『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
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八月の登校日。
「乃梨子さん」
呼ばれて乃梨子が振り向くと、呼んだ瞳子は不快感を顕わにしていた。
「何度も呼んでるのに、無視して勝手にいっちゃうなんて」
「ごめん」
詫びて乃梨子は瞳子の元に駆け寄った。
夏休み前、補習の日に登校する生徒が多かったので日直の代わりの当番を決めた。
今日は乃梨子と瞳子の当番の日で、水泳の授業の準備のため用具倉庫に歩いている途中だったのだが、その用具倉庫を通りすぎてしまうとは。何のためにここにきたんだかと瞳子の顔に書いてある。
「何だかぼーっとして。今日は何かあるわけ?」
「ないよ、別に」
いや、本当はある。
まさか、瞳子にばれたんじゃなかろうか。
「ないならさっさと用事を済ませてしまいましょう」
瞳子と二人で中に入り、用具を取ってプールに向かう。
「あれ?」
「今度はどうしたのよ」
「……いや、ごめん」
「暑いからってボケすぎよ」
本当にその通りだ。
今、乃梨子が見たのは今日の当番を断った細川可南子その人だったのだ。
彼女がここにいるはずがない。乃梨子の頭の中は水泳の補習どころではなかったから、幻を見たのかもしれない。
発端は別荘地から帰ってまもなくのことだった。
静先輩に呼び出され(今度は本当に呼び出しだった)、喫茶店に紅薔薇さまを除く山百合会の面々で集まった。
「ズバリ、祥子さまは男嫌いなの」
紅薔薇さまこと小笠原祥子さまは去年、一昨年と花寺関係者が来る時は決まって逃げ回るほどだったらしい。
それなのに、男子校の花寺学院の生徒会と関わりがあるという祐巳さまの弟の祐麒さんから顔合わせができないかと非公式だが祐巳さま経由で打診されたという。
どうやって紅薔薇さまを顔合わせの場に出させるかが問題となり、ああでもない、こうでもないと話し合った結果。
「だまし討ち。偶然を装って、鉢合わせ。逃げられない状況を作る」
ということに決まった。
一時は瞳子の従兄の柏木さんまで引っ張り込もうとしたがこれは見送られ、祐麒さんとも話し合った結果、本日いよいよ決行となった。
こういった理由で、今日の乃梨子はリリアンに向かうバスに乗った辺りから気が気ではないのだ。
午前中に水泳の補習を終え、薔薇の館に着いて窓を開けて風を通してざっと掃除を終えたところへ図書館のお当番を終えた静先輩が現れた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して静先輩の分も出す。
「ありがとう」
乃梨子はお弁当を広げるが、静先輩はそのままだ。
「お弁当は食べないんですか」
「図書館で食べてきたから」
「あの場所、飲食禁止でしたよね?」
「閲覧室の中はね。カウンターの奥に準備室があって、そこは昼のお当番のときに図書委員がお弁当を食べてもいいことになっているの」
「えー」
空調が効いている場所でお弁当だなんてうらやましい、と暑苦しい空気の中でお弁当を食べる乃梨子は思わず声をあげていた。
「ズルイとでもいいたいの? のどは乾くし涼しいぐらいだし、何より急いで食べなくてはいけないから大変なのよ」
わざとらしく静先輩はため息をつく。
「大変だったら薔薇の館で食べましょうよ」
「まあ、一緒にランチを取りたかったのね。それは失礼したわ」
そういう意味じゃないし。図書館と薔薇の館とどっちがマシか比べて向こうを選んだに決まっている。
「まあ、その話はさておいて。図書館を出るときに紅薔薇さまが来てたから、ボロを出さないようにするのよ」
あれ、静先輩ってば乃梨子にわざわざそんな事を教えに来てくれたのだろうか。
悪戯好きだから、ちょっとしたドッキリイベントを楽しみにしているみたいで随分と機嫌がいい。
乃梨子がお弁当を食べ終わる頃には全員集合となり、一仕事終えた夕方にそれは決行されたのだったが……結論からいって、顔合わせは見送られた。
「紅薔薇さまが気づいてるって、わかっていたわ」
静先輩は先程のことに話題が及ぶとまずそう言った。
「どうしてですか?」
「祐巳ちゃんが今日はやけに落ち着いていたから」
「……ああ」
いわれてみれば、雄弁な表情の持ち主の祐巳さまが紅薔薇さま相手に謀をして平気なはずがないのに、妙に落ち着いていた。
「考えようによっては逆によかったんじゃないかしら。あの紅薔薇さまが花寺の生徒会の前で醜態をさらして黙っているはずがないもの」
だまし討ちまでは紅薔薇さまのペースだったのに、いざ花寺の生徒会とご対面したら紅薔薇さまは卒倒しかけて保健室送りの上、家からお迎えが来るという有様でそれどころではなくなってしまったのだ。
乃梨子たちはそのまま帰宅することになって、現在バスでM駅に向かっているところである。
「リベンジしようとして、空回ったりしませんか?」
「その時はみんなで何とかすればいいのよ」
貫録たっぷりに静先輩は笑った。
紅薔薇さまの体調が悪いといって花寺の生徒会の皆さんをうまく帰したのは静先輩だったから今回も何とかしちゃうのかもしれないけど、紅薔薇さまは本当に大丈夫なんだろうか。
乃梨子はちょっと不安になった。
九月に入り行事がびっしりの二学期が始まった。
一年生が参加するものだけでも体育祭に学園祭、山百合会ではそのほかに花寺への出張、二年生に至ってはイタリアへの修学旅行まである。
クラスとして動くのはまだまだ先だと思っていたのだが、勤勉なリリアンの校風もあってか、早々に体育祭で使う椿の造花を作ることになった。
体育祭は一年から三年の椿組が赤チームとして参加する。上の学年の分もということで一人三本のノルマが課せられ、放課後にクラス全員で作製すると決めたのまではよかったのだが足並みを乱す者がいた。
「なんですって!?」
クラス中に響き渡る声を出したのは演劇部で発声を鍛えている瞳子で、言われても涼しい顔をしているのは可南子さんだった。
「可南子さん、用があるならちゃんと事情を説明なさるべきよ。そうでないならクラスで決定する前に意見を述べていただかなくては困りますわ」
帰り支度を続ける可南子さんに瞳子はわざと怒りを抑えたような厳しい口調で責める。
「造花なら家で作るわ。私にだって都合があるんだから」
無視して可南子さんは立ち上がる。
「身勝手ね。子供の我儘と変わらないわよ」
半分は演技なのかもしれないが、瞳子の表情はかなり憎悪に満ちていて、抑制されたトーンがそれに迫力を増していた。
「クラスの皆さまだって部活や委員会に折り合いをつけて残っているのに、一人だけ事情を説明しないで帰るだなんて非常識だとは思いませんの?」
そこまで言われても可南子さんは無言で、教室の扉の方に向かって歩いていきピタリと扉の前で立ち止まって、くるりと振り向いて一言だけ答えた。
「あなたの髪型のほうが非常識じゃないの」
そのまま可南子さんは帰った。
残されたクラスメイトは唖然として扉の方を見つめていたが、ただ一人、瞳子だけは憤慨を顕わにしていた。
何人かが、乃梨子の顔を見て瞳子をフォローしてほしいとサインを送ってきたが、人間には限界がある。あれは、無理。
重苦しい空気の中で三本の造花を作ってから乃梨子は薔薇の館に向かった。
「ごきげんよう、遅くなりました」
遅くなると連絡はしていたのだが、予想以上だったのでそう挨拶に付け加えた。
「あれ、乃梨子ちゃんは今来たの?」
「はい。そうですが」
由乃さまは首をかしげる。
「じゃあ、乃梨子ちゃんじゃないんだ。私が来る前にここの掃除をしてくれた人がいるのよ。誰なのかしら?」
「瞳子ちゃんかな?」
祐巳さまが言う。
「いえ、瞳子は私と一緒にクラスで体育祭に使う造花を作っていましたが」
「え、そうなの?」
「まあ、別に掃除をしてくれただけで誰かが悪さをしたわけではないのだからいいじゃない。さあ、始めよう」
流れてしまった花寺との顔合わせ、体育祭実行委員会との連絡、学園祭の運営など仕事が増え、静先輩と黄薔薇さまは山百合会の活動に中心を移し、薔薇の館に六人でいることが多くなった。
この日は黄薔薇さまの号令で間近に迫った花寺との顔合わせのための最終打ち合わせが行われ、乃梨子は当日麦茶を水筒に用意して配る役目になった。
また、学園祭のパンフレットのデザイン案が検討されたり、由乃さまが体育祭実行委員会での決定事項を報告したりと仕事も増えて、帰りも遅くなったが梅雨時のような疲労感はなかった。
六人揃っているからか、単に乃梨子が仕事に慣れたのかはわからないが充実感があって、張り切って毎日掃除が終わるとすぐに薔薇の館に向かった。
「あれ?」
ある日、薔薇の館の玄関のところで思わぬ人に会った。
可南子さんだった。
「どうしたの?」
挨拶すらしないで可南子さんは立ち去った。
何なのだろう。
その時はたまたまかな、と思っていたのだが、それ以降も何度か可南子さんを薔薇の館の近くで見かけた。
それから数日後、二階の会議室の扉を開けると中に可南子さんと祐巳さまがいた。
「ごきげんよう」
挨拶しながら乃梨子は可南子さんに目がいく。
乃梨子のことを全く気にしていないように可南子さんは祐巳さまの前にお茶を置く。
「それでは、失礼いたします」
教室にいる時よりも柔らかい表情と口調で可南子さんは挨拶して立ち去った。
「今の……」
「うん、最近よく薔薇の館に来てくれて掃除をしてくれたりするんだよね」
そして、その日の作業中に可南子さんの話題になった。
他の皆さまの話を総合すると可南子さんは乃梨子が外の掃除などで遅れてくる日に頻繁に出没していたらしく、祐巳さまとは親しいようだが、他の皆さまは姿を見かけたくらいでほとんど口を聞いたことすらないらしい。
一年生ということで、当然乃梨子にも質問が及んだ。
「友達、っていうか。クラスメイトです」
「知っていること、教えて」
紅薔薇さまに問われ乃梨子は可南子さんについての情報を語った。
先程の薔薇の館でのソフトなイメージしか持っていなかった祐巳さまは驚いていた。
「で、どうなの。祐巳ちゃん。彼女、妹にする気あるの? ないの?」
「妹、ですか」
今度は別の驚きがあったようで、祐巳さまは戸惑っていた。
特定の上級生と特定の下級生が親しくしていたらそういう話の方向になると乃梨子でも理解しているのだが、祐巳さまは全くその辺に考えが及ばなかったらしい。
最後には図書館の本の返却日だったといって祐巳さまは作業を切りあげたのだった。
その日は薔薇さま方は居残りで、つぼみたちは早く帰されてしまい、乃梨子は一人でバス停のところに立っていた。
不意に背後から抱きつかれた。
「何をやってるんですか」
「つまんないなー、反応が悪いよ」
そういって離れたのは先代白薔薇さまの佐藤聖さまだった。
聖さまとは帰りのバスでたまに一緒になることがあったが、二人きりというのは初めてかもしれない。
「大学はまだ夏休みじゃないんですか?」
「大学生には集中講座とかゼミとかいろいろあるのよ」
バスに乗り込み、聖さまは隣の席に座ってくる。
「ときに」
「はい?」
「背が高くて髪が長い、たぶん一年生の生徒知らない?」
乃梨子には一人だけ心当たりがあった。
「……他に特徴はないんですか?」
「喋ったことはないからよくわからないけど、なんていうか、人を近寄らせないような独特の雰囲気のある子。知らなかったらいい」
「たぶん知ってます」
聖さまの聞きたい生徒と乃梨子の心当たりの生徒が一致しているかどうかわからないがそう答えた。
「友達?」
「クラスメイトです」
先程の薔薇の館でのやり取りを思い出し、続けて聞いた。
「彼女がなにか?」
「祐巳ちゃんの妹か何かなの?」
なぜ祐巳さまの妹と結び付けることができるのか。乃梨子の知らないところで可南子さんは祐巳さまと親密な関係なのだろうか。
「いいえ。でも、彼女がどうかしました?」
「いや、私の思い違いかもしれない。変なことを聞いたね。忘れていいよ」
「忘れられませんよ」
はいと返事をしてもよかったのだが、ここ数日の不審な動きと薔薇の館でのやり取りが気になったので乃梨子はわざとそう答えた。
「じゃあ、武嶋蔦子さんにそのクラスメイトのことを聞いてごらん。彼女なら気づいているかもしれない」
「蔦子さまが?」
それ以上のことは聖さまは何も言わなかった。
翌朝、銀杏並木でいつものように写真撮影に励んでいる蔦子さまを捕まえた。
「あら、朝から私に用だなんて珍しいこと」
この台詞までに五回シャッターを押されたが、今はその話題は置いておき、本題に入る。
「佐藤聖さまをご存知ですか」
「ええ」
「昨日、帰りのバスでご一緒する機会があったんですが、可南子さんのことを気にしているみたいでした。それで、理由を尋ねたら蔦子さまに聞けと」
「私に?」
ちょっと驚いたように蔦子さまは聞き返す。
「そういわれたのですが……」
だんだん自信がなくなって、トーンダウンする乃梨子とは対照的に蔦子さまは徐々に真剣な顔になっていく。
「蔦子さま」
「は? あ、ああ。ごめんなさい。私もまだよくわかってないかも」
わかっていない、というが知らないとか心当たりがないとかではないらしい。
「もし、山百合会の皆さまに伝えなくてはいけないときは祐巳さん本人か紅薔薇さま経由で連絡するから」
この人も祐巳さまと可南子さんが関係があると思っているみたいだ。
「いえ、それでしたら結構です。お呼び止めしてすみませんでした」
「それは気にしなくていいわよ。ちゃんと見返りはもらうから」
喋るより先にシャッター音をさせて蔦子さまは微笑んだ。こうなるととぼけているのだか、本当に知らないのかはわからない。四月のときだって、証拠写真を撮っておきながら何も知らないふりをして乃梨子に近づいてきたんだから。
でも、聖さまや蔦子さまのように何かに気づいている人がいるということは、乃梨子が見落としている、あるいは乃梨子から隠されているだけでヒントがあるのかもしれない。
乃梨子は可南子さんのことを注意して観察するようになったが、つきっきりというわけにはいかない。
午後、乃梨子が薔薇の館でお弁当を食べて教室に戻ってくると、クラスメイトに取り囲まれた。
「何?」
「可南子さんが祐巳さまと大喧嘩になったってご存知?」
なんか、前に瞳子で似たような噂があったような気がする。
「私はずっと薔薇の館にいたから、全然」
すると、お節介、というより語りたくて仕方がなかったクラスメイトたちは乃梨子にありったけの情報を洪水のように浴びせた。
予鈴が鳴りなんとか解放されたが、その日は薔薇の館に向かうまでずっとそのことについての意見や見解を求められた。
「そうか、そんなに大した事じゃなかったんだけどね」
薔薇の館で祐巳さまはちょっと申し訳なさそうに眉を下げた。
当事者のいう事にはパンを買ってきてもらって代金を受け取る、受け取らないでムキになって揉めてしまったらしく、それを収めたのが蔦子さまという事だった。
「クラスメイトは知りたがり屋さんが多くて」
「薔薇の館の住人ってだけで興味があるみたいだしね」
「いえ、祐巳さまは一年生の間では人気がありますから、皆いろいろと気にしているみたいです」
「いろいろ?」
祐巳さまは聞き返す。
「例えば……妹のこととかですが」
「妹ねえ。可南子ちゃんは妹になる気はないっていってたけど」
「えっ、可南子さんに申し込んだんですか?」
そんな展開があったのか、と乃梨子は慌てたがすぐに否定された。
「違う違う。人伝に聞いただけ。今日可南子ちゃんとのことがあって、誤解のないようにって釘をさしに新聞部にいったの。そこで新聞部の部員が取材して、仮に私に申し込まれてもお断りするって可南子ちゃんが言ってたって」
「断る……?」
じゃあ、なぜ可南子さんは聖さまや蔦子さまが気づくぐらい薔薇の館に出没しているのだろう。
「可南子ちゃんって一体何を考えているんだろうね。妹にするかどうかは置いておいて、可南子ちゃんのことちょっと知りたくなってきたんだ」
「え」
かつてここまで祐巳さまの興味を引いた下級生がいただろうか。
その相手があの可南子さんだなんて。
乃梨子はなんといっていいのかわからなかった。
可南子さんのことも気になるが、山百合会の方も忙しくなっていた。
先日行われた花寺との打ち合わせはハプニングもあったが無事に終わり、薔薇さま方は審査員とプレゼンターを依頼され、つぼみたちはその付き添いで同行することになった。
打ち合わせの席で仏像鑑賞が趣味であると言うと、行事の度に仏像が展示され手続きを踏めば外部の物でも拝観可能であると教えてもらった。
働きぶりがよかったらイベント終了後に展示に立ち寄ってもいいと静先輩のお言葉をもらい、乃梨子は勇んで花寺に向かった。
六人で校門の前に到着すると祐麒さん、アリス、高田さんがお迎えに来ていてガードされながら道を歩く。
おおっ、と言う雄叫びのような声が上がったり、拍手がわいたりして、薔薇さま方はリリアンだけではなく花寺でもアイドルのような存在なのだと実感する。
さて、その薔薇さま方だが。
静先輩と黄薔薇さまは山道を順調に登っているが、男嫌いの紅薔薇さまは校門をくぐった辺りからガチガチになっている。
今日のイベントでは薔薇さま方は高い櫓に上ることになっているのだが、紅薔薇さまは男性ばかりか高所もお嫌いで、表面上は頑張っているが親しいものが見れば相当緊張しているのがわかって周りが不安になってくる。
校舎の中にある生徒会室に案内された。
室内は乃梨子の通っていた中学校の生徒会室とそう変わらない広さだったが、ごちゃごちゃと変なものが積んであって、薔薇の館の一階の物置部屋の方がずっと整頓されている。
打ち合わせでも聞いていた内容の最終確認があり、つぼみたちは薔薇さま方と間違われないようにとの配慮から学生服に着替えるようにと指示され、男子が出ていくのを見届けてから着替える。
小林さんの制服を渡されたが裾が余る。由乃さまは安全ピンで留めていたが、ピンが足りないので乃梨子は裾をまくった。
祐巳さまはどこからか下駄を探しだしてきてそれを借り、目立たないようにとツインテールをほどいてタオルを被った。
男子が戻ってきて、開口一番にいう。
「およっ、祐巳ちゃん、ユキチそのものじゃん」
ユキチ、とは祐麒さんのニックネームらしい。
二人並ぶと本当にそっくりで自然と笑みがこぼれそうになる。
「じゃ、いきますか」
案内され、六人はグラウンドに向かった。紅、白、黄の二メートル以上はある櫓が三つ並んでいる。
それを取り囲むようにしているのはイベントの参加者たちで、薔薇さま方を見つけると道を開ける。
失礼があってはならないときつくお達しがあり、場合によっては花寺の生徒にとっては最大の刑罰である所属部の廃部もあるらしい。
「事前に聞いていなかったらびっくりしたでしょうね」
「ええ。オペラの舞台なんかではあれくらいのセットはあるけれど、ああやって地面から据え付けてあるところに登るとなると――」
静先輩はそこで口をつぐんだ。
グラウンドに来てから紅薔薇さまが一言も喋っていないのだ。
図書館で使われている移動式の階段が黄色の櫓に横付けされ、黄薔薇さまが向かう。
続いて白い櫓に階段が横付けされ、静先輩はゆっくりと櫓に登っていった。
薔薇さま方は90分間櫓に登りっぱなしになるので、何かあった時はつぼみが走り回ることになる。
「つぼみの方はこちらへ。何かあったらバケツでやり取りをしますので」
櫓には梯子がついていて、そこにロープでくくられたバケツが見えた。
その梯子をするするとガード兼アシスタントの高田さんが登っていく。
ちらりと紅の櫓を見ると紅薔薇さまの横に祐巳さまが控えているのが見えた。
「これより『花寺の合戦・セカンドステージ、リリアンの陣』を開戦する!」
祐麒さんの宣言とともに法螺貝の音が響き渡り、雄叫びをあげて参加者たちは櫓に突進してきた。
櫓には滑り台のような傾斜があり、その前に障害物があった。
「あっ」
白い櫓の障害物は粉だった。
櫓の前に粉が入っているトレーの中から飴を手を使わずに探すという古典的な障害物だけではなく、櫓にも粉がふってあり、あっという間に櫓の辺りが粉っぽくなってくる。
乃梨子のいるところでさえ粉っぽくなってきているのだから櫓の上の方はどうなっていることやら。これだけの粉の攻撃を受ければのどをやられるのは間違いない。
側にいたスタッフの腕章をつけた生徒を捕まえ、乃梨子は飲み物を買いに行くというメモをバケツで渡してもらって、とりあえずペットボトルのスポーツドリンクと水とお茶を一番近いところで買って戻り、バケツに入れて渡した。
折り返すように降りてきたバケツにはメモが入っている。
『カバンの中に入っているマスクをお願い』
乃梨子は生徒会室に走った。
中には留守番役のアリスがいる。
「あれ、乃梨子ちゃん。どうしたの?」
「マスクを取りに。お姉さまは声楽やっててのどがやられちゃうこと嫌うから」
静先輩のカバンを漁りながら乃梨子は答えた。
「ああ、そうだったの。ごめんなさい、それは配慮が足りなかったわ」
「こっちも事前に申し出てなかったことだし……あった」
ポケットにマスクを袋ごと入れて、じゃあね、と生徒会室を出た直後の事だった。
――ズボッ!
急に辺りが真っ暗になった。頭から紙袋を被せられたと知るのは後のこと。
あっという間に手足を縛られ、持ちあげられ、どさっと何かに押し込められた。
「え?」
不意のことにパニックになる。
何が起きた?
どうして?
なんで?
何をされてしまうのか。
恐怖心から頭が真っ白になっていて、身動き一つできなくなっていた。
◆◇◆
イベントが開始されしばらく経ち、撤退するかどうかを祐巳が考え始めた頃。
「祐巳ちゃん!」
よく通る声で名を呼ばれ、見ると隣の白い櫓から静さまが身を乗り出して叫んでいた。
「乃梨子が戻ってこないの! 二十分以上前に生徒会室に行ったきりで!」
「えっ!」
祐麒も驚いている。
「静さん、これ以上そっちに行くと落ちますって」
高田くんが静さまの腕をつかんでいるがかまわず静さまは叫ぶ。
「お願い! 乃梨子を探してきて!」
普段絶対に叫ばない静さまが絶叫する。
ただ事ではないと悟った祥子さまの判断は早かった。
「祐巳、ここは私がなんとかするわ。あなたは乃梨子ちゃんを探してらっしゃい!」
「はいっ!」
素早く下駄を脱ぎ、祐巳は梯子で地上に降りて再び下駄を履くと校舎に向かって急いだ。
昇降口にあたるところで来るときに祐巳にキャンディーを差し出したパンダの着ぐるみと出会った。
パンダはのんきにいい子いい子と頭を撫でてくる。
「あ」
祐巳の頭の回路がつながって、中の人に直接呼びかけた。
「柏木さん! 乃梨子ちゃん見なかった? 二十分以上前に生徒会室に行ったんだけど、迷子になったみたいで」
「なんだって!?」
頭を取り、柏木さんは側の生徒たちに呼び掛けた。
「白薔薇のつぼみ二条乃梨子さんを探している。一年生。背格好はこれくらいでこういう格好に長めのおかっぱ。見つけ次第グラウンドにお連れするんだ」
生徒たちはあっという間に走り出した。
これは大ごとになってしまったようだ。
「あ、あの。まだ生徒会室にいってないからそこにいるかもしれませんし、ひょっとしたら仏像に見とれているだけかもしれません」
「それはない」
柏木さんは祐巳の言葉を即否定した。
「乃梨子ちゃんは松平の叔父さまたちが瞳子のお目付け役に選んだほどの子だからね。そういう子が二十分も戻れないのは何かあったと考えるべきだよ」
着ぐるみ姿のまま柏木さんは歩きはじめ、祐巳はそれに続く。
着いた先は生徒会室で、中にいたアリスは事情を聞いて眉をひそめた。
「乃梨子ちゃんはここに一分もいませんでした。すぐに忘れ物を持って出ていったんですから」
それこそ二十分以上前の話だとアリスは言う。
「迷子になった、とか?」
「いや……待って」
アリスは少し考えてからこう告げた。
「乃梨子ちゃんが出ていって、何か騒がしい気配があって覗いてみたんです。そしたら、生徒会室の前に置いてあった箱を取りに来た人がいて――」
「箱?」
柏木さんが眉間にしわを寄せる。
「ここを出るときに部屋の前に段ボール箱が置いてあったんです。その時は気にも留めなかったけど、そういえば、人一人入りそうなくらいの大きさで――」
祐巳が説明するとはっとしたように柏木さんは走り出した。
「ま、待って!」
相手は着ぐるみを着ているというのに祐巳は追いつくまでに時間がかかった。
柏木さんは迷わずにある教室に飛び込んだ。
◆◇◆
箱が降ろされた。
手足を縛られていて身動きが取れない。
「おい、ぐったりしてるみたいだけど大丈夫か」
「息ができないみたいだぞ。ちょっとずらしてやれ」
頭からかぶせられていた袋を外された。
覗き込んでいるのは四人の花寺の生徒だった。
「アリス、じゃない……!?」
なんとかしなきゃ。
助けを呼ばないと。
「あ……あ……」
叫ぼうとしたが、恐怖で声が出ない。
「た――」
「ちょっ、ストップ!」
一人が手で乃梨子の口を塞いできた。
必死にその手にかみつく。
「いってえーっ!!」
乃梨子が叫ぶよりもはるかに大声が響き渡る。
「お、おい。頼むから静かにしてくれ」
「悪かった。今楽にするから」
近づいてきたところを思い切り蹴ってみた。
「ぎゃぅっ!!」
「うわっ、思ったより凶暴だっ!」
「こ、こいつ……」
這ってでも飛んででも脱出しなきゃと入口に向かうが、すぐに引っくり返るし、回り込まれる。
「あああああっ!」
言葉にできなくて、ただの大声になってしまったが、やっと声が出た。
「わーっ、静かにしてくれっ!」
また口を塞ぐように手がのびてきたので噛み付いてやる。
「ぎゃっ! だから痛いって!」
目茶苦茶に身体を動かして、どうにかならないかと必死に抵抗する。
「触るなっ! 変態っ!」
自分でも何がどうなっているのかよくわからないが、転がったり、身体を動かしたりして必死に抵抗し続けた。
――ガラッ!
激しく音を立てて扉が開き、何かが飛び込んできた。
「お前ら、何やってるんだっ!!」
次に聞こえてきたのは乱闘のような音だが、乃梨子は無視して必死に出口に向かって進む。
「うわっ、乃梨子ちゃん!?」
叫び声とともに現れたのは祐巳さまで、カッターで手足のロープを切ってくれた。
「立てる? 静さまが待ってるよ」
「お姉さまが」
とにかく行かないと、よろよろと乃梨子は立ち上がった。
「柏木さん! そういうの後にしてっ! 乃梨子ちゃんをお願いっ!」
背後で祐巳さまの声がした。
次の瞬間、膝の後ろと背中の方に感覚があって、身体が持ち上がった。
「え」
柏木さんに俗にいうお姫様だっこされていると気がついたときには乃梨子はかなり運ばれていた。
「じ、自分で歩けます」
しかし、柏木さんは無視して猛スピードで走っていた。
後で聞いた話だが、着ぐるみを脱いだせいで柏木さんは短パンにTシャツという軽装で靴は後輩の物を借りたというかなり情けない格好だったらしい。
外に出ると陽が眩しい。
グラウンドが見えてきて、白い櫓が目に入った。
その上に静先輩が見えた。
いかなきゃ。
どうやったのかは覚えてないが、乃梨子は柏木さんの腕から脱出すると白い櫓に向かって走り出した。
イベントに参加していた生徒たちをかきわけるようにして進み、真っすぐ白い櫓の下に辿り着くと、静先輩が梯子を降りてきたところだった。
「お姉さまっ」
抱きつくように乃梨子は静先輩の胸に飛び込んだ。
「これを」
ポケットからマスクを出して、差し出した。
「たしかに受け取ったわ、乃梨子」
その言葉を聞いた瞬間、目から涙があふれ出てきた。
自分でも信じられないくらいの号泣で、それを静先輩は黙って受け止めてくれていた。
「まず、着替えたいから一度出ていってくださるかしら?」
イベントが終わり、生徒会室に戻るなり由乃さまがそういって男子を閉めだした。
着替えると祐巳さまが冷蔵庫からお茶を出して渡してくれた。
「……お騒がせして、申し訳ありません」
自分でも泣き声みたいだとわかるような声で乃梨子はそう絞り出した。
「ここに来て、出るときに、袋かぶせられて、縛られて、箱に入れられて、連れてかれて――」
必死に説明するがまた涙が出てきて要領を得ないまま中断、祐巳さまからタオルを借りる羽目になった。
「犯人は推理研究同好会で、花寺の生徒会にドッキリをしかけようとして、アリスと乃梨子ちゃんを間違えたと言っていました」
「全然違うじゃないのよっ」
祐巳さまの説明に由乃さまが突っ込みを入れる。
「乃梨子ちゃんは悪くないわ」
紅薔薇さまがきっぱりという。
「で、これからのことだけど、どうする?」
薔薇さま方は三人で固まって話し合う。
「じゃあ、白薔薇さまにお任せするよ。いい?」
黄薔薇さまの確認の声の後、由乃さまが扉を開けて外で待っていた男子を入れた。
生徒会メンバーの他、柏木さん、犯人の四人組の姿もあった。
「この度は本当に申し訳ありませんでした!」
扉が閉められるなり入ってきた彼らは一斉に土下座した。
それを見て祐巳さまはオロオロするし、他の皆さまも戸惑っている。
「それでは話し合いなんかできないでしょう。やめてくださる?」
静先輩が全員を立たせた。
「こちらとしては三つほど条件を飲んで頂ければ花寺の中の事には干渉する気はありません」
今回の事はあくまでも花寺学院の中の問題で、リリアン女学園を狙ってどうこうというものではなく巻き込まれたという立場を取ることになった。
「条件とは?」
代表して祐麒さんが尋ねる。
「一つ目はリリアンの学園祭の件。花寺の皆さんには黙ってこちらの要求を受け入れて協力していただきます」
「それはもちろん協力します」
「二つ目は乃梨子の件。妙な噂が流れて乃梨子を更に傷つけるようなことがあれば容赦しません」
「約束します。絶対にそんなことはさせません」
「三つ目はこれから起こることは見なかったことに」
「一体、何を?」
祐麒さんが聞くが、静先輩は答えずに犯人の四人組の前に立った。
――バシーン!
――バシーン!
――バシーン!
――バシーン!
無言で静先輩は犯人の四人を次々と平手打ちしていった。
体育会系じゃないとはいえ、よろめく者さえいる。
突然のことに祐麒さんたちも柏木さんも茫然として見ているしかなかった。
仏像見物なんて余裕はなくなり、全員でそのまま帰路に着いた。
さすがに涙は出なくなっていたが精神的に受けたショックは大きい。
近くの停留所からバスに乗って帰ることもできたが、静先輩がこう言った。
「二人にしてくれる?」
静先輩に手を引かれて乃梨子が連れてこられたのはリリアン女学園だった。
守衛さんに二、三話しかけて中に入るとなんだか少しほっとしてきた。
マリア像の前にきたとき、それまで黙っていた静先輩が静かに語りかけてきた。
「こういう時にお姉さまとしていろいろとしてあげるべきなんでしょうけど、私はね、今まで歌うことしかしてこなかったし、歌うことしか知らないの。だから、こんな時でもあなたになんて言っていいのかわからない」
「……」
「だから、歌うわ」
そういって、静先輩は乃梨子の手を取ったまま軽く発声練習をして歌い始めた。
「Amazing grace……」
たしか、『アメイジング・グレイス』といったっけ。
前に舞台で歌っていたように力強く歌い上げるような曲ではなく、子守唄や賛美歌のような優しいメロディの曲を選んで歌ってくれた。
始めは涙があふれて仕方がなかったが、そのうちに心が落ち着いてくるのがわかる。
あんなに粉まみれになってのどには悪いはずなのに何曲も乃梨子のために歌ってくれている。
母親の胸に抱かれて安心している子供のように乃梨子の心は満たされてきた。
「ありがとうございます。お姉さま」
もっと聞いていたいけど、これ以上はのどを痛めてしまうかもしれない。
お礼を言って乃梨子は静先輩の歌を止めた。
「もういいの?」
「はい。おかげで落ち着きました」
「そう」
二人でマリア像にお祈りして、いつものバスに乗る。
普段は駅で別れるが、静先輩は菫子さんのマンションの前まで送ってくれた。
ごきげんよう、と別れる頃には明日は元気よく登校して皆さまに心配かけないようにと思えるくらいに回復していた。
【No:3458】へ続く