っていた山百合会だった。
 正しいことも事情も全く理解していないが、山百合会は信じられる。信じたい。
 だから祐巳は走っていた。
 山百合会の助けになるならと、その一身で。
 全力疾走でもごく標準的な足の速さで銀杏並木に差し込むと、向こうから恐ろしいスピードで駆ける人影が――

「うわっ」

 豆粒程度に見えていたのに、誰だろうと察しが付く前に、その人影はすでに祐巳の目の前に停止していた。
 乾いた風が吹く。
 長い黒髪が広がり、しかし揺れるスカートのプリーツは乱れることなく、その人は怪訝な表情で祐巳を見ていた。

「……祐巳ちゃん?」

 脳が認識してくれるのに数秒掛かった。
 目の前の人は、祐巳にとってはほんの少し因縁がある“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子だった。

「さ、祥子さま」

 ほとんどいきなり現れたような上級生に胸が高鳴る――これはオバケなどに遭遇した時の心臓に悪い類の、または寿命が縮む系の驚きという感情だ。オバケなんて見たことないが。

「あの」

 ちょっと混乱している祐巳だが、目当ての人物が目の前にいるのだ。ややしどろもどろで薔薇の館に向かっていた理由を伝える。

「――それはご苦労だったわね」

 祥子は微笑んだ。ほんの1分にも満たない報告だが、やはり山百合会にとって無関係の情報ではなかったのだ。

「私もその用件で現場に行くところよ」
「えっ」

 当然のことだが、“瑠璃蝶草”に付けた護衛は“影”一人ではない。それこそ校舎内なら無数の目が“瑠璃蝶草”の動向を見ている。
 三勢力にとっても他勢力にとっても、“瑠璃蝶草”の力の正体はともかく、力量の大きさは無視することなどできないのだ。同じ理由で強い者には常に監視の目が付いている。そう考えて行動すると、おいそれと闘ったり能力を見せたりはできない。
 二つ名持ち辺りになると、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃のような異能フルオープンというスタイルは、ある意味では羨ましいものがある。

「じゃあ……」

 自分が走るまでもなかったのか、と祐巳はがっくりと肩を落とすと、「そうでもないわ」と祥子は言った。

「私は“影”がやられたことは聞いたけれど、保健室に運ばれたことは聞いてないから。祐巳ちゃんは続報をくれた。だから私達は今すぐ次の一手が打てる」
「つ、次の一手?」
「私はこのまま現場へ行く。祐巳ちゃんは志摩子に会って、保健室へ行くよう伝えて頂戴」

 「同じクラスよね?」と言いつつ、祥子は腕時計で時間を確認する。

「問題がなければ、志摩子は今、マリア像の前辺りにいるはず。――伝言を頼めるかしら?」
「は、はいっ」
「お願いね」
 
 祥子は擦れ違いに祐巳の肩に触れると、再び走って行ってしまった。
 振り返ると、すでに祥子は見えなかった。

「は、はや……」

 しばし呆然としていた祐巳だが、ハッと我に返ると、同じく走り出した。
 祥子には思うことがあるものの――それは別として、地獄の底から救い上げてくれた山百合会のために少しでも役に立てることが、祐巳は少しだけ嬉しかった。

 今抱いている感情が、後に己の正義になることを、福沢祐巳は予見さえしていない。




 小笠原祥子がまだ駆け出す前。
 ――二年生の教室が並ぶ廊下で、久保栞と“瑠璃蝶草”は対峙する。
 久保栞は即座に、“影”を戦場から退場させた。そして排除した強烈な闘気はそのまま、まだ臨戦態勢にある。
 しかし敵意や殺意、あるいは嫌悪の感情はなく、むしろ慈愛とも取れるような温もりを感じさせる瞳で“瑠璃蝶草”を見詰めている。

「もう一度言います。あなたの能力を回収します」

 間違いない、と“瑠璃蝶草”は思った。

「“使い”ね?」
「ええ」
「その姿は何? 皮肉?」
「いいえ。近年、彼女ほど興味深い存在がいなかったので。――ただのお気に入りですよ」

 久保栞は一歩、足を進めた。

「あなたの理想は叶えられないと判断しました。だから回収に来ました」
「随分と猶予が短いと思う」
「理想に近付くどころかひどくなりましたから。有体に言うなら打ち切りです」

 久保栞はまた一歩、足を進めた。

「もう待つのには飽きたのですよ。待っていたって何も変わらない。だからあなたを選んだのに」
「選んだのに、私は期待に応えられなかった?」
「残念です。あなたは力を使いこなせなかった」

 久保栞の左手が伸びる。

「あなたにはリリアンを正す素質が充分にあったのに」
「ふっ」

“瑠璃蝶草”は笑った。

「自慢じゃないけれど、これでも私、目覚める前は100メートルを1分以上かけて走るほどの運動音痴だから。素質があるなんて冗談でも言わないでほしい。こんな私が頂点に立てるとでも本気で思っていたわけ?」
「――着想は面白かった。“契約書”という絶対の約束で拘束する媒体。力量の問題もあったのでしょうけれど、それを考えた者は今までいなかったから」
「私は“あなたの主”の真似をしただけ」
「ならばあなたこそ皮肉が利いている。……おや?」

 久保栞の手は、若干貧相な“瑠璃蝶草”の胸をまさぐる。

「えっち。無遠慮に触らないでくれる?」
「……抵抗するのですね。それはあなたらしさですか? それとも返すのを惜しんでいるだけですか?」
「自分でもよくわからない。でも今だけは絶対に返せないと思っている」

“契約書”争奪戦。
“契約した者達”の存在。
 そして今後のこと。
 まだリタイアするには早すぎる。
 まだ始めたばかりだ。
 ここで力を失ったら、本当に何のために力を得たのかわからなくなる。

「そうですか――」

 胸元の左手が這い上がってくる。

「では、力ずくで回収します」

 白く美しい手が、“瑠璃蝶草”の細い首を掴んだ。

「抵抗すると痛いですよ」
「絶対返さない」
「ならば早く諦めなさい。私は止めません」

 久保栞の右手が、五本の指が、無造作に、無理やりに肉をえぐって“瑠璃蝶草”の胸元に沈んでいく――
“瑠璃蝶草”は悲鳴を上げた。




 この時、薔薇の館では紅薔薇姉妹がテーブルに着いていた。
 何もない時でも、できる限り薔薇の館には誰かが詰めるようになっている。緊急事態が起こった際、伝えるべき相手がうろうろしていては時間が無駄になる。緊急事態は、すぐに行かなければならないから緊急事態なのだ。ほんの数秒対処に遅れただけで全てが後手に回ることもままある。
 佐藤聖が来ないのは珍しくないが、黄薔薇・鳥居江利子がこの時間にまだ顔を出さないのは、少し珍しかった――もうすぐ到着するだろうが。

「そろそろ激化するわね」
「ええ、恐らく」

 祥子の首に掛かる“契約書”は、偶然ながらスタート地点で紅薔薇・水野蓉子が持っていた物だった。どうやら紅薔薇に縁のある一枚らしい。
 比較的平和である。
 争奪戦の最中にも関わらず、こうして紅茶を楽しめるのだから――まあ嵐の前の静けさだろうが。

「そういえば聞いた? 昨日の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の話」
「由乃ちゃんは何をしているのですか」
「楽しそうでいいわよね」
「お姉さま」

 とがめるように目を細める祥子に、しかし姉がその程度で怯むわけもなく。

「たまに羨ましく思うわ、由乃ちゃんのこと。隠すことも惜しむこともなく本能のまま闘える。そんな機会、私には数えるほどしかなかった」
「羨ましいならやればいいじゃないですか」
「あら。私が負けてもいいと?」
「たかが能力を知られたくらいで負けるような姉など、持った覚えはありません」
「言ってくれるわね」

 ――いわゆるイチャイチャトークである。本当に久しぶりの姉妹水入らずの時間、やることなどそれくらいのものだ。いや、それ以外ない。
 久しぶりの姉妹だけの時間を楽しんでいると、やはりというかなんというか、無粋な乱入者がやってきた。

「大変です!」

 挨拶も出入り口からの出入りもすっ飛ばしていきなり会議室に出現した彼女は、紅薔薇勢力の伝令である。見ての通り“瞬間移動”の使い手だ。
 もちろん注意することなどない。
 形式をジャンプするのは、それだけ緊急事態という証でしかないからだ。
 瞬時に最強の仮面を被る紅薔薇姉妹に、伝令は緊張感を高める。

「“影”がやられました!」

 紅薔薇姉妹は息を飲むも、驚きを面に出さなかった。

「襲撃? 数は?」
「襲撃、数は一人、護衛対象狙いです。……あの、不可解なことですが、襲撃者は……」
「襲撃者は?」

 言いよどむ伝令は、その名を口にした。

「――久保栞です」

 戸惑いは、あった。蓉子にも祥子にも。
 当然疑問もあるし、不可解だとも思うが。
 しかしそれより何より大事なのは、

「祥子、行きなさい。私は保健室に直行する」
「わかりました」

 今大事なのは“瑠璃蝶草”の身だ。襲撃者が誰であれ何であれどのような理由があろうとも、“契約者”を護らねばならない。
 彼女を護るということは、山百合会で確保し、監視することでもある。
 あの“契約書”の力は、決して目を離してはいけないものだ。あの力はあまりにも危険すぎる。“瑠璃蝶草”の気持ち一つでリリアンは今以上の戦乱となるだろう――本人にその気がないのがまだ救いだが、どう転んでもおかしくない。本人の意思に反する事情が発生しないとも限らない。
 特に怖いのは、今以上の戦乱を望む者が確実にいるだろうという点だ。
 今現在のリリアンでさえ収集がついていないのに、この上もっと異能使いが出現してしまうと、地獄絵図以外の未来が見えない。

「場所は?」
「あ、三階の――」

 場所を聞き出すと、早々に祥子は薔薇の館を飛び出した。
 そして蓉子は蓉子で動き出す。

「このまま伝令をお願い。各三勢力の総統に、保健室前に集まるように伝えて」
「わかりました」
「あ、待って。“九頭竜”は除いていいから」
「は?」
「今取り込み中なのよ、彼女。ちなみに居場所はお聖堂」

 佐藤聖と蟹名静の一戦のことは、蓉子の耳にも入っている。――それに白薔薇勢力がかなり妙な動きをしていることも。
 今後どんな動きを見せるのかまだわからない以上、白薔薇勢力のことは様子見するしかない……が、今は関係ない。あれだけ統一性のない雑な動きなら、早い内に目的も動向もわかるので待てばいいのだ。
 何より聖から報告もないのだから、気を遣う必要もない。場合によっては容赦なく叩けばいい。

「では、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”に伝えてきます」

 伝令は現れた時と同じように消えた。

「……久保栞……ねぇ」

 蓉子は首を傾げた。
 今までに類を見ない形の異能使い“瑠璃蝶草”と、もういないはずの久保栞という女生徒と。
 ――どうも流れが胡散臭くなってきた。

「やっぱり黒幕が“復讐者”かしら」

 蓉子の読みでは、“瑠璃蝶草”は“復讐者”の手駒だと思っていた。そして“復讐者”こそ“瑠璃蝶草”に“契約書”の力を与えた、と。
“契約書”の力は、自然に目覚めたものではない。あれはいろんな意味で性質が違いすぎる気がする。それに本人の性格と意向と監視の“影”からの報告を考慮すると、彼女がリリアンを崩壊させる存在になるとは思えない――もちろん可能性はまだ低くないと思うが。

(久保栞が“復讐者”? 私が黒幕ならまだ姿を見せたくないけれど……いや、まだ見えない部分が多い、か)

 憶測を重ねるには、まだパーツが足りていない。
 蓉子は紅茶を飲み干すと、色々なことを考えながら薔薇の館から飛び出した。
 今日も忙しくなりそうだ。




 現場に到着した祥子が見たものは、血反吐を撒き散らしてなお悲痛の叫びを上げる“瑠璃蝶草”と、見慣れない制服を着た、いないはずの久保栞だった。
 久保栞は左手で首を掴み小柄な“瑠璃蝶草”を強制的に爪先立ちさせ、光る右手を胸の――心臓の辺りに五本指を突き立てていた。久保栞の白い制服は“瑠璃蝶草”の吐いた血で点々と赤く染まり、目の前で苦痛を訴える者から目を逸らさず、顔色一つ変えずに攻め手を緩めない。
“瑠璃蝶草”は無抵抗だった。己を拘束する左手を掴んではいるが、足も身体ももがいていない。

(甘んじて受け入れている……?)

 その可能性は否定できそうにない。
 だが、放置するべきでもないだろう。

「栞さん」

 呼びかけると、久保栞は“瑠璃蝶草”を見たまま、視線さえ向けずに口を開いた。

「何でしょうか? 祥子さん」

 在校中、久保栞とは何度か視線を併せたことはあるが、話したことはない。だが知っていても不思議はない。お互い立場は百八十度違ったものの、有名だったから。

「あなたは闘わない者を攻め立てるために戻ってきたの?」
「こんなことを好きでやるわけがないでしょう」

 久保栞は横目で、祥子を見た。その目は不思議と悲壮感を感じさせる――在校中に祥子を見詰める栞の瞳によく似ていた。

「私は、人の痛みを好むあなた方とは違いますから」
「心外ね」
「では好きでもないのに闘い続けている、と? とてもそうには見えませんが」
「好きに思えばいいわ」

 祥子の身体が“揺れる”。

「今は私のことよりあなたのことよ。今私の目に映る光景は、正しいこととは思えないわ」
「あなた方は正しくないことを堂々とするのに、私が正しくないことをすると非難するのですか? 大した理屈ですね」
「非難なんかしない。強い者が正義、強い者が正しいのだから。ただ――」

 まばたきも許さない間に祥子の右手に“紅夜細剣(レイピア)”が生まれ、即座に振り下ろされた。
 久保栞の腕――“瑠璃蝶草”を縛り付ける両腕を狙い、空を斬る音さえ置き去りにして紅い剣線が走る。
 取った、ように見えたが、残像を残す速度で久保栞は両腕を引き、更に二歩ほど後方に下がった。
 支えを失った“瑠璃蝶草”は両膝を床につき、両手をつき、激しく咳き込んだ。口や喉に溜まっていたのだろう血液をびちゃびちゃと吐き出した。

「ただ、私はあなたのしていることが気に入らない。だから止めるのよ」
「我儘な主張ですね」
「……」
「でも、強い者が正しいなどというふざけた約束事より、よほど好い」

 久保栞の両手が光る。
 もし在校中、何か言いたげに祥子を見詰める栞が口を開いていたら、

「あなたの流儀に合わせましょう。私もあなたが気に入らない。それだけの力を持ちながら、正しいことに使わないあなたが気に入らない」

 この言葉を伝えたかったのかもしれない。




 色々と気になることはあるが、祥子がまず考えたのは、“瑠璃蝶草”のことだ。

(あれだけの力に目覚めている以上、基礎体力が低いということはないはず)

 だが吐血はまずい。内臓系にダメージを負うのは当然危険だ。外傷ならば“反逆者”が癒せるが、内臓系は少々時間が掛かってしまう。
 それに、当然ながら失った血液までは戻せない。

(……急いだ方が無難ね)

 目の前の久保栞は――素人だ。
 力はかなり強いが、構え、気配、闘気、視線や呼吸にいたるまで全てがバラバラでちぐはぐだ。ある程度のレベルなら充分強いと思えるだろうが、ある程度のレベルからは心技体の全てが噛み合って初めて踏み込める領域となる。
 久保栞の力は大きい。
 だが、

(まだ早い)

 山百合会と闘うのは、まだ早い。恐らく島津由乃の方が強い。
 久保栞が、ブレた。
 同時に祥子は“揺れる”。
 神速で距離を詰めた二人は、しかし仕掛けたのは一方だけだった。
 久保栞の右の正拳突き――型通りだが速さも重さも申し分ない。
 しかし相手が悪い。
 戦闘は苦手で、かつあの状況では背後の護衛対象を護るため回避できなかった“影”ならともかく、リリアン最強の山百合会と闘うには、全てが稚拙過ぎる。
 踏み込みと肩の動きで攻撃方法も読んでいた祥子は、一気に勝負をつけた。
 そう、勝負をつけた。
 拳を“紅夜細剣(レイピア)”の柄で受け、外側へ押し崩し、その動きを利用して手首を返して久保栞の腕を斬りつける。慌てて身を引く久保栞に合わせて半歩踏み込み喉を狙い突く。狙い通り左に回避させ壁際に背を向けさせると瞬時に刃を翻し一文字に横へ振り追撃。下がれない久保栞は上半身をのけぞらして切っ先をギリギリで回避し――祥子は捕まえた。
 一文字の横薙ぎを腕を引くことで強制的に止め、これまでの動きを上回る速度で突きに変更。久保栞の左肩を狙い通り突き貫く。そのまま踏み込み、力技で強引に押し込んで壁に縫い付けた。
 ここからが“紅夜細剣(レイピア)”の真骨頂。

  パキッ

 祥子は突き刺したままの“紅夜細剣(レイピア)”の刃を根元から“折る”と、手に残った柄に新たな“紅い刃”を生み出して、今度は右肩を貫く。そして両手両足も同じように縫い付けた。
 これが祥子の“紅夜細剣(レイピア)”の特性の一つである。
 ――元々祥子は、力量がものすごく優れているわけではない。基礎能力もそれなりに高いだけで、決して高すぎるということはない。支倉令と比べれば具現化した物質の強度は格段に劣る――強度のみに限れば由乃の方がよっぽど優秀だ。骨力なら比べるまでもなく由乃の方が高い。
 そこで祥子は逆の発想で考えた。
 「絶対に折れない剣」ではなく「任意で折れる剣」を、と。
 そして磨いたのが、具現化特有の、使用者の身体から離れたら消えてしまう特性の改善。手元から離れても具現化し続ける操作法だ。長距離は無理だが、ほんの5、6メートル内であれば力の続く限り“刃”を具現化し続けられる。
 わずか2秒で、久保栞は敗北した。
 その姿は、まるでルビーのピンで固定された、標本の白い蝶そのものだ。

「あっけなかったわね」
「本当に」

 久保栞は、悲しげな瞳で祥子を見詰める。

「こんなにも強いのに、なぜあなたはこれ以上の力を求めるのですか?」
「そうね……これでも最強ではないから、かしら」
「そうですか。――ならば、私が先に最強の座に着きましょう。そうすれば私の言葉に耳を傾けてくれますか?」
「その格好で言われても説得力がないわね」
「生憎――本体ではありませんから」

 やはりそうか、と祥子は思った。
 初手で久保栞の腕を斬った時に気付いた。
 手ごたえが、肉を裂き血を滑る感覚とは全く違っていたのだ。馴染みがありすぎるあの不愉快な感覚を間違えるはずがない。厳密に言えば服を切り裂く感触も違っていた。
 人間にしか見えないものの、斬った時の手ごたえが違う。つまりこの久保栞は人間ではない――斬りつけた腕も出血していないのだから。
 だから容赦しなかった。
 まだどういった存在なのかさえわからないが、もし痛みを感じないような存在なら、生半可な攻撃を加えたところで戦闘不能にはならないだろうと思ったからだ。普段の祥子ならここまで残酷なことなどしない。“縫い付ける”にしたってせいぜい二本くらいだ。
 これは心を折ることを最優先した結果である。どうがんばっても勝てないことを理解させるために選んだ、力を見せ付ける手段だ。
 幸い、狙い通り久保栞の戦闘意欲は奪えたようだ。

「あなたは誰で、何なの?」
「答えが返ってくるとは思っていないでしょう?」
「ええ」

 祥子は“紅夜細剣(レイピア)”を構える。

「でも答えなければ、あなたの胸を貫くわ。あなたも同じことをしていたのだから構わないでしょう?」
「おやめなさい。あなたは本当はそんなことはしたくないと思っている。したくないことをする必要はありません」

 久保栞の言葉は真実だった。
 しかし、祥子は一切迷わなかった。

「あなたも不器用ですね」

 無抵抗に胸を貫かれた久保栞は、悲しげに微笑み、霧のように掻き消えた。

「……」

 そこに残ったのは、祥子が壁に刺した“紅夜細剣(レイピア)”の刀身が数本のみ。久保栞が存在した痕跡は全てなくなっていた。
 思わず溜息が漏れる。
 いろんな意味で闘い辛い相手だった。再びあの久保栞を相手にするくらいなら、殺気走った刺客に襲われまくる方がまだ気楽だと思える。
 あれは本当になんなのか――考えることは山ほど増えてしまったが、今は。

「――“瑠璃蝶草”さん」

“紅夜細剣(レイピア)”を解除して振り返ると、果たして彼女は……普通に立っていた。

「大丈夫なの……って、聞くまでもないみたいね」
「おかげさまで」

 吐血までしていた“瑠璃蝶草”は、もう平然としていた。制服に血の痕と、握っているハンカチが赤く染まっているくらいで、すでに傷口も塞がっているようだ。

「あなたの基礎能力、私を超えているわね」

 祥子もそれなりに自然治癒力は高いが、“瑠璃蝶草”は当然のようにもっともっと早いようだ。もしかしたら三薔薇や、自然治癒力が圧倒的に高い“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”さえ超越しているかもしれない。
 この分なら、他の基礎能力も決して低くないはずだ。

「でも運動神経切れてるから。私。思いっきり宝の持ち腐れだから」

 平然ともったいないことを言ってくれる。力量はともかく、基礎能力だけでも喉から手を出して欲しがる者は多いだろうに。

「“影”さんは? どうなったの?」
「保健室。治療の必要もなさそうだけれど、あなたも来て。紅薔薇が待っているから」
「ああ、大丈夫。まだ痛いから治療もしてもらう」

 己の怪我はともかく、己の身代わりになった“影”のことは気にしているらしく、“瑠璃蝶草”は抵抗もなく保健室へ行くことを承諾した。
 その末に、聞かれたくないことを聞かれるだろうことは、わかっているはずなのに。

(どこまで真相に迫れるかしら)

 リリアンを崩壊させるという“復讐者”を知るであろう者は、祥子を置き去りにしようとばかりに、すでに早足で歩き出している。




 若干遅かったものの、予定に狂いはない。

「――では、失礼します」

“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子が保健室へ顔を出したのは、祥子達が保健室に入室した直後だった。駆けた祐巳より、一戦交えた祥子の方が圧倒的に早かったのだ。
 保健室に消えた志摩子は、1、2分程度ですぐに出てきた。

「し、志摩子さん」

 所在無くそわそわしながら待っていた祐巳は、想像以上に早く出てきた志摩子を大歓迎した。
 祐巳は、雷門の風神・雷神並に存在感を主張する恐ろしい紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と黄薔薇勢力総統“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”にじろじろ見られて身を縮ませていた。彼女らは保健室への出入りを封鎖していて、志摩子を連れてきた祐巳も例に漏れなかったのだ。
 もちろん、祐巳がここで待っている必要は一切なかった。下駄箱前で志摩子を捕まえてなんとなくそのまま一緒に来てしまったが、こうも居心地の悪い場所にいるくらいならさっさと教室に行きたかった。
 が、保健室に駆け込む志摩子に言われたのだ。「すぐ戻るから待っていて」と。鞄を預けられて。
 「はは……ご、ごきげんようお姉さま方……」などと非常に硬い愛想笑いでボソボソ挨拶をしてみるも、総統お二人は声を揃えて「黙って待っていなさい」とシャットアウトだ。ひどい仕打ちである。
 ――祐巳は知らないが、この時二人は、本気で気を張り詰めて警護に立っていた。蟻一匹の侵入さえ許さない気構えで。話しかけられ、それに答えていると気が散るのだ。
 久保栞が帰ってきた――この情報だけでも、二人は今リリアンに相当まずいことが起こっていることを察したのである。

「お待たせ、祐巳さん。どうもありがとう」

 持っていた鞄を受け取る志摩子は、怖い顔をした門番二人に挨拶すると、祐巳を促して歩き出した。

「もういいの?」
「ええ。私の用事は終わったから」

 ――志摩子が祐巳を待たせた理由は、保健室に長居しないためである。
 伝令に走ってきた祐巳の話を聞けば、かなり込み入った理由と事情があることはすぐに察しがついた。
 そして志摩子は、自分はその込み入った理由や事情を知らなくていいと思った。自分の活動には必要のない情報だから、と。姉の聖も理解があるのかないのか、志摩子に勢力関係のことを話したことはあまりない。
“反逆者”の二つ名に恥じない無関心ぶりである。良いか悪いかはともかく、徹底している姿は潔い。
 だから、すぐにその場を離れる理由に、祐巳を待たせていた。利用しているようで申し訳ないが、多くを聞けば動きが鈍る理由にはなろうと、自分の益にはならないのだ。

 しかし結論としては、志摩子の判断は間違っていなかった。

 他愛のない話をしながら一年桃組の教室に到着し――

「え……」

 祐巳は、消えた。
 志摩子の目の前で。
 忽然と。
 なんの前触れもなく。
 あまりにも予想外の出来事に驚き固まる志摩子の背後に、気配も感じさせず二人の女生徒が近付く。

「ごきげんよう、志摩子さん」
「――」
「待った」

 振り返ろうとする志摩子の両肩に手を置き、それを封じる背後の人物。

「あなたも山百合会の幹部なら、何が起こったのかくらいはわかるでしょう? そしてあなたに求めることも」
「……“鬼人”さまですか?」
「すごいわね。声だけでわかるの?」
「いいえ」

 声だけではなく、総合的な判断だ。
 志摩子は闘わない。だがそれは、闘うだけの能力がないわけではない。“反逆者”としてだが、志摩子もそれなりに修羅場を潜ってきた者だ。戦闘のことは覚束ないが、それ以外のことは管轄内である。
 簡単に志摩子の背後を取る動きと気配は熟練の技。加えて素早く振り返る者の動きを封じる反射神経と力強さ。そして声の発せられる高さと、声そのもの。それに三年生、白薔薇勢力遊撃隊所属“鬼人”は、力任せなバトルスタイルに似合わぬ切れ者だ。こういう単独、あるいは少数での隠密行動には非常に適している。統率力も高く人望も篤く、こういった「戦闘をしないことを前提とした速やかな誘拐」には、白薔薇勢力では最も適しているかもしれない。
 何より、自分にちょっかいを出す者を考えると、紅薔薇勢力よりも黄薔薇勢力よりも、白薔薇勢力がもっとも高いからだ。

(お姉さま……ついに来ました)

 聖と勢力の仲が悪いことは、いくらそういうことに興味がない志摩子だって知っていた。そして、いつかこうして、自分の存在が聖の足を引っ張ることになるのだろうことも知っていた。
 聖は、それを覚悟した上で、志摩子を妹に迎えた。
 こんな時のために何か秘策が――

(……ないわね、きっと)

 妹になってわかったのは、聖は繊細だがアバウトでもあるということだ。こういう時のための秘策など絶対にないだろう。きっと「なんとかなるよ」くらいにしか思っていないに違いない。

「まあ、なんでもいいわ。――このまま大人しく付いてきてくれる? お友達には先に行ってもらっているから」
「……わかりました」

 取るべき選択肢は一つしかなかった。
 聖と志摩子の問題なら、多少ごねたり話を引き伸ばして相手の目的を聞いたりもしたかもしれない。だが問題は聖と志摩子だけではなく、祐巳にまで及んでしまった。

(祐巳さん……)

 恐らくは“瞬間移動”による誘拐。
 それも志摩子の目の前でやるから意味がある。
 それは、どこまでも本気で、意に添わないのであればどんな手段でも取る、という意思表示だ。目覚めていない者を躊躇なく巻き込んだ点だけ見ても、本気具合が伺える。
 きっと狙いは佐藤聖だろう。
 志摩子を人質に取っての白薔薇狩りだ。

「こっちよ」

 背後の人物が志摩子の前に回る。読み通り“鬼人”だ。彼女は先導して歩き出す――さりげなく志摩子の左右後方に二人ついた。どうあっても逃がす気はないらしい。逃げるわけにもいかないが。
 ――思いっきり志摩子の本音を語るのであれば、別に聖が白薔薇でなくとも、また自分が白薔薇の蕾などと言われる存在じゃなくてもいいと思っている。たまたま聖がお姉さまになり、必然的に志摩子が白薔薇の蕾になっただけの話だ。
 ただし、メリットはあった。
 山百合会に入ることで、普通であれば実現できないことも実現できるだけの力が得られる。それはリリアンでもっとも大きな三勢力の一つ。それがあるだけでリリアンの三分の一は掌握した、とも言える。
 志摩子の“反逆者”としての正義が実現し、それが既存の狂った正義を超えることができれば、志摩子の“反逆”は完遂となる。――もっとも、それは結果の一つとしか考えていないが。権力を手にしての最終目標ではなく、“反逆”の末にそうなればいい、と。
 もちろん、志摩子が次期白薔薇になるかどうかもあやしいところなので、次期白薔薇としての立場を考えたこともほとんどなかったが。
 志摩子は、自分の意思が貫けるのであれば、立場なんて関係ない。聖が白薔薇である必要もないし、自分が白薔薇になる必要もない。
 しかしこれだけははっきりせねばならない。

(お姉さまがやられるのを黙ってみていろ、と?)

 この誘拐の狙いが佐藤聖なら、志摩子を人質にして聖の敗北を得るのだろう。

(無理ね)

 考えるまでもない。
 聖の敗北云々はどうでもいい。勝つだの負けるだのどうでもいい。
 だが、お姉さまがひどい目に遭うかもしれないのに、妹が黙っていられるものか。薔薇だのなんだの関係なく、姉を想わない妹などそういない。少なくとも志摩子はそうだ。
 となると、なんとしてもこの誘拐を阻止せねばならなくなる。よしんば誘拐が成功しても自力で脱出せねばならないわけだ。
 いつもなら味方で、志摩子は気付いていなかったが、きっといつも護衛についていてくれた者達が、今はこうして敵に回っている。第三者の助けは期待できそうにない――

「……まずいな」

 前を歩く“鬼人”が呟き、左右の二人の気配に警戒の色が感じられた。何事かと考え事を停止して前を見れば……なるほど、確かに「まずい」奴が来ていた。
 我が物顔で廊下を歩く女生徒――“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃が、真正面からまっすぐこちらへやってくる。

(また面倒な時に……)

 志摩子の頭はパンク寸前だった。
 この誘拐をいかにして阻止するか――いや、阻止はできない。すでに祐巳がさらわれている以上、とにかく祐巳と合流するまでは表立った行動は取れない。ベストなのは合流してから二人で自力で脱出という流れだが、しかしこういうことに経験が乏しい志摩子は、どういった手段を取れるのか、また取るべきなのかさっぱりわからない。
 そんなことを考えていれば、まさかの由乃登場である。めまぐるしい状況の変化に志摩子の思考が追いつかない。
 ――志摩子は、この状況を見て由乃がどんな行動に出て、どう転ぼうとも、自分に何のデメリットもないことに気付いていなかった。




「あいたっ――丁重に扱え! ばか!」

 乱暴に放り投げられ毒づく由乃を、“鬼人”は何も言わずに一瞥すると、扉を閉めた。
 光をさえぎられた室内は少々暗く、やや埃っぽい。薄暗闇の中に見えるのは、跳び箱やハードル、マット、平行棒、バレー用のボールが入った巨大なカゴ――体育館倉庫である。

「志摩子さん、由乃さん」

 二人が放り込まれ扉が閉まった途端、先客から声が掛かった。

「「祐巳さん!」」

 無事だったか、と安堵する志摩子の声に、なぜここに、という疑問を含んだ由乃の声とが重なる。

「え、なんでここにいるの!? というか志摩子さん起こせ! 私を起こせ!」
「よかった、怪我はない? 大丈夫?」
「無視か! さっさと起こしなさいよ!」

 志摩子は面倒臭そうな溜息をわざとらしく吐くと、芋虫のように転がる由乃を起こして座らせた。――武闘派である由乃は後ろ手に両手と両足を縛られ拘束されているのだ。
 果たして、由乃の視界には、跳び箱の上にポツーンと座る福沢祐巳の姿が確認できた。薄暗くても隙だらけのその気配は充分覚えがある。
 由乃は鼻を鳴らした。

「……フン。どうやら絡んで正解だったみたいね」

 こういうことに経験豊富な由乃は、何も聞かなくても状況が理解できた。
 志摩子の誘拐と、監禁場所に先にいた祐巳。
 そして自分まで一緒に連れてこられたというシチュエーションだ。

「えっと、由乃さんはなんで……」
「いつものアレよ」
「ああ、いつもの……」
「いつものアレって何? 祐巳さんもなぜそれで納得するの?」

 由乃の追求に、祐巳は曖昧に微笑み、平行棒に腰を下ろす志摩子は無視した。

「……まあいいけど。――それで志摩子さん、これからどうするつもり?」
「……」

 今度は無視ではない。由乃の問いに答えるべき言葉が見つからないのだ。
 どうするかなんて決まっている。
 聖に迷惑を掛ける前に、ここから脱出するのだ。
 しかし方法が見つからない。ずっと考えているが、具体的な手段など見つからないまま、とうとうここまでやってきてしまった。
 ヘンゼルはパンを道しるべに落としながら歩いたが、志摩子はそんな古典的な手も思い浮かばなかった。もっとも思いついたところで実現は無理だったが。ここまでほとんど“瞬間移動”で移動したので、誰かに知らせるという手段が取れなかったのだ。
 ちなみにパンなど撒かなくても帰り道はさすがにわかる。何せここは体育館だ。

「老婆心ながら言わせてもらうけれど、何をするにも急いだ方がいいと思うわよ?」
「わかってる」
「わかってる。ふうん。ならいいわ」

 違う勢力の幹部である由乃が、志摩子のために口を出せるのは、ここまでだ。




 ――ほんの二、三分ほど前のことである。
 二十名を超える白薔薇勢力の精鋭に囲まれ、退路を塞がれた由乃が取った行動は…………まあ失笑ものだったことはさておき。

(これはいよいよまずいわね……)

 藤堂志摩子誘拐の本気度合いと入れ込み具合を、この状況とイコールで結んだ場合。
 ――白薔薇勢力による、白薔薇への謀反だ。間違いなく。
 この状況は、失敗できない策に投じられた結果である。
 どうあっても志摩子を確保せねばならない理由など、そう多くない。

(えらいのに首突っ込んじゃったわね)

 志摩子があえて目立つよう護送されていた理由は、他勢力――紅薔薇勢力と黄薔薇勢力に、白薔薇勢力の謀反を悟らせないためだろう。白薔薇勢力の足並みが崩れていることが明確なら、二勢力が力を併せて白薔薇勢力を潰しに掛かるという選択も充分ありえるのだ。いくら“契約書”争奪戦中でも、名目上は解散している組織でも、話はそう単純ではない。隙があるなら喉元に食らいつくのは常識だ。
 そして、由乃が絡んだせいで、志摩子誘拐の歯車が思いっきり狂った。

「いっつ……」

 倒れていた“鬼人”が頭を振って立ち上がる。
 呻くような声が聞こえた瞬間、由乃は反射的に動き出していた。予備動作どころか視線さえ向けない見事な逃走アクションだった。
 しかし、周囲は二十を超える精鋭に囲まれていた。
 窓を割って脱出しようと身を丸めて飛ぶ由乃を、誰かが空中で襟首を掴み、誰かが飛び上がって廊下へと蹴り落した。由乃はギリギリでガードし着地にも成功したものの、更に誰かが背後から両肩を掴み、力任せに両膝を折らせて跪かせた。

(くそ……数が多すぎる)

 由乃に落ち度はなかった。由乃自身も、己の最大レベルで動けた。たとえ精鋭に囲まれていたとしても、この窮地から一歩外に飛び出すくらいなら充分可能な動きをやってのけたと自負している。
 ただし、伊達に精鋭が出張っているわけではない。
 最初から由乃の逃走の可能性は、多くの者が念頭に置いていたのだ。なぜならここで由乃を逃がしたら、反乱分子にとっては最悪のケースとなるからだ。
 ――聖と白薔薇勢力の仲違いは、まだ外部に漏れるわけにはいかない。絶対に。
 急な勢力解散の合図に、総統“九頭竜”が掲げた次期白薔薇の旗。反乱分子さえ混乱し、分裂を起こしつつある勢力では、紅薔薇・黄薔薇という巨大な岩に対抗できない。きっと一瞬で潰されてしまう。
 ここで由乃を逃がせば、「白薔薇勢力による志摩子の誘拐」という事実が外に漏れることになる。それも相手は黄薔薇幹部である。紅薔薇はともかく、黄薔薇には確実に伝わってしまうだろう。
 だから、である。

「……目を覚ますの、早すぎませんか?」

 跪く由乃の前に、ちょっぴり額を火傷して赤くなっている“鬼人”が立つ。“鬼の金棒”をぶら下げて。
 ――“鬼人”の取れる選択肢は二つである。
 しばらく口を聞けない程度に由乃を痛めつけておくか、志摩子と一緒に連れて行くか、だ。
 もちろん、後者の手を取れば「黄薔薇幹部を誘拐する」という、問答無用で黄薔薇勢力にケンカを売る行為となる。いずれ黄薔薇も黄薔薇勢力も相手をすることになるが、今だけはどう考えても間が悪すぎる。
 この島津由乃自身も油断できない曲者と判断するからこそ、

「恨みはない。……とは言わないけれど、運が悪かったと諦めて」

 二つの選択肢の内、“鬼人”は前者を取った。――この曲者を連れて行くことにも抵抗があるからだ。このトラブルメーカーが自分達の計画の邪魔をする楔になるかもしれない……というよりすでになってしまっている。これ以上関わらせるわけにはいかない。
 やられた恨みは、まあ、あるが。後輩の前で無様に床を舐めさせられたのだ、悔しくないはずがない。だがこの選択に私情を挟んでいるつもりはない。
 冷徹な眼差しで見下ろす“鬼人”を前に、跪く由乃は、やはり不敵に笑った。

「御託はいいから早くやれば?」

 気負いも苦渋も、恐怖も空元気もない、この状況でありながら闘気みなぎる瞳。“鬼人”も、周囲の精鋭も、寒気を感じた。
 ――この先、薔薇となる由乃の姿を垣間見たような気がしたから。周囲を圧倒的戦力で囲まれて情けない言い訳一つ放り込んで逃げようとした人物とは思えないような器の大きさを感じさせた。
 しかしだからこそ、“鬼人”は迷うことなく“金棒”を振り上げ、力の限りまっすぐ振り下ろした。

 そして、由乃も動く。

 両膝を、床をこすって大きく開き、わずかに身を沈ませることで肩の拘束を少しだけ外す。捻出した小さな余裕で思いっきり上半身を後ろに倒し、床に倒れこむようにして拘束から抜け出した。
 「あっ」と声を上げたのは両肩を掴んで押さえつけていた者だ。驚かないはずがない。この状況にしてこの期に及んでまだ抵抗するという予想外の諦めの悪い動きを、誰も予想しきれていなかった。
 が、焦ったところでもう遅い。
 由乃は更に動いている。
 身を捻り、飛び、まるで踊るように床すれすれで横に回転し遠心力を稼ぎ――真下から天に突き上げるような蹴りを放った。両手を床につくことで安定したそれは、寸分違わぬポイントを狙う。
 狙いは“鬼人”――ではない。
“鬼人”が振り下ろす“金棒”だ。
 由乃の基礎能力では、どれだけがんばっても肉弾戦で致命傷を与えられないことは、さっきわかった。だから“金棒”の軌道を変え直撃を避ける手に出た。
 ――だが、ここで全ての者が裏切られた。

  ドン!

 ものすごい衝撃音に、床板の割れる音が重なる。
“鬼人”も、由乃も、周囲の精鋭さえ目を剥く。

 二人の間に、志摩子が割り込んでいた。

 右手で“金棒”を受け止め、左手で易々と由乃の蹴りを掴んでいた。“金棒”の威力と重みで両足が床板を踏み抜いているものの、腕が震えているが膝は震えることなく堂々と立っている。

「……」

 志摩子は無言のまま、不機嫌そうな顔で“鬼人”と由乃を見た後、手を離した。

「止めるなんて珍しいわね」

 由乃が立ち上がる――興が殺がれたとでも言いたげに志摩子を睨みながら。
 いや、実際殺がれたのだ。由乃にとっては。
 上履きの底を捕まれた時に、潰れた右手を“治癒”されてしまった。同じく“鬼人”も額の火傷がすっかり“治って”いる。

「いつもなら傍観してるだけのくせに」
「……」

 志摩子は何も言わず、由乃を見ていた。

 「どうせあのまま続けてても負けてたじゃない。せっかく止めてあげたのにどうして睨むのかしら。あーあ、これだから力の弱い人は。恨みがましい」

 ――なんてことでも考えているんだろうな、と由乃は思い、勝手に怒りの炎に油を注ぐのだ。
 実は、あながち間違ってもいないが。
 志摩子は、理由はどうあれ自分を助けるために動いた由乃が、これ以上傷つくのを見ていられなかったのだ。由乃が勝とうが負けようが、この誘拐に無駄な時間が費やされるのであれば、それは歓迎するべきだということは、志摩子にもわかったのに。
 だが、できなかった。
 たとえそれが、結果的に聖の首を絞めることになろうとも。
 割り込まずにはいられなかった。
 ――どうあれ、立場上志摩子と由乃は敵同士である。気遣うような台詞……何かと誤解を生む言動は慎まないと方々に不都合が生じる。本音など言えるわけがない。
 何より気恥ずかしいし。

「……」

“金棒”を消した“鬼人”が小さく頷いて見せた。そして周囲の者達が動き出す。

「お」

 間の抜けた声を漏らして由乃が消えた。――これ以上時間を使うわけにはいかないと判断した“鬼人”が強行手段に打って出たのだ。
 即ち、島津由乃も一緒に連れて行く、と。
 意味を察した精鋭の一人が“瞬間移動”で由乃と移動した。

「できれば使いたくなかったけど。でもこれなら最初からそうしておけばよかった」

 最初から志摩子を“瞬間移動”で連れ去っていれば、由乃も絡んでこなかったのに。精鋭で囲むなどという「白薔薇勢力に異常あり」なんて姿をさらす必要もなかったのに。
 しかし、わざと志摩子を連れて行くところを見せて、周囲に何の異常もないことを主張しておくのは、必要なことだった。紅薔薇・黄薔薇へのアピールも兼ねて。
 ――どっちにしろ、もう今更だが。


 こうして志摩子は誘拐された。ついでに由乃も。




「もしかして、なんかすごい大変なことになってるの?」

 いまいち状況のわかっていない祐巳は、のんびり言う。
 志摩子はどう答えていいのか思いっきり悩み、チラッと由乃を見た。
 由乃は少し考えて、言った。

「私もよくわかんないけど、とにかく祐巳さんは関係ないから安心していいわ」

 志摩子の視線の意味は、ちゃんと読み取れた。
 この手のことに経験豊富な由乃は、重要な情報の全てを隠した。――言ったところで祐巳を怖がらせたり心配させたりするだけだ。
 白薔薇関係、ひいては志摩子関係での誘拐だということも隠したのは、別に志摩子のためではない。その事実さえ祐巳の心労のタネになると判断したからだ。

「うん、まあ、心配はしてないんだけどね」

 何でも祐巳は、言うに事欠いて「佐藤聖の命令で一時的に保護する。すぐに志摩子も連れて来るから」と説明されたそうだ。本当はその逆で、これは佐藤聖を狩るための策略なのに。
 祐巳は山百合会を信じている。
 だから佐藤聖の名前が出た時点で、疑いどころかほんの少しの心配さえしていなかった。
 ――そんな心情が祐巳の表情から、いとも簡単に読み取れてしまった志摩子と由乃は、なんとも居心地が悪くなった。
 ここに山百合会――リリアン最強の組織と呼ばれる存在が、二人もいるのに。
 なのにまんまと誘拐され、しかも、あろうことか無関係にして力なき者まで巻き込んでしまっている。
 失態以外の何者でもない。

(……状況もわかんないけど、志摩子さんの出方もわかんないなぁ)

 由乃は思考を巡らせる。

(うちのでこちんも、どう手を打つんだか)

 これでも由乃は幹部である。有事の際にはすぐにでも連絡が取れるように、黄薔薇勢力の各幹部には常に伝令要員が張り付くことになっている。確証はないが恐らく紅薔薇も同じ構成のはずだ。

「由乃さん、それほどこうか?」
「え? あ、いや、いい。このままで」
「いいの?」
「好きなのよね、由乃さんは。縛られるのが」
「ああ……」
「志摩子さん、嘘吹き込まないで。というかなぜ祐巳さんは納得してるの?」

 由乃の追求に、祐巳は曖昧に微笑んだ。志摩子はやはり無視だ。
 ――つまり、由乃が誘拐されたことは、今頃は黄薔薇・鳥居江利子や蕾の支倉令の耳に入っているということだ。
 ただ、状況が状況である。
 ただの誘拐ならすぐに救助が来るだろうが、白薔薇の内輪揉めに巻き込まれた形である現在、横槍を入れるよりは静観していた方がメリットは大きい。何せ由乃はついでのように誘拐されたのだ、まず危険は極めて低いと考えられる。

(それに)

 ついでだろうが何だろうが、容易に誘拐なんてされてしまうマヌケな幹部なんて、助けるに値しない。由乃が江利子の立場なら、灸を据える意味も込めて、簡単に救助なんてしない。状況次第では平気で見捨てるくらいする。
 ――というのは当然なので、これはすでに「容易に誘拐されたわけではない」という状況になる。もはや由乃は駆け出しではない。そう簡単に敗北もしない。それくらいには江利子も考えてくれるだろう。きっと。

(不透明な部分の推測と、私の誘拐と、メインである志摩子さんの誘拐、白薔薇勢力の不穏な動き、そして――)

 そして、今、お聖堂で闘っている佐藤聖の存在。

(……というか、私の意志も関係あるんだろうなぁ)

 要は、志摩子を助けるのかどうか、だ。
 立場的に助けるのはNGだ。今この状況の志摩子を助けるのは、細々した問題行動なんかとは桁違いの大問題である。黄薔薇幹部失格と言えるくらいに。
 佐藤聖を潰すチャンスである。ならばそれを見守るべきだ。事情がよくわからなかったさっきとはもう状況が違う。
 しかし、由乃の心境は複雑だ。

(こんな形で薔薇が手折られるのはどうなんだろう)

 いつか正面から一対一で越えてやろうと思っている相手が、それ以外の何かでやられるなんて、悔しいものがある。分不相応だが自分以外に負けるな、とも思う。
 だが、弱みに付け込むのも、裏切りも、リリアンでは常套手段だ。
 誘拐だって普通によくあることだ。
 祐巳を巻き込んだのは反則で腹が立つしこの件に関しては後で必ずケジメを取るつもりだが、顔を覚えている一人一人を潰して回ろうと思っているが、この状況は特に問題ない。強いて問題があるとすれば、由乃がここにいることくらいか。
 由乃も一緒に連れてきたということは、長く拘束する気はない、ということだ。由乃の誘拐は黄薔薇勢力に真正面からケンカを売る行為だ。白薔薇勢力がこの先どんな進展を描いているかはわからないが、まさか今すぐ黄薔薇勢力と事を構えはしないだろう。
 速やかに用事を済ませる――この場合は「佐藤聖を狩る」を達成すれば、祐巳と由乃は開放される。恐らく志摩子も。
 由乃は、動かなければいいのだ。
 きっとこの後10分ほどで、成否は分かたれ誘拐事件も存在しなくなる。

(私が動くかどうかで、白薔薇が立っているか倒れているか決まるのか)

 そう考えると、あながち志摩子が言った「縛られるのが好き」という言葉が否定できなくなってくる。
 このまま縛られていれば、由乃の動けない理由になる。
 この誘拐事件の行く末を静観する理由になる。
 聖も志摩子も、由乃が助ける必要も理由もない。
 動くか、動かないか。
 思いがけずとてつもない二択を迫られ、由乃は結論を出した。

(志摩子さん次第、だな)

 由乃が関わりここにいる理由である、藤堂志摩子。
 当然ここまでの流れと状況は、由乃より理解しているはず。
 このまま動かなければどうなるかも、わからないはずがない。

(志摩子さんがどう動くかで、私がどう動くかも決める)

 それが由乃が出した結論だった。


 だが藤堂志摩子は、未だに、この状況を抜け出す策を見出せずにいる。




 その頃、体育館の外では。
 密かに志摩子達を追いかけている者の足が止まっていた。

(あそこか)

 さりげなく木の陰に隠れているのは、“九頭竜”に護衛を頼まれた“竜胆”である。
 ――お聖堂から一年桃組に向かう途中で、廊下の先に、とっても強そうなお姉さま方に囲まれつつあった志摩子と由乃を見て、様子を見つつ付いて来たのだ。“瞬間移動”の有効範囲は狭いので、ちゃんと流れを見ていれば追跡くらいはできる。特に上下の“階”越えではなく“外へ移動した”から追いかけるのは楽だった。
 下手に突っ込まなかったのは、我ながら上策だった。……まあ怖かっただけだが。
“竜胆”は知らないが、相手は白薔薇勢力の精鋭達だ。行けばあっと言う間に叩き潰されていただろう――時間がない彼女達にとっては、山百合会関係にない者など瞬殺対象か無関係かのどちらかでしかない。

(……さて、どうするか)

 体育館周辺には、見張りとしか思えないようなおっかないお姉さま方が殺伐とした雰囲気でうろうろしている。不用意に近付いたら問答無用で襲われそうだ。

(とりあえず、もう少し――)

 近付いてみるか、と、“竜胆”は走り出す。幸い体育館周辺には身を隠すにはもってこいの植え込みや木々がある。近付きすぎなければ見つからないだろう。
 狙いを定めていた植え込みに飛び込み――

「うわっ」
「うおっ」

 まさかの先客である。そこにいた誰かにぶつかりそうになり、お互い腰が抜けそうになるほど驚いた。
 たっぷり5秒ほど見つめあったあと、ゆっくりと口を開く。

「だ、誰ですか……?」

 なぜか“竜胆”は敬語で問い、メガネがズレた相手も敬語で答えた。

「しゃ、写真部のエースですけど……」

 写真部のエース。
“竜胆”も聞いたことがある有名人だ。
 確か、確か名前は――

「武嶋蔦子さん」
「そう、蔦子さ……ん……?」

 ありえないところからの声に、“竜胆”は視線を上げた。

「そっちは……見覚えないわね?」
「私知ってる。噂の“重力空間使い”よ」
「あ、これが」

 そこには、恐ろしい顔のお姉さま方総勢十数名が、植え込みの上から横から斜めから二人を覗き込んでいた。

「変なのが付けてきてると思えば、意外な組み合わせだわ」




 二人は互いを指差し言った。

「「彼女とは無関係です。私は全然あやしくないただの通りすがりです」」

 言った“竜胆”と蔦子でさえ嘘臭いと思ったし、当然信じてもらえなかった。


 こうして人質は二人追加される。

















一つ戻る   一つ進む