【3443】 風の中から  (海風 2011-01-25 11:28:34)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】【No:3327】【No:3380】【No:3397】から続いています。










 佐藤聖。
“白き穢れた邪華”の名を継ぐ者。
 現リリアンでは最も危険で、最も注意しなければならない人物。
 気まぐれで友人に手をかけ、気まぐれで全てを敵に回し、気まぐれで白薔薇の称号さえ手に入れたと言われている。およそ行動に一貫性や譲れない主張があるわけでもなく、見境のない超特大の時限爆弾のようだと表される存在。
 しかしすぐ暴れだす荒くれ者という印象は薄く、その戦闘スタイルは白い薔薇のように繊細で雪のように冷たく、寸分の狂いもない正確無比なボディコントロールはただただ美しい。
 現三薔薇の内、闘うセンスだけを競うのであれば、間違いなく頂点に君臨する者である。




 聖は掌を開き、握りを繰り返す。

「おし。だいぶノッてきた」

 爪の先まで、それどころか身体の外にまで、熱くなってきた闘気を巡らせる。早くも痣だらけになった両腕はかなり痛いが、この程度なら問題ない。まだまだ自由に動かせる。
 いまいちだった戦闘意欲も、絶頂時のそれに段々近付いていることを自覚する。

(そういえば、全力で闘うのはお姉さま以来か)

 自身の姉にして先代白薔薇と聖の一戦は、記録上は残っておらず、本人達だけの秘め事である。
 聖は、あれほど苦戦した挙句に負けたのは初めてだった。水野蓉子や鳥居江利子とは何度か小競り合いをしてきたが、本気さの欠片もないような遊びしかしていない。
 ――そもそも、聖の方に闘う意思がなさすぎるのだが。

(あれ以来だから……10ヶ月ぶり?)

 もうそんなに経つのか、と聖は少々感慨深く思う。
 あの時も、このお聖堂でやりあった。
 久保栞絡みのことで揉めて、そうなってしまった。
 お姉さまには随分と気苦労をかけたな、と、今になってようやく考えられるようになった。もう少し早く気付いていれば、少しは心配の数も減らせただろうに。ひどい姉不幸者だ。

「今度はこっちから行くよ」

 聖は右手を上げた。
 そこに生まれる、聖に併せて作られたかのような棺――“シロイハコ”。
 目視し、静は身構える。
 身構えると同時に“シロイハコ”の扉が開く。




(やっぱり読めない! 感じない!)

 静がそう思うよりも早く、“それ”は静の頭上から降ってきた。
“シロイハコ”から伸びた巨大な“骸骨の手”が、静の頭上に伸び、指を開いて真上から降ってきた。軽自動車くらいなら掴めそうなほどの大きさと、滑空する鳥をも追い越すほどの速さ。
 それに何より、静も知っていたはずの“攻撃の気配が読めない”という謎がネックとなり、充分な距離を取っていようとも回避行動を困難にしている。

  ゴッ

 硬質な重い音が、静のすぐ真上で鈍く響く。思念体によるガードが間に合わなければ潰されていただろう。
 だが、恐怖を感じたのは二発目の方である。

「うそ――」

 そう呟く間も、本当はなかったかもしれない。
 総毛立った。
 未だかつてない、経験したことのないほどの強烈な危機感に、背筋と言わず全身に悪寒が走った。

(まずい! 絶対まずい!)

 時間にしてコンマ1秒未満。
“シロイハコ”から“二本目の手”が出てきたことを視認した時、静は、胸の奥底に秘めていた絶望の息吹を感じてしまった。




“シロイハコ”。
 その具現化速度と、棺の“中身”については、特に特筆するべきものはない。
 速度だけ取ればこれくらいの攻撃速度を駆使する者はザラにいるし、そのものだけなら“疾駆戦車(スピードマシン)”田沼ちさとの方がよっぽど速いし手数も多い。どちらかと言うと、大きい分だけ遅く、大振りという印象もある。
 ただしそれは、「いつものように事前に攻撃の気配を読めれば」という大前提があってこそである。通常、殺気なり闘気なりの気配の揺れを察知して動くのが常であって、攻撃が発生するのを見てから回避なり防御なりをしていては遅いのだ。
 聖の“シロイハコ”は、その大前提を無視している。だから異様に速く感じられるし、感覚だけに頼っていては対処が後手に回り、間に合わない。
 目では遅すぎるのだ。
 特性の謎は、今ではもう、聖以外の誰も知らない。水野蓉子と鳥居江利子はおおよその予想は立てているかもしれないが、完全に把握しているとは言えないはず。
 その謎は、聖の数ある噂に直結している。
 本当は、聖は気まぐれで戦闘を仕掛けるわけでも、いきなり友達に襲い掛かるわけでもない。
 ――ただ、“シロイハコ”に“自動処理機能”が付随しているだけだ。
 それが噂の正体である。
 誰かの敵意や殺意、闘気などを、超がつくほどの高性能で敏感に感じ取り、聖の意識を無視して攻撃を放つという特性。
 巧妙にそれを秘め、隠している「友好的に見える相手」や「聖が味方だと判断している相手」を、聖自身が見逃しても“シロイハコ”が発見してしまう。
 気まぐれで暴れるなんてとんでもない。言ってしまえば「裏切りの先読み」である。
 しかし、いずれそうなるものであっても「まだ裏切っていない相手を切り捨てる」という行為は、傍から見れば乱心にしか見えなかった。おまけに周囲に大勢の者がいた場合も困り者で、無関係としか思えない、一度も話したことがないような者も、敵意や殺意があれば攻撃対象として認識してしまうという高性能の壊れたサーチシステムがフル稼働している。
 これのおかげで、聖は一時、軽い人間不信に陥った。それはそうだろう。友好的な相手、昨日まで笑顔で接してきたような相手が、絶対に味方だと信じているような相手が、“自動処理”で排除されてしまうのだから。誰も信じられなくなってあたりまえで、白薔薇勢力を近づけなかった理由もこれが原因だ――面倒なのも半分ぐらいあったが。
 先代白薔薇や久保栞、聖自身は敵意を感じられるのに“自動処理”が働かない水野蓉子や鳥居江利子の存在に、聖は随分救われた。彼女らがいたから三年目も山百合会に残ったのかもしれない。
 気配がしなくて当たり前。
 何せ聖さえ関与しない“自動処理”だ。
 殺意も闘気も動くわけがなく、ただ発動させているだけなのだから。




 静は“シロイハコ”の謎を、当然解けていない。たった一度見ただけでは、それも向けられていないのでは見抜くことなどできない。
 しかし、対策が何もなかったわけではない。
 ――攻撃の気配が読めない。
 その一点だけ見れば、打開策は立てられないまでも、防御策くらいは思いつく。
“シロイハコ”の発現を確認し次第、ずっと防御を固めていればいい。
 見た限りでは、そして噂で聞く「物理系では最強かも」との言葉に添うなら、具現化攻撃であることは間違いない。それ以上もあるかもしれないが、そっちはまだ考える余地はない。
 ただの具現化能力なら。
 異質であろうと“シロイハコ”を物理攻撃具として捉えるなら、静の“冥界の歌姫”は、かなり相性の良い相手である。
 佐藤聖も例外ではなく。
 しかし――冗談ではない。
“二本目の腕”があるなんて聞いてない。
 備え付けの長椅子を大いに巻き込み、“二本目の手”が横殴りに迫ってくる――速さではなく、範囲を大きく支配する攻撃だ。椅子だったものを瓦礫にしながら静目掛けてやってくる。全てをなぎ倒し、踏み潰しながら直進するダンプカーのようだ。

(聖さまは、気付いたのかも)

“冥界の歌姫”の特性に。
 いや、当然か。
 一芸に秀でているのではなく、全てが高レベルだから薔薇なのだ。目利きだって一流で、あれだけ能力を見せれば、静にバレないよう特性を割り出す試行錯誤だってしているだろう。
“冥界の歌姫”の特性。
 一つは、異空間からの物理干渉。“冥界の歌姫”は物理的な存在ではなく、どこまでいってもただの思念体だ。重量がなく、それが振るう腕力は静の力量に直結し、それ以上のものは出ない。異空間に存在するので物理的な干渉でどうこうはできず、攻撃に使えば一方的な力負けはしないし、防御に使えば真剣さえ弾き戦車の砲弾でも揺らがない。聖の“シロイハコ”が具現化干渉であるなら例外なく防げる。
 そしてもう一つの特性がある。
 それは、“冥界の歌姫”の物理干渉は、思念体の一部分のみだということ。攻撃に使うなら拳だけ、防御に使うなら相手の攻撃が当たるであろう部分だけに、静の任意で“干渉許可”を出す。もはや無意識でできるようになってはいるが、原理はこうである。
 言ってしまえば「コストの削減」だ。「全部を“干渉許可”」するより「使う部分だけ“干渉許可”」の方が単純に負担が軽いのだ。思念体の形や動きは静がイメージしやすいからマリア像に似ているが、極端に言えば「拳のみの思念体」などの方が効率的ではある。
 この「コスト削減」があるから、複数体の思念体を「使う部分だけ“干渉許可”」を出しつつ操れる。
 しかし、使う部分の範囲が大きい場合は、話が違ってくる。

「くっ」

 未だ静の頭上にある“一本目”に、瓦礫を巻き込みながらやってくる“二本目”。
 上の“一本目”は静の回避を許さぬよう固定し、“二本目”は「点」によるガードができない。静を覆う“冥界の歌姫”の半身以上を“干渉許可”しないと防ぎきれない――半端にガードしたところで“腕”は止められても瓦礫が静を飲み込んでしまう。
 静の異能を見抜いたと言わんばかりの攻撃だ。“干渉許可”を使いすぎれば、当然静の負担は大きくなる。何より攻撃と防御の両立――二体目以降の使用が難しくなる。
 回避という道をふさがれ、仕方なく半身以上を“干渉許可”し“二本目の腕”を防ぐ。
 ――そして、三つ目。
 静にぶつかり止まって木屑が舞い上がる最中、“シロイハコ”を解除した聖が一直線に駆けてくる。

(速い、けど)

 支倉令の方がよっぽど速かった。これには充分対応できる。

「行け!!」

 静は吠えた。
 まとった“冥界の歌姫”で、向かってくる聖に拳を突き出す。
 狙いは顔面だ。
 当然、避けるだろうと思っていた。むしろ避けさせるための一撃だった。
 しかし、聖は避けなかった。

  ゴリ

 突如現れる、目が眩むような「白」。そこには薔薇の花を抱く髑髏の女神が立っていた。
 駆ける聖は避けず、“シロイハコ”を呼び出しそのまま盾に使った。硬質な物同士が強くこすれて嫌な音を発てた。
“棺”に遮られ、静は一瞬、聖の姿を見失った。
 ――その時、聖は“棺”の上面に片手をつき、逆立ちになっていた。勢いはまったく殺していない。突っ込んできたスピードそのままに、“棺”を支点に前転する。
 静は攻撃の気配を感じ、身をよじった。すぐに聖の踵がこめかみをかすって降ってきた。脳天を狙った踵落とし――直撃していたら次に続く一撃必殺で終わっていただろう。
 目を見張る。

(こんなに簡単に懐に入られた…!?)

 聖はすでに目の前で、手が届くほどの至近距離に自陣を張り、その場所を占領していた。
 白く穢れた殺意が容赦なく静の心身を蝕んでいく――かつてない大きなプレッシャーに誘われ、絶望が這い上がってくるのをぐっと押さえつける。
 聖は、笑った。

「なんだかんだ言ったけど、スパッツもスパッツの良さがあると思う」
「……」

 静は、重ねていた“冥界の歌姫”を解除した。
 この手が届くような距離で、正気ではないことを、した。
 大きく息を吸い、吐き、硬く拳を握り、構える。

「へえ、異能抜きの体術勝負? 私、結構強いよ?」

 ――そんなこと、あっと言う間もなくここまで接近された時点で、よくわかっている。
 それでも、最善を尽くすために。
 最後の最後まで勝機を探すために。



 お聖堂がその場所らしからぬ熱気に満ちてきたその頃、別の場所では。

「面白くなってきたねー」
「面倒なだけよ」
「え? 面白くない? この先の予想もつかない展開とか」
「だから私にとっては面倒なだけですって」

 ついさっき“罪深き相貌(ギルティ・アイ)”武嶋蔦子と、“竜胆”の名を語る者が拘束され連れて行かれた現場である植え込みの影に、新たなる伏兵が潜んでいる。
 隠し撮りの名人である蔦子が選ぶだけあって、この場所は非常に効率が良いのだ。体育館までの距離も、隠れやすさも。いざとなったら逃げられるだけの距離というのも見逃せない。
 今ここには、元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”と“鋼鉄少女”、そして“居眠り猫(キャットウォーク)”立浪繭が潜伏している。どう見ても不穏な気配しかない体育館周辺の動向を探っているのだ。

「というか私戦力にならないんで、帰っていいですか?」
「「ダメ」」

“鼬”と“鋼鉄少女”は、繭の魅力的な笑顔を即座に却下した。

「逃げたら三薔薇に言いつけるからね」
「……わかったから、それ、絶対やめてください」

 繭が色々と協力させられているネタは、争奪戦開始時に繭が三薔薇から“契約書”を奪ったことだ。争奪戦中のことだし咎めなんて絶対ないとは思うが、三薔薇に名前と顔を知られるだけでも嫌なので、渋々付き合っている状態だったりする。

「言いつけるからねー」
「あなたはネタ知らないでしょ」
「あははー。繭さんおもしろーい」

 面白いのはおまえだ、と繭は思った。
 元白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”。繭と同じ一年生で、知る人ぞ知る強者。二つ名が付いたと同時にすぐ白薔薇の隠密に所属したので、存在自体がほとんど知られていない。
 しかし、知っている者は知っている。
 四月当時、今年の一年生最強は“鎌鼬”と呼ばれた彼女ではないか、と。
 一年生で暗躍部隊隊長の右腕をやっていたのだ、それだけ見ても実力は折り紙つきである。

「元白薔薇勢力の多くは向こうにいるのに、あなたは行かなくていいの?」
「あんまりよくないかなー」

 じゃあ向こう行けよ、と繭は思った。
 繭と“鋼鉄少女”が始めて見た“鼬”という女生徒は、何が楽しいのか造形自体がそれに近いのか終始へらへら笑っていて、やや間延びした言葉遣いが特徴的だった。なんだか鈍臭そうな印象は拭えないものの、当然そんなことはない。

「――あ、おかえりー」
「「…?」」

 繭と“鋼鉄少女”は首を傾げるものの――奥の植え込みから四人目が現れた。気配の読み方は優秀らしい。
 偵察に行っていた三年生、元白薔薇勢力特務処理班長“神憑”だ。

「案の定、“結界”があるみたい。だいたいの人数も探ってきたけれど、正確ではないかも。あと他の山百合会メンバーの動向も大まかに掴めたわ。信憑性は怪しいけれど」

 リリアン屈指のトップレベル“創世(クリエイター)”使いで、彼女が吹き込む仮初の命は、他とは比べ物にならないほど高性能なことから「神の御業」とまで言われ、付いた二つ名は“神憑”。主に校舎や制服などの損壊を補修する後始末専門で動いていた穏健派だが、それだけに留まるような使い手ではない。

「“結界”あるのか……なら私も中に行った方がいいですかね?」

 ――昨日、この元白薔薇勢力の二人から“鋼鉄少女”達にもたらされた情報は、「白薔薇勢力が解散した。これからすぐに元白薔薇勢力による白薔薇狩りがあるかも」だった。にわかには信じられない話だった、というわけでもなかったが。白薔薇と白薔薇勢力の不仲は有名だったので、いずれそういうことがあるかもしれない、とは誰もが考えられたことだ。
 が、もしも白薔薇狩りが行われるとするなら、「藤堂志摩子が潰されるかもしれない」という可能性が非常に大きくなる。だから話半分に警戒はしていたのだが。
 すると、警戒し始めたばかりなのに、元白薔薇勢力の面々があやしい動きを見せ始めた。そして諸々の情報が揃う前に、この有様になってしまった。
 きっと事を急いだのだろう。「白薔薇勢力総統による勢力解散」が周囲にバレる前に、白薔薇狩りをやっておきたかったに違いない。

「あなたの能力は肉体変化だったわね。白薔薇を本気で狩るつもりなら、“結界”は具現化封じでしょう。……そうね、“狐”さんも具現化系だし、“人形”さんだけしかまともに闘えない。あと一人くらいは志摩子さんの傍に強い人を置きたいわね」

“神憑”は、「こんな感じでどう?」という視線を“鼬”に向ける。

「そうですねー。私も具現化だし、このメンツだと“鋼鉄少女”さまですかねー。それか受け狙いで繭ちゃんを送るとかー」
「受け狙いなんかでディープに関わりたくない。あとちゃん付けで呼ばないで」
「じゃあ、まゆゆ? まゆまゆとか?」
「なんか語感が気持ち悪いからやめて。……というかほんと気持ち悪いわねそれ。え? まゆゆ? 何その変な響き。語感がキモイ。“鼬”さんキモイ」
「えー? 私ー? 私キモイー? あははー」

 「微妙になんか盛り上がってるなー」などと呟きつつ、“神憑”が拾ってきた情報を頭に入れて“鋼鉄少女”は立ち上がる。

「じゃ、行ってくるわ。あとよろしくね」

“鋼鉄少女”は適当に飛び出すと、体育館へと向かった。すぐに元白薔薇勢力の精鋭達に囲まれ……首尾よく2、3人の見張り付きで体育館内へ通された。そして何事もなかったかのように、また周囲への強すぎる警戒網が張り巡らされる。
 ――事が急過ぎたせいで情報伝達のシステムを作る前に事件が起こってしまった。この時点で、志摩子が誘拐されたことは耳に入っているが、巻き添えを食った福沢祐巳と島津由乃の情報は入っていなかった。
 その後すぐに、同じく偵察に出ていた“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”も戻ってきた。

「ただいま。……お? “鋼鉄”は?」

 簡単に事情を話し、“神憑”は持って帰ってきた情報を聞き出す。

「まずいかもしれないです」
「というと?」
「まだ決着がついてない、ってことです」

“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”が偵察に行っていたのは、体育館周辺ではなく、お聖堂周辺である。
 白薔薇・佐藤聖と“冥界の歌姫”蟹名静が、今、お聖堂の中で闘っている。「白薔薇狩り」決行のタイミングと重なるなんて不運である。まあきっと偶然だろうが、この偶然は「白薔薇狩り」にかなり有利に働くだろう。
 何せ、まだ決着がついていないのだから。

「なんだかんだで5分以上張ってたみたいだし。もう白薔薇の完勝、圧勝、って線はないでしょうね」

 完勝や圧勝なら、すぐに決着がつくものだ。勝っても負けても。時間が掛かるということは、それだけ接戦になっているのだろう。蟹名静も長期戦型ではないので、無駄にダラダラ粘っているとは考えづらい。
 接戦である以上、聖も相応のダメージを負っているはず。
 そしてそのダメージ分だけ、元白薔薇勢力は有利になる。白薔薇が弱っていれば、その分だけ白薔薇狩りの成功率が上がるのだから。
 正直なところ、聖の安否はあまり気にしていない。そもそも勝とうが負けようがどっちでもいいのだ。気にするべきは“反逆者”藤堂志摩子のみだ。
 第一、誇り高き薔薇に助太刀や心配など似合わない。そんなの必要ない。
 薔薇とはそういう存在だ。

「総統の様子はどうでしたー?」

 正確には「元総統」だが、“鼬”はわかってて言っているので誰も訂正しなかった。

「あの人、相変わらずキッツイわねー。見張りだけで神経すり減らしたわ。安全距離が未だに読めない」

“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”は元白薔薇勢力総統“九頭竜”から充分以上に距離を取ってお聖堂を見張っていたが、それでも、同じ目的で近くにいた偵察要員が前触れなく“九頭竜”に攻撃され、肝を冷やした。

「白薔薇ってアレより強いんでしょ? というか他の薔薇もアレより強いんでしょ? 本当に人間なの? 人間じゃないんじゃないの?」
「あははー。まったくだー」
「――あら、私まで化け物扱いするの?」

 ……?
 不意の声に、誰も反応できなかった。

「私から言わせれば、素質皆無な由乃ちゃんの化けっぷりの方が化け物だと思うけれど。それを育てたあなた達もね」 
「「――」」

 全員が共通した思いは「嘘でしょ?」だった。

「な、な、な、なんで……!?」

“神憑”が青ざめるのもわかる。
 なぜ、なぜここに、“黄路に誘う邪華”鳥居江利子がいる。




 江利子はしゃがみこみ、当然の顔で面々の輪の中にいつの間にか入っていた。
 ――四人が動かなかったのは、動けば元白薔薇勢力の精鋭に見つかるから、ではなく、動けば江利子にやられると思ったからだ。あれら大勢より鳥居江利子一人の方が怖いのだ。
 江利子はいつものけだるげな表情を見せず、楽しそうに笑っていた。含み笑いを漏らしながら“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”を見詰める。

「お聖堂の近くであなたを見つけて、すぐ真後ろにいたんだけれど。気付かなかった? なんとなくそのまま付いてきちゃった」

 見た顔もいるわねー、と、“神憑”と“鼬”に目を止める。三薔薇での共同作業では顔を出していた元白薔薇勢力の幹部達だ、見覚えがあって当然である。

「こんな面白そうなこと、無視できないわ。ぜひなんの集まりなのか説明して欲しいわね」

 できれば無視してほしかったが。

「黄薔薇は何の用事でここへー?」

 こんな時でも“鼬”はへらへら笑い、のんびりした口調だった。だがのんびりした口調とは裏腹に、皆が怖がって触れられない確信に遠慮なくつっこんだ。

「実は、うちの子が関わっちゃって」
「うちの子?」
「由乃ちゃん。中にいるみたい」
「え、ほんとですか?」

 驚いたのは由乃と馴染みがある“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”である。
 初耳だ。島津由乃が中にいる? なぜ?
 ――それを江利子が知っているのは当然である。いくら争奪戦中でも、いや、争奪戦中だからこそ由乃にはちゃんと見張りを付けてあり、危険すぎる相手と戦闘が始まった場合はすぐに駆けつけられる体制を整えてあるからだ。
 加えて、動きがおかしい白薔薇勢力にも、見張りを付けていた。紅薔薇・水野蓉子も白薔薇勢力の動向は気にしているはず。きっと監視も付けているだろう。

「朝一番にそんな報告が耳に入ってね。どうしようかなーと思って、白薔薇関係だから白薔薇に会いに行ってみたんだけれど、“九頭竜”が臨戦態勢に入っていたから諦めた。あの子、融通きかないから」
 
 白薔薇勢力の動向がおかしいことを伝えたとしても、“九頭竜”はどかない。この後何があるかを話しても道を開けない。“九頭竜”はそういう奴だ。――もっとも、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”も同じ判断をするだろうが。薔薇の勅命なら本人の反故がない限り何があってもやり遂げる。だから総統なのだ。

「白薔薇勢力、解散しちゃったんですよー」
「えっ」
「“鼬”っ」

“神憑”が戒めるものの、もう遅い。口から出してしまったものは戻せない。

「黄薔薇が直々に来ちゃったんだから、話さないわけにはいかないでしょー。というか状況を見れば大体わかっちゃうと思うしー」

 勢力解散の事実は、まだ広まっていない。どんなに長くても今日いっぱい、昼休みまでには広まるだろうけれど、それでもまだ知られていないのだ。
“鼬”は、黄薔薇相手に下手なごまかしは通用しない、と判断した。ぐだぐだ問答して機嫌を損ねられた方が大変だ。聞かれたことには答えるから早々に立ち去って欲しい。
 今この状況で白薔薇が連れて来られた場合が最悪だ。江利子の意志で全てがひっくり返ってしまう。

「そうか、解散か。解散したのか。道理で」

 江利子は何度もうなずく。

「道理で白薔薇勢力の動きがおかしいはずだ。――で、あの子達の目的は、白薔薇狩りってことね?」
「たぶんー」
「つまり由乃ちゃんは、白薔薇の内輪揉めに思いっきり巻き込まれちゃったわけか。そういうことか。ただの誘拐とは思わなかったけれど、そういうわけね」

 江利子としては、島津由乃誘拐に聖が関わっているかどうかもわかっていなかった。これで一連の事件がピタリと繋がった。

「由乃ちゃんのことだから、自分から首を突っ込んだんでしょうけど。……ああ、本当にどうしようかしら。面白すぎるわ。色々めちゃくちゃにしてやりたいわね」

 この面白好きの黄薔薇が言うなら、冗談ではなく本気である。
 リリアン最強に近しい者の出す結論を、四人は固唾を呑んで待つ。

「ひとまず、私はお呼びじゃなさそうね」

 出された結論は、こうだった。

「察するに、あなた達は白薔薇がどうこうじゃなくて、志摩子が狙いなんでしょ? 次期白薔薇として志摩子を立てようって派閥なんじゃないの? で、向こうの人達はそれを許さない派なわけだ」

 さすが、である。どこかで情報の断片でも拾っていたのか、江利子の推測は恐ろしいまでに鋭い。

「今年卒業の三年生が来年のことにまで手や口を出すのはどうか、って話。この騒ぎの中心も教えてもらったし、うちの由乃ちゃんに危険はあまりなさそうだから。だから私は関わらないことにする」

 各薔薇の内輪揉めに首を突っ込んで、いいことなどない。
 江利子は、紅薔薇と白薔薇とはいずれ決着をつけたいとは思うが、それ以上に闘いたくないという想いが強かったりする。――苦戦必死、しんどいのが目に見えているから。何より純粋な勝負であればまだいいが、勝っても負けても、その後のことも、後始末や周囲への影響を考えるだけで頭が痛くなる。立場上「勝ちました」「負けました」だけでは済まないのだ。

「校舎でも面白いことが起こったみたいだから、そっちに行ってみるわ。――あなた」

 江利子は“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”を見た。

「由乃ちゃんのこと、よろしくね」
「……案外過保護なんですね、黄薔薇」
「だって面白いじゃない、由乃ちゃん。私の最高の退屈しのぎはあの子なんだから」

 おもちゃ扱いかよ、と全員が思った。言えないから思っただけだ。
 含み笑いを漏らしながら江利子が消えると、溜息が漏れた。

「あーびびったー。まゆゆびびったー。黄薔薇と口聞くとかびびったー」
「触らないでよ。あとまゆゆやめて、気持ち悪い。……え、まさか“鼬”さん、私になついてない? なつこうとしてない?」
「あははー。まゆまゆ超かわいいー」
「…………もういいわ。もう疲れたわ。朝からもう疲れたわ……」

 繭がいろんなことを諦め、“鼬”が繭にじゃれついて、“神憑”と“鋼鉄少女”は深刻な表情で向かい合う。

「どうなると思う?」
「黄薔薇は絡まないでしょう。宣言通り。ただ」

 目前の問題が大きすぎて、その後のことに考えが回っていなかった――というより、今をどうにかしないと後の心配などいらないのだから当然だが。
 しかし、黄薔薇に情報を与えたことで、嫌でも目に付いてしまった。正直次のことどころではないのに。

「白薔薇が倒れようが倒れまいが、その後……ですよね」
「考える必要はない、……ってわけにもいかないわよね……」

 この「白薔薇狩り」が、次なる「白薔薇狩り」へのステップに使われる可能性だ。
 黄薔薇が今まさに「白薔薇と白薔薇勢力の離別・勢力の解散」の情報を元に、「孤立した白薔薇を全総力を上げて狩りに出る」という一手を打とうとしているかもしれない。それだけでも窮地なのに、更に紅薔薇まで襲ってくるかもしれないという懸念。
 今ここを乗り切ることが、目下ここに集う者達の最大の目的だが、それをやり遂げた直後を襲われた場合どうすればいいのか。
 目の前の出来事に目を奪われていたが、先日白薔薇は“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と揉めている。紅薔薇や黄薔薇は動かないかもしれないが、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”率いる元紅薔薇勢力がなだれ込んでくる可能性は充分ありえる。
 白薔薇勢力の解散は、白薔薇の孤立を意味する。蟹名静との戦闘で疲弊し、その直後には元白薔薇勢力による「白薔薇狩り」で更に消耗し、まさかの第三波の可能性。
 なくはない。それも低くない。
 まだ知られていない「白薔薇勢力の解散」が知れ渡れば、当然それに釣られて白薔薇を襲う輩もグループも現れるだろう。
 それでもそう簡単に負けるような聖ではない、が、今回の連戦はかなり苦しいのではなかろうか。せめて第三波だけは回避し白薔薇を休ませてあげたい、とは思う。孤立しても白薔薇は藤堂志摩子の姉で、志摩子の後ろ盾になり得る存在だ。いないよりはいた方が絶対いい。
 想像を超えた難局である。
 何もかもが急すぎて、準備も根回しもできなかったのが原因だ。――元白薔薇勢力が事を急いだ成果がここに現れていた。

「“鼬”、なんかいい知恵ない?」
「えー? ないー。ほんとはうそー。意外とあるー」
「どっちだよ」「あるなら早く言いなさい」

“鼬”のだらだらした返答にイラッとした上級生達は、声を重ねて促す。

「強い助っ人を呼んでくればいいんですよー。それこそ三薔薇に次ぐくらい強い人をー」
「「強い人?」」

 三薔薇に次ぐくらい強い人、と言えば、真っ先に思い浮かぶのは、

「元総統?」
「“九頭竜”?」

 三勢力総統は、薔薇に匹敵すると言われるほど強い。三薔薇を頂点に置くなら、次点は三勢力総統でほぼ間違いない。

「総統は今は動けないしー、あっちのお姉さま方が白薔薇を連れてくる時ー、きっと総統は『来たら志摩子さんを襲うよー』って脅されて動けなくなるでしょうしー。
 だからそれ以外の強い人ですよー。いるじゃないですかー。黄薔薇が教えてくれたじゃないですかー」
「黄薔薇が……あっ」
「そういうことか」

 関わる理由がある。
 大義名分がある。
 動いて当然という世論も用意できる。
 何より、協力しないわけがない人がいるじゃないか。それも三薔薇に次ぐであろう実力者が。

「繭さん、出番が来たわよ」
「もう疲れた帰りたい」
「……伝言やってくれたら、そのまま教室行っていいから」

 ――繭を伝言に走らせ、“神憑”は時計を見る。
 いい加減、そろそろ決着がついてもいい頃だ。

「いやおい! “鼬”さんは行くなよ!」
「あははー」
「あははじゃない! なんなの!? この子なんなの!? “神憑”さま、この子なんなんですか!?」
「真面目に相手すると疲れるわよ。やる時はやるから基本放置で」
「……“狐”みたいなもんか」
「“狐”大っきらいー」
「はあ? もうよくわからん」

“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”はへらへら笑う一年生を放置することにした。
 正直、人の面倒を見ている場合ではないのだ。本当に。
 両手の指で事足りる少数で、二十以上の元白薔薇勢力の精鋭達とやりあおうというのだから、命知らずだの無謀だの、その辺の言葉が相応しい勝算の低い闘いの直前である。“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”も“神憑”も緊張感を高めつつあるのに。へらへら笑いっぱなしのこの一年生は。この一年生はっ。

「そろそろですね」
「ええ、そろそろだわ」

 メンバーに若干、いや、かなりの不安があるものの、頼みの助っ人さえ来てくれれば戦力は格段に増す。それこそ二倍になると表してもおかしくないほどに。
 新たな御旗となる藤堂志摩子は、合流しているはずの“複製する狐(コピーフォックス)”と“小さな暗殺人形(ミニチュアドール)”と“鋼鉄少女”が、身体を張ってでも護り抜くだろう。そこには一切不安はない。彼女らの腕は“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”もよく知っている。
 問題は、いつ突入するか、だ。
 下手につっこめば、志摩子を人質に取られて何もできずに倒されて終わり、なんてこともある。それでこその人質だ。
 白薔薇に対しても有効な手だが、しかし果たしてその時白薔薇がどういう決断を下すかはわからない。志摩子を見捨てる可能性も考えられる――どうせそのままだったら白薔薇が狩られたあと志摩子も無事に済む保障なんてないのだから。人質を切り捨ててこそ己と人質の活路が見出せる、という状況もあるだろう。
 やはり突入は、白薔薇と勢力が衝突した瞬間、だろうか。戦闘ではなく志摩子の救助を最優先だ。志摩子を逃がすことができれば勝利である。逃がすことができればたとえ倒れようが何だろうが勝ちである。

「“神憑”さまは、“結界”を探せるんですか?」
「探せるけれど、時間が掛かるから今回は無理と思った方がいいかも」

“結界”の解除は、“結界紋様”を発見して壊すか、使用者に解除させるか、吹き込んだ力が尽きるまで放置するかの三つの方法がある。確かに体育館を隅々まで探す時間は捻出できないだろう。使用者も“結界”を壊されないように巧妙に“紋様”を隠したりするので、限られた時間で見つけるのは難しい。佐藤聖の異能が使用できる、というメリットはかなり大きいが……
 いや、ケースバイケースか。具現化無効の“結界”は、あっちの精鋭達も負うデメリットだ。下手に解除したところで向こうの戦力も増してしまう。数で劣る以上、案外そのままの方が有利かもしれない。
 やはり当初の予定通り動くのが最善だろう。



 まるで1分が1秒ほどに感じられる体感。
 頬を伝う汗さえ気付かず、静は極限まで高めた集中力で聖を見据え、摺り足でじりじりと迫る。
 対する聖も、静から目を逸らさず、無形の型で迎えようとしている。
 じりじり、じりじり。
 砂の一粒一粒を確かめて踏みしめるような慎重さで、静は近付く。
 あと5センチ。
 あと3センチ。
 あと1センチ。
 あと――

「フッ」

 静は鋭く息を吐き、初動を見せない高速のジャブを放つ。聖はそれを片手でいなし、払う――静はその方向を先読みし、足と言わず体ごと移動し、払われたわずかな力さえ遠心力に利用した鋭いローキックを繰り出す。だが当たらない。聖は一歩踏み込み、身体を密着させるようにして攻撃範囲から逃れた。

  ゴッ

「ぐっ!?」

 踏み込むと同時の聖の一撃。ぶつけるような右肘を顎に食らい、静は半歩下がった。
 聖はそれについてくる。
 静の経験のない近すぎる間合いを維持する聖は、上げたままの右手を捻り、裏拳を放つ。静は反射的に下がって回避しようとし――

「あ」

 二度目のクリーンヒット。――接近と同時に大きく踏み込んで、静の両足の間に差し込んでいた聖の足が、下がることを許さなかったのだ。
 上半身がわずかに上がった次の瞬間、聖の双掌打が静の身体を捉えていた。突き抜ける重い衝撃。静は簡単に吹き飛び、長椅子に衝突する。

(あ、危なかった……)

 鳩尾への直撃だけは何とか避けられた。食らっていたら数秒動けなくなるところだった。
 ジンジン傷む顔と、まるで内臓をいじられたような違和感がある身体。
 聖の攻撃は速く、近すぎる。
 だが一発一発はそう重くない。聖の基礎能力なら拳でも足でも一撃必殺が狙えるはずだが、きっと速さを重視するために威力を殺いでいるのだろう。
 そう、本命である“シロイハコ”があれば、体術による一撃必殺は必要ない。体術はあくまでも“シロイハコ”への繋ぎであればいいのだから。静もそうだ。静自身という囮を獲物の前にぶら下げることで、左右背後上から下から、どこからでも不意打ちを狙える。
 静は口元を拭い、再度接近戦を仕掛ける。
 聖の動きは観た。今度は対処できる。
 再びじりじりと距離を詰め――今度は聖が素早く攻撃範囲に踏み込んだ。
 途端、静は逃げるように構えを反転し入れ替え、一歩後ろに下がり――

「おっ――」

 聖の虚を突くことに成功した。
 下げた足を即座にまた前に出すとともに、足元に転がっている木の破片を蹴り上げ、聖の顔面に放ったのだ。聖は反射的に出そうとしていた手でそれを弾き、目を見開く。
 蹴り上げた足を大きく踏み込み、静の拳が目前まで迫っていた。 

  ゴキ

 静の正拳突きが聖の頬を捕らえた。 

(当たった…!)

 それもかなりの手ごたえ。骨と骨がぶつかり合い、硬く握った静の拳の方が痛いくらいに。聖はよろよろと二歩、三歩と下がる。
 ここで一気にラッシュで畳み掛ける――と行きたいところだが、静も後ろに引いた。そう簡単に勝たせてくれるような相手ではない。不用意な接近などできない。

「ふ、ふふふふふ……」

 聖は、笑った。

「久しぶりにいいのもらっちゃった」
「……」
「静、一つ忠告しておく」

 聖の笑みが消え、殺意がまた一段濃くなった。

「――まずいと思ったら能力使いなさいね? 私、止まらないから」

 それだけ言うと、聖はまた突っ込んできた。静はそのまま接近を許す。どんな攻撃もかいくぐってくるだろうから、隙を作らないために手を出さない。
 至近距離で聖は止まり、30センチもないような距離で睨み合う。
 ほんの一瞬。
 嘘のような静止の時を越え、嘘のような嵐が吹き荒れる。
 突き。
 静はそれをかわしてフックとショートアッパーを放つも、半歩分軸をずらすだけで聖はすでに回避している。
 肘。
 密着。
 押し崩し。
 草を刈るような水面蹴りで足を取られよろめき、体勢を整えようと下がる動きに合わせて聖も付いてくる。
 裏拳。フェイク。
 上半身を泳がせ下半身を固定させて、聖の足の裏が、静の左膝の皿を容赦なく踏み割った。よろめくだか倒れこむだかわからない動きの静に、追い討ちのように聖は上から振り下ろすようなブラジリアンキックを顔面に放ち、床に叩き付けた。
 蹴りの衝撃に目が眩み、立てないほどの足の痛みを堪えて、静は弾かれたように立ち上がる。今立ち上がらないと決着がついてしまうと確信していた。今踏ん張らないと終わってしまう。

(ここしかない)

 これ以上のダメージを負えば、静は負ける。
 だからここで“冥界の歌姫”を使う――と、聖は考えているはず。
 あえて使わない。
 あえてずらす。
 足を庇いながら、更なる聖の連激に呼応する。といっても、もう五発に一発しか止められない。強烈な蹴りで意識がはっきりせず、左足はもう自由に動いてくれない。
 だが、それでいい。
 一撃一撃が軽い小技なら、なんとか耐えられる。痛いところにガンガン当たるが致命傷はない。
 反撃のチャンスは――今だ。
 流れるような聖の連続攻撃には、それが終点とばかりに最後に大技が来る。双掌打然り、ブラジリアンキック然り。連続攻撃で隙を生じさせ、大技で仕留める。そういう造りなのだろう。
 ガクリと膝を折る静に、聖は腰溜めの正拳突きを繰り出す。踏み込みの力強い、重い一撃を、静は無防備に食らった。本気で目の前が真っ暗になった。
 しかし、カウンターは取れた。

「――ぐうっ!?」

 拳を打つ聖の空いた右脇腹に、聖の真横に出した“冥界の歌姫”の拳が突き刺さった。派手に吹き飛び壁に叩きつけられる。

「はあ、はあ、はあ」

 焦点の定まらない視界に構わず、静は再び立ち上がる。――聖の攻撃は、小技といえどほとんど人体急所を捉えている。そんな一発一発を積み重ねられた結果、静の予想以上に早く、肉体が限界に達してしまった。元々静は打たれ強いわけでもないので当然と言えば当然なのだが。
 しかし、ここまで簡単に打ち込まれるとは思わなかった。今までなかったことだから想定もしていなかった。


「あ、あぁ……くそ、そろそろ来るってわかってたのに……」

 苦しげにさび付いた声を漏らしながら、聖も脇腹を押さえて立ち上がる。骨力は思いっきり高いにも関わらず、それでもアバラ二本持っていかれた。令はよくこんなのを顔面に食らって平然としていたものだ、と思わずにはいられない。二度目だが。しかし食らった今ならより実感が込められる。
 聖の誤算は、「静は“冥界の歌姫”を防御に使いつつ攻撃してくるだろう」という、攻守を兼ねた最もありえる可能性に賭けたこと。
 それに対し静は、完全に防御を捨てて攻撃してきた。それも、きっと「回避される可能性が高い頭ではなく、的の大きい身体を狙った」のだ。聖を倒すためではなく、ダメージを蓄積させるために。
 捨て身にも程がある。
 そこまで死装束に相応しい判断なんてしなくていいじゃないか。

「聖さま」

 ようやく視界がくっきりしてきた静は、よろよろしながら近付いてくる聖に言い放った。

「私、そろそろ限界なので、切り札出しますね」
「わかった」

 静は思った。
 渾身の一撃を受けて、聖の殺気と闘気がまた一段と強くなっている。
 聖はまだ全力じゃないのかもしれない。
 ――本当に化け物だ、と、本気で思った。自分が好きになってしまった相手はなんて存在だろう、と。

 痛む足の抗議を無視して、両足を踏ん張り立ち。
 唾と一緒に口に溜まった血を吐き出し。
 手を組んで胸を張り、目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。


 聖母を讃える歌が紡がれる。
 美しく澄んだ声は高く、お聖堂という枠を越えるほど高く昇る。
 それは聖の殺気や闘気さえも認め、抱きしめようとするほど優しくて。
 ただただ優しくて、温かかった。

 しかし、その歌声は、
 冥界への導き手を呼び出すための、
 ただの死刑宣告でしかなかった。


「……“冥界の歌姫”……なるほど、これが二つ名の由来か」

 地中からスーッと浮かび上がってきたそれは、もう見慣れた“冥界の歌姫”。
 ただしその数、十一体。
 聖を囲み、見下ろしている。
 唯一違うのはその瞳で、いつもは閉じているのに、今は淡く輝くサファイアの相貌で優しく穏やかに聖を見詰めていること。

「そんな顔して殴り掛かってくるんでしょ。あなた顔に似合わずわりと凶暴なのよ? 自覚ある?」

 聖の皮肉には誰も答えない。

「十一人。さしずめ私はユダ役か」

 裏切り者を冥界から迎えに来た“聖母”達は、優しく天罰を降らせ始める。




 ここは、ここではないどこかである。
“あの教室”に押し込まれた藤堂志摩子と福沢祐巳は、とりあえず、待つしかなかった。
 ところどころ床は割れ、黒板にも大きなヒビが入り、机や椅子は無造作に転がり、そこかしこに乾いた血の跡があって。
 相当激しい戦闘の痕跡が色濃く残るここは、祐巳にとって二度目のあの場所で間違いなかった。原型はほとんどないものの、こちらの方が人の出入りを感じられ、なぜか無機質な雰囲気がなく温かみを感じられるから不思議だ。まあ、不気味だが。
 無事そうな椅子を見つけて、二人は適当に座る。
 そして、無言。
 この“教室”以外からの音がないので、本当に静まり返っている。
 ――話すことがない。
 志摩子は、祐巳をこんなことに巻き込んでしまった責任を感じ、何も言えなくなっている。謝るのは簡単だ。しかし身の危険がないとは限らない、というより誘拐されている時点で安全ではない。こんな危険なことに巻き込んでしまって言える言葉など見つからない。
 祐巳は、“竜胆”に言われた通り、志摩子が事情を話せないという立場を酌んで何も聞かない。志摩子を困らせるのは本意ではないから。自分の身に何が起こっているのか気にならないわけがないが、聞けば志摩子が困るのであれば聞かなくていいや、と思っている。
 だがそんな祐巳だが、一つだけ、どうしても気になることがある。

「志摩子さん」

 恨み言の一つでも言われるのではないか、と志摩子は俯く。言われても仕方ない。

「志摩子さん、白薔薇になるの?」
「え…」

 文句ではなかった。

「……わからない」

 志摩子は心の迷いそのままを口にした。

「私を白薔薇にしたい人達が出てきたけれど、私は後の白薔薇になるために、お姉さま……聖さまの妹になったわけではないから」
「ふうん」
「山百合会に入った当初は、このリリアンを変えることができるんじゃないかと期待はしたわ。でも今は違う……祐巳さんも、今なら私の言いたいことがわかるかもしれない」
「……うん、わかる」

 山百合会こそ諸悪の根源。
 歪んだ正義の象徴。
 山百合会があるから、山百合会という強い人達が徒党を組んで好き勝手やって弱者を踏みにじっているから、学園にはこんなにも暴力と理不尽が溢れている。
 そんな風に思う気持ちは、祐巳にもあった。弱者だからこそそう思っていた。

「違うんだよね。本当は」

 本当は、逆だ。
 山百合会があるから学園として機能し、弱者でもまだ学校に来ることができているのだ。
 祐巳の知っている山百合会は、決して、弱い者を傷つけるような組織ではなかった。誰よりも高い人格と品位を兼ねた誇り高い者が集まった組織だ。全員が尊敬に足る、憧れのお姉さま方がいる組織だ。祐巳が大好きになった人達がいる組織だ。

「そう、私も山百合会の正体を知ってしまった。だから私が山百合会にいる理由が、ほとんどないのよ」

“反逆者”としてやっていくなら、もう誰も邪魔なんてしないだろう。志摩子は期待していないが、志摩子に味方してくれる者も少なくない。ここまでの活動で地盤は充分固められたように思える。
 山百合会は、歪んだ正義の象徴にして、最強が集う組織である。
 そこには志摩子の居場所なんて最初からなくて、あるとすれば聖の傍だけ。来年から聖の隣にいられなくなるなら、なおさら居場所なんてない。

「じゃあ、ならないの?」
「リリアンを変えるには、山百合会に所属していることが最低条件……という気もするの。だから席を立つのは、少しだけ抵抗がある」

 何より、ついさっきいきなり選択を迫られたのだ。答えを出すには、悩む時間、考える時間がもっと必要だと思う。
 そして、今は。
 これから聖に降りかかるであろう災難の方が、志摩子の進退、悩み事よりよっぽど重要だ。たとえ自分は背後に立って聖の背中を護ることができなくても、聖の身を案じる権利を捨てるのはまっぴらだ。

「結局、私がどうしたいかがわからないのは、全てが中途半端なのが原因なんだと思う」
「中途半端?」
「私は誰かに支持されたり、褒められたりするようなことはしていないのよ。一つも。本当は“反逆者”でさえないのに」

 きっかけを口にすると、志摩子は止まらなくなった。
 勢力に関係なく、それどころか目覚めていない(としか思えない)祐巳が相手だから、何の気兼ねもなかった。
 一種の懺悔である。
 たぶん、ずっと誰かに聞いて欲しかったのだ。そして責められたいのだ。責められた分だけ、志摩子の罪に対する罰になるから。

「私がやっていることって、正義でもなんでもないの」
「へ? そ、そうなの?」
「そうなの。正義どころか悪に近い」

 不用意に誰にでも話せない立場になってしまったせいで、ずっと、罪だけを重ねてきたように思う。

「私がやっていることは、回転率を上げる行為」

 回転率。
 循環。
 リリアンに根付く負の連鎖の回転速度を上げ、絶やさないこと。
 それが、志摩子のやっていることだ。

「傷ついた者を“癒す”。その人は元気になって、誰かを傷つける。傷つけられた人を私が“癒す”。傷つけられた人は復讐へ向かう。私はその循環を円滑にする行為をずっと続けている。“癒された人”がその直後何をするかを知っていながら、それには目を向けず、無責任に“癒し”続けてきた。そんな悪循環を知りながら、知っているくせに、私はこれからも“癒し”続ける。無責任に。
 私は、絶対的な正義はないと思っているけれど、自分のやっていることが悪だという自覚はあるわ。私が一番悪いのよ」

 最初は、ただ純粋に、傷ついた者を見ていられなかっただけだった。“治癒”という能力に目覚めた以上、その力を振るうことが自分に課せられた使命だとさえ思い、力を使うことに抵抗なんてなかった。
 しかし今は、違う。
 ――噂に聞く久保栞の存在が、志摩子に過ちを気付かせた。
 自分がやっている行為が、破壊行為と暴力の増長に繋がっていると、知ってしまった。
 絶対的な悪だと信じていた山百合会は正義で、揺るがない正義だと思っていた己の行動こそ悪だと、わかってしまった。
 絶対的な正義とは、久保栞がやっていた「力を振るわない抵抗」である。彼女は怪我をしようが疎まれようが歩みを止めなかった。たとえその足は遅くとも、少しずつ少しずつ正義を説き、少しずつ少しずつ学園を変えていけばよかったのだ。何かを成そうと決めた時から、その人は決して無力な弱者ではない。
 悪だと知って、それでも志摩子が“偽りの反逆者”をやめないのは、志摩子が中途半端に優しいからだ。目の前に怪我をした人がいたら、苦しんでいる人がいれば、見捨てることができないのだ。その人を“癒”せば、次の怪我人に繋がるのに。それがわかっているのに。
 本当に優しい人は、厳しさも持ち合わせているものだ。半端に、無責任に他者に手を差し伸べることの愚かさを知っている人だ。真に相手を思い、相手のためになることを言える人だ。
 志摩子はそんな人になりきれなかった。久保栞の足元にも及ばない。

「……そうなんだ」

 志摩子の懺悔を聞いていた祐巳は、不思議そうな顔をしていた。

「で……何が問題なの?」
「え」

 何が?
 今言ったじゃないか。自分は悪だ、と。悪いとわかっていながら続けている、と。

「だって、目の前で苦しんでいる人がいて、志摩子さんはその人を助けられて、志摩子さんはそういう人達を助けてきたって話でしょ? それがどうして悪いことなの?」

 祐巳は本気でわからなかった。言いたいことはわかるが、志摩子が思い悩む理由がわからない。
 だってそんなの、

「志摩子さんが助けたから暴力を振るうんじゃなくて、助けた人がそうしたいから暴力を振るうんでしょ?」

 だが、そうなることがわかっていて“治療”を施すなら、責任はない、だなんて言えない。

「難しいことはわからないけれど、困っている人を助けるのが悪いことなら、正しいことなんてないと思うよ」

 祐巳の答えはシンプルだった。
 そう、それだけ取れば、それは間違いなく正義だ。間違いなく正しいことだ。
 しかしもう高校生で、善悪の分別のつく歳だ。
 誰彼構わず無邪気に手を差し伸べてばかりというわけにはいかない。そういう人達を増やさないための努力もしたい。大規模な山火事にコップで水をかけ続けていつまでも終わらない消火活動をしているようでは意味がない。根源をどうにかしないと被害は広がり続けてしまう。

「私は志摩子さんに感謝してる。いてくれてよかったと思ってる。それじゃだめ?」
「いいえ。駄目じゃないわ」

 ただそれは、志摩子の求める答えにはならないだけで。
 でも、思い悩む志摩子の助けになろうと祐巳なりの答えをくれたことには、感謝している。たとえ悪でも存在を肯定してくれる者がいる。
 嬉しくないはずがない。
 それと同じくらい、心苦しくもあるが。

「私は志摩子さんに、山百合会にいてほしい。白薔薇になってほしい。志摩子さんなら変えられると思うから」

 祐巳の言葉は無邪気で、シンプルで、行動に対する裏側を見ていない。
 
「ありがとう」

 しかし、それでも、居場所を肯定してくれることが嬉しかった。




 舞った汗が打たれ、砕ける。
 超速で拳の雨をかわし続ける聖は、冷や汗が止まらない。
 縦横無尽に繰り出される十一体もの“冥界の歌姫”から繰り出される一撃必倒の乱打に、かろうじて対応しているものの、

(これないわー。これ絶対ないわー)

 もう、限界である。
 聖の全身全霊をかけて回避を選び続けているものの、ものの20秒で回避し続けることが難しくなってきた。
 体力的な消耗はそんなにないが、静から負わされたダメージが深刻だった。
 たった二発分のダメージ。
 しかし、並の相手ならどちらも一撃必殺級の威力だった。特に“冥界の歌姫”に抉られた右脇腹が痛い。最初はそうでもなかったが、今では上半身を捻るような動きをするたびに、足がフラつくほどの激痛が走る。痛みのせいで集中力が落ちてきているのだ。
 ――この無茶な“聖母”達は、きっと制限付きである。
 歌。サファイアの瞳。十一体の連携。

(“自動モード”か)

 静の力量や動きを察するに、一度に扱えるのは最大で五体くらいまでだろう。それも部分部分だけ物理干渉ができるようにする省エネ操作を施してだ。が、五体を無理に使うよりは、二、三体を操作して自分も戦線に加わるのがベストスタイルのように思える。物事は戦力や兵器を詰め込めば強いという単純な足し算では割り切れない。
 それがいきなり、予想の倍以上である。
 十一体もの思念体を操作し、それらで完璧な連携を取るなど、もう人間業ではない。人の意識と意志でできる範疇を越えている。
 だから“自動モード”と判断した。
 何せ静は歌い、歌い出したその場から動かず、しかも目を開いてさえいない。そう、これだけの数を使いこなすのであれば、何かしらの条件をつけて本人の意思ではなく、自動的に動くものの方が効率的だ。これだけの数だと、手動で動かせば互いの動きが邪魔になる。とてもじゃないがパズルのピースがはまるような隙のない動きはできないだろう。
 そして、十一体もの操作を可能とする力量は、静にはない。

(あと時間制限付き)

 歌うことで、静の集中力が爆発的に高まり、通常ではありえないほど無駄のない力量効率化を可能としているのだろう。たとえるなら、いつもなら部分干渉に1秒掛かる操作をコンマ以下にまで下げるような。極限まで切り詰めた使用法だ。
 ただし、きっと歌が終わるまでしか使用できないという制限付きだ。だから「切り札」で、後がない時に後のことを考えず必死の状況でしか使えない。使わない。
 まじないや制限、条件付きで戦闘力や能力が増幅することはあるが、ここまで桁違いの増幅は始めて見た。しかしこれだけの増幅だ、使用後は意識があるかどうかさえ疑わしい。
 まさに「限界以上にふりしぼっている」という表現がしっくり来る現象だった。
 耐えれば勝ちだ。
 静を攻撃し倒すまでもなく、勝手に潰れる。
 ――と、いつもなら聖は迷わずその手段を取っただろう。自滅が見えるのならわざわざ手を下す必要なんてない。
 今の手負いの状態では、さすがに十一体もの思念体の攻撃をさばき切る自信がない。全快の状態でも難しい。
 秒針の歩みが遅い。苦しい時間はどうしてこうも長く感じるのか。

「いっ…!」

 しゃがんで回避するも、しかし立ち上がるのを脇腹の激痛が邪魔をした。
 一瞬の反応の遅れを十一人の“聖母”は許さない。
 視界に入るか否かという横手から来た拳を不自然な体勢でガードする。上半身が押され、足が付いてこない。まるでサンドイッチの要領で反対側から飛んでくる拳を、身を捻って避ける――「掠る」というより「削る」という表現が相応しい一撃をやりすごし、正面から仕掛けてきたボディへの一撃を膝を立てて足で受ける。
 しかし――

「うわちょっ、」

 更にその横から伸びてきた手が、これまでにない変則的な動きを見せた。
 今までは突き出すだけのストレートだったのに、その手はガードに上げた聖の右足を掴んだ。
 動けない。
 拘束されることを予期していたように、聖母達は聖の周囲を等間隔で囲む。

(まずい! 一斉攻撃が来る!)

 残しておきたい四肢を取捨選択した時、真っ先に落ちるのが左腕だ。聖が瞬時に出した防御法は「左腕を捨てること」で成り立つと判断した。
 右からの四本の拳は“シロイハコ”で防ぎ、背後から後頭部を狙った一本は首の動きで回避し、正面からの二本は右腕で受け、左からの三本は相当変な形で左腕で受け切る。だが左からの三本だけは、無傷でやり過ごせるとは思えなかった。
 ごり、と、左腕から変な音がした。そして痛みが駆ける。
 苦痛で歯を食いしばる聖など気にした様子もなく、拳が引く――二発目の準備だ。
 この間に聖は右手でスカートを引き裂くと、左足で思いっきり真上に飛んだ。ビリ、と、スカートを脱皮することで拘束から抜け出すことに成功した。
 しかしそれさえも読まれていたかのように、“聖母”達は跳躍する聖についてくる。関係ないと言わんばかりに垂直に移動し、聖を捕捉する。

(左腕……やっぱり潰れたか)

 変な捻り方をして受けたので、肩の関節が外れたのだ。骨折じゃなくて幸運だったとは思うが、この戦闘中は使えなくなった。
 静が歌い始めて、まだ1分も経っていない。
 それなのに左腕が使い物にならなくなった。
 このままでは間違いなく、静が歌い切る前に、聖は冥界へ引きずり込まれる。
 ――静を叩かねば、負ける。
 このしつこい“聖母”達を掻い潜って静に攻撃を加えるなんて、全精力を注いで回避し続けるより難しいだろうと判断したが、コンディション的にそれしか勝機はないようだ。
 十一本の拳が、断罪の剣のように迫る。
 聖は、避けなかった。
 ――背後に“シロイハコ”を呼び出し、“腕”を伸ばし、聖自身を“中”に引きずり込ませる。“棺”が閉まると同時に拳が直撃するが、“シロイハコ”はビクともしない。
 すぐさま解除し、真下に降りた聖は体勢を低くし走り出す。
 狙いは“聖母”達を呼び出した静だ。
 追撃が来る。
 左、右、正面から後ろから、上からも下からも。裏切り者を叩き伏せようとする神罰が下される。聖はそれらを捻り、飛び、回転し、立ち止まり、駆け出し、細かなフェイントを織り交ぜて掻い潜る。1センチの誤差もない絶妙なまでのボディコントロールが可能とする鮮やかな動きで静へと近付いていく。
 正面からの一撃を、膝を折って滑り込むようにやり過ごす、と同時に目の前に“シロイハコ”を呼び出す。

(充分射程内)

“棺”が開き、いつもの“自動処理”ではない聖の手動による“巨大な手”が拳を握って飛び出す。“聖母”達はそれさえ読んでいたのか、ほとんど反射的に六体が静の正面に移動した。無防備に立つ謳い手を防御するために。
 ――だが、狙いは静ではない。“彼女”らがそこをガードするなんて最初から予想している。
 “巨大な手”は前ではなく、上に伸びている。

 そして、落雷のような白き鉄槌は振り下ろされる――静の目の前の床目掛けて。

 重い一撃は床板を割り、難なく地面まで叩き、お聖堂を揺るがした。


“聖母”達が消える。
 静の集中力が乱れたからだ。
 壊れているのに無理して踏ん張っていた膝が、即席の地震のせいで、許容量を越えてしまったのだろう。
 不意の地の揺れによろめき、目を開いた静が見たものは――圧倒的な「白」一色。

“シロイハコ”から出た“二本目の手”が静を掴み、そのまま直進し、したたかに壁に叩き付けた。ベキベキと音がしたのは、壁に使用した木材が割れた音なのか、それとも静の全身の骨が折れた音なのか。

 静は、もう、動かなかった。



 
「――長かったわね」

 お聖堂から出た聖は、出入り口を封鎖する“九頭竜”に迎えられた。

「うん。だいぶ苦戦した」

 聖の言葉に嘘はない。
 骨力の高い聖が骨折までし、左腕は使えなくなり、掴まれて拘束された右足は強引に抜けたせいで少々ひねったらしく、今になって痛くなってきた。制服はボロボロで、両袖はなくなりスカートは破れ、無敗があたりまえの三薔薇に相応しくない格好となっている。
 おまけに顔に出来た腫れ上がる青痣だ。見た目だけなら敗北者である。

「“九”ちゃん、左肩入れて。外れたから」
「わかったわ」

“九頭竜”は、ぶらりと力なく垂れ下がる聖の左腕を取り、持ち上げ、自分の肩に乗せ固定した。

「1、2の3で入れるから。歯を食いしばってて」
「うん」
「1、2の」
「あ、待って待って。怖い」

 今でも痛いが、入れる時なんて比べ物にならないくらい痛いのだ。

「聖さん、白薔薇でしょ。どうせ入れなきゃいけないんだから我慢しなさいよ」
「だって痛いじゃない。すごく」
「外された自分が悪い。はいはい覚悟して」

 仕切りなおして、“九頭竜”は改めてカウントを取る。

「はい、行くわよ。1、」

  ゴキ

「いっだっ!? か、カウント飛んだっ! 何その騙し討ち!?」
「怪我はともかく、体力的には余裕ありそうね」

 聖の抗議をまるっきり無視する“九頭竜”。聖は文句が言い足りないものの、無駄だと悟ったのか「まあね」と入れたばかりの左肩を回す。

「“九”ちゃん、悪いけどさ」
「“冥界の歌姫”を保健室に連れて行ってほしい、でしょ?」
「お願い。最後の一撃、本気で入れちゃったから」
「白薔薇としては大人げないわね」
「手加減できる相手じゃなかったからね」

 青空の眩しさに目を細め、聖は大きく伸びをした。途端、忘れていた激痛が聖を襲う。

「あ、いたたた……」
「脇腹、どうしたの?」
「アバラ二本やった」
「本当に? ……相当強いわね、静さん」
「手加減できる相手じゃなかったって言ったでしょ? 冗談でもなんでもないわよ。あの子は本当に強い」

 そんな雑談をしていると、向こうから見覚えのある二人が歩いてくる。
 ――元白薔薇勢力戦闘部隊隊長“氷女”と、同じく元白薔薇勢力隠密部隊隊長“宵闇の雨(レイン)”。どちらも聖と“九頭竜”には見慣れた顔触れである。
 ただし、発せられるただならぬ雰囲気には覚えがなかった。

「――白薔薇」

 開口一番、“氷女”は衝撃の一言を聖に放った。

「今日はその首を貰いに来た」

 ピクリと反応したのは“九頭竜”だが、その言葉を向けられた聖は一瞬の動揺も見せず、うなずく。

「別にいいよ。今すぐやる?」

 どう見ても怪我をし、消耗しているのに、聖は今すぐでも構わないと答える。はったりなのかこの状態でも勝てると判断したのか、本心は誰も読みきれない。

「私達と一緒に来い。“九頭竜”は来るな」

 当然そう来るだろう、と思っていた“九頭竜”は、殺意を漏らし始める。

「嫌だ、と言ったら?」
「私達は白薔薇の蕾を確保している。来れば身の保証は――」

“氷女”の言葉は、そこで途切れた。

(速い)

 三人が同じことを思った。――聖が“氷女”の胸倉を掴んだからだ。“氷女”自身も不意打ちの警戒していたのに、それでもまったく反応ができなかった。

「志摩子に手を出したの?」

 感情が消えるどころか、虚無を覗かせる聖の瞳に寒気を憶えながらも、“氷女”は引くことなく答える。

「まだ何もしてないし、するつもりもない」
「――そう。ならいい」

“氷女”を開放する聖は、いつもの表情に戻った。穏やかでありながら、いつ何時でも襲いかかろうといういつもの表情に。

「どこにでも行くわ。志摩子に危害を加えないならね」
「聖さん」
「“九”ちゃんは静のことよろしく」
「わかってる。でもそうじゃなくて」
「何、私のこと心配なの? この私を誰だと思――」
「どうでもいいわよそんなこと」
「…………」
「それより、見張りの件は一つ貸しだから。忘れないでよ。その二人の前でちゃんと宣言して。聖さん都合の悪いことはすぐ忘れるから第三者がいる前で宣言して。ほら早く」
「……“九”ちゃんに一個貸しでーす」
「結構。ではごきげんよう」

“九頭竜”はさっさとお聖堂へ入り、敗者の回収へと消えていった。
 三人してその後姿を見送り、ここで初めて“宵闇の雨(レイン)”が口を開いた。

「白薔薇と“九頭竜”さんって友達じゃないの?」
「私はそう思ってたけど、向こうはそう思ってないかも」
「うわ……悲しい関係だ」
「“レイン”ちゃんが慰めてくれれば、悲しさよりも喜びの方が大きくなるんだけどね」
「白薔薇のことだから誰にだってそう言うんでしょ? まあ、こっちの用件が終わった後なら、考えてあげなくもないけど?」
「ほんと? そりゃ楽しみだ」




 半壊したお聖堂で、使い古した雑巾のようにボロボロになっている蟹名静を抱き上げ、“九頭竜”は呟いた。

「信じるしかないわね……」

 聖の心配はしていない。聖の強さはよく知っている。誰が相手でも負ける姿なんて想像できない。
 問題は、藤堂志摩子だ。
 志摩子の方は心配でたまらない。




 立ち上げたばかりの新生白薔薇勢力の精鋭達が、昨日から志摩子に張り付いているはずだ。
 今はあの護衛達を信じることしかできそうにない。

 祈りは、やめておく。
 神聖なる場所を壊してしまう罰当たりな子羊達の願いなど、主は聞き届けてくれないだろうから。
 














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