『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
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どうしてそんな話になっているのか。昨日の静先輩の話では――乃梨子は思い出して冷静になれた。
「あのっ!」
乃梨子は大声で呼びかけてからこう言った。
「ごめんなさい。私は昨日薔薇の館にお姉さまと一緒に仕事をしていたからわからないの」
「乃梨子さんは『瞳子』だなんて呼ぶ間柄だだからかばってらっしゃるの? 最近、瞳子さんは紅薔薇さまと――」
別のクラスメイトが乃梨子に突っかかる。彼女は祐巳さまの信奉者だったっけ。それを遮って乃梨子は言った。
「かばってるわけじゃなくて本当に私は何も知らないの。知りたかったらご本人に聞いて」
失礼、と言って教室に戻った。乃梨子を取り囲んだ集団は面白くなさそうにこちらを見ているが、この件に関して「白薔薇のつぼみが言っていた」なんて噂を流されることはないだろう。
ほっと一息ついていると、瞳子が教室に入ってきた。
「ごきげんよう、皆さま」
天使のような無邪気な笑顔で瞳子は挨拶している。
自分が噂の対象になっていて、どんな言われ方をしているのか知っているのか。知っていてああいう顔をしているのならさすが演劇部というところだ。
「ごきげんよう、乃梨子さん。朝から情熱的に私のことを見つめてるけど、お姉さまに知られたら嫉妬されるんじゃない?」
「ごきげんよう。何言ってるんだか」
瞳子は笑っている。昨日の様子じゃ問い詰めたところでも口を割らないだろう。そもそもこちらに口を割らせるだけの材料もないが。
と、ここで乃梨子は気付いた。
(どうして私、こんなことを気にしてるんだろう)
これが朝の話。
「変な噂が流れてるようですけど、祐巳さんは祥子さまとはすれ違っただけだって言ってました。瞳子ちゃんは関係ないって」
昼休みの薔薇の館。
噂の真相というように由乃さまが説明してくれた。
昨日の放課後の由乃さまの様子と今日の噂が気になったらしく、静先輩もきている。
「ロザリオは?」
「逃げたって言ってたから、まだ持ってるはず」
黄薔薇さまに聞かれて由乃さまはそう答えた。
「それで、祐巳ちゃんはどうしてるの?」
静先輩が聞く。
「しばらく、薔薇の館にはこないみたいです。無理に誘わないって約束したから、祐巳さんが自発的に出てくるまでは来ないでしょう」
難しいという顔をして由乃さまは答えた。
「弱ったわね。紅薔薇さまは当分欠席するみたいだし、祐巳ちゃんも来ないとなると……」
「剣道部と合唱部のスケジュールが合わないと、放課後は乃梨子ちゃんだけになっちゃうかも」
三人の視線が乃梨子に集中し、のどが詰まりそうになってお茶を飲んだ。
「あ、あの?」
じっと静先輩が乃梨子のことを見ている。
「乃梨子、あなたにお願いしてもいいかしら?」
ひと月ほどの働きぶりを見て静先輩はそう決断したようだ。
「どうしてもって時は無理しないでできる範囲で。全部無理して一人で片付けようだなんて思わなくていいのよ」
乃梨子の返事を待たずに静先輩は決めてしまったようだ。
「はあ」
「なるべくスケジュールがぶつからないようにやってみよう。乃梨子ちゃん、薔薇さまでなくてはいけないときは遠慮なく音楽室か武道館に来てね」
「はい」
黄薔薇さまの言葉に乃梨子はうなずいてしまった。つまり、厄介な仕事を一人で引き受けてしまったのだ。
(あ……)
気づいた時は完全に遅かったが、今さら断っても静先輩に皮肉を言われて押し切られるだけだろうからと黙った。
「今日のスケジュールは――」
四人でカレンダーを見ると、早速合唱部と剣道部の活動日になっていた。
(うわ。今日からいきなり一人……)
ちょっと憂鬱になりながら教室に戻ると、噂好きのクラスメイトたちが騒いでいた。
「瞳子さんがミルクホールで祐巳さまを平手打ちしたって噂、聞いた?」
……瞳子、いったい何を?
噂が流れているのを知っているのか瞳子は巧みに乃梨子とは接触してこない。
そのうちに掃除の時間になって、乃梨子が別の掃除区域にいっている間に瞳子は部活に行ってしまった。
乃梨子は誰も来ない薔薇の館で指示された仕事を始める。一人の時間はまったりと過ぎていき意外とはかどらない。早く終わったら帰っていいと言われていたのに下校時間ぎりぎりになってしまった。
(……これでいいのかな?)
ようやく初めての一人での薔薇の館の放課後が終わった。
静先輩と黄薔薇さまはスケジュールを調整したようだったが、放課後に来られるのは三十分ぐらいだったり、乃梨子に指示を出していなくなる日も多かった。その分朝と昼休みに仕事をこなすことになった。
「環境整備委員会です。薔薇さまに連絡してほしいのですが――」
「放送部です。薔薇さまにお願いが――」
「保健委員会です。薔薇さまはいらっしゃいませんか?」
放課後。
薔薇さまを指定してこられてかつ急ぎの用事だと乃梨子は客人を待たせて音楽室か武道館に走ることになる。
二人とも部活を抜けて薔薇の館に来てくれるが、大抵の用事はすぐに済み、待ってもらっている間の方が長かったりする。
「じゃあ、後はお願い」
必ずそう声をかけて、二人は急いで戻っていく。
(お願いって言われても)
つぼみだなんてちやほやされても山百合会の正式な役員は薔薇さま方三人。
乃梨子はお手伝いでしかなく、客人の伝言を伝えるか、二人を呼びに行くか、いわれた仕事をするかぐらいしかできない。
また一人になって仕事を再開するがなかなか進まない。
(あ〜あ)
せめて二人なら何とか乗り切れたかもしれないのに。
夕方だというのに眠気覚ましのコーヒーを飲み留守番を続けている。集中力は途切れがちになり睡魔に負けそうになり、時には一人取り残されたような気になる。
大したことはやっていないはずなのに疲労困憊していた。帰ってからぐったりと机に突っ伏す。
「若いのに。サラリーマンの親父みたいじゃないか」
クスリ、と菫子さんが笑っているが言い返せないほど疲れていた。
「何か肉体労働でも?」
ぶんぶん、と首を横に振る。
「じゃあ、頭脳労働?」
同じく首を横に振る。
「そりゃあ、疲れるだろうね」
「……どうしてわかるの?」
菫子さんが当てたことに乃梨子は驚いた。
「肉体でも頭脳でもないって事は精神的な疲れだろう。それが一番疲れるのさ。次の休みは仏像でも見にいったらどうだい?」
「……ちょっと、休みたい」
そう乃梨子が答えると、菫子さんは困ったもんだ、というように肩をすくめた。
「まあ、いいさ。ただ、疲れてるなら早めにお姉さまに言って休ませてもらいな。あとあとえらい目に遭うよ」
乃梨子は聞き流してしまったが、菫子さんには十分な経験があってそれを踏まえて親切に忠告してくれたのだ。
あとあと本当にえらい目に遭うとわかっていたら、翌日は休んでいたかもしれない。
どうして自分は親切な忠告を素直に聞けないのか。と悔やむのはいつも後になるのだった。
「なんだか、お疲れのようね」
登校してきて銀杏並木のところで蔦子さまに出会った。
「別に。気のせいです――」
「無理しちゃってるんじゃないの?」
適当に流して通り過ぎようとしたのに、蔦子さまは乃梨子についてきた。
「無理なんてしてませんけど」
「これ」
蔦子さまが出してきたのは一枚の写真だった。
それは山百合会の仕事をするようになってまもなくの頃の乃梨子の写真だったのだが、二年生のお二人を追いかけて元気いっぱいに仕事をしている乃梨子が写っていた。これはほんの二週間前ではなかっただろうか。
「それ、あげる。あと、これからも乃梨子ちゃんのことは隠し撮りするからそのモデル料の代わりにぶちまけたいことがあるなら聞いてあげるよ。私、個人のプライバシーは絶対に守るから安心して」
隠し撮りするような人なんて信用できませんって。
「結構です」
「……それは、自由に隠し撮りしてもいいっていうこと?」
「どうして都合のいい方に話を持っていくんですか。隠し撮りはやめてくださいって事です」
「でも、他の生徒を隠し撮りしていたら写り込んじゃったりするかも」
「やめる気はないんですね」
「あたり」
蔦子さまは笑っているが、乃梨子は「不愉快です」というようにため息をついた後ダッシュした。
三奈子さまと違って手を掴まれることはなかったが、薔薇の館につく頃にはマラソンでもしたような気分になっていた。
(朝から疲れた……)
授業中も何だか身体が重い気がする。
昼休みにはまた薔薇の館に向かう。
「ごめん。今日、部内で練習試合があるの忘れてた」
がっかりで残念という顔で黄薔薇さまが詫びてきた。
「由乃さまもですか?」
「うん。試合には参加しないんだけどね」
頭を垂れて由乃さまも謝る。
「仕方ないわね。じゃあ――」
「わかりました。今日も一人で何とかします」
「乃梨子、あなた最近疲れているんじゃないの? 本当に任せて大丈夫なの?」
静先輩が聞いてくる。
「大丈夫です」
「……いいわ。でも、本当に無理しないのよ」
無言で乃梨子はうなずいた。
そして放課後が来て掃除区域に向かっている時のこと。
「あ、白薔薇のつぼみ」
「ごきげんよう」
途中で乃梨子は声をかけられた。
「ちょうどよかった。吹奏楽部なんだけど今度の校外演奏に必要な書類を薔薇の館に出さなきゃいけなかったのよ。これ、薔薇さまにお願いできます?」
「わかりました。お預かりします」
受け取って掃除が終わると一度武道館に向かって、吹奏楽部の書類を黄薔薇さまにどうするべきか尋ねる。
「薔薇の館のわかるところに置いておいて。明日の朝こっちで処理するから」
「はい」
薔薇の館につくと、机の上にクリアファイルに挟んで吹奏楽部の書類を置いた。
それから薔薇の館を掃除して、インスタントコーヒーを入れるといつものように席につき、各委員会から回ってきたプリントを整理したり、細かい表にある数字を書き写したりする。今日は客人も来ない。部屋は明かりをつけているのに外は雨のせいで薄暗い。
頭がぼんやりとしてきた。
いかん、いかん。と立ち上がって軽く体を動かして深呼吸して作業に戻った……。
「……梨子、乃梨子」
気がつくと眠っていたようで、乃梨子は揺り起こされた。
「……ん」
「大丈夫? 具合が悪いの?」
上から降ってきたのは静先輩の声だった。慌てて辺りを見回す。
「ああっ!!」
寝入った時にカップを中身ごとひっくり返してしまっていて、水没(コーヒー没)した書類がコーヒー色に染まっていた。クリアファイルに挟んだ書類はクリアファイルの間に入りこんだコーヒーに浸かってしっとりぶわぶわになっている。
「しょ、書類がっ!!」
頭が真っ白になった。
「あ〜」
静先輩も事情を察して声をあげている。
「これ、何の書類だったの?」
クリアファイルの書類を指して聞いてくる。
「……吹奏楽部のっ、校外演奏に必要な、書類です」
絞り出すように小声でそういうのがやっとだった。
「やっちゃったわね」
「……」
がっくりとうなだれた。こんなひどい失敗は受験の日に大雪に降られて以来だった。
「……」
静先輩は布巾を持ってくるとコーヒーまみれのクリアファイルをそっと抑え始めた。
「わ、私が――」
「いいわ」
慌てて自分がやろうとしたのだが、制されて乃梨子は手を引っ込めた。
黙々と静先輩は作業をするが、クリアファイルの書類は取り出そうとすると破れそうになっている。
どうしよう。これが乃梨子の個人的な書類であれば乃梨子一人の問題ですむが、これは吹奏楽部の書類。大変なことをしでかしてしまったと徐々に恐ろしくなってきた。
「あの、私はどうすれば」
「とりあえずテーブルの上を片づけて」
クリアファイルと格闘しながら静先輩はそういう。
まだ乾ききっていない書類から水分だけを吸い取るように抑えたり乾かしたりするが、ところどころコーヒー色に染まって読みづらくなってしまっている。
カップを片づけて、テーブルクロスを取り替えて、乃梨子はやることがなくなってしまった。
静先輩は乃梨子が片づけている間にどこからかドライヤーを持ってきて書類を乾かし始めた。なんとかはがれてきたが、紙はコーヒー色に染まり判別不能になっている。
沈黙が重い。ドライヤーの音だけが延々と響いている。
「乃梨子」
しばらく経って書類を乾かしている静先輩に名前を呼ばれた。
「はい」
何と罵られても仕方がない、と乃梨子は覚悟して返事をする。
「今日はもう帰っていいわ。それから、明日は薔薇の館に来なくていいから」
「え」
怒鳴り散らされたり、嫌みをたっぷりと言われると思っていたので予想外の言葉に乃梨子は慌てた。
「いいから」
重ねて静先輩が書類を乾かしながら言う。
「……ごきげんよう」
「ごきげんよう……」
なんとか荷物を持って乃梨子はとぼとぼと薔薇の館を出た。昇降口で革靴に履き替えたあたりから涙がこぼれそうになった。
失敗したこともショックだったが、来なくていいと言われたこともショックだった。
強引に妹にされた時は腹も立ったし、反発する気持ちもあった。なのに、いざ来なくていいと言われるとどうしていいかわからないくらいうろたえている自分がいた。
そんな状態でもちゃんと家には帰ってきた。
「お帰り」
自分ではまだまだ頑張れると思ってたのに寝ちゃうだなんて。静先輩は乃梨子の異変に気づいていたから確認してきたのにそれを押し切ったからあんな事に。
その日は落ち込んで泣きたいような気分のまま早くベッドに入ったが、なかなか寝付けなかった。
翌日は土曜日だった。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
挨拶とは裏腹に乃梨子のご機嫌はすこぶるよろしくなかった。昨夜からずっと考えているのだが、静先輩にもう一度謝った方がいいんじゃないのか。無理して寝ちゃってコーヒーをこぼしたのはどう考えても乃梨子が悪い。
しかし、妹にされた経緯を考えると、今が縁を切ってしまえるチャンスではないのだろうかという考えが出てきた。
リリアンは受験の体制が整っていない。何を言われても独りになって勉強にだけ専念するという道もある。例えば可南子さんは入学当初はクラスメイトの親切の押し売り攻撃に遭っていたが、今ではすっかり孤高の人になっている。
そう考えてから、やっぱり謝ろうかとも思う。上下関係の厳しいリリアンで姉に愛想を尽かされて放り出された妹というのはやはり生きづらいし、失敗したところでサヨウナラはやっぱり気分が悪い。
朝拝の時間になった。これで乃梨子は朝イチで静先輩に謝るという選択肢を失った。
授業の間も悶々とする。いつ謝りに行こうか、それとも……。
「乃梨子さん、早く支度をしないと遅れるわよ」
瞳子に声を掛けられて、気がつくと次の授業は理科室で、多くの生徒がいなくなっていた。慌てて教科書やノートを持って乃梨子は理科室に向かう。実験はなんとか間違えずにすませることができたが、その帰り。
「あ」
向こうから静先輩が歩いてきたのだ。手には教科書を持っているから向こうも移動なのだろう。
「ごきげんよう、乃梨子」
「ご、ごきげんよう」
決心のつかないうちにずっと考えていた人にあのことがあってから初めて会ってしまって乃梨子の心臓は飛び上がりそうになった。
「昨日の」
静先輩と乃梨子は同時に同じ言葉を発していた。そして、同時に口をつぐんだ。乃梨子が黙っていると、静先輩は言いなおした。
「昨日のことは気にしないで」
それだけ言って通り過ぎようとする。
「あのっ」
思わず呼び止めてしまったが、乃梨子は積極的に言いたいことがあったわけではない。
「何か?」
立ち止まり、振り向いて静先輩が尋ねる。何かを言わなくてはならないのに言葉が出てこない。
「……何か、言いたいことがあったんじゃないの?」
しばし見つめ合った後、静先輩が聞いてきた。
「どうして何も言わないんですか」
それは静先輩の質問の言い方を変えただけで、乃梨子が言いたいことではなかった。
「何もって、何を?」
当然そう聞いてくる。書類のこととか、来なくていいと言ったこととか、いろいろ聞きたいことはあったが、乃梨子が発した言葉は違っていた。
「どうして私にロザリオを渡したんですか?」
なんでこんな事を今聞いているのか自分でもよくわからなかったが、全てがこのことに起因しているのは間違いなかった。
「……今更聞かれるとは思わなかったけど、いいわ。乃梨子、あなたには私のロザリオが必要だと思ったからよ」
大真面目な顔で静先輩は乃梨子の目を見てそう言った。
「どうして? 私が暇だってわかったから? 暇だったら妹にさえしてしまえば自分が部活で忙しい間にいくらでも仕事をしてくれるとでも?」
「そんな風に思ったことはないわ。あなたは私の可愛い妹なのよ。雑用させるのが目的でロザリオを渡すわけないじゃない」
乃梨子が早口にまくし立てると、静先輩は少し強めにそう言った。
「仮に、そうだとしても――」
「仮にも何も本心よ」
「じゃあっ、どうして薔薇の館に来るなって。使えない妹はお払い箱って事じゃないんですか」
「そんなことを考えていたの、あなた。全然わかってなかったのね」
「わかりませんよっ!」
乃梨子は叫ぶように答えた。
「わからないなら、じゃあ、どうして何も聞かなかったの?」
静先輩はその名の通り静かに乃梨子を見つめたままそう切り返した。乃梨子は思わず目をそらした。
「授業が始まるから行くわ。薔薇の館には頭が冷えるまで来なくて結構よ」
くるりと背を向け、静先輩は振り向くことなく立ち去った。それを乃梨子はただ見送った。
「あら、あなた。もう授業が始まる時間よ。早く教室に戻りなさい」
通りかかった先生が乃梨子を注意したので慌てて教室に戻った。ほんの少し担当の先生より遅れてしまったので注意されてしまったが、乃梨子にとってはそんなことはどうでもよかった。
あっという間に放課後が来て、掃除が終わったらさっさと帰ることにした。
「あ、乃梨子ちゃん。ちょっといいかな」
そう思っていた時に限って昇降口を出たあたりで黄薔薇さまと会ってしまった。黄薔薇さまは乃梨子と静先輩のことなど知らないとでもいうように微笑んでいる。
「すみませんでしたっ!」
深々と頭を下げて、身体を戻すと黄薔薇さまはきょとんとした顔で乃梨子を見ていた。
「どうしたの?」
本当に黄薔薇さまは知らなかったみたいだが、もう何でもないとは言えない。
「ええと……昨日私がコーヒーの入ったカップをひっくり返して駄目にしてしまった書類の話は……ご存知ないのですか?」
ああ、と黄薔薇さまは納得したように言った。
「あれは吹奏楽部に原本があって提出してもらったのはコピーの方なの。事情を話してもう一回コピーをもらったから大丈夫」
あっ、あんなに落ち込んだのにぃーっ! 悩んだのにぃーっ!!
別の意味で頭が真っ白になった。
「そ、そうだったんですか……」
気が抜けて尻餅をつきそうな乃梨子を黄薔薇さまは笑って支えてくれた。
「じゃあ、本題に入っていいかな?」
「本題?」
「乃梨子ちゃんが疲れてきてるみたいだったから少し休ませてあげようって話。今日はお休みにして、来週も私たちが行けそうな日は休んでもいいって白薔薇さまから聞いてない?」
「そ、そういう意味だったんですか?」
飛び上がるぐらいに乃梨子は驚いて聞き返した。
「どういう意味だと思ったの?」
「ですから、その……コーヒーで書類を駄目にしたから謹慎してろとか、そういう意味かと」
黄薔薇さまはそれを聞いてぎょっとした顔になって聞いてきた。
「あの程度でそんなにひどく叱られたの?」
昨日からの悩みが「あの程度」……って。第三者から見たらそんなに馬鹿馬鹿しいことを引きずっていたというのだろうか。
「いいえ、叱られませんでした。今日、偶然会って話をしたら始めは気にしなくていいって言われたんですが、いろいろ話してるうちに『頭が冷えるまで来なくていい』って」
そう乃梨子が言うと黄薔薇さまは何かに思い当ったような顔をした。
「そういうこと」
「別に喧嘩したわけでは――」
「わかってる。乃梨子ちゃんも必死だろうけど白薔薇さまもまだ余裕がないからね」
「余裕が、ない?」
「お姉さまがいないで選挙で山百合会に入った白薔薇さまと、外部入学の乃梨子ちゃんの組み合わせでしょう。想像するだけで大変そうだよね。二人ともよくやってるよ」
初めて姉妹を持ったのは乃梨子だけじゃなくて静先輩もだった。それは知識としては知っていたがそのことについて考えたことはなかった。
「そう見えますか」
「うん。昨日も部活のはずなのに薔薇の館にいたでしょう。乃梨子ちゃんが心配だから切り上げたんだろうね」
昨日は書類のことで一杯でそこまで頭が回らなかったが、そういえば合唱部の日だった。
「そんなに私のことが不安なんでしょうか」
「そうじゃなくて。乃梨子ちゃんは知らないかもしれないけど、白薔薇さまって中等部までは歌一筋で委員会はやってなかったし、部活の方を優先してクラスの仕事は全部辞退したりしてたんだよ。高等部に進学しないで声楽の学校に行くって噂も流れたことがあったっけ。今は進学して図書委員や山百合会の仕事もやってるけど将来はやっぱりプロになるらしいし。だから、山百合会と合唱部なら迷わず合唱部を選んで当然でしょ? それが切り上げちゃうだなんて。そんなことをさせちゃうのは乃梨子ちゃんしかいないの」
今まで好きなことだけしてきた静先輩。
好きなことだけをすると宣言した乃梨子。
それはどこか似ているようにも思える。
「何があったか知らないけど、お互いに逃げないで正面からぶつかって行けるなら心配する事なんてないね。それに蟹名静には二条乃梨子が必要なんだし」
乃梨子は言葉を失っていた。
今までまともに静先輩とぶつかった事なんてなかった。
卒業までの付き合いだからと静先輩と向き合って真剣にいろいろと考えてこなかった。それを逃げというのであれば乃梨子は静先輩から逃げていた。
向こうは乃梨子の面倒を見ようと両手を広げて待っていてくれていたのに、乃梨子はその手を無視していた。だから静先輩の言葉の意味を勝手に解釈して見当違いのことを言って、結果、頭を冷やせなんて言われてしまったのだ。
「ま。今日ぐらいは休むのが今の乃梨子ちゃんの仕事だと思って早く帰ってゆっくりして」
マリア像の前まで黄薔薇さまに連れていかれてしまった。お祈りを済ませ乃梨子が銀杏並木の方に歩きだすのを見届けると黄薔薇さまは薔薇の館の方に歩いていった。
とにかく帰って休んで、それから週明けには謝ろう。乃梨子はそう決めた。
月曜の朝、乃梨子は早く登校し、真っすぐ薔薇の館に向かった。
階段を上っていって扉を開けると静先輩がもう来ていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう――」
乃梨子が謝罪の言葉を口にする前に静先輩は乃梨子に段ボール箱を持たせた。
「な、何ですか?」
「ソフト部に差し入れに行くのよ。早くしないと試合に行ってしまうから、急いで」
静先輩はそういうとさっさと薔薇の館を出ていく。
慌てて箱を持ったまま追いかける。
ちょっと離されたが、駐車場のところでソフト部の顧問と静先輩が話をしているのに追いついた。
「これ、山百合会からの差し入れです」
「いつもありがとう」
車に差し入れの箱を乗せると先生は走り去った。
出鼻を挫かれた格好になったが、乃梨子は改めて謝ろうとした時、静先輩はファイルを乃梨子に手渡した。
「今日の昼休みに使うからコピーしてきて。私はクラブハウスに寄ってから戻るわ」
そういうと小走りでいなくなってしまった。
乃梨子は急いで仕事を終えて薔薇の館に戻る。
「昼休みに会議の事前打ち合わせがあるからそれまでにそれを綴じて」
ステープラーを渡された。
「あの」
「左上一か所」
「そうじゃなくてっ、ごめんなさいっ!!」
乃梨子は叫びながら体を九十度に折り曲げた。
静先輩は黙っていた。
「先週末のことも書類のことも色々突っかかったこともとにかく今までの色々を許してください。お姉さま」
一気に乃梨子は言った。
いつまでも頭をあげない乃梨子の肩に静先輩の手が触れた。
「その体勢じゃ辛いでしょう。とにかく、頭をあげなさい。それとも顔を見ないで話をしたいの?」
頭をあげて静先輩の顔を見るとちょっと呆れたような表情で乃梨子を見つめていた。
「あ、あの?」
「許すも何も。あなたがあなたの中で結論を出してこうしないとって決めてきたんでしょう。だったら、受け入れるしかないじゃないの」
「そ、そんな押しつけがましいつもりじゃなかったんですけど」
「案外手がかかる妹よね。それとも、妹ってこんなものなのかしら?」
静先輩は四方八方から乃梨子の顔を眺めた。
「何ですか? いつも見てるだけじゃ足りませんか?」
「おまけに意外と寂しがり屋さんだし」
「私はそんなこと――」
急に白いものが目の前にあった。
それが静先輩のセーラーカラーで、なぜこの距離にあるのかというと、抱きしめられているからという結論に達するまでに時間を要した。
「な、何を!?」
「可愛い妹だって言っただけだったら信じてくれなかったじゃない。こうやったら可愛がってるって、少しは信じるかと思って」
ギュッと強く抱きしめられて、ドキドキしてきた。女性同士なのに。いや、女性同士だから?
「ごきげん――キャッ!」
「あらら、朝からお熱いこと。お邪魔だったかしら」
背後の声は黄薔薇姉妹だ。慌てて乃梨子は腕を振りほどいた。
静先輩は笑っている。顔が紅潮してくるのがわかる。乃梨子は気付かなかったが静先輩は黄薔薇姉妹が来るのに気づいてやったらしい。
「お、お姉さまっ!?」
「いいじゃないの。これくらい」
黄薔薇姉妹はニヤニヤしている。
うう、朝からこんな目にあうなんて……くっ。お姉さまってこんなものなの?
ところでこの日、もう一つ薔薇の館で動きがあった。それは放課後のことだった。
「ごきげんよう」
祐巳さまが薔薇の館にやってきたのだ。
「今まで来られなくてごめんなさい。私は今までお姉さまのことばかり考えていたけどそれは間違ってたってことに気がついて、そうしたら無性に何かしたくなってここに来ました。虫のいい話かもしれませんが、お仕事をさせてください」
静先輩に向かって祐巳さまは頭を下げた。
「あなたは紅薔薇のつぼみなのでしょう? お仕事はいっぱいあるんだから、悪いと思っているなら早く手伝ってほしいわ」
今朝の乃梨子もこんな感じだったのだろうか。紅薔薇さまは欠席していると聞くが祐巳さまは何だかすっきりとした表情になっていた。
「はい」
元気よく返事をして祐巳さまは静先輩の指示で仕事を始める。
「いっぱいありますね。お手伝いが必要なくらいですね」
「そんなことを考える前に自分が妹を作ろうって発想はないの、祐巳ちゃん」
「うわ。言われちゃった」
肩をすくめて祐巳さまは苦笑いしている。
「急に妹だなんて言われても……あ。妹にするかどうかは別にして私専属の助っ人を連れてくるっていうのは駄目ですか?」
「駄目とは言わないけど、黄薔薇さまにも許可を取った上で連れて来て頂戴」
「はい!」
その時、祐巳さまが誰を思い浮かべていたのか乃梨子は知らなかった。
その人物が誰かを知ったのは二日後の昼休みだった。
「私がスカウトしてきた助っ人の一年椿組松平瞳子ちゃんです」
目が点になった。
この二人、今や高等部中の人間が知る噂話では紅薔薇さまを取り合う正妻と愛人のような関係だとされているのだ。
教室を出る時、瞳子がどこかへ行くのを見かけたが、ミルクホールによく飲み物を買いに行くので今日もそうだと思っていたから驚いた。
祐巳さまの親友の由乃さまでさえ真意を測りかねたような表情でいるし、黄薔薇さまも困惑気味。静先輩は面白いことになったというように微笑んでいる。
昼休みと部活のない日、瞳子は薔薇の館にやってきて祐巳さまの横で仕事をしていくようになった。乃梨子は立場的にはつぼみだが、学年が下ということもあるし、祐巳さま専属ということであまり関わらないようにしていた。
「あの松平瞳子が紅薔薇のつぼみと一緒に薔薇の館に行ってるって本当?」
「本当は仲が良かったのかしら?」
「もう、あの噂はなんだったの?」
「松平瞳子って、紅薔薇のつぼみの座を狙った松平瞳子でしょう? 紅薔薇のつぼみの妹になれば紅薔薇さまに可愛がってもらえるからじゃないの?」
「そういうこと? 紅薔薇のつぼみはそれをお許しになるのかしら?」
紅薔薇のつぼみと瞳子を巡る噂がまた流れている。
本人たち、というより祐巳さまはそういうことに無頓着なのか全く気にしないで瞳子を妹のように連れ回して仕事をするものだから尾ひれがついて前の噂とミックスしているから何だかよくわからない話になっていた。
この状態、いつまで続くんだ。そう思っていた土曜日の放課後。
『高等部二年松組福沢祐巳さん。至急職員室まで来てください』
掃除が終わって帰る頃全校放送が流れた。
自分は福沢祐巳ではなかったが、よく知っている名前だったので、「何事か」と思って乃梨子は職員室に向かった。
「あ、ごめんなさい」
乃梨子は勢い余って一人の女性とぶつかりそうになった。スーツ姿の若い女性でなかなかの美人さんだ。
「いえ、こちらこそ」
「ごきげんよう。お久しぶりです、蓉子さま」
乃梨子の背後から静先輩が呼びかけた。知り合いなんだろうか。
「ごきげんよう。この子はあなたの?」
「妹です」
「そう」
後から来た黄薔薇さまや由乃さまも丁寧に挨拶し、それがすむのを見計らって多くの生徒が彼女を取り囲む。
「水野蓉子さま。春に卒業された紅薔薇さまのお姉さまよ。周りにいるのは彼女のファン」
小声で乃梨子に静先輩が教えてくれた。
ああ、この人が。と乃梨子が思っていると祐巳さまがようやく廊下の向こうからバタバタと急ぎ足でやってきた。
「紅薔薇さま!?」
「ごきげんよう、祐巳ちゃん。久しぶりね」
「い、いったい、どうなさったんですか?」
「迎えにきたの。一緒に来てちょうだい」
「え? でも、私は職員室に――」
「勘が鈍いわね」
苦笑しながら蓉子さまは一刻を争う事態のため祐巳さまを捕まえるために校内放送をお願いしたと説明していた。
「ねえ祐巳ちゃん、祥子を助けてくれる気、ある?」
「ありますっ」
「じゃ、来て」
祥子とは紅薔薇さま。ということは紅薔薇さまに何か大変なことが起きているのだろうか。しかし、医者でもなんでもないただの女子高生の祐巳さまに一刻を争う事態とどう立ち向かえというのか、この人は。
祐巳さまは由乃さまからカバンを受け取ると蓉子さまに従って行ってしまった。
「どういうことなんでしょう?」
「さあ? できるのなら月曜日に本人たちに聞いてみたら?」
静先輩はクスリと笑った。
明けて月曜の朝、静先輩の言うとおり紅薔薇さまが久しぶりに薔薇の館に戻ってきて、隣には嬉しそうな祐巳さまの姿があった。
「ごめんなさい。家の方で色々とあって学校を休んでいたの。でも、もう大丈夫よ」
優雅に紅薔薇さまは微笑んでいる。
「大丈夫じゃないよ。これ、どうするの」
どどどん、と残っていた仕事を指して黄薔薇さまが聞く。
「だから、大丈夫だって言ってるじゃない。この私がついているのだからこの程度の仕事なんてすぐに終わらせることができるわよ」
頼もしいのだか、ハッタリなのかよくわからなかったが、その日から仕事は順調に減っていった。
「どうぞ」
「ありがとう」
仕事が落ち着いたある日の放課後、乃梨子は祐巳さまと二人で他のメンバーを待ちならお茶を飲んでいた。
「あの、聞いてもいいですか」
「何?」
「紅薔薇さまが戻ってくる前、紅薔薇さまのお姉さまが『一刻を争う』って祐巳さまを連れていかれましたけど、一体祐巳さまは何をなさったんですか?」
「話はしたけど、それ以外は特に何も」
「話だけですか」
「うん」
まあ、普通の女子高生にできることってそんなものだろうけど、乃梨子は拍子抜けした。
「『姉は包んで守るもの、妹は支え』ってね。妹は何もしないで側にいて見ているだけでいいんだって。そして、何かしてほしいって時にしてあげればいいって蓉子さまが言ってたんだ」
「妹は、支え」
新入生歓迎会の時、静先輩は乃梨子に隣にいるように言った。歌い出す前乃梨子を見て微笑んだ。
それがどういうことなのか静先輩と向かい合ってなかったから全然気付かなかった。
蟹名静には二条乃梨子が必要だという意味がようやくわかった気がした。
自分がこの場所で必要とされている。
そう思うと胸がドキドキしてきて、手で胸のあたりを押さえた。かけてあるロザリオが制服越しに手に当たって、もっとドキドキしてきた。
【No:3405】へ続く